静岡県西部、いわゆる遠江(とおとうみ)の国の山々である。したがって、遠州山地と呼ぶ人もいる。この南アルプス深南部の概念をまとめるにあたって、浜松・天竜・島田の図書館で文献を探したが、少ないのに閉口した。

     余多ある旅行観光紀行で、遠州を紹介したガイドは甚だ少ない。ましてや深南部の山々を紹介した文献は皆無に等しい。これは深南部が、いまだ観光産業による汚染を受けない処女地であることを示しているのかもしれない。

     実際、現地を訪れてみると、全国のどこよりも心の平安を掻き乱すケバケバしい宣伝と無縁で、深い山と谷に包まれた、静かで素朴な、心暖まる土地であることを知ることができる。「知られていない」ということは、実にすばらしいことでもあるのだ。

     しかし、ここには大和地方ほどではないにせよ、古くからの人間生活にまつわる歴史(必ずしも権力史ばかりでない)の強い馨りが漂っている。だから、民俗学的資料は少なくなく、興味深い文献にもであうことができた。

     「深南部」という山岳範囲は便宜的な名称であるから、確定的な境界が存在しないのは奥美濃などと同じである。一般的な通念では、西を国道152号線と天竜川、東南を国道362号線と大井川、北を南アルプス主稜最南端の、光岳から青崩峠までの稜線で囲む山々というところであろう。

     そして、これらのすべてが北の光岳 (三隅岳)に向かって収斂してゆく。それゆえに、深南部の盟主は疑いもなく光岳であって、むしろ「テカリ山地」と考えた方がよいかもしれない。

     このなかの主要な山は、光岳の南尾根には、池口岳、中ノ尾根山、不動岳、丸盆岳、黒法師岳など、南東尾根には、信濃俣、大無間山と、胸のときめく超2000m級のクセモノが揃っていて、山狂いを魅了してやまないが、どれも一般的観光登山とは無縁で、一筋縄ではいかない。それでも、整備された登山道ではないにせよ、狩猟や林業用の踏跡がそこかしこにあるので、比較的登りやすいともいえる。

     しかし、深南部主稜の山々には、南アルプス本峰を凌駕するほどの豊富な原生の自然が遺されていて、日本中見渡しても、これらの山のように熊やシカの跳梁する深山はザラにあるものではない。もっともこの場合、「知られない」という要素が逆に、膨大な赤字決済を迫られる林野庁につけ入られることになり、官僚機構による、すさまじい自然収奪の暴威に曝されていることを強く喚起しておきたい。

     黒法師岳は、西に向かって、麻布山、定光寺山を起こす山稜と、南に向かって蕎麦粒山を起こし、板取山、大札山、岩岳山、京丸山を持ち上げて春野町に降りる山稜を有するが、これらの山々は居住者が多いので、山道の整備は比較的ゆき届いている。そして、それゆえに、これらの山々には深い歴史のヒダが刻まれているのである。

     大井川鉄道の井川・千頭間や、黒法師岳より南の、水窪町、春野町、川根町に下る山稜には、都会人の常識では考えられないような深山の超僻地に、多くの部落が存在している。

     例えば、水窪町には門桁があり、春野町には京丸があり、中川根町には尾呂久保がある。これは、はじめて知る者に、一種異様な感銘を与えるほどの僻村である。なぜ、これほどの僻地に部落が存在するのか、民俗学上の大きな謎を秘めているといえる。

    秋葉信仰

    かつて今日ほど観光旅行の習慣がなかった頃、それは決して大昔のことではなく、まだ数十年ほど前のことなのだが、人々は気分転換のレジャーをハイキングも兼ねた神仏詣に求めるのが普通だった。

     それも、できることなら山岳の清浄な空気に親しみ、古刹の霊気に刺激を求めて、富士・御岳・白山・出羽三山・大峰山などには人気が集中し、講中を組織して登り、大気分転換を愉しんで帰るのが習わしだった。

     それほどの大登山をなしとげる余裕のない人たちは、地域に必ず存在した標高1000m以下の手軽に登れる山の名刹を訪ねたもので、遠州地方では、春埜山大光寺、法多山尊永寺、それに秋葉山大権現秋葉寺と秋葉神社などが大きな人気を集めた。秋葉山には、富士や御岳と似た秋葉講まで組織され、往事は栄華を極めたようだ。

     とりわけ秋葉山が名声を集めたのは、この神社に伝わる火防信仰が、当時深刻だった火災からの救済を求める人々の心情にマッチしたからであろう。

     秋葉山に参詣する道筋は、いつしか秋葉街道と呼ばれるようになり、信州方面からは、高遠から青崩峠を越えて水窪に抜ける街道がそう呼ばれ、駿河方面からは、掛川市大池から犬居に至る街道がそう呼ばれた。

     もっともよく歩かれたのは、浜松から光明山を経て登る道で、三河方面からの姫街道と併せて関西方面からの講中で賑わったという。

     江戸期の地誌である「遠江古跡図絵」に、行基の開山した山のうち、春に開いた山を春野山とし、秋に開いた山を秋葉山としたと記されている。そこで秋葉寺は、春野町をはさんで春埜山大光寺と兄弟関係にあることがわかる。

     開山は奈良時代の養老2年(718年)で、行基が大登山霊雲院を開創したときに始まると記される。それから1世紀後の大同4年(809年)に、越後国蔵王堂から修験者三尺坊が飛来してきて、この山の守護神となり、寺号が秋葉寺と改められたとも言われる。

     もっとも、役の行者や空海と同様に、行基の開山と伝えられる古刹などいくらでもあって、今日なおそうであるように、「有名人の名前を出せば、人々がありがたがって経営が楽になる」という、単純な原理による虚名であることはまちがいなかろう。
     実際には、仏法による衆生済度を決意した無名の民衆の使命感によって、このような寺院が拓かれていったのである。

     ところで、三尺坊は無名でありながら、今日秋葉山を世間に知らしめた本尊なのである。三尺坊は実在の人物で、信州木島平(野沢温泉村)の出身で、幼い頃から出家し、やがて阿闍梨となった。そして、越後蔵王堂一二坊のうちの三尺坊の主となり、火難救済を成就すべく誓願をたてて修行し、修験者としての名声を築いた。

     どういうわけか9世紀はじめに秋葉山に飛来し、その主になったと記される。超能力者であった三尺坊は、役の行者と同様、白狐に乗って空を飛んでしまうのである。(この当時の修験道は、超能力を磨くものであったらしい。
     現代からみれば空想的な虚構であっても、必ずしもそうとばかり決めつけられない事実もあった。あまり、頭ごなしにインチキと決めつけないほうが良さそうだ)

     秋葉山に三尺坊が登場すると、たちまち火防の山としての霊験が世に知れ渡るようになり、朝廷からも庇護を受け、1711年には正一位の神階を受け、1725年には勅願所に指定されるまでになった。これはひとえに、修験道の三尺坊の霊威によるものであり、秋葉寺の信仰に基づくものであった。

     しかしこの間に、秋葉山中でいかなる故か法力およばず、武田信玄による放火も含めて数回の大火が起こっている事情は他の山と全然変わることがないのだが、それを書くのは谷保天神というものだろう。

     90年に秋葉山頂社が再建されるまで、十数年の間、山頂社は火災のため存在していなかった。これほど当てにならない火防の神があったものではないが、神社側に言わせると、焼失した社は世界の大火災の身代わりになっておられるのだそうだ。モノもいいようである。

     秋葉神社の由緒には、開殿が和銅2年(709年)と、寺よりも古いことを言っていて、元明天皇の歌に、「あなたふと 秋葉の山にまし座せる この日の本の火防ぎの神」というのが紹介されている。神体は火之迦具土大神といい、イザナギ・イザナミの子で、火を統べる神である。

     中世、両部神道(神は仏の仮の姿、つまり権現と考える思想。本地垂迹説という)の影響を受けて、「秋葉大権現」と称するようになった。永い繁栄が秋葉権現を名刹として磨きあげ、勝軍地蔵のまつられた権現には、戦勝を祈念する足利尊氏や秀吉、信玄らが競って刀剣を奉納している。

     ところが明治維新に、神道天皇制を主張する本居・平田国学の影響を受けた神道至上主義者によって廃仏棄釈・神仏分離の嵐が吹き荒れ、両部神道を代表する秋葉権現は攻撃の矢面にたたされたのである。

     秋葉権現は、太政官布告によって強制的に神社と寺に分離され、このときから神社が山頂に残って静岡県社の指定を受け秋葉神社と称するようになり、秋葉寺は尾根下杉平の三尺坊に追いやられた。

     さらに明治6年、住職の死とともに廃寺にされ、仁王像や教典類は焼却され、仏像仏具は本山である万松山下睡斉(袋井市・曹洞宗)に移管された。しかし、信徒の執拗な再建運動が実り、明治13年、再び秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)が再建されることになった。以来、秋葉山には統一された権現はなくなってしまったのである。

    それでも、今日なお秋葉信仰は根強く残り、12月16日の火祭には全国の消防団が参詣におしかけ、大きな賑わいを見せるという。

     しかし、今では秋葉山から黒法師岳に至る長大な尾根にスーパー林道が敷設され、人々は汗を流して山を歩くことによってしか得られぬ感動を失い、本殿さえも、今年からみせかけばかりの味気のないコンクリート製に代わり、しらけた風が秋葉山の将来を暗示しているようにも思える。

     秋葉寺や三尺坊の宿泊所もヒト気はなく、私の目には山頂に残る巨杉も、なぜか寂しげに見えた。


     常光寺山  1439m
    (磐田郡水窪町山住臼ヶ森より 89年2月17日)

     京丸山から北を見ると、樹林の合間に同じくらいの高さの山々が延々と連なっている。そのなかの、一番近い立派なピークが常光寺山である。

     池口岳、不動岳、丸盆岳、黒法師岳などの超2000m級の秘峰を起こして遠州平野に消えゆく光岳南山稜は、いまだ世に知られぬ名山をあまた隠し持っている。
     沢口山、板取山、蕎麦粒山、高塚山、竜馬ヶ岳、岩岳山、京丸山、白倉山、奈良代山、それに黒法師西稜から始まって、麻布山、竜頭山、秋葉山に至る長大な稜線上にあるこの常光寺山など、まったく数えきれないほどの高い峰と深い渓谷の立派な山々が連なっていて、しかもこれらの山々に分け入る登山者は本当に僅かで、観光臭を嫌う真の山好きにとって、実にこたえられない魅力的な山域なのである。

     しかし、これらの山々の信じられぬほどの奥地にまで、古くから人間の生活が息づいているのを知る人は少ない。
     遠州は日本でも最も温順な気候の地である。有数の険しい山岳地帯を抱えながら、これらの山々に冬の季節風も降雪も極めて少なく、それが、この山岳の奥地にまで人間を抱擁してきた理由であった。

     常光寺山のある遠州最奥の町、水窪町は、そんな都会の常識を外れた僻遠の山里ばかりから成りたっている。
     なにしろ、町の中心街に行くにすら、大型観光バスが余裕を持って通行できる道路がひとつもない。いちばん良い道路は、浜松市から天竜市を経由する国道152号線だが、これも龍山村あたりから1車線になってしまう。

     おまけに、水窪町から北は、旧秋葉街道に沿って高遠方面に抜ける国道が何十年も前から計画されているのだが、途中に青崩峠という、南アルプス特有のもろい地質帯があって、絶えまなき崩壊のために、道路接続計画はほぼ絶望的に中止されたままになっている。

     狭い林道の兵越峠が間道として利用できるが、大型車は通過不能である。つまり、水窪町は袋道のどん詰まりの町で、国道152号は、この時代にあってすら幻の分断道路のままなのである。ただ、旧国鉄飯田線が町を貫通しているので、これだけでも他の山村よりよほどマシだと地元の人達は思っている。

     ところが、この水窪町は、かつて天竜林業が盛んだった頃は、非常に大きなにぎわいを見せていた。現在の数倍の人口が、この天竜川界隈を活気づかせていたのである。

     かつて、日本の大河川の多くが重要な交通手段に利用されていた。河川水運である。今、ダムに侵食された天竜川から往時をうかがうすべもないが、明治、大正あたりまでは、天竜川には数百の運搬船が行き交い、伊奈谷と河口を結んで、流通経済の動脈となっていたという。

     小島鳥水の作品に、「天竜川」という紀行文がある。鳥水は、「日本山嶽誌」の著者、高頭式らと、南アルプスを飯田に下山して、当時、すでに衰退しつつあった天竜下りを体験した。

     やや装飾過多ではあるが、なかなか情緒にあふれた名作で、当時の河川水運の光景をまざまざと見せてくれる。一部を抜き書きしてみよう。

     「けれども、山の町から一直線に、はた目もふらず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄が丈高く生えている海岸まで、突き抜ける天竜川という道路があることを私は知っている。しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知っている。」

     「薄っぺらの船板は、へなへなにしなって、コルクみたいに柔らかく水をいなすから、板といっても帆布製の船で、漂流するような気もされる。」

     鳥水は、変化に富んだ流れに使用される船の特性も書き残してくれている。文中にも指摘されているが、天竜川水運業を衰退させたのは、木曾谷の中央線鉄道の開業であった。

     天竜林業の隆勢は、天竜川あってのものであった。トラックのない当時は、川だけが材木の運搬手段だったのである。この点、木曽川とならんで有数の水量を誇る天竜川は、林業にとってかけがえのない味方であった。

     だが、道路と鉄道開発に伴って水運業は廃れ、都市工業の発展のために犠牲にされた形で林業や育蚕も衰退し、若者はテレビや雑誌に登場する生活様式に憧れて、次々に大都市に流出していった。

     水窪町は、20年ほど前から深刻な過疎に脅かされるようになった。住民の平均年齢は高齢化の一途をたどっている。

     「このままでゆけば、町は消滅する」
     住民の誰もが、口には出さないまでも、そんな危機感をもっているのではないか。それらの焦燥のうえに、この山域に無謀なスーパー林道が続々と建設され、太古から人間生活を支えてきてくれた原始の自然が次々に破壊されている。

     誰もが、「こんなバカなことをしなくとも」と思っていても、誰も口に出さない。「過疎救済」の大義の前に、自然保護は説得力をもちえないのである。



     2月16日の夕方、春野町気田から気田川沿いに狭い林道(県道)を門桁に向かった。途中、森山や勝坂といった辺境の部落を通る。

     石切もそうだが、どうして食っているのか不思議なほどの寂遠の山里ばかりである。
     このあたりの猿、鹿、猪の棲息密度は、確実に人間のそれを上回っているであろう。石垣の上の小さな平屋、猫額ほどの畑と急斜面の茶畑、こんな僻地でしたたかに生き抜いている人々の姿は、一種の感動をあたえずにはおかない。

     勝坂の部落には、竜頭山登山道の標識があった。だが、このコースを登ると頂上直下に秋葉スーパー林道があって、気分の良いものでないので、もはや登る人は少なかろう。
     その先に、夜間通行禁止の標識があった。落石の危険のためだと書いてある。だが、柵が設けられているわけでないので走ることにした。なるべくなら、その日のうちに門桁までたどり着きたかった。

     最初は甘く考えていたが、そのうち通行禁止の標識がダテでないのが分かってきた。狭い林道のいたるところに、人間の頭大の落石が大量に転げでていた。こうなると、落石にタイミングが合わないよう祈って突っ走るしかない。

     これは、おそらく南アルプス特有の破砕帯の露頭が出ているのであろう。南アルプスは、このような地質をもたらす天竜川〜糸魚川大地溝帯のために、本来、林道建設に向かないのである。造っても、崩落破壊される率が極めて高い。にもかかわらず、自然破壊が楽しくてしかたないように、無謀な林道建設が他地域の数倍のペースで強行され続けている。歯止めがないのである。

     門桁の部落に着いたのは、午後8時半頃だった。戸数は多かったが、明かりの点る家が少ないのは、このような山里の常である。

     部落のはずれのダムの上で車泊した。
     翌朝見た部落には、一軒の精密機械工場があった。このような流通僻地で採算を求めるのは難しい。ここは、安い労働力を求めてと考えるよりも、僻村の活性化(いやな言葉だが)のために一肌脱いだ工場と、好意的に考えるべきだろう。

     チロリン村と書かれた看板もあった。最近、このような僻村に、好んで住みつく若者が少なくないとも聞く。(もっともチロリン村では、もはや若くはあるまいが)私も、縁さえあればそうしたいと考えているが、なぜか無縁なのだ。

     門桁に自動車道路ができたのは、1959年のことであった。それは、私の通った気田川沿いの恐ろしい道で、最初の頃は、運がよければ通行できる、といった程度のものだったらしい。それまでは、営林署の森林軌道しかなかった。行政区域である水窪町への、山住峠越えの道路ができたのは、やっと1970年頃であった。

     道路のできるまで、門桁への生活物資は、一本の索道によって山住峠を越えて搬入された。土地の人達は、それを空輸作戦と呼んだという。一番近い公共交通の飯田線向市場駅に出るためには、およそ6時間も歩かねばならなかった。
     この部落の起源も、おそらく木地師の定着村であろう。水窪町の山あいの部落の大部分が、木地師の末裔といっていい。
     現在、44戸およそ100名が居住するという。だが、人口統計グラフは、確実な速度で、この部落が消滅に向かっていることを教えてくれる。もっとも、この傾向は天竜川流域の集落の全部に共通しているが。

     山住峠は標高1107mで、山住山と呼ばれ、樹齢千数百年の巨杉を境内に吃立させた立派な神社がある。山住神社という。

     この神社には、山姥の伝承がある。これは柳田国男も取り上げているので抜粋しよう。
      遠州奥山郷の久良幾山には、子生タワと名づくる岩石の地が明光寺の後ろの峰にあって、天徳年間に山姥ここに住し、三児を長養したと伝説せられる。

     竜頭峰の山の主竜築房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祭られるのみか、しばしば深山の雪の上に足跡を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。

     「遠江国風土記伝」には、平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐に来たと記してはあるが、後に和談成って彼らの末裔もまた同じ神に仕えたことは、秋葉・山住の近世の歴史から、これを窺うことができるのである。

     山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつの頃よりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。
     街道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、何と本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎えて来て、魔障盗賊を退ける目的のほかに出なかった。(山の人生より)

     常光寺山の山頂には、山住神社の奥社が設けられている。奥の院の常光房は、常光寺山の主である。山姥の三男だというが、その正体について、柳田は狼とのかかわりをほのめかしている。山住神社は、春埜山大光寺とともに狼を御神体として祀っていて、神職の山住家には山犬絵図が伝わっている。

     山住神社のいわれは、和銅2年(709)に愛媛県越智郡大三島町の大山祇(おおやまずみ)神社から移し祭ったとされる。元は、門桁の部落に置かれていた。

     オオヤマズミノ神は山々を管理する国津神とされる。その娘がコノハナサクヤ姫で、高天原から日向に降臨した初めての神であるニニギノミコトとまぐあって海彦と山彦を産み、さらに、その孫が神武天皇ということまで知っている人は、古事記あるいは古代空想史のマニアであろう。
     家康が三方ヶ原の戦いの際、山住神社に武運長久を祈願し、信玄に敗れはしたものの一命難を逃れたのは、この社の神力のおかげなりとし、江戸時代には徳川家の手厚い庇護があった。



     門桁から狭い県道を登り詰めると、そこが山住神社で、境内の二本の巨大な杉が見事である。峠の上には茶店もあったが、この日は日曜でも閉ざされていた。

     登山道について何も知らなかったので、2・5万図の山住からの破線路を辿ることにした。

     峠の危うい急坂を降りきった部落が山住家のある河内浦(こうちうれ)で、8戸、30人余りが居住しているというが、洗濯もののかかった人間臭のある家は3軒だけだった。河内という地名は畿内で多く使われ、川中の小平地を意味し、浦は船着の入り江を意味するとされるから、この地名は、かつて上方の人間によって名付けられ、そして水運に関係していた場所であったのだろう。

     山住家当主、紀氏の家は、常光寺山山麓の小平地に築かれた、天竜界隈きっての見事な石垣の上にある。ここは代々、山住神社の神事を司ってきた旧家である。

     山住家の歴史は、守屋兵部大輔を祖とし、12世紀保元年間にまで遡ることができるという。おそらく、上方の人間であっただろう。江戸時代初期、この地方の代官であった山住大膳亮茂辰は、この山域に広大な植林を行なったことで知られる。それは、大膳が、吉野地方に旅したとき、杉の美林に感動したからだと伝えられる。

     登山口は、そこから300mほど下った右手の林道を、さらに500mほど登った臼ヶ森の部落にあるはずだった。
     未舗装の林道のどん詰まりに小さな空き地があって、右手に10戸ほどの部落があった。車は全く駐車してなく、静まりかえっている。

     朝7時頃で、エンジンの音に驚いたのか、一番下の家からおばあさんが顔を出した。おばあさんに「駐車していいですか」と尋ねると、「いいよ」とのことだった。登山道は部落のなかの道を上がればよいと教えてくれた。おばあさんは、私の姿が見えなくなるまで表に出て私を見ていた。

     部落に、生活の気配はなかった。山道も荒廃している。だが、かつて木馬道だったのだろう、緩くて幅の広い、歩きやすい道である。

     きびしい寒さのなかを登り詰めると、やがて急な尾根に出て踏跡程度になった。薮がうるさい。下から1時間半ほどで、突然、向市場駅上村部落方面からの立派な登山道に飛び出した。最新の2・5万図にも記されていない。最近、地理院の地図は、歩道についての記述が実にいいかげんになった。

     快適な道を右手にとって歩くと、雪道になり、しばらくで鳥居をくぐり、祠や立派な社もあった。常光寺奥の院である。

     この付近は、ちょっとした部落でも造れそうな、二重山稜の平原地形であった。この地域は、山稜にこうした舟窪平原地形が多いと思える。
     山頂には、カリカリのアイスバーンを踏んで、痩せた尾根をひと登りして達した。臼ヶ森から2時間半程度である。わりあい良い山頂といえる。しかし、黒法師岳に至るこの山稜の彼方は、舞い降りる雪のために霞んでいた。殖生に見るべきものはない。ヤシオとシャクナゲが目に着いた程度である。

     帰路は、山住峠方面にとった。小雪のちらつくアイスバーンの尾根を、簡易アイゼンを装着して降りていった。途中、最近では珍しく5人の中年男性登山者にであった。こんな日に登るモノズキがいるんだと、笑ってしまった。

     しばらくで山住峠からの林道に降りた。そこからテクテクと歩くと、奥三河国定公園整備地域という標識の付近に、広い遊園地が造られていた。だが、ゲートは封鎖されていた。

     山住神社には、あっけなく着いた。日曜というのに人気はない。旧歩道は、秋葉スーパー林道方面に、ツルツル滑る凍りついた道を20mほど歩いた右下にあった。

     滑落を心配したが取り越し苦労で、雪はあったが実に良く手入れされた立派な歩道だった。ほとんど駆け降りることさえでき、40分ほどで、見事な石垣の山住河内浦に降りたった。
     昼前に臼ヶ森に戻ると、私の車の先に1台の軽自動車が停まっていた。朝のおばあさんの家に人影があって、あいさつにゆくと、中年男性が出てきて、その人と1時間以上も話しこんでしまった。

     その人は、おばあさんの娘婿で、浜岡町に在住とのことだった。生まれ育ったこの部落を離れたがらないおばあさんのために、週に1度ずつ食料や日用品を届けにきていると話された。

     驚いたのは、この部落に住んでいるのは、そのおばあさんを含めて、80才を越した老婆が二人だけだという。この部落には、終末の日が忍び寄っていたのである。


     竜頭山  1352m
    (磐田郡佐久間町大井字大輪より 90年3月10日)

     竜頭山には山姥の伝説があって、明光寺の裏のクラキ山(佐久間駅東の愛宕山)で、山姥が3人の子を産み、そのうちの長男の竜築坊が竜頭山の主になり、次男の白髪童子が戸口山の主になり、三男の常光坊が常光寺山の主となったことを「遠江(とおとうみ)風土記伝」が伝えている。

     山姥伝説が、遠江の民衆にとって何だったのか、それを伝える人はすでにいない。ただ、山の神が、山姥やオオヤマズミの娘の木花開耶姫のように女性であることについて、ほのかな想像をすることはできよう。

     私の思うところ、これは実に単純な理由である。自然界の2大存在は、すくなくとも日本にあっては山と海であった。儒教風土が男女の和合をもって社会の鎮めとした伝統思想(日本的体臭というべきか)を考えれば、山のイメージは荒々しい突出の陽物であって、したがってその鎮めは女性でなければならない。

     逆に、海のイメージは広く深い包容力の陰物であって、その鎮めは男性でなければならない。ゆえに、山の神に女性が多いのは、山と海からなる日本の風土が、ごく自然に醸しだしたまったくナチュラルな帰結であろうと思うのである。

     だが、今では山の神が恐妻の代名詞であったことを知る若者も少なかろう。かつて、山の民を代表した木地師達は、木工ロクロを回転させるのに妻の手助けを必要とした。だから、木地師の妻の発言力は強かった。それが、「山の神」というあだ名を生んだのではないかと私は考える。

     しかし、やがて動力を水車などで代用することが普及するにおよんで、山の神の威力も衰えたのかもしれない。もっとも、荒れ狂うと手のつけられぬ山の神も、訴訟ばやりの日本ではシラケてしまっているのではなかろうか。
     これらの民俗伝説も、日本中を金太郎飴のように平凡化し、管理に便利な組織化・統一化が図られようとする、おしとどめがたい画一化潮流のもとで激しく侵食され、風前のともし火といっていいのだろう。

     今、それらを書き留めるには、すでに遅きに失しているかもしれない。しかし、だからこそ、私はそのような伝承に惹かれ、いとおしく思い、遺さねばと焦らずにいられない。

     山住峠から秋葉山に至る稜線は、龍のうねるような長く明確な尾根である。天竜川の向かい側の、奥三河の山々からそれを望むと、ちょうど竜頭山こそがくっきりと頭をもたげた最高地点であることが分かる。龍の山と、龍の川なのである。

     かつて、山住神社が秋葉神社の奥社であった頃、この長い尾根には多くの参詣者や修験者が、山々の神気を心ゆくまで愉しんで通行したにちがいない。
     人々は、当時珍しかったはずの杉の美林に感嘆し、しばしば足をとめたかもしれない。山住や秋葉には、樹齢1000年を超す巨杉もあった。これらの杉も、室町前期の植林と伝えられる。

     山住家第23代の山住大膳は、江戸初期から、この稜線一帯に膨大な植林を行なった。「大膳亮手鑑」(たいぜんのすけ、てかがみ)によれば、吉野地方から入手した杉苗による植林本数は、実に36万本を超したと記される。

     そして、それらの見事に育った美林が、天竜林業の礎を築いた。しかし、その大部分はすでに伐採され、現在は2世代3世代目の植林地になっているものが多い。この山域は、いわば日本の植林事業の原点なのである。

     それらの針葉樹材は、江戸時代すでに大規模寺院建築に使用される大型用材が不足していたなかにあって、天竜川のおかげで運搬が容易なために人気をよび、多くは上方や江戸へ運ばれていった。

     また、今でこそダムのために面影はないが、浅瀬や瀞や激流と多彩な変化をみせていた天竜川のような河川では、通常の海船ではたちどころに座礁破損してしまうので、剛性よりも柔軟性に主眼をおいた、底が広く喫水の浅い形式の高瀬舟(角倉舟)が多く用いられた。
     良質の天竜杉は、それらの用材ともなり、天竜川の水運の主力となった。天竜杉は、天竜川と一体のものであったのである。



     前日、まだ明るいうちに浜松に着いた。ずいぶん夜が遠くなったものだ。浜松インターから天竜市を経由して天竜川沿いに152号を走ると、たいした時間もかからずに龍山村に達する。

     このあたりから伊奈谷にかけての山村では、部落が山の急斜面にへばりつくように点在していて、夜間は部落のある山がまるでクリスマスツリーのように幻想的に見える。このような集落の光景は、木地師村に特有のもので、冬期積雪の少ない一部の山間地方にしか見ることができない。木地師がこのような山地に住んだ理由は、柳田国男が「史料としての伝説」のなかで詳しく考察している。

     まだ寝るには早すぎる。することがないときは飲むしかない。最近見た静岡新聞に、龍山村の秋葉茶屋という長く休業していた村営レストランに、南アルプス二軒小屋ロッジにいた若夫婦が経営に入ったと書いてあった。懐かしい二軒小屋の管理人氏なら、どういう店か様子を見たくなった。

     国道の秋葉山入口を過ぎて数キロ走ったところに看板があった。右下に降りる旧街道をしばらく走ると、一回転するために方向感覚を狂わせるややこしい橋を渡って左にわずかでその店があった。明かりは点っていたが、すでに閉店していた。あまりに早い。どうやら、いっぱいひっかけの客層とは無縁のようだ。

     方向が定まらず、目的地に向かうのに苦労したが、秋葉茶屋の前の道は、天竜川の左岸道路になっていて、そのまましばらく走ると秋葉ダムに着いた。橋を渡った龍山村最大市街の生島の部落は、コンクリートの殺風景な建物もある。並びにあった仕出屋さんで飲んだ。

     地元の人か数人飲んでいて、竜頭山の登山口をたずねると、大輪部落からであることを親切ていねいに教えてくれた。龍山村の過疎について話をもちかけると、あまり触れたがらない様子だった。しかし、なかのひとりが、

     「33ナンバーなんかの豪勢な車に乗ろうとさえ思わなけりゃ、十分田舎で生活できるんだよな。なんてったって、メシ代が安くあがるんだから。」
     と語った。田舎暮らしは傍目で見るほど楽じゃないが、食えないというほどのものでもないという。

     「ここらあたりは、田舎でも夜の飲酒運転の取り締まりがキツイから気をつけろや。」
     という忠告を受けて、近くの駐車場で一晩を過ごした。

     翌朝、工事中の国道を走り、大輪橋で天竜川を渡ると、そこから佐久間町大輪であった。教えられた通り、立派なトイレと案内板の前を右手の川伝いに100mほど戻ると、左手のガケの上に竜頭山登山口の標識があった。

     右手は秋葉ダム水域になっているのだが、立小便をしていて真下に古い石地蔵を見つけた。それには「水没者一切の霊」と刻まれていて、ダム工事の犠牲者の碑かとも思ったが、よく考えてみると、天竜川水運の隆盛期に相当な水死者がでていたという記述を思いだして納得がいった。

     登山道は、びっくりするほどよく手入れされた立派な道である。木馬道であった。おまけに、桟木の上には幅50センチほどの擦り跡がついていて、これがバリバリの現役の木馬であることを示していた。私も数多くの木馬道を歩いてきたが、現役にでくわしたのはこれがはじめてである。感激であった。

     杉木立の木馬を緩い傾斜でトコトコと1時間半ほど歩くと、途中何本もの枝道を分けるが、かまわずにまっすぐ行けば、道は沢筋からはなれて尾根道を行くようになる。ここでやっと登山道らしい道になり、全山植林で埋め尽くされているかとも思えた竜頭山も、あたりまえの雑木林に変わった。

     上部は、山住家の植林地帯らしくて、樹齢200年以上の見事な杉林もあった。さすがに林業開闢の地だけあって、手入れが実にゆきとどいている。
     2時間半ほどで稜線に達した。そこは遊園地のように整備されていて、大アンテナ設備まである。スーパー林道が冬期閉鎖されているからいいようなものの、シーズン中なら車から500mも離れると大冒険をしているようなつもりのメデタメデタの大衆が、騒がしい場所である。といっても、私も数年前に車で訪れているのだからエラソーにと自分をわらうのであるが。

     山姥の子でもハダシで逃げだす人為的山頂の展望はないが、わずかに離れたあずま屋から、このところ通っている遠州山地の全貌を見渡すことができた。
     素晴しい天気のうえに、誰もいなくて、展望指示板のおかげで、京丸山・常光寺山・麻布山・黒法師三山・不動岳・大無間山などを指摘することもでき、見事な眺望を楽しんで飽きることがなかった。

     反対側の奥三河山地を見渡せば、ポツリと高いのが20分で登れる愛知県最高峰の茶臼山で、その右手奥のひときわ見事に吃立した白亜のピークは大川入山であろう。ここは一昨年登ったが、期待にたがわぬすばらしい山であった。その先に、恵那山から中央アルプスの尾根筋も見えた。

     頂上直下の雑木林で、キハダの樹皮を少々失敬した。整腸薬に使おうというのである。これは効くのだ。ただ、私の次に登ってきた男は、ナタを手にした私を一瞥して、挨拶も無視して横を向いて通り過ぎた。官僚機構の巨大犯罪にはおそれいる

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     黒木睦子さんを初めてツイッターで見たのは、今年(2014年)の夏過ぎだったように記憶している。
    当時のフォロワーは、わずか数百名。
     
    「スラグ投棄によって子供のセキが止まらない、何とかして欲しい」
     と公害被害を訴える内容で、気の毒に思ってフォローした。
     
     ツイートが目に入れば必ずリツイートしてきた。
     フォロワーは、わずか数ヶ月で2000を超えたが、そのあたりで加害企業から逆告訴されるスラップ訴訟が起こされたことを知り、これは大変と、力を入れて宣伝することになった。
     
     11月14日、スラップ損害賠償請求裁判までの、わずか半月ほどで、フォロワーは2000台から一気に15000を超えた。
     
     私はいてもたってもいられず、裁判の三日も前から1100キロの道のりを軽自動車に乗って日向市に駆けつけた。
     とりあえず現地調査が不可欠と思ったからだ。
     そうして到着の翌朝、現地に行ってみたら、恐ろしい現実が目に飛び込んできた。
     
     現地の投棄は大方終わっていたが、近傍の山に数カ所の新しい投棄準備地が開墾されているのが目に入った。
     日向精錬所は、黒木さんの実家前の山だけでない、西川内地区全体の山をゴミ捨て場にするつもりだったのだ。
     
     そして、投棄地の下を流れる小川には、まるで布団の綿のような白い汚物が、まったく姿を変えることなく残されていた。
     美しい川なのに魚影が見あたらない。
     これは容易ならざる毒物汚染かもしれないと思った。
    http://tokaiama.minim.ne.jp/date1/kuroki1.html
     
     黒木さんの家は数キロ先にあるということだが、投棄地にもっとも近い家が彼女の実家だった。
    彼女は実家の両親の代弁者として活動してきたのだ。
     そこは肉牛牧場で、たくさんのサイレージフレコンが積んであった。畜産に使う水は投棄地から50mしか離れていない井戸だ。
     
     スラグ投棄地の厚みは50m以上ある。となれば水頭圧が5気圧あることになり、黒木さん実家どころか、周辺数百メートルの井戸や水田、畑地、西川内の大半の住民の生活用水を汚染することになる。
     私の畑も似た条件なので、浸透水の強さは良く知っているつもりだ。
     あとは投棄物の中味が問題だ。
     
     日向市富高西川内地区の山林に、日向製錬所というステンレス用ニッケル精錬を主業務とする住友金属鉱山の子会社が、サンアイというダンプ会社を使って投棄してきたもの。
     それはフェロニッケルスラグという産業廃棄物である。
     
       https://www.pacific-metals.co.jp/file/news/20100409110217-1.pdf
     
     当然ながら、苛酷で知られる産業廃棄物法の規制対象になり、住民への事前説明会や地元の了承など、たくさんの手続きが必要になる。
    (東京都ではフェロニッケルスラグをセメント骨材として使用する場合以外、産業廃棄物として認定するよう通達を出している)
     
     ところが黒木さんの説明や、地元民への聞き取りから、そうした産廃法の手続きが取られた形跡がまったくないのである。
     ならば厳しい罰則のある産廃違法投棄ではないか?
     
      http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO137.html
     
     だが、日向製錬所は、投棄しているものはフェロニッケルスラグから作られた安全無害なグリーンサンドという農業用土壌改良材であって、これをサンアイというダンプ会社に売って、彼らが谷間を埋めているだけという説明をしているのだ。
     だから産廃法の規制対象にならないから、定められた事前アセスメントも地元説明会も、投棄場の汚水侵出防止養生も必要ないという理屈らしい。
     
     もし、それがウソであって、投棄内容がグリーンサンドでなく有害なフェロニッケルスラグであったなら、大変な大問題であって、認可した県も日向製錬所も逮捕者を出すほどになってしまう。
     ましてや、抗議する主婦の口を封じるために卑劣きわまりないスラップ訴訟まで提起しているのだ。
     この極悪さが世間に認知されるなら、やがて親会社である住友金属鉱山のみならず、住友グループ全体に取り返しのつかない悪評を貼り付ける結果になるだろう。
     企業コンプライアンスの倫理問題をはるかに超えて、一大産業犯罪になってしまう。
     
     そうして、黒木睦子さんに初めて面会して、詳しい事情を聞いた。
     その結果、腰を抜かすほどのひどい現実があることを知らされ、これは本当に深刻で恐ろしい大公害問題であるとの理解に至ったのである。
     
     たまげたのはこれだ。
     黒木さんが、投棄物の有害性を調べるために、汚水溜の底からサンプルを採取した際に、「漏れ出た汚水が、球状に丸まってから下に落ちた。その後、フェロニッケルスラグを採取した手が腫れ上がった」
     
     これを聞いて飛び上がった。
    ボタボタ漏れた汚水が強烈な表面張力で球状になるものとは何か?
     それは水銀しかありえない。
     
     さらに黒木さんが、この水をサンプル分析依頼した研究施設の報告によれば
     環境基準値の鉛210倍、ヒ素50倍、フッ素20倍、総水銀15倍、カドミウム3倍、セレン3倍
     が検出されている。
     
     これは本当に恐ろしいことだ。手が腫れ上がった原因は、おそらくヒ素の有機化合物だろう。それ以上の問題は、球状になった汚水、水銀である。
     これは現在、腎障害などの毒性で知られる無機水銀であっても、土壌や水中で容易に有機化し、メチル水銀に変わって恐怖の中枢神経障害、すなわち水俣病を引き起こすことは、すでに世界的に広く知られている。
     
     日向製錬所側は、この汚水溜まりを完全に清掃してからサンプルを採取し、それを宮崎県が分析して「無害」のお墨付きを得たようだ。
     だが、そんな甘い屁理屈と隠蔽工作など通用しない。
     どんなに清掃してみても50メートルの厚い堆積層の底から次々に汚水がわき出してくる。
     その中に水銀、ヒ素、鉛などニッケル鉱石に付随する無数の重金属が含まれているのである。
     
     こうなれば黒木さん個人宅の問題をはるかに超えて、西川内地域も飛び越えて、大字富高地区全体の大公害問題に発展することは間違いない。
     それどころか、産廃不法投棄事件ともなれば、日向製錬所の摘発、関係者の逮捕、さらに県の認可の違法性が問題になり逮捕者が続出することも確実だろう。
     
     宮崎県という地域は、産業王国であり、日向製錬所(住友金属鉱山)のような力の強い組織の意向は絶対であって、警察でさえ簡単に手出しできない権力を形作っている。
     だが、それも公害被害が出てしまえば、隠蔽は不可能だ。今は水俣病の時代と違う。
     小さな主婦の声が、ツイッターやソーシャルメディアを通じて、あっという間に全世界に拡散し、世界中が注目するのである。
     
     この投棄は、農業用土壌改良材の投棄であって、産業廃棄物でないという屁理屈を使っているようだが、だとすれば、なおさら深刻な問題がある。
     普通、有毒性のある産廃を山林に投棄する場合、浸出液の毒性を封じるために、厚手の防水シートにアスファルトコーティング防水を行って養生するが、この場合、こうした防護措置は一切取られていないため、浸透水汚染が極めて深刻な事態になることが避けられないのである。
     
     分けても、ヒ素と水銀問題は極めて深刻である。
     水俣病の場合も、最初、猫の恐ろしい中毒症状が人間にまで波及してきた段階で、加害企業チッソは「無機水銀に水溶性はなく、胎児が吸収する可能性はない」と突っぱねた。 ところが、無機水銀が微生物や光化学反応などで有機化、メチル水銀に変化することが明らかにされ、これが水溶性で人間の脳関を容易に通過し、胎児に激しい障害をもたらすことが証明されたのである。
     
     同じことが日向市でも起きるのではないか?
    調べてゆく内に、日向製錬所の別の(日向市細島地区)場所で工場を運営し、その跡地から深刻なヒ素やフッ素の猛毒汚染が検出されていたことが分かった。
     
      http://blog.goo.ne.jp/flyhigh_2012/e/53279ace574f099270ca1f3025c52739
     
     つまり、日向製錬所とは、産廃不法投棄の常習犯だったのである。
     
     そして公害被害を素朴に訴える主婦に対して、驚くべき恫喝訴訟(スラップ)を仕掛けてきた極悪下劣ぶりには恐れ入るしかない。
     まさか住友グループや資本金1000億円のモンスター企業、住友金属鉱山が、自社のコンプライアンス評価を極端に滅損する愚かなスラップ訴訟を仕掛けたとは考えにくい。
     おそらく日向精錬所内部の暴力団と結びついた愚劣なチンピラ管理職が、勝手に暴走して仕掛けたのだろう。
     いずれ、刑事告訴によって必ず責任を取らせることになる。
     
     いずれ、投棄場所のサンプル調査は避けられない。
    彼らが拒絶することは目に見えているが、裁判所に強制開示命令を出させてサンプルを取得分析するしかないだろう。
     これは黒木さんではなく、支援団体がやることになる。
     
     日向製錬所側は、下の方にフェロニッケルスラグを投棄して、上部のサンプル採取の恐れのある場所にはグリーンサンドで覆っている可能性があるので、ボーリングサンプル取得を行うしかないだろう。
     こうして得たサンプルが、産廃法に規定されたスラグであり、なおかつ激しい毒性を持っているとすれば、日向製錬所が検挙されるのは確実であり、県の担当者や河野知事も無事ではすむまい。
     
     先は長いが、焦らず、前を向いて進むしかない。
     とりあえず、西川内地区の水源、井戸汚染が強く懸念されるため、支援組織が大至急、飲料水分析を行うことになるだろう。
     この分析は、九州内部の機関では信用性が薄いので、東京や大阪の機関に依頼することになる。
     現在、関係者と検査機関について調整中、至急開始したいので、一件1万円程度の費用についてカンパをお願いする予定でいる。
     
     東海アマ 2014年11月16日著  現地調査は11月12日〜14日


     チェルノブイリ事故では、はじめ何も起きなかった・・・・
     ソ連政府も高度汚染危険地域の住民を移住させた後、「健康には問題ない」と公表し、事故発生以来、大きな健康障害もなかった。

     近くの住民も「あの騒ぎはなんだったんだ?大丈夫じゃないか。」と笑い飛ばし、たかをくくって原発事故を忘れてしまい、普通の生活を送っていた。政府も安全と吹聴しただけで、避難以外に特段の対策もなかった。人々は普通にミルクを飲み、森に行ってキノコを採集して食べた

     5年経過。子供たちの様子がおかしい。甲状腺癌が増え始めた。
     10年経過して農作業中に突然鼻血が出始めた。白血病だ。
     15年経過して固形癌が増加。(なぜか、患者数の追跡調査はここで打ち切り。)
     20年経過してリクビダートル(原発事故処理作業員)の半分が死亡した。

     ほとんどの人たちが被曝の意味すら知らなかった。「放射能は危ない」という漠然とした知識だけはあったが、その具体的な症状、結果は誰も想像すらできなかった。放射線を扱う医師の多くも、レントゲン操作の経験からも、たいしたことは起きないと断定した。
     ICRPが原発事故による影響は外部被曝だけを問題にするよう指示したから、ソ連政府も内部被曝についてまるで無関心だった。

     事故直後から瀕死の病人や老人たちが次々に死亡したが、人々は、事故のパニック、混乱によると考え、当然と受け止めた。
     鼻血が出る人が多く、風邪がなかなか治らなくなった。皮膚病に罹る人が増えた。糖尿病に罹る人が激増した。首のリンパ節が腫れた。
     やがて人々を下痢と倦怠感が襲った。男たちが心臓病で突然死しはじめた。朝、自宅を出て数歩歩くとばったり倒れて死亡する若者が続出した。
     子供たちは集中力を欠き、成績がふるわなくなった。ぼーっとしてるだけで動かず、積極性のない子供が増え、それは大人にも増えていった。

     遠く離れた日本や韓国でも夏頃から同じ現象が起きた。それは「突然死」と呼ばれ、若者が一晩中扇風機をつけたまま寝て、朝起きたら死んでいたというものだ。
     それはチェルノブイリ事故の起きた1986年の夏以降に出現し、翌年からは報告されていない。死因の大半は「心不全」であった。
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E9%A2%A8%E6%A9%9F%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%9D%E8%AA%AC (脚注参照)

     「チェルノブイリで起きたことは福島でも起きる」
     ウクライナ医学アカデミーのコンスタンチン・ロガノフスキー氏はこう話す。

    「私がテーマにしているのは、チェルノブイリ事故によって放出された放射線が及ぼす中枢神経への影響と、被曝者のストレス、PTSD(心的外傷後ストレス渉障害)などです。対象としているのは原発作業員、避難民、汚染地域の住民などで、とくに力を入れているのは、事故当時に胎児だったケース。いま23歳から25歳となっていますが、彼らが5〜6歳の頃から私はずっと追跡調査をしています」
     ロガノフスキーはチェルノブイリ原発事故のとき、まだ医学部の4年生だったが、卒業後、このセンターに就職して、以来25年間、研究を続けている。氏の妻もここで小児科医を務めていて子供の被曝について調べているという。

     チェルノブイリで起きたことと福島であったことはよく似ている。事故後、最初にヨウ素が放出され、その後セシウムやストロンチウムが検出されるという流れもまったく同じですから。違いは福島には海があって、ここには河しかなかったことぐらいでしょう。したがってチェルノブイリ事故の後、住民や作業員に起きたことを見ていけば、これから福島でどういうことがあるか、わかるはずなのです。

     「チェルノブイリは、広島に落とされた原爆のケースに比べれば被曝線量は低い。しかし深刻な内部被曝の被害者は多数います。甲状腺がんや神経系の病気の増加や、言語能力、分析能力の低下も見られました」

     「言語能力には脳の2つの部位が関係しています。ブローカ野とウェルニッケ野です。いずれも左脳にあります。脳の中でも最も重要な部位の一つといえるでしょう。私はここが損傷しているのではないかと考えています」

     ロガノフスキー氏らの研究チームが11歳から13歳までの被曝した子供たち100人を被曝していない子供たち50人と比較したところ、とくに左脳に変化が生じていることがわかった。氏は「母親の胎内における被曝体験が精神疾患を引き起こしたり、認知能力の低下をもたらしたりする」と述べ、脳波の変化と知能の低下も見られたと指摘する。

    「被曝していないグループの知能指数の平均が116に対して、被曝したグループは107。つまり10程度ぐらいの差がありました。私の妻もrural-urban(地方・都会)効果を加味した調査、つまり地方と都会の教育格差を考慮した形の調査を実施しましたが、結果は同じで被曝者のほうが同程度低かったのです」

     (註、米海兵隊も最大級核実験年の1962年に誕生した海兵隊員の知能調査を行ったところ、無被曝年誕生兵に比べてIQが10低いことを報告した・・・被曝国アメリカ)

     「ノルウェーは旧ソ連の国々を除くとチェルノブイリ事故の被害を最も受けた国です。この研究結果でも胎内で被曝した成人グループの言語能力は被曝していないグループに比べ低いと指摘していました」

     「長崎大学医学部の中根充文名誉教授によると、原爆生存者の中に統合失調症の患者が増えており、胎児のときに被曝した人の中でもやはり患者が増えているという。ただ中根さんはこの病と被曝が関係あるという証拠がまだないと話していました。1994年のことです。統合失調症は左脳と関連があるといわれており、私たちも長崎大のものと同じような内容のデータを持っています」

    ウクライナだけで20万人いろというチェルノブイリ事故の処理に当たった作業員たちの中にも、精神を病む人が出ていると、ロガノフスキー氏は言う。

    「精神障害者は少なくありません。そのなかにはうつ病、PTSDが含まれています」
    「私たちはエストニアの作業員を追跡調査しましたが、亡くなった作業員のうち20%が自殺でした。ただエストニアはとくに自殺は悪いことだとされている国なので、自殺した人間も心臓麻痺として処理されることがあり、実数はもっと多いのかもしれません」

    精神的な病に陥るのは何も作業員に限ったことではない。京都大学原子炉実験所の今中哲二助教が編纂した『チェルノブイリ事故による放射能災害』によると、ベラルーシの専門化が調べた、同国の避難住民の精神障害罹患率は全住民のそれの2.06倍だった。また、放射能汚染地域の子供の精神障害罹患率は汚染されていない地域の子供の2倍だったという。

     ロガノフスキー氏は被曝によって白血病やがんの患者が増えるだけでなく、脳など中枢神経もダメージを受けると考えているのだ。それは15年にわたる様々な調査・研究の成果でもある。その他にどんな影響が人体にあるのだろうか。氏は様々な病名を挙げ続けた。

    「作業員に関して言えば圧倒的に多いのはアテローム性動脈硬化症です。がんも多いのですが、心臓病や、脳卒中に代表される脳血管の病気も増えています。白内障も多い。目の血管は放射線のターゲットになりやすいからです」

    「チェルノブイリ事故の後、その影響でドイツやフィンランドでダウン症の子供が増えたという報告がありました。しかし、IAEA(国際原子力機関)やWHO(世界保健期間)はその研究に信憑性があると認めていません。ただ、私たち専門家の間ではなんらかの遺伝的な影響があると考えられています。小児科医である私の妻はチェルノブイリ事故で被曝した人々の子供や孫を調べましたが、事故の影響を受けていない子供と比較すると、はるかに健康状態が悪いことがわかりました。つまり被曝の影響は2代目、3代目、つまり子供やその子供にも出る可能性があるということです」

    放射線の影響についてもっとはっきりしていることがある。それは「性差」で、氏によれば、「女性のほうが放射線の影響を受けやすいのだ」という。

    「それは間違いありません。うつ病、内分泌機能の不全は女性のほうがずっと多い。チェルノブイリには女性の作業員がいたが、私はそういう点からいっても女性はそういう場で作業をやるべきではないと思っています」

     では、これから福島や日本でどんなことが起こると予想できるのか。ロガノフスキー氏は慎重に言葉を選びながら、こう話した。

    「女性に関しては今後、乳がんが増えるでしょう。肺がんなどの他のがんの患者も多くなると思います。作業員では白血病になる人が増加することになるでしょう。ただ病気によって、人によって発症の時期はまちまちです。たとえば白血病なら20年後というケースもありますが、甲状腺がんは5年後くらいでなることが多い」

    「チェルノブイリの経験から言うと、まず津波、地震、身内の死などによるPTSDを発症する人が多数いるでしょう。放射能の影響を受けるのではないかという恐怖心から精神的に不安定になる人も出ます。アルコール依存症になったり、暴力的になったりする人もいるかもしれません」

    「私たちにはチェルノブイリでの経験があるし、たくさんのデータも持っているので、いろいろな面で協力できると思ったのです。そこで知り合いの医師たちを集めて、キエフの日本大使館に出向きましたが、門前払いされました。
    チェルノブイリ事故が起きたとき、ソ連政府のアレンジによって、モスクワから心理学者や精神科医などからなる優秀なチームが避難所にやって来ました。彼らは地元ウクライナのスタッフと協力して被災者のケアに当たってくれたのです。福島ではそういうことがなされているのでしょうか。

    ウクライナは裕福な国ではありませんが、チェルノブイリでの豊富な経験があります。私たちは今回、日本政府からお金をもらおうとして行動していたわけではありません。無償で協力しようとしただけなのです。拒否されるとは思わなかったので、とてもショックでした。

    ロガノフスキー氏は、日本政府の姿勢に対して不信感を持っている。それは援助を断られたからだけではない。

    「当初、発表された福島原発から漏れた放射性物質の量は実際とは違っていました。国と国の交流に大事なことは正確な情報を公開することです」

    では、日本政府が定めた「年間20ミリシーベルト、毎時3.8マイクロシーベルト」という被曝限度量については、どう考えているのか。

    「一般人は年間1ミリシーベルト、原発関連で働いている作業員は20ミリシーベルトが適性だと思います。これが国際基準です」

    つまり、日本政府の基準を鵜呑みにしては危ないと考えているのだ。さらにロガノフスキー氏は低線量の被曝でも健康被害はあると指摘する。

    「値が低ければ急性放射線症にはなりませんが、がんに罹りやすくなるなど長期的な影響はあります。そういう意味では低線量被曝も危険です」

    これが、ロガノフスキー氏が長年、行ってきた低線量被曝が健康を害するかどうかの研究の結論である。氏は「ノルウェーでも同じ結論を出した学者がいる」と話す。

    http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/loganovski.html
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     1986年4月に発生したチェルノブイリ原発事故によって何が変わったのか? 
     もっとも巨大な変化といえば、それは戦後世界に君臨した鉄の帝国、ソビエト連邦が1991年に崩壊したことであった。
     これによって半世紀続いた「冷戦」が終わりを告げることになり、国家の命脈となる対立軸、競争相手を失ったアメリカが、欲に釣られデリバティブによる金融暴走によって自滅の道を歩むことになった。
     このとき、人口1.5億、影響下の社会主義圏人口は3億人、数千回も世界を滅ぼす軍事力持った巨大帝国が、自らの腐敗によって倒壊したのである。

     ソビエト連邦は、名前の通り中央政府の一元管理でなく、各共和国の連合体との位置づけだが、実際には各共和国は100%、秘密警察に監視され、共産党中央、政府の軍事支配下に置かれていた。
     しかし、硬直した官僚制度が利権の縄張り争いに明け暮れ、お粗末な政策にうんざりさせられ続けた国民の勤労意欲は大きく低下し、農産物が豊作でありながら大半を腐らせて食料危機に陥るなど、まともな国家運営すらできず、デフォルト状態の経済危機による共産党体制の低迷のなか、閉鎖的な利権体質に危機意識を抱いていたゴルバチョフ政権スタートの一年後にチェルノブイリ原発事故が起こった。

     最高幹部に君臨したはずのゴルバチョフに対し、事故発生による巨大な放射能漏洩危機の情報は、政府機関からではなくスエーデン政府と欧州マスコミからもたらされた。
     その後も、関連部門から上がってくる情報は「事故は適切に処理された、被害は軽微」という責任回避報告しかなく、彼はソ連体制の閉鎖体質がどれほど深刻なものか思い知らされることになった。

     首相ですら知り得なかった真実の情報が事故現場の民衆にもたらされるはずはなく、「パニック抑止」の名目で、危険情報はすべて隠蔽され、人々は何一つ真実の危険を知らされず、避難命令に右往左往し、取り返しのつかない被曝を重ねることになった。
     数年後、人々は、チェルノブイリ原発事故が何をもたらしたのか、次々に死亡する人たち、子供たちの地獄のような有様や自分の体の絶望的不調で思い知るところとなった。

     「お上意識」の傲慢、冷酷な官僚による口先だけの「安全デマ」や人命軽視、利権優先の姿勢をソ連民衆は自らの運命によって思い知らされることになった。やがて民心は離反し、政府はあらゆる信頼を失なって政権や共産党支配の秩序が根底から崩壊していったのである。

     ゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)ペレストロイカ(民主改革)によって体質改革を試みたが、長年、特権の座布団にぬくぬくと居座り続けた利権集団である官僚グループの激しい抵抗に遭い、あらゆる改革も失敗を重ねることになった。むしろ改革は逆進し、官僚独裁体制の強化が図られ、ゴルバチョフ自身が追放されそうにすらなった。
     
     こうした状況下で、かつて帝政ロシア国家が、クリミア戦争、日露戦争敗北による国家不信によって消滅した時と同じように、国民の政治不信、行政への不満が渦巻き、官僚が政策を発令しても、誰も見向きもしないという極度の組織崩壊に陥り、もはや政権の威信は地に堕ち、国家としての統制が困難になったのである。

     とりわけ、情報を与えられないことで何の対策も取れず、結果として膨大な人的経済的被害を被った地方政府の中央に対する不信が激化し、納税拒否や指令遂行拒否などが続くことで、中央政府は、もはや地方政府を制御できる状態でなくなってしまった。

     ベラルーシ、ウクライナなど被災地方国では、中央政府を見限って独立の機運が高まり、時を同じくして東ドイツ崩壊を突破口に東欧社会主義圏全体がソ連体制を見限ることになり、雪崩のような国家崩壊が進行していった。
     この当時の東欧ソ連情勢は、まさに朝から晩までテレビに釘付けになるほど緊迫したもので、我々は、未来永劫続くかに見えた巨大軍事帝国の崩壊が、これほどあっけないものであったことに驚かされたとともに、わが日本、そして米国政権すら、ある日突如として崩壊する可能性を肌身で知ったのである。

     事故の凄まじい被害に恐れをなしたソ連政府は、莫大な補償を回避し、被害を隠蔽して責任を逃れる手段として、ソ連帝国の規模を縮小し、もはや統制のきかないウクライナとベラルーシをソ連邦から分離独立させることを考えた。
     これは、中央政府の息のかかった傀儡政権を樹立して、パイプラインなどの利権を保全したままウクライナ政府に事故処理義務を押しつけ、補償や被害を握りつぶす作戦であった。

     その後、ロシア体制になって、燃料や食料などのライフラインをロシアに制御されている弱点を突かれ、両国とも再びロシアによる傀儡官僚に支配されることになり、事実上、かつての官僚利権体制が復活しつつあるが、「チェルノブイリのくびき」を抱える両国が再びロシアに併合されることはないだろう。

     人類を数千回も滅ぼせる核兵器を保有する鉄の巨大帝国、ソ連という巨大組織がいとも容易に崩壊していった最大の理由は、チェルノブイリという人類史上希有の破局、国家存亡の危機に際して、官僚による利権の争奪戦場のようになっていた国家機構が、臨機応変に対応できる能力を失っていたということに尽きるだろう。

     クリミア・日露戦争の敗北によるロシア帝国の崩壊は、軍部を掌握していた特権階級が特権意識と利権要求を剥き出しにし、大衆の命を奴隷のように使い捨てにするだけで能力を失っていたことが民心の決定的な不信と離反を招き、政府を信頼する者がいなくなってしまったことが最大の原因だが、まったく同じことがソ連でも起きたのである。原発事故は数千万の命と巨大な資産を崩壊させる、まさに巨大戦争なのであって、民衆はソ連国家が自分たちを守らないで官僚利権だけを守る体質を思い知らされた。

     国民から信頼を失った政府は、存続することが不可能なのである。
     チェルノブイリ事故が巨大なソ連体制を崩壊させたことを書いている意図は、もちろん、この歴史的教訓を理解せぬまま、当時のソ連と同じ絶望的失態を繰り広げている日本政府の運命を説明するためのものである。

     フクイチ事故は、まさに巨大な戦争の勃発であった。これに対し、日本政府はソ連と同様の隠蔽、責任回避のみをもって対処してきた。国民の不安、不信に誠実に対応する姿勢は皆無であった。
     東日本震災とともに、放射能が降下した地域の住民は、明日が見えない状況のなかで、子供たちの未来に見え隠れする恐怖が消えないのに、政権は安全デマだけで事態を沈静化させようとしている。
     もはや、それをまともに信じる者もいない。今はインターネットによって自由に正しい情報を得ることのできる時代なのである。政府が、マスコミを利用し、権威者を総動員してウソにまみれた安全デマを垂れ流し続けても、人々は自分の運命にかかわる真実を知ってしまっている。

     フクイチ事故の経過を、我々は毎日、憤激と慟哭の思いで見つめ続けているわけだが、チェルノブイリ事故当時の報道を知っている者にとって、フクイチ事故の経過が、まるでコピーのように再現されていることで、日本政府の運命がソ連政府に重なって見える人が少なくないであろう。

     少なくとも、3月以降、現在に至るまで、日本国民の大半が民主党政権が決して国民を守らず、産業界と官僚機構だけを守っている現実を、これでもかと思い知らされてきた。
     少しでも現実に責任を負うことを知り、子供たちの快適な未来を用意してあげようと願う人たちにとって、もはや日本政府に期待するものは皆無といっていい。
     我々は、その崩壊と新しい革命的再編を願うしかない状況である。新しい救世主はどこにいるのかと・・・・

     日本政府は、子供たちの未来にとって決定的に有害無益であって、もはや国民にとって排除追放の対象でしかない。大勢の母親たちは、我が子を守るために政府を見限るしかない現実なのである。
     おそらく日本国民の8割以上が、今、そうした思いを噛みしめているであろう。したがって次の総選挙で民主党政権が歴史的瓦解を起こすのは確実だが、その代わりに国民にとって真の利益、子供たちの安全な未来を導く新しい政権の受け皿が存在しないことが歯がゆい状況だ。

