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 迫り来る大恐慌の苦難を生き抜くために、団結して支え合う農業共同体を実現するにあたって、学ばなければならない先行者が存在している。
 その代表がヤマギシ会だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E4%BC%9A%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%AE%E3%82%B7%E4%BC%9A

 半世紀前に山岸巳代蔵の実現した農業共同体、ヤマギシズムの本質は、無政府主義ユートピア運動であった。
 巳代蔵の育った近江八幡市は、百済人である秦氏(天皇家)の最初の拠点であるとともに、激しい差別の歴史的伝統があったが、そこに、メンソレータムの創業者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズがやってきて、教会を作りキリスト教伝道運動を行った。
 このことで、差別問題について深い思いを持つ人の多いこの地域に、普遍的な人類愛の思想を伝播するに熱心な環境が生み出された。後に、メレルの教会から岡林信康が登場する。
http://www.youtube.com/watch?v=p2JVRBbuFto

 一方で巳代蔵の時代、幸徳秋水のアナキズム運動が、彼らの大規模な処刑と引き替えに広く深く潜行していた。彼は大正デモクラシーとアナキズム運動にも深い影響を受け、養鶏を中核とした農業共同体社会こそが人類を救う最期のユートピアだと確信した。
 1953年、伊賀市柘植において数十名の仲間とともに始められたヤマギシズム農業共同体運動は、2009年現在、数万人規模に膨張し、全国に拡大している。国内で、真に自立し、成功しているといえる農業共同体は、おそらくヤマギシズムだけだろう。

 筆者が日本最大の農事法人であるヤマギシズムを知ったのは、1969年頃で、まだ高校生だったと思う。当時、機動隊の盾が踊り、火炎瓶の飛び交う駅から見える高田馬場案内所で、輝くような笑顔の男性に初めてヤマギシズムの素晴らしい理想を教えられた。それは、まさにユートピアの体現であった。
 ヤマギシズムを知って、筆者は身震いするようなカルチャーショックを受けた。

 後に、1975年頃、ヤマギシズム入門の特別講習研鑽会を受けた。このときのヤマギシ代表は、奇しくも筆者が毛沢東思想の影響を受けていたときの思想講師と同じ新島淳良だった。
 特講で一番印象的だったのは、共同体社会と生活のルールを、根源に遡って徹底的に討論し、本当に必要なルールを決して強要するのではなく、自覚するまで待つという姿勢だった。その原点にあるのは利他主義の心であった。

 たとえば、風呂の入り方のルールがある。ヤマギシズムでは最初に徹底的に体を洗い、次に入浴する。だから、たくさんの人が入浴しても湯が汚れることはない。
 あらゆる生活スタイルは、宇宙の法則に則って行う。それは循環と再生産のエコロジー原理である。廃棄物、排泄物の一つとして捨てられるものはなく、すべてが循環し、再生産の工夫によって命を復活させる。
 人間関係も同じであり、たとえ過ちや失敗があっても、それが肥やしになって、もっと素晴らしいものが生まれると考えるのである。
 だから、決して人を誹謗せず、処分したり追放したりはせず、人間再生を原理とするのであって、こうした人間に対する無限の愛情が、連帯と幸福と、人生の希望を与えると巳代蔵は考えた。

 人の生活、人生は、すべて他人の利益、よりよき生活、快適のためにあり、そのことが自分を生かしてくれる。人は他人によって生かされているのだから、人を生かすことが自分を生かすことになると考え、決して他人が過ちを犯したとしても、切り捨てたり、追いつめたりしない。自分自身で過ちに気づくまで気長に待つというテーゼがあった。
一緒に生きる仲間との連帯によって自分の人生が支えられていることを自覚するところから共同体が成立するという共通認識をつくることが、組織を支える原理としたのであり、これこそ利他主義の本質なのである。

 だからこそヤマギシズムは半世紀を超えて持続し、拡大し、大きな影響力を与えるまでになった。
 これから我々が共同体を構築するとしても、ヤマギシズムのこの本質を深く学び、一人一人が利他主義の心を身につけないかぎり、決してうまくいかないだろう。
 残念ながら、ヤマギシズムが成功するとともに、その巨大な利権を狙って利己主義者が入り込んだことにより、商業主義や利権によって本来の理念は崩壊させられているが、巳代蔵の利他思想まで腐敗したわけではない。
 やがてヤマギシも過ちに気づき、真に復活するときがくるだろう。とともに、巳代蔵の時代の弱点であった全体主義(優生保護思想)を克服できる日も来ると信じている。

 人類が誕生して、その思想は生まれた人類の数だけ存在するといってよいが、種々雑多な思想が山ほどあるなかで、それを本質的に整理するならば、結局のところ、たった一つの対立・分類に行き着くと筆者は思う。
 それこそ他人を支援し、共に生きるのか、それとも、自分の利益を優先させるのか? という問題であり、すなわち利己主義と利他主義の対立である。
 山ほどある思想も、結局、この二つしかないことを知るべきだ。

