名古屋市内の実家で、町内会騒動が起きている。
選挙を経ずに不透明な手続きで選ばれた町会役員が、これまで慣習的に五千円程度認められてきた慰労の温泉旅行に必要なカネを、全額二万五千円、町会費から出すと決定し、それに異議を唱えた他の役員の意見を無視して決定してしまった。
長年積み立てられて残っている数百万円の町会費を、勝手に遊興費に流用したいようだと批判者が指摘している。年間80万円の町内会予算のうち、遊興的慰労費用に半分以上を使うと役員会でお手盛りで決定してしまったのだ。
これによって予算不足が起きて、積立金を使い切った来年は、町会費値上げに追い込まれることが明らかだ。批判者は町会員の95%及ぶ反対署名を集めて提出したが役員会に一蹴された。
町内会は、元々、戦前の大政翼賛会から生まれ、戦時中は徴兵や地域防衛にも関係した国家軍事組織の末端であり、もちろん強制加入だったので、戦後もそれを引き継いだ役員たちに義務加入意識が濃厚に残り、行事に参加しない人に罰金を科したりする強硬姿勢が目立ったが、戦後は、最高裁の判例によって「自由意志での任意団体」という位置づけが確定した。
町内会は、法的には参加も脱退も任意であって、個人意志に基づく自由な団体であり、予算執行も商店経営に近い民事上の問題であって、背任・詐欺などの刑事責任は社団に準じて行われる程度だ。つまり、よほどの窃盗や詐欺でなければ役員や加入者への刑事責任や法的義務は存在しない。
したがって、こうした行為に対する監査・取り締まりは、町内会員による民事賠償請求訴訟しか残されていないわけだが、現実問題として、予算規模年80万円の町内会で弁護士を雇えば数百万円は飛んでしまい事実上不可能だ。
そこで、役員に対する不信感を会員にチラシなどで訴えるしかなく、そうなれば会員のほとんどは加入義務がないことから会費の支出を拒否し、脱会することになり、町内会は崩壊を免れ得ない。
歴史的に受け継がれてきた町内祭礼や氏子行事、防災共同体制が崩壊するばかりか、私腹を肥やす役員たちは、ほとんどの人が脱会した後、町会費を自由に散財できることになり、なんともやりきれない結果が残るだけだ。
これを、どう解決するか?
筆者も相談を受けて、アタマを悩ましているところだ。結局、一連の事情をパンフレットにして、問題点を浮き彫りにして加入者に配布して判断を仰ぐしかないわけだが、古くからの居住者ならともかく、この十数年ほどの移住者は、おそらく、騒動への関与を嫌って脱退する結果になるだろう。
そうして、これまで町内会が担ってきた、神社氏子費用や、学区分担金、防災費用などは支払えず、区部上位組織への影響も大きい。さらに他の町内会への波及も免れ得ないだろう。おそらく町内会は解散し、再建される見込みも消えてしまうにちがいない。
こうした住民自治組織が担ってきた役割がどのようなものか? それは失われてから思い知らされることだ。しかし、それ以上に、町内会を必要とし、産み出してきた住民の連帯感が消えてしまえば、町内会は滅びさるしかないことを知るべきであり、それを復活させたいなら、会という形式よりも先に町内の連帯感を復活させることが必要なのである。
この役員たちは、かつての町会役員が当たり前に持っていたボランティア精神に乏しく、有り余った積み立て会費に目がくらみ、これで少しいい思いをしたい思ったのだろう。「詐欺や背任一歩手前で上手に使ってやれ」という思惑が見える。
それでは、彼らを解任することに成功して、自己犠牲的にみんなのことを考える役員が登場してくれるかといえば、実は、それも期待できないのだ。そうした人たちは、みんな年老いてしまった。
筆者が、それを委任されたとしても、おそらく面倒なばかりで、やりたいと思わない。町内に運命共同体的な利害関係があり、強い連帯感が育まれていたなら喜んで引き受けるかも知れないが、現実の町内は、コミュニケーションも乏しく、貧富の格差もあり、連帯感に乏しく、つきあっていても、ちっとも楽しくないのだ。正直な気持ち、町内会が消えたとしても、面倒が少なくなるという程度の認識にすぎない。
筆者が実質居住する中津川市内の僻地でも、古い村落の伝統を残す町内会は面倒な制約が多くて加入したいと思わない。それに、筆者が庭で落葉を燃していると50mほど離れた常住者A氏が、すぐに消防に通報するという具合で、文句の多い苛酷な隣人と仲良くなろうという気はさらさら起きないから、住民票の移転も結局諦めてしまった。
ゴミ捨ても地元で拒否され、中津川市と交渉して車で10分以上かかる旧役場のゴミ箱まで捨てにゆかねばならないようになり、ますます地元民との運命共同への意欲が遠のいてしまい、カネさえあれば遠野市などの人の住まない山中に移転したいと思っている。
正直、連帯感の生まれない近所付き合いは懲り懲りだ。役所通報大好きのA夫婦と顔を合わせるだけで不快感がある。
今、問題を起こしている町内会役員になっている人たちは、地元商店の人が多く、苛酷な不況のなかで苦しい生活状況から、こうした継承資金に気が緩んで、浪費の気持ちが動いてしまたのだろう。みんなが連帯を拒み、町内会に大きな期待をかけていない以上、余剰資金を私物化したくなるのも仕方ないような気もする。
暴力団あたりでも、町内会はおろか、寺社の氏子利権を狙って入り込み、ときに住職にまでなって共有土地財産を売り飛ばす手口が増えていると、かなり前から少なくない例を見聞している。
こうした事情を見るにつけ、この日本社会全体が、明らかに利己的な金儲けを追い求めるばかりで、連帯し、みんなの利益に奉仕することに人生の喜びを見いだす利他主義を見失っていると思うしかない。日本人全体が、他人の利益に奉仕することを喜びと感じるボランティア精神を失っているのだ。
これでは、人の信頼を前提として成り立つ、あらゆる組織が崩壊するしかないのである。
筆者は、これまで、我々が見ている現代は、日本中、世界中、いや、人類すべての組織という組織が崩壊している時代だと指摘してきた。
その理由は、資本主義の爛熟が人類を金儲け競争に追い立て、利己主義に洗脳した結果、人々が他人への思いやりを人生の行動原理にするという、生きるための基本姿勢を見失ったからだと繰り返してきた。
隣人や仲間を大切にしたいと思う気持ちはどこから生まれるか考えていただきたい。それは連帯感から生まれるのである。今、筆者の居住地で連帯感はなく、実家の町内でも連帯感はなく、地域社会でも貧富の格差から恨みこそ芽生えても連帯感が育まれる土壌が見えない。
小泉・竹中・自民党保守勢力が、格差社会をもたらし、民衆から連帯感を奪い去ったのだ!