     もう一度言う、原発事故は巨大な戦争勃発と同じ意味を持つ。フクイチ事故は太平洋戦争よりも桁違いに多い死者をもたらすだけでなく、資産破壊も比較にならないほど巨大だ。
     政府は、事故賠償と収束費用をわずか数兆円程度と見積もっているようだが、お笑いの超過小評価であって、そもそも日本に原発を導入した時点で、正力松太郎や中曽根康弘は、原発事故による損害額は国家予算を超えるとの認識があり、このため渋る電力会社を説得するため、事故時の賠償を国家が担保するという法律(原子力損害賠償法)を制定したのである。

     太平洋戦争では8000万人中約500万人が死亡したが、フクイチでは、今後30年間で、おそらく数千万人以上の死者が出るだろう。太平洋戦争では北方領土などの土地を含む日本固有資産の数割が破壊され消滅したが、フクイチ事故では、おそらく福島県だけでなく、東北・関東の大半を含む資産が消滅してしまうであろう。

     我々が見ている現実は、毎日、静かに進む戦争に負け続け、大本営発表のウソしか公表しない政府とマスコミの姿であり、権威を嵩に着てウソしか言わない学者たちの姿である。
     こんな日本政府、国家は間違いなく崩壊するしかない。救世主はどこにもいない。
     我々は、数年後に、ソ連崩壊と同様の、恐ろしいほどの無政府状況に置かれる運命が確実なのである。当分続くはずの地殻変動、地球環境崩壊がそれに追い打ちをかけるであろう。

     国家が崩壊するということは何を意味するのか?
     これも、我々はソ連崩壊の事例から学ぶ必要がある。ソ連では、崩壊後、何が起きたのか?
     伝えられている事実は少ないが、国家デフォルトを起こしたことにより、ルーブルの価値がおおむね200分の1に暴落したともいわれ、外国から食料を輸入することが不可能になった。都市生活者の多くが飢えて、餓死者が続出するようになった。

     しかし、幸いなことにソ連では市民農園(ダーチャ)というライフスタイルが定着していて、無償で土地を借りて農園別荘を持つ市民が8割に上り、その市民農園こそロシア生鮮食料供給の土台になっていたのである。
     これによって、通貨価値が崩壊した後も、ダーチャで生産された馬鈴薯が通貨の役目を果たし、市民が大規模に餓死する最悪の事態は避けられた。
     共産党体制は崩壊したが、市民の自給自足体制が整備されていたことにより、命と生活そのものが崩壊することは少なかった。おまけに、数年後、ロシアを窮地から救う石油や天然ガス資源の値上がりがあり、瀕死のロシアは蘇り始めることができた。

     だが日本ではどうだろう? 日本の食料自給率は40%と試算されている。かつて自給自足の豊かな農業国だった日本は輸出産業の利権を延ばすために、外国に対して農業関税を撤廃し、自動車・機械など輸出産業の利益のために国内農業を売り渡す犯罪的政策をとってきた。これによって国内農業者は経営圧迫を受け、大半の農業が経済的に成立しなくなってしまったことにより、食料自給自足体制を崩壊させてきた。

     おまけに現在、民主党政権はTPP条約により、国内農業を完全に二度と立ち直れないほど抹殺しようとしていて、すでに農業人口老齢化や若者が継承しないノウハウ消滅により自給率は4割でなく一説によれば二割にも満たず、イラン米国戦争が始まり石油供給が絶たれるなら、機械化農業ができなくなるため自給率は1割以下に落ちるとされる。
     我々は食料の6割を輸入に依存させられてきた。TPP締結後は、それが1割となり、極悪農業独占のモンサントの支配する野菜しか買えなくなるわけだ。

     こんな状況下で、日本政府が崩壊


    これから何が起きるのか? その2

     チェルノブイリ事故では、はじめ何も起きなかった・・・・
     ソ連政府も高度汚染危険地域の住民を移住させた後、「健康には問題ない」と公表し、事故発生以来、大きな健康障害もなかった。

     近くの住民も「あの騒ぎはなんだったんだ?大丈夫じゃないか。」と笑い飛ばし、たかをくくって原発事故を忘れてしまい、普通の生活を送っていた。政府も安全と吹聴しただけで、避難以外に特段の対策もなかった。人々は普通にミルクを飲み、森に行ってキノコを採集して食べた

     5年経過。子供たちの様子がおかしい。甲状腺癌が増え始めた。
     10年経過して農作業中に突然鼻血が出始めた。白血病だ。
     15年経過して固形癌が増加。(なぜか、患者数の追跡調査はここで打ち切り。)
     20年経過してリクビダートル(原発事故処理作業員)の半分が死亡した。

     ほとんどの人たちが被曝の意味すら知らなかった。「放射能は危ない」という漠然とした知識だけはあったが、その具体的な症状、結果は誰も想像すらできなかった。放射線を扱う医師の多くも、レントゲン操作の経験からも、たいしたことは起きないと断定した。
     ICRPが原発事故による影響は外部被曝だけを問題にするよう指示したから、ソ連政府も内部被曝についてまるで無関心だった。

     事故直後から瀕死の病人や老人たちが次々に死亡したが、人々は、事故のパニック、混乱によると考え、当然と受け止めた。
     鼻血が出る人が多く、風邪がなかなか治らなくなった。皮膚病に罹る人が増えた。糖尿病に罹る人が激増した。首のリンパ節が腫れた。
     やがて人々を下痢と倦怠感が襲った。男たちが心臓病で突然死しはじめた。朝、自宅を出て数歩歩くとばったり倒れて死亡する若者が続出した。
     子供たちは集中力を欠き、成績がふるわなくなった。ぼーっとしてるだけで動かず、積極性のない子供が増え、それは大人にも増えていった。

     遠く離れた日本や韓国でも夏頃から同じ現象が起きた。それは「突然死」と呼ばれ、若者が一晩中扇風機をつけたまま寝て、朝起きたら死んでいたというものだ。
     それはチェルノブイリ事故の起きた1986年の夏以降に出現し、翌年からは報告されていない。死因の大半は「心不全」であった。
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E9%A2%A8%E6%A9%9F%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%9D%E8%AA%AC (脚注参照)

     「チェルノブイリで起きたことは福島でも起きる」
     ウクライナ医学アカデミーのコンスタンチン・ロガノフスキー氏はこう話す。

    「私がテーマにしているのは、チェルノブイリ事故によって放出された放射線が及ぼす中枢神経への影響と、被曝者のストレス、PTSD(心的外傷後ストレス 渉障害)などです。対象としているのは原発作業員、避難民、汚染地域の住民などで、とくに力を入れているのは、事故当時に胎児だったケース。いま23歳か ら25歳となっていますが、彼らが5〜6歳の頃から私はずっと追跡調査をしています」
     ロガノフスキーはチェルノブイリ原発事故のとき、まだ医学部の4年生だったが、卒業後、このセンターに就職して、以来25年間、研究を続けている。氏の妻もここで小児科医を務めていて子供の被曝について調べているという。

     チェルノブイリで起きたことと福島であったことはよく似ている。事故後、最初にヨウ素が放出され、その後セシウムやストロンチウムが検出されるという流 れもまったく同じですから。違いは福島には海があって、ここには河しかなかったことぐらいでしょう。したがってチェルノブイリ事故の後、住民や作業員に起 きたことを見ていけば、これから福島でどういうことがあるか、わかるはずなのです。

     「チェルノブイリは、広島に落とされた原爆のケースに比べれば被曝線量は低い。しかし深刻な内部被曝の被害者は多数います。甲状腺がんや神経系の病気の増加や、言語能力、分析能力の低下も見られました」

     「言語能力には脳の2つの部位が関係しています。ブローカ野とウェルニッケ野です。いずれも左脳にあります。脳の中でも最も重要な部位の一つといえるでしょう。私はここが損傷しているのではないかと考えています」

     ロガノフスキー氏らの研究チームが11歳から13歳までの被曝した子供たち100人を被曝していない子供たち50人と比較したところ、とくに左脳に変化 が生じていることがわかった。氏は「母親の胎内における被曝体験が精神疾患を引き起こしたり、認知能力の低下をもたらしたりする」と述べ、脳波の変化と知 能の低下も見られたと指摘する。

    「被曝していないグループの知能指数の平均が116に対して、被曝したグループは107。つまり10程度ぐらいの差がありました。私の妻もrural- urban(地方・都会)効果を加味した調査、つまり地方と都会の教育格差を考慮した形の調査を実施しましたが、結果は同じで被曝者のほうが同程度低かっ たのです」

     (註、米海兵隊も最大級核実験年の1962年に誕生した海兵隊員の知能調査を行ったところ、無被曝年誕生兵に比べてIQが10低いことを報告した・・・被曝国アメリカ)

     「ノルウェーは旧ソ連の国々を除くとチェルノブイリ事故の被害を最も受けた国です。この研究結果でも胎内で被曝した成人グループの言語能力は被曝していないグループに比べ低いと指摘していました」

     「長崎大学医学部の中根充文名誉教授によると、原爆生存者の中に統合失調症の患者が増えており、胎児のときに被曝した人の中でもやはり患者が増えている という。ただ中根さんはこの病と被曝が関係あるという証拠がまだないと話していました。1994年のことです。統合失調症は左脳と関連があるといわれてお り、私たちも長崎大のものと同じような内容のデータを持っています」

    ウクライナだけで20万人いろというチェルノブイリ事故の処理に当たった作業員たちの中にも、精神を病む人が出ていると、ロガノフスキー氏は言う。

    「精神障害者は少なくありません。そのなかにはうつ病、PTSDが含まれています」
    「私たちはエストニアの作業員を追跡調査しましたが、亡くなった作業員のうち20%が自殺でした。ただエストニアはとくに自殺は悪いことだとされている国なので、自殺した人間も心臓麻痺として処理されることがあり、実数はもっと多いのかもしれません」

    精神的な病に陥るのは何も作業員に限ったことではない。京都大学原子炉実験所の今中哲二助教が編纂した『チェルノブイリ事故による放射能災害』によると、 ベラルーシの専門化が調べた、同国の避難住民の精神障害罹患率は全住民のそれの2.06倍だった。また、放射能汚染地域の子供の精神障害罹患率は汚染され ていない地域の子供の2倍だったという。

     ロガノフスキー氏は被曝によって白血病やがんの患者が増えるだけでなく、脳など中枢神経もダメージを受けると考えているのだ。それは15年にわたる様々な調査・研究の成果でもある。その他にどんな影響が人体にあるのだろうか。氏は様々な病名を挙げ続けた。

    「作業員に関して言えば圧倒的に多いのはアテローム性動脈硬化症です。がんも多いのですが、心臓病や、脳卒中に代表される脳血管の病気も増えています。白内障も多い。目の血管は放射線のターゲットになりやすいからです」

    「チェルノブイリ事故の後、その影響でドイツやフィンランドでダウン症の子供が増えたという報告がありました。しかし、IAEA(国際原子力機関)や WHO(世界保健期間)はその研究に信憑性があると認めていません。ただ、私たち専門家の間ではなんらかの遺伝的な影響があると考えられています。小児科 医である私の妻はチェルノブイリ事故で被曝した人々の子供や孫を調べましたが、事故の影響を受けていない子供と比較すると、はるかに健康状態が悪いことが わかりました。つまり被曝の影響は2代目、3代目、つまり子供やその子供にも出る可能性があるということです」

    放射線の影響についてもっとはっきりしていることがある。それは「性差」で、氏によれば、「女性のほうが放射線の影響を受けやすいのだ」という。

    「それは間違いありません。うつ病、内分泌機能の不全は女性のほうがずっと多い。チェルノブイリには女性の作業員がいたが、私はそういう点からいっても女性はそういう場で作業をやるべきではないと思っています」

     では、これから福島や日本でどんなことが起こると予想できるのか。ロガノフスキー氏は慎重に言葉を選びながら、こう話した。

    「女性に関しては今後、乳がんが増えるでしょう。肺がんなどの他のがんの患者も多くなると思います。作業員では白血病になる人が増加することになるでしょ う。ただ病気によって、人によって発症の時期はまちまちです。たとえば白血病なら20年後というケースもありますが、甲状腺がんは5年後くらいでなること が多い」

    「チェルノブイリの経験から言うと、まず津波、地震、身内の死などによるPTSDを発症する人が多数いるでしょう。放射能の影響を受けるのではないかとい う恐怖心から精神的に不安定になる人も出ます。アルコール依存症になったり、暴力的になったりする人もいるかもしれません」

    「私たちにはチェルノブイリでの経験があるし、たくさんのデータも持っているので、いろいろな面で協力できると思ったのです。そこで知り合いの医師たちを集めて、キエフの日本大使館に出向きましたが、門前払いされました。
    チェルノブイリ事故が起きたとき、ソ連政府のアレンジによって、モスクワから心理学者や精神科医などからなる優秀なチームが避難所にやって来ました。彼ら は地元ウクライナのスタッフと協力して被災者のケアに当たってくれたのです。福島ではそういうことがなされているのでしょうか。

    ウクライナは裕福な国ではありませんが、チェルノブイリでの豊富な経験があります。私たちは今回、日本政府からお金をもらおうとして行動していたわけではありません。無償で協力しようとしただけなのです。拒否されるとは思わなかったので、とてもショックでした。

    ロガノフスキー氏は、日本政府の姿勢に対して不信感を持っている。それは援助を断られたからだけではない。

    「当初、発表された福島原発から漏れた放射性物質の量は実際とは違っていました。国と国の交流に大事なことは正確な情報を公開することです」

    では、日本政府が定めた「年間20ミリシーベルト、毎時3.8マイクロシーベルト」という被曝限度量については、どう考えているのか。

    「一般人は年間1ミリシーベルト、原発関連で働いている作業員は20ミリシーベルトが適性だと思います。これが国際基準です」

    つまり、日本政府の基準を鵜呑みにしては危ないと考えているのだ。さらにロガノフスキー氏は低線量の被曝でも健康被害はあると指摘する。

    「値が低ければ急性放射線症にはなりませんが、がんに罹りやすくなるなど長期的な影響はあります。そういう意味では低線量被曝も危険です」

    これが、ロガノフスキー氏が長年、行ってきた低線量被曝が健康を害するかどうかの研究の結論である。氏は「ノルウェーでも同じ結論を出した学者がいる」と話す。

    http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/loganovski.htmlnekkuresu

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     これから何が起きるのか? その2

     チェルノブイリ事故では、はじめ何も起きなかった・・・・
     ソ連政府も高度汚染危険地域の住民を移住させた後、「健康には問題ない」と公表し、事故発生以来、大きな健康障害もなかった。

     近くの住民も「あの騒ぎはなんだったんだ?大丈夫じゃないか。」と笑い飛ばし、たかをくくって原発事故を忘れてしまい、普通の生活を送っていた。政府も安全と吹聴しただけで、避難以外に特段の対策もなかった。人々は普通にミルクを飲み、森に行ってキノコを採集して食べた

     5年経過。子供たちの様子がおかしい。甲状腺癌が増え始めた。
     10年経過して農作業中に突然鼻血が出始めた。白血病だ。
     15年経過して固形癌が増加。(なぜか、患者数の追跡調査はここで打ち切り。)
     20年経過してリクビダートル(原発事故処理作業員)の半分が死亡した。

     ほとんどの人たちが被曝の意味すら知らなかった。「放射能は危ない」という漠然とした知識だけはあったが、その具体的な症状、結果は誰も想像すらできなかった。放射線を扱う医師の多くも、レントゲン操作の経験からも、たいしたことは起きないと断定した。
     ICRPが原発事故による影響は外部被曝だけを問題にするよう指示したから、ソ連政府も内部被曝についてまるで無関心だった。

     事故直後から瀕死の病人や老人たちが次々に死亡したが、人々は、事故のパニック、混乱によると考え、当然と受け止めた。
     鼻血が出る人が多く、風邪がなかなか治らなくなった。皮膚病に罹る人が増えた。糖尿病に罹る人が激増した。首のリンパ節が腫れた。
     やがて人々を下痢と倦怠感が襲った。男たちが心臓病で突然死しはじめた。朝、自宅を出て数歩歩くとばったり倒れて死亡する若者が続出した。
     子供たちは集中力を欠き、成績がふるわなくなった。ぼーっとしてるだけで動かず、積極性のない子供が増え、それは大人にも増えていった。

     遠く離れた日本や韓国でも夏頃から同じ現象が起きた。それは「突然死」と呼ばれ、若者が一晩中扇風機をつけたまま寝て、朝起きたら死んでいたというものだ。
     それはチェルノブイリ事故の起きた1986年の夏以降に出現し、翌年からは報告されていない。死因の大半は「心不全」であった。
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E9%A2%A8%E6%A9%9F%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%9D%E8%AA%AC (脚注参照)

     「チェルノブイリで起きたことは福島でも起きる」
     ウクライナ医学アカデミーのコンスタンチン・ロガノフスキー氏はこう話す。

    「私がテーマにしているのは、チェルノブイリ事故によって放出された放射線が及ぼす中枢神経への影響と、被曝者のストレス、PTSD(心的外傷後ストレス渉障害)などです。対象としているのは原発作業員、避難民、汚染地域の住民などで、とくに力を入れているのは、事故当時に胎児だったケース。いま23歳から25歳となっていますが、彼らが5〜6歳の頃から私はずっと追跡調査をしています」
     ロガノフスキーはチェルノブイリ原発事故のとき、まだ医学部の4年生だったが、卒業後、このセンターに就職して、以来25年間、研究を続けている。氏の妻もここで小児科医を務めていて子供の被曝について調べているという。

     チェルノブイリで起きたことと福島であったことはよく似ている。事故後、最初にヨウ素が放出され、その後セシウムやストロンチウムが検出されるという流れもまったく同じですから。違いは福島には海があって、ここには河しかなかったことぐらいでしょう。したがってチェルノブイリ事故の後、住民や作業員に起きたことを見ていけば、これから福島でどういうことがあるか、わかるはずなのです。

     「チェルノブイリは、広島に落とされた原爆のケースに比べれば被曝線量は低い。しかし深刻な内部被曝の被害者は多数います。甲状腺がんや神経系の病気の増加や、言語能力、分析能力の低下も見られました」

     「言語能力には脳の2つの部位が関係しています。ブローカ野とウェルニッケ野です。いずれも左脳にあります。脳の中でも最も重要な部位の一つといえるでしょう。私はここが損傷しているのではないかと考えています」

     ロガノフスキー氏らの研究チームが11歳から13歳までの被曝した子供たち100人を被曝していない子供たち50人と比較したところ、とくに左脳に変化が生じていることがわかった。氏は「母親の胎内における被曝体験が精神疾患を引き起こしたり、認知能力の低下をもたらしたりする」と述べ、脳波の変化と知能の低下も見られたと指摘する。

    「被曝していないグループの知能指数の平均が116に対して、被曝したグループは107。つまり10程度ぐらいの差がありました。私の妻もrural-urban(地方・都会)効果を加味した調査、つまり地方と都会の教育格差を考慮した形の調査を実施しましたが、結果は同じで被曝者のほうが同程度低かったのです」

     (註、米海兵隊も最大級核実験年の1962年に誕生した海兵隊員の知能調査を行ったところ、無被曝年誕生兵に比べてIQが10低いことを報告した・・・被曝国アメリカ)

     「ノルウェーは旧ソ連の国々を除くとチェルノブイリ事故の被害を最も受けた国です。この研究結果でも胎内で被曝した成人グループの言語能力は被曝していないグループに比べ低いと指摘していました」

     「長崎大学医学部の中根充文名誉教授によると、原爆生存者の中に統合失調症の患者が増えており、胎児のときに被曝した人の中でもやはり患者が増えているという。ただ中根さんはこの病と被曝が関係あるという証拠がまだないと話していました。1994年のことです。統合失調症は左脳と関連があるといわれており、私たちも長崎大のものと同じような内容のデータを持っています」

    ウクライナだけで20万人いろというチェルノブイリ事故の処理に当たった作業員たちの中にも、精神を病む人が出ていると、ロガノフスキー氏は言う。

    「精神障害者は少なくありません。そのなかにはうつ病、PTSDが含まれています」
    「私たちはエストニアの作業員を追跡調査しましたが、亡くなった作業員のうち20%が自殺でした。ただエストニアはとくに自殺は悪いことだとされている国なので、自殺した人間も心臓麻痺として処理されることがあり、実数はもっと多いのかもしれません」

    精神的な病に陥るのは何も作業員に限ったことではない。京都大学原子炉実験所の今中哲二助教が編纂した『チェルノブイリ事故による放射能災害』によると、ベラルーシの専門化が調べた、同国の避難住民の精神障害罹患率は全住民のそれの2.06倍だった。また、放射能汚染地域の子供の精神障害罹患率は汚染されていない地域の子供の2倍だったという。

     ロガノフスキー氏は被曝によって白血病やがんの患者が増えるだけでなく、脳など中枢神経もダメージを受けると考えているのだ。それは15年にわたる様々な調査・研究の成果でもある。その他にどんな影響が人体にあるのだろうか。氏は様々な病名を挙げ続けた。

    「作業員に関して言えば圧倒的に多いのはアテローム性動脈硬化症です。がんも多いのですが、心臓病や、脳卒中に代表される脳血管の病気も増えています。白内障も多い。目の血管は放射線のターゲットになりやすいからです」

    「チェルノブイリ事故の後、その影響でドイツやフィンランドでダウン症の子供が増えたという報告がありました。しかし、IAEA(国際原子力機関)やWHO(世界保健期間)はその研究に信憑性があると認めていません。ただ、私たち専門家の間ではなんらかの遺伝的な影響があると考えられています。小児科医である私の妻はチェルノブイリ事故で被曝した人々の子供や孫を調べましたが、事故の影響を受けていない子供と比較すると、はるかに健康状態が悪いことがわかりました。つまり被曝の影響は2代目、3代目、つまり子供やその子供にも出る可能性があるということです」

    放射線の影響についてもっとはっきりしていることがある。それは「性差」で、氏によれば、「女性のほうが放射線の影響を受けやすいのだ」という。

    「それは間違いありません。うつ病、内分泌機能の不全は女性のほうがずっと多い。チェルノブイリには女性の作業員がいたが、私はそういう点からいっても女性はそういう場で作業をやるべきではないと思っています」

     では、これから福島や日本でどんなことが起こると予想できるのか。ロガノフスキー氏は慎重に言葉を選びながら、こう話した。

    「女性に関しては今後、乳がんが増えるでしょう。肺がんなどの他のがんの患者も多くなると思います。作業員では白血病になる人が増加することになるでしょう。ただ病気によって、人によって発症の時期はまちまちです。たとえば白血病なら20年後というケースもありますが、甲状腺がんは5年後くらいでなることが多い」

    「チェルノブイリの経験から言うと、まず津波、地震、身内の死などによるPTSDを発症する人が多数いるでしょう。放射能の影響を受けるのではないかという恐怖心から精神的に不安定になる人も出ます。アルコール依存症になったり、暴力的になったりする人もいるかもしれません」

    「私たちにはチェルノブイリでの経験があるし、たくさんのデータも持っているので、いろいろな面で協力できると思ったのです。そこで知り合いの医師たちを集めて、キエフの日本大使館に出向きましたが、門前払いされました。
    チェルノブイリ事故が起きたとき、ソ連政府のアレンジによって、モスクワから心理学者や精神科医などからなる優秀なチームが避難所にやって来ました。彼らは地元ウクライナのスタッフと協力して被災者のケアに当たってくれたのです。福島ではそういうことがなされているのでしょうか。

    ウクライナは裕福な国ではありませんが、チェルノブイリでの豊富な経験があります。私たちは今回、日本政府からお金をもらおうとして行動していたわけではありません。無償で協力しようとしただけなのです。拒否されるとは思わなかったので、とてもショックでした。

    ロガノフスキー氏は、日本政府の姿勢に対して不信感を持っている。それは援助を断られたからだけではない。

    「当初、発表された福島原発から漏れた放射性物質の量は実際とは違っていました。国と国の交流に大事なことは正確な情報を公開することです」

    では、日本政府が定めた「年間20ミリシーベルト、毎時3.8マイクロシーベルト」という被曝限度量については、どう考えているのか。

    「一般人は年間1ミリシーベルト、原発関連で働いている作業員は20ミリシーベルトが適性だと思います。これが国際基準です」

    つまり、日本政府の基準を鵜呑みにしては危ないと考えているのだ。さらにロガノフスキー氏は低線量の被曝でも健康被害はあると指摘する。

    「値が低ければ急性放射線症にはなりませんが、がんに罹りやすくなるなど長期的な影響はあります。そういう意味では低線量被曝も危険です」

    これが、ロガノフスキー氏が長年、行ってきた低線量被曝が健康を害するかどうかの研究の結論である。氏は「ノルウェーでも同じ結論を出した学者がいる」と話す。

    http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/loganovski.html


    これから何が起きるのか? その1

     私は311フクイチ事故直後から、「みんなが想像してる千倍以上恐ろしいことが起きると言い続けてきた」
     ほんの1グラム環境に漏れても大変なことになる放射能が数トンの単位で地上に拡散したのだ。それは広島原爆を数百個も同時に爆発させたほどの凄まじい放 射能汚染が起きることを意味するのだから、政府マスコミ電力が吹聴してるような大本営発表ですむはずがなく、まさに日本民族存亡、日本国家崩壊の危機が訪 れたと考えねばならない。

     私は30年以上前から反原発運動にかかわり、長い時間をかけて世界各地の核実験の影響や放射能事故を調べ、たくさんの被曝事例を知っていた。放射能被曝 障害をデタラメに甘く考えるアホ学者も多いが、過去の被曝事件を少しでも調べれば「放射能が体にいい」などの妄言が、どれほど陳腐、無知蒙昧で唾棄すべき 愚劣な発言か誰でも理解できるはずだ。

     フクイチ・メルトダウン爆発事故で放出された放射能総量は約8トンで、ほぼチェルノブイリ事故に匹敵するものであった。ならばチェルノブイリで起きたことが、そのまま日本で再現されるのは当然のことだ。
     チェルノブイリで、いったい何が起きたのか?

     この事故で、ソ連政府も後継のロシア政府も、未だに事故による死者総数は33名と言い張っている。だが、ウソで固めたことしか言わないソ連、ロシアの公 式声明を真に受ける者は人類に皆無だろう。たぶん当のロシア政府関係者や国民の誰一人信じていない。身近に放射能による莫大な死者を見せつけられてきたは ずだから。

     国連機関を装ってはいるが実質、原子力産業の代理機関であるIAEAですら死者4000名と評価していて、これも原子力産業に乗っ取られたICRP国際 放射線防護委員会は数万名程度の死亡と評価、信頼性の高い欧州核医学研究機関ECRRは140万人の死者が出たと主張し、これを裏付けるようにウクライナ 政府の下部機関も自国だけで、すでに150万人の死者が出たと公表した。
     だが、これらの数字すら膨大な死者数の氷山の一角にすぎないのである。

     ウクライナ・ベラルーシ現地で被曝者の救援に当たってきた分子生物学者の河田昌東は、被曝が原因と認定される疾病は全体の一割にも満たないと断言している。
     これまでICRPが被曝病と認めたのは癌・白血病だけだが、実際に人が死ぬのは心臓病・脳梗塞・糖尿病・多臓器不全など多岐にわたっていて、通常の病気と区別はつきにくく被曝との因果判定は不可能であって、大半の疾病や死亡は原因不明のまま放置されると指摘している。

     ICRPの被曝評価は、内部被曝が完全に無視され、外部被曝によるガン白血病に限定された原子力産業擁護の目的に沿った政治的なものであって、実際には内部被曝の影響はICRP評価の600倍に上るというのが矢ヶ崎琉大教授ら内部被曝研究者の常識なのである。

     我々は、フクイチ事故後、チェルノブイリ救援にあたってきたドイツの女医の言葉を噛みしめる必要がある http://vogelgarten.blogspot.com/2011/10/das-leise-sterben.html

     【インタビュアー: 汚染地域で生きること言うことを、どのように想像したらいいのでしょうか?
     生きるですって? 何よりも人々は死んで行くのです。静かに死んでいきます。主に癌が原因ですが、あらゆる病気で人々は死んでいきます。ストロンチウム も大きく起因しています。例えばエネルギー交換が不可能となって心筋がやられます。ベラルーシーで行った診察は、子供達が2歳、3歳、4歳にして急性心不 全で死んで行くことを証明しています。癌だけではないのです。腎臓不全、肝不全や多くは血液製造障害が原因で人々は死んでいきます。これらは「チェルノブ イリ・エイズ」という名称で知られ、生き延びられるチャンスはほとんどありません。】

     いったい、本当の死者は、どれほどなのだろう?
     その答は、原子力産業が莫大なカネをばらまいた政府、産業界や学問界には存在しない。ただ操作されない自然な人口統計のなかにあるはずだ。放射能の影響のあった地域に起きた人口の変化だけが真実を語ってくれるはずなのである。
     ところが、ソ連政府は1986年の事故後、3年間の人口動態統計を隠してしまった。これには驚いたが、WHOの人口動態統計にソ連の3年間は空白になっている。つまり、ソ連では、統計すら廃棄せざるをえないほど恐ろしい事が起きたのである。

     しかし、何もかも焚書することもできず、漏れ伝えられた情報もいくらか残っている。そのうち人口動態を推理可能な重要なものが以下のグラフである。

    rosia

     このグラフの示すものは何か? 事故が起きた1986年から8年後の1994年に極端な平均寿命の低下が起きている。しかし、それ以前は、なだらかな右肩上がりのグラフによって順調に平均寿命が延びていることが分かる。
     この激しい凋落の理由について、ロシア関係者や御用学者たちは、91年に起きたソ連政府の崩壊を都合良く解釈し、これによって男たちが絶望しウオッカを飲み過ぎて寿命を縮めたなどとアホ臭いデタラメ解釈を公然と押しつけてきた。
     これを京大・今中哲治のような左派御用学者でさえ主張したのには本当に驚かされた。

     彼らの主張の根拠は、汚染被害の激しかったベラルーシではこうした凋落が小さいこと。1600キロと遠く離れたカザフスタンでも同じように凋落傾向があった。あんな遠くにまで放射能が飛散したはずがないというものだった。
     しかし、ベラルーシはチェルノブイリ事故で崩壊したソ連から分離独立したとはいえ、実は事故のあまりの惨禍に恐れをなしたソ連政府関係者が、独立させる ことで事故被害の後始末と補償をロシアから切り離す目的でウクライナとベラルーシを傀儡政権によって独立させたことが常識なのであって、とりわけベラルー シは利権官僚が傀儡独裁政権を結成してチェルノブイリ被害を含む統計データを捏造してきたことが広く知られている。
     またカザフスタンが1600キロ離れて被曝がなかったというのも、とんでもない詭弁であって、同じくらい遠いトルコも激しい汚染に見舞われ、たくさんの 被曝死者を出しているし、ヨウ素・セシウム汚染は遠く地中海沿岸諸国や日本や北米でさえ驚くほどの濃度が検出されてきたののである。
     ましてカザフスタンはソ連の核実験場として有名で、中国のゴビ核実験場にも近く、被曝の影響を多重に受けて相乗作用が働いている可能性を容易に想像しうるはずだ。
     また、フクイチ事故の放射能が1万キロも離れた北米大陸を汚染し、アメリカの著名医学雑誌が1万4千名の死者が出たと正式論文を掲載しているのである。
    http://www.prnewswire.com/news-releases/medical-journal-article--14000-us-deaths-tied-to-fukushima-reactor-disaster-fallout-135859288.html

     1万キロ離れたアメリカで、わずか数ヶ月のうちに14000名の被曝死者が出たことが事実なら、日本では、いったいどれほどの人々がすでに死亡し、これから死亡するというのだろう?

     これを、上のロシア平均寿命グラフから大ざっぱに推測してみよう。

     本来ならOECD諸国平均の順調な右肩上がりグラフがロシアにおいても期待されるはずであった。ところが94年、女性で74歳だった期待水準に比べて71歳、3歳も低下し、男性も65歳より57歳になって8年も低下していて、平均8%低下を意味していると考えられよう。
     ロシアの人口が1.5億人だったので、1.5億×8%=1200万人 が実質的に寿命を失ったことになる。しかも、これは94年だけの話だ。事故以来の 毎年の期待寿命からの乖離を積み重ねれば実に恐ろしい数字が出てくる。これはチェルノブイリ事故の、期待される寿命に対する失われた余命、延べ総死者数が ロシアだけで数千万人に迫る可能性を意味するのではないか?
     この厳密な計算は難しいが、読者には直感的に判断願う。これが酒を飲み過ぎたせいだと? バカも休み休み言え!

     私は、これと同じことが、これから日本で起きると主張してきたのだ!
     これから、恐ろしい数の人々が死んでゆく。仮に日本人の寿命が1割低下したとすれば、期待される余命を人口に換算するなら、やはり数千万の単位になる。放射能が飛散した全世界で失われた命の総数は、おそらく億に達するであろう。
     事故後25年を経たベラルーシの現状は凄まじいものだ。生まれてくる子供のうち、健全な者は20%しかいない。それも見かけだけの話で、多くは知的低下を来している。
     日本も必ず同じようになるはずだ。まともに生まれてくる子供たちは、ごく一部にすぎない。そして大半の子供が知能低下を来すはずだ。
     広島長崎の被曝データを検証した米軍ABCCの後継機関である放射線影響研究所は、さらに恐怖のデータを示している。
     http://www.rerf.or.jp/radefx/uteroexp/physment.html

     それは、胎児で5ミリグレイ(≒シーベルト)被曝した場合、4.4%が重度知的障害児として誕生するというものだ。たぶん、半数以上が軽度の知能低下を来すだろう。
     1962年核実験の影響を調査した米海兵隊の統計では、62年生まれのIQが無被曝年度兵に比較して10以上低かったと「被曝国アメリカ」という本に記載されている。

     福島周辺、おそらく東京都内ですら、3月の妊婦の被曝量はミリシーベルトの単位に達していたはずだ。稼働原発事故の初期は莫大な短寿命核種で汚染されるからだ。日本政府が放射線測定を始めたのは、そうした短寿命核種が消えた4月以降のことであった。
     これも政府関係者があまりの凄まじい線量と被曝を隠蔽する目的で意図的に計測しなかったことは明白だ。
     したがって、これから真の地獄が認識されるようになる。知的障害は出生直後には分からない。数年してはじめて分かるものだからだ。

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     これから何が起きるのか? その1

     私は311フクイチ事故直後から、「みんなが想像してる千倍以上恐ろしいことが起きると言い続けてきた」
     ほんの1グラム環境に漏れても大変なことになる放射能が数トンの単位で地上に拡散したのだ。それは広島原爆を数百個も同時に爆発させたほどの凄まじい放射能汚染が起きることを意味するのだから、政府マスコミ電力が吹聴してるような大本営発表ですむはずがなく、まさに日本民族存亡、日本国家崩壊の危機が訪れたと考えねばならない。

     私は30年以上前から反原発運動にかかわり、長い時間をかけて世界各地の核実験の影響や放射能事故を調べ、たくさんの被曝事例を知っていた。放射能被曝障害をデタラメに甘く考えるアホ学者も多いが、過去の被曝事件を少しでも調べれば「放射能が体にいい」などの妄言が、どれほど陳腐、無知蒙昧で唾棄すべき愚劣な発言か誰でも理解できるはずだ。

     フクイチ・メルトダウン爆発事故で放出された放射能総量は約8トンで、ほぼチェルノブイリ事故に匹敵するものであった。ならばチェルノブイリで起きたことが、そのまま日本で再現されるのは当然のことだ。
     チェルノブイリで、いったい何が起きたのか?

     この事故で、ソ連政府も後継のロシア政府も、未だに事故による死者総数は33名と言い張っている。だが、ウソで固めたことしか言わないソ連、ロシアの公式声明を真に受ける者は人類に皆無だろう。たぶん当のロシア政府関係者や国民の誰一人信じていない。身近に放射能による莫大な死者を見せつけられてきたはずだから。

     国連機関を装ってはいるが実質、原子力産業の代理機関であるIAEAですら死者4000名と評価していて、これも原子力産業に乗っ取られたICRP国際放射線防護委員会は数万名程度の死亡と評価、信頼性の高い欧州核医学研究機関ECRRは140万人の死者が出たと主張し、これを裏付けるようにウクライナ政府の下部機関も自国だけで、すでに150万人の死者が出たと公表した。
     だが、これらの数字すら膨大な死者数の氷山の一角にすぎないのである。

     ウクライナ・ベラルーシ現地で被曝者の救援に当たってきた分子生物学者の河田昌東は、被曝が原因と認定される疾病は全体の一割にも満たないと断言している。
     これまでICRPが被曝病と認めたのは癌・白血病だけだが、実際に人が死ぬのは心臓病・脳梗塞・糖尿病・多臓器不全など多岐にわたっていて、通常の病気と区別はつきにくく被曝との因果判定は不可能であって、大半の疾病や死亡は原因不明のまま放置されると指摘している。

     ICRPの被曝評価は、内部被曝が完全に無視され、外部被曝によるガン白血病に限定された原子力産業擁護の目的に沿った政治的なものであって、実際には内部被曝の影響はICRP評価の600倍に上るというのが矢ヶ崎琉大教授ら内部被曝研究者の常識なのである。

     我々は、フクイチ事故後、チェルノブイリ救援にあたってきたドイツの女医の言葉を噛みしめる必要がある http://vogelgarten.blogspot.com/2011/10/das-leise-sterben.html

     【インタビュアー: 汚染地域で生きること言うことを、どのように想像したらいいのでしょうか?
     生きるですって? 何よりも人々は死んで行くのです。静かに死んでいきます。主に癌が原因ですが、あらゆる病気で人々は死んでいきます。ストロンチウムも大きく起因しています。例えばエネルギー交換が不可能となって心筋がやられます。ベラルーシーで行った診察は、子供達が2歳、3歳、4歳にして急性心不全で死んで行くことを証明しています。癌だけではないのです。腎臓不全、肝不全や多くは血液製造障害が原因で人々は死んでいきます。これらは「チェルノブイリ・エイズ」という名称で知られ、生き延びられるチャンスはほとんどありません。】

     いったい、本当の死者は、どれほどなのだろう?
     その答は、原子力産業が莫大なカネをばらまいた政府、産業界や学問界には存在しない。ただ操作されない自然な人口統計のなかにあるはずだ。放射能の影響のあった地域に起きた人口の変化だけが真実を語ってくれるはずなのである。
     ところが、ソ連政府は1986年の事故後、3年間の人口動態統計を隠してしまった。これには驚いたが、WHOの人口動態統計にソ連の3年間は空白になっている。つまり、ソ連では、統計すら廃棄せざるをえないほど恐ろしい事が起きたのである。

     しかし、何もかも焚書することもできず、漏れ伝えられた情報もいくらか残っている。そのうち人口動態を推理可能な重要なものが以下のグラフである。


     このグラフの示すものは何か? 事故が起きた1986年から8年後の1994年に極端な平均寿命の低下が起きている。しかし、それ以前は、なだらかな右肩上がりのグラフによって順調に平均寿命が延びていることが分かる。
     この激しい凋落の理由について、ロシア関係者や御用学者たちは、91年に起きたソ連政府の崩壊を都合良く解釈し、これによって男たちが絶望しウオッカを飲み過ぎて寿命を縮めたなどとアホ臭いデタラメ解釈を公然と押しつけてきた。
     これを京大・今中哲治のような左派御用学者でさえ主張したのには本当に驚かされた。

     彼らの主張の根拠は、汚染被害の激しかったベラルーシではこうした凋落が小さいこと。1600キロと遠く離れたカザフスタンでも同じように凋落傾向があった。あんな遠くにまで放射能が飛散したはずがないというものだった。
     しかし、ベラルーシはチェルノブイリ事故で崩壊したソ連から分離独立したとはいえ、実は事故のあまりの惨禍に恐れをなしたソ連政府関係者が、独立させることで事故被害の後始末と補償をロシアから切り離す目的でウクライナとベラルーシを傀儡政権によって独立させたことが常識なのであって、とりわけベラルーシは利権官僚が傀儡独裁政権を結成してチェルノブイリ被害を含む統計データを捏造してきたことが広く知られている。
     またカザフスタンが1600キロ離れて被曝がなかったというのも、とんでもない詭弁であって、同じくらい遠いトルコも激しい汚染に見舞われ、たくさんの被曝死者を出しているし、ヨウ素・セシウム汚染は遠く地中海沿岸諸国や日本や北米でさえ驚くほどの濃度が検出されてきたののである。
     ましてカザフスタンはソ連の核実験場として有名で、中国のゴビ核実験場にも近く、被曝の影響を多重に受けて相乗作用が働いている可能性を容易に想像しうるはずだ。
     また、フクイチ事故の放射能が1万キロも離れた北米大陸を汚染し、アメリカの著名医学雑誌が1万4千名の死者が出たと正式論文を掲載しているのである。
    http://www.prnewswire.com/news-releases/medical-journal-article--14000-us-deaths-tied-to-fukushima-reactor-disaster-fallout-135859288.html

     1万キロ離れたアメリカで、わずか数ヶ月のうちに14000名の被曝死者が出たことが事実なら、日本では、いったいどれほどの人々がすでに死亡し、これから死亡するというのだろう?

     これを、上のロシア平均寿命グラフから大ざっぱに推測してみよう。

     本来ならOECD諸国平均の順調な右肩上がりグラフがロシアにおいても期待されるはずであった。ところが94年、女性で74歳だった期待水準に比べて71歳、3歳も低下し、男性も65歳より57歳になって8年も低下していて、平均8%低下を意味していると考えられよう。
     ロシアの人口が1.5億人だったので、1.5億×8%=1200万人 が実質的に寿命を失ったことになる。しかも、これは94年だけの話だ。事故以来の毎年の期待寿命からの乖離を積み重ねれば実に恐ろしい数字が出てくる。これはチェルノブイリ事故の、期待される寿命に対する失われた余命、延べ総死者数がロシアだけで数千万人に迫る可能性を意味するのではないか?
     この厳密な計算は難しいが、読者には直感的に判断願う。これが酒を飲み過ぎたせいだと? バカも休み休み言え!

     私は、これと同じことが、これから日本で起きると主張してきたのだ!
     これから、恐ろしい数の人々が死んでゆく。仮に日本人の寿命が1割低下したとすれば、期待される余命を人口に換算するなら、やはり数千万の単位になる。放射能が飛散した全世界で失われた命の総数は、おそらく億に達するであろう。
     事故後25年を経たベラルーシの現状は凄まじいものだ。生まれてくる子供のうち、健全な者は20%しかいない。それも見かけだけの話で、多くは知的低下を来している。
     日本も必ず同じようになるはずだ。まともに生まれてくる子供たちは、ごく一部にすぎない。そして大半の子供が知能低下を来すはずだ。
     広島長崎の被曝データを検証した米軍ABCCの後継機関である放射線影響研究所は、さらに恐怖のデータを示している。
     http://www.rerf.or.jp/radefx/uteroexp/physment.html

     それは、胎児で5ミリグレイ(≒シーベルト)被曝した場合、4.4%が重度知的障害児として誕生するというものだ。たぶん、半数以上が軽度の知能低下を来すだろう。
     1962年核実験の影響を調査した米海兵隊の統計では、62年生まれのIQが無被曝年度兵に比較して10以上低かったと「被曝国アメリカ」という本に記載されている。

     福島周辺、おそらく東京都内ですら、3月の妊婦の被曝量はミリシーベルトの単位に達していたはずだ。稼働原発事故の初期は莫大な短寿命核種で汚染されるからだ。日本政府が放射線測定を始めたのは、そうした短寿命核種が消えた4月以降のことであった。
     これも政府関係者があまりの凄まじい線量と被曝を隠蔽する目的で意図的に計測しなかったことは明白だ。
     したがって、これから真の地獄が認識されるようになる。知的障害は出生直後には分からない。数年してはじめて分かるものだからだ。

     


    tiken ほとんどの人は、自分ではなく他人を見て生きている。
     一人一人が自己・自我を確立し、哲学と方法をもって、世界を分析しながら論理的に行動しているわけでは決してない。ただ、周囲を見渡しながら、「この人に従った方が良さそうだ」と思う人を見つけ、それを真似することで安心し、時間を過ごすというのが普通の人生なのである。
    .
     それゆえ、99%の人生は牧場の家畜たちと変わらない。群れのリーダーに付随して右往左往しながら生きているのであって、依存する他者に付和雷同して動くことしかできない。
     だが、わずか1%にも満たない人たちだけが、自分と周囲を見つめて対象を分析し、もっとも適切な行動を行おうとするのである。
    .
     こんな社会における「民主主義」など、しょせんタテマエだけの虚構にすぎない。それは決して全員参加型の民主主義ではなく、帰属する集団、「群れ」の集合社会なのであって、その本質は、群れのボスによる寡頭政治といえるだろう。
     我々の大半は、管理された「人間牧場」に帰属し、生かされているという現実に気づかねばならない。
     その最小単位は家族であり、最大単位が国家である。中間に、学校や企業や、宗教団体やら、さまざまの組織・結社・集団が存在しているわけだ。
    .
     天は、すべての人に等価の能力を与えていない。社会には、それを牽引する少数の人々が存在してきていたのであって、歴史上、民主主義が理屈どおりに機能した事例など存在しないのである。
     人々を吸着牽引し、帰属せしめる人たちを「オピニオンリーダー」と呼んでいる。社会が、どのような方向に進んでゆくのか? それは、彼らのリーダーシップにかかっている。
     筆者の青春時代、40年前の思想的オピニオンリーダーを思い出してみると、本田勝一・小田実・井上ひさし・大江健三郎・羽仁五郎など実に多士済々、素晴らしい人材が揃っていた。
     政治家でも、田中角栄を筆頭に、佐々木更三・飛鳥田一雄など包容力と実行力を兼ね備えた凄みのある人材が目白押しだった。
    .
     現在は? と考えれば、明らかに社会を領導していると言える大容量のカリスマ、オピニオンリーダーは、すでに絶えて久しい。芸能界ですら、美空ひばりのような超カリスマは消えて、金儲けのために企業によって作り出され、設計され、演出された矮小な人材しか登場していない。
     とりわけ左翼勢力がひどい。社会党は村山富一以下が権力欲しさに自民党に野合した結果、思想もリーダーも自滅して消えた。市民運動界も、最期のリーダーだった市川房枝が消えてから、それらしい有力な政治的リーダーが出てこない。
     民主党が自滅しているのも、絶対的カリスマリーダーが不在だからで、それは強固な哲学に裏打ちされた、断固たる意志が成立していないことの証左であり、アンチテーゼしか存在しない軟弱な思想性では、歴史の波間に浸食されて消えゆく砂楼の運命が待つばかりだ。
    .
     だが、突出したカリスマに頼るという時代が終わったのも事実だ。
     我々の社会が「真の民主主義」を獲得するためには、求めるべき未来を感じ取り、隅々までしっかりとビジョンを思い描いた無数のオピニオンリーダーを輩出し、全員が確固たる主体性を確立し、いつでも誰でもリーダーとして機能する、等価な人間性を獲得しなければならないのである。
    .
     だが、現実を見るなら、恵まれた青春によって醸成された利己主義しか知らない人たちに満ちた今の社会では、そんな希望は絶望的だ。
     今、我々には惨めな政治的敗北感に加えて、苛酷な苦難の洗礼が必要なのだ。やがて来るにちがいない世界的暴風雨の地獄を超えた未来に希望を托すしかない。きっと、恐ろしいほどの苦難が一人一人の人間を鍛え、新たな素晴らしいリーダーたちを無数に産み出してくれるだろう。
    .
     第二次世界大戦、戦争の残酷、凄まじい苦難の鮮明な記憶が風化し、その体験者が消えゆき、世界が金融資本主導によるゼロサムゲーム(誰かがトクすれば誰かがソンする)時代に入ったのが1980年代末であった。
     かつて貧しかった大衆も、我先に投機ゲームに走り、目先の金儲けに無我夢中になってゆき、「良き人生」、「正義」を示すべきリーダーたちも、その存在理由を失っていった。
     リーダーたちに、「残酷な戦争を再発させてはならない」という苦悩体験から導かれた強烈なモチベーションが失われてしまったのだ。それが「戦後」の終焉であった。
    .
     代わりにやってきたのは、他人を蹴落として、自分だけの有利を求める卑劣、姑息、愚劣な出し抜きゲーム、見栄張り合戦、金儲け競争であった。
     それは、あらゆる責任を他人に押しつけ、こそこそと影に隠れて利己的金儲けに走る矮小な人間性を再生産するものであり、およそ正義のリーダーシップを排除し、死滅させるものでしかなかった。
     そうして、日本社会から「正義」が見失われていったのである。
    .
     だが、一方で、利己主義の鬩ぎあいのなかで、「誇り高き日本」という虚構に酔い痴れる「国家主義者」、右翼的ナショナリストだけが元気に登場していた。
     これは、同時期にフリーメーソン・イルミナティグループによる世界規模での「新自由主義経済運動」が展開され、金と権力の再編が進んだことによるもので、「世界金権運動」とでもいうべきだろう。
    .
     そもそも、明治日本国家の成立以来、武家封建社会における愛藩主義の延長上で「国家主義ナショナリズム」を扇動する輩が日本政財界の主流を占め続けてきた。
     とりわけ明治政府において腐敗した極悪右翼リーダーとして登場したのが山県有朋・井上馨であり、彼らこそ警察管理国家の創立者であった。
     大正時代に入って、それを受け継いだ正力松太郎が昭和時代に至るまで権力の黒幕として君臨した。彼は、戦後もなおアメリカのCIAスパイを受任し、あらゆる反権力、社会運動を残酷に弾圧し続けた。
     それは、さらに岸信介・中曽根康弘と受け継がれ、仕上げは小泉・竹中であった。
     太平洋戦争前には陸軍統制派の暴走を導いた北一輝や石原完爾もいたが、まだ彼らには純粋な正義感が残り、正力や岸、児玉ほどの狡猾、悪質、残酷さはなかった。
     我々は戦後史を語る上で、関東軍731部隊と、児玉誉士夫・岸信介・笹川良一そして正力松太郎の名前を決して忘れてはいけない!
     彼らこそ、戦後史を構築した闇の極悪リーダーであり、今現在、日本に生きている我々に、権力の死霊として覆い被さり、未だに日本人民を迫害し続けている大悪霊なのである。
    .
     戦後史を終わらせるということは、これらの悪霊と中曽根・小泉・竹中の「新自由主義組」を死滅させることをもってしかなしえない。
     彼らのリーダーシップが、日本国家の隅々に、とりわけ権力機構に巣くって増殖し、日本の正義を食い尽くさんとしている現実を見よ!
     それはネット社会に拡散し、在日朝鮮人や被差別者、女性子供の弱者を踏みつぶして差別を拡大し、民衆をありえないような微罪で弾圧し、警察力で抑えつけ、日本を「新自由主義」の警察国家、奴隷社会に変えようとしている。
    .
     その住処はどこか? 悪党どもの根拠地は? それは検察庁である。さらにいえば、東京大学法学部卒という学閥である。彼らのアイデンティティは徹底した選民優越感でしかないのだ。
    .
     1980年代、中曽根康弘政権時代、基盤の薄い少数派だった中曽根は資金や選挙運動員に困窮し、正力松太郎グループ、児玉・笹川そして統一教会、文鮮明の主宰する国際勝共連合(今の日本会議)に援助を求めた。
     この結果、中曽根派は、統一教会から大量の運動員(原理研学生)と選挙資金を確保し、選挙にも大勝した。その見返りとして、統一教会から議員秘書を受け入れ、さらに原理研学生を日本政府キャリア官僚として、大量に送り込むことになった。
     彼らの行先は、防衛・司法・教育分野だったといわれる。それから30年近くを経て、当時、キャリア採用された原理学生が、防衛・司法官僚の中核に位置することになった。
     今のところ、誰が原理研出身だったのか隠蔽されていて、裁判長や検事のなかに多くの統一協会員が巣くっているはずと推量するしかないが、やがて、そうしたデータも入手できるだろう。そのときは、彼らの陰惨な正体を徹底的に暴いてやりたい。
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     こうした流れのなかで、検察庁に巣くった反共勢力が、政治的意図をもって牙を剥いたのが、小沢・鳩山に対する微罪弾圧を含めた民主党への攻撃であった。
     彼らのリーダーシップが、今や日本の悪性肉腫となり、自由な人間性の解放された社会を破滅に導こうとしていることを知る必要がある。
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     そもそも、検察庁の人脈は、徹底した選民意識に貫かれ、「末は博士か大臣か」の立身出世価値観を共有するエリート意識をアイデンティティとして連帯してきた。
     彼らの価値観は、「東大法学部出身者」が「この世で一番エライ」のであって、エリートが日本社会を定め、支配する構造だけが正しい選択であり、秩序である。これを破る者は権力をもって絶対に許さない・・・・というものであった。
     こうした学歴エリート、特権意識こそ、監督者のいない唯一の官僚部署、暴走を止める仕組みのない絶対権力者である検察の唯一のリーダーシップである。
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     このため、東大を出ていないばかりか、まともに高校すら行っていない田中角栄が宰相になるなど、日本における天地神明秩序を根底から破壊する大罪であって、断じて許すべからずという強烈な排斥意識を共有していたことから、あらゆる手段を使って、田中を冤罪に貶め、社会から排除する強烈な執念をもって追い落とし弾圧を行ったことが知られている。
     その結果がどうなったかは周知であり、田中は戦後もっとも有能な実力者政治家であったにもかかわらず、煮えくりかえるような怨念のなかに憤死するしかなかった。
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     実は、同じ構図の疑獄事件として中曽根康弘もまたロッキード・全日空・リクルート・かんぽの宿疑惑などに関与しており、その罪状は田中角栄の比ではなかったが、中曽根は東大法学部出身であり、検察の連帯するエリート集団の親分であって、これは、もちろん罪に問うはずがなかった。
     検察は証拠をすべて隠滅し、事件を完全にもみ消してみせた。この二人の差は、東大法学部というアイデンティティによるものでしかなかった。
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     同じ構図で、自分たちの価値観秩序を破壊する、いかなる勢力も、検察は断じて許すことができないのである。
     自民党の自滅により、民主党政権が成立するとともに、検察は民主党の官僚特権に対する介入を決して許すことができなかった。自分たち検察の牙城に指一本触れさせないと強固な意志を示した。
     戦後検察体制の成立以来続けてきた裏金利権問題を告発しようとした、身内の検察官、三井環でさえ罠に填め、冤罪に陥れて投獄したほどの、マフィア犯罪集団である検察にとって、彼らの既得権を侵害する勢力を認めることなどありえなかった。
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     その対象は、トップである小沢と鳩山に向けられた。小沢の資金管理団体、陸山会が土地を取得し、代金として3億4260万円を支出しているのに、そのことが同年の政治資金収支報告書に記載されておらず、翌17年の報告書に書いてあるという、たったそれだけのことで、小沢を逮捕し起訴しようとした。
     実行犯は当時小沢の秘書だった石川議員だ。小沢は石川と共謀して収支報告書に虚偽記載をさせた共犯者であるという疑いで起訴しようとし、検察トップから無理筋であると窘められると、今度は検察審査会を利用して、強引に起訴に持ち込もうとしている。
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     検察は事件にさえならない起訴理由を粉飾するため、陸山会資金に「水谷建設から受け取った5000万円のヤミ献金が含まれていたのではないか」という疑惑をでっちあげ、マスコミにリークし続けた。だが、検察特捜部が総力を挙げて、水谷建設や小沢サイドを捜索しても、ヤミ献金はおろか、不正資金のカケラも見つからなかった。
     これで検察のメンツが丸つぶれになった。このままでは「優秀と認められるべき」検察の権威が地に堕ちる。そこで、あの手この手で民主党全体に弾圧を拡張しているのが今の情勢である。
     字数制限で次回

