2010年01月

    bouhan
     セキュリティ社会 その6

     厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
     セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
     我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?

     セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
     外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
     泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
     セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・

     現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
     少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
     筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
     といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。

     大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
     必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
     それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。

     筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
     最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
     秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。

     ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
     最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。

     アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
     やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
     こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。

     このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
     セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。

     こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?

     筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
     盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
     なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
     また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。

     これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
     しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ

     さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
     セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。

     たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。

     このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
     検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。

     なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。

     警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。

     すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
     誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
     しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
     今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。

     今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
     日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
     だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
     アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?

     第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
     その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
     もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
     日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。

     それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
     どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
     米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。

     アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
     911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
     ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。

     これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
     いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
     アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?
     
      

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     セキュリティ社会 その6

     厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
     セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
     我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?

     セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
     外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
     泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
     セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・

     現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
     少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
     筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
     といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。

     大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
     必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
     それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。

     筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
     最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
     秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。

     ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
     最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。

     アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
     やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
     こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。

     このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
     セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。

     こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?

     筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
     盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
     なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
     また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。

     これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
     しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ

     さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
     セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。

     たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。

     このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
     検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。

     なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。

     警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。

     すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
     誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
     しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
     今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。

     今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
     日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
     だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
     アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?

     第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
     その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
     もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
     日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。

     それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
     どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
     米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。

     アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
     911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
     ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。

     これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
     いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
     アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?
     
      


     厳重なセキュリティを実施して、本当に安全になったのか? を、もう一度見つめ直してみよう。
     セキュリティというものは、本当はトクなのか、ソンなのか、どちらなのだろう? 行きすぎた対策による無駄、逆効果はないのか?
     我々が本当に必要とするセキュリティは、どのようなものか?

     セキュリティというものが、必ずしも我々の生活に寄与するばかりでなく、大きなトラブルを引き起こし、生活を不快にしているかもしれない。
     外部からの招かざる侵入者を排除しようとするあまり、内にいる人が愚かな間違い、失敗をすることを忘れてしまって、結局、自分自身を排除する結果に終わっているかもしれない。
     泥棒を一回くらいブロックしたかもしれないが、鍵を紛失した自分を百回ブロックしたかもしれない。
     セキュリティシステムにより、泥棒による損失の百倍深刻なダメージを蒙っていたかもしれない。鍵を壊して家に入ったために、泥棒被害の数十倍の修理代がかかったかもしれない。こんなことならセキュリティなど、ない方が良かったと・・・・

     現実問題として、家に鍵をかけなければ泥棒に入られて大事なモノを盗まれる可能性は小さくない。こうしてセキュリティ思想を攻撃する筆者だって、実は鍵をかけている。
     少額ではあるが盗まれる可能性のあるモノを所有しているからだ。本当に何もなければ、もちろん鍵など必要ない。しかし、盗人における価値観は不定であって、純金や預金通帳ばかりが盗む価値を持っているだけでなく、飢えた人にとっては一食分の弁当だって、十分に盗む価値のあるものだ。
     筆者宅では、高価な工具類は鍵のかかる部屋にしまってあるし、わずかなカネも目立たぬよう隠してある。食料まではブロックしていない。飢えているなら無断で食べなさい・・・。
     といいながら、この数年は、カラスやアライグマ・ハクビシン・ネズミからニワトリと卵を守るセキュリティに腐心しているのが実情だ。

     大切なことは「バランス」という視点であって、「盗まれる」という被害妄想に囚われて、必要以上のセキュリティを敷設すれば、それは生活の重荷になり、自分自身が迂闊さによって自分の家から排除される結果を招くのである。
     必要な視点は、生活の便利さを大切にし、無用の重装備セキュリティを作らないこと。バランスのとれた「必要にして十分」な準備をするにとどめることである。
     それでもセキュリティを突破されて被害が生じたなら、「やるべきはやった、やむをえない」と諦めるしかない。

