● 司法苛酷化、倫理的束縛・拘束の苛酷化が人間疎外の体制を支え、大衆の「ブリッコ・イイカッコシイ」が司法を支える

     【旅館として届け出ていながら、実態はラブホテルとして経営していたとして、兵庫県警生活環境課などは23日、風営法違反の疑いでホテル業「ブレイントレジャー」(大阪市旭区)社長、矢部嘉宏容疑者(42)を逮捕した。 同課によると、偽装ラブホテル経営者の逮捕は異例。同課は矢部容疑者がホテル経営者らでつくる業界団体の代表を務めていたにもかかわらず、偽装ラブホテルを経営したことが悪質と判断、逮捕に踏み切った。 矢部容疑者は20年10〜11月、県条例で営業が禁止されている神戸市垂水区の住宅地で、旅館と届けながら事実上のラブホテル「レッドスノーマンズ」を営業したとされる。容疑を認めている。】

     【ビジネスホテルなどとして実態を偽った“偽装ラブホテル”は後を絶たない。背景には、昭和59年の風営法改正で、ラブホテルが規制対象となったため、開業には都道府県公安委員会への届け出が必要となり、商業地域以外や学校、病院の半径200メートル以内などで営業できなくなったことがある。警察庁によると、平成18年末現在、全国でラブホテルやモーテル営業の届け出は4167件。風営法上の届け出がされない“偽装ラブホテル”の実態把握は難しく、大半は摘発を逃れているとみられている。】

     セックス産業や猥褻・セクハラを悪質犯罪とみなし、厳罰を与え弾圧する傾向が著しさを増している。かつて筆者も、たびたびお世話になったラブホテルは、今では都市周辺で事実上、新規出店が不可能に近くなっている。一般ホテルとラブホの厳密な区分など、あろうはずがなく、ラブホがなければ恋人たちは一般ホテルを利用するしかないわけだ。やることは同じだし、設備だって基本は変わるものではないわけだが、若者たちはコストパフォーマンスの高い快適なラブホを求めている。
     しかし、その境界線で営業を狙う経営者たちは、毎日、戦々恐々として司法の弾圧に怯えねばならなくなっているのが実情だ。

     ラブホの営業の、どこが犯罪なのか? 若者たち(中年・老年も)ラブホでエッチするのが犯罪なのか?
     「子供の教育に悪い」 とやらの、まことに胸くその悪い屁理屈だって、そういうことを「イイカッッコして」言うヤツに限って、こっそり変装して、不倫ラブに夢中になっている現実をみんな知っているはずだ。エッチのどこが、子供の教育に悪いんだ? 子供の教育とは何だ?

     エラそうに、高邁そうな屁理屈ばかり宣う連中は、子供たちに親の見栄を背負わせる受験競争だけを押しつけ、子供同士の人間関係を育てる遊びを奪い、自由な好奇心を屁理屈で抑えつけ、子供には、こんな人生がふさわしいと金儲けしか考えられない資本主義の家畜マシンに育てることだけが正義と信じているのだ。
     エッチが悪いとか、子供のうちからエッチを知るのはよくないだとか、臆病で勝手な思いこみが、どれほど子供たちの性教育を逆効果にし、性犯罪を招いているのか分かっているのか? 分からないから、とんでもない勘違いをしているのだ。
     子供たちを勝手に矮小な枠にはめ込むな! 子供たちが欲しているのは、そして本当に必要なものは真実だけだ! そして、人生に関するあらゆる情報の全体像なのだ。

     「不倫をした女性を投石で殺害せよと命令する旧約聖書」のように、厳格な倫理の屁理屈で人を束縛し、支配しようとする者がいる。子供たちに真実を教えず、知らせようともしない者、支配、家畜化に都合の良い情報だけしか教えない者、「愛国心」などという腐敗した欺瞞を洗脳しようとする者、これこそ真の倫理犯罪ではないのか!

     子供たちに本当に必要な情報は何か?
     それは人間の生活のすべてだ! どしたら子供ができるのか? どうしたら育つのか? どうしたら学べるのか? 何が正しい思考判断なのか? 人はか弱く生まれ、強く育ち、生き生きと生き抜いて、エッチして子供を作り、やがて衰え、そして老いて、朽ちて死んでゆく。このすべてが人生なのであって、見せかけのキレイゴトしか教えない競争と金儲け、奴隷的服従を教えるだけの教育が真実の教育だとでもいうつもりか?
     子供たちには教えて困るものなど存在しない! 子供の作り方、エッチの仕方、そして老いること、死ぬこともすべて実際に身近な体験を通じて教えなければいけない。

     教えることで、「小学生が性交したら、どうする?」などと余計な心配をする者も出てくるだろうが、それはセックスを秘め事、享楽の対象としてしか見ない大人の抑圧されゆがんだ性欲によって変形した思考であって、科学として、包み隠さずにすべてを教えるなら、中学生までの性交が有害であり、現実の社会情勢のなかで子供ができてしまうことが、どれほど苛酷な結果を招くかをきちんと教えるなら、それは傷害殺人をしてはいけないと子供が素直に認識するように、簡単に手を出すことなどないと思うべきだ。

     こうして、人生のすべてを包み隠さず教え、大人たちがエッチを楽しむ場として、今の社会環境のなかでは、どうしてもラブホが必要不可欠であると正々堂々と認識できるなら、どうしてラブホを犯罪視する必要があろうか?
     冒頭の記事で、警察がやっていることは、まさしく17世紀にヨーロッパで起きた魔女裁判による数百万人の虐殺と同じ理不尽きわまりない愚かな行為であることが理解できるはずだ。ラブホの何が悪い? 子供たちに大人たちのエッチが必要であることを教えよ! 若者たちよ、こそこそと隠れながら行く必要などない、正々堂々とラブホに向かえ! 何一つ悪いことなどない。エッチは素晴らしいことだ、十分に楽しんでこい!

     一番大切なことは、「自分にウソをつかない」ということだ。性教育が悪いなどと勘違いしている大人たちは、みんな救いのない偽善者であり統一教会の洗脳信者のようなものである。今、我々の日常的で自然な自由を弾圧・抑圧しようとしている者たちは、すべて旧約聖書カルト(イルミナティ・フリーメーソン)であり、統一教会の回し者なのだ。ラブホ規制などと馬鹿げた弾圧を強要する者たちは、警察や検察に巣くった統一狂会、反共カルト集団なのだ。
     我々に必要なものは魔女裁判ではない。自由とウソのない真実だけだ。セックスは隠すものでも恥じるものでもない。これが分からない者は、とっととこの世から去れ! みんなの楽しい人生を邪魔するだけの厄介者でしかない。


    ● 筆者は、袴と呼ばれるズボンが、1500年ほど前に百済王国が国ぐるみで日本列島に移住してきたときに乗馬文化とともに持ち込まれたものだと指摘してきた。
     僧・雲水の常用着は作務衣で、これもズボンだ。この原型が武人埴輪などでズボンとして表現されていることもある。これらの起源は、すべて乗馬の必要から生じたもので、長時間乗馬するときに、馬腹のこすれから内股を守るためのものであった。同時に鐙や沓が成立したことも見ておく必要がある。ミズラ結いでさえ、乗馬による髪乱れ対策として成立したものだろう。
     こうして、ズボン・鐙・沓、そして乗馬戦闘のスタイルから槍や直剣が用いられたわけだが、これらは、すべて朝鮮半島経由で日本列島に馬が持ち込まれた3世紀以降のものであることを知っておかねばならない。それ以前では、ズボン・ブーツなどの文化など日本列島には存在しなかった。

     2500年前に有明海に上陸した呉国人たち、すなわち弥生人は、持ち込んだ稲作農作生活文化にあって、湿地帯・水田における農作業に適した裾紮げのできる呉服(和服→着物)を着用したのであって、古代人を一元化して、弥生遺跡にズボンをはいてミズラを結った古代人が農耕しているような描写は、とんでもない間違いだと指摘してきた。馬に跨るのでなければ、どうして複雑な縫製技術を必要とするズボンなど必要があろうか。

     それほどまでに、百済王国が日本列島に持ち込んだものは、この国の文化、生活様式を根底から変えるものだった。それ以前の弥生人たちは基本的に被搾取、奴隷的立場の農耕民となり、呉服以外を着ることはなかった。しかし、百済の民は乗馬し、強力な武器を用い、弥生人たちを武力で圧倒し日本列島を制圧したのだ。
     だから百済人たちの末裔は、すべて袴というズボンをはく武家階級になった。そして、天皇を作った秦氏は、若狭に上陸し、継体とともに近畿にやってきた扶余・百済の民である。作務衣を着る僧たちもまた百済人の末裔であり、武士・僧・天皇の特権階級は、すべて百済王国から持ち込まれたものであり、まだ穢多・非人の被差別階層までも百済由来である。日本という地名でさえ、朝鮮任那の日本府からとられて日本列島に対してつけられたものだ。秦氏たちが日本と名付けるまで、この地は倭であった。

     若狭に上陸した秦氏たち渡来人(百済王国人)は、琵琶湖東岸に住み着き、次に大津から京都の湿地帯を埋めて京都の街を成立させた。
     そうして大和地方に足を伸ばし、天皇支配を構築したのだ。だから、天皇家は日本生まれではなく、朝鮮、百済王朝の末裔である。いわば、彼等の正体は朝鮮人と断じてもよい。
     その証拠は、若狭〜大津〜京都の人たちの民族的特徴が、女真族・扶余族・朝鮮族と完全に一致することであり、ツングース顔貌、細長い切れ長の目、乾燥した耳垢、強力な蒙古斑、スラリとした体躯、長頭型頭蓋、A型優位血液型など、ちょうど浅田真央とキムヨナをイメージすればよいし、平成天皇もまた完全な百済顔貌と言えよう。
     日本の優れた芸能人・スポーツ選手の多くが朝鮮人末裔であることは、彼等の能力がいかに高いかを物語っている。

     彼等は、聖徳太子以来、日本の支配階級を独占し続けているといってよいだろう。彼等は着物の民族ではない。神道を奉じる(古代神道は仏教と習合していた)ズボンと沓の民族なのだ。水田農耕の人ではなく、畑作と乗馬の人なのだ。そして強力な軍事戦闘能力を持ち、あらゆる反対者を駆逐し、日本列島の支配者として君臨し続けてきたのだ。
     秦氏は、大和朝廷を独占制圧し、源平藤橘に代表される武家階級となり、政権の対立者たちは関東に向かい板東武者となった。関東周辺は秦氏の開拓した土地である。すなわち、関東は百済王朝の末裔の土地である。天皇が京都から東京に転じた理由も、そこにあった。百済の地は滋賀県・京都府以外では関東周辺なのだ。

     以来、1500年にわたって、百済の末裔が日本列島の支配者となった。中国、呉の人たち(弥生人)や先住民、縄文人たちは政権から遠ざけられ、被搾取農民としての地位以外与えられていない。その事情は、たった今、現代にあっても同じことで、長州(百済植民地)官僚の子孫が自民党中枢にいて政権を独占し続けてきた。明治天皇にすり替わった大室寅之祐の出身地、田布施町から伊藤博文以来、岸・佐藤・橋本・安倍などが出ている事情を推察すればよい。
     弥生人や縄文人の末裔が政権を得ることなどありえないのだ。この意味で、小沢が首相になることはできない。日本のエスタブリッシュメントは、すべて百済由来でなければならず、他の人々が特権階級に躍り出ることがあっても、ただちに陰謀に陥れられ、抹殺する仕組みになっているのだ。そうしたシステムは、トーマス・グラバーが持ち込んだフリーメーソンによって作り出された。