     

    sikei 







      「人が人を殺してはいけない」 このことは、人が人として生きるための原点であって、この意志・倫理を失って人類が存続することは不可能である。
     他人とのつきあいは、「殺るか、殺られるか」であってはいけない。人殺しを認める社会は、人殺しによって破滅することを過去の歴史が示している。
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     大虐殺を行った政権で無事に続いた例はないのだ。中国共産党は、おそらく、これから、有史以来最大最悪の呪われた恐怖を見せるだろう。
     死刑制度を存続させてきた、すべての国家に恐ろしい呪いがかけられている。そこでは国民が死刑制度に縛られて、悲惨と残酷に支配されているのだ。
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     筆者は、今、日本国民が、かつて想像もできなかった差別と苦難、家畜化社会に苦しんでいる原因は、9割が死刑制度を支持していることによる因果応報であると確信している。
     この世は、人に対して示した姿勢が、100%自分に還ってくる仕組みが作用しているのだ。 人を大切にする社会では自分が大切にされる。だが、人の命を虫けらのように扱う社会では、自分の運命もまた虫けらのように扱われるのである。
    「悪いことをやったのだから殺されても仕方ない」 こう思いこんでいる日本人が9割だという。反対派は、たったの6%だ。
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     【2010年2月6日毎日より: 内閣府は6日、死刑制度に関する世論調査の結果を発表した。死刑を容認する回答は85.6%と過去最高に上り、廃止論は5.7%にとどまった。被害者・家族の気持ちがおさまらないとの理由が前回調査より増えており、被害感情を考慮した厳罰論が高まっていることが背景にあるとみられる。
     死刑を容認する理由(複数回答)は「死刑を廃止すれば被害を受けた人や家族の気持ちがおさまらない」が54.1%で前回比3.4ポイント増。「命をもって償うべきだ」(53.2%)、「死刑を廃止すれば凶悪犯罪が増える」(51.5%)はそれぞれ微減だった。
     一方、廃止の理由(同)は、「生きて償ったほうが良い」55.9%、「裁判で誤りがあった時に取り返しがつかない」43.2%、「国家であっても人を殺すことは許されない」42.3%など。】
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     死刑制度を支持する人たちが共通して主張することは、「殺された被害者の思いに配慮しろ」という姿勢である。
     だが、その「被害者」は、すでに殺された本人ではなく、「身内」と称する代弁者にすぎないことに注意すべきだ。十分な補償金が手に入れば、いつのまにか消えてしまう胡散臭い「感情」なるものが死刑を支持している理由である。殺された本人が、本当は何を望んでいるのか? それを知る者はいない。
     想像されただけの「被害者感情」、「身内」と司法が勝手に推量し、報復・制裁が必要だと決めつけている。
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     筆者らの若い時代、今から30〜40年前を思い出してみると、「被害者感情」などと復讐を錦の御旗にするような議論は、理性を見失った未熟、愚劣な俗論として厳しく批判されていた。
     「思い、感情」など、主観的、恣意的なものであり、具体的に計量できるものでもなく、それは儚く通り過ぎ、劣化し、風化してゆく景観であり、いわば生鮮食品の味覚のようなものなのだ。
     そんないい加減なもので国家の施政が定まっては適わない。法治国家とは、人民の幸福な未来を見据えて、確固たる理性の視点に貫かれていなければならないはずだ。
     大切な視点は、仇討ちのように加害者に復讐することでなく、単に制裁処罰することで一件落着するものでもなく、どうしたら同じ過ちを繰り返さず、社会の安全を確保し、子供たちの未来を明るく変えてゆくかという姿勢のはずだ。
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     あの当時、我々は、まだ人間連帯への熱烈な希望があった。
     人が幸福に過ごすために、どうしたらよいか? 利他思想に満ちた議論に熱中した。そうして、人類全体の正義・幸福を求めて、我々はベトナムに侵略し、人民を苦難に陥れたアメリカに怒り、激しく抗議の意志を表して行動した。
     筆者も、ベトナム反戦運動の渦中に逮捕されたが、それは正義に殉ずる満足であり、かけがえのない勲章であった。
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     正義こそ最高の価値であり、正義に殉じて死を得ることこそ最高の人生であった。「正義のために生きる」このプライドに、我々は魅了され続けた。
     月光仮面やあしたのジョー、ウルトラマンの時代であった。人生は正義だと・・・・。
     「死刑制度に正義はあるのか?」
     「ない!」 社会は明確に答えていた。
     それゆえ、自民党・法務局は、「犯罪者の脳には先天的欠陥があり、悪を行った者は抹殺する必要がある」という信じがたい詭弁を弄し、宣伝していたのである。この論拠は、731部隊出身者であった東大医学部のロボトミー推進者、台弘教授が持ち出した虚構であった。これがヤツラの死刑維持の根拠、最期の屁理屈であった。
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     当時、ベトナム反戦・人間解放の市民運動を通じて、さまざまな社会矛盾の原因を解き明かし、どうしたら時代を前進させ、問題を合理的に解決できるか? という視点が議論される風潮があった。
     ここで江戸時代の仇討ちを正当化させるような「被害者感情」など言おうものなら、たちどころに「ナンセンス!」と罵倒されるのがオチだった。
     社会全体が、合理性を信奉し、より良いものへの進化を熱く求めた1970年代、それが突如、180度方向転換したのは1982年、自民党・中曽根康弘政権が成立してからであった。
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     大悪魔、正力松太郎の後継者と自他共に認じた中曽根康弘は、戦後、歴代自民党政権のなかで、貧富の格差を徹底的に拡大し、固定する「新自由主義」(新保守主義)を強硬に推進した最初にして最大の政権であり、レーガンの盟友として、まさに世界特権階級・エスタブリッシュメントの強力な代弁者であった。
     現在、我々が目撃している、子供たちのイジメ、オチコボレや、凄まじい格差貧困社会を構築し、底辺の大衆からあらゆる権利を奪い、人間性を矮小化に貶め、生存権すら金儲けによって奪い去ろうとする政治的潮流を日本に持ち込んだのは、まさしく中曽根康弘その人である。
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     また、統一教会・文鮮明が拠所としたのも、この新自由主義であり、金大中・盧武鉉・レーガン・クリントン・中曽根・小泉・安倍政権など、新自由主義政策を基幹とする政権に莫大な資金援助を与え、かつ選挙などでも手足となって支援してきた。
     このことは、今起きている社会的問題の原因を探る上で非常に重要なので、読者にはぜひ記憶していただきたい。「新自由主義」 「世界金融資本」 「グローバルスタンダード」 「警察国家」 「死刑制度」 「統一教会」 が同じ根の上に咲いた徒花であるということを。
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     「新自由主義」とは、文化・道徳観における「思想的自由主義」に対して、「経済的自由主義」を主張するものであり、その主役、推進役は、世界を投機の嵐に巻き込んだ国際金融資本であった。
     それは、彼らの無制限の金儲けを正当化するため、各国に「グローバルスタンダード」という名で、あらゆる規制を撤廃させ、どんな汚い投機でも受け入れさせるように押しつけた投資基準であった。
     世界に市場原理による金儲けの自由だけを基準にするよう求めた「新保守主義」という呼び方もされる。
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     その中味は、小さな政府推進、福祉・公共サービスの廃止縮小、公営事業の廃止・民営化、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などをパッケージとするものであった。
     日本ではレーガン・中曽根政権時代から、アメリカ政府の意向として「新自由主義社会」を実現するための改革要求が行われ、1993年、クリントン・宮沢会談によって正式に年次改革要望書として出発し、これまで、毎年、自民党政府に対して、アメリカと金融資本の意向を強要するものとなっていた。
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     それをアメリカの愛犬ポチたる自民党政権、とりわけ小泉純一郎・竹中平蔵内閣が、全面的に受け入れ、日本を「警察管理国家」と「金融投機立国」とする劇的な政治改革(改悪)を実現したのである。
     ちなみに、その中核であった竹中平蔵は、未解放部落出身ながらロックフェラー財団の援助を受けてハーバード大学に進み、ロックフェラーの利益に奉仕するためのサイボーグ改造を受けた人物であった。
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     アメリカによる年次改革要求に従って、「新自由主義」のさまざまな金融規制撤廃、「金融投機立国」、微罪でも投獄し、国民を恐怖支配するための苛酷法治社会、警察国家への改革が次々に行われた。
     当ブログ「警察国家への道」で取り上げてきた、児童ポルノ規制苛酷化法案、軽犯罪法の治安維持法的運用、犯罪に何の役にも立たない刃物や工具を取り上げる強硬な規制、死刑制度の苛酷運用、微罪による長期拘留弾圧など、ほとんどの異常な刑罰苛酷化、そして裁判員制度のもたらしている復讐制裁型社会などは、すべて、アメリカの要求を実現したものであり、まさに「新自由主義思想」によるものなのである。
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     こうした警察管理社会、国民が復讐制裁思想による法治を要求する恐るべき愚民社会こそ、社会を背後で支配する国際金融資本、その正体はフリーメーソン・イルミナティ、すなわち世界の特権階級にとって、民衆を家畜として管理支配するために周到に準備してきた成果であった。
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     ほとんどの人は、フリーメーソン・イルミナティと言ってもピンとこないであろう。それは世界を経済的に支配する大金持ちたちの秘密結社として知られたもので、表向き33階級に別れた差別的ピラミッドによって成立し、最高位に、世界の富の9割を保有するといわれるロスチャイルドやロックフェラーたちが君臨している。
     その運営は、「ビルダーバーグ会議」によって行われ、「ダボス会議」や「サミット」を通じて世界のフリーメーソン政権に拡散される。
     もちろん鳩山由起夫首相も祖父の代からの日本最高位に近いフリーメーソンの会員であって、彼らの意向を実現するために首相に選任されたのであって、日本人が選挙で選んだというのは幻想にすぎない。
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     彼らの真の正体は、3000年以上前から続く、旧約聖書を信奉するユダヤ悪魔教徒だといわれるが、筆者も薄々程度にしか知らない。
     ただ、はっきりしていることは、世界にある資産の大部分を彼らが所有し、大部分の国家を背後で支配し、自分たちの特権的地位を永続的に築くための活動を連綿と続けてきた秘密結社ということだ。
     そして、彼らユダヤ教徒の教典である「タルムード」に、自分たちだけが人間であって、ユダヤ以外の世界人民は、彼らに奉仕するためのゴイム(家畜)であると明確に記載され、世界人民を家畜として利用し、支配する人間社会の根源的システムを彼らが営々と築き続けてきたという事実である。
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     「新自由主義」とは、まさに彼らユダヤ教徒、タルムード信奉者によって作り出されたシステムであり、世界のすべての財産を彼らに集中するためのシステムであり、世界のすべての政府に、死刑制度、苛酷刑罰と警察管理国家をもたらし、そうして背後で、彼らが人民の生血を吸い続ける絶対的メカニズムを構築するということなのである。
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     このために、もっとも必要なことは、世界人民から自分で考える能力を奪い去ることであった。
     それは、人から理性を失わせ、感情的動物として家畜のように管理するシステムであり、人間性を貶め、思考能力を失わせ、ただ目先の感情だけに反応させ、言われたことしかできない愚民として飼育するものである。
     それは、生きていることのすべてが犯罪であり、日々、刑罰の恐怖に怯え、臆病に閉じこめ、矮小化した精神で互いにいがみ合い、撃ち合い、蹴落とし合い、非難し合う愚民に仕立てるものであった。
     まさに、そうしたシステムの核心に、死刑制度が存在することを忘れてはいけない。それは人から愛を奪い、家畜に変えるためのシステムなのだ。

    saibanin















     警察国家への道 その6 裁判員制度のもたらす愚民化、報復制裁主義の愚劣

     国家権力が納税・徴兵・教育・住民登録などの義務を国民に強要する理由は、「国民の生活と権利を守るため」と信じている、とても幸福な方が、たくさんおられるようだ。
     だが、まことに申し訳ないが、「世の中、そんなに甘くないよ」と、ウンザリ顔でいうしかないのである。 (ΘoΘ;)
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     半世紀以上、この国に生きてきた経験から申し上げるなら、国家が自分に与えたものと、奪ったものを勘案、相殺するなら、桁違いに後者が大きいと断ずる。
     筆者の見てきた日本国家とは、実に独善、自分勝手、ムダの固まりであり、権力者はメンツばかり尊大だが、中味はウソツキ・ゴロツキばかり。
     国民を騙し、愚弄し、傷つけ、殺害し、ウソの上にウソを塗り固めて、我々から苛酷な収奪を続けている泥棒システムの親玉に他ならないのである。
    .
     わが人生の大半は、国家というより、国家の背後にいて、それを利用して私腹を肥やしてきた官僚や大金持ち秘密結社の利権のために苛酷な奴隷労働を強いられ、召使いのように、家畜のようにこき使われ、利用されてきた。それは泣きたくなるような悲しい時間の浪費にすぎなかった。
     嗚呼、私は泥棒国家に奪われてきた時間を返してほしい。失われた時間を使って、世のため、人のために、はるかに素晴らしいことがなしえたのではないか? \(≧▽≦)丿
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     そして、それ以上に、そのことに気づかず、気づこうともせず、自分が奴隷・家畜として扱われている情けない、悲しい、恥ずかしい事態を見ようともせず、聞こうともせず、言おうともせずしない人々が大部分であることに憤激する。
     権力の暴力、恐怖に怯えて、こまわり君のように風景に埋もれた壁になりすまし、自分の臆病を正当化しながら、収容所の豚であり続ける人たちが日本人の大多数であり、自由を求めて出る杭を打ち、塀を乗り越えようとする者を密告し、寄ってたかって制裁している哀れにして悲惨な事態に、心が張り裂けんばかりだ。
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     「国民が国家を支配している」と思っているお目出度い人たちよ、現実はまるで違うのだ。見よ! それは、選挙によって民主主義が実現しているかのように思いこまされているだけなのだ。それは欺瞞なのだ。例えば、我々に本当に役に立つ人材を選ぼうとしても、そんな人が選挙に出られるシステムがどこにあるのか?
     少数政党を作っても、小選挙区制・二大政党制優先の前に、資金や宣伝力などから事実上、泡沫扱いになり、当選もできず、したとしても意味のある活動ができないように仕組まれているではないか。
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     なぜなのか? それは、国家を本当に支配している少数の連中が、自分たちの利権を守るための国家システムを、隅々まで堅牢無比の巨大要塞のごとく作ったからだ。
     家畜にすぎない国民に、選挙制度やマスコミ宣伝によって、我々が自由な市民であるかのごとき錯覚を見せ続けてきた。学校教育を支配し、子供たちに、あたかも選挙によって民意が実現するかのようなウソ八百を、真実であるように思いこませ、洗脳し続けてきた。選挙でない、民衆の直接の意思表明を、許し難い暴力であり、犯罪であるかのように思いこませてきたからなのだ。
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     昨年から、新たな国民義務として裁判員制度が登場した。
     だが、これも、「国民の手によって直接、犯罪者を裁く」 とキレイゴトを装ってはいるが、その実態は、国民をして国民を追いつめ、がんじがらめに束縛し、矮小卑屈な人生を強要するための、システムに他ならないのだ。
     それは、あたかも日本が民主主義国家であるかのような幻想を国民に抱かせて洗脳し、権力に都合のよい警察管理社会、収容所社会を厳重に構築するための新たな重い足枷にすぎないのである。
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     【産経「裁判員制度」 栃木2010.5.22 02:09より
     国民が刑事裁判に参加する裁判員制度は21日、施行から1年を迎えた。栃木県内ではこれまでに4件行われたが、従来の量刑判断よりも判決が重くなる傾向がみられ、厳罰化が懸念される一方、「市民感覚が反映された」とする声も。6月以降、9件(21日現在)が予定されており、司法関係者の負担も大きくなるなか、市民感覚を発揮できる法廷をいかに守っていくのか。法曹3者の力量が試される】
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     さて、裁判員制度が導入されて一年、多くのマスコミが、市民感覚、被害者の感情が正しく判決に反映されるようになった」と、良いことであるかのように指摘されている。この意味するところは何か?
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     日本では、かつて世界でも指折りの先進的な司法思想が導入されてきた。
     それは明治末、岐阜県出身の牧野英一が導入した「教育刑主義」司法制度であった。
     牧野はドイツ刑法草創期の重鎮、リスト(フォイエルバッハ派)の影響を受け、復讐制裁を目的とする刑罰、つまり応報刑に反対し、司法によって得られる国民の利益と秩序維持を目的とし、社会を犯罪から防衛しながら犯罪者による再度の犯罪を予防する観点が大切であると説いた。
     犯罪を結果の重大性ではなく、その行為を行う者の問題と捉えて、犯罪の原因を社会的要因と個人的要因に分けて考えた。前者は政府の社会政策で後者は個々の刑事政策で解決に導いていくべきであると主張した。
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     明治政府は、牧野らの努力、活動により、復讐制裁感情に支配された応報刑の未熟・愚劣さを克服し、司法の立場としては、犯罪の結果に感情的に左右されるのではなく、刑罰によって国家社会を防衛する視点、犯罪を繰り返させない視点、犯罪者を教育によって更正させる視点が基本にあるべきだとし、当時としては、世界的にも非常に優れた刑法思想によって司法体系を構築したのである。
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     これによって、国民の司法に対する信頼感も大きく高まり、すぐれて、それは国家への信頼感となって忠誠心を醸成することに役だったが、一方で、元武家支配階級による「国民を国家の捨て駒、家畜として利用する」という傲慢さも強く残り、結局、侵略戦争へと引きずられることになったが、思想犯罪のデタラメ運用を別にすれば、世界的にも極めて高く評価される先進的なものであった。
     この牧野式教育刑主義は、戦後も東アジアの刑法思想のモデルとなり、朝鮮半島やフィリピン、インドシナ半島などでも引き継がれていった。
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     だが、昨年導入された裁判員制度は、こうした牧野らの努力、司法における教育主義の崇高な理念を、真っ向から打ち砕き、前時代的、封建的な感情報復主義司法に大きく後退させる尖兵となって機能しはじめた。
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     筆者は、明治末に擁立された「教育刑主義」ですら、すでに時代遅れであり、そもそも「犯罪」なる概念自体が、恐怖心による誤解によって湾曲された不当なものであり、「すべての犯罪は病気である」という新しい人間錯誤理論を構築し、「病気は治療するものであって制裁復讐するものではない」という未来を拓く思想性を提起してきた。
     すなわち、人は本来、錯誤するものであり、それは人間の人であるがゆえの分けがたい属性であって、制裁や復讐によって克服するのではなく、教育と訓練によって克服すべきだと主張してきた。
     人は短所是正法によって矯正されることは決してなく、長所進展法だけが人を救うのである。
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     ところが裁判員制度の最大最悪の本質的欠陥は、それが民主主義を装いながら、実は、裁判員に事件調査権さえ与えず、短時間のレクチャーとプレゼンテーションによって、検察の一方的な情報だけを与えられ、「犯行者は悪いヤツだ!」と、その悪質性を強調されて刷り込まれることで、必ず、報復制裁型の判決を導くというシステムにある。
    .
     これによって何が起きるのか?
     それは、司法から厳密な調査と、国家や子供たちの未来にとって最善の判断は何か? という理性的、計画的な視点を奪い、ただ感情論による報復、制裁主義に陥ることしかありえないのだ。
     こうして、日本の司法界からは、すでに飴色がかった「教育刑主義」すら憎悪と復讐感情に洗脳された「裁判員システム」によって追放され、明治刑法よりも、さらに原始的、劣悪な感情的復讐刑法へと堕落してゆく必然性を持たされたということである。
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     こうしてみれば、裁判員制度は見せかけだけの民主主義であり、その本質は、司法から理性を奪い、国家全体を短絡的な感情や恐怖心によって支配しようとする劣悪な無知性社会に向かわせる意図が隠されていることが分かるはずだ。
     すなわち、国民から理性を奪い、感情だけに支配される動物的人間として飼育してゆこうとする権力の意図が鮮明に見えてくるのだ。
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     近年、刑法適用や判例が異常に苛酷さを増している現実を多くの人が気づいている。例えば、かつて死刑適用事案の基準は、成人が、人二人以上を悪質な意図方法で死亡されたことなどであった。
     ところが、近年、永山事件によって未成年者への死刑執行が既成事実化され、さらに、名古屋闇サイト殺人事件によって、一人の被害者死亡で加害者二名が死刑になるという判例が定着しかけている。
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     これなどは、母子家庭の娘が通りがかりの三名によって殺害されたが、母親がS学会の会員で、組織的な署名活動を行い、組織ぐるみで裁判支援を行い、感情的な女性裁判官によって死刑判決となったわけだが、母親の短絡的ヒステリーに迎合し、刑法運用の意味を見失った愚劣な判決といわねばならない。
     この事件以降に裁判員制度が導入されたが、犯人に対して苛烈な報復制裁を実現することが司法の役割であるかのような論理が、マスコミによっても公然と主張されるようになってしまった。
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     これは恐ろしいことで、牧野が提唱したように、国家とは司法によって、第一に社会の安定、秩序を維持するとともに、犯罪を犯した原因を、社会的問題と、個人的未熟性に分けて二面的に解決するという姿勢が完全に失われ、ただ復讐することだけが司法の意義であるかのように主張されはじめたのである。
     人は誰でも失敗する弱い存在であるにもかかわらず、失敗すれば制裁するという短所是正法だけが司法の中核となり、殺人を行えば犯人の処刑抹殺だけが解決であり、彼が過ちに至った原因を追及し是正することなどありえない。
     司法は、被害者感情だけを見て、加害者に代理報復、制裁すればこと垂れりとする原則を打ち出したことになる。
    .
     人は愚かな存在だ。生まれてから死ぬまで、ほとんど過ちの連続であり、一つ一つ、克服し、少しずつ利口になり、より高い人格が生成されてゆくのである。
     ところが、こうした司法の短所是正的姿勢では、少しでも失敗すれば殴り倒し、追放するというものであり、失敗した人を教育し、成長させようとする姿勢は微塵も見られない。
     こんなやり方で、失敗して殴られ、追放されることで、人間が成長するとでも思うのか? それがもたらすものは、失敗への強烈なプレッシャーであり、生きていることへの恐怖心であり、絶望であり、人間不信と人間疎外に他ならないではないか!
     こんな姿勢が未来を拓くとでも思っているのか!!
    .
     今、起きていること、裁判員制度もまた、警察国家への道、収容所列島への道を驀進するシステムである。
     それは人を追いつめ、権力に対して怯えさえ、恐怖心によって矮小姑息な人格を育成し、全国民を臆病な家畜として言いなりに支配しようとする愚劣な政策に他ならないのだ!

    mitui














     「弁護士のなかの弁護士」と称えられた有能無比の安田好弘が、突然逮捕されたのは1998年暮れであった。
     容疑は安田が清算管理を委託された不動産会社に対して、「強制代執行を逃れる目的で、2億の資産をダミー会社に送って隠匿を指示した」とされる強制代執行妨害容疑であった。当初の報道では、安田らによる業務上横領だったのに、検察側の訴因が次々に変更される事態となった。
    .
     この事件を調査してゆくと、ダミーとされた会社には明確な営業実態があったばかりでなく、スーンズ社の経理担当者Oが、会社の資産2億円を帳簿操作で横領して隠匿、着服していた詐欺事件が発覚した。
     だが、東京地検はOのウソに満ちた供述を利用、虚構の構図をでっちあげ、罪をスーンズの社長や安田らに転嫁しようとした真実が明らかにされた。これによって、一審は、安田に対して完全無罪の判決を下した。
     これで安田事件が明らかな冤罪であり、東京地検が事件を捏造して起訴したという犯罪を行ったことが明確になったが、二審東京高裁(池田耕平裁判長)は、検察の言いなりになる愚劣な番犬でしかなく、一審無罪判決を覆して安田に罰金50万円の逆転有罪判決を下した。
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     逮捕当時、オウム真理教事件の主任弁護士であった安田は、その類希な実務能力と弁護実績が知られ、検察に「目の上のタンコブ」として強い敵対感を向けられていた。
     したがって、安田に対する冤罪でっちあげは、明らかに、検察庁が組織ぐるみで事件をでっちあげて、安田をオウム事件裁判から引きはがすための目的で弾圧したものに他ならなかった。
     安田起訴の不当性は、司法専門家の目から、あまりに明らかで、こんな事件をでっちあげられては弁護活動を検察が自由にコントロールするようになるとの危機感から、一審1200名、二審2100名もの全国の弁護士が安田の弁護に立った。だが東京高裁は、「真っ白な無罪」という一審完全勝訴を、新証拠の提出もないのに覆し、検察支持の弾圧判決を下したのである。
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     こうして、正義を踏みにじった検察の、強引な政治的弾圧を裁判所が支持したことは、その後、検察をますますつけあがらせることになり、次々と、異様なまでの人権侵害起訴攻撃を連発する事態となった。
     日本には検察当局の暴走に対する法的、機構的な歯止めが皆無であって、検察は、まさに国家権力、弱肉強食捕食者の頂点に立って我が物顔に勢力をふるってきた。
     彼らは、正力松太郎以来の、日本の国家権力を自分たちの利益のために利用しようとしてきた反動勢力と一体になって、際限のない、あたかもエージェント・スミスのような増殖と暴走を始めたのだ。
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     その後も、非常に悪質性の高い警察による事件でっちあげ、冤罪が明らかな起訴が続き、また司法の強権による被疑者・被告人・服役囚に対する人権無視も激しさを増していった。まさに、日本司法界は、安田事件以降、闇に包まれたといわねばならない。
     富山事件・志布志事件・足利事件など権力犯罪が表に暴露される例は稀少であって、ほとんどの場合、人権を侵害された被疑者・被害者の泣き寝入りに終わらされているのが実情なのである。
     そうして、昨年、民主党政権が成立してからは、マスコミとともに小沢・鳩山など政権中枢に対する犯罪にもならないはずの微罪立件によるダメージ作戦を強力に展開するようになり、今や、日本における最大最強の右翼勢力として、市民的権利の前に立ちはだかる怪物に成長していった。
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     近年、警察・検察・裁判所共に、明らかに事件の真相も、真犯人も知りながら、権力のメンツを守る目的と、政治弾圧に利用するために露骨な逮捕・起訴・有罪を繰り返すようになっているが、わけても、いくつかの事件は、これを放置するならば、我々の人間としての人格を崩壊させ、日本を家畜国家に陥れ、子供たちの未来を北朝鮮のような暗黒に塗りつぶす「警察国家への道」を拓くものというしかない極悪司法犯罪になっている。
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     しかも、これは森山真弓や野田聖子らが持ち込んだ児童ポルノ規制法や軽犯罪法を治安維持法として活用する路線と共にあり、国民のあらゆる権利、自由を犯罪として弾圧し、全国民を権力者の臆病な家畜に貶める決定的な権力犯罪というしかない。
     今や、日本では、ありふれた海辺での撮影・立小便・有名人の写真集所持、漫画の所持ですら性犯罪とされて、いつでも逮捕立件されるような息苦しい規制社会に陥れられることになってしまい、ありふれた工具を所持したり、路地裏を歩いたり、満員電車に乗れないほど警戒を求められるようになっている。
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     こうした国民生活への苛酷な規制の真の狙いは、何度も書いてきたように、国民を臆病者に陥れ、その精神を卑劣矮小化し、互いに監視し合い、権力に都合のよい人間像、すなわち家畜として、言いなり人生を送られる目的以外のものではない。
     かつて、ソ連や中国で起きた全体主義強要の時代を忘れてはいけない。そこではオーウェルが「1984年」で描いた世界、BBCの「プリズナー6」で描かれた監獄社会よりも桁違いに残酷な虐殺収容所が展開されていた。
     人は人を密告し、権力の定めた思想から外れた者は、片っ端から殺害される収容所社会が実現していたのだ。そう、それは「警察国家と収容所社会」であった。
     これを実現することこそ、ヤツラの本当の狙いである。
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    「ヤツラ」のトップに君臨し続けてきたアメリカ副大統領、ディック・チェイニーは、自らの経営するハリバートン社に命じて、全米に600カ所のガス殺戮室・棺桶付の強制収容所を設置し、今では300万人の収容者を待つばかりとなっている。
     日本でも、チェイニーの陰謀と時を同じくして、警察国家、収容所社会が準備されてきたのだ。
     すでに30年前から、それは始まっていた。正力松太郎の後継者、中曽根康弘政権時代、統一教会原理研の若者たちが、自民党選挙運動員となり、彼らは当選すると秘書に採用され、さらにキャリア組として政府中枢に入り込んでいった。
     今や、国防・司法・教育における政府幹部官僚の中核に、その勢力が食い込み、清和会・森山真弓らと結託して、次々に司法・教育の反動化を進めてきたのである。
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     我々は、こうした収容所社会を阻止するため、司法の堕落腐敗を、たくさん糾弾し、必ず責任を取らせる戦いをする必要に迫られている。
     今起きている検察の暴走や司法の右傾化が、これから我々の生活を、どのように束縛してゆくのか、大々的に明らかにしてゆく必要がある。
     日常生活にかけられた軽犯罪法や児童ポルノ規制法などの治安維持法を撤廃させる戦いを行い、権力の家畜として洗脳を受けている国民大衆を目覚めさせなければならない。
     権力が、どれほど凄まじい暴走を行っているのか? その犯罪性を徹底的に糾弾しなければならない。日本が収容所列島と化し、互いに出る杭を打つ、悲惨な監視密告社会に向かうことを阻止するために、我々は命を賭す必要がある。
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     最近にあって、悪質な犯人捏造の第一が飯塚事件であった。これは、明確な冤罪死刑執行事件として、一人の無実の市民を権力が殺害してしまった極悪司法犯罪であり、その捏造性、悪質性が際だっていて、無実が明らかでありながら、すでに死刑を執行してしまった以上、司法担当者、権力による殺人事件として末永く糾弾断罪し続ける必要があるだろう。
     飯塚事件については、当ブログでも何度も取り上げていて、新たな情報も少ないため、今回はリンク紹介にとどめたい。これからも何度でも取り上げよう。
     http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/1985773.html
     http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/iidukajikenn.htm
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     冤罪死刑事件としては、袴田事件や名張毒葡萄酒事件など、いくつか存在するが、これらを本格的に調査するなら、無実なのに死刑執行された冤罪死刑事件が、他にも十数件存在しているという指摘がある。
     また、高知白バイ事故冤罪事件など、当事者も無実が明らかであることを知っているにもかかわらず、権力のメンツ保持だけを目的にした多数の事件、そして警察の怠慢を正当化する目的で捏造された事件も多い。
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     だが、今後の市民生活への影響、政治的な意味という視点では、安田事件とともに正義を目指す司法関係者を捏造事件で弾圧した例として三井環元大阪高検検事に対する悪質な弾圧を挙げないわけにはいかない。
     これは、2010年5月16日のテレ朝、「ザ・スクープ」において、鳥越俊太郎らが、本格的に事件の真相を暴露し始めた。
     これまで自民党政権下では、総務省によるテレビ倫理規制から、こうした反権力番組を放送することは至難だっただろうが、幸い、検察が調子に乗って権力を掌握した民主党をも切り刻み始めたことで、民主党における反撃の一環として放送が許されるようになったのだろう。
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     三井氏は検察庁内における違法な裏金による不正を暴露すべく鳥越俊太郎のインタビューを受ける前日、電話盗聴によって、このことを知った検察庁によって完全に填められ、冤罪に陥れられた。
     その罪状は、移転予定で、すでに引越を始めていたマンションに、虚偽の転居届けを出したという犯罪になりえない微罪であり、実際には、犯罪要素は皆無であった。
     後に、虚偽の届け出を利用して住宅取得補助金を得ようとしたとか、暴力団幹部に接待を受けたとかのでっちあげも追加された。
     森山真弓法相は、「三井に対して前代未聞の犯罪、検察の裏金疑惑は存在しない」とデタラメの隠蔽記者会見を行い、三井を極悪人に仕立ててみせた。
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     これに対して裁判所は、証拠もないまま懲役1年8ヶ月の実刑判決を下し、最高裁もこれを支持、三井氏は仮釈放もないまま立小便程度の微罪で二年近く投獄された。こんな微罪で、これほど苛酷な懲罰は過去に例など存在しない。
     もし、これを許すなら、日本国民は、今後、立小便で二年間の懲役を食らうことになるのだ。
     もちろん、これは三井氏の検察告発に対する強圧的な口封じであったが、このことによって検察当局は、取り返しのつかないほどの極悪でっちあげ犯罪に手を染め、もはや犯罪者集団と化した。その勢いをかって小沢や鳩山など民主党政権に対する微罪弾圧を繰り返して政権を追いつめてきたが、とうとう民主党サイドの反撃が始まったと受け止めてよいだろう。
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     そして、この番組で明らかになった検察当局の黒幕は、戦後政治家のなかで最悪の統一教会と結託した森山真弓(元法相)と、その背後にいた清和会勢力であろう。清和会・小泉純一郎・森山真弓・野田聖子ら。さらに彼らを番犬ロボットのように操っている、世界の闇権力、CIAや統一教会との関連も疑いのないところだろう。
     今後、森山真弓を国会に証人喚問することで、もはや検察当局の弾劾は避けられず、逃げ道もないと確信している。高橋徳広元検事による明確な告白は、検察にとってアタマを吹っ飛ばされるほどの致命傷になったと思える。
     今こそ、我々は、全力を挙げて、この三井疑獄問題を世に喧伝し、一気に検察の闇、統一教会やCIAと結託した日本の悪魔勢力を叩きつぶすときがきた
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     三井環問題や、高知白バイ事件、など司法の犯罪については、さらに稿を改めて書き続けたい。

     

    tatisyoben








     警察国家への道 その4 治安維持法として濫用される軽犯罪法
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     http://butcher.asablo.jp/blog/2006/08/20/492636
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     【新宿署に十徳ナイフ所持で逮捕された。軽犯罪法違反、刃渡り6.8cmと調書に記載。海に行くときに持っていったままウェストバックに入れたままだった。持ち物検査されるまで十徳をもっていたの忘れてた。正当な理由がなく所持(入れ忘れは駄目)していたので違反だとされた。検察庁に調書と軽犯罪違反の調書とか反省文みたいなもの送られる。
     取り調べ所要時間 約1時間 左右の指、手のひら、横の指紋採られ、写真は 正面 右斜め横 横顔、 全身像。連れて行かれ 最初に警察署の取調室で
    説明は、 まず、警察官から任意に持ち物検査を求められて、同意した。事の確認、(任意同行)
    逮捕の理由、軽犯罪法の刃物の所持に関する罰則の説明、ここから本人履歴、身体的特徴現住所、本籍、出生地の確認、免許所持っていたので、それより転記、現勤め先、最終学歴、月収と家族構成体重、身長、足のサイズ、利き腕、眼鏡使用の有無 逮捕時の事、逮捕時間、場所、逮捕物の今回は十徳の購入ルート、マイルたまっていたのでANAかJALで貰ったのといつ購入したかの確認、かなり昔、5、6年前と言った。
    なぜ逮捕されたか逮捕理由の再度説明 調書への署名、右手 人差し指による指紋押印 調書以外に2枚 計3枚にサインと押印しました。黒の特殊インキ。それから、写真撮影(Sony製のデジカメ)、指紋採取(NEC製) 新宿のヨドバシの前からてくてくと新宿署まで歩いていった。】
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     2008年6月秋葉原無差別殺人事件の起きる数年前から、東京都内では警察の強引な職質逮捕事件が頻発している。これは、実は、筆者らがベトナム反戦デモに明け暮れていた35〜40年ほど前に、すでに人権無視の職質検挙が常態化していた実態があったのだが、この十年ほどの警視庁の職質は当時よりもはるかに苛酷になっていて、秋葉原事件以降は輪をかけて凄いらしい。
     渋谷・新宿など繁華街に行った若者で、こうした強引な職質で不快な目に遭わなかった者は少ないだろう。
     弁護士で元国家公安委員長の白川勝彦氏までまで違法職質の被害者となったことで、ブログで危険な警察国家に対する警鐘を鳴らしているので、ぜひ読んでいただきたい。
     http://www.liberal-shirakawa.net/idea/policestate.html
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     「罪を犯し、犯そうとしている疑い」がない限り現行犯逮捕はできないこと、市民には、令状のない職質・荷物検査・任意同行を拒否する権利があることさえ知る者がほとんどいない現状で、警察は、自分たちへの無条件服従が義務であるかのように主張し、当然の職権であるかのように既成事実化しているのが現状だ。
     911テロ以降、アメリカに発したテロ対策に名を借りた警察国家化が世界的に著しく、イスラム諸国まで警察による管理国家を加速させていて、その処罰も異常に苛酷化している。もちろん日本でも、刑法の運用が苛酷化し、30年前に比べると刑罰判例が五割以上厳しくなっているとの指摘がある。
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     しかも、かつてなら犯罪として認識さえされなかった、立小便や撮影など、ありふれた日常行為までも重罪に値する犯罪と決めつけ、驚くほど苛酷な刑罰を与える例が激増しており、市民の自由は弾圧され、人々は警察国家の取締弾圧に怯えて臆病になり、卑屈な生活を余儀なくされている。
     市民的自由の欠乏は、芸能・芸術のレベルに顕著に顕れると最初に書いた。
     40年前、自由な市民生活のなかで、素晴らしい芸術文化が花開いた時代に比べると、現在の芸術界の低迷は、人々の精神が萎縮し矮小化している実態を鮮明に写しだしている。
     寺山修司や唐十郎らが与えてくれた奔放で血が騒ぐ刺激を求めようと思っても、永井豪の漫画ですら児童ポルノ犯罪と認定され追放されているご時世に、どこを見ても萎縮した、当たり障りのない、低俗な権力のポチ芸能しか見られない現状である。
     岡林信康も高石知也も、フォークルも、若き谷村新司も、もう現れないのだろうか? 若き筆者が無我夢中で興奮した新宿西口の、あの感動も、もう二度と味わうことができないのか?
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     権力体制が大衆精神の臆病な矮小化を求めるの理由は、政権の最大の敵が、決して対立政党などではなく、本当は大衆の「自由な精神」であり、勇敢に権力と戦う者であるからなのだ。
     権力を維持するために、自由な精神を弾圧して、大衆を権力に怯える臆病者に仕立てることが、一番安易な体制運営法なのである。勇敢な反体制派を暴力と死刑によって徹底的に弾圧排除し、飼主に逆らわぬ家畜に仕立てることが政策の根元であり、このため教育・司法・軍事は、すべて反体制派を出さないためのシステムに作り替えられてゆくのである。
     権力が期待する人間像とは、「見ざる・言わざる・聞かざる」であり、権力の恐怖に怯えて、口をつぐむ者であり、言われたことしかできない矮小な精神性なのである。
     こうした人間性の愚民を作り出すことこそ、戦後、CIAスパイの元締、右翼国家主義者の黒幕として君臨した正力松太郎が布いた路線であった。
     一方で、プロ野球や芸能をエサとして大衆に与え、他方で警察力によって自由を弾圧し、臆病な愚民に貶める。そうして国家は、大衆が想像もできない原子力などの超高度技術と超絶兵器によって武装するというものだ。

     だが、こうした愚民化政策が成功するほどに、皮肉にも、権力の求める「強い国家」 「優れた技術」を産み出す国力・人間性は取り返しのつかないほどに衰退してゆく。
     なぜなら、それは伸びやかで自由な精神なくして生まれないからだ。日本が、40年前の自由闊達な社会と、あらゆる分野で、創意工夫が尊ばれ、世界的に大きな成果を挙げ続けた学問・産業は、人の自由・解放とともに失われていったのである。
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     警察国家への道と題しているが、日本では、実は、すでに警察国家が実現して久しいのだ。すでに戦前、正力が作った特高警察システムと治安維持法によって警察社会が実現していたのである。
     大勢の自由を求める知識人や労働者が弾圧され、殺害された体制から、陸軍統制派による侵略暴走が産み出され、日本全体が地獄に引きずられていった。

     戦後は、70年前後をピークとする人間解放運動を嫌った資本家・自民党が、正力の統制システムを受け継ぎ、1980年代に、後継者といわれる中曽根康弘が、新たな警察社会システムを構築していった。
     あの時代、統一教会、原理研の若者たちが大量に自民党の選挙運動員となり、議員秘書となり、そして議員のコネを利用してキャリア官僚に採用されていった。
     その主な行先は、司法・防衛・教育だったといわれ、それから30年、当時採用された原理研信者たちが、今や検察・警察・文科省の幹部に就任している事情と、現在の管理社会の実態は無縁ではない。
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     統一教会は、研究者たちが指摘しているとおり、キリスト教を名乗っているが、新約聖書など決して用いない。カトリックに近いが、独自の国家主義的教義を持っていて、世界の特権階級、フリーメーソン・イルミナティの走狗として活動していることが知られている。
     彼らの本質は、大衆に無数の格差、差別の階級を設け、コンプレックスを抱かせて対立させ、上の階級が下の階級を家畜のように支配する社会であり、朝鮮、李王朝の思想的根幹となった儒教的支配の適用といえるだろう。
     こうした差別社会で必然的に吹き出す不満、激情を、暴力と死刑で弾圧するシステムこそが警察社会の本質である。
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     警察による国民支配の大きな武器となっているのが「軽犯罪法」である。これこそ、まさに現代の治安維持法といわねばならない。
     問題は、警察が職質において伝家の宝刀のように使う「軽犯罪法」の強引な曲解適用の悪質さにある。これは、今や民衆弾圧法と化しており、我々のあらゆる、ありふれた日常的行為を片っ端から違法行為として検挙逮捕できるよう恣意的に運用されている実態があるのだ。 軽犯罪法の乱用は以下のように行われる。
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    (1-2)正当な理由がなくて刃物、鉄棒その他人の生命を害し、又は人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を隠して携帯していた者
     (→刃渡り6センチ以上の刃物携帯は銃刀法違反とされ、それ以下は軽犯罪法対象であり、ソムリエナイフでさえ携帯すれば逮捕理由にされる。職質で車に載せていたマグライトが凶器と認定され逮捕された例もある。文房具のハサミでさえ刃物と認定され、ポケットにあれば逮捕)
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    (1-3)正当な理由がなくて合かぎ、のみ、ガラス切りその他他人の邸宅又は建物に侵入するのに使用されるような器具を隠して携帯していた者
     (→ドライバーやペンチでさえ泥棒工具と認定され、職質・検問で発見されたなら逮捕される。車に保安工具として普通に搭載されているが、これも逮捕理由になる)
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    (1-4)生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの
     (→筆者のことか・・・余計なお世話だ。仕事に就けず、貯金で細々と生きているだけで逮捕理由になる)
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    (1-5)公共の会堂,劇場、飲食店、ダンスホールその他公共の娯楽場において、入場者に対して、又は汽車、電車、乗合自動車、船舶、飛行機その他公共の乗物の中で乗客に対して著しく粗野又は乱暴な言動で迷惑をかけた者
     (→筆者は、かつて警察官の職質に遭うと「バカヤロー」を連発したが、それだけで立派な逮捕理由。役所で役人がサボってるときに「ボケー!」とでも怒鳴ろうものなら、もちろん逮捕)
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    (1-8)風水害、地震、火事、交通事故、犯罪の発生その他の変事に際し、正当な理由がなく、現場に出入するについて公務員若しくはこれを援助する者の指示に従うことを拒み、又は公務員から扶助を求められたのにかかわらずこれに応じなかつた者
     (→公務員の指示に正当性があるか否かは問題でなく、一方的に服従を要求し、拒めば逮捕)
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    (1-14)公務員の制止をきかずに、人声、楽器、ラジオなどの音を異常に大きく出して静穏を害し近隣に迷惑をかけた者
     (→先天性大声は、それだけで逮捕、耳が遠い人がラジオを聞いても逮捕)
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    (1-20)公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者
     (→スノボ国母の腰パンが袋だたきに遭ったが、もちろん逮捕。今後は、ヘソ出しルックも逮捕。ビキニも当然逮捕、18歳未満少女のビキニなら、それを見ただけで児童性犯罪として逮捕か・・・)
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    (1-22)こじきをし、又はこじきをさせた者
     (→ならば日本国と自民党を逮捕せよ!)
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    (1-26)街路又は公園の他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者
     (→筆者はしょっちゅうだ。オレは犯罪者か・・・\(≧▽≦)丿)
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    (1-28)他人の進路に立ちふさがつて、若しくはその身辺に群がつて立ち退こうとせず、又は不安若しくは迷惑を覚えさせるような仕方で他人につきまとつた者
     (→職質の警官を逮捕しろ!)
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    (1-32)入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者
     (→春先、田んぼの畦でツクシやワラビを採取する者たちは全員逮捕)
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     第4条 この法律の適用にあたつては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあつてはならない。
     (→警視庁は、都条例で逮捕にノルマや報償制度を導入、これによって警官は実績を上げるために、無理矢理、犯罪をでっちあげるようになった)
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     字数制限から次回

    densya







      「息を吹きかけた」と逮捕 (2010年5月)
     【電車内でみだらな行為をしたとして、明石署は3日、岡山県美作市真加部、JR西日本男性社員(50)を、県迷惑防止条例違反の疑いで逮捕した。「何もやっていない」と容疑を否認している。
     発表によると、同容疑者は午前8時20分頃、加古川―西明石間を走行中の姫路発敦賀行き新快速で、いすに座っていた姫路市内の女性(42)に、息を吹きかけるなどした疑い。女性の夫が気づき、同容疑者を取り押さえ、西明石駅で降ろし、110番で駆けつけた署員に引き渡した。同容疑者は同駅へ出勤途中だった。(2010年5月5日07時35分  読売新聞)】
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     似たような事件(2007年7月)
    【7月24日11時57分配信 読売新聞  埼玉県警東入間署は23日、警視庁刑事総務課警部補の塚瀬俊弘容疑者(41)(埼玉県ふじみ野市東久保)を県迷惑行為防止条例違反(痴漢、卑わいな言動)などの現行犯で逮捕した。
     調べによると、塚瀬容疑者は同日午後8時50分ごろから約20分間にわたって、東武東上線・池袋発小川町行き急行電車内で、隣に立っていたアルバイト女性(23)の脇腹に左ひじを押しつけたり、耳に息を吹きかけたりした上、「足がきれいだね」などと声をかけた。
     女性が近くの男性客とともに取り押さえ、ふじみ野駅で署員に引き渡した。塚瀬容疑者は酒に酔っていた。調べに対し、「ひじは当たっていたかも知れないが、独り言を言っていただけ」と供述している。】
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     「これは、ひどい!」 と筆者らの世代なら誰でも思うはずだ。こんなことが犯罪になるなんて、ありえない・・・さすがにニュースを見て強いショックを受けた。
     ジョージ・オーウェルが独裁未来社会の恐怖を描いた「1984年」でも、これほど、めちゃくちゃな逮捕など予想されていない。
     こんなことじゃ、痴漢などとは無縁の人でも、街角でよろめいて女性に触れただけで、性犯罪者として逮捕されることになるだろう。すでにエロ漫画を所持しただけで麻薬犯なみの懲罰だ。十徳ナイフを所持していただけで逮捕されるご時世だ。立小便なんか性器露出と決めつけられる性犯罪になりそうだ。まさに、息をしただけで逮捕される時代がやってきた!
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     これで逮捕された駅員は、冤罪であることを証明できなければ、この職なきご時世に、そのまま解雇か、良くて依願退職という事態に陥るだろう。
     「被害者」が、思いやりのある普通の感覚の持ち主なら、仮に息で不快な思いをしたとしても、「加害者」が逮捕されることで、相手のダメージが桁違いに重くなることに気づいて、抗議する程度で穏便にすませるだろう。
     だが夫は彼を警察に突きだし、息を吹きかけたというアホらしい容疑で逮捕させた。そうして「加害者」は面子どころか、職を失いかねない窮地に追い込まれた。いったい、どちらが被害者なのか?
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     妄想というしかない「被害者」の主張を鵜呑みにして逮捕した警察当局は、恐るべき人権侵害と言わねばならないが、これに対して、明確に警察の暴走を批判する意見が、どこにも見られないことが、今起きている事態の真の恐怖なのである。
     筆者らの若い頃は、犯罪として逮捕、起訴される要件として、「故意・作為により誰の目にも明らかな被害が生じていること」という不文律があった。法的には、現行犯逮捕の要件としては、「罪を犯したことが明白であり、逃亡のおそれがあること」ということになっている。
     麻薬だって人に迷惑をかけないかぎり自己責任と考える人が多かった。むしろ公共場所での喫煙の方が、よほど深刻な犯罪だと思われた。
     当然、アグネスや野田聖子のように「エロ本を所持することが犯罪」などとの主張は、今から40年前なら、「完全にアタマがいかれてる」と思うしかない異常な感覚だし、日用品である十徳ナイフが「凶器」だと認定する警官の脳味噌も、無茶苦茶というしかなく、「息を吹きかけた犯罪」に至っては宇宙人との遭遇よりも奇怪なのである。
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     これだけなら、軽微な不快感を警察沙汰にした夫の精神異常を疑えば足りる笑い話にすぎないが、警察が苦情を受けて逮捕という強硬手段に至り、しかも。それをマスコミが大々的に報道して全国民が知るところとなり、かつ、雇用者のJRは、「加害者を厳正に処分する」と声明をだしたわけで、ここまで来ると、トンデモないモンスター恐怖社会の到来というしかない。
     もっと恐ろしいのは、若者たちが、こうした信じがたい司法の暴走を、ほとんど誰も批判しようとしないことだ。グーグルやツイッターで検索してみればいい、これが、どれほど深刻な人権侵害を引き起こすのか糾弾する声など、ほとんど出ていない。
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     それもそうかもしれない。今の若者たちは、他人が苦悩するということについて、ほとんど関心を持たない者が多いのだ。自分さえよければいいのであって、他人がどうなろうと知ったことか・・・が常識なのだ。
     これが、どれほど恐ろしいことか分かるだろうか?
     我々の若い時代、「人に起きることは自分に起きる可能性がある」と考え、誰の遭遇した運命であっても、いつかは自分の身にも起きることとして考え、思いやりをもち、一緒に連帯して対処することが、結局、自分の身を守ることになるという共有認識があった。
     我々は、決して一人で生きているわけではない。まさに、運命共同体なのである。他人の運命は、やがて自分の運命になるのだ。人の苦悩は、やがて自分の苦悩になる。人の喜びも、やがて自分の喜びとなると考えたのだ。
     理不尽がまかり通る社会を許すなら、子供たちの未来は真っ暗だ。人権のない世界に、どんな人生の喜びがあるというのか?
     世界も社会も正しく、「正義」の元に運営されるべきであり、そのために、自分のなしうることをなすのが義務だと考えていた。
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     「正義」こそ人生のすべてだ。最高の価値だ。正義を実現するために、命を失うことなど何をためらうことがあろうか?
     人の苦難を救済し、援助することこそ正義であった。筋の通らない、理不尽な行政、司法、対応は断固として許さない。間違ったことを許さない姿勢が、人間の求める、もっとも正しい姿勢であった。
     正義の前に、自分の利権や、命など軽いものだ。かつて、こんな「正義漢」が、ごろごろいたのだ。
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     人の苦難を救わなくて、どこに自分の喜びがあるというのか? だからこそ、高田馬場駅で酔っぱらいが線路に落ちたとき、命を厭わずそれを助けようとした人間愛が成立したのだ。彼らの行為と人生は貴いものだ。
     人を感動させるという行為は、まさに命を賭して正義を貫くというものだった。
     弁護士、安田好弘が、ほとんど報酬も期待できず、日本中からバッシングの嵐を受けて孤立無援になり、「インチキ弁護士」などと罵倒されながら、ただ誠実に被疑者の権利に奉仕し、死刑制度をやめさせようとしている行為も、まさに正義以外のなにものでもない。
     彼にとって、利益よりも名声よりも、何よりも正義が自分の命よりも重いのである。
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     若き筆者も、40年前、ベトナムで理不尽に殺されゆく人々の怒りと悲しみに連帯して、ベトナム反戦運動を戦った。それで、大学も行けなくなり、警察庁のブラックリストに載って、たくさんの仕事も失った。
     だが、一番大切な価値は、他人の苦しみに連帯し、共に戦うということであった。この連帯の満足にくらべれば、金儲けや地位や権力に何の価値があるというのか?
     我々の究極の価値は、醜い強欲、利己主義に支配された金儲けや権力・地位などではない。苦悩する他人に連帯し、ともに苦難を克服する連帯の喜びを得ることなのだ。まさに、「連帯を求めて孤立を恐れず!」であり、心の唯一の拠り所は、自分が正義を実現しているか? であった。
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     人生の真の価値は正義を貫くことだ! 断じて金儲けではない!
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     若者たちよ! こんな理不尽な司法を許していいのか? 日常的な行為すら勝手に犯罪と決めつけ、エロ本・十徳ナイフを所持すれば逮捕、女性の写真を撮れば痴漢で逮捕、息をしただけでも逮捕と、信じられない無茶苦茶な司法がまかり通っている!
     まるでイスラムの性弾圧ではないか? マレーシアで、ビールを飲んだ女性が鞭打ち刑に遭った。イランで婚前交渉した少女が絞首刑にされた。サウジで夫の死後、他の男性を家に入れた女性が石打刑で虐殺された。アメリカで日本漫画を所持した男性が懲役半年にされた。
     だが、今、日本で起きている事態は、その理不尽な本質において、これらの愚劣な刑罰と何一つ変わらないではないか?
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     まさに、正義が地に堕ちたといわねばならない!
     我々は、子供たちの未来を暗黒に塗りつぶさないために、自分の命を賭してでも、こうした愚劣な司法を粉砕しなければならないのだ。
     一方で、こんな国家の暴虐を許しておいて、ちょっとマシな家畜生活を得たとしても、それが、真の喜びを与えるとでも思うのか? 正義を貫かない臆病で卑劣な人生に何の価値があるというのか?
     いいかげんに卑屈な臆病人生を恥じよ! まさに、今、我々は権力と真っ向から戦わねばならない時がやってきたのだ!
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     なぜ、こんな愚劣な司法が、我々の日常生活を、隅から隅までがんじがらめに縛ることになったのか?
     真っ白な女高生のふとももにエロスを感じることも痴漢として糾弾され、宮沢りえのサンタフェの所持さえ処罰され、立小便をすれば性器露出性犯罪とされ、混んだ電車で女性に体が触れたら痴漢として逮捕され、息が吹きかかっただけで逮捕されるような、馬鹿げた社会に、どうしてなってしまったのか?
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     それは、この社会が利己主義に汚染され、人間の連帯を失ったからだ。
     学校教育における競争主義の導入、他人を出し抜いて自分だけ利益を得ることが正義とされるような、資本主義、経団連や自民党が持ち込んだ価値観が、人々を地獄に堕としたのである。
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     社会に差別が満ちあふれた。人は人を小馬鹿にし、カネ持ちや権力者を無意味に尊敬し、畏れるようになった。
     何を人生の価値として生きるべきか、人々は見失っていった。正義が何であるのかさえ忘れてしまった。
     人を許し、寛容が暖かい過ごしやすい社会を作る本質も忘れてしまった。人々は苛酷になり、他人の間違いを指摘し、他人をやっつけて得意がるような愚劣な人生観に洗脳されていった。
     権力に対して臆病になり、言われたままにしか生きられない下劣な家畜に成り下がったのだ。
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     だが、よく考えよ・・・・
     あなたの羨むベンツもセルシオも、ただの移動体ではないか? アルトやライフと何の違いがあるのか? あなたの自慢するグッチもエルメスも、婆さんの図他袋と何の違いがあるのか?
     橋の下のホームレスも、皇居の天皇も、我々と何一つ変わらない同じ人間ではないか?
     天皇も権力者も、警官も、検察も裁判も、すべて同じ人間がやっていることを忘れたのか?
     国家なんてありはしない! 同じ人間が、そこにいるだけなのだ。我々は、一人の人間として、すべての人たちに対峙しなければならないのだ。
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     あなたは裸の王様が、素晴らしい服を着ていると褒め称えるつもりなのか? あなたは、自らの恐怖心が作り出した幻想に閉じこめられて、死ぬまで真実を見ないつもりなのか?
     エロスは犯罪ではない! 健全な性欲が子孫を紡いできたのだ。美しい、みずみずしい女性に男が興奮し、それを写し、その媒体を見たがるのは自然なことだ。何が犯罪なのか?
     立小便は犯罪ではない! 自然な生理現象だ。トイレがなければ立小便するのが自然であって、何を恥じる必要があるのか?
     混み合った車内で、他人に触れるのは犯罪ではない! それを痴漢と決めつける女性は、二度と電車に乗るな! 息を吹きかけられたくなければ離れてろ!
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     我々は、地球の上で、人間として自然に生きているのだ。その日常行為を犯罪に仕立てるな! 子供たちの未来を暗黒の警察国家にするな!

