厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?
セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・
現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。
大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。
筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。
ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。
アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。
このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。
こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?
筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。
これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ
さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。
たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。
このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。
なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。
警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。
すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。
今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?
第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。
それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。
アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。
これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?