     この日本は、朝鮮人の支配する王国であり続けている。戦前、朝鮮侵略併合を意図した陸軍統制派でさえ、朝鮮人を三国民と蔑視しながら、自分たち自身が実は朝鮮人の末裔に他ならなかった。大東亜共栄圏を標榜し、五族共和を掲げた中心の北斗、天皇家そのものが、実は朝鮮王朝の末裔に他ならなかった。それは、まさしく日本列島を朝鮮民族支配下に置くものであったのだ。
     そうした傲慢な侵略を意図した彼等が、自らの出自を知らずに朝鮮人を蔑視しようとしたのは、実に滑稽な喜劇であった。そして、今また、同じ喜劇を飽きもせずに演じようとする人たちが出現している。

     カルデロン一家を不法滞在と決めつけ、人情を無視して日本から実力で追いだせと主張する人々、外国の貧しい労働力を禿鷹のように利用し、都合が悪くなるとゴミのようにポイ捨てする企業、役人たち。日本の特権階級は、貧しい外国移民を骨髄まで利用して金儲けに邁進してきた。そうしておいて、少し都合の悪い事情が生じると、叩き出そうというのか? 貧しい家族の不幸な嘆きに同情することもできないで、「不法移民だから叩き出せ」と主張するクズどもが、当掲示板にすら出没するようになった。 朝鮮だろうが、ブラジルだろうが、みんな我々と同じ人間であって、同じ人情で生きているということが理解もできないクズどもだ。筆者は、こんな馬鹿野郎どもを許すことができない。

     朝鮮人を蔑視するならば、まずは天皇家と日本支配階級を追放しなければならないことが理解できないほど無知な連中なのだ。日本という国も民族も、実はわずか千年・二千年前に朝鮮・中国などから移住してきた人たちによって成立したものであり、これからも、どんどん入れ替わり、ただ、この地に住む人々を日本というだけの本質だと理解できない愚か者たちなのだ。

     人間に人種の差などない。そこにあるのは大地と人間の営みだけだ。 この社会に必要なものは愛国心などという屁理屈や妄想ではない、大地と人を愛する人情だけだ! 人情なき者は失せろ!


    ● 筆者は、袴と呼ばれるズボンが、1500年ほど前に百済王国が国ぐるみで日本列島に移住してきたときに乗馬文化とともに持ち込まれたものだと指摘してきた。
     僧・雲水の常用着は作務衣で、これもズボンだ。この原型が武人埴輪などでズボンとして表現されていることもある。これらの起源は、すべて乗馬の必要から生じたもので、長時間乗馬するときに、馬腹のこすれから内股を守るためのものであった。同時に鐙や沓が成立したことも見ておく必要がある。ミズラ結いでさえ、乗馬による髪乱れ対策として成立したものだろう。
     こうして、ズボン・鐙・沓、そして乗馬戦闘のスタイルから槍や直剣が用いられたわけだが、これらは、すべて朝鮮半島経由で日本列島に馬が持ち込まれた3世紀以降のものであることを知っておかねばならない。それ以前では、ズボン・ブーツなどの文化など日本列島には存在しなかった。

     2500年前に有明海に上陸した呉国人たち、すなわち弥生人は、持ち込んだ稲作農作生活文化にあって、湿地帯・水田における農作業に適した裾紮げのできる呉服(和服→着物)を着用したのであって、古代人を一元化して、弥生遺跡にズボンをはいてミズラを結った古代人が農耕しているような描写は、とんでもない間違いだと指摘してきた。馬に跨るのでなければ、どうして複雑な縫製技術を必要とするズボンなど必要があろうか。

     それほどまでに、百済王国が日本列島に持ち込んだものは、この国の文化、生活様式を根底から変えるものだった。それ以前の弥生人たちは基本的に被搾取、奴隷的立場の農耕民となり、呉服以外を着ることはなかった。しかし、百済の民は乗馬し、強力な武器を用い、弥生人たちを武力で圧倒し日本列島を制圧したのだ。
     だから百済人たちの末裔は、すべて袴というズボンをはく武家階級になった。そして、天皇を作った秦氏は、若狭に上陸し、継体とともに近畿にやってきた扶余・百済の民である。作務衣を着る僧たちもまた百済人の末裔であり、武士・僧・天皇の特権階級は、すべて百済王国から持ち込まれたものであり、まだ穢多・非人の被差別階層までも百済由来である。日本という地名でさえ、朝鮮任那の日本府からとられて日本列島に対してつけられたものだ。秦氏たちが日本と名付けるまで、この地は倭であった。

     若狭に上陸した秦氏たち渡来人(百済王国人)は、琵琶湖東岸に住み着き、次に大津から京都の湿地帯を埋めて京都の街を成立させた。
     そうして大和地方に足を伸ばし、天皇支配を構築したのだ。だから、天皇家は日本生まれではなく、朝鮮、百済王朝の末裔である。いわば、彼等の正体は朝鮮人と断じてもよい。
     その証拠は、若狭〜大津〜京都の人たちの民族的特徴が、女真族・扶余族・朝鮮族と完全に一致することであり、ツングース顔貌、細長い切れ長の目、乾燥した耳垢、強力な蒙古斑、スラリとした体躯、長頭型頭蓋、A型優位血液型など、ちょうど浅田真央とキムヨナをイメージすればよいし、平成天皇もまた完全な百済顔貌と言えよう。
     日本の優れた芸能人・スポーツ選手の多くが朝鮮人末裔であることは、彼等の能力がいかに高いかを物語っている。

     彼等は、聖徳太子以来、日本の支配階級を独占し続けているといってよいだろう。彼等は着物の民族ではない。神道を奉じる(古代神道は仏教と習合していた)ズボンと沓の民族なのだ。水田農耕の人ではなく、畑作と乗馬の人なのだ。そして強力な軍事戦闘能力を持ち、あらゆる反対者を駆逐し、日本列島の支配者として君臨し続けてきたのだ。
     秦氏は、大和朝廷を独占制圧し、源平藤橘に代表される武家階級となり、政権の対立者たちは関東に向かい板東武者となった。関東周辺は秦氏の開拓した土地である。すなわち、関東は百済王朝の末裔の土地である。天皇が京都から東京に転じた理由も、そこにあった。百済の地は滋賀県・京都府以外では関東周辺なのだ。

     以来、1500年にわたって、百済の末裔が日本列島の支配者となった。中国、呉の人たち(弥生人)や先住民、縄文人たちは政権から遠ざけられ、被搾取農民としての地位以外与えられていない。その事情は、たった今、現代にあっても同じことで、長州(百済植民地)官僚の子孫が自民党中枢にいて政権を独占し続けてきた。明治天皇にすり替わった大室寅之祐の出身地、田布施町から伊藤博文以来、岸・佐藤・橋本・安倍などが出ている事情を推察すればよい。
     弥生人や縄文人の末裔が政権を得ることなどありえないのだ。この意味で、小沢が首相になることはできない。日本のエスタブリッシュメントは、すべて百済由来でなければならず、他の人々が特権階級に躍り出ることがあっても、ただちに陰謀に陥れられ、抹殺する仕組みになっているのだ。そうしたシステムは、トーマス・グラバーが持ち込んだフリーメーソンによって作り出された。

     この日本は、朝鮮人の支配する王国であり続けている。戦前、朝鮮侵略併合を意図した陸軍統制派でさえ、朝鮮人を三国民と蔑視しながら、自分たち自身が実は朝鮮人の末裔に他ならなかった。大東亜共栄圏を標榜し、五族共和を掲げた中心の北斗、天皇家そのものが、実は朝鮮王朝の末裔に他ならなかった。それは、まさしく日本列島を朝鮮民族支配下に置くものであったのだ。
     そうした傲慢な侵略を意図した彼等が、自らの出自を知らずに朝鮮人を蔑視しようとしたのは、実に滑稽な喜劇であった。そして、今また、同じ喜劇を飽きもせずに演じようとする人たちが出現している。

     カルデロン一家を不法滞在と決めつけ、人情を無視して日本から実力で追いだせと主張する人々、外国の貧しい労働力を禿鷹のように利用し、都合が悪くなるとゴミのようにポイ捨てする企業、役人たち。日本の特権階級は、貧しい外国移民を骨髄まで利用して金儲けに邁進してきた。そうしておいて、少し都合の悪い事情が生じると、叩き出そうというのか? 貧しい家族の不幸な嘆きに同情することもできないで、「不法移民だから叩き出せ」と主張するクズどもが、当掲示板にすら出没するようになった。 朝鮮だろうが、ブラジルだろうが、みんな我々と同じ人間であって、同じ人情で生きているということが理解もできないクズどもだ。筆者は、こんな馬鹿野郎どもを許すことができない。

     朝鮮人を蔑視するならば、まずは天皇家と日本支配階級を追放しなければならないことが理解できないほど無知な連中なのだ。日本という国も民族も、実はわずか千年・二千年前に朝鮮・中国などから移住してきた人たちによって成立したものであり、これからも、どんどん入れ替わり、ただ、この地に住む人々を日本というだけの本質だと理解できない愚か者たちなのだ。

     人間に人種の差などない。そこにあるのは大地と人間の営みだけだ。 この社会に必要なものは愛国心などという屁理屈や妄想ではない、大地と人を愛する人情だけだ! 人情なき者は失せろ!


    ● 順序の論理

     筆者の住んでいる家は、5年前に自分一人で作ったログバラックだ。加工されたログキットを買ってきて、組み立てたわけだが、土地を整地し、トランシットで測量して厳密な水平を出し、沈まないように固めて、ブロックを置き、鉄パイプで高い基礎を作り、コンパネを置いて、その上でキットを組み立てて家にした。

     当初は、とてもうまく作ったつもりでいたが、5年も経つと、いろいろ不都合が出て、思慮不足のドジを思い知らされることが次々に出てくる。例えば木材の乾燥による収縮で隙間が増えて、厳冬の強風の夜はとても寒い。基礎コンパネの防虫塗料をケチったために、アメリカ乾材シロアリに入られてボロボロになった。最大のドジは、根太・大引の支えとなる鋼束を入れ損なって(金具を過信して不要と判断した)端受金具が持ちこたえられずに床全体が沈降していることだ。
     これらのドジは、ほとんど取り返しのつかないものだ。基礎コンパネの虫害を防ごうと思っても、床を剥がすことなどできないし、同じく鋼束を入れ直すこともできない。結局、下からコンパネを切り取って後から補修するしかないが、床下全体を青酸ガスで燻蒸しない限り乾材シロアリを駆除することは絶望的だし、下からの床受け材補修は相当にに困難だ。
     その他にも、断熱や日照、雨漏りなど、「これはマズイ」とアタマを抱え込むような失敗がいくつかある。果たして何年持ってくれることやら・・・・・。

     要するに、家には、後からでも簡単に直せる問題と、最初から順序をキチンと守って、確実にこなさなければいけない問題がある。これは、家に限らず、社会全体、人生全体に共通するものであって、世の中と人生には、後から直せる問題と、最初から順序を守って作らねばならない問題がある。ときに順序というのは絶対的に大切なのだ。
     基礎をきちんとしないで、まともな家が建つはずもない。まずは水平を厳密に出し、沈降したりガタガタにならないよう十分に整備しなければいけない。それから十分な強度の基礎を作り、床を作り、壁を作り、屋根を作る順番が大切なのであって、こうした「順序の論理」というものが、社会にも人生にも、みんなが思っている何十倍も大切であることを知っておかねばならない。