     2006年5月、アメリカ、アイオワ州に住む38歳の男性が日本のエロ漫画を所有していたことで、当局に逮捕された。
     アメリカの犯罪全般に対する刑罰苛酷化の流れ、とりわけ性犯罪に対する人権無視の制裁的処罰は知られていたが、ひとりの趣味的コレクターが、日本で普通に店頭販売されている漫画を個人的に所有して逮捕されたことで、市民の自由が大きく損なわれる転換点であると多くの人に強い危機感を与えた。
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     日本から取り寄せたマンガの私的所有を理由に、最高20年の禁固刑の罪で起訴されたクリストファー・ハンドリーは、「未成年の性的行動を含む猥褻描写がある」と政府が主張する本の所持のため、PROTECT法(児童虐待に関する法律)によって起訴された。
     ハードリーは1200冊の市販マンガのコレクションを所持し、その中のわずか数冊の性的描写によって起訴された。
     CBLDF(出版物権利協会)の弁護士であるバートン・ジョセフは指摘した。
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    「わたしの長い経験でも、個人が私的に楽しむための絵の所有だけが理由で、一般消費者が逮捕されるという事態は初めてです。この起訴は絵と絵を描く人にとって、そして特にコミックスという創造的で新しい試みをする分野にとって、表現の自由の規制という点で大きな影響を持つでしょう。歴史的に見ても、芸術の性質を誤解し、猥褻罪を曲解するものです。」
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     連邦郵便検査局はハンドリーの住居を捜索し、未成年の性的虐待を描いたわいせつ物(日本漫画)を更に没収し、ハンドリーは2007年5月にアイオワ州の大陪審において起訴された。
     上訴裁判費用の心配と、保守的なアイオワの陪審員では勝目がないと判断した私選弁護士の勧めにより、司法取引を選択したハンドリーは、アメリカ法18条1466A(b)(1)違反により、有罪を認めた。
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     これによって、「性的に露骨な行為を行う未成年が描かれた」日本マンガを所有するだけで、ハンドリーは最悪「15年の実刑、2500万円の罰金、3年間の司法当局による監視付き釈放」の可能性に直面することになった。
     アメリカでは2002年に最高裁が「現実の子供を使うことなく作られた画像に対する児童ポルノ禁止を拡大する州法は表現の自由に基づいて違憲」との判決を下していた。しかしその後、アメリカ連邦議会は未成年を性的に描くわいせつ物を更に具体的に定義、禁止した通称PROTECT法の法案を可決した。
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     結局、ハンドリーは、2010年2月、6カ月の懲役を言い渡され、3年の監視下での保釈、5年の執行猶予となった。おそらく、その後も、児童性犯罪者の烙印を押され、生涯、アメリカ社会の苛酷な監視を受け続けることになる。
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     この判決により、「実在しない仮想未成年キャラクターに対する性的虐待描写を描いた表現物(たとえばロリ漫画・エロゲーム)」の単純所持を違法とする判例が確定することになった。
     アメリカでは、18歳以下をイメージさせる裸の漫画を所持していただけで、懲役15年・財産没収の刑に処せられる可能性があるという判例が確立したのである。
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     また、オーストラリアでも、2009年12月に、架空のキャラクターを使ったわいせつ画像を自分のコンピュターに所持していた男性が逮捕され、3000ドルの罰金と2年間の監視付き保釈で有罪となったことがあった。
     ここでも実在しないキャラクターのわいせつ画像所有で有罪になったことで話題となった。
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     これらの事件は、日本人が、空港で売られている漫画雑誌を購入して、アメリカの税関で発見されたとき、そこに少女のエッチシーンが表現されていたなら、懲役15年の刑を受ける可能性を示したものであることに注意しなければならない。
     今後、実際に、旅行者が所持だけで逮捕され、実刑を宣告される事態が避けられないと思うべきで、エロ漫画がヘロインや覚醒剤なみの扱いとなってしまったのである。
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     我々、日本人の感覚からすれば、ちょっと信じられない、異常な取締りであって、イランやサウジで、結婚前に性交したことが発覚したカップルが逮捕され、絞首刑にされている恐るべき事態と、本質においては、ほとんど変わらない怖さを感じる。
     日本人にとって、イスラム諸国や欧米で起きている、こうした異常な性犯罪取締り苛酷化を横目で見て嗤っていられるうちは、まだマシだった。だが、ある日気づいてみると、同じような異常な性弾圧が、いつのまにかわれわれの足下にも忍び寄っていたことに愕然とさせられるのだ。
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     それは、悪辣な霊感詐欺商法で知られる統一教会が、日本で「倫理運動」と称して、たくさんのインチキ市民団体をでっちあげ、アグネス・チャンなどを広告塔として利用し、性風俗弾圧キャンペーンを繰り広げるなかで、気づかないうちに深刻な事態にまで進んでいたのである。
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     日本では、1999年に(第一次)児童ポルノ規制法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律、平成11年第52号)が成立し、「児童」の定義を、教育基本法や民法における13歳から18歳未満と規定し、これに該当する性行為や性表現を、それまでより格段に厳しく処罰する取締法が成立していた。
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     この法案を成立させた中心的議員は、自民党の森山真弓・野田聖子・高市早苗らだが、民主党の小宮山洋子や公明党の松あきららも加わっている。
     この法律によって、2008年、乳幼児のおむつ換えのシーンや、小学生の入浴映像が「男児ポルノ」に該当するとして、放送倫理・番組向上機構が、自主規制を要望する動きに出ている。この年あたりから、テレビで未成年者の性的表現が、ほとんど見られなくなったことに読者の多くが気づいていると思う。
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     日本ユニセフ協会(統一教会系? 寄付の多くを私的流用するので悪名高い詐欺的組織)が、アグネスを看板にして推進している「子どもポルノ処罰」は、実写だけでなく、冒頭に取り上げた架空の漫画キャラで、「18歳未満に見える」性表現全般が対象になっている。
     また、2009年度に一時凍結になった第二次ポルノ規制法においては、宮沢りえの写真集サンタフェや、若き関根恵子の映画作品などは、それを所持しただけで犯罪とされ、懲役1年の実刑と規定されることになった。
     野田聖子は、この法案を、いずれ必ず可決してみせると息巻いている。岐阜県民が、こんな馬鹿者を国会議員に送るなら人間性が問われるというべきだ。だいたい自民党支持者はスケベ老人ばかりじゃないか。いずれ、自分が聖子推進の法律で窮地に立たされることを覚悟せよ。
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     また、性犯罪撲滅運動、処罰苛酷化をアメリカで中心的に推進してきた勢力は、誰あろう、カトリックと共和党なのだ。
     この数年、カトリック聖職者が児童性犯罪の最大勢力である事実が暴露され、ローマ法王が窮地に追い込まれていることは周知の事実だ。
     まさに一番危ない連中、「性職者」たちが、自分たちを真っ先に裁くであろうポルノ規制法を実現したという笑い話のような展開になっているわけだ。
     こんなアメリカに追従して、日本でも性犯罪処罰の苛酷化が、強い圧力で社会に浸透している事情について、どう考えるべきか?
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     もちろん、性犯罪だけでなく、ほとんどすべての犯罪について、社会が更正を期待する姿勢を見せて寛容だった半世紀前に比べて、対象範囲が恣意的に拡大し、処罰が苛酷化している実情に気づいている方が多いと思う。
     性犯罪については、苛酷化が、とりわけ被害者となりやすい女性たちの支持を得られやすいことから、いわば処罰苛酷化、警察国家、制裁国家に進む右傾化社会の尖兵としての意味がある。
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     欧米日だけでなく、イスラムなど第三世界でも同じような傾向が見られ、世界的に大衆生活に寛容な規制が撤廃され、処罰苛酷化に向かう流れを明確に感じ取ることができる。いったい、これはなぜなのか?
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     「人を許さない、非寛容社会」が、際だって世界の傾向として見えている事情は、社会全体の差別化が進み、特権階級と一般大衆の明確な分化が起きて、特権者たちは、差別が進んで民衆の不満が高まったことから、自分たちの財産や生命の維持に危機感を感じるようになった。
     それゆえ、刑罰を苛酷化することで、特権者たちが大衆から身を守ろうとしているといえるだろう。彼らは、人間に頼らず金に頼るしかない人生を送っていて、最期は、結局、法と暴力を利用するしかないのである。
     その特権階級が金融資本の台頭による投機社会になって俄に私財を増やし、政治的な力をつけて、自分たちの利権を擁護する目的で、このような苛酷な処罰社会を望んでいるのが真実だ。
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     さらに、こうした処罰苛酷化によって、大衆が著しく精神の自由度を失い、人間性を喪失し、精神の矮小化をもたらすことを指摘する必要がある。筆者は、自分の若い頃に比べて、若い人の人間に対する感覚が劣化、矮小化している現実をひしひしと感じている。
     他人とトラブルになったとき、寛容、許しの姿勢で、相手の短所、欠陥を吸収し、長所を伸ばしてやりたいという心のゆとり、愛情をもって望む人たちが極端に減った。それは、こうした刑罰苛酷化の社会的風潮がもたらしたものだ。
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     今から50年前、日本は敗戦に打ちひしがれた貧しい生活から、死にものぐるいで働くことで、やっと豊かな生活を掴みかけはじめていた。
     この頃、人々は、まだ戦争の残酷、悲惨を鮮明な記憶で思い知っていたから、人が明るく、楽しく毎日を過ごす姿を見ることが何よりも嬉しかったのだ。
     だから、他人に対して寛容で、少しばかり間違いをしても、許し、相手が幸せになってくれることを心から願っていた。人を叱るときでも、真に相手の幸せを考えた利他思想に満ちていた。
     社会は、助け合うことを当然とみなし、自分勝手な利己主義は、みんなから強く諫められ、人の幸せを願うことを正義とし、そのなかに人生の喜びを見いだそうとする人たちで溢れていた。それが1950〜1980年の世界でも抜きんでて素晴らしい国家共同体だった日本社会を構築した原点だった。
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     この頃、人々は、「人間は失敗し、過ちを犯すもの」という優しい寛容思想を共有し、間違ったことをしでかしても、それを制裁するのではなく、更正させることを正義としていたのである。
     だから、青年が性的に満たされず、女性を襲うなどという事件は、今も昔も変わらずに起きていたが、それを苛酷な刑罰で制裁し、社会から追放するという姿勢ではなく、多くは、青年の性欲を満たし、満足させてあげるために、周囲の大人たちは配偶者を見つけてあげることに奔走したり、赤線地帯に連れていったりして、彼の心を癒し、二度と他人を傷つけないように諭すという暖かい姿勢だった。
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     日本の刑法自体が、制裁報復という愚劣な発想ではなく、牧野英一による「教育刑思想」によって構築され、犯罪を導き出した個人の思想を矯正し、更正させるという世界的に進んだ合理的思想で担われていたのである。
     明治刑法の牧野イズム、すなわち教育刑思想から、今、野田聖子やアグネスチャンらが主張している制裁報復による苛酷刑罰主義を見るならば、実に愚かな封建的前時代への回帰であって、その救いなき心の貧しさに驚くほかはない。
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     結局のところ、こうした制裁・報復思想による権力がもたらすものは、国民の心の貧しさ、矮小な精神性でしかなく、刑罰に怯えた臆病な大衆を大量生産することで、社会は、特権階級の利権だけを擁護する家畜社会へと変わってゆくのだ。

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     警察国家への道 その1 家康の施政哲学

     今回は、今、日本国民が直面している著しい民衆管理苛酷化について警鐘を鳴らす目的で書きたいと思っている。
     淫行条例・ポルノ規制など、隠された心の襞まで管理し、エロ漫画を所持しただけで懲役半年という苛烈な懲罰で縛ろうとする姿勢に対して、これが何の目的でなされ、どのような結果を招くのかについて、読者に問題提起していきたい。
    .
     近世民衆管理の元祖といえば徳川家康だ。彼ほどの統制管理の達人は滅多にいない。それは家康が人の心を読み切る能力に優れていたからだが、家康統治の本質について触れた文章は滅多に見ない。
     これまで、家康の本質に迫ることのできた論者が、ほとんどいなかったのだ。
    .
     家康の築いた徳川時代は、1603〜1868年までの265年間を言う。これは人類史上希にみる長期の固定体制政権で、他に比肩するとすれば、千年王国といわれる大ローマ帝国くらいだろう。
     だが、こちらは紀元前27年〜西暦395年あたりまでが実質的なローマ帝国であって、長さでいえばいくらも変わらない。しかも、中味は持続的体制というには問題があり、継続性のある政権とはいえない。
     ところが、江戸時代は、たった一人の権力者が政治的基礎を構築し、それが260年以上も崩壊せずに継続したわけで、こんな例は、おそらく世界史にもほとんど存在しないだろう。
     これほどの超長期にわたる安定政権を築いた秘密は、どこにあるのか?
    .
     それは家康の築いたシステムに300年の時代に堪えうる普遍性があったということだ。人間と社会の核心を突いた本質的法則を見抜き、利用していたということだ。その家康政治の驚異的エッセンスについて、筆者が気づいたことを挙げてみよう。
    .
    (1) まず家康は、強大な江戸幕府中央集権と、大きな権限をもった地方自治委任体制のバランスを確立した。
     中央政府の権限は、直轄地(天領)を除けば極小に抑えられた。経済運営ですら100%各藩の自治に委ねた。収税権は藩にあり、自治権を保証されただけでなく、収入も地方税として直接得ることができて、住民を国家が直接収奪する国税もなかった。後に、享保の改革で国税が設定されたが藩収の1%程度にとどまった。
     地方自治を強固に構築し、幕府が管理調停者にとどまって地方に余計な負荷をかけなかったことが政権長寿の最大の理由であったといえよう。逆に、崩壊に至った理由は、江戸時代末期に天災が相次ぎ、加えて権力機構が肥大して藩の費用が嵩み、各藩の負荷が激増して堪えられなくなったことであろう。
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     ここで家康の思想哲学の根底に、「他人を支配するスタイルは委任を原理とする」という姿勢が明確に見える。収入まで奪って管理し、あらゆる統制を強めるのでなく、配下の者の自主性を最大限尊重して生かし、できる限り自由を保証し、権力は、桶のタガのような調停者として君臨するにとどめるという姿勢が、体制を安定させ、長持ちさせる最大の秘訣であったといえよう。
     人類史における政権崩壊の共通点は、政権と官僚制度が肥大し、その独占権益と統制を極度に強めて配下の収益や自由を奪ったことで政権を底辺で支えるシステムが疲弊崩壊したことが真の理由なのである。
    .
    (2) 家康の支配原理は、「二極化システム」であった。政争や武力衝突を起こしそうな強大な勢力、とりわけ宗教組織を、すべて二極に集中し、互いに対立させた。
     一番危ない武装兵を持つ修験を天台系と真言系に二極化し、神道も吉田系と白川系に、木地屋でさえ、筒井系と小椋系に分けた。幕府の抱える兵法者、大工や火消しなどまでも二極化しようとした。
     こうすれば、武力を持った集団は、必ず互いに競争牽制する意識が働き、相争い、幕府は、その調停者として君臨することで存在理由を確立することができたのである。
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     これは人の競争・闘争本能を利用した最高級の統治理論、知恵である。
     家康の用意した施政哲学の根元にあるものは、心の法則を利用するものであった。人は集団になると一定の原理、法則で動く性質を持っているのである。分けても、人が競争・闘争しようとする性質を、政治支配に利用するという視点こそ、まさに家康の真骨頂であった。
     これを会得したのは、おそらく今川氏の人質だった竹千代時代、日本最大の今川文庫のなかで対立を主題にした「太平記」を学んだことによるものだろう。
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    (3)「知らしむべからず、拠らしむべし」 家康は、大衆が知恵をつけて反権力組織を結成することをもっとも恐れた。
     人が生まれて死ぬまでの、すべてを管理し、体制に疑問を抱く反抗者を出さないために、家康は、痒いところまで手の届くような徹底した管理システムを構築した。それは、人生のすべてが「お上」によって与えられ、支配下大衆は、家畜のように従っていれば、不満のない人生が過ごせるというものだった。
    .
     制度の核心にあったのは、民衆の自治と、それを統制する五人組連帯責任制度であった。この基礎となったのは、律令制下の五保制だが、秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させたシステムを家康が継承発展させたものだ。
     五人組は、惣百姓・地主・大家を中核に、五戸前後を一組として編成し、組頭を定めて名主・庄屋の統率下に組織化した。これは連帯責任・相互監視・相互扶助を目的とし、領主はこの組織を利用して治安維持・争議解決・年貢確保・法令の伝達周知をはかった。
     これによって江戸時代の民衆は、生まれて死ぬまで、仕事も旅も、性と出産も、教育も、ケンカも病気も、あらゆる生活を監視され、一方で人生を委ね、生活に安心感を得ると同時に、他方で、体制の家畜として利用されるシステムに生涯押し込められることになった。
    .
     人間は、荒野に一人で放り出されたなら、いったいどうやって食物を得て、どうやって身を守り、欲望を満たし、何を目的に生きたらいいのか見当がつかず、強い不安を抱く弱い存在なわけだが、家康は、大衆に対して、その日常から思想、行為まで、すべてを明確に定めてみせたわけだ。
     これなら人生に不安も迷いもない。悩みもなく、ただ家畜として励んで終わればいいわけだ。こんな体制に疑問を抱かず、黙って従う大衆に洗脳教育するために、さまざまな仕組みを考え出したわけだが、その核心システムが五人組であった。
    .
     最大の問題は、生活に産み出される不満をどう解消するかということだ。五人組は、人間に関するさまざまの問題を、地域共同体(構成員は数十名)のなかで、助け合って解決するシステムであった。
     食欲・性欲・病気・教育・争議・死など、この助け合いシステムが、すべてを解決することで、権力は、その監視者、庇護者として君臨するものであった。そして、思想的根幹として、体制擁護の儒教(朱子学)と死生観・人生観について仏教を与えた。
    .
     こうして、人の心の隅々まで監視し、フォローする体制が確立、265年という長期安定政権が成立したわけだが、その崩壊は、結局のところ、体制が安定していたことで、システムに対する過剰な依存心が生まれ、そのなかで官僚たちが利権(私腹)を拡大し、権力を肥大化させ、システムを必要以上に増やしすぎて余計な荷物を抱え込むようになった結果、藩も民衆も、その負荷に耐えられなくなり、倒壊してしまったのが実態である。
     今、まさに、明治以来の日本権力が倒壊する現実を、我々は目撃しているわけだが、その本質にあっては、江戸幕府の倒壊と何一つ変わらないものであることを認識する必要がある。
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    (4) 徳川時代は、人の心を矮小化することで統治した。 人の心が、どの程度解放され、活性化されていたか? それは時代の芸術作品に忠実に反映している。
     戦国の大争乱のなかで生まれた安土桃山時代の芸術文化は、まさにルネサンス、世界的にも人類最高峰に至ったものが多い。例えば茶道・織部・加納派絵画・水墨画・安土城・伏見城、京都の代表的な建築文化は、ほとんど、この時代に創り出されたものだ。だが、江戸時代、家康統治が始まってから、芸術文化は俄に活気を失い、その芸術的質も劇的に下落した。
     職人の精緻な工芸が廃れたわけではないが、戦国時代の雄大で開放的なロマンは、すでに見られない。人類最高峰の織部焼は幕命で廃棄処分にされ、芸能も失われた。
     人々は、体制に奉仕するためだけの人生を強要され、家畜としての一生に満足するよう、臆病で矮小姑息な人間性に貶められたのである。このために、解放された伸びやかな人間性を必要とする芸術・芸能をも矮小化していった。
    .
     徳川政治の本質は、人々の自由な主体性を奪い、豊かな心を奪い、いつでも権力に怯え、互いに監視しあって足を引っ張り合い、臆病者に貶めることであった。
     このため、人間に対して、「してはならない」 「御法度」をこれでもかと大量に作り出し、苛酷な刑罰をもって、はみ出し者を規制するシステムがとられた。
    .
     筆者が、今回、「警察国家への道」と題して、この文章を書いている理由は、表向き自民党から民主党政権に権力転換が起きても、国家が民衆を法によって苛酷に規制し、その思想と人生をがんじがらめに束縛する姿勢が変わっていないからである。
     為政者は国家体制のために国民を家畜として利用するという基本的な理念を一つも放棄していない。この国家体制を本当に支配し、そこに強固な利権を構築している輩の正体は、実に、資本主義を構築したフリーメーソンにつながる資本家たちである。
    .
     それは、表舞台には決して出てこない奥の院に鎮座してきた大金持ちたちと、それを参拝し飼犬として使役される政治家・官僚たちから成立している。
     その思想は、ユダヤ金融資本と何一つ変わらない。自分たちが国家システムを利用して特権階級として君臨する。大衆は特権階級に奉仕するためのゴイム(家畜)にすぎない。
     家畜を利用するために、その競争・闘争本能を利用して、人生の価値が他人を出し抜いて特権を得ることであると洗脳し、互いに争わせることで、権力を、その調停者として君臨させ続けるというやり方である。
    .
     この本質が、民主党政権に変わっても、ほとんど一つも変わっていない事情を明らかにし、今のやり方が、家康と同じように、大衆を臆病な家畜に仕立て、相互監視で矮小な人生を送らせる目的になることを明らかにしてゆきたい。

    kyousou3

     日本は「先進国」だ。だが、どのような理由で先進国になったのか? きちんと説明できる人は少ない。
     筆者は、日本も含めて世界の「先進国」である欧米日が、そうなった理由を探してみて、結局のところ、これらの国家が共通して「競争原理」を適用してきた思想性を持っていることに気づいた。
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     先に述べたように、「競争原理」こそ、進歩発展のメカニズムである。
     これを信奉する国家では、国民は生まれてから死ぬまで、あらゆる競争に晒され、優れたものに憧れるように教育洗脳されることになる。他人を出し抜いた者がエライのだと・・・。
     人を出し抜いて勝者となり、競争社会からオチコボレた者を馬鹿にして排除し、秀でていると他人から評価されることを目指して邁進するという価値観を共有することで、そうした国家群が地球上で強い利権を確保する支配的勢力となったのは当然のことだ。
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     だが、忘れてはいけない・・・・こうした「競争原理社会」では、「優れたもの」を獲得したと同時に、必ず対極に「劣ったもの、悲惨なもの」までも副産物として作り出すことになるのだ。
     「世界一」の称号を得るために、「アンタはエライよ」と言われたいために、それと引き換えに失うものが必ず存在することを忘れてはいけない。大いなる豊かさを求めるなら、それは同時に大いなる貧しさをも産み出す。
     それゆえ、「先進社会」にあっては、素晴らしく恵まれた特権階級の「豊かな暮らし」が成立する反面、彼らが侮蔑てきた「後進社会」には決して存在しない、悲惨な貧困階層と人間疎外を産み出すことも避けられないのだ。
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     「先進社会」を動かす基本法則は弱肉強食、淘汰の原理であり、優越的支配層は豊かで恵まれた生活を謳歌する反面、底辺の大衆は家畜として彼らに奉仕するために飼育・使役される運命をもたらすのである。
     特権階級への奉仕さえできないオチコボレ大衆は、苛酷で悲惨な境遇に追いやられ、淘汰排除される残酷な国家システムが成立することになる。
     例えば、ヒトラーが提唱した優生保護思想、すなわち劣った人たちを「遺伝的悪」と決めつけて排除抹殺する思想は、こうした「先進社会」の避けがたい属性であって、特権者が敬われ、もてはやされる風潮の反作用として、必ず社会的蔑視の末に抹殺するシステムが成立するようになる。
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     日本では、ライ病者や遺伝障害者がそうであって、彼らの子供たちが、これまで、権力によって、どれほど強制的に抹殺処分されてきたか、その実態を知ったなら読者は驚愕するにちがいない。
     またホームレスや犯罪者、障害者、働けなくなった老人たちを援助しようとする暖かい思想など先進的行政には存在しない。あるのは陳腐な見せかけ、言い逃れの正当化だけであって、その実態は「臭いモノにフタ」、そして放置・餓死・病死・自殺を期待する人情のカケラもない侮蔑的政策に他ならなかった。
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     我々は、21世紀を迎えても、いまだに一向に改善しない、こうした「先進国行政」の愚劣さ、非人間性、「人間疎外」の理由を突き止めなければならない。
     「いったい、何が間違っていたのだ!」
     資本主義の下で、「自分さえよければよい」という利己主義に導かれて、この社会は発展したが、いまや、それは金融資本の強欲とともに歴史的破綻を起こしたのだ。
     もはや競争原理をもてはやす社会は完全に破滅しているのだ。もうすぐ、競争原理信奉者たちが最期にすがってきた御神体である紙幣は、紙屑になる運命だ。
     そうなって、右往左往しながら地獄を彷徨う前に、子供たちの未来は、どんな思想性をもって切り開くべきなのか、はっきりと理解する必要がある。
     「競争による進化」をもたらした愚かな思想とは、いったい何だったのか? いったい、どこから来たのか? はっきりと見抜くことができなければ、子供たちの明るい未来など作りようがないのだ。
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     筆者は、若い頃から、すでに40年以上も、こうした間違った社会の本質を見極めようとしてきた。そうして、ある一つの結論にたどり着くことになった。
     この社会を根底から破壊している利己主義や競争原理を、歴史や民族の移動から調べてゆくと、たった一つの思想教典に導かれることが分かった。その正体とは「旧約聖書」であった。
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     中世から近世、現代へ、地球上で大規模な発展成長を遂げた最初の国家群は、古代エジプト・ギリシア・ローマ帝国を引き継いだハプスブルグ王朝から欧州資本主義国家群だ。
     昨年、リスボン条約によって、EUが統一的な欧州合衆国政府を成立させたのも、その根底には、欧州特権階級の人々に古い統一国家、ローマ帝国・ハプスブルグ王朝に対する憧憬があったからだろう。
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     こうした国家群の再編成統一が、単に経済利権だけで行われるはずはなく、歴史的経緯からのアイデンティティが存在しなければ絶対に不可能だ。この意味で、EUはローマ帝国の再来であると断言してもよい。
     フリーメーソン・イルミナティと呼ばれる、世界のエスタブリッシュメント、超上流階級の大金持ちたちも、結局のところ、こうした「スグレモノへの憧れ」に突き動かされ、最終的には世界規模の統一政府、大ローマ帝国の再建を夢見ているにちがいない。
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     かつて世界の先進地だった欧州に、カトリックに敵対したプロテスタントが登場し、ピューリタンと呼ばれた彼らがアメリカ大陸に渡り、合衆国を建設した。
     もちろんアメリカも欧州とのアイデンティティを共有しており、その基盤はキリスト教であった。故に、欧米は一体的な「先進社会」である。
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     旧約聖書を基礎教典とするのは「世界三大宗教」であるユダヤ教・イスラム教・キリスト教だが、実は欧米におけるカトリックも、そしてプロテスタントも、その本質において、実は決してキリスト教とはいえずユダヤ教に近いものなのだ。
     その証拠に、カトリックはキリスト教といわれながら、実際には、新約聖書を引用することは少なく、ほとんどの教義は旧約聖書に基づいている。
     現在、欧米で性道徳に対する苛酷な倫理規制が進み、性や麻薬を含めて、僅かな人間の過ちを信じられないほど苛酷な刑罰で規制する法の仕組みが実現している。
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     アメリカでは麻薬を三回摘発されれば終身刑、万引きや売春の微罪で三回起訴されても終身刑だ。
     イエスは、人を苛酷な刑罰で規制せよなどと一言も言っていないが、これらの刑罰苛酷化による警察支配を進めてきたのはキリスト教勢力(共和党)なのだ。
     この思想はイエスの教えによる新約ではなく、人々を苛酷な刑罰によって従わせるように定めた旧約の教えによるものであって、したがって、欧米のキリスト教は、新しい契約を示したイエスではなく、旧約聖書を実現するユダヤ教と同じ本質を持っていることに気づく必要がある。
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     欧米のキリスト教は、イエスの思想と全く別のものと断言してもよい。イエスは生涯、一度も他人を殺せ、異教徒を排除せよ、キリスト教会に参拝せよなどと言ったことはない。
     ところが欧米キリスト教の歴史は、殺戮教と言ってもよいほど残酷な大虐殺に満ちている。中世カトリックは、十字軍遠征によってイスラム教徒数千万人を虐殺し、さらに魔女狩り摘発により数百万人の罪なき人々を残酷に殺害して回った。プロテスタントも負けていない。ルター・カルビンの凄まじい大虐殺は歴史に名を残した虐殺魔たちの所業にランキング入りしている。
     日本に落とした原爆も、ベトナム戦争の枯葉剤やナパーム弾も、キリスト教の教えに基づいて行われた。
     つまり、キリスト教は断じてイエスの思想ではなく、まさに旧約聖書倫理をキリストの名において強要するユダヤ教に他ならなかったのである。
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     旧約聖書は、まず女性を差別し、男のための家畜として利用する思想であって、奴隷を容認し、人に差別を持ちこみ増幅させる思想であった。
     そこから、「神に選ばれた」傲慢な選民意識に満ちたユダヤ教が発生し、競争原理と社会の進歩発展を進めていったわけだ。
     我々は、およそ世界の「先進技術」、電気からコンピュータや原子力の大部分、数学・物理化学の基礎理論の大部分がユダヤ教徒によって発見され利用されてきたことを知っている。
     その理由は、彼らが人を競争させ、差別し、利用し、追いつめたからなのだ。
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     ところが、同じ旧約聖書を聖典とするイスラム教にあっては、ユダヤ・キリスト教ほどの競争原理は持ち込まれなかった。
     基本的に、自然環境の苛酷な砂漠の民に持ち込まれた旧約聖書は、家父長社会を維持することに役だっても、競争原理を持ち込んでも、助け合いの思想なくしては生き延びる条件がなかったからだろう。
     イスラムはユダヤ教のタルムードのような選民主義に向かわず、苛酷な自然のなかで互いに助け合い、支え合う思想として利用するにとどまったのである。
     したがって、競争のないイスラムは「先進社会」にならなかった・
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     それでは、欧米とならんで「先進社会」を築いた日本ではどうだったのか?
     日本における思想的規範となったのは「神道」と「仏教」だが、仏教は1500年ほど前、秦氏によって朝鮮から持ち込まれたとき、すでに神道と習合していた。
     日本における仏教界は、基本的に、中国の形式が持ち込まれたものだったが、それは、すでに道教との習合だったと言えるだろう。
     むしろ、過去1500年間、日本における思想的規範をリードしてきたのは、神道思想である。
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     神道とは何か?
     それは、まさしく旧約聖書の体現であり、ユダヤ教の日本版と断言してもよい。その証拠、神道の公式マークであるカゴメ紋こそ、ユダヤ教のマークである「ダビデの星」 六芒星であることに端的に象徴されている。
     これまでも、これからも、神道とユダヤ教が同じものであることを機会を捉えて証明してゆきたいと考えているが、具体的な証拠は、あまりに多すぎるので、別の機会に譲ろう。
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     その核心的エッセンスは、神道も女性差別を原理とした、差別の重層的社会を構築することを目的としていることだ。
     神道思想に導かれた日本社会も、またローマ帝国以来の欧州と同じように競争原理に支配された社会であり、みんなが助け合って平等な社会を作るのではなく、選ばれた特権階級というゴールがあって、人々は、そこを目指して競争する仕組みが成立してきたということだ。
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     日本社会にあっては、「スグレ主義」が人々の価値観を支配し続けてきた。
     人は「優れたモノ」目指して、全身全霊で突き進んでいかねばならないとされた。
     みんな同じように、特権階級のゴール目指して全力でかけっこをするように強要され、オチコボレは馬鹿にされ、排除され、ときに殺害されてきたのである。
     こうした価値観は、今や、50年前よりも、はるかに激しいものになっていて、若者たちの選民への憧れは強烈で、逆に、弱者オチコボレに対する蔑視、排除も苛酷さを増している。
     まさに、旧約の競争原理、選民思想が日本社会にあって究極の結実をなしているといわねばならない。
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     人が、自分自身を見つめ、人を愛し、無理なくゆっくりと歩むことを許さない社会、家畜のように管理され、追い立てられ、息を切らして倒れたなら、後ろから殴り倒され、屠殺場に投げ捨てられる社会がやってきた。
     まさに、旧約聖書の理想が実現し、社会は究極の利己主義社会となっているのだ。

    kyousou
     侵入したハクビシンに襲われたニワトリが瀕死の状態になった。
     すると、仲間から突つかれたり、羽毛を抜かれたりして攻撃されたので、別のケージに移して回復させることにした。二ヶ月後、完全回復を見計らって元の飼育場に戻したところ、仲間たちから再び激しい攻撃に遭った。
     とりあえず落ち着いたものの、現在でも絶えず追い立てられ、エサを食べようとしても攻撃され、片隅で寂しく生きている。元は立派なボスだったのだが・・・・。
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     ニワトリは弱肉強食で、例え実の兄弟だろうと、親しい仲間だろうと、一度、病気や怪我で力を失うと、群れ社会から袋だたきに遭い、ときには殺されてしまう。
     ニワトリの直系先祖は、かつて地上の王だった恐竜、チラノザウルスだ。哀れチラノの末裔は、人間様の家畜として、また良き友として今日に至るわけだが、その見境のない闘争本能の凄まじさに太古の残映をかいま見ることができる。
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     ニワトリ社会にあっては、まずは己の利権を確立するために、激しくも徹底的な序列付け闘争を行い、優位の個体は、劣位の個体をいじめ抜き、エサも水も与えず、ときに殺してしまうことさえある。
     エサが余ったときだけ劣位個体はオコボレを食べることが許されるが、夜間、一番最初に襲われる可能性の高い危険な場所に追いやられるのだ。
     こうしてみると、「死の商人」ユダヤ金融資本の利権のために、愛国心教育で洗脳され戦場に送り込まれる哀れなアメリカ青年たちの運命が思い浮かぶのだ。
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     ニワトリ社会に鶏情はカケラもなさそうだ。そこでは優位を残し、劣位を淘汰するという原理が非情に貫かれている。そこでニワトリたちは、毎日、利己的な餌の奪い合い、順序付け合戦に明け暮れることになる。まさに実に人間的な利己主義社会を体現しているではないか!
     人間社会は、こんな肉食恐竜の末裔、ニワトリ社会から比べて、いったいどれほど進化したのだろう?
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     この数年、人類規模で起きている金融危機の始末を見ている限り、我々はニワトリだった時代から、その本質において、些かの進歩もないのではないか?・・・と悲しくなるときさえある。
     まさに我々の社会は、ニワトリ並みの利己主義社会なのだ! 人情のカケラでもあったなら、どうして世界中の貧しい人たちが石油や食料の暴騰に苦しむような残酷な投機ができるだろう?
     ゴールドマンサックスらユダヤ投機集団のやっていることは、アメリカ政府に財務長官を送り込み、自分たちに都合よく公的資金を引き出し、失敗のツケを国民負担に押しつけているだけだ。それどころか、テロをでっちあげて危機感を煽り、若者たちの命を金儲けのために弄び、戦場に送り込んで、莫大な利権を掠め取っているのだ。
     世界中の人々が苦しむのに目もくれず、石油や食料を買い占め、値をつり上げ、社員は数千億円という給料ボーナスをかすめ取ってゆく。まさに、これほどの凄まじい利己主義を実現してみせた強欲組織は、人類史上かつてなかったといえよう。
     もし、地上に本当の悪魔がいるとすれば、それはゴールドマンサックスやJPモルガンなどユダヤ金融資本のことではないか?
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     筆者はこれまで、こうした利己主義を生みだしたメカニズムは「競争」だと指摘してきた。
     我々は、生まれたそのときから競争に追い立てられ、「他人より秀でよ、成績を上げよ、社会的評価を求めよ、覇権を求めよ、蓄財せよ」 と息つく間もなく鞭打たれ、走り続けさせられてきた。立ち止まれば、そこでは自殺の運命しか許されない社会だった。
     「末は博士か大臣か」・・・「人を出し抜くことこそ正義」と幼いうちから洗脳させられ続け、競争を正当化させられてきた。
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     競争を正当化する理屈とはなんだったのだろう?
     それは、人には、というより生物にはプログラムされた「競争・闘争本能」があり、自然には劣位種(オチコボレ)を競争によって淘汰する原理が働いているというわけだ。
     競争によって、人々は知恵と認識を深化させ、次々と合理的なものを産み出し、社会を進化させてゆくというメカニズムが語られてきた。確かに、そうした一面は否定できない。
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     だが、他方で、競争は人々に非情な淘汰排除を正当化させ、優越志向をもたらし、ヒトラーの提唱した優生保護思想をも正当化してきた。
     社会に役立たない、障害者やライ・結核患者など弱者を抹殺せよ・・・と、日本でもライ患者の生んだ子を取り上げて殺害することが平然と行われてきた。ヒトラーは、ドイツの障害者を30万人以上、ガス室で抹殺したといわれる。(T4作戦)
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    こんな思想の行き着く先は、「そして誰もいなくなった・・・」というオチでしかない。優れた者だけが生き残るとすれば、最期には誰もいなくなるのである。
     そんなことも気づかず、人々は競争に勝つ「優れたもの」に憧れ、いわば「スグレ主義」というべき観念的偏執を産み出し、他人を蹴落として自分だけが優位に立つ弱肉強食の、残酷な社会を作り出してゆくことになる。
     上流階級に集う経営者たちが、労働者を苛酷に扱い、血の一滴まで絞りに絞って合理化し、大衆を宣伝で騙して必要のないものまで買わせ、自分の会社を行き着くところまで拡大して「一番」になりたがるのも、こうした「スグレ主義」あるいは優越特権志向の産物であろう。
     こんな思想がもてはやされる社会では、やがて、かつてナチスや日本軍統制派がやった劣等民族大殺戮処分の思想が復活するにちがいない。
     それでも、あなたは優れたものが欲しいか? 劣ったものを処分したいのか? 競争原理を信奉したいのか?
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     実は、ユダヤ金融資本が、あれほど傲慢で強欲な世界資産の独り占めを行っている理由も、彼らの教科書であるタルムードという教典の教義を実行しているからだ。
     タルムードには、世界は最高エリートであるユダヤ人のためにあり、ユダヤ以外の人々は、ユダヤに奉仕するためのゴイム(家畜)であると明確に記されていて、ゴイムの命や財産をユダヤのために勝手に使っても構わないとまで書かれている。
     その理由は、彼らユダヤ教徒が神に選ばれた民であり、「優れているからだ」というわけだ。
     こんな思想こそ、競争と進化を金科玉条にした人たちの行き着く先なのだ。だから、世界のスグレ主義、人類の進歩の歴史は、ユダヤ人を中心に行われてきた。
     人類の先進技術のほとんど、核に至るまで、進化だけを目指したユダヤ教徒たちの尽力によるものといっても過言ではない。
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     もし人が競争しなくなったなら?
     その人間的成長も、社会的進化も、恐ろしいほどスピードが落ちて、自然の脅威や社会的問題を解決する能力すら失ってゆくかもしれない。
     いわゆる先進社会は消えて、ニューギニアやアマゾンの奥地に暮らす先住民のような生活を連綿と続けることになるかもしれない。
     だが、その何が悪いのか? という視点も見失わないようにしよう。ロボットが生産し、あらゆる生活が自動化されるオートマチック社会が、はたして人間に本当の幸せをもたらしているのか? もう一度、よく考えるべきだろう。
     筆者は、ニューギニアの山々に裸で暮らす人たちに憧れる口だが・・・。
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     子供たちは競争のなかで成長を見いだしてゆく。人類史においても、「競争とは進化の属性である」という理解も決して間違っていないだろう。
     競争は諸刃の剣であった。それは人類に優れた技術をもたらしたとともに、世界を支配する独裁者と、ゴイムとして使役される哀れな大衆の二極社会をもたらすことになった。
     物質的な豊かさと引き替えに、心の貧困を招いたとも言えよう。ごく少数の幸福な特権階級と、大多数の貧しい悲惨な家畜人類を作り出すことになった。
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     生命は競争と淘汰の苛酷な宿命を背負わされている。であるとするなら、人類に利権競争と弱者淘汰の宿命はやむをえないことなのか?
     いや、そうではない。それをもって人を究極に差別する利己主義社会を正当化することなどできないのだ。
     なぜなら、ニワトリよりも進化した高等動物たちのなかには、はるかに利他的な助け合い社会を構築してきた種もたくさんいるからであって、例えば、オオカミや類人猿の群れでは、鮮明な利他主義に貫かれているものもあるからだ。
     一番進化しているはずの人類だけが、古代恐竜なみの利己主義に退化してしまっているのは、いったい、どういうわけなのだ?
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     我々は、競争・闘争本能が社会をどのように支えているのか? 競争原理とは何か? そして、それが社会をどのように破壊しているのか? その両面を見て、本当に人類の未来に必要な思想とは何であるのか? しっかりと考えておく必要があるだろう。
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     我々は、人を成長させ、人類を進化させてきた「競争」というメカニズムをどのように位置づけ、利用し、そうして「人情味溢れた持続可能な社会」を、どのように構築していったらよいのか? はっきりとした理解をしておかないと、再びヒトラーの亡霊を呼び覚ますことにもなりかねない。
     今、ゴールドマンらユダヤ資本のやっていることは、ヒトラーの世界統一支配を経済面で行っているに他ならないからだ。
     このままゆけば、ユダヤ金融資本は、タルムードに書かれている通りの社会を、彼らの宗教的理念に従って実現してゆくことになる。
     競争原理を絶対視し、人類に無数の階段序列を設け、最高位に位置するユダヤ教徒が、大多数の民衆をゴイム(家畜)として利用する社会がやってくる。
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     そんな統一支配の武器がコンピュータであって、すべての人民に18桁の背番号を設定し、巨大なコンピュータで、生まれてから死ぬまで家畜として管理し、利用する社会なのだ。
     我々は、こうした恐るべき悪魔の目論見に対し、明確にノーを突きつけるときがやってきた。
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     競争原理は利己主義しか生まない。競争と進化だけが人生のすべてではない! 我々は競争から解放されて、のびのびと自分の足で大地を踏みしめ、誰からも追い立てられず、自分の意志で歩みたいと。
     そうして、他人を淘汰して自分が特権を得たいわけではなく、みんなが楽しく過ごせる社会、差別のない、明るい楽しい社会が欲しいんだ! ・・・と、大声を上げる日がやってきた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     

    aho
     利己主義から利他主義へ その8 子供たちの未来こそ

     「みんなが利己主義に走れば、結局、社会も人生も滅ぼしてしまう」という真理は、誰にでも分かる、恐ろしいほどに簡単な原理だ。
     みんなが自分のことしか考えなくなれば、協調で作り出されている社会なんか、あっというまに壊れてしまう・・・こんなことを分からない人がいるのか?

     それなのに、我々が生きている、この社会は、自分の利益しか考えない利己主義に完全に呑み込まれてしまい、すでに取り返しのつかないほど根底から崩壊してしまっているのだ。
     小金の余った老人やOL、主婦まで、みんなが金儲けを狙ってゼロサム(誰かが儲かれば、誰かが必ず損をする)の投機ゲームに夢中になり、儲かるファンドに投資し、ファンドがますますボロ儲けを狙って、石油や穀物を買い占めてガソリンや灯油、トウモロコシが暴騰した。それは今も続いている。

     おかげで、貧しい人たちは厳冬に暖房もつけられず、老人たちの寿命が大きく縮まっている。貧しい家庭の子供たちが、暖房も食事もまともに取れなくて寒い辛い思いをしている。
     飢えて倒れた人をまたいで歩く人々、今日のオカズも買えない人たちの脇を、投機で儲けた人の豪華なベンツが猛スピードで走り去ってゆく。
     こんな社会にしたのは、いったい誰なのか? 何なのか? 分からないとは言わせない・・・・。

     こんな強欲人間ばかりが世界を席巻してしまった。だから、世界経済は巨大な借金に押し潰されて崩壊している。もう取り返しがつかない・・・。
     今、見せかけだけ景気が回復しているように見えるが、実際には、この景気は政府が国債を信じられないほど増刷し、紙幣を印刷しまくって、株を無理矢理買い支え、ツケを子供たちの未来に回しているだけじゃないか・・・もちろん、こんなインチキ対策のメッキが剥がれるまで時間はかからない。
     我々は、やがて、911のツインタワーに閉じこめられた人たちのように、凄まじい崩壊地獄に直面することになるだろう。それは、たぶん前触れもなく、突然やってくる・・・。

     「利己主義じゃ、ダメなんだよ・・・」
     欲望に汚染されない子供たちにとっては、ありふれた人間関係から、毎日のように思い知らされる、あたりまえの真理であって、分からない方がどうかしている。
     それなのに、どうしても分からない人がいる。それは、分かると困ることがあるのだ。真実を見つめたくない人が、当たり前の真実に、最期まで気づこうとしない。
     金儲けだけが人生の目的だと信じている人に、「それは愚かな間違いだ、大切なことは物質の豊かさでなく、心の豊かさだよ」と繰り返し諭しても、決して聞き入れることはない。
     あたりまえのことも見えないのだ。みんなが、やっているからだ。周囲しか見えないからだ。牧童に追われる羊たちのように、立ち止まることもなく、追従だけに生きているからだ。我先に進む競争に夢中になっているからだ。
     そうだ我々は、家畜のように飼い慣らされている。競争社会のなかで、それ以外のものが見えないように洗脳され続けている。

     【アンデルセン童話 「裸の王様」より:
     新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。
     王様は大喜びで注文する。
     仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。
     家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。
     見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついにみなが「王様は裸だ」と叫ぶなか王様一行はただただパレードを続けた。】

     誰の目にも、王様が裸に見える。しかし、裸に見える人は「馬鹿」だという噂が飛び交っている・・・だが、王様は裸だ。自分は馬鹿かもしれない・・・「自分が馬鹿だなんて・・・ウソー・・・」 内緒にしようね・・・。
     目に貼り付いた厚い鱗のおかげで、誰もが目の前にある、ありふれた真実を直視できないのだ。
     あなたの目に貼り付いた鱗は何でできてる? それは、自分だけがトクをしたいという強欲ではないのか? その鱗のおかげで、真実が見えない。だから、王様が裸だと言えないんだよ。

     なぜ、あなたは強欲になってしまったのか?
     それは、たぶん競争社会に置いてけぼりにされる恐怖心、カネ持ちや権力者、エライ人へのコンプレックスからだろう。
     「自分はオチコボレでないんだ」
     と安心して、オチコボレになる恐怖心から逃れたいんだろ? オチコボレがひどい目に遭わされるのを見せつけられてきたからな。あなたは、エライ人にならなければ人生の勝者になれないと信じ、脇目もふらずにひた走ってきた。
     あなたは競争社会に煽られ、焦り、そして必死になって追従し、それゆえに、あなたの目には厚い鱗がこびりついてしまったのだ。

     「みんなと同じでいたい」 つまり「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
     の人生を送ってきた。
     だけど、たまにはオチコボレになる恐怖や出世・蓄財の競争を忘れて立ち止まり、よく考えてごらん。
     あなたの目指す、人生の勝者なんて、いったいどこにいるんだい?
     みんなが羨む、素晴らしい人物なんて、いったい、どこにいるんだい?
     よーく確かめてみな。大統領も天皇も法王も、タダのアホばかりじゃないか?

     筆者は、半世紀を超える人生のなかで、これまで、本当に完璧な人など一度も見たことがない。すべての人に、さまざまな間違いがあり、ウソがあった。
     「馬鹿」でない人など、一人もいるものか・・・釈迦だってキリストだって馬鹿だよ。馬鹿でなければ、キリストの名で人類最大の殺戮なんか起きるはずがない。釈迦だって、ただの、「エエとこのボンボン」じゃないか。
     偉大なソロモン王が、部下の女房を寝取ったことを隠したさに部下を戦場で殺させたのは有名な話だ。ムハンマド(モハメッド)や孔子なんて、もっとひどいぞ。
     ムハンマドは9歳の少女を妻にして強姦した。だからイスラムでは児童性犯罪が日常化している。女性を奴隷化して、どれほど虐殺させたか見当もつかない。
     孔子も凄まじい。女房を奴隷のようにこき使って何度も逃げられた。孔子がいなければ、中国や北朝鮮の傲慢な権力犯罪など生まれなかったかもしれない。孔子こそ、見えない裸の王様の服を、見えると言い張った真のウソツキだ。
     今、世界の聖人の頂点に立っていたはずのローマ法王が、性職者たちの児童性的虐待を隠蔽してきたことが暴露され、世界中から糾弾されてるじゃないか。
     偉人・聖人なんていってみたって、この程度なんだよ。

     もちろんのこと、日本のエライさんたちも負けてないぞ。
     「日本をお作りになった、ありがたい天皇様」の正体は、朝鮮人渡来者の一人にすぎない。元をただせば、中央アジア(キルギス)からやってきた人たちだよ。
     池田大作だ、大川隆法だなんてのは、もう書くのもウンザリだ。メシがまずくなるから、やめておこう。
     このブログを書いてきたら、我ながら、どうみても馬鹿丸出しの筆者を「先生」と呼ぶ者まで現れた。筆者は、地球上のどこへ出しても恥ずかしくない(いや恥ずかしい)立派なアホの一人だが・・・(ΘoΘ;)

     筆者は、何度も書いてきた。
     「地球は苦悩の惑星だ。地球にはアホしかいない。アホだから地球に生まれてきた」
     と、つまり、我々の生きている、この人間社会に、完全な人など皆無。全員が地球だけの、ある特別な事情でアホに生まれているんだ。それを認めたくないから、裸の王様の服が見えるとウソを信じてしまうわけだ。
     「自分はアホではない!」
     と信じたい。だから詐欺師に騙される。騙されたくないなら、自分を直視せよ。自分のアホさ加減、馬鹿さ加減を思い知ったらどうだい?
     自分の利己主義が、社会をどれほど破壊してきたか、いいかげんに直視したら、どうなんだい?

     人間なんてアホでいいんだよ・・・・。。。(〃_ _)σ?
     人の一生は、生まれて育ち、生きて、育てて、死んでゆく。それだけじゃないか?
     「人間、立って半畳、寝て一畳」
     人生には、それだけしか必要ないんだよ。人類を数百回も滅ぼす核兵器が、どうして必要なんだい。どうして世界一の称号が欲しいんだい? どうして人様から羨まれる必要なんかあるんだい?

     誰からも認められなくとも、自分の心のなかで、子供たちの明るい未来のために、人様の幸せのために働いているという自己満足があれば十分じゃないか。
     人生、タダのアホで十分だ。大切なのは、自分の心だよ。他人の評価じゃない。自分が悔いなく生きること。それだけが人生の真の目的なんだ。
     そして、「悔いなき人生」とは、子供たちの素晴らしい未来に奉仕することだ。
     これが「利他主義」というものだ。

     我々は全員、一人残らずアホなんだ。特別な人など一人もいない。釈迦もキリストも、皇帝も、天皇も、法王も、モーゼもアホだった。もちろんオイラも・・・。
     自分がアホだという真理を自覚した、その瞬間、我々は、アホでない正しい道を歩むことになるだろう。
     それが利他主義だと筆者は書き続けてきた。

     自分もアホなんだから、他人をアホと馬鹿にするな。「間違いをしでかしたアホは死ね!」と制裁し処刑するようなアホなことはやめておけ!
     と、始めて言えるようになるわけだ。

     「利他主義」を目指す我らは「他」のために人生を捧げる。「他」とは何か?
     一番大切なそれは、子供たちの明るい未来だろう。
     子供たちが、健やかな明るい人生を楽しめるように、我々は人生を捧げる。なぜなら、我々自身が、祖先・先人の努力、子供たちの未来を大切にしようとした利他主義によって、この人生を支えられたからだ。
     誰からも評価される必要はない。タダのアホな人生で十分だ。だけど、子供たちの明るい未来を支えるために人生を費やしてきた。
     この利他主義の満足だけで、どんなエライ、立派な人よりも、素晴らしい人生を送ったと納得できるんじゃないかい?


    huri 利己主義から利他主義へ その7

     人々が利己主義だけを求めて行動するようになれば、たちまち社会が根底から崩壊すると、筆者は繰り返し主張してきた。
     逆に、みんなが他人の喜び、笑顔を愛し、その利益に奉仕し、社会全体が良くなるように願って行動すれば、たちまち素晴らしい天国に変わるのは当然だ。

     人間の生活が紡ぎ出す史観から見れば、これまでの人類歴史は、利己主義を求める勢力と利他主義を求める勢力の争いであったと言える。すなわち、人を家畜のように利用して自分だけが利益を独占したい権力者たちと、みんなで平等に助け合って生き抜こうとする名もなき利他主義者たちとの争いの歴史であった。

     歴史を記録するのは権力である。利他主義者たちは、自己顕示欲の強い権力者のように自分を飾って記録する必要はなかったから、その人生も思想も時の彼方に埋もれてしまっている。だが、それは何気ない生活習慣・民俗のなかに深く密かに息づいているのだ。
     人々の生活を支えてきた機織機や脱穀機、鍬や刃物や農産品種、田畑の作り方、衣類や家の構造などに、それが息づいている。(筆者は、いつか、こうした民俗道具のなかに息づく利他思想を明らかにしてみたい)

     権力が自分に都合良く書き換えた記録ではなく、真の生活進化歴史を知るためには、こうした民俗学の立場で、利他主義者たちの紡いだ歴史を知ることが大切である。今の学問は権力に奉仕するためのものだから、利他思想の歴史を教えることはない。したがって、それは自分で探し、見抜くしかない。

     「後世に自分を残したい」と考えるのは権力の大好きな利己主義者だ。利他主義者にとっては、今、目の前にいる他人の幸せだけが問題なのであって、自分のことなどどうでもよいわけだから、残す必要もない。
     だから歴史は権力史であり、利己主義者のものであることを見抜いておく必要がある。真の歴史は、歴史教科書のなかには存在しない。
     それは、あなたの着ている服、あなたの食べ物、あなたの家、あなたの机、あなたの生活を支えるすべての知恵と工夫の、進化のなかに息づいている。
     それは人の愛の歴史、成果なのだ。それを見いだすことこそ、失われた真の学問なのである。それは辛うじて民俗学(文化人類学)のなかに存在している。我々は、この生活の学問を大切にしなければならない。

     国家権力の大好きな利己主義者たちは、利他主義が生みだした成果を横取りして自分のために利用し、増殖させてきた。利他主義者たちは、見かけの上で、いつでも敗者であり、いいようにあしらわれてきたように見える。
     これまでのところ、どうやら利己主義側が完全勝利を収め、利他思想を滅ぼそうとしているように見える。
     しかし、それは上辺のことであって、真実は一人一人の心のなかにある。人は利他主義によって誕生し、支えられ、未来を紡ぎ出してゆくのである。その証拠に、我々の生活を高いところから見渡してごらん。利己主義者によるもの、国家権力による成果など、どこに見えるのか?
     今、我々の生活を支えている、すべての技術、物資は誰が開発し、作り、利用しているのか、よく考えてごらん。それは利己主義から生まれたものではない。
     人類が利他主義を見失ったなら、滅亡以外の道は残されていないのだ。なぜなら、利他主義だけが人々の成長と暮らしを支えているからだ。 

     人類史における利己主義の歴史を見てみよう。その正体は、記録された歴史とは、まったく異なる姿であることに驚かされるだろう。人類に利己主義をもたらした一番の犯人は誰か?
     私有財産なのか? 家族制度なのか? 国家権力なのか?
     いや、それらの背後にあって、決して姿を見せない、はるかに恐ろしいイデオロギーであった。

     それは、見かけだけ神のように威厳があり、慈愛に満ちた宗教思想である。だが、その正体は、人が人をカネで支配する社会を作ったユダヤ教徒の思想である。
     というより、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の原型となった教義、「旧約聖書」(旧約の意味は、神との旧い契約)である。
     旧約聖書こそは、女性を男性の奴隷・家畜として利用する社会システムを人類に与えたものだ。それは数十万年にわたる原始共産社会、母系氏族社会が破壊され、男系氏族社会、家父長社会が成立し、それを正当化し洗脳するための教書であった。

     創世記から
    【…女に向かって言った。私はお前の産みの苦しみを大いに増す。お前は苦しんで子を産む。それでもお前は男を求め、男はお前を支配する。それから神は最後にアダムに言った。お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、大地は呪われるものとなった。お前は生涯、苦しんで地から食物を取る。大地はお前に対して、いばらとあざみを生えさせ、お前は、顔に汗してパンを食べ、ついに土にかえる。人は塵だから塵に帰る。アダムは女をエバ(命)と名づけた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。】

     旧約は、女を男に奉仕するための奴隷と位置づけ、家父長の権力と財産を、その子に相続させるため、女性の性を苛酷に規制してきたのだ。それは母系社会を否定し、男系社会を正当化するために登場した。
     女性が愛に導かれて定められた男以外に体を開けば、それだけで残酷に殺害される掟であった。これは女性を男性の奴隷として利用するための思想なのだ。
     旧約こそ、女性を根源的に差別する最初のイデオロギーであり、世界のすべての差別が、ここから始まったのである。

     ノアの子、セムの子孫たちは、シナイ半島からチグリス・ユーフラテス河畔に定着し、やがて、旧約聖書を共有し、ユダヤ教を成立させた。
     分けても、タルムードという教義は、自分たちが「神に選ばれた特権階級」であって、他のすべての人々は、自分たちに奉仕する家畜(ゴイム)であると決めつけるものだった。
     それは、最初の根源的差別である「女性差別」が成立した後に、必然的に派生する思想であった。差別は際限もなく勝手に増殖し、新たな差別と苦悩を次々に産み出すのである。

     中東で繁栄したユダヤ教徒のなかで、やがて、「旧約は間違っている」と、一人の男が民に語り始め、新しい契約を示した。
     これがナザレのイエスだ。だが、ユダヤ教徒、分けても「マムシの子ら」とイエスが憎んだパリサイ人は、自分たちの利権を壊されることを恐れて、イエスを激しく憎み、陰謀によって殺害した。

     彼らは、狡猾な「陰謀マニア」だった。彼らは、あらゆる場面で歴史の表舞台には決して登場しない。過去三千年にわたって、必ず権力の背後に隠れて、カネの力で権力を操り、宗教や政治を思うままに操り、自分たちの利権を構築してきたのだ。
     イエス殺害後、広く世界に頒布された新約を潰すため、ついにはキリスト教まで乗っ取ってしまった。
     イエスの「新約」神との新しい契約は、旧約を否定するものだったはずなのに、『ユダヤ教徒が作った「キリスト教」』では、新約を聖書と崇めながら、ほとんど引用しない。教えるのは旧約ばかりだ。これがローマカトリックである。
     だからこそ、イエスは「処刑せよ、虐殺せよ」などと一度も教えていないのに、「イエスの名において」、十字軍・魔女狩り・異端尋問・布教などで数千万人に及ぶ膨大な人々を殺戮して回った。それはイエスを本質において冒涜する悪魔の宗教となった。
     最近ではインターネットのおかげで、これまで隠してきた司教による児童性犯罪などの悪事が暴露されるようになり、もはや風前の灯火にまで追いつめられている。

     パリサイ人たちを特筆すべき事情は、彼らがカネと銀行を発明し、資本主義の元祖となったということだ。イエスが彼らを憎んだ事情も、パリサイ人が人に金を貸し付け、その金利が膨れあがってゆくことに憤ったからだった。
     このことが、実は人類史が金で支配され、権力を利己主義に彩る根源となった。パリサイ人たちの末裔こそ、資本主義の黒幕であり、現代社会の富の大部分を手中にするロスチャイルドらユダヤ財閥なのである。

     旧約聖書のもたらした最大の害悪は、女性を男性の奴隷として位置づけることにより、真実をねじ曲げ、隠蔽したということである。
     真実は、女性と男性は同じ人間であって、互いに相手を人間として尊重し、協調して人生と生活を築いていかねばならない。そこに差別が成立する必然性など皆無なのだ。
     だが、旧約を信奉するユダヤ教やイスラム教では、そうではない。女性は男が利用する家畜でしかないのだ。こんな間違った思想を信奉し、DV暴力や残酷な死刑の恐怖によって女性たちに差別観を無理矢理押しつけてきたのだ。
     だが現実は、まるで違う。女性は家畜などではない! 男女は平等なのだから、至る所でほころびが出て、旧約信奉者たちは不自然なウソを正当化し続けなければならないことになる。

     旧約はウソの上に生活と権力を構築したのである。したがって、旧約を正当化し続けるということは、自分も他人も、すべて騙し、ウソの世界に埋没することを強要されることだ。
     このことが旧約登場後3800年の歴史のなかで、人類全体にどれほど悪影響を与え続けたか知る必要がある。
     まさしく、地上の利己主義のほとんどは、こうしたウソから生まれ、拡大していることに気づかねばならない。
     女性を差別する人たちは、必ず、それだけでなく、あらゆる人間を差別するようになる。これがヒトラーに代表される優生保護思想である。
     ユダヤ教タルムードの、選民思想、「世界人民はユダヤ教徒に奉仕するための家畜として生まれてきた」という勘違いが、人類に、どれほど、ひどい不幸をもたらしたのか、我々は直視すべきときがきた。

     まさに、そんな差別思想の持ち主たちが、世界の科学技術をリードし、世界中の資産を所有し、世界人民に資本主義を押しつけ、そして世界人民を家畜として支配しようとしているのである。
     世界に科学技術幻想から原発をもたらし、ハプスブルグからの欧州王家、中華皇帝や天皇制をももたらし(孔子儒教と天皇神道の本質はユダヤ教である)、死刑制度をもたらし、資本主義と金融帝国主義をもたらしているのだ。
     旧約こそ、利己主義の根源にあり、世界史のなかで戦争や差別、搾取、人類の苦悩をもたらし続けたことを今こそ、我々は見抜かねばならない。

     我々は、もう一度歴史の根底に流れる真実を見直す必要がある。
     人類に限りない苦悩と悲惨をもたらし続けた世界権力史の根底に、旧約聖書が存在している事実を知らなければならない。
     そうして、権力史とは、まったく別に、民衆の利他主義による真の歴史が隠されてきたことに気づかねばならない。
     我々は、どちらの道を目指すべきか?