 人は人から生まれ、人に育てられ、人を育て、未来を育んでゆく。
 人生の喜びは、自分の利益・利権を拡大することだろうか?
 偉くなって出世し、大金持ちになって、ふんぞり返り、人々を睥睨することなのか?
 この資本主義社会では、そう勘違いしている愚か者が腐るほどいる。彼らが利己主義だけを信奉し、欲に釣られて、自分の利益のために地球環境が破壊されることも、子供たちの未来が閉ざされることも構わず暴走したために、人類の滅亡が近づいたのである。
 今の贅沢、蓄財のために、子供たちの未来に膨大な借金を押しつけ、未来のための大切な資源を枯渇させてしまったのだ。そればかりか、エコロジーの循環環境を破壊し、地球の循環再生産を停止させ、あらゆる生物を滅亡の淵に追いやろうとしている。
 この社会、そして地球まで、愚かな利己主義によって滅ぼされようとしているのだ。この連中は、子供たちの未来を、取り返しのつかないほど破壊してしまったのだ。

 だが一方で、利己主義を否定し、他人の利益に奉仕し、子供たちの未来を良くすることで人生の喜び、充実を得ている人たちも数多い。この人たちを利他主義者と呼ぶ。
 人類には、利己主義者と利他主義者しかいない。そして一人のなかにも、両方の側面がある。人の一生にも利己的な時代と利他的な時代がある。
 我々は、自分の人生が他人によって得られ、導かれたものであることを真に自覚するならば、他人を育て、未来を育むことこそ人生最大の価値であることが容易にわかるはずだ。
 だが、どうしても分からない愚か者がいる。それは権力や財産に味をしめ、他人を見下し、足蹴にして自分の利益・利権だけを増やすことが価値であると勘違いした連中なのだ。
 たとえば、ゴールドマン・サックスに代表されるアメリカ金融資本であり、モンサントやベクテルのような巨大企業である。日本では、企業利権のために公害殺人を平然と起こしたチッソや三菱のような企業体であり、厚生官僚であり自民党である。

 その愚か者たちが人類社会の主導権を握ることになり、その結果、大恐慌が起きて、彼らの信ずる、権力や財産の価値が崩壊させられることになった。
 これこそ「天のシナリオ」というしかない。

 これから我々が構築する共同体を支える本質は、見せかけの農地やシステム、財産では決してない。実に、この利他主義の精神なのである。
 利他主義が利己主義にとって代わられ、死滅してしまえば、たとえ巨額の資産を蓄積していても、多数の機材と労働力があったとしても、それは、もはや共同体ではなく、単なる集金マシーンにすぎず、支配者の利益に奉仕する家畜たちの集合体にすぎないのだ。

 利他主義の心こそ、我々が目指し、求める真の共同体の本質である。したがって、農業共同体を作り、それを子供たちの希望ある未来に作り替えてゆくために、一番必要なものは、こうした利他主義を確認し、子供たちを利他思想に薫陶してゆくことである。
 ヤマギシの特講のような、思想的研鑽は共同体を支える柱となるだろう。これが人間と組織を維持する糊になるのであって、連帯を支える共通認識、すなわち利他思想のない共同体などうまくゆくはずがない。

 大切なことは、これを宗教的理念にすり替えたり、既成の硬直した形而上学的思想を持ち出したりしないことだ。
 現実を直視し、一つも嘘をつかず、人間が弱いものであることを認め、虚像、虚構の許されない、自然体人間によって、納得のゆくまで話し合い、連帯の軸を作り出してゆく必要があるだろう。
 「共同体が利他主義によって支えられる」
 という原理、テーゼを、共有することなしには、どんな組織もうまくゆかないのだ。

 もちろん思想だけでメシを食うことはできず、生き抜くこともできないが、今ある人生、今の人間関係に希望を見いだせなくなれば、どんな強固な組織、豊かな財団でもあっというまに崩壊してしまうことを我々は知っている。
 「農業共同体のなかに、参画者が人生の希望を見いだせること」
 これが、我々の当面の目標となるだろう。

 まあ、面倒くさい屁理屈を持ち出す必要などない。
 実は、江戸時代や明治あたりまでの日本の農村社会は、武家勢力による苛酷な搾取があったものの、実は、農業共同体そのものであった。
 このとき、その共有する思想は、とっくに利他主義であり、他人を生かすことが自分を生かすことだという認識は、何も言わなくとも当たり前の常識だったのである。
 理論的武装として、仏教が取り入れられた。仏教もまた、自然の循環、輪廻転生を導く思想であり、利他主義となんら矛盾するものではなかった。
 したがって農村社会には、必ず寺院があり、その講話のなかで、絶えず利他主義と善意が社会を支えるという真理が教育され、再確認されつづけたのである。

 したがって、我々が目指す農業共同体社会は、結局、江戸時代の農村社会に回帰するものということになる。
 構成員が利己的な考えを捨てて、助け合って、みんなの共同体を支えてゆこうとする意志を大切にできれば、後は結果がついてくる。
 問題は、資本主義の持ち込んだ利己主義に洗脳されてしまって、それが、どうしても理解できない者たちをどうするか?
 ということになる。

 次回は、どうしても利他主義を理解できない者たちを、どうすべきか?senntou