     「順序の論理」ということを考えてみたい。人生も家と同じように、大切なもの、守るべきものの順序を認識することが必要なのだ。
     我々が守るべきものの第一は何か? まずは自分の命、と思う人が多いだろうが、その自分の命を支えてくれているものこそ本当に大切な、最初に守らねばならないものだ。
     例えば、年間三万人以上、これからは、その数十倍も出ることが予想される自殺者は、なんで自分で命を断つのか?
     生きる希望、喜びを見失い、これから起きるであろう苦痛の凄まじさに圧倒されて、死んでしまった方が楽だと思って自ら命を断つわけだ。ということは、今、自分が生きている上で、生きてゆく意欲を支えてくれている、苦痛のない、希望のある環境というものが、実は自分の命よりも上位に来る大切なものであることを意味している。
     これは、いわば人生の基礎構造になるわけで、人間が人生を生き抜こうとするからには、順番の最初に、人生を苦痛の少ないものにし、希望を持てる環境を準備しなければいけないわけだ。

     「人が最初に、一番大切に守らなければいけないもの」 人生の基礎、これが「未来に希望の見える環境」ということだ。
     そうして、自分の人生を支え、未来に希望を与えてくれるものは何か? それは、まずは自分を人として扱ってくれて愛情を注いでくれる家族であり友人だろう。ときに、それは依存する会社や団体などの組織であったりもするが、それらは組織の都合によって組織員を平気で切り捨てることが普通なので、まず、人生を支えてくれるほどの所属組織に巡り合うことも難しいものだ。だいたいにおいて、何のウソも必要としない身内、友人というのが常識だろう。
     人生を支えるものが国家や会社だと信じている人も珍しいだろう。「天皇のおかげで生きている」 「神様のおかげで生きている」というあたりになると、もはや洗脳の領域だ。

     まあ、自分にも他人にもウソをつかずに素直に生きてきた人ならば、自分を支えてくれるものとは、家族や友人の人間関係というあたりが普通だろうと思う。となると、人生にとって一番大切なものこそ、そうした人間関係、人情のやりとりであることが分かるはずだ。
     国家も会社も、人情など相手にしてくれない。ヤツラは金儲けと権力維持のために人情を踏みにじることしかしないのだ。生活に追い詰められたときに、最期まで国家の秩序と法律の殉じて死んでゆける人も珍しいだろうし、家畜として洗脳されたタダのアホというしかない。今夜のメシが食えない、明日のメシの見通しもないとなれば、ほとんどの人にとって法や秩序など何の意味ももたない。ただ空腹を満たすために行動するのであり、悪事への躊躇の強い人は、心の許せる人に甘え、人情にすがり、それでもダメなら友と不幸を分かち合って運命を呪い、それでもダメなら自ら命を断つことになる。

     追い詰められた人にとって、愛国心とか法律とか、常識とかの論理は空しいものだ。空腹さえ満たしてくれず、冷たく追い払われ、絶望感しか与えてくれない。「法によって許されない」と宣告されて「ハイ、そうですか、それでは餓死します」と素直に死ぬわけにはいかないのだ。
     人間が追い詰められて最期にすがるのは人情であり、それでもダメなら強引な行動に頼るしかない。どんなに理性的な自制心を持った人であっても、法など関係ない。まずは命を守ることが「順序の論理」なのである。

     こうした立場で、我々は「順序の論理」を社会のあらゆる矛盾にも、自分自身の問題にも適用しなければいけない。
     カルデロンさん一家に対して、「不法入国だから追放して当然」 とは国家の論理である。国家権力を運営し、それによって利益を受けている官僚や企業は、自分たちの地位と金儲けシステムを守るために、国民に対して、法遵守の論理を強要しようとするわけだ。
     しかし、我々は日本国民である前に一個の人間である。一人の人間としての論理を大切にしないで、国家の論理に同調して、言いなりになっていては、国家や企業に利用されて絞り尽くされて、抜け殻になってポイ捨てされるだけの人生しか与えられないのだ。

     我々が、一人の人間として自分の人生を大切にするためには、人生に一番大切な「順序の論理」を明確に認識しなければいけないのだ。それは、自分の人生を支え、人の人生を支える人情を大切にすることであり、それこそ人生という家をしっかりさせる基礎土台であることを、はっきりと理解する必要がある。
     何が一番大切なのか、何が人生の基礎土台なのか? それは、「今、目の前にいる人に温かい気持ちを送る人情である」と、筆者は言い続けてきた。人情を大切にする姿勢こそが、目の前にいる相手を救い、それが自分の人生を救ってくれるのだ。
     もし、忌憚なく話のできる友人・家族がいて、人情ある人たちとのたくさんの人間関係があるならば、どんなに貧しくとも、どんなに追い詰められても、どうして自殺など考えようか?
     ところが、カルデロンさんたちに「非合法なのだから追放して当然」などと強要する人たちは、人間にとって一番大切な、人生を守ってくれる「順序の論理」、人生の基礎を理解できていないのである。

     そんなことを言っていると、これから社会システムが崩壊して、みんなが追い詰められる時代、社会になって、国家の論理に洗脳されたまま、自分の心の拠り所を見失い、結局、自殺や犯罪以外の選択肢がなくなってしまうことになる。いわば、人に冷たくする姿勢が自分自身に冷たくし、追い詰めることになるだろう。
     我々が、崩壊し追い詰められる社会のなかで、最期まで明るく温かく生き抜いていこうとするならば、まずは人に対して温かい人情豊かな姿勢を見失わないことだ。
     友を大切にし、困っている人を助け、みんなで支え合って苛酷な社会を乗り切れる人間関係を構築することしかないのだ。

     カルデロン一家に対する姿勢は、死刑制度への支持と同じで、おそらくカルデロン追放者と死刑支持者は、ほとんど同じ人たちだろう。
     日本人の9割が、金儲けの論理や人間疎外を受け入れており、財産を守るために、死刑制度と法秩序を支持するわけだ。財産のない筆者は、ただ人情だけにすがって生きてゆきたいから、困っている人たちに対しては、できる範囲で温かく接したいと思っている。
     
     筆者は、今後、国家も企業も、あらゆる組織が崩壊すると繰り返し書いてきた。このとき自分を救ってくれるものは、人情によって支えられた共同体なのだ。ただ温かい心、利他主義だけが共同体を構築し、みんなの命を守ってゆくのだ。
     このとき死刑制度やカルデロンさんへの姿勢は、「誰を共同体の仲間に選ぶのか?」という重要な指標となるだろう。もちろん死刑や追放支持者を選ぶことなどできない。国家や企業の組織・論理に幻想を抱き、人情を軽蔑する人たちは、崩壊・終末の世界に滅び行く運命しか残されていない。


    ● 順序の論理

     筆者の住んでいる家は、5年前に自分一人で作ったログバラックだ。加工されたログキットを買ってきて、組み立てたわけだが、土地を整地し、トランシットで測量して厳密な水平を出し、沈まないように固めて、ブロックを置き、鉄パイプで高い基礎を作り、コンパネを置いて、その上でキットを組み立てて家にした。

     当初は、とてもうまく作ったつもりでいたが、5年も経つと、いろいろ不都合が出て、思慮不足のドジを思い知らされることが次々に出てくる。例えば木材の乾燥による収縮で隙間が増えて、厳冬の強風の夜はとても寒い。基礎コンパネの防虫塗料をケチったために、アメリカ乾材シロアリに入られてボロボロになった。最大のドジは、根太・大引の支えとなる鋼束を入れ損なって(金具を過信して不要と判断した)端受金具が持ちこたえられずに床全体が沈降していることだ。
     これらのドジは、ほとんど取り返しのつかないものだ。基礎コンパネの虫害を防ごうと思っても、床を剥がすことなどできないし、同じく鋼束を入れ直すこともできない。結局、下からコンパネを切り取って後から補修するしかないが、床下全体を青酸ガスで燻蒸しない限り乾材シロアリを駆除することは絶望的だし、下からの床受け材補修は相当にに困難だ。
     その他にも、断熱や日照、雨漏りなど、「これはマズイ」とアタマを抱え込むような失敗がいくつかある。果たして何年持ってくれることやら・・・・・。

     要するに、家には、後からでも簡単に直せる問題と、最初から順序をキチンと守って、確実にこなさなければいけない問題がある。これは、家に限らず、社会全体、人生全体に共通するものであって、世の中と人生には、後から直せる問題と、最初から順序を守って作らねばならない問題がある。ときに順序というのは絶対的に大切なのだ。
     基礎をきちんとしないで、まともな家が建つはずもない。まずは水平を厳密に出し、沈降したりガタガタにならないよう十分に整備しなければいけない。それから十分な強度の基礎を作り、床を作り、壁を作り、屋根を作る順番が大切なのであって、こうした「順序の論理」というものが、社会にも人生にも、みんなが思っている何十倍も大切であることを知っておかねばならない。

     「順序の論理」ということを考えてみたい。人生も家と同じように、大切なもの、守るべきものの順序を認識することが必要なのだ。
     我々が守るべきものの第一は何か? まずは自分の命、と思う人が多いだろうが、その自分の命を支えてくれているものこそ本当に大切な、最初に守らねばならないものだ。
     例えば、年間三万人以上、これからは、その数十倍も出ることが予想される自殺者は、なんで自分で命を断つのか?
     生きる希望、喜びを見失い、これから起きるであろう苦痛の凄まじさに圧倒されて、死んでしまった方が楽だと思って自ら命を断つわけだ。ということは、今、自分が生きている上で、生きてゆく意欲を支えてくれている、苦痛のない、希望のある環境というものが、実は自分の命よりも上位に来る大切なものであることを意味している。
     これは、いわば人生の基礎構造になるわけで、人間が人生を生き抜こうとするからには、順番の最初に、人生を苦痛の少ないものにし、希望を持てる環境を準備しなければいけないわけだ。

     「人が最初に、一番大切に守らなければいけないもの」 人生の基礎、これが「未来に希望の見える環境」ということだ。
     そうして、自分の人生を支え、未来に希望を与えてくれるものは何か? それは、まずは自分を人として扱ってくれて愛情を注いでくれる家族であり友人だろう。ときに、それは依存する会社や団体などの組織であったりもするが、それらは組織の都合によって組織員を平気で切り捨てることが普通なので、まず、人生を支えてくれるほどの所属組織に巡り合うことも難しいものだ。だいたいにおいて、何のウソも必要としない身内、友人というのが常識だろう。
     人生を支えるものが国家や会社だと信じている人も珍しいだろう。「天皇のおかげで生きている」 「神様のおかげで生きている」というあたりになると、もはや洗脳の領域だ。

     まあ、自分にも他人にもウソをつかずに素直に生きてきた人ならば、自分を支えてくれるものとは、家族や友人の人間関係というあたりが普通だろうと思う。となると、人生にとって一番大切なものこそ、そうした人間関係、人情のやりとりであることが分かるはずだ。
     国家も会社も、人情など相手にしてくれない。ヤツラは金儲けと権力維持のために人情を踏みにじることしかしないのだ。生活に追い詰められたときに、最期まで国家の秩序と法律の殉じて死んでゆける人も珍しいだろうし、家畜として洗脳されたタダのアホというしかない。今夜のメシが食えない、明日のメシの見通しもないとなれば、ほとんどの人にとって法や秩序など何の意味ももたない。ただ空腹を満たすために行動するのであり、悪事への躊躇の強い人は、心の許せる人に甘え、人情にすがり、それでもダメなら友と不幸を分かち合って運命を呪い、それでもダメなら自ら命を断つことになる。