     我々の人生は、利他のために費やされる。他とは誰なのか?
     それは、子供たちの心暖かい未来、ウソや抑圧のない解放された未来に奉仕する利他思想が必要であることに気づかねばならないのだ。
     続く

     kane 利己主義から利他主義へ その6 群れと競争

     今起きている経済の大混乱について、ほとんどの人が「深刻な大不況」という程度の認識しかないが、たった今、我々は、本当は人類史最大級の激変に直面している現実を知らなければならない。

     それは地上を支配してきた、すべての価値が崩壊し、生きるため新たな価値観の再編が要求される時代になったということだ。
     家族・国家・宗教・カネ・仕事、あらゆる規範・価値・組織が自滅し、我々は絶望的な混乱に投げ出されようとしている。
     我々は、これから何が真実か見極め、新たな価値・仕事・人生の目的を求めて彷徨わねばならないのだ。

     60歳を過ぎた老人にとって、価値の崩壊は辛い現実だ。もう適応力がない。だが、これほどの激動を招いた原因は、その60歳代の団塊世代が強欲に走り、歴史的な社会秩序を金儲け欲によって破壊してしまったことにある。
     団塊世代は、自分たちの行ってきた強欲、カルマの果実を収穫しなければならない。それは、価値と信じて帰属してきた組織の破滅であり、依るべき心の故郷の喪失である。それは、家族の崩壊という形で、子供たちに忍び寄っている。
     団塊世代は、自分たちが求めてきたものが、どれほど社会を破壊し、子供たちの未来を破壊する危険なものだったのか、これから思い知らされることになるだろう。

     これまで筆者は、我々が、互いに孤立させられた一夫一婦制小家族から、多夫多妻制、互いに助け合う共同体の大家族生活スタイルに回帰する必然性をもっていると主張してきた。
     もう人生の果実と信じられた、名誉や社会的評価、一戸建て豪邸・美人妻・高級車・学歴といった虚構価値は強欲とともに腐敗死滅しているのだ。

     やがて人は、これまでのような他人と競う自我に支配された個人から、共同体に帰属する一部品となって個人の自我も失われるだろう。そうなれば、これまでの価値はすべてゴミに変わる。
     「自我を許さない組織」というイメージに、命令に無条件に従う天皇の軍隊のようなファッシズム組織を思い浮かべる人も多いだろう。だが、もちろん天皇制信奉者が吹聴するような、「王を戴く共同体」などではない。

     天皇制社会が共同体であるかのように主張する北一輝のような思想もあるが、それは王権社会であって、天皇への信仰、統治を利用した特権階級の利権確保システムに他ならない。
     それは、池田大作の支配する創価学会や、文鮮明の統一教会と同じものであり、本質は洗脳と詐欺に他ならない。神格的存在に憧れる陳腐な右翼の妄想に騙されてはいけない。

     これらの欺瞞的組織は、支配と利権のシステムを必ず世襲しようとするから、「権力世襲」を見たそのとき、これが低俗な利権の世襲であることを理解できるはずだ。「世襲」が現れたとき、それは大衆に敵対する勢力である。
     よって、天皇制も、北朝鮮も、統一教会も、自民・民主世襲議員も人間に敵対するインチキ利権勢力であり、すべて打倒・破壊・廃棄の対象でしかない。

     王権を利用して組織を支配する側と、家畜のように支配される民の分断された組織体は断じて共同体ではない。この原理を明確に認識できない者は、「共同体」の意味をまったく理解できていない。権力がなければ生きて行けない王権と、権力を作らない共同体を混同してはいけない。

     ただし、個人の自我が、組織によって吸収されてゆくという本質では似た部分もある。だが、共同体には構成員を家畜のように利用・使役・搾取する者などいない。いるとすれば、それは王権組織である。
     構成員は、帰属する群、共同体を一つの人格、自我として共有し、個人の人生は共同体の全体の利益に捧げられる。みんなの命や生活を守るための努力こそ、人生の最終目的と認識されるようになる

     ところが、王権組織(国家)は、首長と、その取り巻きに利権が集中し、利権システムを守るために、所属する民衆を家畜のように利用し、搾取し、命を弄ぶものである。
     構成員に明確な格差が成立しているものこそ、王権組織である。口先で社会主義であるかのような宣伝をしてみても、差別制度を温存する国家は、すべて王権である。
     差別・格差を本質とする王権の組織体制では、個人が組織に人生を捧げるモチベーションなど芽生えるはずがなく、したがって共同体が自発的モチベーションだけに依存するのに対し、王権では民衆動員のすべてに洗脳・武力・強制力・契約が用いられることになる。

     こうした王権組織にとって望ましい民衆生活(王権が期待する人間像)とは、どういうものか?
     それは「庚申信仰」のように権力維持に都合の良いもので、「見ざる、言わざる、聞かざる」 対話せず、自発性もなく、言われたことだけをやっていればよい無知蒙昧、愚鈍で従順な人物像である。
     このため、王権は、歴史的に民衆から力を殺ぎ、従順で愚鈍な人間性に仕立てるための、さまざまなシステムを開発してきた。その最大の核心部分が家族制度であった。

     そもそも、今、我々が当然の慣習と認識している「一夫一婦制小家族」が定着した歴史的理由は、王権・封建領主や資本家が、民衆を効率よく支配し、自分たちの独占的利益を確保するための民衆統治システムに他ならなかった。

     我々は、本来、数十万年前の大昔から、「群、共同体」(母系氏族)で生活していたのである。こんな大家族こそが、人間にとって、もっとも自然で効率的、合理的な生活スタイルであった。
     ところが、数千年前に強大な権力・武力を得た「王権」(男系氏族)が成立し、生活地域が「領主」を称する武力集団によって支配されるようになると、権力から独立し、ときに敵対する可能性のある「共同体」が王権領主の脅威となった。

     大家族共同体には、対話と知恵による合理性が集積され、人のモチベーションも高く、極めて活発な活動を行うため、王権の不合理を破壊する急先鋒となることが多かったからだ。
     このため、大家族生活の共同体を分断し、その対話による団結を破壊して力を殺ぐ必要があり、一夫一婦の小家族に孤立させることで弱体化し、共同もさせず、知恵を抑圧し、「知らしむべからず、依らしむべし」と、従順な家畜になることを要求したのである。

     例えば、日本史をみるなら、大和政権成立の時代、日本列島はたくさんの部族王権のひしめく時代であり、また無数の共同体によって拮抗した社会だった。
     大部族は互いに覇を競って争いを続け、そのなかで、朝鮮から渡来した戦闘力の優れた強大な秦氏(百済王家)末裔、天皇家が統一王権を宣言することになった。
     王権は、天皇家から源平・北条・足利氏、そして織田・豊臣・徳川と変遷したが、その間、全国に無数に成立していた豪族、小領主、地域共同体は、徴兵組み分けによって次々に分断され、孤立した家族に矮小化させられていき、最期には強大な大領主と無力な一夫一婦制家族の支配関係にまでされてしまった。

     数十名単位の大家族共同体であった農民の生活も、家康によって統制的な五人組共同体に強制的に組分けられていった。
     これに明治維新以降、資本主義が持ち込まれると、さらに五人組も解体され、徴兵納税義務から、一夫一婦制小家族への分断がさらに進み、村落共同体ですら破壊されるようになった。

     資本主義工業が要求する生活スタイルは、生産効率の要求に応じて容易に移動赴任できる一夫一婦制であり、物言わぬ家畜として支配するために、共同体にある頻繁な対話、民主的習慣を奪うことでもあった。
     また小家族に分断すれば、商品需要も増大する。共同利用の習慣を破棄させ、家族毎に生活用品を必要とし、助け合いの効率性を奪い、それに変わる商品ニーズを産み出した。
     たった二人の家族であっても、テレビや洗濯機、車が必要になり、大家族に比べて節約せず、非効率な浪費に走ることになり、資本主義需要を大幅に高めて歓迎されることになった。

     また小家族に分断したことで生まれた最大の成果は、「競争主義」であった。家族同士、見栄を張り合って、次々に浪費や贅沢を競合して拡大するというニーズ増大も生まれることになった。
     これが大家族の効率的な生活スタイルなら、現在の資本主義経済の規模は、おそらく数分の一に縮小してしまうだろう。
     一夫一婦制小家族制度によって、民衆は競って贅沢浪費の資本主義スタイルに埋没し、競争主義に洗脳されて、人生を全力で疾走しなければならないことになった。

     こうして、大家族の共同体生活で育まれていた「利他主義」が、小家族の見栄張り競争のなかで失われてゆき、人々は新たな「利己主義」の価値観に洗脳されていった。
     そして、利己的価値観が社会全体を支配するようになった結果、無言で社会の底辺を支えてくれていた民衆が消え去り、無私のボランティア精神、利他思想によって社会を支えるという「道徳的規範」も忘れ去られていった。
     このことで、とりわけ、社会の安定的運営の要にいる役人たちの腐敗が進み、「民衆に奉仕する」という役人の矜恃が失われ、天下りや業者との癒着利権に走った役人たちによって、日本社会は大きな音を立てて崩壊を始めたのである。

     小家族に分断され、矮小化した生活のなかでも、我々の群れへの帰属意識、本能は遺伝子に強く刻み込まれているわけだから、人々は無意識のうちに、帰属すべき群れを探して彷徨うと前回に指摘した。
     こうして、人々は、競争し、対立しながらも、帰属すべきアイデンティティを探し、高学歴、インテリ集団、経営者集団、中産階級などの帰属を求めてひた走ることになった。

     そうした帰属本能に規定され、強欲な金儲け競争のアイデンティティを目指したのが、世界的な意味での団塊世代であった。
     彼らは、競争本能に突き動かされ、「イチバーン」を求めて、拡大競争、強欲競争に走り、環境を破壊し、資源を浪費し、子供たちの未来に借金、ツケを回して、自らの利権を確保し、「持続可能な社会的基盤」をことごとく破壊し、取り返しのつかないほどの荒廃をもたらした。
     そして、その結果として、世界の金融秩序は自滅し、あらゆる組織が死滅し始めた。

     そうして、もはや、若者たちにあって、一夫一婦制による生活が成り立たなくなってしまったのだ。子供を作りたくとも、育てるカネがないどころか、明日のメシを用意するカネさえ必死に稼がねばならなくなった。
     この豪華な高層ビル街の下で、子供たちが今日の食事を取れずに飢えて過ごすという事態まで出現している。
     こうなったのは、子供たちの未来を食い潰して利権を漁った、今の団塊世代や官僚たちの努力によるものだ。

     まさに、日本は利己主義の結果が花開いたといわねばならない。
     これに対して、既存の価値観が、滅亡をもたらすという現実を思い知らされた若者たちが、身を守り、子供たちの未来を用意するために、農業共同体を結成し、一夫一婦制家族ではなく、結婚にこだわらない新たな共同体生活を模索するしか、生き残る術がないというのが現実なのである。
     今年から、追いつめられた人々は、すべてを捨てて、あらゆる価値を激変させなければならない。そのことによって団塊世代の価値観は崩壊し、老人たちの生活も追いつめられることだろう。
     だが、それは自分たちの愚かな強欲が招いたものである。

    kizoku  「群体」という生物形態がある。
     数が増えても、そのまま集合している動物体で、我々の目から見れば、巨大な生物に見えるが、その実体は、とても小さな虫の集合にすぎない。
     ヒドロ虫類、管クラゲ類、サンゴ、コケムシ類、ホヤ、サルパなどがあり、サンゴの場合ほとんど群体で、群体ではないものは特別に単体サンゴと呼ぶ。
     群体サンゴは、群れから離れて生きてゆくことができない。さまざまな意味で共生関係にあり、また群れでありながら大理石のような美しい統一構造体を持ち、珊瑚宝石として我々を魅了してやまない。

     最近、北極の深海で発見されたmarrus orthocanna というクラゲは、数十尾が連結し、それぞれが推進・捕食・消化などの役割を分担していて、全体で一尾の生物として生きる共生関係にあるらしい。何かの事情で、一部が死んでも、すぐに他のクラゲが役割を受け継ぎ、共生が生き続けてゆく。
     高等生物にあっても、狼などは社会性が極めて高い動物で、群れなくしては生きてゆくことができない。群れこそ狼の本質である。
     狼は個体が役割分担して、生殖・子育て・食料確保などを行っていて、単独になれば、生きるモチベーションを失ってしまう。そして、この社会性の故に、日本狼はジステンパーや狂犬病が浸入して、わずか60年程度の短期間に絶滅してしまった。

     さて、人間はどうだろう? もちろん、人間も狼以上に社会性の強い動物であって、群れから離れたら生きてゆくことはできない。
     柳田国男が追求した、社会から背を向けて、山奥の孤立生活を求めた人たちは、どうなったか?
     おそらく、むしろ都会生活者の何倍も人恋しくなり、人に憧れたにちがいない。また、本当に数十年もの間、孤立し、社会から隔絶したなら、それは精神の停滞、廃人化をもたらしたにちがいない。人と相対し、刺激を受けることこそ、生きるモチベーション、源泉なのだから。

     人は、決して一人では生きられないのだ。筆者は中津川市の山奥で、一人で誰にも会わず、対話もせずに長い時間を過ごすことが多いが、こんな体験を積んでみれば、人が人によって生かされているという真実を思い知らされる。
     自分にとって、人の存在が、どれほど大切なものか、大都市の雑踏のなかでは、うっとおしいばかりで見えなかったが、山奥に住んでみれば、寂しい孤独感のなかに、それを実感することができる。

     また、人恋しさゆえに、他人から疎外されたくないという思いがあり、誰かとつながっていたい、共通の価値観、アイデンティティのなかにいたいという思いを強く抱く。
     そうなれば当然、利己的な行動を慎み、全体のために奉仕する利他的モチベーションも生まれてくるというものだ。
     利他主義というものは、人を愛する気持ちだけから芽生えるものであって、利己主義を強いられる荒んだ人間関係から生まれるものではない。人が恋しいという気持ちは、利他思想を育む上で一番大切なのである。

     逆に考えれば、利己主義が発生する原因は、人が増えすぎて人恋しさを失ったという事情も無視できない。利己主義の蔓延は、増えすぎた人を淘汰するための自然発生的メカニズムと考えることもできるかもしれない。
     つまり、増えすぎた人を減らし、人恋しさを回復するため、人が利己的になって人に敵対し、競争し、淘汰しあう必然性が生まれていると解釈することもできる。そうだとすれば、これは生物本能であって、『天の摂理』という他はない。

     例えば、バッタの幼虫は、低い密度だと単独生活を送るふつうの成虫になるが、幼虫が高い密度で生息すると群生相という飛翔能力と集団性が高い成虫に変化する。群生相の成虫は、孤独相の成虫にくらべて後脚が短く、翅が長いスマートな体型となり、体色も黒くなる。
     こうなると、巨大な集団で遠い地域に飛翔するようになり、いわゆる飛蝗害、パールバックが「大地」のなかで描写したイナゴの大被害が発生し、次に集団自滅も起きる。バッタの繁栄と自己淘汰メカニズムといってもよい。

     同じように、齧歯類も大規模な増殖と死滅を繰り返す。ネズミの仲間は、生息密度が高くなりすぎるとストレスが高まって遠くに移動し、レミングで有名になった大量死に至ることがある。
     人間も同じで、大都市のように人口密度が大きくなりすぎる地域では、ストレスが高まり、結果として人が優しさを失って苛酷になり、ときに凶暴化して、大量殺戮が起きることがある。

     21世紀の現代に至っても、この問題は解決するどころか、ますます深刻化していて、人類は未だに大量殺戮(ホローコスト・ジェノサイド)の危機に直面しているといわねばならない。
     例えば、人口密度が高く、民主主義思想が浸透していないアフリカ地域、スーダンのダルフールでは、過去40年間に600万人中、200万人以上の民族浄化思想による大量虐殺死者が出ているし、この数年でも50万人を超える死者が出ている。
     ルワンダでも過去20年間に100万人以上の虐殺死者が出ているし、アメリカが侵攻したイラクやアフガンでも100万人規模の犠牲者が出ているといわれる。
     みんな分かっていないようだが、日本だって本当は安閑としていられないのだ。政府が崩壊すれば治安が失われ、必ずセルビアで起きたような大虐殺が起きると覚悟すべきなのだ。警察が消えたそのとき、人殺しが一斉に湧いて出てくるかもしれない。
     日本では、つい70年前まで、朝鮮・中国人・被差別者などが大量虐殺に遭っていたことを思い起こすべきだ。ネットウヨクの低俗な知性を見る限り、同じことが必ず繰り返されるはずだ。

     少し歴史を遡れば、人口過多といわれる中国では、文革中、国民集団発狂といえる事態で3000万人〜1億人の死者、日本人が侵略者だった太平洋戦争では1000万人を超える死者が出ており、ソ連でもスターリン指導下で6000万人の反体制側虐殺死者が出たと指摘されている。
     わが日本では、大戦中に300万人を超す死者が出た。この残酷、悲惨を昨日のことのように記憶している人だって少なくない。
     愚かとしかいいようがなく、人類の知的レベルのお粗末さを端的に表すような、こうした非日常死の本質的な理由を探すと、一因として人口過多によるストレスを上げたとしても不自然ではない。

     「地球は苦悩の惑星である」
     と筆者は度々書いているが、苦悩の理由は、必ずしも人間性の愚劣さだけでもなく、人口過多ストレスという視点を抜いて考えることなどできないのである。
     人口密度が少なく、人恋しい地域で、こうした大虐殺が発生した例は、たぶん少ないだろう。

     地球上に人類が、まだ少なかった時代。例えば西暦元年あたりの人口は3億人くらいだったが、この当時の分布と生産能力から考えれば、すでに人口は過剰に飽和しており、絶え間なき戦乱と民族淘汰の嵐に直面していた。
     だが、一万年前には400万人ほどの人口で、さすがに、この頃は遠く旅しても、なかなか人間に出会うことは少なかっただろう。
     こうなると、生殖・捕食・環境・種の維持という生物的モチベーションによって、人は人恋しく、人の群れだけが生きる支えとなったことだろう。

     この頃の人類は、普遍的に母系氏族社会であったことが明らかで、人には個体の自我という観念も成立していなかったと思われる。おそらく利己主義などという概念は想像すらできなかったにちがいない。
     人の意識にあるのは、群れのなかに生まれ、群れと共に生きる自分であって、自分の所属する群れこそ、一個の珊瑚のようなものであり、自分そのものである。自分は群れの部品にすぎず、個体の生死など問題にならず、その群れの維持、持続こそ、所属する人たちの最終目的であった。すなわち、群れが全体で一個の人格であったと断言してもよいと思う。
     したがって群れある限り、個体の生死を超えて、それが一個の人格として続いてゆくことになる。

     このとき、群れに属する個体の意識を支配する概念は、群れに依存する『帰属意識』である。
     自分の属する群れの持続が価値のすべてであって、群れを維持することだけが人生のすべてであった。
     この『帰属意識』は人類の本能に刷り込まれ、個的自我の確立した現代社会にあっても、我々の本能を固く束縛しているのである。

     今、我々が、資本主義の利己的な世界にあって、孤立し、分断され、個的な自我を強要され、「自分は自分、人は人」という疎外された価値観を抱かされているとしても、潜在意識や本能には、「群れに依存する」という習性が深く刻み込まれている。
     人は帰属する群れなくしては生きることができない。孤立した人間関係でありながら、我々は無意識に帰属すべき群れを探し、彷徨い続けるのである。

     その「群れ志向」を悪しき立場で利用しているのが偏狭なナショナリズムであり、国粋主義である。
     人が帰属すべき群れを探しているという本能をタテにとって、教育システムを利用し、「我々は日本人だ、日本国家に帰属し、その命を国家に捧げる」というような低俗なナショナリズムで洗脳しようとする。
     現在、ネットを徘徊する在日外国人に対する低俗な偏見に満ちた排外主義を喚き散らして回る連中がこれだ。
     朝鮮人だろうが中国人だろうが、その本質にあって、我々日本人と一つも違わないのに、あたかも日本人が優越的であって、外国人が劣っているかのようなケチな幻想に酔っている阿呆どもが、日本人を悪しきナショナリズムで洗脳し、80年前に起きた排外主義、帝国主義侵略の道を再び用意している。
     だが、彼らは、しょせん人間の本質を何一つ考えたことのない無知性な連中にすぎず、結局、韓国や中国の愚劣なナショナリズムを喚起し、新たな戦争による大量殺戮に陥ってゆくしかない運命だ。

     また、我々が、学校や企業などに入ると、やはり帰属習性が顔を覗かせる。
     学生時代、ヘルメットを被って全共闘なんかやってた若者が、大企業に就職したとたんに、コロッと方向転換して、企業の社員として忠誠を尽くすなんてのも、帰属本能のなせる業だが、帝国主義や搾取反対のマルクス主義者を標榜していた者が、社員になったとたん、「利益率が低いよ・・・もっと合理化できんのか」なんて言い出すのを筆者は散々見聞してきた。
     帰属意識は、民族意識や会社や学校のような明確なものだけではなく、社会的な概念での帰属もあり、一人の人間がいくつもの帰属を持っている。
     例えば、「中産階級」 「中年男子」 「初老」 「男」 「ニューハーフ」 「オフィスレディ」 「大卒」 「知識人」 なんて概念も、無意識に帰属する指標となるもので、人は、自分に共通する集団を探し出し、帰属する集団の価値観に迎合することで安心しようとするわけだ。

     このため、自分の姿形、服装の好み、発音や表現方法、判断基準まで、そうした帰属集団の価値観に埋没することになり、国母のように「オリンピック選手」という帰属から外れると、よってたかって糾弾し、制裁し、価値観を強要することで安心を求めることになる。
     筆者の地震予知HPで、地震予知が成功することを喜ぶと「不謹慎」といって批判したがる連中も、似たような帰属概念で、自分を全身がんじがらめに束縛していないと安心できないことになる。
     
     次回に続く

    kyousou 

     我々がいる、この社会が崩壊し、破滅寸前に至った理由は何だろう?
     分からないって? そりゃウソだよ! 
     心に手を当ててみな・・・本当は、みんなが十分過ぎるくらい知っているはずだ。

     意識しないまでも、うすうす感じている。しかし決して口に出さない。なぜなら、「分からない」ことにしておきたいからだ。
     社会に破滅をもたらした本当の理由を正面から見据えることが怖いから、見ないことにして、それを正当化し続けているからだ。
     口に出してしまえば、人生の指標と信じていた価値体系が崩壊し、何をしてよいのか分からなくなるからだ。

     それは、決して他人のやったことじゃない・・みんなで、いつのまにかやってしまったことだ・・・あなたも、もちろん私も、犯人の一人なのだ。
     社会崩壊の理由、それは、たった一つの言葉でくくることができる。『利己主義』だ。

     地位や金儲けを人生の目的とさせられる資本主義社会の中で、誰もが他人に敵対し、自分の利益を優先させる思想に洗脳されてきた。
     しかし、それは言い訳にならない。人生の価値は、地位や金儲けじゃなく、他人に対する暖かい気持ちのあり方だと見抜き、利他思想に生きてきた人もたくさんいる。
     しかし一方で、金儲けや地位のためなら、どんなひどいことも許されると勘違いし、社会の秩序をぶち壊してきた強盗や詐欺師のような企業家・政治家・役人たちもいる。

     多くの企業家たちは、名誉と蓄財だけを価値と考え、会社という組織を使い、他人を家畜のように見下して搾取し、使い捨てにしてきた。社会の役に立つモノを売ることより、必要性がなかろうと、よりカネの儲かるものを売ってきたし、このため、たくさんのウソまでついて商品を宣伝してきた。

     例えば、自動車産業は、今では安全性をうたい文句にしているが、実際には安全な車を売るよりも儲かる車を売ってきた。
     発泡スチロールが登場したのは1960年だ。このとき、車の前後にこれを使えば、衝突事故の損傷や事故被害・死傷率は大幅に減ると提唱した人がいた。しかし、メーカーは耳を傾けなかった。なぜなら、「かっこ悪い」から売れなくなると考えたからだ。
     ミニバス型のマツダボンゴが登場したのは1966年だ。とても便利で実用的な車で、その圧倒的な効率性から、すぐに世界中の車がボンゴスタイルになると予想した人がたくさんいた。
     しかし、実際に、乗用車がボンゴ型に追随しはじめたのはエスティマが出た1990年頃からだった。メーカーは、便利な車でなく、贅沢感を煽り、モデルチェンジを繰り返す儲かる車を目指していたからだ。

     役人たちも、地位と利権拡大だけを目指して、親方日の丸の座布団にぬくぬくと座って、企業にすり寄り、無用な事業で税金を食い物にしてきた。
     1980年代、高度成長が爛熟すると、中央・地方の役人たちが、こぞって「地方の開発・活性化」などと叫び始め、必要性もない、埋め立て、ダム建設、空港などの公共事業、箱物建設ラッシュが始まった。
     今では、それらがことごとく破綻し、民衆生活と日本経済を地獄に導いている。それは、役人たちが日本の将来に必要なことを目指したのではなく、自分の地位を上げる実績、業者との癒着利権を目指したからだ。

     政治家たちも、もちろん同じだ。自民党は資本主義の召使いでしかなかった。
     大資本から巨額の献金を受け、彼らの利権・便宜に奔走し、子供たちの将来に必要なカネを先取りして企業に奉仕した。
     これによって、今の子供たちの未来は、永遠に返せない巨大な借金に押し潰されることになった。
     それは、政治家が、子供たちの未来に何一つ関心を持たず、今ある自分の名誉と利権しか考えてこなかったからだ。

     みんなは、どうなんだ?

     「自分は他人より上だ」と、優越感、満足感に浸りたくて、仲間を蹴落とし、恵まれない立場の人たちを小馬鹿にし、他人の幸福に何の関心もないまま、利己主義に邁進してきたのではないか?
     どんな理由で進学したんだ? 本当に勉強したかった? 違うだろ?
     低学歴のオチコボレと言われるのが怖くて、とりあえず進学したんだろ? いい大学に入って、いい企業に勤めれば、世間並み以上のぬくぬくとした人生が送れると考えたんだろ?
     貧しい人、弱い立場の人たちを足蹴にして、自分だけ恵まれた優越的な生活をしたかったんじゃないのかい?
     他人を出し抜けると信じて、「一流大学」や「一流企業」を目指したんでないかい?

     「立派な人間になりたかった」
     どんな立派さだったんだい? 他人よりも、たくさん財産を貯めることかい? 他人よりも高い地位に昇ることかい? 他人よりも大きな家に住むことかい? 他人よりも美人の女房をもらうことかい?
     あなたの「立派さ」のなかに、社会を少しでも良くしたいという願いが、どこにあったのだろう?
     カネにもならず、評価もされない、少しも自分を潤さない、他人のための努力を、あなたは、ほんの少しでも目指したことがあるのかい?
     あなたの「立派」は、あなたの利益に奉仕するためだけの立派さではなかったのか?

     あなたは自分の人生を、一度でも恵まれない弱者のために捧げたかい? 誰からも認められず、誰にも知られない奉仕をしたことがあるのかい?
     社会全体が良くなるように、一度でも努力したかい?

     「周囲のみんなが、やらなかったから・・・・」
     なんて、つまらん言い訳、正当化をするなよ。
     だが、その通りだ。資本主義世界のみんなが、日本人のみんなが自分の利益だけを求めはじめたんだ。あなたの周囲がやっているから、あなたもやったんだよ。
     だが、そうなれば社会はどうなる? 壊れるのは当たり前じゃないか?
     だから、「こんなことをしていれば社会がダメになってしまう」と薄々思いながら、あなたも利己主義を突っ走ったんだ。

     みんながみんな、同じように利己主義を目指せば、社会を底辺から支える人たちなど一人もいなくなってしまうじゃないか・・・・だから、この社会は破滅しているんだ。

     みんなが利己主義に走れば、この社会はあっという間に壊れてしまう。実際に、そうなったんだ。誰にでも簡単に分かることだろ?
     この社会が破滅している本当の理由は何か? もう自分の心を隠すな、誤魔化すな、正当化するな!
     『みんなが「自分さえよければよい」と考える人間集団は、たちまち崩壊する』 そんなこと小さい頃から、友人やサークル、クラスの人間関係のなかで、さんざん学んできたじゃないか?
     誰だって、心の底では思い知っている、あたりまえの真実じゃないか。これでも、この社会が破滅している真の理由が思い当たらないと言いたいのか?

     逆に考えれば、みんなが利己主義を捨てて、この社会を良くしようと考え、利他主義に目覚めれば、あっというまに社会は修復される。
     我々の子供のころ、社会には、利他思想に生きる人がたくさんいたんだ。
     みんな他人のためを思って、家の前を掃除し、倒れている人がいれば、すぐに駆け寄って介抱し、飢えた人がいれば、貧しくとも食事を提供したものだ。「カネが儲からなければ何もしない」なんて人は、滅多にいなかったよ。
     銭湯に行けば、みんな最初に体を洗ったもんだ。汚いまま入れば、じいさんたちから、きつく注意されたよ。でも、みんな優しかった・・・・。

     社会は利他主義に満ちていた。だから、我々の子供時代は、日本は世界有数の天国だったんだ。
     貧しい田舎へ行けば、まだまだ日本には利他主義が残っている。他人に対する思いやりに溢れたひとたちが、たくさん生きている。そんな土地を旅してごらん。
     我々が生きるということ、子供たちが生きることのできる社会に、本当に必要なものは何か? はっきりと見えてくるはずだ。

     それとともに、子供たちの未来を永遠に返せない借金漬けの犠牲にすることと引き替えに、自分たちの「豊かな生活」利権を確保してきた、我々の愚かな習慣、浅ましい欲望を明確に自己批判するときがきた。
     我々を、こんな愚劣な利己主義に向かわせた原因を、今、はっきりと明らかにしなければならない。
     我々は、どこで間違ってしまったのか? どうして自分たちの豊かさと引き替えに、子供たちの未来を売り飛ばしてしまったのか?

     子供たちの未来、人類の未来について何の関心も持たず、自分の豪邸や高級車、美人妻、会社の地位、他人の評価ばかりに拘泥した原因は何だったのか?
     結局、それは学校教育での競争主義にあった。
     仲間と競争し、自分の方が上を行くことだけが価値と思いこまされた教育体制にあった。人を小馬鹿にし、睥睨するエライ人が目標であると勘違いさせられた教育体制にあった。
     「エライ人」になりたかった。
     それは、人に尽くす人では決してなく、自分に尽くす人であった。
     だが、それは根本的に間違っていたのだ。
     自分に尽くすだけの人物の、どこがエライのか?
     何の見返りもなく、人の幸せのために努力する人を軽蔑していたのは誰だ?

     たったいま、我々は破滅の淵に立たされている。
     日本人が利己主義に染まり、自分の利益しか考えなくなり、社会の底辺を無言で支えてきた人がいなくなった結果、当たり前の結果として、日本社会は瓦解しはじめた。
     破滅を目前にした今になっても、「まだ日本社会が何とか持ちこたえるんじゃないか」と幻想を抱いている脳天気な人たちが大勢いる。
     なぜなら、みんな社会がどうなるか、子供たちの未来をどうすべきか、何一つ関心を持たず、自分の地位や、金儲けのことしか興味がなかったから、今、日本がどうなっているのか、理解する能力さえ失ってしまったからなのだ。

     本当に、物事の本質を理解できる人なら、もはや日本が瓦解し、おそらく立ち直れないで、このまま崩壊してゆくことを分かっているはずだ。
     だが、自分のことしか関心のない人には、それが見えない。彼らは盲目なのだ。今、我々が、どれほど恐ろしい局面にいるか、崩落した黒部桟道のような絶望の淵を歩いていることを、どうしても見ることができないのだ。

     もう、今すぐ、農業共同体を作って、助け合い社会を復活させなければ、子供たちの未来など、どこにも存在しない。
     このままでは、断崖に向かって集団で突き進むレミングの群れのように、ある瞬間に、みんな終わってしまう。
     だが、心ある者は、我々の立場や運命が見えているはずだ。
    何をすべきか、情報を集め、せめて子供たちの、よき未来を何とか確保してやろうと考え、動き始めているはずだ。

     高級車や豪邸、優越的老後の幻想も捨てて、愚かしい利己主義を捨てて、利他思想の共同体を目指しているはずだ。
     今、何をしなければならないのか? 陳腐な優越感を捨てて、人生の本質に目覚めるべきときが来た!
     

    sinka 我々のいる、この世界では、あらゆる出来事が偶然、現れるように思える。だが、本当は偶然など皆無だ。すべての事物現象が因果関係をもって必然的に起きるのである。したがって、そこには法則がある。

     広島の橋桁落下事故による大事故で亡くなった人たちも、偶然、通りがかったのではなく、それぞれ意味を持って集まってきて、死ぬべくして死ぬと書いた。生きなければならない運命の者たちは、橋桁に差しかかる直前尿意を催し、パチンコ屋のトイレを借りていて助かった。交差点で止まったタクシーも、信号無視して暴走し、助かった。
     日航123便に搭乗していた人たちも、決して偶然ではなく、乗るべくして乗った。坂本九は乗って死亡したが、乗るはずだった逸見政孝や稲川淳二、明石家さんまは、なぜか乗らなかった。
     それは、おそらく、彼らが、まだ死の運命に至っていなかったからだ。生きねばならない必然性があったからだ。

     この世に偶然など存在しない。すべては必然である。そして、必然を貫く法則がある。
     それは『カルマの法則』である。年齢を重ねるごとに、失敗と反省を重ねるごとに、それが真実であると深く思い知らされ続ける。カルマとは何か?
     それは人生の本質である。人はカルマによって登場し、カルマを克服して消える。人の一生、人の運命を定める本質はカルマである。
     人生とは何か? それは、カルマを克服するプロセスである。すなわち、対象世界の真実を見抜くことである。自らを自然の摂理に一体化させ、ムダ、無益な幻想から解放され軽やかに宇宙に同化してゆくことである。
     カルマを消し去ったとき、人は宇宙に溶け込み、人生は意味を失う。もう人間という不自由な肉体を捨て去ることができるのだ。

     人は愚かな生物であり、過ちを犯す存在である。たくさんの失敗を繰り返し、人生の本質を体で思い知らされてゆく。失敗するたびに、余計な思いこみ、幻想は消え、真実の中味がはっきりと見え始める。
     自分の愚かさを思い知るたびに、世界が透き通るように見えるようになり、あらゆる煩悩・懊悩から解き放たれ、無意味な欲は消え、すべての運命を受け入れることができるようになる。

     我々は、宇宙の光、天空の意志から誕生した。そして、我々は輝く意志から放り出され、暗黒の荒野に投げ捨てられた。
     それは、何一つ見えない無知蒙昧であり、何一つできないデクノボウであり、それは、苦難と苦悩に満ちた愚かしい人生であった。
     我々の人生は、失われた自らを探して彷徨う旅路であった。
     愚かな失敗を繰り返して学び続け、真実を知り、もっとも高い合理性を獲得し、結果として、すべての欲から解放されたとき、自らを再発見することができる。
     このとき、再び宇宙に戻り、溶け込むのだ。

     我々は利己主義に囚われ、人生の真実を見失う。逃げ水のように際限のない権力や金、贅沢の幻想を求め、他人を出し抜くことの救いのない愚かしさを思い知らされ続ける。
     人から奪い、人を傷つけ、人を犯し、人を殺し、利己的な金儲けや権力、権威、地位に邁進し、それが結局、自らに、その数百倍もの苦悩をもたらす愚行であると、繰り返し思い知るのである。
     そうして、やっとの思いで地獄の利己世界から抜け出し、利他の合理性を見いだすことができるのだ。

     利己の愚劣さを知り、利他の真実を見抜くために、我々は何をしたらよいのか?
     それは、偶然の連続のように見える対象世界が、必然に貫かれている真理に気づくことだ。

     我々が、目にし、感じ、触り、歩むこの(対象)世界は混沌に満ちて、何もかも雑多な偶然に支配されているように見える。
     しかし真実は違う。無秩序な混沌しかないならば、我々は、この世界で生きることさえ不可能だ。我々は、この世界に「秩序」を見いだすことで生きている。
     秩序とは何か?
     それは、「一定の原因で一定の結果が起きる」という原理であり、原因のない結果は存在せず、すべての事物現象に原因と結果があるという真理である。
     我々は、この因果関係を知ることで、すべての現象を因果の流れのなかで理解することができるのである。

     秩序を知ることで、この社会における苦悩の理由を知り、それを改善し、あるいは問題解決することが可能になる。
     この社会が、かくも間違った方向に進み、人々に耐え難い苦悩を与えている現状を解決するためには、一番、根本にある原因を知り、それを解決しなければならない。
     この社会に苦悩をもたらしている最大の原因は、利己主義である。これを証明する前に、もう少し、「人が知るということ、因果関係を理解し、問題を解決する」ということの意味を深く考えてみよう。

     秩序を見いだすことができるということは、実は、この世界が秩序に満ちているからだ。因果の必然的な流れから一歩も外れていないからだ。デタラメ、偶然が存在しないからだ。
     デタラメに見える対象を解きほぐし、秩序を見いだす行為を認識と呼んでいる。
     「認識」とは何か?
     それは混沌に見える無秩序な対象に、秩序、法則を発見することである。それは共通点を見いだすことからはじまる。
     我々は対象世界の共通点を発見し、「同じ現象」に対して共通の言葉を冠する。

     例えば、火が燃えているところに体を近づければ「熱い」。それは「熱いから火があるかもしれない」という真理を示すものだ。
     熱いには、「暖たかい」 「怖い火傷」 「焼失」 「料理」など、たくさんの事象があるが、それは「熱い」という包括的な言葉(抽象→カテゴリー)の下に、重層的に含めることができる。つまり、「熱い」→「だから暖かい」→「だから危ない」→「だから調理できる」というように「熱い」を生活に利用できるようになる。
     これによって生活の秩序を確立できるわけで、これが因果関係の認識ということだ。

     寒さで死にそうになれば、「暖かい」という意味を知り、火傷すれば「熱い・危ない」という意味を知り、熱で調理した食物から「うまい」という概念も発生する。
     「熱い」という言葉の先に、たくさんの事象を思い浮かべ、「熱いから火事かもしれない」 「火傷するかもしれない」 「暖まれるかもしれない」 「調理できるかもしれない」と連想し、「熱さ」という言葉を利用して生活に役立てるのである。

     「熱い」という言葉一つには、さまざまの因果関係が広がっていることが分かる。これらの現象は偶然ではなく、「火が燃える」という原因の結果として成立するのであって、これが『因果関係』である。
     我々は、原因と結果の流れを理解できている範囲において、これを『必然』と呼ぶのであって、火があれば「熱い」のは『偶然』ではない。

     現象を『必然』と言った場合、『偶然』との本質的な違いは、その現象を利用できることである。
     因果関係を法則として認識すること。「火が燃えて熱ければ火傷する」ならば、「火傷しないために火に近づかない」という論理が成立することになる。
     「火が燃えているなら料理ができる」 と拡張することもできる。
     『偶然』起きることとは、因果関係が理解できないことを指すのであって、理解し、その本質を利用できるときは『必然』なのである。

     『すべての現象は、「心の法則」によって現れる』と指摘してきた。
     命は心の安堵を求めている。例えば『進化』を考えてみよう。
     生物種は、原始的な状態から「進化」し、より合理的、機能的なスタイルに変化してゆく法則がある。ダーウィンは、進化は偶然に貫かれていると指摘した。
     「キリンは首が長い」 首の長いキリンは他の草食生物よりも自由に高い葉を食べられたので、たくさんの子孫を残すことができ、結果として、首の長いキリンばかりになった。
     「マグロは早く泳ぐ」 遅いマグロは、シャチや鮫の餌食になって、早いマグロだけが生き残ることができた。
     これが『自然淘汰説』である。
     だが、この理論には重大な欠陥がある。
     偶然の作用で突然変異が発生し、環境適応だけを理由に、劣位種が淘汰されたという理屈だが、突然変異を偶然だけに求めるならば、足が三本や七本の人間が誕生し、二本よりも生活能力が劣ったから淘汰されたと説明しているわけだが、 我々が、自然界を見渡しても、そんな極端な突然変異など滅多にあるものではない。せいぜい、指が長かったり、一本余分にあったり、耳が大きかったり、目がよく見えたり、見えなかったりくらいが普通だ。ダーウィン論は、突然変異の条件が、とても不明瞭なのだ。

     ダーウィン論に対して、今西錦司は「棲み分け進化論」を提唱した。「棲み分け」は種同士の社会的関係を表す概念である。カゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。
     「流れが遅く砂が溜まったところに生息する種は、砂に潜れるような尖った頭をしている」
     「流れのあるところに生息する種は、泳ぐことに適した流線型の体をしている」 「流れの速いところに生息する種は、水流に耐えられるように平たい体をしている」
     このようにそれぞれが棲み分け環境に適応し亜種が成立することを示し、もしも、これが突然変異と淘汰だけで動的平衡が成立するとするなら、変異はダーウィンの示した数百倍も頻繁に起き、淘汰も同じように劇的に進むのでなければ、説明がつかないというわけだ。
     今西の観察によれば、変異は決してランダムではなく、生物にとって都合のよい方向性をもち、意志の関与が認められるという。
     このことは、ゆっくりとした突然変異と確率論的自然淘汰を原理とするダーウィニズムと真っ向から対立するものである。

     この意味するところは、生物の進化が、生物自身の要求、心の求めによって起きていることを示すものである。と同時に、ダーウィニズムが偶然に支配される唯物論の原理を生物に、そのまま適用したのに対し、今西は、唯心論の原理を持ち込むことになり、『生命』の根源を巡る、地上でもっとも本質的な対立を示したのである。
     すなわち、「進化は、偶然によるのか、それとも意志によるのか?」

     もし、進化が意志によって支配されるということが真理であるなら、それは、この世のすべての現象に意志が関与する可能性を見いだすものとなる。
     逆に、進化がダーウィニズムどおり、偶然に支配されるものならば、宇宙は物質と偶然の作用だけで成立していることになる。

     『意志が世界を変える』
     このテーゼが真理ならば、冒頭に述べた広島橋桁落下事故や日航123便の被災者もまた、意志の作用を考える必要があることになる。人は潜在意識の求めに応じて死地に向かうこともありうると考えるのだ。
     進化論→唯物論・唯心論とは飛躍的な拡張論理のように思われるだろうが、決してそうではない。
     なぜなら、宇宙の原理はフラクタルな共通性に満ちているからだ。心が先か、物質が先か? という原理は、この宇宙をあまねく貫く究極の原理なのである。

     対象世界を作り出すもの、それは己の心である。
     暖かい世界を求め、暖かさを人に与え続けるなら、世界は暖かく、自分に還ってくるものも暖かい。
     金儲けや地位、権力の価値に幻想を抱き、人を出し抜き、ときには命をも使い捨てにして満たした欲望にが、どれほど人の心を癒すだろうか?
     他人を犠牲にし、その不幸を踏み台にして物質的豊かさを求め続けた人生に待ち受けるものとは何か?
     金融資本が世界中の富を奪い尽くし、人々の生活を破壊し、苦悩と苦難を与え続けていることで、その主役たちは、巨額の富を受け取り、代わりに何を失ったのか?
     人を苦しめ続けた利己主義の彼らに、最後に還ってくるものとは何か?

     この真実を見抜くために、我々は、世界と人生の原理が、物質ではなく心であることを思い知る必要がある。

    hirosima イエスの有名な一節 『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん』「マタイ福音書」
     (念のために言うが、筆者はキリスト教の信者ではない。キリスト教は、キリストの名を利用した反キリストのインチキ宗教だと確信してる。イエスは旧約を破棄するために登場したが、『キリスト教』は、すべて旧約を復活させていることに注意)

     この言葉の意味は、「この世界は、願い、想いの実現する世界」ということだ。「想い」が先で「結果」が後だと言っているのだ。言い換えれば、「想う心」が先にあり、それによってのみ結果が生みだされると明確に述べている。
     これが唯物論者なら、結果は「想い」と無関係に、すべて偶然に左右されると考えるわけだから、「求めたって、尋ねたって、門を叩いたって、与えられる、見いだされる、開かれるとは限らんわい!」と冷たくあしらうことになる。

     人間が住んでいるこの世界は、ダーウィンが指摘したように偶然の累積・確率によって定まる世界ではなく、すべて意志の関与した必然の世界だとイエスは言っている。この世に起きることには偶然はなく、すべて心が求めた結果であるということだ。
     これは進化論の世界で、偶然による淘汰法則(ダーウィニズム)を否定して、生物は意志の作用によって進化したと主張した今西錦司と同じことを言っているわけだ。

     ヘーゲルは、同じ立場で、最初の意志を「絶対精神」(イデー)と名付けた。そして人類史とは、それが否定されて唯物論に傾き、さらに、もう一度否定されて唯心論のイデーに戻った段階で完結、オシマイになると考えた。
     人類史にあっても個々の人間にあっても、イデーによって人が誕生し、たくさんの人生で自己否定(カルマ)を重ねて、ついには人生の意味を終わって宇宙に溶け込むと考える。この世は、意味のある「合理性」によってのみ存在が成立し、意味がなくなれば消えてしまうとヘーゲルは指摘した。
     これを「否定の否定」 「対立の統一」という弁証法法則で解明しているが、興味のある方は、自分なりに弁証法を学ばれたい。ただし、アカデミーの推薦する哲学書や解説書の大部分は、「哲学者」と呼ばれたさに、知ったかぶりの屁理屈を並べただけのゴミばかりなので、既存の学問を学ぶことはやめて、自分の人生経験を統括して、その法則を自分のアタマで抽象しなければ絶対に理解できないと忠告しておく。

     イエスもヘーゲルも今西も、最初に絶対的意志が存在し、その作用で進化が起きていると考える唯心論である。進化の本質は「合理性」である。合理性、つまり意味が消えれば進化も終わり、滅びがやってくる。
     だが、ダーウィンやフォイエルバッハ・マルクスなど唯物論者は、まず物質ありきと正反対の主張をしている。物質は偶然によって支配されているから、合理性など無意味だ。また、それは合理性、意味とは無関係に永遠に存在し続けると考える。
     こんなわけだから、唯心論VS唯物論という論争は、人類思想のなかで一番重要な本質なのである。この、どちらの立場で、ものを考えるかによって、世界が逆さまになってしまうことも起きる。

     筆者も、昔、(高校生の頃だが)マルクス・エンゲルス・毛沢東に夢中になっていた時代があって、学校教育による洗脳の土台があるから、当然のように唯物論者であった。
     社会を動かす原理は、物質の過不足であり、人間の原理は肉体存在であって、物質や肉体に規定されて心が生じると絶対的確信をもっていた。すべての意志は物質によって成立するというわけだ。
     神などいるはずがない。そんなものは人間の空想・妄想が産み出した金儲けのための利権詐欺だ! 筆者は実家の仏壇を叩き壊してやろうとさえ考えたが、母親に泣かれてやめた。

     唯物論は分かりやすい理屈だが、物質が心を生みだすとすれば、肉体の死によって心も、すべての意味も消えてしまうわけだから、今の肉体を極度に大切にし、自分の肉体と心だけを絶対価値と考えて行動するしかないわけだ。
     こうなれば、死ぬのは絶対に嫌だ。誰が人助けのために危ないことなんかやるもんか! 徹底的に自己利益を追求し、面白おかしく人生を終わりたい。死によってすべてがオシマイ・・・・チーン。
     「自分さえ良ければよい」 徹底的な利己主義だけが、唯一の正しい価値観ということになるわけだ。逆にいえば、利己主義は唯物論の慣れの果てなのである。

     ところが、イエスはそうではないという。
     我々の生きているこの世界とは、願ったこと、求めたことが叶う世界だとイエスは指摘している。ただ受動的に流されているだけでなく、能動的に問題を解決したいなら、まずは願いなさい、求めなさいと言っている。
     つまり、世界を作っているのは心だ。社会も人間の肉体も、すべて心が作っているのだと。極端に飛躍すれば、今、我々が向き合っている対象的世界は、いわば、心の作り出した幻影であるともいえよう。

     心次第で、対象的世界は、いくらでも変わるのだと言っているわけだ。
     こうなれば、自分の肉体も心の産物であって、肉体よりも心を大切にしなければならないことになり、利己主義は通用しないことになる。
     酒池肉林に囲まれて、どんなに究極の贅沢が実現できたとしても、そんなことは無意味だ。「飲める酒には限度があり、胃袋には容量があり、美しい女も飽きればブスより劣る」であって、贅沢など心の平安に比べれば何の価値もないことだと・・・・物質ではなく、心の喜び、心の平安、心の満足こそが、最高の価値なのだと指摘しているわけだ。
     自分の肉体と、それに付随した財産や権力よりも、その元になる心を大切にしなければならず、自分の心を生みだしてくれた周囲の愛情こそ、この世で一番大切な価値であるという思想が成立することになる。
     そうして、北朝鮮・中国のような圧政・暴政や不合理により、心を苦しめるような事態が起きれば、肉体の保全よりも、心の満足をを優先させるために、己の肉体を滅ぼすことだって当然だと諭している。愛のためなら死など問題にならないということだ。

     これこそ利他主義の核心にある論理だ。「ニワトリが先か、卵が先か?」 「心が先か、物質が先か?」の論争にあって、明快に「心が先だ」と確信することによって、利他主義が成立するのである。
     「心が現実を産み出す。物質的世界を産み出す」
     という唯心論の原理が正しいとするならば、これまでの常識は天地大逆転だ。
     この意味するところを、ひねくれて考えるなら、この世では、願わないことは決して実現しない世界であり、どんな、残酷で理不尽な結果が与えられたとしても、それは自分の願いが産み出すものだということにもなってしまう。
     つまり、道路に飛び出して、車に轢かれるのも、轢き逃げの加害者になるのも、猟奇殺人の被害者になるのも、交差点で橋桁が落下して下敷きになるのも、津波に流されるのも、女房が他の男と浮気することも、すべて自分が想い願った運命が実現したのだと指摘しているのである。

     「そんな馬鹿な!」
     筆者も、最初、こうした結論をもたらす唯心論などバカバカしくて話にならないと拒絶していた。
     「人は、良い思いを求めるはずだ。不利益になること、自分の死を願う者など、どこにいるんだ・・・・馬鹿にすんじゃねえ!」
     と考えるのが当然だ。資本主義による戦後教育を受けてきた我々の大半が、「物質が心を規定する」 「現実は偶然によって左右される」 と確信しているはずだ。学校で、そう習ってきたのだから。心が世界を作るなどとテストの答案に書いたら零点を付けられた上、オチコボレにされたあげく、精神病院送りになるような社会だったから。

     だが、我々は真実を見抜く力を奪われてきたことに気づかねばならない。
     テレビやマスコミや、芸能やスポーツや受験競争などによって、思惟・思索の時間を奪われ、自分のアタマで考える姿勢を弾圧され続けてきた。我々は与えられた結果だけが見える盲人にされ、自分の足で歩き、自分のアタマで考える能力を奪われ続けてきた。
     我々は国家や支配者の定めた回答だけを書くように強いられてきた。教育体制の指定したシナリオから一歩でも外れれば、国母のように朝青龍のように弾圧され追放されてきた。
     我々は国家に利用されるだけの愚かな家畜として飼育され、見ざる、言わざる、聞かざるの愚民に洗脳されてきたから真実が見抜けなくなっていたのだ。

     自分の真の願いがどこにあるのか? 願いには真と偽があることを分かっているか? 教師に定められ、国家に強いられた回答が、あなたの本当の願いなのか?
     もう一度、よく考え直してごらん。
     人は平気でウソをつく。自分に対してもだ。高度に洗脳された現代人の心には複雑な裏表構造があるのだ。だから、あなたの見せかけの願いは、あなた自身をも欺いているウソかもしれない。だとすれば、それは自分の真の想い、願いではなく、ゆえに、本当の心は、それが実現しないことを願っていることになる。

     ユリゲラーがテレビの前で、「さあ、みんなスプーンを持って、曲がれと念じよう」 と呼びかけたとき、本当にスプーンが曲がってしまった人がたくさんいた。しかし、どんなに念じても決して曲がらなかった人も大勢いた。
     このとき、心に裏表のない人はスプーンが簡単に曲がった。しかし、表では曲がれと念じても、裏の心が「曲がってしまったら怖い・・・・学校では超能力など存在しないと教えているではないか・・・・・曲がれば、これまでの価値観が崩壊してしまう」と恐怖する複雑な心の持ち主は、「曲がれ」とかけ声をかけながら、心の奥底では「曲がるな」と念じていたことになる。
     「曲がらなかった」やはり超能力はインチキだった・・・と安心したいわけだ。
     真の心が「曲がるな」と願っているのに、どうしてスプーンが曲がるだろう?

     「願いが実現する世界」に生きているとは、どういうことか? 
     と言ったって、フォアグラを食いたいと願えば、目の前に飛び出してくるほど単純なものではない。心とは何かを理解しないと、この言葉の意味は分からない。
     実は、求める心、実現している想いとは、人間の皮相の願い、想いなどではなく、深奥の心、想いである。いわば潜在意識といってもよい。
     人の心には大きく分けて二種類ある。顕在意識と潜在意識だ。

     顕在意識とは、潜在意識に操作された心であり、現実の世界のなかで、自分が人生の規範と信ずる観念によって洗脳された心である。教育やら、常識やら、宗教やらの観念によって粘土細工のように作り出されたものだ。
     潜在意識とは、深奥にある真実の心である。「自分が本当に願っていること」というものは、この潜在意識である。

     例えば、20年前、広島で交差点の橋桁が落下して、信号待ちしていた車が潰されて15名が死んだ。
     この事故で死亡した人々は偶然の不幸と片付けられたが、先に述べた「想いの実現」という論理でいうと、死ぬために、ここに集まってきたことになる。そして、それぞれが死ぬ理由を抱えていたということになる。
     実は、下敷きになる運命だった幼稚園の送迎バスがあったが、現場に差し掛かる直前、園児がトイレに行きたいといったので数分遅れることになり、被災を免れた。
     後に調査したが、いったい、どの園児がトイレに行ったのか、誰も思い出せなかった。記憶を辿って特定した園児は、事故前に転園していた。

     我々の置かれている、この世界では、あらゆる出来事が偶然、登場してくるように思える。だが、本当は、偶然など皆無だ。すべての事物現象が原因と結果の因果関係をもって必然的に起きるのである。したがって、そこには法則がある。 次号に続く

    ahugan  「NHKラジオあさいちばん」で、筆者が「日本の良心」と評価する内橋克人が、中村哲医師の活動を支援する澤地久枝の『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』という本を紹介している。
     筆者は中村哲の活動を、マスコミで語られた程度しか知らなかったが、彼と支援のペシャワール会に関するHPを見ると、私利私欲のない、人間愛に貫かれた素晴らしい活動だと分かる。

     中村がアフガンに向かったのは25年前、1984年のことだ。
     かつてイギリス植民地だったアフガンで、1920年頃、独立戦争に勝利したカーン国王が、やがてソ連と結びつき、土着のパシュトゥーン人を弾圧し、暴政を布いたため、反政府ゲリラが組織され内戦状態になった。
     これをアメリカ政府が対ソ戦略のなかで利用するため、CIA工作員を派遣し、大規模な支援を行ったため、アフガン内戦は全土を巻き込んだ絶望的な状況に陥った。

     1973年に親米派ダーウード率いるゲリラ軍によって国王勢力が倒され、アフガン共和国となるが、1979年、ソ連KGBの陰謀攻勢によって、再び親ソ傀儡政権となった。
     その後、数年ごとに親ソ・親米政権への揺り戻し、激しい綱引き戦争が続いた結果、国土は破壊され、民衆は大きく疲弊していった。
     米ソ陰謀合戦の舞台として利用されたアフガンは、国民の数割もが戦闘に巻き込まれ、長い歴史に培われた豊かな自給自足インフラさえも壊滅的に破壊され、まさしく「地上の地獄」が体現される地域となり、民衆はアヘン栽培にすがって、辛うじて生きながらえる日々が続いていた。

     中村がアフガンに行って、四年後の1988年、CIAに支援されたビンラディンを含むアルカイダの苛烈な抵抗運動によって、アフガンからソ連軍が全面撤退し、国土はイスラム原理主義、タリバンの支配下に入った。
     この頃のアフガンでは、耕作地に無数の地雷が敷設されたまま放置され、手足を吹き飛ばされて死亡したり、重度障害者になる人が後を絶たず、戦争で飲料水インフラが破壊されたため、住民は上下水道兼用の不潔な水を利用するしかなく、赤痢やコレラなどの蔓延で、新生児の多くが死亡する悲惨な状況だった。

     そこで中村は、住民が大国の陰謀的援助に頼らず、自立した生活力を確保するために、最初に必要なものは水利・農耕インフラだと考え、大国が利権と破壊だけを持ち込んだこの国に、はじめて飲料水インフラ復活プロジェクトを、民間努力だけで出発させた。
     当時は、日本政府も利権につながらない、こうした真の人道援助を白眼視し相手にしなかったために、中村や支援組織ペシャワール会は、なけなしの自家資金を持ち出すしかなかった。

     政権を握ったタリバンはアフガンの稀少鉱物資源を狙うブッシュ(アメリカ大統領)一族やCIAの援助を受けた組織で、ウサマ・ビンラディンらアルカイダの指導下にあり、非常に過激なイスラム原理主義を打ち出し、とりわけ女性たちに厳格な懲罰を適用するイスラム倫理を強要し、底辺の教育機会を奪ってゆき、アフガンは農工業や医療、民衆生活の知的財産を失っていった。

     2001年には、有名な世界遺産、バーミヤンの石仏群が爆破されるほどの事態に陥った。アフガンは、イスラム原理主義宗教国家として、他国から孤立することで、いっそう過激な観念的暴走を行う事態になっていった。。(バーミヤン石窟破壊工作もCIAがアフガン侵攻世論を正当化するためタリバンに行わせた陰謀と指摘されている)

     この年、NYで911テロ事件が起き、ブッシュが支援した友人であったはずのビンラディンを首謀者と決めつけ、それを匿うアフガンに対して、アメリカは総攻撃をかけることになった。
     (筆者の情報では、911テロの首謀者はアメリカ政府であり、実行犯はイスラエル・モサドであった。アメリカは911テロによって戦争を勃発させ、アフガンを戦争産業の利権に利用したのだ)
     
     この戦争で100万人近い死者と300万人を超える難民が生まれた。中村は難民キャンプの巡回診療を行って住民の心の支えとなった。
     究極の貧しさに追いつめられた民衆にあっては、必ず、乳幼児死亡・結核・ハンセン病・伝染性消化器疫病が多発するが、一番大切なことは、良い水インフラを整備すること、免疫力を上げる環境を整備することだ。
     中村は、個人を治療するという方法を後回しにし、アフガン住民全体を助けるという飲料水インフラ整備に全力を尽くすことを選択した。井戸を掘り、灌漑用水を施設していった。これらは、元々民衆の苦難に関心のない米ソ大国が一切手をつけなかったものだ。
     この大局的判断は非常に賢明だと筆者も思う。民衆に対する真実の思いやりがなければできない判断だ。そして、これによって、赤痢などの死者が激減する成果を生みだしている。
     
     中村の活躍と、その真実は以下のHPに掲載されている。
     http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

     こうした活動を、権威・権力・蓄財の大好きな利己主義者が行うことは絶対にない。彼らは、池田大作のように偽善者でありたがるが、実際には自分の金儲けや権威にしか興味がない。
    中村の活動は、人間が何によって生かされているのかを知っている利他主義者による活動である。人生の価値が思いやりであることを知っている人にしかできない良心の発露だ。

     中村哲と同じように、私利私欲を捨てて、人の幸せに奉仕し続ける医師は少なくない。例えば、ベトナムにおける無給の眼科医として活動する服部匡志の活動が知られている。
     服部の活動も、同じ日本人として真の誇りと連帯感を呼び覚ましてくれる素晴らしいものだ。人が人を無償で援助する行為は美しい。
     http://www.mbs.jp/jounetsu/2006/04_09.shtml

     先日は、2004年にイラクで誘拐された現地ボランティア、高遠菜穂子が久しぶりにテレビで紹介されていたが、彼女もまた純粋な利他思想の持ち主であって、その活動に強い畏敬を抱いている。
     高遠の行っていたのは、イラク・ファルージャの戦災孤児たちの物心両面での支えとなることであった。
     彼女は誘拐後、「自己責任」とやらで激しいバッシングを受けて、未だに「違和感を抱く」などと無知なバカタレがブログに書いているが、それは利己主義に洗脳され尽くした自分を正当化するお粗末な弁明にすぎない。

     この「高遠バッシング」ほど筆者を不快にしたものはない。自己責任論とは、結局、資本主義の家畜として「見ざる、言わざる、聞かざる」の卑劣な奴隷人生を、他人にも強要して安心したいだけのクズどもによるブーイングであって、人生の根源が何によって成立しているのか、見ようともせず、この地上から、いかなる良心をも葬り去ってやろうとする悪意の見本のようであった。
     筆者も、このとき、日本人が、まさかこれほどまでに愚劣な人間性に転落しているとは思わず、本当に驚いた。筆者の若い時代なら、高遠の良心は圧倒的に賞賛されただろうに。あの人間解放と連帯を求めた、我々の仲間たちは、いったい、どこに消えたのだ!