     筆者は若い頃、単独での冬山登山やクライミングに凝っていたことがある。
     最初のころは、冬山の実態も知らず、どのくらい寒いのか? どのくらい危険なのか? どのくらい疲れるのか? などを手探りで体験を積み重ねた。
     秋山や春山から少しずつ慣らしていったつもりだが、それでも、はじめて厳冬期のアルプスに入山するときは緊張し、伝え聞いた遭難の恐怖に怯え、その対策に膨大な装備を持参し、重量に押しつぶされそうになって、「冬山とは、こんなに苛酷なものか」とうんざりし、登山が辛い苦行でしかなかった。

     ところが、若さに任せて何度も経験を積むうちに、体験する寒さの程度、それを克服できる装備や問題点も理解できるようになり、持参する荷物の量がどんどん減ってゆくことになった。
     最初、一泊二日で30キロ以上の荷物を背負っていたのに、数十回も冬山を経験すると半分程度の荷物になった。

     アイゼン・ピッケル・ワカンのような基本装備は、もちろん手を抜かないが、防寒着や燃料、食料などが減っていった。また、持参した装備を最大限に利用する知恵を身につけた。たとえば、マットの代わりにザックを利用するとか、すべての衣類・雨具を同時に着込むとかだ。
     やがて、三泊四日の厳冬期装備でも30キロに満たないほどになり、大型ザックが中型に変わった。テントはやめて、雪洞とツエルト利用に変わった。シュラフも持参せず、羽毛服とカバーだけでマイナス20度のなか寝られるようになった。この頃は、厳冬の名古屋の街をTシャツで闊歩していたぞ(^o^)。
     こうなればラクチン・ラクチン、冬山の素晴らしさを思いっきり謳歌できるようになった。スポーツの極意は「力を抜くこと」だ。冬山登山も、怖がらず、力を抜いて行えば、とても楽しいものである。

     このようにして、恐怖していた相手の正体が分かるにつれて、その対策も容易になり、どんどん無駄を省くことができるようになる。
     セキュリティ思想とは、冬山のサバイバルと同じである。まずは、守るべき自分と、襲ってくる相手を理解することができれば「百戦危うからず」、本当に必要な対策だけに絞り、軽快な余力を生み出すことができるのだ。

     こうした視点で、身の回りにある、あらゆるセキュリティを見直してゆきたい。過剰な恐怖心によって、無駄なことをしていないか? 恐怖心を煽る人たちが、セキュリティに名を借りて、勝手なことをしていないか?

     筆者のアイデアとしては、たとえば、家のセキュリティには、必ず分かりにくい弱点を作っておく。鍵をなくしたときのために、一カ所だけ鍵をかけない小窓を作り、黒いガムテープなどで偽装するとよい。筆者宅では、簡単に壊せるが復旧の簡単な窓を用意してある。
     盗まれて困るものは、それらしい目立つ場所に保管するのは避ける。厳重包装などで、簡単に分からないようにする。
     なお、筆者は天皇制反対主張などで「殺してやる」「燃してやる」という脅迫をたくさん受けているので、一応、監視カメラを複数設置してある。ダミーは目立つ場所に、ホンモノは絶対分からないように設置する。
     また、深夜襲われても困るのと、動物侵入対策を兼ねて、あちこちにセンサー警報機を置いてある。当地は熊やイノシシもいて、人間より動物が恐ろしい場所だから。

     これまで書いてきたように、筆者の命も財産も、とりたてて守るほどの値打ちもないから、一応、簡単なセキュリティを設置してあるものの、基本的には、盗まれたり殺されたりすることを覚悟し、仕方ないと諦めることしかない。
     しかし、カネをたくさん所有している人は、盗まれる恐怖に苛まれて重装備に押しつぶされる人生を歩まねばならず、とても気の毒だ・・・・ガハハハハ