     追い詰められた人にとって、愛国心とか法律とか、常識とかの論理は空しいものだ。空腹さえ満たしてくれず、冷たく追い払われ、絶望感しか与えてくれない。「法によって許されない」と宣告されて「ハイ、そうですか、それでは餓死します」と素直に死ぬわけにはいかないのだ。
     人間が追い詰められて最期にすがるのは人情であり、それでもダメなら強引な行動に頼るしかない。どんなに理性的な自制心を持った人であっても、法など関係ない。まずは命を守ることが「順序の論理」なのである。

     こうした立場で、我々は「順序の論理」を社会のあらゆる矛盾にも、自分自身の問題にも適用しなければいけない。
     カルデロンさん一家に対して、「不法入国だから追放して当然」 とは国家の論理である。国家権力を運営し、それによって利益を受けている官僚や企業は、自分たちの地位と金儲けシステムを守るために、国民に対して、法遵守の論理を強要しようとするわけだ。
     しかし、我々は日本国民である前に一個の人間である。一人の人間としての論理を大切にしないで、国家の論理に同調して、言いなりになっていては、国家や企業に利用されて絞り尽くされて、抜け殻になってポイ捨てされるだけの人生しか与えられないのだ。

     我々が、一人の人間として自分の人生を大切にするためには、人生に一番大切な「順序の論理」を明確に認識しなければいけないのだ。それは、自分の人生を支え、人の人生を支える人情を大切にすることであり、それこそ人生という家をしっかりさせる基礎土台であることを、はっきりと理解する必要がある。
     何が一番大切なのか、何が人生の基礎土台なのか? それは、「今、目の前にいる人に温かい気持ちを送る人情である」と、筆者は言い続けてきた。人情を大切にする姿勢こそが、目の前にいる相手を救い、それが自分の人生を救ってくれるのだ。
     もし、忌憚なく話のできる友人・家族がいて、人情ある人たちとのたくさんの人間関係があるならば、どんなに貧しくとも、どんなに追い詰められても、どうして自殺など考えようか?
     ところが、カルデロンさんたちに「非合法なのだから追放して当然」などと強要する人たちは、人間にとって一番大切な、人生を守ってくれる「順序の論理」、人生の基礎を理解できていないのである。

     そんなことを言っていると、これから社会システムが崩壊して、みんなが追い詰められる時代、社会になって、国家の論理に洗脳されたまま、自分の心の拠り所を見失い、結局、自殺や犯罪以外の選択肢がなくなってしまうことになる。いわば、人に冷たくする姿勢が自分自身に冷たくし、追い詰めることになるだろう。
     我々が、崩壊し追い詰められる社会のなかで、最期まで明るく温かく生き抜いていこうとするならば、まずは人に対して温かい人情豊かな姿勢を見失わないことだ。
     友を大切にし、困っている人を助け、みんなで支え合って苛酷な社会を乗り切れる人間関係を構築することしかないのだ。

     カルデロン一家に対する姿勢は、死刑制度への支持と同じで、おそらくカルデロン追放者と死刑支持者は、ほとんど同じ人たちだろう。
     日本人の9割が、金儲けの論理や人間疎外を受け入れており、財産を守るために、死刑制度と法秩序を支持するわけだ。財産のない筆者は、ただ人情だけにすがって生きてゆきたいから、困っている人たちに対しては、できる範囲で温かく接したいと思っている。
     
     筆者は、今後、国家も企業も、あらゆる組織が崩壊すると繰り返し書いてきた。このとき自分を救ってくれるものは、人情によって支えられた共同体なのだ。ただ温かい心、利他主義だけが共同体を構築し、みんなの命を守ってゆくのだ。
     このとき死刑制度やカルデロンさんへの姿勢は、「誰を共同体の仲間に選ぶのか?」という重要な指標となるだろう。もちろん死刑や追放支持者を選ぶことなどできない。国家や企業の組織・論理に幻想を抱き、人情を軽蔑する人たちは、崩壊・終末の世界に滅び行く運命しか残されていない。


     ● トイレのない公園

      先日、幕張新都心を千葉市街方面に向かって自転車で走り、生理的欲求を催してトイレを探したときのことだ。

     見渡す限り立派に整備された市街、コンクリート・アスファルト・人口植樹の公園・並木道、ハウジングセンターの展示家屋を並べたような家々、どれも、すべて同じだ。金太郎飴のような景色が延々と続く。
     点在する人たちも、すべて同じ格好をしている。人の臭いの少ない無機的な光景は、まるでコンピュータで管理された巨大牧場を見ているようだった。
     計画された現代都市とは、このようなものかと、人工的な秩序など、ほとんど見あたらない自然ばかりの山里、庭先に熊やカモシカの跋扈する田舎に住む筆者には呆然とするばかりの景観だった。けばけばしいネオンも看板もなく、淫靡な風俗街もなく、アメ横のような、人いきれで泡立つような賑々しい商店街もない。パチンコ屋もラブホテルもない。

     美しく整備された公園もたくさん設置されている。しかし、驚いたのは、どの公園にもトイレがないことだ。水飲み場もない。あったとしてもハンドルが抜かれ水は出ない。それにゴミ箱もない、飲料水自販機もない。
     欲求は募るばかり、やむをえず並木道の木陰で用を足す羽目になったが、長々と放水している最中に近隣を通過する住民の不快そうな表情が心に突き刺さった。

     「どうして、ここいらの公園にはトイレやゴミ箱、水がないのか?」
     と地元に住む知人に聞いてみた。すると、トイレや飲料水のある公園にはホームレスが居着くことが多いし、トイレが性犯罪の温床ということで不審者追放のため撤去したらしい。ゴミ箱はテロ対策だそうだ。自販機がないのは、景観条例で街頭に置けないようになったらしい。あっても空缶ボックスは置かないのだそうだ。

     「子供たちなんか、公園で催したとき、喉が渇いたときなんか、どうすんだい?」
     これは、いちいち家に帰って用を足すということのようだ。しかし、それでは我慢しきれずに漏らす可能性も増えるだろうと余計な心配をせずにはいられない。
     筆者らの子供時代は、どこにもトイレなどなかったが、至る所トイレであって、そこら中で立ち小便をする光景が当たり前だったし、中高年女性だって、道ばたでしゃがんで用を足す光景も珍しくなかった。さすがに若い娘の用足しを見た記憶はないが。

     いずれにせよ、見かけは美しく立派な公園だが、催していちいち帰宅しなければならないのでは利用者も少ないわけだ。確かに、どの公園も閑散としていた。喉が渇いても、水も飲めず、飲料も買えず、買ったとしてもゴミを捨てられないから持ち帰らなければならない。なんと不便な街なのだろう。

     何かの用事で、この町を訪れた人たちは、「公園に行けばトイレがある」なんて常識をアテにしていたら大変なことになりそうだ。なにせ、コンビニや喫茶店も非常に少なく、延々と住宅街が広がるのだから、右往左往することになりかねない。

     この街は、訪問者に優しくない街だけでない、居住者にだって優しくない。買い物に出てもトイレが簡単に見つからないし、公園で長時間遊ぶこともできない。
     たぶん、漏らしてしまう人も多いのだろう。となると、昔、変態エロ小説作家を目指していた筆者としては、この街では、きっと「お漏らし趣味者の会」あたりが成立して、オシメをつけて喜ぶマニアが激増するにちがいないと睨んでいる。
     変態趣味なんてのは、要するに、普段、ありのままの真実の自分を表に出せない人が、ウソばかりついている心の重荷を変態趣味で吐き出し、バランスをとるために成立するものなのだ。
     だから、SMに夢中になる人たちは、社会的地位の高い人が多い。マゾヒズムに夢中になる女性は、有名企業の女性管理職や医師・弁護士・教師などが実に多いのだ。以前、殺人事件の被害者になった娼婦も、普段は東京電力の課長だったなんてことがあった。

     自分たちの小さな安全を守るために、不審者を追い出し、寄せ付けないためにトイレを撤去し、水道も撤去し、自販機もゴミ箱も撤去する街。見せかけは清潔でキレイだが、住民の誰も、きっと自宅から外に出たくないだろう。出かけてもトイレを探して右往左往し、喉が渇いても水も飲めないのだから。
     不審者と一緒に、生活の自由と利便性も追放してしまったわけだ。

     翻ってみれば、こうした滑稽な規制というのは、現代日本の矛盾を象徴しているように思える。
     満員電車に乗れば、電車の揺れで女性に触れようでもするなら、被疑者とされて逮捕され、どんなに説明しても痴漢と決めつけられて数十日の拘留、あげく1年以上の実刑判決となり、会社は解雇、社会から追放されてホームレス人生が待っている。
     こうなると、電車通勤も命がけのサバイバルになりそうだ。会社で部下のOLにお茶を頼んだり、エッチなことを言ってからかっただけでセクハラ・パワハラと認定されて、いかんなる弁解も認められず追放される。
     こうなれば、見猿・言わ猿・聞か猿で、何事もなく波風を立てずに身をかがめて生きてゆくしかない。安心してホンネでいられる場所など、どこにもないのだ。

     日本は本当に凄い国になった。むきだしの太ももを広げて美しく着飾って歩いている女子高生やOLをニヤニヤして見つめただけで、痴漢・変態と認定され、喜んで記念に写真でも撮ろうものなら痴漢どころか、盗撮罪で実刑判決を食らうことになる。
     それでは、男のエロ視線に酔って大胆な衣類を着たり、肌を露わにする女性は? といえば何のおとがめもないわけだが、こんな愚劣な倫理を強要する社会であるなら、やがて肌を露わにする女性も犯罪者という方向に向かわざるをえないだろう。

     男にとっては女性を見ることは楽しいものだ。エッチに喜びを感じるように設計されているからだ。だが、それを犯罪として糾弾し、制裁する社会がやってきたのだ。
     これでは、まるでイスラム諸国における旧約聖書原理主義が日本に持ち込まれたに等しいのである。

     旧約聖書原理主義とは、一度、旧約聖書を読んでみることを勧めるが、男女の自然な感情を刑罰で抑圧し、苛酷な倫理を強要するものだ。
     例えば、未婚で男性とセックスしたり、強姦されて処女を失ったり、あるいは人妻が不倫したりしたことがばれるとどうなるか? 女性には死刑が科せられる。それも投石で殺害するように定めている。これは、今でもイスラム諸国の多くで実際に毎日、実施されている。興味のある人は、http://www.liveleak.com/でそうした動画を探せば、残酷な処刑殺害動画が山ほど出てくる。

     これは要するに、人々の自然な感情を刑罰の恐怖で抑圧し、人に真実を言わせない雰囲気を作り、見せかけだけのキレイゴト、ウソの倫理を社会常識として民衆に強要することで、権力がタテマエだけで民衆を統制しやすくするためのシステムなのである。

     日本も、こうしてホンネの言えない社会、タテマエだけで人を刑罰や規制でコントロールしようとする社会になったわけだ。
     こうした社会を準備した人物を筆者は知っている。その名を正力松太郎という。
     彼は戦後、CIAのスパイであり日本の保守政権の黒幕であり、松川・三鷹事件などあらゆる謀略事件を通じて、国民を刑罰の恐怖で統制する社会を目指してきた最高指導者であった。
     そして彼の意志は、後に、中曽根康弘によって引き継がれ、今では、大林宏(最高検長官) 漆間巌(元警察庁長官、官房副長官)らによって引き継がれている。
     彼等こそ、公園からトイレを撤去し、若者たちの女性への関心を犯罪に変えて、死刑の恐怖で国民を統制し、ホンネで生きる国民を刑罰で追放している人物なのである。