     彼らは、企業が販売戦略としてのイメージ向上作戦で、ボランティア活動をやっているのとは本質的に違う。
     「苦しんでいる人を助けたい」 という人間として原点の良心から、やむにやまれず歩みよるものであり、何一つ対価を望んでいるわけではない。この汚い人間社会にあって、もっとも美しい、かけがえのない真の花たちである。
     それを対価がもらえなければ動けない、私利私欲に汚染されたゴミどもが、「自己責任」だなどとバッシング糾弾して、日本社会から葬り去ろうとする愚劣さに、筆者は激怒し、2ちゃんなどで、悪臭を放つ誹謗書き込みをしている阿呆どもは、やがて来る都市の地獄のなかで焼き殺されるしかない運命と確信したものだ。
     こうした状況や、死刑制度を支持する大衆が9割に達したとのニュースを聞いて、筆者は、すでに日本社会は、とうに腐敗し崩壊している現実を思い知らされた。
     かくなる上は、上に挙げた、真の利他主義者たちを支援し、利己主義に汚染された日本社会の救済を諦め、崩壊するがままに任せて、未来を担う、子供たちのために、わずかな利他思想のオアシスを用意してあげるしかないと考えている。
     だから、山奥の過疎地に農業共同体を結成して、賛同者だけで、苦難の時代をやり過ごそうと提案している。
     未来は子供たちのものだ。彼らの未来に、素晴らしい利他思想の社会を用意してやるために、今何ができるのかを考えている。

     とまれ、人は愚かなものだ。この地上に誕生する、すべての人は、必ず愚かな失敗を繰り返すようにプログラムされている。
     なぜなら、地球は「苦悩の惑星」なのだ。どうしてもカルマを止揚できない、箸にも棒にもかからない愚かしい人たちだけが誕生してくる惑星なのであって、いわば、一種の地獄特訓道場か魂の監獄のようなものだ。
     ここで、我々は、真実が見えるようになるまで、愚行を繰り返し、自分の馬鹿さ加減を思い知らされることになっている。
     我々が、中村、服部、高遠のような利他思想に目覚めたそのとき、数百もの人生のなかで苛まれ続けた苦悩から解放されるのだ。

     筆者も、もちろん本当に愚かな利己主義者だった。
     今、自分の人生を振り返るなら、とても恥ずかしく忸怩とするばかり。絶望的な気分になり、鬱状態に閉じこめられそうだ。
     筆者の人生で、楽しく思い出されることは、ごく僅かでも他人の役に立てた思い出だけだ。後は、自分勝手な利己主義により、人を利用しようとして失敗した恥ずかしい思い出ばかりで、もう生きる気力さえ失ってしまう。

     利己主義の自分は恥ずかしく、苦悩に満ちている。しかし、利他主義の自分は楽しく、未来への希望を与えてくれる。
     人の原点は利他思想なのだ。我々は、母親と周囲の利他思想によって育まれた。利他思想、すなわち無私の愛情がなければ、子供は成長さえできない。
     親が利己主義者だったなら、残酷な迫害のなかで殺される運命しかない。
     だから、今、生きている、すべての人々は、利他思想のおかげで生きているのである。親や周囲の人々の愛に育まれて、ここに存在しているのであって、もし、子供たちの明るい未来を用意してやりたいと思うなら、我々は、利他思想で愛情をいっぱい与えてあげなければならない。

     それなのに、利他思想のおかげで育った人たちが、かくも利己主義思想に汚染され、洗脳されてしまっている現状は、いかなる理由によるものか?
     それは、まさしく、自分の原点を見失わせる洗脳教育の成果に他ならないのだ。
     資本主義社会は、一部の特権的な大金持ちが、自分たちの利権をますます増やそうとして、人々を資本主義が正しいかのように洗脳し、従順で臆病な家畜にしてしまおうとしている。

     利他思想を忘れさせ、利己主義の矮小な人生に埋没させようとしているのだ。
     我々は、自分の原点を思い出さねばならない。
     利己主義による洗脳の成果は、人々に愛を捨てさせて敵対をもたらし、包容・寛容を捨てさせて攻撃・制裁をもたらした。
     こうして愛情を捨てさせられた結果、我々は、まさに苦悩の王国に棲むようになった。
     利己思想が産み出すものは苦悩・絶望である。利他思想の産み出すものは希望と安心なのだ。
     しばらくのあいだ、このことを証明するためにブログを書き続けたい。

    kazoku 

     我々は、ほとんどの場合、生まれ落ちてから家族のなかで育てられ、周囲の人間関係のなかで必要なことを学びながら、自分がやるべきことを自覚し、それを実現しながら年齢を重ねてゆく。
     人は、「自分自身」(自我)を自覚するに至る段階までは、養育者のペットのような客体的存在であって、環境に依存して「生かされる」しかない運命だ。
     しかし、たくさんの経験を積んで、やがて養育者に甘えない「主体的な自分」を自覚することになり、「自分の意志」で対象的世界を変えられる段階にまで成長することになる。
     ここで人は客体的存在から主体的存在へ、受動的存在から能動的存在へと革命的飛躍を遂げるのである。すなわち「自立し、一人前になった」ということだ。もちろん、そのプロセスは千差万別で、人によって異なるものだが。

     一人前になった人がやるべきこととは何か?
     最初に自分の命を保全することである。自分が今日食べる食事、保温、安全な寝場所の確保であり、明日の食事、寝場所の確保である。そうして、周囲で自分の生きるモチベーションを支えてくれる人間関係を確保し、安定した快適な生活を送れるよう努力することが人生の仕事といえよう。
     やがて(可能ならば)異性と結ばれ、性欲を満たし、子を設け、育て、老いて死ぬのが人生のすべてだ。人生とは、これ以上でも以下でもない。
     付け加えるなら、好奇心を満たそうとするモチベーションがあることくらいだろう。人は周囲を知りたいものだ。知ることによって、より快適な生活が保障されるようになるからだ。

     今、資本主義国大衆の多くが望んでいるような、周囲にいる人々を蹴落として、自分が優位に立つことが人生の本当の目的ではない。
     有名になることも、他人に秀でることも、蓄財や権力を得ることも、決して人生の普遍的目的ではない。それは人を利用するだけの歪んだ社会によって変形した精神の要求なのだ。それは金儲けと人間疎外を正当化する資本主義による洗脳の産物なのである。

     それは周囲の生き物に怯えて噛みついて回る、病んだ狂犬のように不自然な姿であることを知っておく必要がある。自然のなかで、のびのびと生きている犬は、特別な理由がなければ噛みつきなどしない。しかし、狂犬病に罹ったり、理由なく殴られたりして、不自然なストレスを与えられれば、暴走して周囲に噛みつくようになる。
     人間が、名声・所有欲・権力・蓄財に幻想を抱いて、他人の迷惑も顧みず暴走する理由は、ストレスを与えられた狂犬と似たようなものだと知る必要がある。
     資本主義社会は、人を金儲けのために利用しようと強烈なストレスを強要する社会だ。このなかで、我々はストレスに苛まれ、狂犬のように、怯えて周囲に噛みつき、利己的な欲望に突き動かされて、うろつき回る人生を強いられているのである。
     あらゆる犯罪の根源は、資本主義の生んだ金儲け主義のストレスから生まれるものであり、人の不幸の大部分が、そこから生成されていることに気づかねばならない。

     人が他人に秀でたいと思うようになる理由は、人から疎外され、軽蔑され、悲しい思いを強いられた経験が重なり、秀でることで注目を浴びて、大切にされたいという思いから生み出されるモチベーションである。
     他人から軽蔑されたことのない人間は、決して秀でたいとも思わないのだ。例えば、天皇家で育つ子供たちは、すべてガツガツした自己主張の饑餓など微塵も見えないではないか?
     人は人間関係におけるコンプレックスを解放したいと願うもので、例えば、見下されたなら見返してやろうと思い、愛されたなら愛してやろうと思う。
     人は自分のもらったものを他人に帰す性質を持っている。
     同じもので返せないときは、別のもので返すことになる。例えば、学校で肉体的に脆弱なことが原因で虐められた悔しさを、学業で返したり、地位や蓄財で返したりというメカニズムである。
     こうして、さまざまなコンプレックスが原因で、社会的差別のシステムができあがり拡大してゆくのである。

     人生も社会も、複雑怪奇に見えても、実際には驚くほど単純なメカニズムで成立しているものであり、今、我々が直面している格差・階級社会のメカニズムも、その原因を探せば、小さなコンプレックスの積み重ねということになる。
     したがって、差別・格差社会を解決するために、一番大切なことは、人の心を傷つけない暖かい社会を作ることであり、コンプレックスの解消が、権威・権力や蓄財に結びつかないように、そのメカニズムをすべての子供たちに、きとんと学ばせる必要があるだろう。

     解決の難しい、差別や格差をもたらす社会的コンプレックスを作り出してきた最大のメカニズムは家族制度にある。
     例えば、人口過多社会における家族では、「夫婦が一人っ子を育てる」ことしか許されないようになり、子育てに優しく助言してくれる老いた両親も、親身になって相談に乗ってくれる友人もいない。
     小さな家では両親と共に住むことができず、子供の学歴や、ブランド品を購入する見栄張り競争のために付き合っている友人が心を開くこともない。

     こうした環境で育つ子供は、「他人と仲良くする」という基本的な能力が発達せず、人間に対して恐ろしく無知で、独善的、自分勝手な人間性になってしまう事態が避けられない。
     我慢をすることの大切さも教えられず、周囲は、すべて自分の欲求を満たすための奴隷のようなつもりになってしまう。叱られても、その意味も理解できず、無意味に殴られた狂犬のような精神状態に陥るだけだ。殴られる恐怖で、一時的におとなしくなったとしても、その心は怯えて歪み、やがて他人に対する無意味な攻撃性・凶暴性に転化してゆくことが多い。
     小家族では、子供に自分勝手な利己主義が育まれることになりやすい。

     だが、家族が両親と一人っ子だけの「核家族」でなく、老人や兄弟姉妹など、たくさんの人によって構成されているなら、子はたくさんの愛情を受けてのびのびと育ち、開放的な人間になり、人間とはどのようなものかを知るたくさんの機会に恵まれることになる。
     大家族では、子供たちに、他人の利益に奉仕する利他主義が育まれるのである。

     そもそも、人類史の大部分の生活が「大家族共同体」であった。9割以上は「母系氏族社会」であった。そして、今のような一夫一婦制ではなかった。
     共同体の生活様式は実に多用だが、母系氏族社会にあっては、男女の関係は固定されたものではなく、複数の関係を結ぶのが普通であった。それは「多夫多妻制」に近いものであった。
     現代にあって、我々が洗脳されている倫理である「貞操観念」は、資本主義における小家族制度維持のための虚構にすぎない。

     男女とも貞操が洗脳による虚構にすぎないという真実は、夫婦生活がいかに危ういものか、ほとんどの夫婦が実感しているところだろう。
     すなわち、女性は妻であっても、目の前に魅力的な男が現れたなら、実に簡単になびいて、現実の生活を捨てて跳んでしまうことが少なくないし、男性も、若く魅力的な女性が現れたなら、いとも簡単に浮気するものであって、夫婦という制度が、便宜的な虚構にすぎないことに気づかぬ夫婦はいないはずだ。

     ところが、これでは男性の権力を、その子に継承する相続システムを求める封建的思想にとって非常に困るもので、母親が誰とでも寝たのでは、自分の子供が分からなくなってしまう。
     そこで、母親に貞操を強要するために、苛酷な倫理や残酷な刑罰を考え出した。
     イスラム・モスリムに今なお残るように、夫以外の男性と性交した女性は、例え暴行されて犯されたとしても厳罰に処せられ、その多くは残酷に処刑されてしまうことになっている。
     イスラムでは、毎日のように、こうした自由な心の女性たちが見せしめに殺害され続けている。処刑の理由は、女性を男性の奴隷とすることで、父系社会、家父長社会の秩序を維持するという観念にすぎないのである。

     日本でも、封建社会、男性優位社会の残渣観念が残り、夫婦における貞操を要求する法的制度が成立している。
     しかし、現実には、「財産・権力・地位を我が子に受け継がせる」ことのできない貧しい大衆にとっては、「我が子を特定する」ということは無意味であり、父の子が誰であっても構わない。母親に経済力がありさえすれば、邪魔な父親などいない方がよいことになり、母子家庭が激増しているのである。
     今や、日本にあって、「父の子を特定する」必要のある大衆など、ごく一部であって、下層大衆ではフリーセックス、多夫多妻制が実態化しているのが現実である。

     例えば、私有財産を否定するヤマギシ会にあっては、一応、名目上の結婚制度は存在しているものの、その実態は、1人が生涯で5〜10回の離婚再婚を繰り返しているのであり、これはヤマギシ会に限らず、「子を特定する必要」のない共同体社会では、必然的な現象であることを知っておく必要がある。
     逆に、このことが、男女関係の本質を物語っている。
     結婚は虚構であり欺瞞である。その本質は男性権力社会にあって、男性の子を特定し、その子に権力財産を相続させるものでしかない。
     したがって、その必要のない共同体社会、母系氏族社会では、多夫多妻制、乱婚が常識となる。ただし遺伝的劣化の見地から、白川郷のように共同体内部での血縁性交が許されなくなるということだけだ。

     これから、大恐慌が進行することで、財産をなくした大衆が激増し、受け継がせるべき財産も権力も所有しない大衆にあっては、もはや結婚制度が有名無実化することが避けられない。
     人々は、結婚制度の拘泥から解放されて、今、目の前にいる人と自由に恋愛し、性交するようになるだろう。というより、事実上、とっくに、そうした自由結婚の社会が到来している。
     イスラム諸国が、近年、女性の貞操に対して、残酷極悪な弾圧処刑を繰り返すようになった本当の理由は、実はイスラム圏にあっても、もはや父系社会、男性権力が無意味になり、男性の子を特定し、財産を継承させるシステムが不要になっている結果、女性たちが自由な恋愛を望み始めた事情を恐怖していることによるものだ。
     イスラムにあっても、おそらく数年以内に、父系社会は崩壊し、女性が家族から解放されて自由に恋愛できる社会が到来することだろう。

     社会は小家族から大家族へ、孤立した人間関係から、共同体へ、父系社会から母系社会へと今、巨大な変革が始まっている!
     我々は、結婚という制度を拒否し、誰とでも自由に恋愛し、性交する社会を実現すべきであり、私有財産の継承という制度を否定すべきである。
     共同体を結成し、そのなかで誕生した子供たちは、すべて共同体全員の子として共有し、育てる社会を実現するべきである。

     

    nougyou 大家族生活 その6 続 ヤマギシ会

     ヤマギシズムの本質は「私有財産の否定」である。
     参画者は、すべての私有財産を無条件に提供することを求められる。だが、近年、ヤマギシ会内部の矛盾によって、参画を断念し、離会した人たちから多数の財産返還訴訟が起こされ、最高裁による返還判例も定着したようだ。
     とまれ、これは参画者に運命共同体としての「背水の陣」を求めると同時に、人間共同体を紡ぐ糸が何であるのか、人が人生で頼るべき真実は何であるのか、思想哲学の原点を確立させるという意味が大きい。

     共同体を作るにあたって、『私有財産』が、なぜこれほど重要なのか?
     それは、エンゲルスが「家族・私有財産・国家の起源」のなかで指摘しているように、無私有の原始共同体社会のなかから「私有財産の成立と継承」というメカニズムによって疎外され孤立した家族を産み出し、共同体を崩壊させて国家に変えていった本質だからなのである。
     つまり、私有財産の蓄積を野放しにすれば、必ず、共同体内部に格差や妬み、差別が生まれて崩壊し、やがて、それは階級対立を産み出し、強い者たちが弱い者たちを組織の制度、武力によって利用し、支配する仕組みの大組織、すなわち人間疎外の国家が成立すると考えられるからである。

     ヤマギシズムは、その逆をやろうとした。すなわち、私有財産を消すことで国家を崩壊させ、孤立家族制度を破壊し、人間疎外のない大家族共同体に戻そうとしているのである。
     筆者が、当ブログで一貫して主張してきたことも、まさにこれなのだ。それは共産主義の本質でもある。しかし、誤解なきよう言っておくが、人類史上、共産主義が真に実現したことは原始社会を除けば皆無である。ソ連体制や中国は、共産主義とはほど遠いインチキまみれの官僚独裁国家にすぎなかった。これまで登場した「社会主義・共産主義」なるものは、ただの一度として差別をなくし、人間を解放したことなどないのである。
     これに対して、ヤマギシ社会は、個人の間に生まれる財産格差、差別をなくすことで、真の共産主義を目指したと言えよう。

     人類史のすべてにおいて、その始まりは無私有の母系氏族共同体であった。この共同体は、どうして崩壊し、私有財産を認めた父系社会の国家に変わっていったのか?
     それは、共同体全体が平等な構成員によって支えられた、「全体で一個の人格」だった時代から、分かち合うことのない私有財産が生まれ、特定の権力が発生することによって、共同体の団結が崩壊し、複数の人格、差別が成立していったことからはじまった。

     共同体社会とはいっても、人の能力には大きな個人差がある。ある者は肉体的に優れ、ある者は耐久力に優れ、ある者は頭脳に優れ、ある者は弁舌に優れるといった具合に、人には大きな個性の差異があり、このことによって、人間関係に優劣が発生することが避けられない。
     例えば、大飢饉が起きたとき、食料を発見したり、生産したりする能力に優れた者がいれば、共同体構成員は彼に大きな期待をかけ、その指示に従うようになり、権力が発生することになる。
     また、部族間戦争が起きたときなど、戦闘力の強大な者がいれば、やはり構成員は彼を頼り、従うようになる。
     おおむね、能力の高い者は、生理的に男子に偏ることが避けられない。なぜなら、女性には出産・子育てという巨大な能力を与えられており、男性は、それを支えて子孫を残す役目を与えられているわけだから。
     (このことが、男性が、どれほど望んでも決して得られない女性の圧倒的優位を与えていて、これに対する根源的コンプレックスが男系社会への渇望になっているメカニズムも知っておきたい)

     このようにして、構成員のなかで尊敬され、また軽蔑される序列ができあがり、差別の秩序が成立するようになる。これは猿のような動物社会でも同じ原理が働いている。
     そこで、部族共同体にはボスが発生し、権力が集中するようになる。このとき、ボスが一代限りで消滅するなら問題は起きないが、ボスに対する強い信仰(甘え)が成立するほどだと、権力が無条件にボスの子に引き継がれることが起きるようになる。「ボスは凄い」という信仰が人々を洗脳し、そうさせるのである。

     ボスの権威・権力・財産が、その子に引き継がれるシステムが成立するために、ボスの子を特定する必要があるわけで、そのためにボスと性交する母親は他の男と交わらないようにするため、厳格な貞操を要求されるようになる。
     これが貞操家族の起源であり、ボスの血統継承が目的なのだから、最初、必ず一夫多妻制として出発する。後に一夫一婦制が成立する事情は、虐げられる立場の女性の権利拡大要求が成功したからにすぎない。
     ボスの子がボスになる社会では、権力が血統によって継承される『王権』の成立ということになり、これが父系社会の成立であり、同時に国家の起源なのである。
     地上のあらゆる国家が、このメカニズムによって成立しており、国家の本質は、ボスの特権継承システムと考えて差し支えないだろう。したがって、すべての国家にボスが成立しており、ボスが消える社会こそ、同時に国家が消える社会である。ボスこそ国家の本質だ。だからこそ、天皇制と日本国が切り離せないわけだ。

     ところが、ヤマギシ社会では、このボスを消してしまった。
     ボス、すなわち指導部に「絶対者がいない」「無固定」というシステムが、ヤマギシ社会の核心であるとされた。
     また創立者、山岸巳代蔵の意図によって、指導部は統一されず、複数に分割された。中央調正機関と実顕地本庁で、これは同等の権限を持っていて、互いに暴走を監視し、補完しあうシステムといわれている。
     実際に、中央機関が金儲けの効率から、ヤマギシズムの本質をなす平飼養鶏を捨てて効率的なケージ飼育に切り替えようとしたとき、実顕地からの抵抗で阻止されたともいわれる。
     こうして、相互に対立することで、一方的な暴走が防がれる体制は、とても優れたものであると同時に、はるかに深い意味が隠されている。

     今、多くの人々が、世界大恐慌が身近な生活恐慌に深化するプロセスを毎日のように思い知らされ、それが、いつ自分に及んで、路傍を彷徨わねばならないときがくるかもと恐れているはずだ。こうした不安を、どのように解決するのか?
     おそらく、ほとんどの人たちが、筆者の主張しているように効率的な『大家族生活』を目指す必要があると考えはじめていると思う。
     その時期は、筆者は今年であると指摘してきた。いよいよ今年、仕事がなくなった者たちが孤立生活を捨てて、みんなで寄り集まって助け合い生活を始めなければならない時が来ている。
     それが実現できなければ、我々に残された運命は、飢えて路頭を彷徨い朽ちてゆくことしかない。

     このとき、すでに半世紀を超す経験を積んだヤマギシ会の歴史が、これから目指すべき社会について、たくさんの知恵を与えてくれるのだ。
     単に、集まって、みんなで暮らせば問題が解決するなどと甘いことを考えてはいけない。
     長い資本主義的価値観の洗脳のなかで、孤立し、対立し、制裁しあうような人間疎外の関係を当然と思いこまされてきた我々が、助け合って、支え合って生き抜いてゆく新たな価値観を獲得するには、極めて大きな障害が横たわっている。
     ほとんどの人は利己的価値観を当然と考えているが、そのままで大家族共同体を始めても必ず失敗が約束されている。
     なぜなら、共同体は、構成員が他人を思いやる『利他主義』思想を身につけない限り絶対にうまく機能しないからだ。

     すなわち、構成員が利己主義に洗脳されているならば、共同体組織を自分の利権のために利用しようとする輩が必ず登場し、他の構成員を不快にさせて、組織を崩壊させてしまうことが明らかなのだ。
     また真の利他思想を身につけるには、単に講習会や学習会をやった程度では無理だ。多くの失敗の経験を積み、困難、苦難を共に味わい、乗り越える経験のなかでしか真に身につかないのだ。

     このとき、上に述べた「ヤマギシズム式二元指導部」の考えが有効になるだろう。つまり、問題が発生したときに、それを公平に解決するシステムとして、組織の権力を一元化せず、二元化することが、とても大切なのである。
     一元化すれば、組織は権力者によって暴走する可能性が強くなる。利他主義思想が不十分な段階ではなおさらのことだ。しかし、二元化し、相互に監視するシステムにすれば、暴走を抑制し、誤った方針が是正される可能性が高くなる。
     もちろん、一元化のときのような効率性は落ちるだろうが、それでも暴走し破滅するよりマシなのである。
     一元指導部は弁護士なき裁判所のようなものであり、選挙なき国会のようなものだ。北朝鮮や中国のような運命になりたくなければ、我々は二元対立指導体制を研究すべきだろう。

     我々は、世界でも希な共同体成功例であるヤマギシ会から、多くのものを学ぶ必要がある。
     人間がやっているのだから失敗は避けられない。ヤマギシ会にも、これまでたくさんの失敗があり、愚行もあった。しかし、その思想的本質である私有財産なき大家族共同体社会を成功させ、圧倒的な実力、安定性を獲得している組織は他にない。
     かといって、我々が困ったときヤマギシ会に参画すればよいというほど簡単なものではない。
     ヤマギシ会側だって、世界大恐慌で食えなくなったから便宜的に入会したいという程度の発想で参画されたのでは迷惑だろう。利他思想が身についていない人が入ったとしても、起きる結果は目に見えているのだ。

     筆者がヤマギシの特別講習研鑽会に参加したとき、幹事が最初に言ったことが、「ヤマギシでは、みんなで入る風呂が最後まで汚れない」
     ということだった。
     ヤマギシ参画者は、必ず他人の利益に奉仕する思想を身につけることが求められ、例えば、風呂に入るときでも、他の人がきれいな風呂に浸かれるように、必ず体を十分に洗ってから入浴するのである。
     これこそ、ヤマギシズムの核心的思想であり、すなわち共同体が利他思想によってでしか成立できない本質を示すものであった。

     今年、筆者も大家族共同体の結成に向かうことになるだろう。
     もう、このままでは食べてゆくことさえできない。都市の路上には、餓死者が散乱する事態が、そこまで迫っている。
     そうした光景を見せつけられたなら、我々は、否応なしに、もっとも合理的な解決策である農業共同体の結成に向かうしかない。
     安定するまでの数年間は、おそらく苛酷な試行錯誤の日々が続くことだろう。米など無理で、芋を食いながら堪え忍ぶ苦渋の日々を過ごさねばならない。

     だが、そのなかで心を安らがせてくれるのは、参画者の利他思想だけであり、互いの思いやりによって我々は、どんな困苦からでも救われるのだ。
     人は、どうせ死ぬ運命にあるのだから、一緒に生きている人たちの笑顔を見られるなら、死などどうして怖いことがあろうか?
     我々は「連帯を求めて孤立を恐れず」、利他思想の元に結集し、力を合わせて農業共同体を目指すしかないのである。

     このとき力及ばず、死を迎えたとしても、利他思想に包まれる喜びのなかで迎える死は貴いものであり、何の後悔もないだろう。
     だが、手をこまねいて失敗し、悲惨な運命を迎える必要はない。日本に先駆者として屹立するヤマギシズムから、学べるものを、たくさん学んでゆけばよい。

    yamagisi大家族生活、その5 ヤマギシ会

     日本の大家族、農業共同体の草分けといえば、100年近い前に、武者小路実篤らによって設立された『新しき村』であろう。
     これは現在でも埼玉県で農業を主体に実際に自立生活し、二十数名の参画者によって維持されている。
     
     同じ時代、1930年頃から、スターリンソ連で農業共同体「コルホーズ」が作られ、国家崩壊までの約60年間、共同体農業が展開されたが、共産党独裁による官僚主導の弊害で、一種の強制収容所、あるいは隔離所の様相を帯びていた。
     そこでは支配階級として君臨する官僚たちの利権を優先させ、参画者を家畜のように扱う体制から、人々は勤労意欲を失い、立派な計画はあっても収穫物は腐敗し、輸送も滞り、無気力と貧苦に喘いでいた。
     体制の観念的な屁理屈によって上から押しつけられた共同体計画が、どれほど、ひどい人権抑圧と人間性破壊をもたらすかの見本を示しただけの惨惨たる結果に終わったのである。

     同じ轍を踏んで、中国でも1960年頃から「人民公社」が計画され、中国全土に農業共同体が組織されたが、結果はコルホーズと同じく惨惨たるものになり、官僚権力の腐敗を加速させ、大躍進運動などで数千万人の餓死者を出したとも噂された。これは後の「文化大革命」によって、実権派・富裕層に対する凄惨な大殺戮の下地を作ることになった。
     我々は、『大家族共同体』が、官僚支配下に置かれたなら、必ずタテマエ優先によって人間性が崩壊し、人々が意欲喪失することで崩壊に至ることを、これらの例から、しっかりと記憶しておくことにしよう。
     それは絶対に、底辺の生活者の要求から産み出されるものでなければならず、参画者全員の意欲を昂揚させる民主的自治に委ねられなければならないのである。

     日本では、資本主義的競争価値観が孤立化家族を産み出したことはあっても、それに逆行する大家族共同体を結成し、その良さをアピールする民衆運動は極めて少なかった。
     冒頭に述べた『新しき村』をはじめ、資本主義の弊害が目立ち始めた時代にアンチテーゼとして登場した大正デモクラシーや幸徳秋水・大杉栄らによる社会主義・アナキズム思想運動から、いくつかの試行錯誤が行われたにとどまる。
     また、1960年代に、小規模ながら、ヒッピー運動から派生した「部族共同体運動」(榊七夫らによる)が長野県富士見町などで営まれたこともあった。
     これらは、ただ一つの例外を除いて、ほとんど有力な勢力となりえなかった。
     
     その「ただ一つの例外」こそ『ヤマギシ会』であった。
     ヤマギシズムは、ちょうどイスラエルの入植者共同体「キブツ」が登場するのと時を同じくして1953年に登場し、この両者だけが、現在、数万人を超える参画者を有し、経済的に優位な自立的地位を獲得し、世界的に共同体として成功を収めている稀少な例である。(キブツは、現在では「工業共同体」に転化している)
     すでにブログでも何度も取り上げているが、筆者は、ヤマギシ会の本拠地である伊賀市が近いこともあり、これまで大きな関わりをもって見守ってきた。

     創立者の山岸巳代蔵(1901~1961)は、幸徳秋水の影響を受けたアナキストであったといわれる。元々、近江八幡市の篤農家であった巳代蔵は、養鶏と農業によるエコロジー循環農業を、おそらく日本で最初に主張し、実践した人物であった。
     今でいう『炭素循環農法』の理論を60年前に最初に確立したとも言えるだろう。その骨格は、ニワトリを自家飼料によって平飼いし、小屋内で発酵堆肥を作り、それを農地に返すというものであった。もちろん当初から農薬や化成肥料は逆効果と明確に認識されていたし、「手間のかからない安全で豊かな農業」を目指していた。
     「養鶏農業による勤労生活」こそが人間生活が目指すべき最大の価値と捉え、蓄財や権力の価値を否定し、私有財産制度を社会腐敗の根源と認識していた。
     しかし、一方で、当時の社会的価値観である「立身出世・末は博士か大臣か・世界に冠たる日本国家」の全体主義的思想から自由ではなく、一種の「優生保護思想」がかいま見えることが、後に大きな問題を引き起こしてゆくことになった。

     ヤマギシズムは、当初、思想運動の側面が色濃く、分けても、1956年から伊賀市柘植の春日山実顕地で行われた「特別講習研鑽会」によって、明確に「私有財産を拒否する農業共同体」、当時で言う「コミューン」思想を主軸に据えていた。
     1959年に「世界急進Z革命団山岸会」と改名し、非合法な監禁に近い洗脳工作を行ったとされ、マスコミなどから大規模なバッシングを受けることになった。
     この事件以降、「アカの過激派団体」と見なされることが多くなり、ヤマギシズムは一時的な停滞に陥った。
     筆者も、ヤマギシズムを初めて知ったのは1969年だったが、1974年に、この「特講」に参加している。
     このとき、ヤマギシズムの代表を勤め、特講の最高幹事だったのが新島淳良であり、奇しくも、彼は筆者が毛沢東思想に傾斜していた時代の教師ともいえる存在であった。

     実は、1960年代後半から燃え上がった「学園闘争・全共闘運動」のなかで、最期に赤軍派などの大量殺人が摘発され、一気に意欲消沈、運動が崩壊してゆくなかで、主役であった戦闘的な若者たちの多くが、こうしたコミューン運動に幻想を抱き、ヤマギシズムに共鳴して、参画していったのである。
     思想的オピニオンリーダーの一人であり、日本を代表する中国革命思想研究者だった新島淳良は、早稲田大学教授の地位をなげうって、全財産をヤマギシ会に提供し、一家で参画したのだった。(本人は死去したが妻や子供たちは、まだ参画している)
     当時、筆者も「ベ平連運動」に共鳴していた一人だが、ベトナム戦争での無意味な人殺しを拒否した在日米軍脱走兵などがヤマギシ会に匿われていたと記録されている。筆者自身は立川のローカル活動家であって、鶴見俊輔らと直接の交際はなかった。

     1980年代からは、資本主義の人間疎外に疑問を抱いた人たちから、農業コンミューンによる人間性回復、循環型社会のモデルとして受け入れられるようになり、世界最大の農業系コミューンとしての地位を確立した。
     現在、日本各地に32箇所、ブラジルやスイス・韓国などの日本以外の国に6箇所の合計38箇所の地に実顕地がある。(一部ウィキ引用)

     筆者はヤマギシズムに1980年前後から数年間、アルバイトとしてかかわり、その本質を観察した時期がある。
     すでに、この当時から、全共闘後世代の競争主義価値観に洗脳された世代の参画により、金儲け至上主義や盲目的な科学技術信仰による弊害が散見されるようになっていた。
     例えば、効率的生産のための農薬使用であったり、平飼いを根本原理とするはずのヤマギシズム養鶏にケージ飼育が持ち込まれたりと、思想の腐敗堕落を想起させるほどの深刻な改悪が持ち込まれているのを目撃し、ショックを受けた思い出がある。

     後に聞いた噂では、代表者がベンツで移動したり、国内食品大手との連携生産が行われたりと、まるで資本主義企業化に向かっているような情報が流れた。
     この間のヤマギシズムの崩壊については、以下のHPなどを参照していただきたい。ドイツなどでは「カルト宗教」として認識されているようだ。
    http://www.lcv.ne.jp/~shtakeda/

     しかし、筆者が初めてヤマギシズムを訪れた1970年前後は違った。
     参画者はトタン製ドーム住居に住み、粗末で貧しい生活をしていたが、その表情、人相は光り輝き、筆者は、その人間性の素晴らしさ、粗末な衣服を身につけて化粧もしない女性たちの、あまりの美しさに感動を通り越して、完全に魅入られ、いつかヤマギシズムに参画したいと痛烈な意欲を抱いた。
     春日山で、ヤマギシの卵を初めて食べたときの強烈な感動を未だに忘れることができない。それは、薫り高く、素晴らしく味わい深く、体を癒すものであり、筆者がそれまで食べた食物のなかで真の最高峰であった。
     このときの感動が、筆者をして、いつかヤマギシ卵を自分で生産してみたいという強い志を抱かせたものだ。
     だが、それから十年後に訪れたヤマギシの卵には、かつての輝きが失われていた。女性たちは十分に輝いて見えたが、虚ろな影が漂いはじめていた。

     ヤマギシズムに現れた、さまざまの矛盾、問題の根源を追求してゆくと、創立者であった山岸巳代蔵その人の思想に行き当たる。
     以下、『百万人のエジソンを』から引用 http://www.lcv.ne.jp/~shtakeda/library/page025.html#lcn007

     【私はキリストや釈迦が遺した足跡を,直接見ていないから,後世の人達よりの,間接的資料から観たものに過ぎませんが,彼等は先天的に相当優れたものを,持って生れていたやに想像しても,間違いないと思っています。
     又あの人達でなく共,あれ等の人に劣らぬ人も,世界の各所に実在したと思いますし,その秀でた因子は,直子は無く共傍系にあったものが,現代の誰かに組み合わされて,伝承されてあるかとも思われます。
     今彼等と同じ又は,彼等以上の優秀な遺伝子を持って,よき機会に恵まれた人が,百万人一千万人と実在したなれば,世界はどんなに変るでしょうか。そして,白痴・低能・狂暴性・悪疾病遺伝子の人達に置換されたなれば,物心両面の幸福条件・社会風潮等を,如何に好転さすかに思い至るなれば,何を置いても,この人間の本質改良に出発せざるを得ないでしょう。後略】

     これを読むと、巳代蔵が明らかにヒトラーに類する優生保護思想、すなわち「人類は『優れたもの』を目指すべきだ」という発想が読み取れる。
     こうした「スグレ主義」を指標にしている思想運動は、必ず全体主義に陥り、循環型社会志向から逸脱し、「全人類の持続可能な再生産社会」を破壊する勢力となってゆく。
     ヒトラーナチズムはもちろん、旧日本軍も、オウム真理教も、三菱もトヨタも、果てはユダヤ勢力イルミナティも、すべて、その本質は優生保護思想であり「スグレ主義」であり、「自分たちは世界の支配階級であって、他の人類は自分たちに奉仕するために誕生した家畜に過ぎない」 とタルムードに明記された、愚かな全体主義に至る必然性を持つのである。

     だが、人類の本質は「スグレ主義者」たちが夢想するような完璧志向ではない。それは不完全であり、愚かさと賢さのヤジロベー運動であり、人が失敗し、自分の不完全さを思い知らされるための道程なのである。
     巳代蔵の思想に内在した「優生保護思想」の結果、無農薬有機農法、あるいは炭素循環農法を志向したはずのヤマギシズム農業に、効率最優先、金儲け主義などが持ち込まれ、農薬使用によって近隣の無農薬農家に致命的ダメージを与えるような犯罪的実態まで報告されるようになった。

     しかし、ヤマギシズムも、今、その問題点が糾弾されるようになり、参画者から脱退する人たちも激増し、大きな歴史的岐路に立たされている。
     しかし、この時期に、資本主義と世界経済が自滅崩壊し、まさにヤマギシズム思想と生活が人類救済の主軸に位置すべき社会的必然性を持つようになり、巳代蔵が創立期に意図した、「持続可能なエコロジー農業共同体」として再構築し、日本人民を救うことができるのか、本当に問われている。

     字数の都合で止めるが、次回もヤマギシズム問題を取り上げる

    kazoku 
     

     http://www.dokidoki.ne.jp/home2/yh1305/diary01-01.html#1/1
     【指定された場所と時間に指定されたセリフを言うというエキストラのアルバイトを始めた役者志望の男。周囲の人間はセリフにない言葉をまったく受け付けない。実は周囲の人間もすべて指定されたセリフをしゃべっているだけのエキストラにすぎず、これまでそれに気付いていなかったのは彼一人だけだと知らされ愕然とする。】

     そう、現代社会は、学校、会社はおろか家族・友人の会話まで、指定された常識を逸脱しないように言うべき台詞が定められている。もし逸脱でもすれば、朝青龍や国母のような一斉バッシングを受けるハメになるわけだ。
     その制裁は恐ろしいものだ。『良識』やら『品格』やら、糾弾している本人さえ、たぶん分かっていない空虚な批判が飛び交い、朝青龍は優勝しながら引退を強要され、国母は実力ナンバー1でありながら、オリンピック参加を辞退させられかけた。「逸脱すれば追放と死刑が待っている恐怖社会」というべきだろう。

     戦前、治安維持法、大政翼賛会体制の元で「天皇崇拝命令」に従わなかったり、「お上」の命令で戦争に協力することを断ったりしたなら『非国民』と決めつけられて、社会からつまはじきにされ、抹殺された洗脳統制社会が、いまや再び復活しているのだ。
     家族のなかですら、血を分けた親子の間ですら、ホンネを言うことは許されない。タテマエだけの乾ききった世界。これこそ、ジョージ・オーウェルが『1984年』のなかで予言した、権力による超管理社会の到来を実質で成就したものではないか?

     見せかけだけの自由と権利、コントロールされた『反抗』、体制の家畜として従順に生きる限りは衣食住が保障されるが、体制に疑問を持った瞬間、そこには屠殺が待っている。こんな社会は、いったい何のために用意されたのか?

     それは、人類を家畜として支配しようとする特定の勢力によるものだと決めつければ簡単であり、実際に、ロスチャイルドを代表とするユダヤ・タルムード信奉勢力の歴史を見れば、『シオンの議定書』に書かれているとおり、緻密に計算された恐るべき『ワンワールド社会』に向かっていることが明らかだが、実は、それで決着がつくほど単純なものではない。

     自分の間違いを棚に置いて他人の間違いばかりを糾弾し、鬼の首を取ったように喜び勇んで制裁しようとする人たちは、決してユダヤ勢力ばかりではなく、自分の両親兄弟であり友人であり、上司であり、教師や役人たちである。
     社会の真実に目を向ける機会がいくらでもありながら、臭いモノにフタをし、見ざる言わざるを決めて、現実から背を向け続けてきたのは、いったい誰なんだ?
     ネットの匿名性を利用して、姑息に身元を隠しながら、恥知らずに他人を誹謗中傷しているのは誰なんだ?
     道端で倒れているホームレスを、気の毒にさえ思わず、汚い、嫌なものを見たと一目散に逃げているのは誰なんだ?

     結局、自分自身が、それに対処できる実力も自信もなく、真正面から向かい合う誠意もないことを思い知らされ続け、せいぜい虚勢を張りながら、囲われて、安全地帯で生きる人生に逃避しているのが実態ではないのか?
     どうして、日本人は、こんな愚か者ばかりになってしまったのか?  人を臆病で矮小で無能な弱虫にしてしまった最大の原因は何だったのか?
     その最大の理由は、人々が連帯を忘れたことだ。小家族になり、対話せず、孤立する人生を強いられているからだと私は思う。

     我々が小家族にされてしまった理由は、工場労働力の効率的稼働のために近辺への居住を求めた企業の要求であった。
     資本主義の金儲けシステムに依存していれば楽ちんに食べてゆけるから、賃金労働をしていれば、自給自足では手の届かない贅沢ができるから・・・・みんな、先を争って、資本家の奴隷に身売りしていったのだ。

     大自然に抱かれる野生を売り渡し、他人の不幸の上にあぐらをかいて、金儲けだけを目的にした仕事に無批判に従事する家畜に成りはてたのは誰だ?。
     「正しいこと、間違っていること」を言う、人間として当然の姿勢さえ売り渡し、会社に盲目的に従ってきたのは誰だ?
     見ざる、言わざる、聞かざるを決め込んで、賃金のために人間性を売り渡してきたのは誰だ?

     かつて我々は、循環し、再生産される自然の恵みを受けて、集団で支え合って生きてきた。
     だが、資本主義の勃興とともに、人々は企業に依存する賃金労働家畜に転落させられていった。大家族で団結し、連帯して、創意工夫、知恵を出し合って生活を切り開くのではなく、企業の用意したぬくぬくとした座布団に座って、指示されたことだけをやっていれば安泰であるかのような家畜的人生が人々を支配していった。

     だが、そんな『資本主義畜産社会』とでもいうべき管理社会が、突如、音を立てて崩壊しはじめた。
     1990年、我々は鉄壁の大資本、山一証券が崩壊する姿を見た。バブル崩壊は、戦後資本主義を次々になぎ倒していったが、アメリカによる金融資本主義の巨大な隆盛によって需要が牽引され、一段落するかに見えた。
     しかし結局、それは幻想に過ぎず、投機というゼロサムゲームの詐欺市場による集金システムにすぎなかった。それは2007年末に、ツインタワーのように崩壊を始めた。
     世界の商品市場は一気に需要を失い、労働者が路頭に放り出される時代がやってきた。

     いまや、賃金労働という生活基盤を失った我々に残された手段は、再び昔のように自然の恵みを最大に利用する、循環再生産可能な大家族共同体による効率的生活を目指すしかない。野山に放り出された我々は、基本的に農業による自給自足を目指すしか生き延びる手段がないのだ。
     だが絶望することはない。みんなで助け合って、株主や経営者の儲けのためにではなく、自分たちの生活のために行う労働には、金儲けのために人間性を無視して追い立てる鬼もいない。疲れたら休めばいい。
     それは愛があって人間疎外がなく、とても楽しく、意欲をかき立てられるものなのだ。

     小家族は非効率であり、大家族は効率的である。だが、「大家族にはプライバシーがない」と心配する人が多いだろう。だが・・・プライバシーとは何だったのか?
     それは、冒頭に述べたような愚かで無意味なバッシングから逃避するためのものでしかなかった。それは仮面家族のなかで、本当の自分に戻って癒されるための部屋だった。
     だが、本当の自分をさらけ出して、ホンネだけで生きられる社会があるとすれば、そこには隠すものもなく、プライバシーも必要なくなるだろう。
     必要なことは、いつでも一緒に生きる仲間が優しく癒してくれる生活だったのだ。孤独から解放されることだったのだ。
     大家族は互いを思いやる生活であり、構成員が、それぞれ、みんなのために自分の人生を捧げる「利他主義」を身につけるのである。共同生活者に奉仕する利他思想がなければ大家族は成立しない。そこにはバッシングでなく暖かい癒しがある。

     さて、こうしたバッシング、姑息に身元を隠しながら他人を攻撃して自己満足する類の矮小な人間性は、どのようなメカニズムで生まれるのか? と考えるなら、結局、孤立させられた小家族と私有財産制度から生まれると筆者は考えている。
     東海アマの掲示板で、悪意に満ちたバッシング、嫌がらせ書き込みを執念深く続ける「カイロ」(カ)などを見ていても、その内容は、実に陳腐矮小な私有財産への執着にすぎない。
     「人間が、どのように共同して楽しく生きてゆくか」
     という前向きな問題提起が存在せず、人生観の根底が腐敗崩壊していると思うしかない劣悪なものであり、おごり高ぶり、ねじ曲がった卑屈なプライドを守ろうと必死になっている姿が哀れというしかない。

     これまで、掲示板に悪意書き込みを続けた者の多くが、おそらく小家族の偏狭な価値観に育った「一人っ子」であろうと考えている。
     彼らの特徴は、徹底して自分勝手であり、他人に対する思いやりのカケラもないことである。カイロなどは、「ホームレスになったのは自己責任だから死んで当然」と書いていて、自分がホームレスに転落する可能性を、まるで理解しておらず笑ってしまう。
     彼のような悪意性の高い人物こそ、みんなから嫌われて誰からも援助を受けられず、最期はホームレスに転落する運命が約束されているのだ。

     このまま小家族ライフスタイルが続くなら、無数のカイロが登場し、矮小偏狭な人間性で埋め尽くされた社会になるであろうことに戦慄を覚えざるをえない。
     結局、「私有財産(権力・地位・蓄財)の多寡により人間の値打ちを評価する」という価値観がのさばっている以上、こうしたゴミどもが次々に形を変えて登場してくるわけで、良き人間性の若者たちを育てるためには、何をおいても大家族共同体で、他人をいたわり支え合って生きるという価値観を身につけさせるしかないと確信している。

     筆者は、近所の中津川市福岡にある「満天星温泉」によく行く。300円で気持ちのい鉱泉銭湯だが、困ったことに、最近は公共浴場におけるマナーを理解していない者が増えていて、辟易する機会が多い。
     体を流さず浴槽に入る者など初歩的で、体を洗って、ついた洗剤を流さず、いきなり浴槽に入る者、タオルを浴槽内で使う者、なかには浴槽内で体を洗う者など、それも結構な年代のオッサンがやっている。
     見ているだけでウンザリし、注意するよりも、「もう二度と来るものか」と思ってしまうことが多い。

     筆者の子供時代、まだ各戸に風呂はなく、銭湯が一般的であって、庶民は誰でも銭湯に通ったものだ。当時は、ご意見番の世話焼き老人がたくさんいたもので、子供が浴槽に体を洗わずに入ろうとすれば、親身に注意してくれたものだ。
     愛情たっぷりの気持ちが伝わってきた時代だから、こちらも、ありがたく小言を頂戴した。風呂のマナーというのは、共同体生活にとって本当に大切なものだ。
     我々が他人と協調して生きているという現実を、風呂ほど端的に物語ってくれるものはない。自分勝手な利己主義洗脳者が公衆浴場に入ると、たった一人で数百名の楽しみを無茶苦茶に破壊してしまうからだ。

     日本で唯一、成功している大規模な無私有の共同体がある。
     そこでは、小さな風呂に数百名が入るが、最後まで湯が汚れない。それは、みんな風呂に入る前に、徹底的に体を洗うからだ。それは共同体の基本マナーなのだ。
     次回は、共同体の運営について、日本最大の共同体ヤマギシズムを見てみたい。

     

     

     

    unnan 

     白川郷では、かつて一戸に数十名の男女が共同生活する民俗習慣があった。独立した一戸における大人数家族の生活スタイルは、どのようなものだったのだろう?

     かつて、白川村に大家族生活が存在した時代では、戸主夫婦以外の男女は、もちろん兄弟姉妹・叔父叔母・甥・姪などの血縁であり、近親交配の悲惨な結果も、先祖から伝わる経験則のなかで十分に理解されていたはずだから、戸内家族間での性交は戸主夫婦が専用個室で行う以外もちろん許されなかった。
     大きな広い戸内であっても、寝場所は意外に小さく、デイ(男部屋)チョウダ(女部屋)は、それぞれ10畳ほどしかなく、ここに20名近くが寝ることもあったようだ。
     これは、人の目が行き届かないと、男女の間違いが起きるという用心が働いていたのだろうことと、極寒の土地なので、寄り集まって寝る必要があったのだろう。当然、プライバシーなどカケラもないが、慣れれば、それを不快と感じる者も少なかったようだ。

     正式に婚姻できるのは戸主のみでありながら、健康な男女の性欲まで封じ込めることなどできないから、家の者たちは他の家の男女と交際し、婚姻せずに肉体的に結ばれることになった。
     男女の性交は、離れた田に作られていた農作小屋や、夜這い用に設けられた小さな出入口から、示し合わせて、二階や三階の小部屋に行ってすませていたようだ。
     男女の関係は固定することが普通だったが、婚姻の束縛がないため、比較的、自由に相手が変わったようだ。しかし、「男が女を捨てる」場面では、家族の女たちから一斉に口を極めて罵られたと記録にある。
     他に楽しみもない深い山里のため、みんなせっせと子作りエッチに勤しんでいたため、なかには十名近い子を産む母もいた。
     こうして産まれた子は、すべて「家の子」として育てられ、父親側には帰属せず、母の家に帰属することになった。
     こうした男女関係を民俗学では「妻問婚」と呼んでいる。

     【ウィキ引用:妻問婚とは夫が妻の下に通う婚姻の形態のこと。招婿婚ともいう。女系制の伝統のある社会など母権の強い民族に多く見られる婚姻形態で、普通、子は母親の一族に養育され、財産は娘が相続する。 かつてこうした婚姻形態を持っていた民族として有名なのは、インド南部ケララ州に住むドラヴィダ人、古代日本人など。
     彼らの家には幾つかの区切りがあり、女性達は共同の広間と自室を持っていて、夫は夜間にその部屋に通う。一人の女性に複数の男性が通うことも多く、結果、女性が妊娠した場合は、遺伝上の父親(ジェニター)ではなく一族の長である女性が認めた男性が女性の夫、子供の社会的な父(ペイター)となる。子は母親の一族に組み入れられ、妻の実家で養育される。社会的な父には扶養の義務があり、畑仕事などで一家を養う。
     男系社会における妻問婚
    古代日本は基本的に一夫多妻制の男系社会ではあったが、財産は女子が相続し、社会的な地位は男子が相続する形態を取っていたと考えられている。基本的に、女子は社会的地位(位階)は夫に準じ経済力は実家を引き継ぐが、男子は社会的地位は父に準じ経済力は妻の実家に準じる。女子の後見人は兄弟や一族の男性であり、男子の後見人はやはり一族の主だった男性である。】引用以上

     ウィキ引用に指摘されているのは、妻問婚には母系と男系の二つの様式があるということだが、白川郷の場合は後者になる。
     すなわち、中世封建領主(内ヶ島氏)の荘園として拡大した白川郷にあっては、戸主は大領主に帰属する小領主であって、年貢・軍役などの義務、財産を相続するのは男系男子であった。
     しかし、内ヶ島氏が登場する以前は、真宗門徒の自治的な地域であった可能性が強く、室町時代以前頃までは、おそらく母系氏族社会であっただろう。

     母系社会にあっては、家を支配する家長は母親であり、権力・財産を相続するのも母の血統である。このことの意味は、束縛のない自由な性交が許される環境ということだ。
     婚姻による束縛のない自由な男女関係にあっては、父の子を特定することはできず、母の子だけが特定されるため、必ず母系氏族社会になる。また、分散した小家族で暮らすよりも、はるかに効率的な大家族生活を好むようになる。
     したがって、人類の権力史が始まる以前、草創期の大部分が母系氏族社会であったと考えられる。男系社会が登場するのは、男の権力、財産、すなわち国家の登場と共にであった。男の権力・財産を相続させるために、母を束縛する男系社会が成立したのである。

     父の財産と権力を、父の特定された子に相続させようとすれば、母親を家に束縛して貞操を要求することになり、小家族の方が束縛に都合がよいため大家族生活など成立しない。
     大家族共同体生活は、もっぱら母系氏族社会の生活様式である。白川郷に大家族生活が残ることの意味は、実は、中世に至るまで、母系氏族社会の本質を色濃く残していた地域ということがいえよう。
     早い時期から男系社会になっていれば、妻を束縛しにくい大家族は廃れ、小家族になりやすいのである。

     世界に、同じような妻問婚と母系氏族社会の伝統を残している地域がいくつかある。なかでも、テレビ番組取材などで取り上げられて知られた地域には情報が多い。

     【モソ人:http://blog.livedoor.jp/open_eyes/archives/cat_322581.html
     雲南省と四川省の境界線上に位置する「秘境」濾沽湖付近にのみ居住する「モソ人」と呼ばれる人々がいる。人口は約1万人で、人数的には民族と扱いうるが、「族」を形成するだけの勢力を持たないため、正確な表記は「モソ族」ではなく、あくまで「モソ人」とされる。公式な少数民族の中にその名を見つけることはできない。
     モソ人は系統的には雲南省の麗江地区を生活拠点としているナシ(納西)族から枝分かれした一派といわれているが、ナシ族とは明らかに異質な文化や風習を持つ。中でも特徴的なのが、「通い婚」という結婚形態だ。
     これは男性が必要な時だけ妻のもとに訪れるという慣習。「通い婚」は「アシャ(阿夏)婚」ともいう。「アシャ」とは、モソ語で「親愛なる伴侶」という意味。男女とも成人になると、男性が金・銀・玉を贈り、女性は飾り物を返礼して交際をするようになる。
    男性は妻と共に生活する義務はなく、昼間は実家で暮らし、夜になると妻のもとへと通う。妻と一夜を過ごしたのち、翌朝再び実家へ帰るという生活を繰り返す。
    モソ人の家族には、「父親」や「夫と妻」という役割は存在せず、また私たちが普通に考える「父と子」という関係も存在しない。父親である男性は「父」や「夫」ではなく単に「おじさん」と呼ばれている。子どもたちは生みの母親だけではなく、母の実家の全員で育てる。一家の家長は女であり、代々女が家を継いでいく。
    複数の男性と肉体関係を持つことに関して、モソ人の女性はオープンであり、兄弟で父親が違うことも珍しくない。「一夫一妻制」ではないため、「未婚の母」「私生児」「未亡人」という言葉も存在しない。
    家事も子育ても女性の実家まかせだから、男性にとっては羨ましいようにも思えるが、モソ人社会は「女の国」と呼ばれるほどの母系社会であり、家財などを管理するのも家長である女性の仕事である。立場の弱い男性は女性に頭が上がらないということらしい。】引用以上

     これを見ると、白川郷の大家族によく似ている。違うのは、白川郷では、すでに領主支配が確立し、徴兵・納税のために男子を優先させる男系家族制度が成立しており、家を支配し、財産を相続する家父長は、男性であり、戸主の長男が跡目を継ぐシステムになっていたということである。
     しかしながら、封建領主が登場する以前の白川郷では、引用したモソ族とほとんど同じ生活スタイルであったろうことが容易に察せられるのである。
     すなわち、大家族共同生活の伝統は、母系氏族社会の伝統である。

     【台湾アミ族:http://blog.katei-x.net/blog/2008/12/000721.html
    ●部族−氏族構成 ガサウ>マリニナアイ>ロマの三層構造で構成される。
    ・ガサウ:祖先or故地を同じくする集団≒同生地族
    ・マリニナアイ:具体的に系譜関係を辿れる範囲の自律的集団≒母系出自集団
    ・ロマ:集団の基本単位≒単位集団
    ●ロマの母系制規範 ロマの長は、多くの場合最年長の女性。ロマの家屋敷、田畑は家長が所有。財産は基本的には母から娘へと相続。姓も母系継承。首長などの地位は、母方オジからオイへと継承。基本的には婿入り婚規範。(※現在のアミでは、これらの母系制的な様相はほとんどみられなくなっているそうです)
    母親を「太陽(cidar)」と称す。赤色の伝統的な服飾や羽の冠、花の冠、肩帯びに付いた円形の貝殻、腰帯に付いた鈴などはすべて太陽である母親を象徴。歌の中にも母親という言葉が頻出。】引用以上

     アミ族は台湾原住民、高砂族の最大部族で、アニミズムの母系氏族社会を持つ。かつて日本が台湾を植民地化し併合していた歴史があることから、アミ族の人たちで日本に帰化し、完全に溶け込んでいる人も多い。
     筆者の昔の職場にもいたが、とても従順で、妻や母親など女性の意のままに支配される傾向があった。
     身体能力の高い人が多く、郭源治・陽仲壽・陽耀勲 などプロ野球選手を輩出している。台湾政財界にも多くの人材を送り込んでいる。

     母系氏族社会にあっては、男性権力を尊重することはなく、生理・妊娠・出産など女性の自然な営みを大切にする傾向があり、非常に融和的である。
     アミ族は、戦後まで「首狩り」の風習が残るほど獰猛ともいえるほどの台湾先住民社会にあって、唯一、そうした残酷な習慣を持たない部族であった。これも、家父長が母親であったことの属性によるものだろう。

     ドラビタ族・モソ族・アミ族も、すべて、とても穏やかで友好的な人たちであり、母系氏族社会では、男性の権力闘争や戦闘が少ないため、友好的で心暖かい人たちが多い。
     先に述べたように、客家では世界的な指導者を輩出し続けている。白川郷からも、「人を救う」ことに人生を捧げる人たちが輩出されている。
     他人の犠牲の上に、利己主義的な欲望を満たそうとする人たちは、決して大家族から生まれないのである。それは、人間疎外の上に築かれた小家族制度によって生み出されるのであり、たくさんの家族に祝福されて、暖かく育った子供たちが、戦闘を好み、利己的な蓄財や権力を好むこともない。

     我々は、小家族制度が生み出してきた矮小姑息な人間性と、大家族制度が生み出してきた、広い暖かい人間性の意味について、今、深く考えるべきである。

    enrou 大家族生活 その2 客家

     国家と大企業の従順な家畜となることで、身も心も、価値観も人生観も売り渡し、代わりに、衣食住、中流生活の幻想を与えられてきた日本人の生活は、国家・組織・企業の破滅とともに崩壊し、今夜の糧を求めて彷徨う非情な野生に放り出されることになるだろう。

     国家も企業も力を失い、地域社会も親戚も友人も助けてくれない。追いつめられた饑餓のなかでは、これまでの一夫一婦制小家族生活では、とても生き抜いてゆくことができない。
     それは、あまりに非効率であり、企業の雇用、営業利益という支えを失った社会では通用しないのである。
     というよりも、小家族の成立は異動の容易、工場労働力の効率的稼働のために近辺への居住を求めた企業の要求であったことに気づかなければならない。

     かつて我々は、山と海、循環し、再生産される自然の恵みを受けて、集団で支え合って生きてきた。だから、それは等しく自然を分け合う、分散した大家族生活であった。都市を必要としない生活スタイルであった。
     だが、賃金労働が自然の恵みに頼らない生活スタイルを生み出し、集中しながら、互いに孤立した小家族を要求してきたのである。すなわち、効率的に稼働する工業生産のための都市を求めたのである。
     したがって、小家族の必然性、命脈は資本主義の崩壊とともに消え去ることを理解する必要がある。すなわち、都市は、資本主義生産とともに消えゆくということを。

     賃金労働という頼りを失った我々に残された唯一の延命手段は、信頼のおける仲間たちと団結し、昔のように、自然の恵みを最大に利用する、循環再生産可能な大家族共同体による効率的生活を目指すしかないと繰り返し指摘してきた。
     みんなで助け合って暮らせば、一のものを十にすることができる。十のエネルギーを費やしてきたものが一の力で可能になる。

     どういうことかというと、孤立した小家族の場合は、三人であっても冷蔵庫や洗濯機をはじめ、あらゆる生活機器を一軒に一台以上必要とするわけだ。しかし大家族で住めば、冷蔵庫も洗濯機も数十名に一台あればよいことになり、小家族生活が、いかに浪費に満ちていたか理解できるはずだ。
     それどころか、子供の面倒を見るときでも、調理をするときでも、介護をするときでも、洗濯をするときでも、小家族では、一人の母親が、すべてを行わねばならず、極めて重労働であったものが、大家族では、それぞれ任務を分担してこなすことができて、あらゆる生活が実に効率的であって、経費も労力も数分の一になるということだ。

     小家族は非効率であり、大家族は効率的である。だから生きるための労力が大幅に軽減される。だが、それよりも、はるかに重要な本質がある。「大家族にはプライバシーがない」と心配している方に、この本当の意味は、「大家族には孤独がない」と言い換えていただきたいということだ。
     大家族は互いを思いやる生活であり、構成員が、それぞれ、みんなのために自分の人生を捧げる「利他主義」を身につけるのである。共同生活者に奉仕する利他思想がなければ大家族は成立しない。

     人は一人では決して生きられない。みんなで助け合い、支え合ってこそ、人生が成り立つのである。
     我々は資本主義に洗脳され、小家族で対立し、他人を羨み、見栄を張るだけの利己主義的な競争生活に慣らされてきた。しかし、大家族では、見栄など何の意味も持たない。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」 つまり、他人を大切にする利他思想だけが大家族を支えてゆく。
     そこには競争から生まれる人間疎外もない。あらゆる人間関係の苦悩から解き放たれ、他人に対立する自我、利己思想も消えてゆく。そうして、共同体の一部品としての人格が成立するようになる。

     しかし問題点もある。
     、共同体の構成員が増えすぎたとき、みんなの目が行き届かない死角が増えて、人間疎外が発生し、団結を崩壊させる腐食が起きることになるからだ。
     だから、共同体には適正人員というものがある。それは、おそらく数十名、多くても百名程度であろう。
     それ以上に増えたら、内部に落ちこぼれとともに、突出した権力者や生活格差が発生し、平等や連帯が消える代わりに規則や束縛、制裁システムが成立することになる。こうなれば単に領主と農奴の関係になってしまうから、もはや共同体ではなく、予防のために分割させねばならないことになる。

     これは、1980年代までの日本社会が、戦後地方における農業共同体の倫理観、価値観の上に作られてきて、日本国家全体が互いを思いやる共同体という要素が大きく、世界的にもすばらしい社会性が成立していたわけだが、中曽根政権の誕生を境に、利己主義と格差が社会を覆い、規則や束縛が人々をがんじがらめにして人間性を矮小化させ、それが共同体利他思想によって成り立っていた日本国家を崩壊させていったプロセスを見れば、理解できると思う。
     すなわち、日本は差別・格差によって共同体を失ったために滅びているのである。

     共同体の適正システムというものは、長い共同体生活の歴史に学ぶ必要があり、我々は、世界各地にある大家族共同体から多くを学ぶことにしよう。
     先に白川郷について、少しだけ紹介したが、大家族の合理・不合理について研究しておくことは、これから子供たちの新しい未来を用意してやるために一番大切なことだ。

     世界に大家族共同体は数多いが、もっともよく知られた共同体は客家(ハッカ)であろう。
     中国に本拠を置いているが、台湾・ベトナム・フィリピン・タイ・マレーシアなど東アジアの多くの国に、数千年の昔から居住している人々であり、「華僑」の多くが客家であるともいわれる。

     客家は、漢族でありながら、どの地方語とも異なる彼ら独自の「客家語」を話すことから、何か特別な由緒を持つ民族であると考えられているが、その歴史を調べても、古代中国史に登場せず、はっきりしたことは分からない。
     しかし、彼らの大部分が、好んで山岳地帯に暮らしている事情が、その出自にヒントを与えているかもしれない。(客家語は唐宋北方中国語の古語といわれ、数字発音などが、現在の日本語の読みに近い)

     宇野政美が「客家は『失われた古代ユダヤ』である」と講演で主張している。
     その「移民性」の激しさ故に、ユダヤ人・アルメニア人・インド人(印僑)などとともに、」『世界四大移民』 『流浪の民族 『中国のユダヤ人』などと表現されることがあるが、古代ユダヤとの関係は、今のところはっきりしない。
     しかし、中国には開封という地域にユダヤ社会があったと記録されていて、これが客家であったという記述も最近知った。(客家研究者、高城桂蔵が、北宋時代に客家のユダヤ人移民が開封におり、皇帝が7つの姓を与えたと書いている)
     筆者は宇野の主張に不信感があったが、考え方を改める必要があると思いはじめている。

     客家について、はっきりと言えることは、恐ろしく教育水準が高く、中国と周辺諸国で歴史的な指導者を輩出し続けてきたということである。
     ごく一部を挙げても以下の通りである。
     洪秀全・孫文・朱徳・�眷小平・リー・クァンユー・葉剣英・コラソン・アキノ・李鵬・朱鎔基・胡耀邦・楊尚昆・台湾の宋一族など、 歴史上の人物でも、唐の張九齢・王陽明・徳川光圀の師であった朱舜水など、あまりにも多すぎて、とても書ききれない。言い換えれば、中国の歴史、権力史を作り出してきた核心に客家がいる。それどころか、台湾の宋一族はシティグループの実質的なオーナーとも言われており、世界金融資本の黒幕といっても過言ではなさそうだ。

     どうして、これほど教育熱心なのかといえば、共同体の結束が固く、すべての子供たちが、「個人の子供」ではなく「みんなの子供」という認識が成立していることが大きい。
     客家には「円楼」という丸い砦のような建物に数十家族が共同生活をする民俗風習がある。
     これは、古代中国から現代に至るまで、中国では、問題が起きると、帰属する氏族結社(中国人は政府を信用せず、身内結社に頼る)に解決が委ねられ、話し合いがつかないと「械闘」という戦闘争議が起きる風習があり、他の結社に襲われて一夜にして一族が殺されるといった氏族間戦争が珍しくなかったことから、襲われても籠城戦に持ち込めるように、氏族ごとに頑強な城を構築した習慣によるものだ。
     とりわけ客家は、その言葉の意味が「よそ者」であるように、地方社会で疎外、攻撃の対象になりやすかったので、こうした生活スタイルが定着した。

     この円楼の周囲が数階建ての居住区で、真ん中が広場になっていて、共同体のすべての仕事が、すべての構成員に、一つの隠し立てもなく見える仕組みになっている。
     このことが、円楼居住者の平等感と連帯感を生み出した。居住者は、すべて同じ条件の部屋に住み、すべて、分け隔て、隠し立てのない行事に参加する。共同生活のすべてが見えて、平等に参加できる仕組みである。

     こうした差別のない生活がもたらす思想は、徹底した連帯感と利他主義である。
     居住者のすべてが疎外感を感じず、平等感を満喫し、同じ円楼に住む者は、血肉を分けた兄弟よりも親しく、愛情を抱くことになる。

     これが客家の驚くほど高い教育水準を産んだ。
     「わが円楼の子供たちは、すべて自分の子供であり、子供たちのために最高の未来を用意してやりたい」 と居住者は考え、できる限りの教育環境を用意し、また進学援助を惜しまない。
     これが、客家が世界最高の人材を生み続けてきた秘密である。
     孫文も�眷小平も葉剣英も朱徳も、こんな客家の利他思想に育まれ、自分が周囲の大人たちからもらった恩義を、国家に奉仕することを通じて返すための努力を続けた。
     客家は利他思想の故郷であり、ゆりかごであった。

     実は、筆者の新潟の従兄弟の嫁さんが台湾客家の出身で、やはり、徹底的な利他主義で、実に外向的で親切な人だ。
     しかし、出身一族の利益に奉仕することも、夫に奉仕する以上であった。出身客家が訪れると、その接待費用が嵩むのに音を上げていたというのが本音だ。
     身近にいる白川郷出身者も客家出身者も、内向的な姿を見たことがなく、徹底的に明るい人たちだ。そして実に親切、他人の世話を焼くことに生き甲斐を感じている。
     大家族で生活すると、人は、このように利他思想を身につけ、明るく親切な人間性になる。

     逆に、閉鎖的な小家族で育った一人っ子は、ほとんどの場合、唯我独尊、自分の思い通りにならないと面白くなく、すぐにヒステリーを起こしたりして、他人の迷惑行為をすることが多い。
     これは、子供たちの育て方が根本的に間違っているからであって、子供は大勢のなかに投げ込んで、たくさんの人たちに祝福され、抱かれ、愛され、それによって人見知りをせずに利他思想を自然に身につけることが、最高の素晴らしい人生を約束されるのである。

      大家族生活 その1 白川郷

     辻パイプオルガン工房で知られた白川町黒川出身の百歳になった祖母が先日、逝去した。
     このとき、老衰で動けない私の両親や、遠方居住の兄弟姉妹に代わって、親身になって世話を焼いていただいた親戚がいた。
     祖母の甥の嫁にあたる縁戚女性であった。痒いところに手が届くような素晴らしく献身的介護をしていただき、心から感謝するとともに、一方で、失礼ながら、彼女は、どうして、これほどまで人に親切にできるのか、民俗学的興味も湧いていた。