     さて、筆者がセキュリティ社会について書いている本当の狙いは、もちろん泥棒対策ではない。
     セキュリティを口実に、人々の連帯を破壊し、人間不信をもたらすような社会常識に警鐘を鳴らすこと、それに国家や会社などの組織のセキュリティについては、「誰から何を守るのか?」 はっきりさせる必要があるからだ。

     たとえば、警察・検察・自衛隊・アメリカ軍あるいは消防・役場などを考えてゆくと、この組織の本当の狙いは、「民衆の生活を守る」というタテマエでありながら、実際には、民衆から権力者を守るためだけに機能していると思うしかないものが存在している。

     このところ検察による鳩山・小沢など民主党攻撃を見ていると、権力を利用して、民主党政権を破壊しようとする政治目的、国策捜査を行っているとしか思えない理不尽さを感じる。
     検察の権力意識、傲慢さは今に始まったことではないが、「官僚制度による予算の無駄を省き、官僚による政治支配をやめさせる」という民主党政策に対し、全官僚の代表として、その司法権力を使って政権に真っ向から喧嘩を売っているとしか思えず、結局、検察を任命してきたのが前政権、自民党であることを思えば、検察が自民党と官僚社会の復権を狙った政治弾圧を行っていると判断すべきだろう。

     なお筆者は、以前から、東京高検などの検事が統一協会の影響を強く受けているという情報を得ている。中曽根政権時代に、統一協会原理研の学生たちが、政権のコネを利用して大量にキャリア幹部候補生として司法界に入り込み、30年近く経て、当時の学生が今、警察・検察・司法の幹部クラスに収まっているようだから、こうした自民党復権を目指した民主党弾圧も当然の帰結であろう。

     警察・検察・裁判所の司法は、日本国民のセキュリティシステムの要に位置するわけだが、そのなかに統一協会(文鮮明・正力松太郎・岸信介らが発起人になった国際勝共連合)系人脈がいるとすれば、日本司法のセキュリティとは、民衆の権利と安全を守るためのものでは決してなく、国家権力と反共政治体制、それに統一協会を支える巨大軍産企業を、国民の怒りから守るためのものであると考えるしかない。

     すなわち、司法は、国民の権利と安全を守るフリをしながら、実際に守っているものは権力であり、官僚たちのや巨大企業の利権なのである。
     誰から守るのか? といえば、我々から守るわけだ。末端の交番に勤務する「おまわりさん」のなかには、親身になって国民の安全を守ろうと日夜努力している人がたくさんいるのは事実だ。
     しかし、その警官を束ね、命令する最高権力は、実は、セキュリティの名を借りながら官僚利権と大企業だけを守ろうとしているのである。
     今回の、東京地検特捜部による民主党政権弾圧は、まさに、その本質、正体をあからさまに、我々に見せている。

     今回、本当に書きたかったのは、実は日米安保条約だ。しかし紙数の都合で、またもや核心部分を次回に延ばすしかない。
     日米安保条約は「他国の侵略から日本の安全を守る」という名目で実施されている。
     だが、アメリカだって自国利益最優先の国是であり、自分たちのトクにならないことをやるはずがない。「世界平和のためにタダで他国の防衛を引き受けている」なんてオメデタイことを考えてはいけない。
     アメリカの本当の狙い、安保条約による権益とは何なのか?

     第一に、日本を守ると見せかけて、本当の狙いは、日本をアメリカの植民地とすることである。
     その証拠に、駐留米軍が、戦後65年間、日本人を他国から守った事実は皆無である。しかし、日本人の権利を侵し、苦しめたことは無数にあり、とりわけ沖縄など基地周辺の人々に多大な被害を与えてきた。
     もし、米軍が本当に「日本を守る」つもりであったなら、ソ連・ロシア・北朝鮮・韓国などによる数多くの漁船拉致、没収、誘拐拉致などが起きているはずはない。
     日本における、こうした他国の侵害行為は、ほとんどの場合、米軍が掌握しており、その気になれば、いくらでも出動して阻止することができた。しかし、それを一度として実行したことはなく、日本人民を守ったことはない。