     ● トイレのない公園

      先日、幕張新都心を千葉市街方面に向かって自転車で走り、生理的欲求を催してトイレを探したときのことだ。

     見渡す限り立派に整備された市街、コンクリート・アスファルト・人口植樹の公園・並木道、ハウジングセンターの展示家屋を並べたような家々、どれも、すべて同じだ。金太郎飴のような景色が延々と続く。
     点在する人たちも、すべて同じ格好をしている。人の臭いの少ない無機的な光景は、まるでコンピュータで管理された巨大牧場を見ているようだった。
     計画された現代都市とは、このようなものかと、人工的な秩序など、ほとんど見あたらない自然ばかりの山里、庭先に熊やカモシカの跋扈する田舎に住む筆者には呆然とするばかりの景観だった。けばけばしいネオンも看板もなく、淫靡な風俗街もなく、アメ横のような、人いきれで泡立つような賑々しい商店街もない。パチンコ屋もラブホテルもない。

     美しく整備された公園もたくさん設置されている。しかし、驚いたのは、どの公園にもトイレがないことだ。水飲み場もない。あったとしてもハンドルが抜かれ水は出ない。それにゴミ箱もない、飲料水自販機もない。
     欲求は募るばかり、やむをえず並木道の木陰で用を足す羽目になったが、長々と放水している最中に近隣を通過する住民の不快そうな表情が心に突き刺さった。

     「どうして、ここいらの公園にはトイレやゴミ箱、水がないのか?」
     と地元に住む知人に聞いてみた。すると、トイレや飲料水のある公園にはホームレスが居着くことが多いし、トイレが性犯罪の温床ということで不審者追放のため撤去したらしい。ゴミ箱はテロ対策だそうだ。自販機がないのは、景観条例で街頭に置けないようになったらしい。あっても空缶ボックスは置かないのだそうだ。

     「子供たちなんか、公園で催したとき、喉が渇いたときなんか、どうすんだい?」
     これは、いちいち家に帰って用を足すということのようだ。しかし、それでは我慢しきれずに漏らす可能性も増えるだろうと余計な心配をせずにはいられない。
     筆者らの子供時代は、どこにもトイレなどなかったが、至る所トイレであって、そこら中で立ち小便をする光景が当たり前だったし、中高年女性だって、道ばたでしゃがんで用を足す光景も珍しくなかった。さすがに若い娘の用足しを見た記憶はないが。

     いずれにせよ、見かけは美しく立派な公園だが、催していちいち帰宅しなければならないのでは利用者も少ないわけだ。確かに、どの公園も閑散としていた。喉が渇いても、水も飲めず、飲料も買えず、買ったとしてもゴミを捨てられないから持ち帰らなければならない。なんと不便な街なのだろう。

     何かの用事で、この町を訪れた人たちは、「公園に行けばトイレがある」なんて常識をアテにしていたら大変なことになりそうだ。なにせ、コンビニや喫茶店も非常に少なく、延々と住宅街が広がるのだから、右往左往することになりかねない。

     この街は、訪問者に優しくない街だけでない、居住者にだって優しくない。買い物に出てもトイレが簡単に見つからないし、公園で長時間遊ぶこともできない。
     たぶん、漏らしてしまう人も多いのだろう。となると、昔、変態エロ小説作家を目指していた筆者としては、この街では、きっと「お漏らし趣味者の会」あたりが成立して、オシメをつけて喜ぶマニアが激増するにちがいないと睨んでいる。
     変態趣味なんてのは、要するに、普段、ありのままの真実の自分を表に出せない人が、ウソばかりついている心の重荷を変態趣味で吐き出し、バランスをとるために成立するものなのだ。
     だから、SMに夢中になる人たちは、社会的地位の高い人が多い。マゾヒズムに夢中になる女性は、有名企業の女性管理職や医師・弁護士・教師などが実に多いのだ。以前、殺人事件の被害者になった娼婦も、普段は東京電力の課長だったなんてことがあった。

     自分たちの小さな安全を守るために、不審者を追い出し、寄せ付けないためにトイレを撤去し、水道も撤去し、自販機もゴミ箱も撤去する街。見せかけは清潔でキレイだが、住民の誰も、きっと自宅から外に出たくないだろう。出かけてもトイレを探して右往左往し、喉が渇いても水も飲めないのだから。
     不審者と一緒に、生活の自由と利便性も追放してしまったわけだ。

     翻ってみれば、こうした滑稽な規制というのは、現代日本の矛盾を象徴しているように思える。
     満員電車に乗れば、電車の揺れで女性に触れようでもするなら、被疑者とされて逮捕され、どんなに説明しても痴漢と決めつけられて数十日の拘留、あげく1年以上の実刑判決となり、会社は解雇、社会から追放されてホームレス人生が待っている。
     こうなると、電車通勤も命がけのサバイバルになりそうだ。会社で部下のOLにお茶を頼んだり、エッチなことを言ってからかっただけでセクハラ・パワハラと認定されて、いかんなる弁解も認められず追放される。
     こうなれば、見猿・言わ猿・聞か猿で、何事もなく波風を立てずに身をかがめて生きてゆくしかない。安心してホンネでいられる場所など、どこにもないのだ。

     日本は本当に凄い国になった。むきだしの太ももを広げて美しく着飾って歩いている女子高生やOLをニヤニヤして見つめただけで、痴漢・変態と認定され、喜んで記念に写真でも撮ろうものなら痴漢どころか、盗撮罪で実刑判決を食らうことになる。
     それでは、男のエロ視線に酔って大胆な衣類を着たり、肌を露わにする女性は? といえば何のおとがめもないわけだが、こんな愚劣な倫理を強要する社会であるなら、やがて肌を露わにする女性も犯罪者という方向に向かわざるをえないだろう。

     男にとっては女性を見ることは楽しいものだ。エッチに喜びを感じるように設計されているからだ。だが、それを犯罪として糾弾し、制裁する社会がやってきたのだ。
     これでは、まるでイスラム諸国における旧約聖書原理主義が日本に持ち込まれたに等しいのである。

     旧約聖書原理主義とは、一度、旧約聖書を読んでみることを勧めるが、男女の自然な感情を刑罰で抑圧し、苛酷な倫理を強要するものだ。
     例えば、未婚で男性とセックスしたり、強姦されて処女を失ったり、あるいは人妻が不倫したりしたことがばれるとどうなるか? 女性には死刑が科せられる。それも投石で殺害するように定めている。これは、今でもイスラム諸国の多くで実際に毎日、実施されている。興味のある人は、http://www.liveleak.com/でそうした動画を探せば、残酷な処刑殺害動画が山ほど出てくる。

     これは要するに、人々の自然な感情を刑罰の恐怖で抑圧し、人に真実を言わせない雰囲気を作り、見せかけだけのキレイゴト、ウソの倫理を社会常識として民衆に強要することで、権力がタテマエだけで民衆を統制しやすくするためのシステムなのである。

     日本も、こうしてホンネの言えない社会、タテマエだけで人を刑罰や規制でコントロールしようとする社会になったわけだ。
     こうした社会を準備した人物を筆者は知っている。その名を正力松太郎という。
     彼は戦後、CIAのスパイであり日本の保守政権の黒幕であり、松川・三鷹事件などあらゆる謀略事件を通じて、国民を刑罰の恐怖で統制する社会を目指してきた最高指導者であった。
     そして彼の意志は、後に、中曽根康弘によって引き継がれ、今では、大林宏(最高検長官) 漆間巌(元警察庁長官、官房副長官)らによって引き継がれている。
     彼等こそ、公園からトイレを撤去し、若者たちの女性への関心を犯罪に変えて、死刑の恐怖で国民を統制し、ホンネで生きる国民を刑罰で追放している人物なのである。


    ● 想像力のないのも困ったもんだ。何が起きようとしているのか想像してみなよ

    今起きていることの本当の意味が、まるで理解できない人がたくさんいるもんだ。
     経済が、これまで散発的に繰り返されてきた不況の波とは本質的に異なるスーパークラッシュが起きているということ。百年に一度などという生やさしいものではない。人類、文明が登場して以来、最悪のクラッシュが起きていることに気づかない人は実にオメデタイ。

     そもそも第一次世界大戦の原因は、ハプスブルグ王朝支配を崩壊させた近代ブルジョアジーのバブルが破綻したツケを戦争に求めたものであった。バルカン情勢など枝葉末節に過ぎず、問題の本質は、ロスチャイルドなど世界のごく少数の資産家に富が集中しすぎたために貨幣経済体制が崩壊したものだった。 第二次大戦は、言わずと知れて1929年大恐慌のツケを戦争で支払わせようとするものであり、ウオール街の株投機バブルがもたらしたものだった。 そして、第三次世界大戦を起こさずにはいられない、この超巨大恐慌もまた、富の集中による崩壊、すなわち「カネ余りがカネを滅ぼす」メカニズム以外のものではない。

     大恐慌というものは、富の集中によって起きるものであり、一部の特権者が貧しい民衆からカネを奪い尽くし、経済体制を底辺で支えてきた民衆の購買力が失われたためにカネの循環が阻害されて起きる壊死であり、部分で起きた壊死が全身に拡大し、全世界の経済体制を破滅させるのだ。それは戦争による巨大な消耗によってしか救うことができない。
     要するに、大衆が生活を購買できる経済力を持っているうちは経済が発展するが、カネが一部の蓄財愛好家に集中し、大衆の手に渡らなくなると、経済を循環させる血液であるカネの流通が停止し、企業生産体制という細胞や臓器が壊死を始め毒素を放出する。やがて毒素が全身、つまり世界経済に回り、あらゆる経済を破壊するのであって、自分たちだけトクしたつもりの蓄財愛好家、特権者たちも死滅から免れることなどできないのである。

     この経済クラッシュ、生産体制の壊死から猛毒が放出され、世界を蝕んでいる。そのスピードは凄まじい、かつて人類が一度も経験したことのないほどの早さと規模だ。もう数ヶ月もすれば、世界経済は完全に死滅するだろう。そして経済が支えてきた国家体制と、民衆生活の秩序も大崩壊するのである。
     世界中の、資本主義体制に依存した、すべての企業が、またたくまに破壊されている。GMやシティの倒産を号笛として、トヨタやベンツでさえ崩壊するだろう。もちろん日立や新日鐵なども助からない。世界中の会社企業が倒産し、それが支えてきた権力基盤、国家権力や行政のすべてが根底から崩壊するのだ。

     最初、倒産バッタ品が流通を占拠し、もの凄いデフレが起きる。今は、それが始まった状態だ。当初、それを抑止するために政府は、紙幣を印刷しまくることになる。政府は政府発行通貨などと言っているが、日銀も財務省も、すでに総力を挙げて輪転機を回している最中だ。もう年金も郵貯も、株価買い支えに使われて残高など残っていないから、印刷して支払うしかないのだ。
     銀行は自己資本を割るから強制注入になるが、その金も印刷するしかない。世間には裏付けのない膨大な印刷紙幣が溢れかえることになり、ハイパーインフレどころかジンバフレ(ジンバブエ級インフレ)まで起こりかねない。最初、石油と食料が暴騰すると繰り返してきたはずだ。金など貴金属も暴騰するだろう。
     みんなが争って農地を入手しようとするから、都会の土地は二束三文になるが地方の農地も高騰するだろう。