     彼女は合掌造りで知られた白川郷で昭和初期に産まれた。岐阜県には北の白川村と南の白川町がある。白川神道のご縁でもなさそうだが、不思議な因縁で祖母の甥と結ばれることになった。
     彼女の実家も荻町に近い合掌造り、医師の家だったらしいが、あの平沢勝英とも血縁があるらしい。
     白川郷出身者は、医師や牧師が多いという。他人を救うような職業だ。終生クリスチャンだった祖母の最期を看取り、葬儀ミサを行ってくれたのも、親戚筋の白川郷出身、木下牧師であった。

     白川郷は、1930年代末に、ナチスの迫害を逃れて日本に亡命したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの著書『日本美の再発見』のなかに、『この辺の風景は、もうまったく日本的でない。少なくとも私がこれまで一度も見た事のない景色だ。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。』と紹介され、その僻遠さもあって、秘境マニアの聖地となった。
     
     もう一つ、白川郷を世に広く知らしめたのは、柳田国男である。柳田は、明治42年の旅行の紀行を「北国紀行」と「秋風帖」の両方に書いているが、秋風帖から遠山家に関する部分を抜き書きしてみよう。(6月4日、遠山喜代松氏宅で昼食をとったと北国紀行にある)

     【御母衣にきて遠山某という旧家に憩う。今は郵便局長。家内の男女42人、有名なる話となりおれども、必ずしも特殊の家族制にあらざるべし。
     土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。
     狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。
     首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。
     里の家は皆草葺の切妻なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八割は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蚕を養う。屋根を節約して兼ねて風雪の害を避けんために、かかる西洋風の建築となりしなるべし。戸口を入れば牛がおり、横に垂れむしろを掲げてのぼれば、炉ありて主人座せり。】引用以上

     白川郷は、日本における代表的な大家族制度の村であった。ここでは一軒の家に42名の男女が居住していたと書かれているが、70代後半の親戚女性の記憶では、すでに大家族制度の思い出がほとんどない。
     
     すでに戦前、白川郷における大家族居住習慣は崩壊していた。それは、おそらく、徴兵制と学校教育により外の世界の情報が知られたことにより、戸主以外の男女が封建的束縛を受ける不条理な因習に対する反感が満ちていたせいであろう。
     明治の繊維産業勃興により、飛騨の女たちは「女工哀史」で知られる信州岡谷周辺の紡績工場に出稼ぎに連れ出されるようになり、苛酷な重労働でありながら、賃金労働と自由の片鱗を知っていった。
     とりわけ白川郷の女たちにとって、監獄的奴隷労働とさえ言われた紡績女工の仕事でさえ、故郷の毎日の生活を思えば、苦痛とも思えなかった。
     紡績女工は一日の拘束が14時間とも言われたが、白川郷の娘たちは、一日18時間もの、物心ついてから死ぬまで続く、プライバシー皆無の拘束労働を強いられていたからである。

     とりわけ、江戸時代中頃、養蚕産業が白川郷に持ち込まれてから、戸主夫婦以外の同居人たちは、あたかも奴婢のような存在となった。人生のすべてを奴隷労働に費やす悲惨な境遇に置かれた。
     冬期、積雪により、半年近くも外部と隔絶される苛酷な自然環境、狭い住居に数十名もの男女が同居するため、彼らは何よりもプライバシーに飢えていた。
     娘たちは高山の酒造・紡織産業が起こると、それに憧れて勝手に出奔するようになり、戦前には大家族が廃れていたのである。

     白川郷の由緒は、「平家の落人」といわれているが、山下 和田 小坂 新井 松古 木下といった名字から考えると、隣村の五箇山ほど確実性はない。しかし、鎌倉仏教勃興期、親鸞・嘉念坊善俊・赤尾道宗らが、この地方に真宗を布教し、大規模な拠点としていた歴史がある。
     平安時代以降、江戸時代までの日本では、権力の支配を受けない自給自足共同体が、むしろ都に住むよりも暮らしやすかったと考えられ、深い山々と豪雪によって隔絶された白川郷には、真宗がもたらした思想学問もあり、むしろ、桃源郷のような、穏やかで素晴らしい生活拠点だったのではないだろうか。

     この白川郷の住民を苛酷労働で苦しめるようになったのは、戦国時代、この気候風土が煙硝を製造するのに適していることが知られてからである。
     それは加賀藩前田家の領地であった五箇山で始まり、白川郷に伝播した。民家の縁下に屎尿と青草を積み上げておけば硝酸カリの結晶が採集できることが知られ、ポルトガル商人からの高価な輸入に頼らずとも、自前で鉄砲火薬が製造できることになり、各藩は目の色を変えて、この製造を強要することになった。

     それまで、あまりの山深い僻地ゆえに見返られることもなかった、この地がにわかに宝の山となり、高山藩も加賀藩も合掌村落住民たちに極秘の重労働を強いるようになった。
     白川郷のような大家族生活は、平安〜室町時代の田舎では決して珍しいものではなく、鎌倉時代に領地を与えられた「一所懸命領主」の館では、ほとんどの一族・使用人(兵士・小作人)が大きな家で共同生活をしていたと考えられる。
     ただ女性の生理や妊娠・出産といったイベントを「穢れ」として嫌った(血にまみれるため)男たちによって、別棟を建てて住まわせたことから、徐々に、戸別生活が拡大したと考えることができる。
     ところが白川郷では、5メートルもの積雪があり、合掌家屋以外での生活が不可能だったため、遅くまで大家族共同生活の習慣が残ったのであろう。

     江戸時代、家康による民衆統治システムの要であった「五人組制度」により、そうした集団生活がバラバラに切り離され、一夫一婦制度が持ち込まれるまで、日本各地に、多夫多妻制度に近い共同体生活が残っていた。
     本来、一夫一婦制度を必要としたのは、我子に権力や財産を相続される必要のある武家階級や上流階級だけであった。妻が自由に誰とでも寝たのでは、我が子の特定ができなくなってしまうから、厳重な一夫一婦制の束縛を持ち込む必要があったのだ。

     ところが、一般庶民、地位のない農民にとっては、受け継がせるべき財産も権力もなく、ただ男女の自然な営みにより、勝手に子が産まれ、それを、みんなの力で育てるというスタイルで十分であった。
     これは極めて効率的であり、困ったときも、即座にみんなの力を借りられるから、楽しい気楽な共同体生活を送ることができた。
     このため、江戸期まで「持たざる民衆」の多くが、そうした共同体スタイルで生きていたと考えられる。それを、年貢納税管理のために「一戸独立」と「五人組連帯」制度を強要したのが家康であった。
     したがって、江戸時代以前の、自然環境の苛酷な地方では、白川郷のような巨大家屋による大家族共同体システムは決して珍しいものではなかった。むしろ、共同体なくして過疎地方の生活は成り立たなかったと考えるべきだろう。

     白川郷は、硝煙製造要求と苛酷な自然環境に加えて、深い山々に囲まれた狭い土地のため、分家が困難であったことなどにより、効率的な大家族共同生活を強いられてきたのである。
     だが、先に述べたように、村人たちは藩の要求により煙硝製造・養蚕などの激務を強いられるようになり、苛酷な生活に苦しむようになった。そこに文明開化がやってきて、明治、徴兵と学校教育が持ち込まれるようになり、他所の生活事情が知られるようになると、奴隷労働に甘んじていた下層生活者たちは、自由の天地を求めて高山や諏訪・岡谷、日本海沿岸などに飛び出すようになり、大家族生活は実質的に崩壊していったのである。

     だが、千年近い大家族生活で育まれた価値観は簡単に廃れるものではなく、合掌造りにたくさんの人が住まなくなっても、助け合い生活の風土風習が残ることになった。
     大家族ではプライバシーが損なわれるのは事実だが、一方で、上に引用した秋風帖に柳田が述べているように、白川郷に住む人々にとって「孤独」という概念は存在しなかった。
     その人生の価値観は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」であって、「人助け」こそ人生最大の喜びであった。

     冒頭で述べたように、白川郷出身者たちは「人助け」が大好きだ。
     「人を助ける」ことを人生最大の価値と認識しているのである。だから医者や牧師になる人が多い。あの平沢勝英も、最初は警察官として人助けを目指したのだろう。(現場の警官よりも警察官僚になってしまったことが、躓きだったが・・・)
     それは、大家族共同体生活のなかで育まれた価値観なのである。もっとも、世界文化遺産に指定されてから観光産業でボロ儲けの味を知った村人が増えてから、白川郷の人情も変わったといわれることを苦言として添えておかねばならないのが残念だ。(昨年、久しぶりに訪れたとき思い知らされることになった)
     余談ながら、白川郷同様、山深さ、僻遠さではひけを取らない『遠山郷』には、まだ人情が風化せずに残っていることを書き添えておく。風化は「カネの風」によるものだから。

     筆者は、アメリカの虚構経済というパイの存在によって成り立っていた「砂上の楼閣」である浪費経済体制が崩壊した今、国民の孤立した不経済な浪費生活スタイルが許されなくなり、再び効率的な大家族生活スタイルに帰るしかないと確信している。
     このため、世界各地の大家族共同体生活や、日本における大家族の歴史研究を通して、今後、我々が目指すべき大家族共同体のあり方を研究したいと考えている。
     我々は、もはや今年から、これまでにように孤立させられた一夫一婦制小家族分離生活を捨てて、大家族共同体生活に回帰しなければならないと考えている。
     
     これまで人間不信、人間疎外によって、孤立した家族、利己主義の価値観に洗脳されてきた我々が、大家族のなかで、上手に他人とつきあって共同体生活を運営してゆくのは、極めて大きな困難が伴うと覚悟しなければならない。
     人間不信、疎外感に洗脳されて、他人を信じられない人たちを、どのように大家族共同体生活に導いていったらよいのか、シリーズで問題提起しようと考えている。sirakwa

    anpo 日本国最大のセキュリティ 日米安保条約を問う

     日本国家における最大のセキュリティは日米安全保障条約である。
     これが、どれほど欺瞞に満ちたものか、大多数の日本国民は、その真実を知らない。
     「アメリカが日本を守ってくれる?」
     バカ言え! 冗談じゃない、アメリカが守るのはアメリカ特権階級(フリーメーソン)の利権だけだ! 目糞を取って、よく見つめな、耳糞かっぽじって、よく聞きな、鼻糞ほじって、よく嗅ぎな・・・・

     http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=101364 より引用
    日米安保条約第五条によれば、

    【日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
    either Party in the territories under the administration of Japan とは、日本の行政管理下内での両国共ではなく、いずれかの国、すなわち日本の主権に対して治外法権を持つアメリカ合衆国の大使館、領事館とアメリカ合衆国軍事基地が一方のPartyであり、アメリカ合衆国の治外法権の施設を除いた部分の日本国の地区がもう一つのPartyであるという定義をすることもできる。
    この定義に基づけば、それらのいずれか一方が自分にとって危険であると認識 した時、「共通の危機(common danger)」に対処する。アメリカ合衆国軍の行動は、「共通の危機(common danger)」が対象であり、「共通の危機(common danger)」とは、日本国内のアメリカ合衆国の施設と、その他の部分の日本に共通の危機のことである。つまり、日本国内のアメリカ合衆国の施設(軍事基地等)とその周辺(日本の一部地区)に対する危機に限定されると考えることもできる。アメリカ合衆国軍が行動する場合は、アメリカ合衆国憲法に従わねばならないと条文で規定されている。また、アメリカ合衆国憲法では他国(日本など)のアメリカ合衆国軍基地が攻撃を受けた時は、自国が攻撃を受けたと見なされ自衛行動を許すが、他国(日本)の防衛を行う規定はない。】

     日米安保条約のどこを探しても、アメリカが「日本国民の生命財産を他国の軍事的脅威から守る」などとは一言も書かれていない。それどころか、日本国家を守るとも書かれていない。存在するのは、日本国内おけるアメリカの財産を守るという宣言のみである。
     その対象は、日本に対する侵略国だけでない。実は、日本(の反米勢力)から日本国内の駐留基地などアメリカ資産を守るということが日米安保の本当の意味なのである。
     駐留米軍の銃口は、これまで言われてきたように仮想敵国であるソ連(ロシア)や中国、北朝鮮に向けられているのではない。本当は日本国民に向けられてきたのだ。

     アメリカという国家は、建国以来、自国特権階級の利益を保全したことはあっても、他国の権益、他国人民の利益を守ったことは皆無である。それどころか、自国市民の利益を守ったことさえない。
     アメリカは徹頭徹尾、唯我独尊、利己主義の国家であり、他国を自国のために利用することはあっても、他国のために自国が損をするようなことは絶対にしない国なのである。
     自国の権益に役立たない他国の防衛などするものか。日本に駐留し、米軍を展開している本当の事情を知らなければならない。

     それは、アメリカが日本を利用し、骨の髄までしゃぶり尽くすための装置だったのである。日本の反米勢力に対する軍事的威圧だったのである。
     また、日本列島の地理的条件を利用し、中国・朝鮮半島・ロシアを攻撃するための基地として利用しているのであって、日本を侵略する他国がいたとしても、それがアメリカの国益に適うなら絶対に止めることはない。
     そんな国益(厳密にはアメリカ特権階級の権益)絶対優先の米軍に「思いやり予算」と称して、日本は数千億円の無条件寄付を行い、安保のためと称して、紙屑になる運命を約束された米国債を1000兆円近く、ありがたく買い取らせていただいてきたわけだ。

     アメリカという国家は、地上最大最悪の陰謀国家である。それは一世紀や二世紀の伝統ではない。1776年にイギリス植民地から独立したとき、すでに建国者たちは陰謀にまみれていた。
     アメリカを独立させた者たちは、ロスチャイルドの支配するフリーメーソンであって、まさに、ロスチャイルド帝国に奉仕するための国家を作り出したのだ。

     フリーメーソンの中心勢力はロスチャイルドに代表されるユダヤ人である。アメリカはユダヤ人の利権を守り、構築する目的で建国されたのである。
     だから建国から現在に至るまで、すべての大統領がフリーメーソンであり、アメリカの金庫であるFRBを支配し、全米の巨大企業を支配し、政府の統制を受けずに勝手にドルを印刷しているのもフリーメーソンの結社員である。
     オバマ大統領の右腕、ガイトナー財務長官、ルービン・サマーズ・ブレジンスキーらは全員ユダヤ人である。そしてアメリカで最高の利益を上げ続ける巨大企業の経営者たちも、大部分がユダヤ人であり、フリーメーソンである。

     ユダヤ国家であるイスラエルを建国したのもアメリカの力であり、現在、イスラエルが国際法を無視した暴虐な侵略占領を続けていられるのも、すべてアメリカの強大な尽力によるものである。
     この意味で、アメリカの真の支配者はユダヤ・フリーメーソンである。その証拠に、アメリカの国璽であるピラミッドアイや双頭の鷲はイスラエル国家機関に行っても普通に見られる象徴である。両者は同じ国家と言ってもよいほどだ。
     
    参考資料
    http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda3/kokuren.htm
    http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/keimason.html
    http://www.asyura.com/sora/bd19992/msg/671.html

     「陰謀論」と単純に嘲笑する連中に言っておくが、イスラエル・ユダヤは、3000年前から人類最悪の陰謀民族であった。旧約聖書 創世記第三十四章を見よ
     http://www.nunochu.com/bible/01_genesis/gen44.html
     これがユダヤという民族の、恐るべき陰謀の特質を余すところなく示している。
     ヤコブの娘デナがヒビ人に陵辱され、その復讐のために、相手の部族に「全員、割礼をすれば結婚を許す」と持ちかけ、そのために化膿して苦しんでいるときにヤコブの息子たちはヒビの男たちをを襲い、皆殺しにした。

     まさに、ユダヤとは、こうした陰謀を行う者たちである。
     その末裔が、他人の住む土地を勝手に奪い、虐殺するイスラエル人であり、アメリカ特権階級なのである。
     アメリカの歴史は、侵略と虐殺の血塗られた歴史であった。

     コロンブスが勝手に「発見した」と称して、先住民を虐殺しながらポルトガル・スペイン人が植民地化していたアメリカ大陸に対し、イギリス清教徒たちが、旧権力の束縛、軛を逃れて自由の天地を目指した。
     しかし、その手段は、先住民たちへの殺戮に次ぐ殺戮、強奪であった。アメリカの歴史は、イスラエルとまったく同じ、勝手な移住と殺戮の正当化だったのだ。

     戦後、「共産主義の脅威から守る」と称して朝鮮やベトナムに軍事侵攻したが、実際にやったことは、何の罪もない民衆の大殺戮と軍需産業のニーズを生み出すための巨大な戦闘消耗、自国権益の確保だけであった。
     アメリカは、自国の若者と、被侵略国の民衆の命を犠牲にして、軍需産業のための巨大な消耗、つまりニーズを作り続けてきた。軍備が古くなったり、余ってくると、新たな侵略先をでっちあげて若者たちを送り込み、自国の貧しい若者たちの命をカネに替え続けてきたのだ。

     アメリカとは何だ? その正体は、フリーメーソンに組織された大金持ち、特権階級の利権を守るための国家システムに他ならない。

     この本質を見抜くことができるなら、そして、徹頭徹尾、金儲けの利権によって動いているアメリカ国家システムを知るならば、日米安保条約も同じように、アメリカの利権だけによって成立している事情が分かり、戦後、これまで沖縄や基地周辺住民が味わってきた苦渋の意味も理解できるはずだ。

     もう一度言う、日米安保条約は日本国民を絶対に守らない。守るのはアメリカの権益だけだ。
     これを維持するのは日本国民に対する究極の犯罪行為である。自民党が、それを行い、50年以上続いてきた。しかし民主党政権に変わっても安保を維持するという。
     このことは、つまり民主党政権もアメリカフリーメーソンの利権を擁護するという姿勢を示しているわけだ。
     それもそのはず、鳩山由紀夫首相こそは日本フリーメーソンの高位にある中心人物だからである。
     つまり、民主党も自民党と同様、フリーメーソン政権である。それもそのはず、「二大政党対立」政権交代システムは、フリーメーソンが考え出した政権安定策だからだ。

     筆者は、江戸期250年間、世界にも希な長期安定政権が成立した理由として、家康が構築した「二分化対立システム」の存在を挙げてきた。

     家康は、幕府創建当時、抵抗勢力となりそうな全国の組織を、どのように統治するか腐心し、結局、すべての組織を二分化し、対立させることで、幕府権力が、その調停者として君臨できることに気づいた。
     これは、家康が幼少期、今川家の人質として、太平記を学んでいたことが大きかっただろう。太平記は南北朝対立百年の記録であり、人々が二分化されて対立すると、どれほど深刻な対立が延々と続くか? 権力がトクをするかに気づいたわけだ。

     そこで、まず宗教軍事勢力であった修験道を、天台宗系と真言宗系に統一した。当時、出羽系や宇佐系など多数あったものを、すべて二分化統一し、互いに反目させたのである。
     13系統もあった神道は白川系と吉田系に二分化して対立させた。木地屋や大工の組織、奉行所から火消しまで同じようにさせた。
     これで対立させられた組織はいがみ合い、その調停のために幕府権力を必要とし、世界的にも希な安定政権が成立したという仕組みである。

     同じことをフリーメーソンはアメリカでやった。アメリカのすべての政治組織を民主党系と共和党系に二分化したのだ。これで、互いにいがみ合い、政権交代をさせることで、大衆の欲求不満を解消するシステムができあがった。

     これで、もうお分かりと思うが、同じシステムが日本政界に持ち込まれたのである。政界には自民党と民主党、いずれもフリーメーソンの操り人形だけがいる。社共市民勢力は排除されて矮小化し、消えてしまった。

     今回は、本題のセキュリティから逸脱したが、世の中の仕組みとは、このようなものだと読者に警告しておきたかった。

    bouhan
     セキュリティ社会 その6

     厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
     セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
     我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?

     セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
     外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
     泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
     セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・

     現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
     少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
     筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
     といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。

     大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
     必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
     それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。

     筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
     最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
     秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。

     ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
     最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。

     アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
     やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
     こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。

     このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
     セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。

     こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?

     筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
     盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
     なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
     また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。

     これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
     しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ

     さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
     セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。

     たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。

     このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
     検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。

     なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。

     警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。

     すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
     誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
     しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
     今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。

     今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
     日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
     だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
     アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?

     第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
     その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
     もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
     日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。

     それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
     どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
     米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。

     アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
     911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
     ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。

     これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
     いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
     アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?
     
      

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     セキュリティ社会 その6

     厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
     セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
     我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?

     セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
     外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
     泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
     セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・

     現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
     少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
     筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
     といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。

     大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
     必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
     それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。

     筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
     最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
     秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。

     ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
     最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。

     アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
     やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
     こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。

     このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
     セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。

     こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?

     筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
     盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
     なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
     また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。

     これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
     しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ

     さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
     セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。

     たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。

     このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
     検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。

     なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。

     警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。

     すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
     誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
     しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
     今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。

     今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
     日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
     だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
     アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?

     第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
     その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
     もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
     日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。

     それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
     どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
     米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。

     アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
     911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
     ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。

     これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
     いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
     アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?
     
      


     厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
     セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
     我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?

     セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
     外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
     泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
     セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・

     現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
     少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
     筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
     といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。

     大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
     必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
     それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。

     筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
     最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
     秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。

     ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
     最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。

     アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
     やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
     こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。

     このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
     セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。

     こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?

     筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
     盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
     なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
     また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。

     これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
     しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ

     さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
     セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。

     たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。

     このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
     検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。

     なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。

     警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。

     すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
     誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
     しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
     今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。

     今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
     日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
     だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
     アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?

     第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
     その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
     もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
     日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。

     それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
     どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
     米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。

     アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
     911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
     ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。

     これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
     いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
     アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?
     
      


     セキュリティ社会 その5

     セキュリティ社会の本当の意味を理解するためには、セキュリティを必要とする者が決して社会の全員ではないという真実を知る必要がある。
     社会の誰がセキュリティを必要とし、誰が必要としないのか?
     先に結論を言ってしまえば、セキュリティの必要な者は、セキュリティによって「守るべきもの」を「所有」する者だけなのである。それがない者にとって、どのようなセキュリティが必要だというのか?

     パソコンを例にとってみよう。
     先にパソコンのCPU速度が千倍になったのに、実用速度はあまり変わっていないという話をした。その理由は、ウイルスチェックなどセキュリティシステムが極端に大きく重くなったためである。
     本当ならば、我々は草創期の千倍のスピードでパソコンを利用することができるはずなのに、多くの人にとって不要無用のクソ重たいセキュリティシステムを押しつけられて、草創期と変わらないほど、ときには、それ以上に遅い実用性能に、煮えくりかえるような思いを我慢させられている。
     いったい誰のための、何のためのセキュリティなのか?

     それは、悪意や悪戯でデータを破壊されたり、「トロイの木馬」に侵入されて、データを盗まれない対策を必要とする人たちの要求であった。
     だが考えてごらん。パソコンで資産運用やクレジットなどを扱わない限りは、イタズラに対処すれば十分なわけだから、今のウィンドウズの資産運用セキュリティシステムは面倒で、邪魔で、余計なガラクタ以外の何ものでもないのだ。

     イタズラでシステムを壊されても、昔のパソコンはROMベースだったから、立ち上げ直すだけで復旧した。しかし、今は金儲けに直結したデータを盗まれたり、破壊されるわけにはいかないから、外部から侵入されないよう壮大な防御システムが設置されている。
     それでも、それを突破しようとするハッカーとイタチごっこで、いつまでたっても「安全で早いパソコン」は実現しないのだ。筆者が利用しているVISTAも購入当初から比べるとセキュリティが数倍重くなったために、初期メモリでは間に合わないほどだ。
     普段使っていても、突如、意志に反して勝手にダウンロードを始め、警告に気づかないうちに再起動されてしまい、パソコンをぶち壊したくなることもしばしばだ。
     守るべき資産を持たない我々がパソコンを利用しようとするとき、今のウィンドウズは、容易に異なるソフトで同じファイルを認識し、扱うことさえできない。よくも、こんな欠陥品を高値で売りつけているものだとマイクロソフトのセキュリティ思想に激怒するしかないが、これこそ、その本質を如実に示しているのである。一方で、マイクロソフトOSには、所有者データを統一的に収集管理しているという噂がつきまとっていることも覚えておきたい。

     ウインドウズ・セキュリティシステムの本質は、他人との区別、差別であり、人間疎外である。それは「他人を絶対に信用しない!」という人間不信の姿勢に貫かれている。自分の姿を徹底的に隠し、自分のデータ、資産を犯されないためのシステムを確立しようとしている。
     「自分のことを絶対に他人に教えない」
     これが、パソコンに限らず、セキュリティシステムに共通する本質であり、それを信奉するアメリカ国家や資本主義体制が世界人民に強要している根源的なモラルである。それは人間社会を人間不信の思想で塗りつぶすものだ。

     セキュリティ思想が、なぜ必要なのか? それは、他人が自分の利益を奪うという強迫観念を前提としているからだ。それは「他人は敵である」との基本哲学から出発している。
     だが、筆者が幼児少年として育った50年前の貧しい日本の街角では、人はもっと優しいものだった。他人を恐れる人など滅多にいなかった。

     道で倒れている人がいれば、みんなで寄ってたかって心配し、救急車を呼び、夫婦喧嘩で追い出された隣の女房がいれば、親身になって泊めてやって、横暴な旦那に対し、町内をあげて糾弾の談判をしたものだ。
     自分が食えなくとも、飢えた人に食事を提供する人だって珍しくもなかった。
     みんな他人のことを知り、噂し、深く同情し、連帯し、一緒に助け合って生きている実感を抱いていた。そこには人間疎外はなく、人間不信もなかった。
     他人を深く知り、自分と一体で生きているということを理解することが、人生の喜び、生きる希望を与えてくれたのだ。他人の情報を知るということこそ、生きるための第一歩であった。

     朝起きて玄関を出れば、隣人の暖かい笑顔があった。だから家の鍵さえ必要なかった。セキュリティなんて、愚かな、つまらない思想も必要なかったのである。
     当時、確かに泥棒もいた。だから鍵もあった。だが泥棒に入られるより、隣人との交際に鍵をかけることを恐れた人の方が多かった。鍵が普及したのは、「三種の神器」家電製品の普及と同じ時期だった。
     セキュリティは「守るもの」と同時に成立したのである。

     読者は、信頼している人物が、自分のことを決して教えようとしないなら、どのような気分になるだろう?
     とても空しい、寂しい気分になって、「自分が信頼されていない」と悲しくなるだろう。
     逆に考えてみよう、人を愛するということ、信頼するということの前提は、まず言葉を交わし、「他人を知る」というところから始まるのだ。そこから交際が出発し、愛が育まれるのである。
     その逆、「教えない」ということは、愛と信頼の関係を拒絶するということであり、敵対宣言なのである。
     「人に自分を教えない社会」これがセキュリティ社会である。ということは、すなわち、人間同士を敵対させる社会を意味している。人が孤立し、愛が破壊される社会を意味しているのである。
     セキュリティは人間関係の根底を破壊する。人を愛するということは、人を知るということであり、自分を見せるということである。それを拒否する思想は、人間関係を孤立させ、破壊する思想である。

     こうしたセキュリティ社会が誰に何をもたらしたのか?
     我々は、はっきりと見ておかなければならない。
     セキュリティ社会でトクをする者がいる。人間同士の愛が破壊されて儲かる者たちがいる。逆に言えば、人が敵対意識を持たないようになると困る一群の人々がいある。
     人が周囲をすべて敵と認識し、人間不信に陥って権力の庇護を要求し、利己主義の権化となって金儲け蓄財だけに邁進することで、いったい誰がトクをしているのか?
     このことこそが、セキュリティ社会の本質を見抜くための基礎知識である。このことこそ、現代人間社会の根底に仕掛けられた罠を見抜く唯一の視点である。

     別の角度から見てみよう。
     我々、日本列島に住む者、「日本人」は、戦後、日米安保条約により「安全」が守られてきたと信じている者が多い。
     「日本列島はロシア(ソ連)・中国・北朝鮮などから絶えず狙われていて、もし米軍が駐留していなければ、たちどころに軍事侵攻されて侵略併合されてしまう」
     という認識が当然であると見なされてきた。
     この立場こそ戦後、自民党が政権を超長期にわたって維持し、日本をコンクリートで固め、巨大な借金に押しつぶしてきた根底にある前提であった。

     「日本を『共産主義の脅威』から守ってくれるセキュリティシステムのアメリカ」
     この認識によって、日本がアメリカに支払ってきた経費は、戦後、おそらく1000兆円にも上るだろう。国民の得るべきカネの半分近くがアメリカに供与されてきた。
     多くは米国債購入だが、その米国債はアメリカの5000兆円の借金と相殺されて紙屑になる宿命が約束されているわけだから、結果としてタダであげたに等しいのである。

     だが、戦後65年間、アメリカが、主に沖縄人民の犠牲の上に巨大な米軍を駐留させ、それによって日本人民の利益を守った事実が一度でも存在したのか?
     皆無である。逆に、アメリカの戦後侵略戦争の基地として機能してきた。
     朝鮮戦争とベトナム戦争のもっとも重要な出撃基地であり、アフガン・イラク戦争の拠点としても機能してきた。
     自民党は「日本国内の米軍基地が他国への抑止力として働いてきた」と強弁しているが、決してそうではない。
     米軍駐留の真の狙いは、日本国内における社会主義運動の高揚を軍事的に圧殺する目的であり、日本政権が左傾化したときに、それを軍事的に恫喝し、実力で圧殺するための監視機能に他ならなかったのである。

     米軍の軍事的機能や経費の合理化などの視点からは、すでに20年も前からグアム島基地集約論が提起されていて、実際に米軍は、グアムへの一括集約機能を着々と準備してきた。普天間基地は、とっくに整理してグアムに移転させる計画が知られていたのである。
    http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/091126_mayor_5.pdf
     それでは、稀少珊瑚やジュゴンの生息する海を大規模に埋め立てて「辺野古基地を早急に実現せよ」と、ごねている米軍の姿勢は何なのか? これは沖縄における米軍利権を日本政府に高く買い取らせるための陰謀策略以外のものではない。

     この事情の背景には、日米安保条約の恐るべき真意が隠されていた。沖縄は日本政府を監視するための基地であるとともに、日本の利権、資源を横取りするための基地でもあった。
     昨年、オバマ政権誕生までは、ジョゼフ・ナイという人物が日本大使に任命される予定だったが、オバマはナイを退け友人のジョン・ルースを赴任させた。
     ところが、このナイという人物こそ、戦後、アメリカの利権を代表した戦後対日軍事戦略の核心にいる人物であった。
     彼は、かつて国防次官補として通称「ナイ・イニシアティヴ」と呼ばれる「東アジア戦略報告(EASR)」を作成したが、そのなかで、尖閣諸島に眠るサウジアラビア級の原油資源をアメリカが横取りするために、日中戦争を誘導させよと進言していたのである。
    http://www.asyura2.com/09/senkyo57/msg/559.html

     今、民主党政権が米軍をグアム集約させると決定していながら、沖縄から撤退しない本当の理由が、ここに書かれていた。
     それは、日米安保条約の根幹に関わる真実であり、「日本を『共産主義の脅威』から守っていると見せかけて、実際には、日本政権の左傾化を監視、弾圧し、対アジア軍事戦略の拠点として利用し、さらに日本の資源を横取りすることが目的であることを示していたのである。

     紙数が長くなりすぎるので、これは別項で書くことにしよう。
     問題は、こうしたセキュリティの思想は、本当に人を守るというものでは決してなく、ある特定の目的のための口実として利用されるという真実を知っておく必要があるのだ。

     セキュリティ社会が、本当はいったい何の目的で人間社会を拘束しているのか? これを明確に分析し、その正体を見抜いておかねばならない。

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    hutennma
     セキュリティ社会 その5

     セキュリティ社会の本当の意味を理解するためには、セキュリティを必要とする者が決して社会の全員ではないという真実を知る必要がある。
     社会の誰がセキュリティを必要とし、誰が必要としないのか?
     先に結論を言ってしまえば、セキュリティの必要な者は、セキュリティによって「守るべきもの」を「所有」する者だけなのである。それがない者にとって、どのようなセキュリティが必要だというのか?

     パソコンを例にとってみよう。
     先にパソコンのCPU速度が千倍になったのに、実用速度はあまり変わっていないという話をした。その理由は、ウイルスチェックなどセキュリティシステムが極端に大きく重くなったためである。
     本当ならば、我々は草創期の千倍のスピードでパソコンを利用することができるはずなのに、多くの人にとって不要無用のクソ重たいセキュリティシステムを押しつけられて、草創期と変わらないほど、ときには、それ以上に遅い実用性能に、煮えくりかえるような思いを我慢させられている。
     いったい誰のための、何のためのセキュリティなのか?

     それは、悪意や悪戯でデータを破壊されたり、「トロイの木馬」に侵入されて、データを盗まれない対策を必要とする人たちの要求であった。
     だが考えてごらん。パソコンで資産運用やクレジットなどを扱わない限りは、イタズラに対処すれば十分なわけだから、今のウィンドウズの資産運用セキュリティシステムは面倒で、邪魔で、余計なガラクタ以外の何ものでもないのだ。

     イタズラでシステムを壊されても、昔のパソコンはROMベースだったから、立ち上げ直すだけで復旧した。しかし、今は金儲けに直結したデータを盗まれたり、破壊されるわけにはいかないから、外部から侵入されないよう壮大な防御システムが設置されている。
     それでも、それを突破しようとするハッカーとイタチごっこで、いつまでたっても「安全で早いパソコン」は実現しないのだ。筆者が利用しているVISTAも購入当初から比べるとセキュリティが数倍重くなったために、初期メモリでは間に合わないほどだ。
     普段使っていても、突如、意志に反して勝手にダウンロードを始め、警告に気づかないうちに再起動されてしまい、パソコンをぶち壊したくなることもしばしばだ。
     守るべき資産を持たない我々がパソコンを利用しようとするとき、今のウィンドウズは、容易に異なるソフトで同じファイルを認識し、扱うことさえできない。よくも、こんな欠陥品を高値で売りつけているものだとマイクロソフトのセキュリティ思想に激怒するしかないが、これこそ、その本質を如実に示しているのである。一方で、マイクロソフトOSには、所有者データを統一的に収集管理しているという噂がつきまとっていることも覚えておきたい。

     ウインドウズ・セキュリティシステムの本質は、他人との区別、差別であり、人間疎外である。それは「他人を絶対に信用しない!」という人間不信の姿勢に貫かれている。自分の姿を徹底的に隠し、自分のデータ、資産を犯されないためのシステムを確立しようとしている。
     「自分のことを絶対に他人に教えない」
     これが、パソコンに限らず、セキュリティシステムに共通する本質であり、それを信奉するアメリカ国家や資本主義体制が世界人民に強要している根源的なモラルである。それは人間社会を人間不信の思想で塗りつぶすものだ。

     セキュリティ思想が、なぜ必要なのか? それは、他人が自分の利益を奪うという強迫観念を前提としているからだ。それは「他人は敵である」との基本哲学から出発している。
     だが、筆者が幼児少年として育った50年前の貧しい日本の街角では、人はもっと優しいものだった。他人を恐れる人など滅多にいなかった。

     道で倒れている人がいれば、みんなで寄ってたかって心配し、救急車を呼び、夫婦喧嘩で追い出された隣の女房がいれば、親身になって泊めてやって、横暴な旦那に対し、町内をあげて糾弾の談判をしたものだ。
     自分が食えなくとも、飢えた人に食事を提供する人だって珍しくもなかった。
     みんな他人のことを知り、噂し、深く同情し、連帯し、一緒に助け合って生きている実感を抱いていた。そこには人間疎外はなく、人間不信もなかった。
     他人を深く知り、自分と一体で生きているということを理解することが、人生の喜び、生きる希望を与えてくれたのだ。他人の情報を知るということこそ、生きるための第一歩であった。

     朝起きて玄関を出れば、隣人の暖かい笑顔があった。だから家の鍵さえ必要なかった。セキュリティなんて、愚かな、つまらない思想も必要なかったのである。
     当時、確かに泥棒もいた。だから鍵もあった。だが泥棒に入られるより、隣人との交際に鍵をかけることを恐れた人の方が多かった。鍵が普及したのは、「三種の神器」家電製品の普及と同じ時期だった。
     セキュリティは「守るもの」と同時に成立したのである。

     読者は、信頼している人物が、自分のことを決して教えようとしないなら、どのような気分になるだろう?
     とても空しい、寂しい気分になって、「自分が信頼されていない」と悲しくなるだろう。
     逆に考えてみよう、人を愛するということ、信頼するということの前提は、まず言葉を交わし、「他人を知る」というところから始まるのだ。そこから交際が出発し、愛が育まれるのである。
     その逆、「教えない」ということは、愛と信頼の関係を拒絶するということであり、敵対宣言なのである。
     「人に自分を教えない社会」これがセキュリティ社会である。ということは、すなわち、人間同士を敵対させる社会を意味している。人が孤立し、愛が破壊される社会を意味しているのである。
     セキュリティは人間関係の根底を破壊する。人を愛するということは、人を知るということであり、自分を見せるということである。それを拒否する思想は、人間関係を孤立させ、破壊する思想である。

     こうしたセキュリティ社会が誰に何をもたらしたのか?
     我々は、はっきりと見ておかなければならない。
     セキュリティ社会でトクをする者がいる。人間同士の愛が破壊されて儲かる者たちがいる。逆に言えば、人が敵対意識を持たないようになると困る一群の人々がいある。
     人が周囲をすべて敵と認識し、人間不信に陥って権力の庇護を要求し、利己主義の権化となって金儲け蓄財だけに邁進することで、いったい誰がトクをしているのか?
     このことこそが、セキュリティ社会の本質を見抜くための基礎知識である。このことこそ、現代人間社会の根底に仕掛けられた罠を見抜く唯一の視点である。

     別の角度から見てみよう。
     我々、日本列島に住む者、「日本人」は、戦後、日米安保条約により「安全」が守られてきたと信じている者が多い。
     「日本列島はロシア(ソ連)・中国・北朝鮮などから絶えず狙われていて、もし米軍が駐留していなければ、たちどころに軍事侵攻されて侵略併合されてしまう」
     という認識が当然であると見なされてきた。
     この立場こそ戦後、自民党が政権を超長期にわたって維持し、日本をコンクリートで固め、巨大な借金に押しつぶしてきた根底にある前提であった。

     「日本を『共産主義の脅威』から守ってくれるセキュリティシステムのアメリカ」
     この認識によって、日本がアメリカに支払ってきた経費は、戦後、おそらく1000兆円にも上るだろう。国民の得るべきカネの半分近くがアメリカに供与されてきた。
     多くは米国債購入だが、その米国債はアメリカの5000兆円の借金と相殺されて紙屑になる宿命が約束されているわけだから、結果としてタダであげたに等しいのである。

     だが、戦後65年間、アメリカが、主に沖縄人民の犠牲の上に巨大な米軍を駐留させ、それによって日本人民の利益を守った事実が一度でも存在したのか?
     皆無である。逆に、アメリカの戦後侵略戦争の基地として機能してきた。
     朝鮮戦争とベトナム戦争のもっとも重要な出撃基地であり、アフガン・イラク戦争の拠点としても機能してきた。
     自民党は「日本国内の米軍基地が他国への抑止力として働いてきた」と強弁しているが、決してそうではない。
     米軍駐留の真の狙いは、日本国内における社会主義運動の高揚を軍事的に圧殺する目的であり、日本政権が左傾化したときに、それを軍事的に恫喝し、実力で圧殺するための監視機能に他ならなかったのである。

     米軍の軍事的機能や経費の合理化などの視点からは、すでに20年も前からグアム島基地集約論が提起されていて、実際に米軍は、グアムへの一括集約機能を着々と準備してきた。普天間基地は、とっくに整理してグアムに移転させる計画が知られていたのである。
    http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/091126_mayor_5.pdf
     それでは、稀少珊瑚やジュゴンの生息する海を大規模に埋め立てて「辺野古基地を早急に実現せよ」と、ごねている米軍の姿勢は何なのか? これは沖縄における米軍利権を日本政府に高く買い取らせるための陰謀策略以外のものではない。

     この事情の背景には、日米安保条約の恐るべき真意が隠されていた。沖縄は日本政府を監視するための基地であるとともに、日本の利権、資源を横取りするための基地でもあった。
     昨年、オバマ政権誕生までは、ジョゼフ・ナイという人物が日本大使に任命される予定だったが、オバマはナイを退け友人のジョン・ルースを赴任させた。
     ところが、このナイという人物こそ、戦後、アメリカの利権を代表した戦後対日軍事戦略の核心にいる人物であった。
     彼は、かつて国防次官補として通称「ナイ・イニシアティヴ」と呼ばれる「東アジア戦略報告(EASR)」を作成したが、そのなかで、尖閣諸島に眠るサウジアラビア級の原油資源をアメリカが横取りするために、日中戦争を誘導させよと進言していたのである。
    http://www.asyura2.com/09/senkyo57/msg/559.html

     今、民主党政権が米軍をグアム集約させると決定していながら、沖縄から撤退しない本当の理由が、ここに書かれていた。
     それは、日米安保条約の根幹に関わる真実であり、「日本を『共産主義の脅威』から守っていると見せかけて、実際には、日本政権の左傾化を監視、弾圧し、対アジア軍事戦略の拠点として利用し、さらに日本の資源を横取りすることが目的であることを示していたのである。

     紙数が長くなりすぎるので、これは別項で書くことにしよう。
     問題は、こうしたセキュリティの思想は、本当に人を守るというものでは決してなく、ある特定の目的のための口実として利用されるという真実を知っておく必要があるのだ。

     セキュリティ社会が、本当はいったい何の目的で人間社会を拘束しているのか? これを明確に分析し、その正体を見抜いておかねばならない。

     

     セキュリティ社会 その4

     ニュースから
     【電車内の痴漢事件、愛知県職員に無罪 名古屋地裁判決:: 電車内で痴漢行為をしたとして、愛知県迷惑防止条例違反罪に問われた同県産業労働部労働福祉課主幹、岡野善紀被告(52)の判決公判が18日、名古屋地裁であった。伊藤納裁判長は「脚の接触はあったが、故意とは認められない」などとして、無罪(求刑罰金50万円)を言い渡した。岡野主幹は逮捕段階から一貫して無罪を主張。物的証拠がなく、被害女性と目撃男性の証言の信用性が争点だった。
     伊藤裁判長は被害者らの証言の信用性について「慎重な吟味が必要」と指摘。被害女性が、以前にも岡野主幹から痴漢にあったと主張した点について「(女性の)供述はあいまい。十分確認しないまま、誤認した可能性がある」と述べた。】

     電車内で痴漢を働いたとして逮捕され、身に覚えのない罪で、証拠もないまま有罪にされて実刑や高額の罰金刑になるケースが後を絶たないが、この数年、司法もやっと、痴漢事件の多くが冤罪である現実に気づきはじめているようだ。
     それは、司法関係者が見下してきた一般大衆だけでなく、司法に携わるレベルの大学教授まで冤罪の餌食になっている現実に、さすがに危機感を抱くしかないからだろう。そのうち、本当に裁判官・検察官が痴漢で逮捕されるかもしれない。
     この二年、痴漢行為で起訴されて無罪になるケースが30件にも達しているとされる。

     日本の検察官は強烈な特権意識・エリート意識を持っていて、自分たちは天与の監督者で、国民は愚かな犯罪者集団と思いこんでいる。
     どんな手を使ってでも(脅してウソの自白をさせてでも)「隙あらば有罪に持ち込んで、刑務所にぶち込んでやる」とする傲慢な強権姿勢が顕著だった。
     だが、志布志事件・足利事件・富山事件など、低俗な手口の捏造冤罪が続々と明るみに出されると、「検察の正義」とやらが、軽薄なメンツのための捏造、デタラメであったことに気づく人が増えている。
     「自分たちを追い回す犬の正体がやっと分かったか、羊たちよ」 というところだ。
     今起きている民主党、小沢資金問題でも、本来なら立件さえしないような微罪で逮捕、起訴に持ち込んでいる検察が、結局、官僚の利権を代表して、自民党復権に加担する政治目的での弾圧を行っていると自ら暴露しているようなもので、やがて必ず窮地に追い込まれることになるだろう。

     さて、痴漢冤罪の理由だが、痴漢被害者として告発者になる女性のなかに、全員とは言わないが、被害妄想傾向の強い人が多いと以前から指摘されていた。
     女性のなかには非常に思いこみの強い人がいて、一度でも痴漢被害を受けた女性は、次に痴漢に遭ったとき、ヒステリーを起こして、相手をきちんと確かめずに目の前にいただけの人に罪をかぶせることが多いようだ。
     筆者も、知人の著名女性から似たような目に遭った経験が何度もあるので、女性特有の感情的激昂が、理性的な判断に蓋をしてしまう事実を思い知らされている。女性(多くの短絡的男性もだが)は怒ると目が見えなくなるのだ。
     無罪判決を出した裁判官も、あるいは女性の思いこみヒステリーの被害者だったのかもしれない。

     さて、この思いこみの被害妄想、感情的激昂が人の目を曇らせる現実、これが問題だ。
     女性に限られた特徴かと思いきや、とんでもない。世界一激しい思いこみの被害妄想狂・加害者は国家である。それも、アメリカやロシアのような大国ほどだ。
     世界中の国家が、激しい思いこみと被害妄想に突き動かされて、罪なき人を罪に陥れ、善良な市民を犯罪者にでっちあげ、敵意のない生活民衆をテロリストに仕立て上げ、これでもかと弾圧し、殺しまくっているのである。
     アメリカは、幻のビンラディンとアルカイダを求めて、アフガン・パキスタンに侵入し、数百万の罪なき民衆を殺しまくり、土地を破壊しまくっているのだ。

     数日前、アメリカFBIが911テロ首謀者ビンラディンの顔写真をスペイン議員の写真から捏造していた事実が発覚して世界に報道された。

     【ビンラディン容疑者写真、別人の顔借用 1月18日20時3分配信 TBS
     90年代ごろに撮影されたウサマ・ビンラディン容疑者。このころは髪の毛も髭も真っ黒でした。では、今はどんな顔をしているのでしょうか。 アメリカのFBI=連邦捜査局は、今回新たに最近のビンラディン容疑者の姿を予想して、合成写真を公表しました。髪も髭も白髪が多くなり、しわが増えたビンラディン容疑者。 ところが、これは全く別の人物の写真をもとに作られたことが明らかになりました。
     「最初は信じられなかった。冗談かと思いました」(顔写真を使われたガスパル・リャマサレス議員) 勝手に顔写真を使われたのは、反米で知られる、スペインのガスパル・リャマサレス議員。彼の選挙ポスターの写真が無断で使われたといいます。 「(当局からは)何の説明もありませんよ。ビンラディンに危険は及ばないけど私の身は危険ですよ」(リャマサレス議員)
     FBIは、「適当な素材がなかったため、インターネットで検索して見つけた写真を使った」と無断借用を認めました。怒りが収まらないリャマサレス議員は、アメリカ政府に対し訴訟も辞さない構えです。(18日19:10)】

     このニュースの意味するところに気づいた人は、国家の被害妄想が利権によって成立している本質を知っている人である。
     ビンラディンは、実は、911テロのときに、すでに重度の腎不全を患い、余命いくばくもないと報道されていたのだ。それが、なぜか未だに生き延びていることにされている。
     あのアメリカが、世界最大の軍隊、国家機能の全力を尽くして、おそらく数兆円の予算を費やして全世界にスパイ網を拡大して追って、ただ一人の重要人物を発見できないわけがないだろう。

     このニュースは、FBIの似顔絵担当者は、ビンラディンがとっくに死んでいることを百も承知であることを示しているのである。
     でなければ、どうして安易にネット上の写真など使うものか。これが理解できない人は、完全な権力の洗脳にあって、思考力も失った人間家畜だけだ。

     それでは、なぜ、「死せるビンラディン」が「生けるアメリカ」を走らせているのか?
     それは、アフガンとイラクでのテロとアメリカ軍の進駐、殺戮がアメリカ軍産複合体のメシの種になっているからである!
     すでにアメリカはベトナム戦争に注ぎ込んだ全費用の数十倍もの国費を不毛な民衆大殺戮に使っている。これも「ビンラディンやアルカイダの恐怖」があればこそであって、ビンラディンを簡単に死なせるわけにはいかないのである。

     ビンラディンどころか、アメリカが仇敵として付け狙うアルカイダというグループさえ、実は存在しない架空のものである事実が続々と暴露されている。
     http://tanakanews.com/f0818terror.htm
     http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/014.html
     実はビンラディンも911テロのときに、すでに死亡していた可能性さえ指摘されている。これまでメディアに登場していた人物は、すべてCIAがでっち上げた替え玉だというのだ。でなければ、アメリカが総力をあげて発見できないはずがない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
     【1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。】

     これらの情報が真実であるとすれば、アメリカは幻のビンラディンとアルカイダを恐怖し、過去10年間に300兆円の国費を投入してきたことの意味が浮き彫りになるであろう。
     投じられた300兆円によって、アフガン・イラク民衆に地獄の大殺戮をもたらしたが、一方で、アメリカ国家を牛耳る死の商人たち、たとえば、チェイニーの経営するハリバートン社や、ベクテル社、デュポンなどロックフェラー系列の軍産複合体に膨大な利益をもたらし続けている。
     たった今も、ベクテルの提供した無人偵察爆撃機が、パキスタンのありもしない「アルカイダ」拠点を爆撃し、何の罪もない民衆を殺戮し、「資金源のケシ畑を破壊する」と称して大地をモンサントの極悪除草剤で壊滅させ続けているのだ。

     アメリカは世界最大のセキュリティ社会である。その警備システムを担うのは世界最大の実力を持つアメリカ軍である。
     セキュリティシステムによって、「アメリカ人の自由と財産を守るため」、CIAによって、ありもしないアルカイダがでっちあげられ、とっくに死んだビンラディンが生かされ続けている。

     アメリカは、民衆を恐怖で洗脳し、「正義」をでっちあげ、かつては「共産主義の脅威」から守るため、そして共産主義が崩壊、自滅すれば、今度は「テロの脅威」からアメリカの財産を守るため、という名目で、若者たちを戦争に駆り出し、イラク・アフガン戦争で失われたアメリカ兵の命も5000名を突破した。

     一般民衆の犠牲者は数百万人と指摘されている。
     無差別殺戮によって民衆の憎悪を煽り、普通の民衆がアメリカ軍に抵抗し怒ることで、これを「アルカイダの攻撃」と決めつけ、ますます無差別殺戮を拡大しているのである。
     こうして、戦争が激しさを増し、武器弾薬が消耗されるほどに、ロックフェラーとロスチャイルドの支配する「死の商人たち」軍産複合体は笑いが止まらない。

     これが「テロとの戦争」の正体だ!
     これがセキュリティ社会の正体だ!
     人を恐怖し、人を追いつめ、暴走させ、そして破壊する。セキュリティという美化を行いながら、人間社会を根底から破壊する奴らを許すな!

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    tero 

     ニュースから
     【電車内の痴漢事件、愛知県職員に無罪 名古屋地裁判決:: 電車内で痴漢行為をしたとして、愛知県迷惑防止条例違反罪に問われた同県産業労働部労働福祉課主幹、岡野善紀被告(52)の判決公判が18日、名古屋地裁であった。伊藤納裁判長は「脚の接触はあったが、故意とは認められない」などとして、無罪(求刑罰金50万円)を言い渡した。岡野主幹は逮捕段階から一貫して無罪を主張。物的証拠がなく、被害女性と目撃男性の証言の信用性が争点だった。
     伊藤裁判長は被害者らの証言の信用性について「慎重な吟味が必要」と指摘。被害女性が、以前にも岡野主幹から痴漢にあったと主張した点について「(女性の)供述はあいまい。十分確認しないまま、誤認した可能性がある」と述べた。】

     電車内で痴漢を働いたとして逮捕され、身に覚えのない罪で、証拠もないまま有罪にされて実刑や高額の罰金刑になるケースが後を絶たないが、この数年、司法もやっと、痴漢事件の多くが冤罪である現実に気づきはじめているようだ。
     それは、司法関係者が見下してきた一般大衆だけでなく、司法に携わるレベルの大学教授まで冤罪の餌食になっている現実に、さすがに危機感を抱くしかないからだろう。そのうち、本当に裁判官・検察官が痴漢で逮捕されるかもしれない。
     この二年、痴漢行為で起訴されて無罪になるケースが30件にも達しているとされる。

     日本の検察官は強烈な特権意識・エリート意識を持っていて、自分たちは天与の監督者で、国民は愚かな犯罪者集団と思いこんでいる。
     どんな手を使ってでも(脅してウソの自白をさせてでも)「隙あらば有罪に持ち込んで、刑務所にぶち込んでやる」とする傲慢な強権姿勢が顕著だった。
     だが、志布志事件・足利事件・富山事件など、低俗な手口の捏造冤罪が続々と明るみに出されると、「検察の正義」とやらが、軽薄なメンツのための捏造、デタラメであったことに気づく人が増えている。
     「自分たちを追い回す犬の正体がやっと分かったか、羊たちよ」 というところだ。
     今起きている民主党、小沢資金問題でも、本来なら立件さえしないような微罪で逮捕、起訴に持ち込んでいる検察が、結局、官僚の利権を代表して、自民党復権に加担する政治目的での弾圧を行っていると自ら暴露しているようなもので、やがて必ず窮地に追い込まれることになるだろう。

     さて、痴漢冤罪の理由だが、痴漢被害者として告発者になる女性のなかに、全員とは言わないが、被害妄想傾向の強い人が多いと以前から指摘されていた。
     女性のなかには非常に思いこみの強い人がいて、一度でも痴漢被害を受けた女性は、次に痴漢に遭ったとき、ヒステリーを起こして、相手をきちんと確かめずに目の前にいただけの人に罪をかぶせることが多いようだ。
     筆者も、知人の著名女性から似たような目に遭った経験が何度もあるので、女性特有の感情的激昂が、理性的な判断に蓋をしてしまう事実を思い知らされている。女性(多くの短絡的男性もだが)は怒ると目が見えなくなるのだ。
     無罪判決を出した裁判官も、あるいは女性の思いこみヒステリーの被害者だったのかもしれない。

     さて、この思いこみの被害妄想、感情的激昂が人の目を曇らせる現実、これが問題だ。
     女性に限られた特徴かと思いきや、とんでもない。世界一激しい思いこみの被害妄想狂・加害者は国家である。それも、アメリカやロシアのような大国ほどだ。
     世界中の国家が、激しい思いこみと被害妄想に突き動かされて、罪なき人を罪に陥れ、善良な市民を犯罪者にでっちあげ、敵意のない生活民衆をテロリストに仕立て上げ、これでもかと弾圧し、殺しまくっているのである。
     アメリカは、幻のビンラディンとアルカイダを求めて、アフガン・パキスタンに侵入し、数百万の罪なき民衆を殺しまくり、土地を破壊しまくっているのだ。

     数日前、アメリカFBIが911テロ首謀者ビンラディンの顔写真をスペイン議員の写真から捏造していた事実が発覚して世界に報道された。

     【ビンラディン容疑者写真、別人の顔借用 1月18日20時3分配信 TBS
     90年代ごろに撮影されたウサマ・ビンラディン容疑者。このころは髪の毛も髭も真っ黒でした。では、今はどんな顔をしているのでしょうか。 アメリカのFBI=連邦捜査局は、今回新たに最近のビンラディン容疑者の姿を予想して、合成写真を公表しました。髪も髭も白髪が多くなり、しわが増えたビンラディン容疑者。 ところが、これは全く別の人物の写真をもとに作られたことが明らかになりました。
     「最初は信じられなかった。冗談かと思いました」(顔写真を使われたガスパル・リャマサレス議員) 勝手に顔写真を使われたのは、反米で知られる、スペインのガスパル・リャマサレス議員。彼の選挙ポスターの写真が無断で使われたといいます。 「(当局からは)何の説明もありませんよ。ビンラディンに危険は及ばないけど私の身は危険ですよ」(リャマサレス議員)
     FBIは、「適当な素材がなかったため、インターネットで検索して見つけた写真を使った」と無断借用を認めました。怒りが収まらないリャマサレス議員は、アメリカ政府に対し訴訟も辞さない構えです。(18日19:10)】

     このニュースの意味するところに気づいた人は、国家の被害妄想が利権によって成立している本質を知っている人である。
     ビンラディンは、実は、911テロのときに、すでに重度の腎不全を患い、余命いくばくもないと報道されていたのだ。それが、なぜか未だに生き延びていることにされている。
     あのアメリカが、世界最大の軍隊、国家機能の全力を尽くして、おそらく数兆円の予算を費やして全世界にスパイ網を拡大して追って、ただ一人の重要人物を発見できないわけがないだろう。

     このニュースは、FBIの似顔絵担当者は、ビンラディンがとっくに死んでいることを百も承知であることを示しているのである。
     でなければ、どうして安易にネット上の写真など使うものか。これが理解できない人は、完全な権力の洗脳にあって、思考力も失った人間家畜だけだ。

     それでは、なぜ、「死せるビンラディン」が「生けるアメリカ」を走らせているのか?
     それは、アフガンとイラクでのテロとアメリカ軍の進駐、殺戮がアメリカ軍産複合体のメシの種になっているからである!
     すでにアメリカはベトナム戦争に注ぎ込んだ全費用の数十倍もの国費を不毛な民衆大殺戮に使っている。これも「ビンラディンやアルカイダの恐怖」があればこそであって、ビンラディンを簡単に死なせるわけにはいかないのである。

     ビンラディンどころか、アメリカが仇敵として付け狙うアルカイダというグループさえ、実は存在しない架空のものである事実が続々と暴露されている。
     http://tanakanews.com/f0818terror.htm
     http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/014.html
     実はビンラディンも911テロのときに、すでに死亡していた可能性さえ指摘されている。これまでメディアに登場していた人物は、すべてCIAがでっち上げた替え玉だというのだ。でなければ、アメリカが総力をあげて発見できないはずがない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
     【1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。】

     これらの情報が真実であるとすれば、アメリカは幻のビンラディンとアルカイダを恐怖し、過去10年間に300兆円の国費を投入してきたことの意味が浮き彫りになるであろう。
     投じられた300兆円によって、アフガン・イラク民衆に地獄の大殺戮をもたらしたが、一方で、アメリカ国家を牛耳る死の商人たち、たとえば、チェイニーの経営するハリバートン社や、ベクテル社、デュポンなどロックフェラー系列の軍産複合体に膨大な利益をもたらし続けている。
     たった今も、ベクテルの提供した無人偵察爆撃機が、パキスタンのありもしない「アルカイダ」拠点を爆撃し、何の罪もない民衆を殺戮し、「資金源のケシ畑を破壊する」と称して大地をモンサントの極悪除草剤で壊滅させ続けているのだ。

     アメリカは世界最大のセキュリティ社会である。その警備システムを担うのは世界最大の実力を持つアメリカ軍である。
     セキュリティシステムによって、「アメリカ人の自由と財産を守るため」、CIAによって、ありもしないアルカイダがでっちあげられ、とっくに死んだビンラディンが生かされ続けている。

     アメリカは、民衆を恐怖で洗脳し、「正義」をでっちあげ、かつては「共産主義の脅威」から守るため、そして共産主義が崩壊、自滅すれば、今度は「テロの脅威」からアメリカの財産を守るため、という名目で、若者たちを戦争に駆り出し、イラク・アフガン戦争で失われたアメリカ兵の命も5000名を突破した。

     一般民衆の犠牲者は数百万人と指摘されている。
     無差別殺戮によって民衆の憎悪を煽り、普通の民衆がアメリカ軍に抵抗し怒ることで、これを「アルカイダの攻撃」と決めつけ、ますます無差別殺戮を拡大しているのである。
     こうして、戦争が激しさを増し、武器弾薬が消耗されるほどに、ロックフェラーとロスチャイルドの支配する「死の商人たち」軍産複合体は笑いが止まらない。

     これが「テロとの戦争」の正体だ!
     これがセキュリティ社会の正体だ!
     人を恐怖し、人を追いつめ、暴走させ、そして破壊する。セキュリティという美化を行いながら、人間社会を根底から破壊する奴らを許すな!