これで連帯感によって支えられてきた組織が崩壊しないはずはないのである。
資本主義社会にあって、醒めた目で見るなら、組織というものは実は金儲け競争だけに奉仕するものなのでである。それは金儲けを目的とした企業ばかりではなく、軍隊でも、警察でも、タリバンでも、創価学会でも、CIAやMI6でも、統一教会でも、ローマカトリック本山でも、キレイゴトの能書きの下で、本当は、すべて金儲けを目的としているのである。
組織の力によって効率的に金儲けすること、これが組織の唯一の本質である。治安維持だの、民衆教化だのキレイゴトのタテマエに騙されてはいけない。金儲け以外の理由で組織を結成する意味などどこにもないのだ。組織によって生まれる権力が用いられるのは金儲けだけなのである。
会社だけではない、家族・私有財産・国家という組織は、すべて、金儲け競争の必然性によって成立している。逆に、この世から金儲け競争が消えるなら、会社はおろか、家族・私有財産・国家も消えてしまうのである。軍隊もCIAもキリスト教会もだ。
しかし、人と大地が消えるわけではない。ただ「他人よりもよいもの、よりたくさんのカネを手に入れたい」との欲求が曇らせていた目が晴れるだけだ。欲望の霧が晴れれば人間と自然の原点が鮮明に見えるようになる。人間は、本当の人間と、本当の自然を見て生きてゆくことができるだろう。
もう競争に無我夢中になり、自分も他人も騙す必要はなくなるのだ。
だが、しかし・・・・
結局は金儲けの利己主義を呼び起こすだけの組織であっても、それを維持しようとすれば、組織を大切にする構成員の意志とメカニズムが必要になる。
組織というものは人の集まりだ。人の集まりというのは、連帯感を求めて生みだされるものだ。そして、他人への思いやり「利他主義」がなければ決して成立しない。集まったみんなが自分だけの利益、「利己主義」を求めるならば、どうして集まりが続く道理があるだろう。連帯のない組織が延命できる道理がないのだ。必要なものは連帯に導かれた利他主義なのである。
組織への依存と信頼が団結力を産み、団結力が組織でしかなしえない大きな組織力を産み出すのである。依存するということは、組織が自分の利益に奉仕してくれると信頼するからだ。
これまで、我々は国や会社といった「組織がなければ生きてゆくことは不可能」だと教えられてきた。
しかし、今では国や会社が、自分を利用するだけだという真実を思い知らされる機会が多くなった。それは国家の官僚や企業経営者たちが、組織を利用して私腹を肥やすことしか考えないようになり、構成員を奴隷のように使役するだけで、メリットを与えないようになったからだ。
使うだけボロボロになるまで使い、不況で都合が悪くなればボロ雑巾のように捨ててしまうリストラが官僚や経営者の常識になったからだ。
これでは組織への信頼など産まれるはずがなく、連帯感が生みだされるはずもない。構成員も簡単に組織を見捨てるしかない。
国や会社といった組織が自分に利益を与えてくれないならば、組織に依存しないでも生きられるなら、人は組織など見向きもしないだろう。面倒くさいだけだからだ。
組織が必要だからこそ人々は組織を大切にするのだということを見失ってはいけない。国や会社が自分を助けてくれないと、みんなが思いはじめたなら、それは崩壊するしかないのだ。
そして、組織を維持するためには、何よりも連帯感を重視しなければならない。連帯こそ組織の命である。連帯こそ、構成員が組織から受ける最大の利益なのである。
リーダーが組織に滅私奉公し、それを見て底辺の人たちが組織を信頼するメカニズムが必要なのだ。
このことが理解できない利己主義リーダーの元では、町内会から企業、国家に至るまで崩壊の運命しか残されていないという現実を、我々は思い知らされ続けることだろう。