     こうして印刷紙幣が出回るようになれば、年金も公務員給与も支払われるだろう。だが、その値打ちは、例えばジンバブエではトランクいっぱいのカネで食パン一斤も買えない事態であって、似たようなことになり、年金生活者と公務員は生きて行けなくなる。
     一般社会は物々交換の世界だ。米一合が真の通貨単位になるだろう。バケツいっぱいの紙幣で茶碗いっぱいのメシを買う時代になるだろう。こうなれば給料を支払っても、公務員は動かず、行政は崩壊する。街は暴力・実力の世界であり、ヤクザをはじめ、あらゆるマフィアの天国になるはずだ。 大衆レベルでは、農地を持ち、食料を生産することが最大の価値と見なされることになる。

     このとき、筆者が、これまで書いてきた倫理や秩序の大崩壊が起きるのだ。暴力や殺人を取り締まるシステムが崩壊する。そうなれば、大衆は何を基準に、何に頼って生きてゆくのか? 何に支えられて生き抜いていけるのか? だから人情しかないと、ウンザリするほど書き続けているのだ。カネや地位などクソの役にも立たないことくらい想像しろよ。
     中国などから膨大な避難民が押し寄せてくる。日本に上陸しても、それを阻止するシステムなど、すでに存在しない。通用するのは人情だけだ。「カルデロン一家を追放せよ」などと叫んでいた「愛国者」たちは、上陸者に刃向かい、一人残らず惨殺されることになるだろう。後は恐怖におののいて権力にしがみつこうとするだろうが、もはや、どこにも権力など残っていないのだ。ただ飢えて怯えた人の群れがいるだけだ。動きたくとも車もガソリンもないだろう。

     このとき筆者は、「家族が崩壊し、人は個人に帰る」と書いてきた。一夫一婦制家族制度は完全に瓦解し、人は自分という単位だけで生きてゆかねばならない。個人同士の人情の結びつきだけによって共同し、支え合って生きてゆかねばならない。妻や夫などという地位を担保するものなど皆無なのだ。
     また痴漢犯罪だとか、民族だとか愛国心だとか、愚かしい観念もクソの役にも立たなくなるのだ。女性や子供たちは性犯罪に晒される。だが、もはや保護するシステムは死滅している。このとき彼等を守るのは人情だけだ。
     だから筆者は、今から、性犯罪や外国人、夫婦などの概念を根底から見直して、人情だけを基本にした、より本質的価値観を構築せよと主張しているのだ。

     掲示板に書かれている、愚かしい主張は、すべて、これから起きる凄まじい社会崩壊を全然理解していない。まだ、こんな人間疎外の社会が、格差社会が続くとでも思っているのか? 馬鹿も休み休みにしたらどうだ。日本は地獄に向かって雪崩落ちているんだ!
     もうすぐ警察・司法も行政も動かなくなり、人の死体処理でさえ滞り、そこら中に腐乱死体が散乱する時代がやってくるんだ。このとき人を救うのは、権力や蓄財、社会倫理などの愚かしい観念から解放されて、人情だけを見据えた人間の共同、助け合いだけだと何度言わせたら分かるんだ!
     利己主義を信奉する者は死滅する。利他主義だけが人を生かすことができる。我々は利己主義を捨てて、人間に対して、人情の交流だけで対する社会を作らなければならない。これを理解できない人は、すべて死滅すると断言する。
     人情と利他主義の思想を身につけて、これからの動乱を生き抜かねばならない! 残された時間は、本当に僅かしかないのだ!

     ちなみに、社会崩壊時の「人情」は、ただ人に甘いだけでは決してない。オレオレ詐欺などを繰り返してきた者は、人情によって排除され、ときには殺害されることにもなるだろう。生きて、互いに支え合う意志を尊重しながら生きるのであって、生きる意志を持たない者は排除され、人情によって殺すこともあるだろう。それは武士の情けによる介錯のようなもので、ときに人の死を助けるのも人情なのだ。筆者の言う人情社会は、断じて甘えを放任するものではなく、互いに支え合うものであり、一人一人が心に刃を置いて、自殺を覚悟しながら、それでも子供たちの未来を残してやろうとする人情しかないと知るべきだ。


    ● 想像力のないのも困ったもんだ。何が起きようとしているのか想像してみなよ

    今起きていることの本当の意味が、まるで理解できない人がたくさんいるもんだ。
     経済が、これまで散発的に繰り返されてきた不況の波とは本質的に異なるスーパークラッシュが起きているということ。百年に一度などという生やさしいものではない。人類、文明が登場して以来、最悪のクラッシュが起きていることに気づかない人は実にオメデタイ。

     そもそも第一次世界大戦の原因は、ハプスブルグ王朝支配を崩壊させた近代ブルジョアジーのバブルが破綻したツケを戦争に求めたものであった。バルカン情勢など枝葉末節に過ぎず、問題の本質は、ロスチャイルドなど世界のごく少数の資産家に富が集中しすぎたために貨幣経済体制が崩壊したものだった。 第二次大戦は、言わずと知れて1929年大恐慌のツケを戦争で支払わせようとするものであり、ウオール街の株投機バブルがもたらしたものだった。 そして、第三次世界大戦を起こさずにはいられない、この超巨大恐慌もまた、富の集中による崩壊、すなわち「カネ余りがカネを滅ぼす」メカニズム以外のものではない。

     大恐慌というものは、富の集中によって起きるものであり、一部の特権者が貧しい民衆からカネを奪い尽くし、経済体制を底辺で支えてきた民衆の購買力が失われたためにカネの循環が阻害されて起きる壊死であり、部分で起きた壊死が全身に拡大し、全世界の経済体制を破滅させるのだ。それは戦争による巨大な消耗によってしか救うことができない。
     要するに、大衆が生活を購買できる経済力を持っているうちは経済が発展するが、カネが一部の蓄財愛好家に集中し、大衆の手に渡らなくなると、経済を循環させる血液であるカネの流通が停止し、企業生産体制という細胞や臓器が壊死を始め毒素を放出する。やがて毒素が全身、つまり世界経済に回り、あらゆる経済を破壊するのであって、自分たちだけトクしたつもりの蓄財愛好家、特権者たちも死滅から免れることなどできないのである。

     この経済クラッシュ、生産体制の壊死から猛毒が放出され、世界を蝕んでいる。そのスピードは凄まじい、かつて人類が一度も経験したことのないほどの早さと規模だ。もう数ヶ月もすれば、世界経済は完全に死滅するだろう。そして経済が支えてきた国家体制と、民衆生活の秩序も大崩壊するのである。
     世界中の、資本主義体制に依存した、すべての企業が、またたくまに破壊されている。GMやシティの倒産を号笛として、トヨタやベンツでさえ崩壊するだろう。もちろん日立や新日鐵なども助からない。世界中の会社企業が倒産し、それが支えてきた権力基盤、国家権力や行政のすべてが根底から崩壊するのだ。

     最初、倒産バッタ品が流通を占拠し、もの凄いデフレが起きる。今は、それが始まった状態だ。当初、それを抑止するために政府は、紙幣を印刷しまくることになる。政府は政府発行通貨などと言っているが、日銀も財務省も、すでに総力を挙げて輪転機を回している最中だ。もう年金も郵貯も、株価買い支えに使われて残高など残っていないから、印刷して支払うしかないのだ。
     銀行は自己資本を割るから強制注入になるが、その金も印刷するしかない。世間には裏付けのない膨大な印刷紙幣が溢れかえることになり、ハイパーインフレどころかジンバフレ(ジンバブエ級インフレ)まで起こりかねない。最初、石油と食料が暴騰すると繰り返してきたはずだ。金など貴金属も暴騰するだろう。
     みんなが争って農地を入手しようとするから、都会の土地は二束三文になるが地方の農地も高騰するだろう。

     こうして印刷紙幣が出回るようになれば、年金も公務員給与も支払われるだろう。だが、その値打ちは、例えばジンバブエではトランクいっぱいのカネで食パン一斤も買えない事態であって、似たようなことになり、年金生活者と公務員は生きて行けなくなる。
     一般社会は物々交換の世界だ。米一合が真の通貨単位になるだろう。バケツいっぱいの紙幣で茶碗いっぱいのメシを買う時代になるだろう。こうなれば給料を支払っても、公務員は動かず、行政は崩壊する。街は暴力・実力の世界であり、ヤクザをはじめ、あらゆるマフィアの天国になるはずだ。 大衆レベルでは、農地を持ち、食料を生産することが最大の価値と見なされることになる。

     このとき、筆者が、これまで書いてきた倫理や秩序の大崩壊が起きるのだ。暴力や殺人を取り締まるシステムが崩壊する。そうなれば、大衆は何を基準に、何に頼って生きてゆくのか? 何に支えられて生き抜いていけるのか? だから人情しかないと、ウンザリするほど書き続けているのだ。カネや地位などクソの役にも立たないことくらい想像しろよ。
     中国などから膨大な避難民が押し寄せてくる。日本に上陸しても、それを阻止するシステムなど、すでに存在しない。通用するのは人情だけだ。「カルデロン一家を追放せよ」などと叫んでいた「愛国者」たちは、上陸者に刃向かい、一人残らず惨殺されることになるだろう。後は恐怖におののいて権力にしがみつこうとするだろうが、もはや、どこにも権力など残っていないのだ。ただ飢えて怯えた人の群れがいるだけだ。動きたくとも車もガソリンもないだろう。

     このとき筆者は、「家族が崩壊し、人は個人に帰る」と書いてきた。一夫一婦制家族制度は完全に瓦解し、人は自分という単位だけで生きてゆかねばならない。個人同士の人情の結びつきだけによって共同し、支え合って生きてゆかねばならない。妻や夫などという地位を担保するものなど皆無なのだ。
     また痴漢犯罪だとか、民族だとか愛国心だとか、愚かしい観念もクソの役にも立たなくなるのだ。女性や子供たちは性犯罪に晒される。だが、もはや保護するシステムは死滅している。このとき彼等を守るのは人情だけだ。
     だから筆者は、今から、性犯罪や外国人、夫婦などの概念を根底から見直して、人情だけを基本にした、より本質的価値観を構築せよと主張しているのだ。

     掲示板に書かれている、愚かしい主張は、すべて、これから起きる凄まじい社会崩壊を全然理解していない。まだ、こんな人間疎外の社会が、格差社会が続くとでも思っているのか? 馬鹿も休み休みにしたらどうだ。日本は地獄に向かって雪崩落ちているんだ!
     もうすぐ警察・司法も行政も動かなくなり、人の死体処理でさえ滞り、そこら中に腐乱死体が散乱する時代がやってくるんだ。このとき人を救うのは、権力や蓄財、社会倫理などの愚かしい観念から解放されて、人情だけを見据えた人間の共同、助け合いだけだと何度言わせたら分かるんだ!
     利己主義を信奉する者は死滅する。利他主義だけが人を生かすことができる。我々は利己主義を捨てて、人間に対して、人情の交流だけで対する社会を作らなければならない。これを理解できない人は、すべて死滅すると断言する。
     人情と利他主義の思想を身につけて、これからの動乱を生き抜かねばならない! 残された時間は、本当に僅かしかないのだ!