     


     ニュースから
     【電車内の痴漢事件、愛知県職員に無罪 名古屋地裁判決:: 電車内で痴漢行為をしたとして、愛知県迷惑防止条例違反罪に問われた同県産業労働部労働福祉課主幹、岡野善紀被告(52)の判決公判が18日、名古屋地裁であった。伊藤納裁判長は「脚の接触はあったが、故意とは認められない」などとして、無罪(求刑罰金50万円)を言い渡した。岡野主幹は逮捕段階から一貫して無罪を主張。物的証拠がなく、被害女性と目撃男性の証言の信用性が争点だった。
     伊藤裁判長は被害者らの証言の信用性について「慎重な吟味が必要」と指摘。被害女性が、以前にも岡野主幹から痴漢にあったと主張した点について「(女性の)供述はあいまい。十分確認しないまま、誤認した可能性がある」と述べた。】

     電車内で痴漢を働いたとして逮捕され、身に覚えのない罪で、証拠もないまま有罪にされて実刑や高額の罰金刑になるケースが後を絶たないが、この数年、司法もやっと、痴漢事件の多くが冤罪である現実に気づきはじめているようだ。
     それは、司法関係者が見下してきた一般大衆だけでなく、司法に携わるレベルの大学教授まで冤罪の餌食になっている現実に、さすがに危機感を抱くしかないからだろう。そのうち、本当に裁判官・検察官が痴漢で逮捕されるかもしれない。
     この二年、痴漢行為で起訴されて無罪になるケースが30件にも達しているとされる。

     日本の検察官は強烈な特権意識・エリート意識を持っていて、自分たちは天与の監督者で、国民は愚かな犯罪者集団と思いこんでいる。
     どんな手を使ってでも(脅してウソの自白をさせてでも)「隙あらば有罪に持ち込んで、刑務所にぶち込んでやる」とする傲慢な強権姿勢が顕著だった。
     だが、志布志事件・足利事件・富山事件など、低俗な手口の捏造冤罪が続々と明るみに出されると、「検察の正義」とやらが、軽薄なメンツのための捏造、デタラメであったことに気づく人が増えている。
     「自分たちを追い回す犬の正体がやっと分かったか、羊たちよ」 というところだ。
     今起きている民主党、小沢資金問題でも、本来なら立件さえしないような微罪で逮捕、起訴に持ち込んでいる検察が、結局、官僚の利権を代表して、自民党復権に加担する政治目的での弾圧を行っていると自ら暴露しているようなもので、やがて必ず窮地に追い込まれることになるだろう。

     さて、痴漢冤罪の理由だが、痴漢被害者として告発者になる女性のなかに、全員とは言わないが、被害妄想傾向の強い人が多いと以前から指摘されていた。
     女性のなかには非常に思いこみの強い人がいて、一度でも痴漢被害を受けた女性は、次に痴漢に遭ったとき、ヒステリーを起こして、相手をきちんと確かめずに目の前にいただけの人に罪をかぶせることが多いようだ。
     筆者も、知人の著名女性から似たような目に遭った経験が何度もあるので、女性特有の感情的激昂が、理性的な判断に蓋をしてしまう事実を思い知らされている。女性(多くの短絡的男性もだが)は怒ると目が見えなくなるのだ。
     無罪判決を出した裁判官も、あるいは女性の思いこみヒステリーの被害者だったのかもしれない。

     さて、この思いこみの被害妄想、感情的激昂が人の目を曇らせる現実、これが問題だ。
     女性に限られた特徴かと思いきや、とんでもない。世界一激しい思いこみの被害妄想狂・加害者は国家である。それも、アメリカやロシアのような大国ほどだ。
     世界中の国家が、激しい思いこみと被害妄想に突き動かされて、罪なき人を罪に陥れ、善良な市民を犯罪者にでっちあげ、敵意のない生活民衆をテロリストに仕立て上げ、これでもかと弾圧し、殺しまくっているのである。
     アメリカは、幻のビンラディンとアルカイダを求めて、アフガン・パキスタンに侵入し、数百万の罪なき民衆を殺しまくり、土地を破壊しまくっているのだ。

     数日前、アメリカFBIが911テロ首謀者ビンラディンの顔写真をスペイン議員の写真から捏造していた事実が発覚して世界に報道された。

     【ビンラディン容疑者写真、別人の顔借用 1月18日20時3分配信 TBS
     90年代ごろに撮影されたウサマ・ビンラディン容疑者。このころは髪の毛も髭も真っ黒でした。では、今はどんな顔をしているのでしょうか。 アメリカのFBI=連邦捜査局は、今回新たに最近のビンラディン容疑者の姿を予想して、合成写真を公表しました。髪も髭も白髪が多くなり、しわが増えたビンラディン容疑者。 ところが、これは全く別の人物の写真をもとに作られたことが明らかになりました。
     「最初は信じられなかった。冗談かと思いました」(顔写真を使われたガスパル・リャマサレス議員) 勝手に顔写真を使われたのは、反米で知られる、スペインのガスパル・リャマサレス議員。彼の選挙ポスターの写真が無断で使われたといいます。 「(当局からは)何の説明もありませんよ。ビンラディンに危険は及ばないけど私の身は危険ですよ」(リャマサレス議員)
     FBIは、「適当な素材がなかったため、インターネットで検索して見つけた写真を使った」と無断借用を認めました。怒りが収まらないリャマサレス議員は、アメリカ政府に対し訴訟も辞さない構えです。(18日19:10)】

     このニュースの意味するところに気づいた人は、国家の被害妄想が利権によって成立している本質を知っている人である。
     ビンラディンは、実は、911テロのときに、すでに重度の腎不全を患い、余命いくばくもないと報道されていたのだ。それが、なぜか未だに生き延びていることにされている。
     あのアメリカが、世界最大の軍隊、国家機能の全力を尽くして、おそらく数兆円の予算を費やして全世界にスパイ網を拡大して追って、ただ一人の重要人物を発見できないわけがないだろう。

     このニュースは、FBIの似顔絵担当者は、ビンラディンがとっくに死んでいることを百も承知であることを示しているのである。
     でなければ、どうして安易にネット上の写真など使うものか。これが理解できない人は、完全な権力の洗脳にあって、思考力も失った人間家畜だけだ。

     それでは、なぜ、「死せるビンラディン」が「生けるアメリカ」を走らせているのか?
     それは、アフガンとイラクでのテロとアメリカ軍の進駐、殺戮がアメリカ軍産複合体のメシの種になっているからである!
     すでにアメリカはベトナム戦争に注ぎ込んだ全費用の数十倍もの国費を不毛な民衆大殺戮に使っている。これも「ビンラディンやアルカイダの恐怖」があればこそであって、ビンラディンを簡単に死なせるわけにはいかないのである。

     ビンラディンどころか、アメリカが仇敵として付け狙うアルカイダというグループさえ、実は存在しない架空のものである事実が続々と暴露されている。
     http://tanakanews.com/f0818terror.htm
     http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/014.html
     実はビンラディンも911テロのときに、すでに死亡していた可能性さえ指摘されている。これまでメディアに登場していた人物は、すべてCIAがでっち上げた替え玉だというのだ。でなければ、アメリカが総力をあげて発見できないはずがない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
     【1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。】

     これらの情報が真実であるとすれば、アメリカは幻のビンラディンとアルカイダを恐怖し、過去10年間に300兆円の国費を投入してきたことの意味が浮き彫りになるであろう。
     投じられた300兆円によって、アフガン・イラク民衆に地獄の大殺戮をもたらしたが、一方で、アメリカ国家を牛耳る死の商人たち、たとえば、チェイニーの経営するハリバートン社や、ベクテル社、デュポンなどロックフェラー系列の軍産複合体に膨大な利益をもたらし続けている。
     たった今も、ベクテルの提供した無人偵察爆撃機が、パキスタンのありもしない「アルカイダ」拠点を爆撃し、何の罪もない民衆を殺戮し、「資金源のケシ畑を破壊する」と称して大地をモンサントの極悪除草剤で壊滅させ続けているのだ。

     アメリカは世界最大のセキュリティ社会である。その警備システムを担うのは世界最大の実力を持つアメリカ軍である。
     セキュリティシステムによって、「アメリカ人の自由と財産を守るため」、CIAによって、ありもしないアルカイダがでっちあげられ、とっくに死んだビンラディンが生かされ続けている。

     アメリカは、民衆を恐怖で洗脳し、「正義」をでっちあげ、かつては「共産主義の脅威」から守るため、そして共産主義が崩壊、自滅すれば、今度は「テロの脅威」からアメリカの財産を守るため、という名目で、若者たちを戦争に駆り出し、イラク・アフガン戦争で失われたアメリカ兵の命も5000名を突破した。

     一般民衆の犠牲者は数百万人と指摘されている。
     無差別殺戮によって民衆の憎悪を煽り、普通の民衆がアメリカ軍に抵抗し怒ることで、これを「アルカイダの攻撃」と決めつけ、ますます無差別殺戮を拡大しているのである。
     こうして、戦争が激しさを増し、武器弾薬が消耗されるほどに、ロックフェラーとロスチャイルドの支配する「死の商人たち」軍産複合体は笑いが止まらない。

     これが「テロとの戦争」の正体だ!
     これがセキュリティ社会の正体だ!
     人を恐怖し、人を追いつめ、暴走させ、そして破壊する。セキュリティという美化を行いながら、人間社会を根底から破壊する奴らを許すな!

     


    iraku 危機の妄想

     「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

     人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
     この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

     だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
     それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
     そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
     恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

     世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
     イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

     宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
     だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

     たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
     とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
     これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
     
     なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
     こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人〜数百万人にも上っていると指摘されている。
     女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
     http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

     旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
     女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
     差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
     女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
     こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
     一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

     このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
     体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

     こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
     死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
     こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

     そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
     支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

     だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

     「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
     セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

     逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
     貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

     セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
     
     ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
     この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
     セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
     いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
     あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

     日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
     それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

     だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
     人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

     よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
     そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
     どんなセキュリティが必要とされるというのか?

     アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
     「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
     我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

     「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
     とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
     これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

     それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
     これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!

    iraku.jpg
     危機の妄想

     「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

     人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
     この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

     だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
     それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
     そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
     恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

     世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
     イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

     宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
     だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

     たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
     とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
     これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
     
     なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
     こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人〜数百万人にも上っていると指摘されている。
     女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
     http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

     旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
     女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
     差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
     女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
     こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
     一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

     このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
     体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

     こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
     死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
     こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

     そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
     支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

     だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

     「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
     セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

     逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
     貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

     セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
     
     ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
     この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
     セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
     いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
     あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

     日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
     それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

     だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
     人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

     よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
     そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
     どんなセキュリティが必要とされるというのか?

     アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
     「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
     我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

     「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
     とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
     これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

     それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
     これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!


     「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

     人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
     この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

     だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
     それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
     そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
     恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

     世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
     イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

     宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
     だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

     たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
     とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
     これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
     
     なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
     こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人〜数百万人にも上っていると指摘されている。
     女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
     http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

     旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
     女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
     差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
     女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
     こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
     一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

     このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
     体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

     こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
     死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
     こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

     そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
     支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

     だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

     「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
     セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

     逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
     貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

     セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
     
     ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
     この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
     セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
     いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
     あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

     日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
     それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

     だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
     人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

     よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
     そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
     どんなセキュリティが必要とされるというのか?

     アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
     「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
     我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

     「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
     とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
     これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

     それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
     これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!


    nec 

     おびえる子供たち

     筆者が7年前に中津川市蛭川に移り住んで驚いたことが、いくつかあった。
     一番びっくりしたのは、散歩中、道で出会う子供たちの大部分が、見ず知らずの私に向かって、「こんにちわ」 と挨拶するのだ。
     これは、当たり前だと思うなかれ、新鮮なカルチャーショックだった。
     いい年をしたオッサンの私でも、どぎまぎしながら挨拶を返すことになったが、人を恐れない子供たちの明るく素直な表情を見ていると、暖かい安心感と未来への希望が満ちてくるのである。

     それまで20年以上住んだ名古屋市内の公団アパートでは、エレベータに子供が乗り合わせたとき、挨拶どころか、危険な浮浪者にでも見えたのか、私を見て恐れ、脅えたような緊張した表情を見せて、扉が開けば一目散に駆け出すような具合だった。
     ついぞ都会で、見知らぬ大人に対する子供たちの無邪気な人なつこい笑顔など見たこともなく、もちろん親たちも一人暮らしの得体の知れない、胡散臭い男に対して警戒の表情を緩めなかった。

     こんな子供ばかり見ていると、昔ながらの大人と子供の自然な関係など忘れてしまって、自分が変態異常者として扱われていると意識しはじめることになり、小中学生の女児あたりが一人で居合わせるなら、ついつい、ふくらみはじめた胸に目が行き、「お嬢ちゃん、おじちゃんが抱っこしてあげようか、ゲヒヒヒヒ」 (^o^) (冗談ですら)
     とやりたくなるのが人情ではないだろうか。
     こちらだって毛頭、構う意志もないのに、勝手におびえて警戒されると、子供といえどもムカッ腹がたつもので、期待に応えて悪さをしなければならないような気分に襲われるのだ。

     池田小学校殺傷事件が起きてからというものの、全国津々浦々まで学校のセキュリティが厳重になり、臆病で小心な学校管理者たちは、「人を見れば泥棒か変態と思え」と子供たちを洗脳するようになった。
     近道しようと校庭を横切るだけでセキュリティシステムが作動し、警備員が飛んでくるような状態だ。
     本当にうんざりさせられるが、人より野生動物の多い蛭川でも、おそらく学校では警戒システムが厳重なはずだが、さすがに、こんな僻地には変態はいないと、みんな信じているようで、タテマエは厳重であっても、運用上は、のどかで素直な子供たちの表情が生き残っているのである。

     これが大都会の学校のように、子供たちが「見ず知らずの大人は変態・痴漢・泥棒・異常者だ」などと教育洗脳されるようになっては、もう田舎もオシマイだ。僅かに残った人間性のカケラさえ凍り付いてしまうではないか。
     大人が道を歩いているだけで、子供たちが猛獣にでも遭遇したかのように警戒するようでは、何か困ったことや事故が起きていても、それを助けようとしたら逆に変態異常者扱いされかねないと、こちらまで警戒して手を出せなくなってしまう。
     だから、こうした過剰な警戒と恐怖心の洗脳が、明らかに人間関係に悪影響、逆効果をもたらすのであって、むしろ、子供たちを危険に晒す結果を招いていると危惧せざるをえないのである。

     筆者は、過剰なセキュリティが、どれほど効果のない大きな無駄を生み出しているか、社会から、暖かい人間関係を奪っているか、得られる安全よりも、はるかに残酷な危険をもたらすものであるかを読者に問いたい。

     911テロ以降、恐怖におびえて過剰な反応を示すことで、アメリカは、どれほど、社会の暖かみ、大らかさを喪失し、たくさんの大切なものを失ったのかを、我々は直視する必要がある。

     911テロの犠牲者は、アメリカ国内で約3000名であった。これは大きな数字だ。しかし、激昂した世論による報復、復讐心を満足させるため、アメリカ国家が怒りの矛先をアフガンやイラクにぶつけて侵略戦争を行った結果、報復作戦による米兵死者総数は4000名をはるかに超え、この結果起きた宗教対立、自爆テロなどで、罪なき民衆に強いた犠牲者は実に百万人に達するのである。
     テロが成功した場合の損失と、それを未然に防ぐために用いた過剰なセキュリティ態勢によって失った損失の差し引きを考えていただきたい。おそらく比較にならないほど、愚かしい結果がもたらされているにちがいない。

     911事件によって、ブッシュらが持ち出した「テロとの戦争」 という陳腐な屁理屈、スローガンによって、いったい誰がトクをして、誰が損をしたのか?
     「社会の至る所にテロリストが潜んでいる」
     と錦の御旗を掲げて民衆の恐怖心を煽ったのは、共和党ネオコンだったが、姿形の見えないテロリストを収監するために全米600カ所の強制収容所と300万人分の棺桶が用意され、さらに、あらゆる空港・駅や公安システムに投入された新たなセキュリティシステムに使われた税金は数十兆円の巨額に上った。

     それを優先的に請け負って巨額のボロ儲けをした者こそ、ネオコン総帥、チェイニー副大統領の経営するハリバートン社であった。それだけでない、ハリバートンは、イラクから奪った石油利権の復興プロジェクトに関与して、前年の三倍以上の利益を得た。
    http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/halliburton.html
     こうして、得られた結果から考えれば、「テロとの戦争」の中身は、ネオコンの金儲けであり、実は911テロが本当は誰が仕組んだものか、朧に見えてくるはずだ。
     
     最近では、911ツインタワー倒壊が、旅客機の突入では絶対に起こりえず、イスラエル・モサドやCIAの使用する軍事用テルミットが仕掛けられていたことを全米建築家協会が崩壊ビデオを解析して証明してみせた。
     http://www17.plala.or.jp/d_spectator/

     「テロによる巨大な被害を防止するために厳重なセキュリティが必要」
     という主張は、完全に破綻している。アメリカは911テロを再発させないで、国民の命を守るために、人間の権利を破壊し、自由を破壊し、民主主義までも破壊し、911テロの千倍以上の犠牲者を出したのである。
     
     厳重なセキュリティが敷かれたことで、得られた利益が本当にあったのか?
     我々は、よくよく考えて、こうしたセキュリティシステムによって、本当は誰に、どのような利益がもたらされたのか? 見つめる必要がある。

     セキュリティは、それを行ったことにより、行わないよりも桁違いの不利益を発生させるものだと知る必要がある。
     我々は、「人の意志による破壊行為」に対し、それを規則や法律で縛ってみたり、報復制裁、軍事行動で解決しようとしてはならないのである。
     破壊行為を招いた真の原因を分析し、原因を具体的に解決することを通じて、予防する姿勢が必要なのであって、予算を注ぎ込んだシステムによって対応しようとするなら、際限のないイタチごっこが繰り返されるだけになり、結果は逆効果にしかならないことを知っておかねばならない。

     もう一つ、例をあげてみよう。
     筆者がパソコンに触れ始めたのは、まだマイコンと呼ばれた時代で、今から30年ほど前、最初に買ったのは、シャープMZ80だった。
     当時としては、ずいぶん高価なもので、安い軽自動車が買えるほどの値段だったと思う。たしか8ビットZ80、8Mだかのクロックだったが、当時のBASICで、そこそこの計算能力があって、メモリの大きな関数電卓という印象だった。しかし、ほとんどパックマンのようなゲームで遊んでいただけだったと思う。

     数年後、次に買ったNECノートは、16ビットでV30、10M程度のクロックがあり、一太郎も十分に使えて、申し分なく実用的なものだった。
     当時のパソコンLTや9801Nは、未だに引っ張り出して使っても、スイッチを入れた瞬間から十分に役立つもので、カシオFX890ポケコンなど、曲率や勾配計算などに欠かせず、現役で使用し続けている。
     
     以来30年、どれだけのパソコンを購入したか覚えてもいないが、間違いなく十数台は買った。演算スピードも上がり、8Mだったのが、すでに3Gを超えているから、400倍以上になっている勘定だ。
     しかし、それでは使用勝手や実用性が上がったかといえば、とんでもないことで、30年前のパソコンと今のパソコン(最新はDELL・INSPIRON)を比較してみて、少なくとも木工計算での実用性は昔のポケコンの方がはるかに上なのだ。

     いろいろな機能は数桁以上も増えたが、ワープロ一つとってみても、その実用的な入力スピードは、ほとんど変わっていない。変換辞書は数千倍になったはずなのに、使い勝手があまり変わらないというのは、どんな事情によるものか?
     むしろ、スイッチを入れて、ソフトが立ち上がり、入力して答えを利用する時間を考えれば、今のパソコンは実用性が劣っているのだ。

     その最大の理由は、せっかくCPUの性能が数千倍にもなったのに、それが動かすプログラム量が、それ以上の重さになったせいである。
     最大の桎梏(足かせ)はセキュリティソフトである。今のパソコンを利用しようと思うと、最初にパスワードを入力し、数分もかけて重い重いOSを立ち上げねばならない。さらに、巨大なセキュリティシステムを立ち上げることになる。

     筆者が今でも使う25年前のNEC9801LTなど、スイッチを入れた瞬間にOSが立ち上がり、数秒で利用できる。実用上も十分な性能だ。当時、購入した25Mクロックのワープロだって、変換スピードや使い勝手は、今の最新式よりも上なのだ。
     結局、ネット接続からシステムを守るためのセキュリティシステムが、あらゆるソフトを極端に重くし、使い勝手を損なっているのである。

     それでは、こうしたセキュリティシステムが本当に必要なのか?
     といえば、そうした人はネットを利用した高度情報通信を行っている人に限られるのであって、ネット閲覧、書き込み、ワープロと図面計算に使う程度の筆者も含めて、今ほどの巨大なシステムなどまったく必要としていない。
     ネットを利用さえしなえれば、今のパソコンなどシステムが重すぎて使いたくもない。

     これこそ、余計なセキュリティ思想が、実用性を損なっている典型的な例といわねばならないのだ。
     30年かけて飛躍的に発展したハードウェアに対して、ソフトウェアが、それ以上の負荷を必要とするなどという現実は、まさに笑い話というしかないのである。

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     おびえる子供たち

     筆者が7年前に中津川市蛭川に移り住んで驚いたことが、いくつかあった。
     一番びっくりしたのは、散歩中、道で出会う子供たちの大部分が、見ず知らずの私に向かって、「こんにちわ」 と挨拶するのだ。
     これは、当たり前だと思うなかれ、新鮮なカルチャーショックだった。
     いい年をしたオッサンの私でも、どぎまぎしながら挨拶を返すことになったが、人を恐れない子供たちの明るく素直な表情を見ていると、暖かい安心感と未来への希望が満ちてくるのである。

     それまで20年以上住んだ名古屋市内の公団アパートでは、エレベータに子供が乗り合わせたとき、挨拶どころか、危険な浮浪者にでも見えたのか、私を見て恐れ、脅えたような緊張した表情を見せて、扉が開けば一目散に駆け出すような具合だった。
     ついぞ都会で、見知らぬ大人に対する子供たちの無邪気な人なつこい笑顔など見たこともなく、もちろん親たちも一人暮らしの得体の知れない、胡散臭い男に対して警戒の表情を緩めなかった。

     こんな子供ばかり見ていると、昔ながらの大人と子供の自然な関係など忘れてしまって、自分が変態異常者として扱われていると意識しはじめることになり、小中学生の女児あたりが一人で居合わせるなら、ついつい、ふくらみはじめた胸に目が行き、「お嬢ちゃん、おじちゃんが抱っこしてあげようか、ゲヒヒヒヒ」 (^o^) (冗談ですら)
     とやりたくなるのが人情ではないだろうか。
     こちらだって毛頭、構う意志もないのに、勝手におびえて警戒されると、子供といえどもムカッ腹がたつもので、期待に応えて悪さをしなければならないような気分に襲われるのだ。

     池田小学校殺傷事件が起きてからというものの、全国津々浦々まで学校のセキュリティが厳重になり、臆病で小心な学校管理者たちは、「人を見れば泥棒か変態と思え」と子供たちを洗脳するようになった。
     近道しようと校庭を横切るだけでセキュリティシステムが作動し、警備員が飛んでくるような状態だ。
     本当にうんざりさせられるが、人より野生動物の多い蛭川でも、おそらく学校では警戒システムが厳重なはずだが、さすがに、こんな僻地には変態はいないと、みんな信じているようで、タテマエは厳重であっても、運用上は、のどかで素直な子供たちの表情が生き残っているのである。

     これが大都会の学校のように、子供たちが「見ず知らずの大人は変態・痴漢・泥棒・異常者だ」などと教育洗脳されるようになっては、もう田舎もオシマイだ。僅かに残った人間性のカケラさえ凍り付いてしまうではないか。
     大人が道を歩いているだけで、子供たちが猛獣にでも遭遇したかのように警戒するようでは、何か困ったことや事故が起きていても、それを助けようとしたら逆に変態異常者扱いされかねないと、こちらまで警戒して手を出せなくなってしまう。
     だから、こうした過剰な警戒と恐怖心の洗脳が、明らかに人間関係に悪影響、逆効果をもたらすのであって、むしろ、子供たちを危険に晒す結果を招いていると危惧せざるをえないのである。

     筆者は、過剰なセキュリティが、どれほど効果のない大きな無駄を生み出しているか、社会から、暖かい人間関係を奪っているか、得られる安全よりも、はるかに残酷な危険をもたらすものであるかを読者に問いたい。

     911テロ以降、恐怖におびえて過剰な反応を示すことで、アメリカは、どれほど、社会の暖かみ、大らかさを喪失し、たくさんの大切なものを失ったのかを、我々は直視する必要がある。

     911テロの犠牲者は、アメリカ国内で約3000名であった。これは大きな数字だ。しかし、激昂した世論による報復、復讐心を満足させるため、アメリカ国家が怒りの矛先をアフガンやイラクにぶつけて侵略戦争を行った結果、報復作戦による米兵死者総数は4000名をはるかに超え、この結果起きた宗教対立、自爆テロなどで、罪なき民衆に強いた犠牲者は実に百万人に達するのである。
     テロが成功した場合の損失と、それを未然に防ぐために用いた過剰なセキュリティ態勢によって失った損失の差し引きを考えていただきたい。おそらく比較にならないほど、愚かしい結果がもたらされているにちがいない。

     911事件によって、ブッシュらが持ち出した「テロとの戦争」 という陳腐な屁理屈、スローガンによって、いったい誰がトクをして、誰が損をしたのか?
     「社会の至る所にテロリストが潜んでいる」
     と錦の御旗を掲げて民衆の恐怖心を煽ったのは、共和党ネオコンだったが、姿形の見えないテロリストを収監するために全米600カ所の強制収容所と300万人分の棺桶が用意され、さらに、あらゆる空港・駅や公安システムに投入された新たなセキュリティシステムに使われた税金は数十兆円の巨額に上った。

     それを優先的に請け負って巨額のボロ儲けをした者こそ、ネオコン総帥、チェイニー副大統領の経営するハリバートン社であった。それだけでない、ハリバートンは、イラクから奪った石油利権の復興プロジェクトに関与して、前年の三倍以上の利益を得た。
    http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/halliburton.html
     こうして、得られた結果から考えれば、「テロとの戦争」の中身は、ネオコンの金儲けであり、実は911テロが本当は誰が仕組んだものか、朧に見えてくるはずだ。
     
     最近では、911ツインタワー倒壊が、旅客機の突入では絶対に起こりえず、イスラエル・モサドやCIAの使用する軍事用テルミットが仕掛けられていたことを全米建築家協会が崩壊ビデオを解析して証明してみせた。
     http://www17.plala.or.jp/d_spectator/

     「テロによる巨大な被害を防止するために厳重なセキュリティが必要」
     という主張は、完全に破綻している。アメリカは911テロを再発させないで、国民の命を守るために、人間の権利を破壊し、自由を破壊し、民主主義までも破壊し、911テロの千倍以上の犠牲者を出したのである。
     
     厳重なセキュリティが敷かれたことで、得られた利益が本当にあったのか?
     我々は、よくよく考えて、こうしたセキュリティシステムによって、本当は誰に、どのような利益がもたらされたのか? 見つめる必要がある。

     セキュリティは、それを行ったことにより、行わないよりも桁違いの不利益を発生させるものだと知る必要がある。
     我々は、「人の意志による破壊行為」に対し、それを規則や法律で縛ってみたり、報復制裁、軍事行動で解決しようとしてはならないのである。
     破壊行為を招いた真の原因を分析し、原因を具体的に解決することを通じて、予防する姿勢が必要なのであって、予算を注ぎ込んだシステムによって対応しようとするなら、際限のないイタチごっこが繰り返されるだけになり、結果は逆効果にしかならないことを知っておかねばならない。

     もう一つ、例をあげてみよう。
     筆者がパソコンに触れ始めたのは、まだマイコンと呼ばれた時代で、今から30年ほど前、最初に買ったのは、シャープMZ80だった。
     当時としては、ずいぶん高価なもので、安い軽自動車が買えるほどの値段だったと思う。たしか8ビットZ80、8Mだかのクロックだったが、当時のBASICで、そこそこの計算能力があって、メモリの大きな関数電卓という印象だった。しかし、ほとんどパックマンのようなゲームで遊んでいただけだったと思う。

     数年後、次に買ったNECノートは、16ビットでV30、10M程度のクロックがあり、一太郎も十分に使えて、申し分なく実用的なものだった。
     当時のパソコンLTや9801Nは、未だに引っ張り出して使っても、スイッチを入れた瞬間から十分に役立つもので、カシオFX890ポケコンなど、曲率や勾配計算などに欠かせず、現役で使用し続けている。
     
     以来30年、どれだけのパソコンを購入したか覚えてもいないが、間違いなく十数台は買った。演算スピードも上がり、8Mだったのが、すでに3Gを超えているから、400倍以上になっている勘定だ。
     しかし、それでは使用勝手や実用性が上がったかといえば、とんでもないことで、30年前のパソコンと今のパソコン(最新はDELL・INSPIRON)を比較してみて、少なくとも木工計算での実用性は昔のポケコンの方がはるかに上なのだ。

     いろいろな機能は数桁以上も増えたが、ワープロ一つとってみても、その実用的な入力スピードは、ほとんど変わっていない。変換辞書は数千倍になったはずなのに、使い勝手があまり変わらないというのは、どんな事情によるものか?
     むしろ、スイッチを入れて、ソフトが立ち上がり、入力して答えを利用する時間を考えれば、今のパソコンは実用性が劣っているのだ。

     その最大の理由は、せっかくCPUの性能が数千倍にもなったのに、それが動かすプログラム量が、それ以上の重さになったせいである。
     最大の桎梏(足かせ)はセキュリティソフトである。今のパソコンを利用しようと思うと、最初にパスワードを入力し、数分もかけて重い重いOSを立ち上げねばならない。さらに、巨大なセキュリティシステムを立ち上げることになる。

     筆者が今でも使う25年前のNEC9801LTなど、スイッチを入れた瞬間にOSが立ち上がり、数秒で利用できる。実用上も十分な性能だ。当時、購入した25Mクロックのワープロだって、変換スピードや使い勝手は、今の最新式よりも上なのだ。
     結局、ネット接続からシステムを守るためのセキュリティシステムが、あらゆるソフトを極端に重くし、使い勝手を損なっているのである。

     それでは、こうしたセキュリティシステムが本当に必要なのか?
     といえば、そうした人はネットを利用した高度情報通信を行っている人に限られるのであって、ネット閲覧、書き込み、ワープロと図面計算に使う程度の筆者も含めて、今ほどの巨大なシステムなどまったく必要としていない。
     ネットを利用さえしなえれば、今のパソコンなどシステムが重すぎて使いたくもない。

     これこそ、余計なセキュリティ思想が、実用性を損なっている典型的な例といわねばならないのだ。
     30年かけて飛躍的に発展したハードウェアに対して、ソフトウェアが、それ以上の負荷を必要とするなどという現実は、まさに笑い話というしかないのである。

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     セキュリティ遭難

     以下は、最近起きた実話である。

     昨年末の木枯らし吹きすさぶ深夜、著名な企業に勤める友人は、連日、4時間以上もの残業で年末決算処理に追われていた。
     この会社のセキュリティシステムでは、労務管理通達により、社員が23時までに帰宅する前提になっており、23時を過ぎるとオフィスに厳重なセキュリティロック・システムが作動するように設計されていた。

     だが、彼に課せられていた期限の迫った仕事は、23時を過ぎても終わりそうもなかった。彼は机の周りに、すべての荷物を置いて、尿意を催してトイレに立った。
     トイレから事務所に戻ったとき、その扉が開かないことに血の気が引いた。ロック解除カードも机の上だ。セキュリティシステムを忘れていた自分の迂闊さを責めたが、時はすでに遅いのだ。

     上着も財布も携帯電話も、車のキーも、家の鍵すらも、すべての荷物が机にある。ロックが解除されるのは、明日の9時以降でしかない。
     今は着の身着のまま、外は寒風吹きすさぶ凍るような冬の街路。
     助けを呼ぼうにも、ビル内には誰も残っていない。保安担当もいない、電話も通じない。監視カメラが録画しているだけで、担当者が駆けつけてくることはない。

     歩いてゆける近くに知人はいない。電話さえできない。寒さから身を守る術さえない。
     「どうしたらいいんだ・・・」
     途方に暮れながら、必死になってポケットを探ると、そこに小銭で250円あった。だが250円で何ができる。終夜営業のレストランに入っても、250円で買えるものなどない。
     「待てよ、250円・・・・」
     そのとき、まだ終電のある電車で250円区間のところに兄が住んでいることを思い出した。寒さをこらえて終電に乗り、兄に救いを求めに向かった。
     
     バス賃もないから、相当に歩きて着いた兄の家に、幸い兄がいた。
     1万円を拝借してタクシーで一人暮らしの郊外の家に帰ったものの、今度は家の鍵もないことを思い出して絶望的な気分に襲われた。田舎の一軒家なので、泥棒避けに頑丈な鍵や防犯ライトなどセキュリティが敷いてあるのだ。
     玄関前で、寒さに震えながら途方に暮れた。そのとき、そういえば新しいテレビアンテナ線を通すために鍵を閉められない小さな出窓があったことを思い出した。
     そこで、必死にその窓をこじ開けて、無我夢中で中に入った。
     ようやくストーブに暖まることができ、命が助かったというところで、この恐ろしい物語は一件落着したわけだ。

     ちなみに、彼はこのロックアウトが実は二回目であった。前回は真夏だったので会社で朝まで待っても凍死することもなく、問題を甘く見ていたのだ。
     だが、もし、これが氷点下の猛吹雪のなかで、ポケットに250円がなかったなら、本当に命の危険に見舞われていたかもしれない。

     これは「セキュリティ遭難」とでも名付けるべき、現代社会における新たな遭難災厄なのである。
     その実態が調査されたなら、驚くべき恐ろしい現実が明らかになるかもしれない。ことによると、交通遭難や山岳遭難に次ぐような一大遭難事案になっているかもしれないのである。

     この例と同じでなくとも、似たような経験をされた方は少なからずいるはずだ。
     筆者も、鍵を持たないまま家のドアを迂闊にロックしてしまい、中に入るのに四苦八苦したことが何度もある。
     鍵を無理矢理こじ開けて壊してしまったこともある。筆者宅は自作の木造バラックでなので破壊も復旧も簡単だが、今の厳重な鋼鉄製ロックシステムは、素人が簡単に突破できるような代物ではないのだ。
     素手で突破侵入できるようなものではない。おまけに、無理に壊せば後でとんでもない復旧費用がかかる。
     深夜、こうしたセキュリティシステムによって、会社にも家にも立ち入れないで彷徨い、カネもなくて、どうすることもできず。ときに凍死してしまうような恐ろしい事件は、どうも決して少なくなさそうだ。

     昔なら、こんなありふれた失敗は問題にもならず、単なる笑い話ですんでしまった。日本中どこでも近所つきあいは濃密で、困ったときは近所の人をたたき起こせば、それで解決できたからだ。
     だが、今は違う。三軒隣のご近所さんの顔も一度も見たことがない人だって珍しくない。コミュニケーションなど存在せず、連帯感を確かめ合う場もない。だから、誰も助けてくれないのだ。

     今後、場合によっては、警察や消防が「セキュリティ遭難救助隊」を結成しなければならないかもしれない。昔なら、ご近所のつきあい、連帯が、こうした、ありふれたミスを簡単に解決したものだ。
     だが、人間疎外の進んだ今では、こうした問題は、役所の仕事になったかもしれないのである。セキュリティに追放された遭難者を助ける避難所が必要になっているのかもしれない。

     家はたくさん建っている。しかし、顔も知らない隣近所の連帯がないのだ。友人だって、毎日数時間の残業を強いられ、帰宅するのは深夜、家では寝るだけで早朝出勤しなければならない。とても町内の分担仕事などやっていられない。
     だから、町内会のゴミ捨て場にゴミを捨てることさえ拒否される事態になっていた。捨てた郵便物から足がついて、「捨てるな」と通告されたのだ。
     ゴミを庭先で燃そうとすれば、たちどころに消防に通報され消防車がサイレンを鳴らして飛んでくる。
    (実は、中津川市蛭川の山奥に住む筆者でさえ、庭で落ち葉を燃していると、近所の別荘に住む夫婦が消防に通報する (>_<) )
     こんな関係のご近所様に、どうして深夜の救援を求められようか?

     筆者らの若い頃を思い出してみると、ご近所の出番を待つまでもなく、こうしたセキュリティシステムを設計運用する上で、「フールセーフ」の考え方が、もっと強く意識されていたように思う。
     人間は、もともと「信じられないほどアホ」なのである。想像もつかないような初歩的な失敗を繰り返すものだ。この真実を、みんないやというほど思い知らされていた。
     だから、「システムというものはアホを前提にしなければうまくいかない」という真理が広く理解されていたと思う。
     昔の人は、自分だって、しょっちゅう失敗するのだから、誰だって失敗するさと鷹揚に考え、どんな信じられないミスをしても当然と考えて、こうした設備を作ったものだ。

     それに、昔なら警備員が巡回して手動でロックしたわけだから、そうした失敗は起こりにくかった。だいたい、23時ジャストで自動的にロックアウトされ、どうすることもできなくなるオフィスなんて、ありえなかった。
     人間は、そんなシステムに順応できるほど利口にできていないのである。人を何様と心得ておるのか(怒)

     商品の世界では、「フールセーフ」の思想を念入りに実現しなければ、いまや失敗によって損失がでたとき訴えられてしまう。
     だからストーブや電化製品など危険性の予測される商品には、過剰なほどのフールセーフシステムが設置されていることが多い。
     冒頭に上げたセキュリティシステムも、死者が出て訴訟を起こされたなら、きっと、もっとフールセーフ機能に気を遣うことだろう。
     しかし、現実は、人々が、人間の実態を無視した厳格なセキュリティシステムに追い立てられ、はじき出され、人を振り落としながら勝手に暴走するシステムについて行けなくなっているのだ。

     どうして、これほど非人間的なセキュリティシステムが大手を振って席巻するようになったのか?
     そして、こうしたシステムが、人間の完全な行動を前提にしてしか作動せず、何かの間違いが入り込むと、とたんに、もろくも、全体がマヒしてしまうような、お粗末な設計ばかりに変わってしまったのは、いったいいつ頃からなのか?

     つい最近、以下のような事件が起きた。

     【[ワシントン 3日 ロイター] 米ニューアーク国際空港のターミナルCが3日、セキュリティー上の問題で閉鎖された。同空港はニュージャージー州内に位置するが、ニューヨーク市からも近い。CNNが米運輸保安局(TSA)の話として伝えた。
     それによると、ある男性がセキュリティー検査を受けることなく誤った場所から出発エリアに入ったことが分かったため、ターミナルが閉鎖され、検査済みの乗客も再検査を受けている。 リスボン行きの便への搭乗を待っていたトロント出身の旅行者によると、ターミナル内はセキュリティー検査を待つ2000─3000人の乗客でごった返しているという。 同ターミナルはコンチネンタル航空が使用しているが、CNNによると、現時点ではすべての出発便が止まっている。 】

     【ニューヨーク時事】米ニューヨーク近郊のニューアーク国際空港で3日、不審者情報によりターミナルが一時閉鎖された事件で、警察は8日、監視カメラに写っていた男(28)を不法侵入容疑で逮捕した。 ABCテレビ(電子版)などによると、男はニューアークに近い自宅で拘束された。その際、カメラに写っていたのは自分だと認めたという。 ニューアーク空港の不審者騒ぎは、クリスマスに起きた米機爆破テロ未遂事件の直後で、当初は緊張が走った。しかし、7日に公開されたカメラ映像では、男が空港内の警備の目を盗み規制線を越えて親しい関係にあるとみられる女性搭乗客とキス。そのまま一緒に出発エリアに入り込んだことが分かっていた。】
     
     結局、この「犯人」は中国人の若者で、彼は逮捕され罰金五万円が課せられることになった。
     この事件こそ、アメリカで911事件以降、恐ろしいまでの非人間的セキュリティシステムが強要されるようになった現実を端的に示している。
     責められるべきは勝手に持ち場を離れていた監視保安員のはずだが、なぜか、中国やアメリカでは、「犯人」に対する激しい非難が巻き起こっている。

     社会不安や矛盾を、真正面から原因を探って解決する姿勢ではなく、法律や規則を厳格に定めて、それを破った者を厳罰に処すことで秩序を作ろうとする思想が、911以降、アメリカ・中国・日本などで大手を振るようになった。
     これらの厳罰主義の国に共通するものは「死刑制度」である。個人の間違いを絶対に許容しない。間違えば制裁するという思想であって、人が間違うものだという「人に対する優しさ」が完全に欠落しているのが特徴だ。

     こうした優しくない国家群で、冒頭に述べたような民衆に対する締め付け、規則の苛酷化、厳罰化が急激に拡大している現実を認識しなければいけない。

     いったいなぜ、こうなってしまったのか?

    keibi セキュリティ遭難

     以下は、最近起きた実話である。

     昨年末の木枯らし吹きすさぶ深夜、著名な企業に勤める友人は、連日、4時間以上もの残業で年末決算処理に追われていた。
     この会社のセキュリティシステムでは、労務管理通達により、社員が23時までに帰宅する前提になっており、23時を過ぎるとオフィスに厳重なセキュリティロック・システムが作動するように設計されていた。

     だが、彼に課せられていた期限の迫った仕事は、23時を過ぎても終わりそうもなかった。彼は机の周りに、すべての荷物を置いて、尿意を催してトイレに立った。
     トイレから事務所に戻ったとき、その扉が開かないことに血の気が引いた。ロック解除カードも机の上だ。セキュリティシステムを忘れていた自分の迂闊さを責めたが、時はすでに遅いのだ。

     上着も財布も携帯電話も、車のキーも、家の鍵すらも、すべての荷物が机にある。ロックが解除されるのは、明日の9時以降でしかない。
     今は着の身着のまま、外は寒風吹きすさぶ凍るような冬の街路。
     助けを呼ぼうにも、ビル内には誰も残っていない。保安担当もいない、電話も通じない。監視カメラが録画しているだけで、担当者が駆けつけてくることはない。

     歩いてゆける近くに知人はいない。電話さえできない。寒さから身を守る術さえない。
     「どうしたらいいんだ・・・」
     途方に暮れながら、必死になってポケットを探ると、そこに小銭で250円あった。だが250円で何ができる。終夜営業のレストランに入っても、250円で買えるものなどない。
     「待てよ、250円・・・・」
     そのとき、まだ終電のある電車で250円区間のところに兄が住んでいることを思い出した。寒さをこらえて終電に乗り、兄に救いを求めに向かった。
     
     バス賃もないから、相当に歩きて着いた兄の家に、幸い兄がいた。
     1万円を拝借してタクシーで一人暮らしの郊外の家に帰ったものの、今度は家の鍵もないことを思い出して絶望的な気分に襲われた。田舎の一軒家なので、泥棒避けに頑丈な鍵や防犯ライトなどセキュリティが敷いてあるのだ。
     玄関前で、寒さに震えながら途方に暮れた。そのとき、そういえば新しいテレビアンテナ線を通すために鍵を閉められない小さな出窓があったことを思い出した。
     そこで、必死にその窓をこじ開けて、無我夢中で中に入った。
     ようやくストーブに暖まることができ、命が助かったというところで、この恐ろしい物語は一件落着したわけだ。

     ちなみに、彼はこのロックアウトが実は二回目であった。前回は真夏だったので会社で朝まで待っても凍死することもなく、問題を甘く見ていたのだ。
     だが、もし、これが氷点下の猛吹雪のなかで、ポケットに250円がなかったなら、本当に命の危険に見舞われていたかもしれない。

     これは「セキュリティ遭難」とでも名付けるべき、現代社会における新たな遭難災厄なのである。
     その実態が調査されたなら、驚くべき恐ろしい現実が明らかになるかもしれない。ことによると、交通遭難や山岳遭難に次ぐような一大遭難事案になっているかもしれないのである。

     この例と同じでなくとも、似たような経験をされた方は少なからずいるはずだ。
     筆者も、鍵を持たないまま家のドアを迂闊にロックしてしまい、中に入るのに四苦八苦したことが何度もある。
     鍵を無理矢理こじ開けて壊してしまったこともある。筆者宅は自作の木造バラックでなので破壊も復旧も簡単だが、今の厳重な鋼鉄製ロックシステムは、素人が簡単に突破できるような代物ではないのだ。
     素手で突破侵入できるようなものではない。おまけに、無理に壊せば後でとんでもない復旧費用がかかる。
     深夜、こうしたセキュリティシステムによって、会社にも家にも立ち入れないで彷徨い、カネもなくて、どうすることもできず。ときに凍死してしまうような恐ろしい事件は、どうも決して少なくなさそうだ。

     昔なら、こんなありふれた失敗は問題にもならず、単なる笑い話ですんでしまった。日本中どこでも近所つきあいは濃密で、困ったときは近所の人をたたき起こせば、それで解決できたからだ。
     だが、今は違う。三軒隣のご近所さんの顔も一度も見たことがない人だって珍しくない。コミュニケーションなど存在せず、連帯感を確かめ合う場もない。だから、誰も助けてくれないのだ。

     今後、場合によっては、警察や消防が「セキュリティ遭難救助隊」を結成しなければならないかもしれない。昔なら、ご近所のつきあい、連帯が、こうした、ありふれたミスを簡単に解決したものだ。
     だが、人間疎外の進んだ今では、こうした問題は、役所の仕事になったかもしれないのである。セキュリティに追放された遭難者を助ける避難所が必要になっているのかもしれない。

     家はたくさん建っている。しかし、顔も知らない隣近所の連帯がないのだ。友人だって、毎日数時間の残業を強いられ、帰宅するのは深夜、家では寝るだけで早朝出勤しなければならない。とても町内の分担仕事などやっていられない。
     だから、町内会のゴミ捨て場にゴミを捨てることさえ拒否される事態になっていた。捨てた郵便物から足がついて、「捨てるな」と通告されたのだ。
     ゴミを庭先で燃そうとすれば、たちどころに消防に通報され消防車がサイレンを鳴らして飛んでくる。
    (実は、中津川市蛭川の山奥に住む筆者でさえ、庭で落ち葉を燃していると、近所の別荘に住む夫婦が消防に通報する (>_<) )
     こんな関係のご近所様に、どうして深夜の救援を求められようか?

     筆者らの若い頃を思い出してみると、ご近所の出番を待つまでもなく、こうしたセキュリティシステムを設計運用する上で、「フールセーフ」の考え方が、もっと強く意識されていたように思う。
     人間は、もともと「信じられないほどアホ」なのである。想像もつかないような初歩的な失敗を繰り返すものだ。この真実を、みんないやというほど思い知らされていた。
     だから、「システムというものはアホを前提にしなければうまくいかない」という真理が広く理解されていたと思う。
     昔の人は、自分だって、しょっちゅう失敗するのだから、誰だって失敗するさと鷹揚に考え、どんな信じられないミスをしても当然と考えて、こうした設備を作ったものだ。

     それに、昔なら警備員が巡回して手動でロックしたわけだから、そうした失敗は起こりにくかった。だいたい、23時ジャストで自動的にロックアウトされ、どうすることもできなくなるオフィスなんて、ありえなかった。
     人間は、そんなシステムに順応できるほど利口にできていないのである。人を何様と心得ておるのか(怒)

     商品の世界では、「フールセーフ」の思想を念入りに実現しなければ、いまや失敗によって損失がでたとき訴えられてしまう。
     だからストーブや電化製品など危険性の予測される商品には、過剰なほどのフールセーフシステムが設置されていることが多い。
     冒頭に上げたセキュリティシステムも、死者が出て訴訟を起こされたなら、きっと、もっとフールセーフ機能に気を遣うことだろう。
     しかし、現実は、人々が、人間の実態を無視した厳格なセキュリティシステムに追い立てられ、はじき出され、人を振り落としながら勝手に暴走するシステムについて行けなくなっているのだ。

     どうして、これほど非人間的なセキュリティシステムが大手を振って席巻するようになったのか?
     そして、こうしたシステムが、人間の完全な行動を前提にしてしか作動せず、何かの間違いが入り込むと、とたんに、もろくも、全体がマヒしてしまうような、お粗末な設計ばかりに変わってしまったのは、いったいいつ頃からなのか?

     つい最近、以下のような事件が起きた。

     【[ワシントン 3日 ロイター] 米ニューアーク国際空港のターミナルCが3日、セキュリティー上の問題で閉鎖された。同空港はニュージャージー州内に位置するが、ニューヨーク市からも近い。CNNが米運輸保安局(TSA)の話として伝えた。
     それによると、ある男性がセキュリティー検査を受けることなく誤った場所から出発エリアに入ったことが分かったため、ターミナルが閉鎖され、検査済みの乗客も再検査を受けている。 リスボン行きの便への搭乗を待っていたトロント出身の旅行者によると、ターミナル内はセキュリティー検査を待つ2000─3000人の乗客でごった返しているという。 同ターミナルはコンチネンタル航空が使用しているが、CNNによると、現時点ではすべての出発便が止まっている。 】

     【ニューヨーク時事】米ニューヨーク近郊のニューアーク国際空港で3日、不審者情報によりターミナルが一時閉鎖された事件で、警察は8日、監視カメラに写っていた男(28)を不法侵入容疑で逮捕した。 ABCテレビ(電子版)などによると、男はニューアークに近い自宅で拘束された。その際、カメラに写っていたのは自分だと認めたという。 ニューアーク空港の不審者騒ぎは、クリスマスに起きた米機爆破テロ未遂事件の直後で、当初は緊張が走った。しかし、7日に公開されたカメラ映像では、男が空港内の警備の目を盗み規制線を越えて親しい関係にあるとみられる女性搭乗客とキス。そのまま一緒に出発エリアに入り込んだことが分かっていた。】
     
     結局、この「犯人」は中国人の若者で、彼は逮捕され罰金五万円が課せられることになった。
     この事件こそ、アメリカで911事件以降、恐ろしいまでの非人間的セキュリティシステムが強要されるようになった現実を端的に示している。
     責められるべきは勝手に持ち場を離れていた監視保安員のはずだが、なぜか、中国やアメリカでは、「犯人」に対する激しい非難が巻き起こっている。

     社会不安や矛盾を、真正面から原因を探って解決する姿勢ではなく、法律や規則を厳格に定めて、それを破った者を厳罰に処すことで秩序を作ろうとする思想が、911以降、アメリカ・中国・日本などで大手を振るようになった。
     これらの厳罰主義の国に共通するものは「死刑制度」である。個人の間違いを絶対に許容しない。間違えば制裁するという思想であって、人が間違うものだという「人に対する優しさ」が完全に欠落しているのが特徴だ。

     こうした優しくない国家群で、冒頭に述べたような民衆に対する締め付け、規則の苛酷化、厳罰化が急激に拡大している現実を認識しなければいけない。

     いったいなぜ、こうなってしまったのか?


     セキュリティ遭難

     以下は、最近起きた実話である。

     昨年末の木枯らし吹きすさぶ深夜、著名な企業に勤める友人は、連日、4時間以上もの残業で年末決算処理に追われていた。
     この会社のセキュリティシステムでは、労務管理通達により、社員が23時までに帰宅する前提になっており、23時を過ぎるとオフィスに厳重なセキュリティロック・システムが作動するように設計されていた。

     だが、彼に課せられていた期限の迫った仕事は、23時を過ぎても終わりそうもなかった。彼は机の周りに、すべての荷物を置いて、尿意を催してトイレに立った。
     トイレから事務所に戻ったとき、その扉が開かないことに血の気が引いた。ロック解除カードも机の上だ。セキュリティシステムを忘れていた自分の迂闊さを責めたが、時はすでに遅いのだ。

     上着も財布も携帯電話も、車のキーも、家の鍵すらも、すべての荷物が机にある。ロックが解除されるのは、明日の9時以降でしかない。
     今は着の身着のまま、外は寒風吹きすさぶ凍るような冬の街路。
     助けを呼ぼうにも、ビル内には誰も残っていない。保安担当もいない、電話も通じない。監視カメラが録画しているだけで、担当者が駆けつけてくることはない。

     歩いてゆける近くに知人はいない。電話さえできない。寒さから身を守る術さえない。
     「どうしたらいいんだ・・・」
     途方に暮れながら、必死になってポケットを探ると、そこに小銭で250円あった。だが250円で何ができる。終夜営業のレストランに入っても、250円で買えるものなどない。
     「待てよ、250円・・・・」
     そのとき、まだ終電のある電車で250円区間のところに兄が住んでいることを思い出した。寒さをこらえて終電に乗り、兄に救いを求めに向かった。
     
     バス賃もないから、相当に歩きて着いた兄の家に、幸い兄がいた。
     1万円を拝借してタクシーで一人暮らしの郊外の家に帰ったものの、今度は家の鍵もないことを思い出して絶望的な気分に襲われた。田舎の一軒家なので、泥棒避けに頑丈な鍵や防犯ライトなどセキュリティが敷いてあるのだ。
     玄関前で、寒さに震えながら途方に暮れた。そのとき、そういえば新しいテレビアンテナ線を通すために鍵を閉められない小さな出窓があったことを思い出した。
     そこで、必死にその窓をこじ開けて、無我夢中で中に入った。
     ようやくストーブに暖まることができ、命が助かったというところで、この恐ろしい物語は一件落着したわけだ。

     ちなみに、彼はこのロックアウトが実は二回目であった。前回は真夏だったので会社で朝まで待っても凍死することもなく、問題を甘く見ていたのだ。
     だが、もし、これが氷点下の猛吹雪のなかで、ポケットに250円がなかったなら、本当に命の危険に見舞われていたかもしれない。

     これは「セキュリティ遭難」とでも名付けるべき、現代社会における新たな遭難災厄なのである。
     その実態が調査されたなら、驚くべき恐ろしい現実が明らかになるかもしれない。ことによると、交通遭難や山岳遭難に次ぐような一大遭難事案になっているかもしれないのである。

     この例と同じでなくとも、似たような経験をされた方は少なからずいるはずだ。
     筆者も、鍵を持たないまま家のドアを迂闊にロックしてしまい、中に入るのに四苦八苦したことが何度もある。
     鍵を無理矢理こじ開けて壊してしまったこともある。筆者宅は自作の木造バラックでなので破壊も復旧も簡単だが、今の厳重な鋼鉄製ロックシステムは、素人が簡単に突破できるような代物ではないのだ。
     素手で突破侵入できるようなものではない。おまけに、無理に壊せば後でとんでもない復旧費用がかかる。
     深夜、こうしたセキュリティシステムによって、会社にも家にも立ち入れないで彷徨い、カネもなくて、どうすることもできず。ときに凍死してしまうような恐ろしい事件は、どうも決して少なくなさそうだ。

     昔なら、こんなありふれた失敗は問題にもならず、単なる笑い話ですんでしまった。日本中どこでも近所つきあいは濃密で、困ったときは近所の人をたたき起こせば、それで解決できたからだ。
     だが、今は違う。三軒隣のご近所さんの顔も一度も見たことがない人だって珍しくない。コミュニケーションなど存在せず、連帯感を確かめ合う場もない。だから、誰も助けてくれないのだ。

     今後、場合によっては、警察や消防が「セキュリティ遭難救助隊」を結成しなければならないかもしれない。昔なら、ご近所のつきあい、連帯が、こうした、ありふれたミスを簡単に解決したものだ。
     だが、人間疎外の進んだ今では、こうした問題は、役所の仕事になったかもしれないのである。セキュリティに追放された遭難者を助ける避難所が必要になっているのかもしれない。

     家はたくさん建っている。しかし、顔も知らない隣近所の連帯がないのだ。友人だって、毎日数時間の残業を強いられ、帰宅するのは深夜、家では寝るだけで早朝出勤しなければならない。とても町内の分担仕事などやっていられない。
     だから、町内会のゴミ捨て場にゴミを捨てることさえ拒否される事態になっていた。捨てた郵便物から足がついて、「捨てるな」と通告されたのだ。
     ゴミを庭先で燃そうとすれば、たちどころに消防に通報され消防車がサイレンを鳴らして飛んでくる。
    (実は、中津川市蛭川の山奥に住む筆者でさえ、庭で落ち葉を燃していると、近所の別荘に住む夫婦が消防に通報する (>_<) )
     こんな関係のご近所様に、どうして深夜の救援を求められようか?

     筆者らの若い頃を思い出してみると、ご近所の出番を待つまでもなく、こうしたセキュリティシステムを設計運用する上で、「フールセーフ」の考え方が、もっと強く意識されていたように思う。
     人間は、もともと「信じられないほどアホ」なのである。想像もつかないような初歩的な失敗を繰り返すものだ。この真実を、みんないやというほど思い知らされていた。
     だから、「システムというものはアホを前提にしなければうまくいかない」という真理が広く理解されていたと思う。
     昔の人は、自分だって、しょっちゅう失敗するのだから、誰だって失敗するさと鷹揚に考え、どんな信じられないミスをしても当然と考えて、こうした設備を作ったものだ。

     それに、昔なら警備員が巡回して手動でロックしたわけだから、そうした失敗は起こりにくかった。だいたい、23時ジャストで自動的にロックアウトされ、どうすることもできなくなるオフィスなんて、ありえなかった。
     人間は、そんなシステムに順応できるほど利口にできていないのである。人を何様と心得ておるのか(怒)

     商品の世界では、「フールセーフ」の思想を念入りに実現しなければ、いまや失敗によって損失がでたとき訴えられてしまう。
     だからストーブや電化製品など危険性の予測される商品には、過剰なほどのフールセーフシステムが設置されていることが多い。
     冒頭に上げたセキュリティシステムも、死者が出て訴訟を起こされたなら、きっと、もっとフールセーフ機能に気を遣うことだろう。
     しかし、現実は、人々が、人間の実態を無視した厳格なセキュリティシステムに追い立てられ、はじき出され、人を振り落としながら勝手に暴走するシステムについて行けなくなっているのだ。

     どうして、これほど非人間的なセキュリティシステムが大手を振って席巻するようになったのか?
     そして、こうしたシステムが、人間の完全な行動を前提にしてしか作動せず、何かの間違いが入り込むと、とたんに、もろくも、全体がマヒしてしまうような、お粗末な設計ばかりに変わってしまったのは、いったいいつ頃からなのか?

     つい最近、以下のような事件が起きた。

     【[ワシントン 3日 ロイター] 米ニューアーク国際空港のターミナルCが3日、セキュリティー上の問題で閉鎖された。同空港はニュージャージー州内に位置するが、ニューヨーク市からも近い。CNNが米運輸保安局(TSA)の話として伝えた。
     それによると、ある男性がセキュリティー検査を受けることなく誤った場所から出発エリアに入ったことが分かったため、ターミナルが閉鎖され、検査済みの乗客も再検査を受けている。 リスボン行きの便への搭乗を待っていたトロント出身の旅行者によると、ターミナル内はセキュリティー検査を待つ2000─3000人の乗客でごった返しているという。 同ターミナルはコンチネンタル航空が使用しているが、CNNによると、現時点ではすべての出発便が止まっている。 】

     【ニューヨーク時事】米ニューヨーク近郊のニューアーク国際空港で3日、不審者情報によりターミナルが一時閉鎖された事件で、警察は8日、監視カメラに写っていた男(28)を不法侵入容疑で逮捕した。 ABCテレビ(電子版)などによると、男はニューアークに近い自宅で拘束された。その際、カメラに写っていたのは自分だと認めたという。 ニューアーク空港の不審者騒ぎは、クリスマスに起きた米機爆破テロ未遂事件の直後で、当初は緊張が走った。しかし、7日に公開されたカメラ映像では、男が空港内の警備の目を盗み規制線を越えて親しい関係にあるとみられる女性搭乗客とキス。そのまま一緒に出発エリアに入り込んだことが分かっていた。】
     
     結局、この「犯人」は中国人の若者で、彼は逮捕され罰金五万円が課せられることになった。
     この事件こそ、アメリカで911事件以降、恐ろしいまでの非人間的セキュリティシステムが強要されるようになった現実を端的に示している。
     責められるべきは勝手に持ち場を離れていた監視保安員のはずだが、なぜか、中国やアメリカでは、「犯人」に対する激しい非難が巻き起こっている。

     社会不安や矛盾を、真正面から原因を探って解決する姿勢ではなく、法律や規則を厳格に定めて、それを破った者を厳罰に処すことで秩序を作ろうとする思想が、911以降、アメリカ・中国・日本などで大手を振るようになった。
     これらの厳罰主義の国に共通するものは「死刑制度」である。個人の間違いを絶対に許容しない。間違えば制裁するという思想であって、人が間違うものだという「人に対する優しさ」が完全に欠落しているのが特徴だ。

     こうした優しくない国家群で、冒頭に述べたような民衆に対する締め付け、規則の苛酷化、厳罰化が急激に拡大している現実を認識しなければいけない。

     いったいなぜ、こうなってしまったのか?


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