     ちなみに、社会崩壊時の「人情」は、ただ人に甘いだけでは決してない。オレオレ詐欺などを繰り返してきた者は、人情によって排除され、ときには殺害されることにもなるだろう。生きて、互いに支え合う意志を尊重しながら生きるのであって、生きる意志を持たない者は排除され、人情によって殺すこともあるだろう。それは武士の情けによる介錯のようなもので、ときに人の死を助けるのも人情なのだ。筆者の言う人情社会は、断じて甘えを放任するものではなく、互いに支え合うものであり、一人一人が心に刃を置いて、自殺を覚悟しながら、それでも子供たちの未来を残してやろうとする人情しかないと知るべきだ。


    ■ アメリカ南部で死刑廃止の機運

     【【ニューヨーク小倉孝保】米南西部ニューメキシコ州議会は13日、死刑を廃止する法案を賛成多数で可決した。代わりに保釈の可能性のない終身刑を制定する。リチャードソン州知事が法案に署名すれば、ニュージャージー州に次ぎ議会協議を経て死刑を廃止した全米2番目の州となる。 ニューメキシコ州議会は上下両院とも民主党多数。この日は上院で採決が行われ、賛成24、反対18で法案が成立。すでに下院は同じ法案を可決している。知事も民主党だが、これまでのところ、法案への態度を明らかにしていない。
     全米50州のうち現在、死刑を規定しているのは36州。同州が死刑を廃止した場合、死刑のない州は15州となる。米国では76年に連邦最高裁が死刑を合憲と判断して以来、死刑を復活させる州が相次いだが、07年末にニュージャージー州が議会での法案成立を受け死刑を廃止。その後、死刑廃止に向け議論に入る州が相次ぎ、ニューメキシコのほか、メリーランドやコロラドなどの州議会が死刑を廃止すべきかの議論をしている。 ニューメキシコ州の死刑確定囚は2人。76年以降、死刑を執行したケースは1件だけ。米国で死刑を規定していない州は、アラスカ、ハワイ両州のほかは北東部の州に集中しており、ニューメキシコ州が廃止した場合、死刑廃止州が南部に広がることになる。】

     ● 死刑制度は、人間性を動物的レベルに貶める制度であり、論理的思考を排除させ、理性を見失わせるものだと筆者は、過去30年以上指摘し続けてきた。
     元より、人間の動物性を否定するつもりはなく、むしろ動物以上に人は誤謬に満ちていると考えている。だいたい筆者自身が理性よりも感情に囚われ、右の頬を殴られたら左の頬を出すどころか、両足で蹴りを入れずにはすまない人間であると公言してきたのだ。

     それにもかかわらず感情的であることが間違いであって、人には理性が必要であり、社会は理性によって救われると認識している理由は、人が感情に囚われた後に冷静さを取り戻す能力もある存在だと確信しているからである。
     だからこそ、光母子殺人事件の本村氏や、名古屋闇サイト殺人の磯谷氏らのように家族を殺された者たちが怒り狂い、加害者に死刑を要求する気持ちは十二分に理解しているつもりだが、一方で、怒りに任せて死刑が実現した後に、はたして復讐達成感に満足できるのか? と考えれば、おそらく死刑を要求してしまったことに、いつか深刻な後悔を抱くことになり、被害者への同情を報復によって解決しようとした自分の姿勢を呪う結果を招くに違いないと考えている。

     人は猿より多少は反省できるのだ。激情に駆られてたくさんの間違いを起こすものだ。しかし、やがて冷静さを取り戻し、自分の行為を客観的な理性によって見つめ直すことができるようになる。死刑制度は感情に身を任せた激情の気分に対応したものだが、それが醒めた後の理性に対応できるものではない。
     だが激情の期間は決して長くない。本村氏や磯谷氏は家族を殺されたが、決して自分を殺されたわけではない。しかし、その怒りを死刑という報復によって処理しようとするなら、後に、本当に自分自身を殺してしまう結果を招くだろう。それは人の理性を軽視し否定する行為だからであり、もう取り返しのつかない加害者と同じ立場を得たということだからなのだ。

     我々は人生のなかで年齢とともに経験とともに賢明さを獲得し、老いて死に向かって歩き続ける。すべての人が死というゴールに向かわねばならない。この意味で、死という絶対的現実の前に、すべての人が完全無欠の平等を保証されていると指摘してきた。 殺人事件の被害者も、加害者も、その家族も、致死的な病に冒された人も、普通の人も、エライ人も、戦死者も犠牲者も、事故死者も、すべて完全に平等な死を享受できるのだ。
     みんな、同じ死を得るのである。だが、人に不合理な死を求めてはいけない。人必ず間違いを犯すように作られている。過ちを犯さない人は皆無である。誰でも多かれ少なかれ失敗し、人を傷つけるのだ。それは読者が醒めた目で自分の人生を振り返ってみれば、誰でも納得する普遍的真理なのだ。

     失われた死への報復制裁を求めてはいけない。これから生きてゆく者たちのために最善手を尽くさなければいけない。事故であれ殺人であれ、戦死であれ、公害死であれ、もっとも大切な姿勢は報復制裁ではない。それは、これから生きてゆく者たちが、同じ過ちを繰り返さないよう、よりよい人生を送れるよう、今、生きている我々が子供たちのために残すべき仕事なのだ。

     一時的な復讐感情に囚われた報復制裁が、子供たちの未来を明るくするために解決できることなど一つもない。しかし、犯罪が行われ、被害者が出たとき、その原因を究明し、繰り返さないように努力し、再び同じ犯罪が起きないように、より矛盾の少ない社会を子供たちに用意してあげなければいけない。
     犯罪を行った者を殺害し抹殺すれば、犯罪を抑止できるのか? そんな無知で愚かな妄想を正当化してはいけない。その犯罪が、どのような原因で、発生し、どのような手を打てば解決できるのか? 排除したり殺したりという浅はかな姿勢ですましてしまう発想の愚かさに気づくべきだ。

     我々は、すべての犯罪が心の問題であると主張してきた。人の心が犯罪に向く原因は、必ず社会の矛盾にある。人を犯罪に駆り立てる社会の矛盾を棚に上げて、犯罪者を抹殺するだけで解決できることなど何もない。まずは、犯罪に至るほど荒んだ心を回復させることが必要なのだ。
     社会が正しくあり、みんなが明るく温かく、助け合っている社会では、犯罪は極めて少ないものだ。しかし、社会が荒み、金儲けや権力を求めた利己主義の風が吹きすさぶ人間疎外の社会にあっては、人の心も荒み、人を大切にしようと思わなくなり、人の命の値打ちも軽くなるから犯罪が多発するようになるのだ。
     犯罪の原因は社会にある。だから本当に犯罪を抑止しようと求める者は、犯罪者を制裁抹殺するという愚かな発想で問題が解決するなどとは考えない。まずは間違った社会を正し、人間疎外をなくし、みんなが人情にすがって明るく温かく生きられるような社会を構築することこそ真の犯罪予防であると考えるのだ。犯罪の本質は人の心のあり方なのだ。

     人が感情を越えた理性を知り、子供たちのために素晴らしい未来を用意してあげたいと願うなら、やることは一つしかない。それは人の心を正すことなのだ。
     間違った心から間違った社会が生まれる。金儲けや権力に夢中になる利己主義を信奉するような人たちが大勢いる社会は破滅するのだ。逆に、みんなが平等で明るく楽しい社会を愛し、困った人を助けようとする利他主義の社会では、人々の顔は笑顔と幸福感に満ちて、まるで天国・極楽のような素晴らしい社会になるだろう。

     我々は、これから、どちらの社会を求めるのか問われている。天国か、それとも地獄か? 利己主義か、それとも利他主義か?
     上のニュースは、これまで利己主義に支配されていたアメリカで、利己主義を代表するブッシュ政権が消えて、利他主義こそ本当に価値のある、我々の求める思想であると気づいた人たちが増え始めたことを意味している。
     日本において9割の人たちが死刑制度を支持しているということは、9割が利己主義思想に洗脳されてしまっているということだ。
     こんな状態では、そんな9割の人たちが地獄に向かっていると危惧するしかない。我々は地獄に向かう日本人の群れに対し、「そっちじゃない、天国は利他主義の方角だよ!」と叫び続けているのだ。


    ■ アメリカ南部で死刑廃止の機運

     【【ニューヨーク小倉孝保】米南西部ニューメキシコ州議会は13日、死刑を廃止する法案を賛成多数で可決した。代わりに保釈の可能性のない終身刑を制定する。リチャードソン州知事が法案に署名すれば、ニュージャージー州に次ぎ議会協議を経て死刑を廃止した全米2番目の州となる。 ニューメキシコ州議会は上下両院とも民主党多数。この日は上院で採決が行われ、賛成24、反対18で法案が成立。すでに下院は同じ法案を可決している。知事も民主党だが、これまでのところ、法案への態度を明らかにしていない。
     全米50州のうち現在、死刑を規定しているのは36州。同州が死刑を廃止した場合、死刑のない州は15州となる。米国では76年に連邦最高裁が死刑を合憲と判断して以来、死刑を復活させる州が相次いだが、07年末にニュージャージー州が議会での法案成立を受け死刑を廃止。その後、死刑廃止に向け議論に入る州が相次ぎ、ニューメキシコのほか、メリーランドやコロラドなどの州議会が死刑を廃止すべきかの議論をしている。 ニューメキシコ州の死刑確定囚は2人。76年以降、死刑を執行したケースは1件だけ。米国で死刑を規定していない州は、アラスカ、ハワイ両州のほかは北東部の州に集中しており、ニューメキシコ州が廃止した場合、死刑廃止州が南部に広がることになる。】

     ● 死刑制度は、人間性を動物的レベルに貶める制度であり、論理的思考を排除させ、理性を見失わせるものだと筆者は、過去30年以上指摘し続けてきた。
     元より、人間の動物性を否定するつもりはなく、むしろ動物以上に人は誤謬に満ちていると考えている。だいたい筆者自身が理性よりも感情に囚われ、右の頬を殴られたら左の頬を出すどころか、両足で蹴りを入れずにはすまない人間であると公言してきたのだ。

     それにもかかわらず感情的であることが間違いであって、人には理性が必要であり、社会は理性によって救われると認識している理由は、人が感情に囚われた後に冷静さを取り戻す能力もある存在だと確信しているからである。
     だからこそ、光母子殺人事件の本村氏や、名古屋闇サイト殺人の磯谷氏らのように家族を殺された者たちが怒り狂い、加害者に死刑を要求する気持ちは十二分に理解しているつもりだが、一方で、怒りに任せて死刑が実現した後に、はたして復讐達成感に満足できるのか? と考えれば、おそらく死刑を要求してしまったことに、いつか深刻な後悔を抱くことになり、被害者への同情を報復によって解決しようとした自分の姿勢を呪う結果を招くに違いないと考えている。

     人は猿より多少は反省できるのだ。激情に駆られてたくさんの間違いを起こすものだ。しかし、やがて冷静さを取り戻し、自分の行為を客観的な理性によって見つめ直すことができるようになる。死刑制度は感情に身を任せた激情の気分に対応したものだが、それが醒めた後の理性に対応できるものではない。
     だが激情の期間は決して長くない。本村氏や磯谷氏は家族を殺されたが、決して自分を殺されたわけではない。しかし、その怒りを死刑という報復によって処理しようとするなら、後に、本当に自分自身を殺してしまう結果を招くだろう。それは人の理性を軽視し否定する行為だからであり、もう取り返しのつかない加害者と同じ立場を得たということだからなのだ。

     我々は人生のなかで年齢とともに経験とともに賢明さを獲得し、老いて死に向かって歩き続ける。すべての人が死というゴールに向かわねばならない。この意味で、死という絶対的現実の前に、すべての人が完全無欠の平等を保証されていると指摘してきた。 殺人事件の被害者も、加害者も、その家族も、致死的な病に冒された人も、普通の人も、エライ人も、戦死者も犠牲者も、事故死者も、すべて完全に平等な死を享受できるのだ。
     みんな、同じ死を得るのである。だが、人に不合理な死を求めてはいけない。人必ず間違いを犯すように作られている。過ちを犯さない人は皆無である。誰でも多かれ少なかれ失敗し、人を傷つけるのだ。それは読者が醒めた目で自分の人生を振り返ってみれば、誰でも納得する普遍的真理なのだ。

     失われた死への報復制裁を求めてはいけない。これから生きてゆく者たちのために最善手を尽くさなければいけない。事故であれ殺人であれ、戦死であれ、公害死であれ、もっとも大切な姿勢は報復制裁ではない。それは、これから生きてゆく者たちが、同じ過ちを繰り返さないよう、よりよい人生を送れるよう、今、生きている我々が子供たちのために残すべき仕事なのだ。

     一時的な復讐感情に囚われた報復制裁が、子供たちの未来を明るくするために解決できることなど一つもない。しかし、犯罪が行われ、被害者が出たとき、その原因を究明し、繰り返さないように努力し、再び同じ犯罪が起きないように、より矛盾の少ない社会を子供たちに用意してあげなければいけない。
     犯罪を行った者を殺害し抹殺すれば、犯罪を抑止できるのか? そんな無知で愚かな妄想を正当化してはいけない。その犯罪が、どのような原因で、発生し、どのような手を打てば解決できるのか? 排除したり殺したりという浅はかな姿勢ですましてしまう発想の愚かさに気づくべきだ。

     我々は、すべての犯罪が心の問題であると主張してきた。人の心が犯罪に向く原因は、必ず社会の矛盾にある。人を犯罪に駆り立てる社会の矛盾を棚に上げて、犯罪者を抹殺するだけで解決できることなど何もない。まずは、犯罪に至るほど荒んだ心を回復させることが必要なのだ。
     社会が正しくあり、みんなが明るく温かく、助け合っている社会では、犯罪は極めて少ないものだ。しかし、社会が荒み、金儲けや権力を求めた利己主義の風が吹きすさぶ人間疎外の社会にあっては、人の心も荒み、人を大切にしようと思わなくなり、人の命の値打ちも軽くなるから犯罪が多発するようになるのだ。
     犯罪の原因は社会にある。だから本当に犯罪を抑止しようと求める者は、犯罪者を制裁抹殺するという愚かな発想で問題が解決するなどとは考えない。まずは間違った社会を正し、人間疎外をなくし、みんなが人情にすがって明るく温かく生きられるような社会を構築することこそ真の犯罪予防であると考えるのだ。犯罪の本質は人の心のあり方なのだ。

     人が感情を越えた理性を知り、子供たちのために素晴らしい未来を用意してあげたいと願うなら、やることは一つしかない。それは人の心を正すことなのだ。
     間違った心から間違った社会が生まれる。金儲けや権力に夢中になる利己主義を信奉するような人たちが大勢いる社会は破滅するのだ。逆に、みんなが平等で明るく楽しい社会を愛し、困った人を助けようとする利他主義の社会では、人々の顔は笑顔と幸福感に満ちて、まるで天国・極楽のような素晴らしい社会になるだろう。

     我々は、これから、どちらの社会を求めるのか問われている。天国か、それとも地獄か? 利己主義か、それとも利他主義か?
     上のニュースは、これまで利己主義に支配されていたアメリカで、利己主義を代表するブッシュ政権が消えて、利他主義こそ本当に価値のある、我々の求める思想であると気づいた人たちが増え始めたことを意味している。
     日本において9割の人たちが死刑制度を支持しているということは、9割が利己主義思想に洗脳されてしまっているということだ。
     こんな状態では、そんな9割の人たちが地獄に向かっていると危惧するしかない。我々は地獄に向かう日本人の群れに対し、「そっちじゃない、天国は利他主義の方角だよ!」と叫び続けているのだ。


    2009年3月15日 核廃棄物処理場

    ● 夕張市の処分場立候補問題は、各方面から自治体破綻の弱い立場を利用して廃棄物処理施設を押しつけようとしていると強い批難が起きて、今のところ進展は報告されていないが、今後、各地の破綻寸前の自治体に、厄介者の廃棄物処理を押しつける動きが広がるだろう。

     核廃棄物はガラス固化体などでは放射能被爆が安全レベルに達するのに数億年を要するもので、永久的に深刻な危険性が続く。もし大地震などの地殻変動で環境に拡散したならば、チェルノブイリ事故で日本列島の3分の1に匹敵する面積が生活不能汚染地に指定されたように、汚染地帯はもはやこの世から消滅したも同然となる。こうした科学的知識は、地元自治体には一切伝えらず、「日本は科学技術の進んだ国だから安全」と、根拠のないウソ情報だけで地元民が洗脳される仕組みになっている。

     放射能のような人類史の経験の極めて浅い(せいぜい60年程度)分野では、真の危険性など、ほとんど議論されず、その無限大に勘違いされる肯定的側面を利用する可能性だけが夢中になって語られるものだ。否定的側面は、金銭欲、名誉欲、権力欲に駆られて目がくらんだ連中には見えないのである。
     放射能の前には電気があり、その前には燃料機関があり、その前には金属があった。これらは、いずれも似たような経過をたどって、膨大な犠牲、人柱の上に大変な労力を積み重ねて実用化に至ったわけだが、放射能に関しては、先の技術とはレベルが違いすぎる。それは殺戮兵器を手中にするという悪魔の欲望によって強引に実用化されたものだ。

     人が利己主義に洗脳され、人間疎外を招くと、コンプレックスが増幅し、無制限の自己増殖を始める法則がある。金儲けや権力の魅力に夢中になり、なんでもいいから他人を出し抜ける「凄いモノ」が欲しくなる。金属兵器や電気が、そうした欲望によって開発されたまではよかった。それは人間の能力の範疇でコントロールすることが可能だったからだ。やがて民生用に転用され、人類史の発展の大きな力になった。
     しかし放射能は違う。それは他人を大量に殺害する力、圧倒的な恐怖を作り出して世界に君臨する究極の強欲に惹かれた人が、争って入手しようとし、日本にあっても、正力松太郎や中曽根康弘が、それを推進した理由は、「世界に冠たる強国日本」の圧倒的な権威を目指し、自分たちの権力を恒久化しようとする野望の実現手段に他ならなかった。
     それは、民生用という看板・タテマエで、実際には核ミサイルのためのプルトニウム蓄積を目的にしたものだった。だから日本の原子炉は、すべて核兵器転用型の廃棄燃料になっている。そして日本は世界最大級のプルトニウム保有国となった。

     今、正力・中曽根の後を継ぐ大林宏・漆間巌らが司法行政で北朝鮮なみの強権統制国家を目指している実態が暴露されているが、彼等の盟友である田母神俊雄が追放された自衛隊では、さらに狡猾な陸軍統制派の亡霊が蠢いている。裁判員制度の強制によって、徴兵制のなし崩し実施を目論見、ペルシア湾自衛隊派兵によって実質的な海外派兵戦闘準備を実現しようとしている。後は民主党と共に憲法9条を廃棄し、日本を北朝鮮型統制国家に変貌されるだけだ。
     自衛隊核武装も目の前に迫っている。こうなれば原発も明確に核ミサイル製造施設として認知するよう迫ることになるだろう。
     やがて民衆は有無を言わさず徴兵され、国家に命を捧げる愛国心を強要されることになるだろう。日本政府はアメリカのように大衆の命を金儲けのために使うことになるだろう。そのとき日本政府の正体は、フリーメーソンに組織された金持ち特権階級連合体に他ならないのだ。我々の命は彼等の権力と蓄財のために利用される。国民家畜奴隷時代がやってくる。 
     核廃棄物処理施設という核武装のステップが、自治体の窮乏と引き替えに実現するということは、また一段と我々の命が安くなったことを意味するのだ。


    2009年3月15日 核廃棄物処理場

    ● 夕張市の処分場立候補問題は、各方面から自治体破綻の弱い立場を利用して廃棄物処理施設を押しつけようとしていると強い批難が起きて、今のところ進展は報告されていないが、今後、各地の破綻寸前の自治体に、厄介者の廃棄物処理を押しつける動きが広がるだろう。

     核廃棄物はガラス固化体などでは放射能被爆が安全レベルに達するのに数億年を要するもので、永久的に深刻な危険性が続く。もし大地震などの地殻変動で環境に拡散したならば、チェルノブイリ事故で日本列島の3分の1に匹敵する面積が生活不能汚染地に指定されたように、汚染地帯はもはやこの世から消滅したも同然となる。こうした科学的知識は、地元自治体には一切伝えらず、「日本は科学技術の進んだ国だから安全」と、根拠のないウソ情報だけで地元民が洗脳される仕組みになっている。

     放射能のような人類史の経験の極めて浅い(せいぜい60年程度)分野では、真の危険性など、ほとんど議論されず、その無限大に勘違いされる肯定的側面を利用する可能性だけが夢中になって語られるものだ。否定的側面は、金銭欲、名誉欲、権力欲に駆られて目がくらんだ連中には見えないのである。
     放射能の前には電気があり、その前には燃料機関があり、その前には金属があった。これらは、いずれも似たような経過をたどって、膨大な犠牲、人柱の上に大変な労力を積み重ねて実用化に至ったわけだが、放射能に関しては、先の技術とはレベルが違いすぎる。それは殺戮兵器を手中にするという悪魔の欲望によって強引に実用化されたものだ。

     人が利己主義に洗脳され、人間疎外を招くと、コンプレックスが増幅し、無制限の自己増殖を始める法則がある。金儲けや権力の魅力に夢中になり、なんでもいいから他人を出し抜ける「凄いモノ」が欲しくなる。金属兵器や電気が、そうした欲望によって開発されたまではよかった。それは人間の能力の範疇でコントロールすることが可能だったからだ。やがて民生用に転用され、人類史の発展の大きな力になった。
     しかし放射能は違う。それは他人を大量に殺害する力、圧倒的な恐怖を作り出して世界に君臨する究極の強欲に惹かれた人が、争って入手しようとし、日本にあっても、正力松太郎や中曽根康弘が、それを推進した理由は、「世界に冠たる強国日本」の圧倒的な権威を目指し、自分たちの権力を恒久化しようとする野望の実現手段に他ならなかった。
     それは、民生用という看板・タテマエで、実際には核ミサイルのためのプルトニウム蓄積を目的にしたものだった。だから日本の原子炉は、すべて核兵器転用型の廃棄燃料になっている。そして日本は世界最大級のプルトニウム保有国となった。

     今、正力・中曽根の後を継ぐ大林宏・漆間巌らが司法行政で北朝鮮なみの強権統制国家を目指している実態が暴露されているが、彼等の盟友である田母神俊雄が追放された自衛隊では、さらに狡猾な陸軍統制派の亡霊が蠢いている。裁判員制度の強制によって、徴兵制のなし崩し実施を目論見、ペルシア湾自衛隊派兵によって実質的な海外派兵戦闘準備を実現しようとしている。後は民主党と共に憲法9条を廃棄し、日本を北朝鮮型統制国家に変貌されるだけだ。
     自衛隊核武装も目の前に迫っている。こうなれば原発も明確に核ミサイル製造施設として認知するよう迫ることになるだろう。
     やがて民衆は有無を言わさず徴兵され、国家に命を捧げる愛国心を強要されることになるだろう。日本政府はアメリカのように大衆の命を金儲けのために使うことになるだろう。そのとき日本政府の正体は、フリーメーソンに組織された金持ち特権階級連合体に他ならないのだ。我々の命は彼等の権力と蓄財のために利用される。国民家畜奴隷時代がやってくる。 
     核廃棄物処理施設という核武装のステップが、自治体の窮乏と引き替えに実現するということは、また一段と我々の命が安くなったことを意味するのだ。


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