     それどころか、米兵による犯罪ばかりか、えひめ丸事件のように事故によって多数の日本人を殺傷しており、日航123墜落事故の真相も、米軍によるミサイル誤射だったという確度の高い情報が知られ始めている。
     どうしてこうなるか? といえば、在日駐留米軍は、元々、日本を守る意志などさらさらないからである。
     米軍が守るのはアメリカの権益利権だけであって、日本人民の権利や安全を守るなどという屁理屈は、自民党の捏造したウソ八百であり、それが、どれほど欺瞞と捏造に満ちたインチキだったかは、最近明らかになった「核持ち込み密約」の暴露によっても明らかである。

     アメリカ政府は、自国の権益を守るために平然と他国を侵略し、莫大な人々の命を平気で奪う国なのである。
     911テロを口実に、イラクの石油利権を求めて、アフガンやイラクに侵攻し、アメリカ兵と民衆、数百万人を地獄に堕とし、その命を奪い続けている。
     ロックフェラー系列の軍産企業、ベクテルやモンサントを儲けさせるために、枯葉剤、ダイオキシンをベトナムに大量に撒布し、未だに凄まじい被害が出続けている。

     これらは、「共産主義の脅威・テロの脅威」から守るために、行われた。
     いったい誰から? いったい誰を守ろうというのか?
     アメリカは、莫大なカネを投じて、いったい何を守ろうとしているのか?
     
      


     セキュリティ社会 その5

     セキュリティ社会の本当の意味を理解するためには、セキュリティを必要とする者が決して社会の全員ではないという真実を知る必要がある。
     社会の誰がセキュリティを必要とし、誰が必要としないのか?
     先に結論を言ってしまえば、セキュリティの必要な者は、セキュリティによって「守るべきもの」を「所有」する者だけなのである。それがない者にとって、どのようなセキュリティが必要だというのか?

     パソコンを例にとってみよう。
     先にパソコンのCPU速度が千倍になったのに、実用速度はあまり変わっていないという話をした。その理由は、ウイルスチェックなどセキュリティシステムが極端に大きく重くなったためである。
     本当ならば、我々は草創期の千倍のスピードでパソコンを利用することができるはずなのに、多くの人にとって不要無用のクソ重たいセキュリティシステムを押しつけられて、草創期と変わらないほど、ときには、それ以上に遅い実用性能に、煮えくりかえるような思いを我慢させられている。
     いったい誰のための、何のためのセキュリティなのか?

     それは、悪意や悪戯でデータを破壊されたり、「トロイの木馬」に侵入されて、データを盗まれない対策を必要とする人たちの要求であった。
     だが考えてごらん。パソコンで資産運用やクレジットなどを扱わない限りは、イタズラに対処すれば十分なわけだから、今のウィンドウズの資産運用セキュリティシステムは面倒で、邪魔で、余計なガラクタ以外の何ものでもないのだ。

     イタズラでシステムを壊されても、昔のパソコンはROMベースだったから、立ち上げ直すだけで復旧した。しかし、今は金儲けに直結したデータを盗まれたり、破壊されるわけにはいかないから、外部から侵入されないよう壮大な防御システムが設置されている。
     それでも、それを突破しようとするハッカーとイタチごっこで、いつまでたっても「安全で早いパソコン」は実現しないのだ。筆者が利用しているVISTAも購入当初から比べるとセキュリティが数倍重くなったために、初期メモリでは間に合わないほどだ。
     普段使っていても、突如、意志に反して勝手にダウンロードを始め、警告に気づかないうちに再起動されてしまい、パソコンをぶち壊したくなることもしばしばだ。
     守るべき資産を持たない我々がパソコンを利用しようとするとき、今のウィンドウズは、容易に異なるソフトで同じファイルを認識し、扱うことさえできない。よくも、こんな欠陥品を高値で売りつけているものだとマイクロソフトのセキュリティ思想に激怒するしかないが、これこそ、その本質を如実に示しているのである。一方で、マイクロソフトOSには、所有者データを統一的に収集管理しているという噂がつきまとっていることも覚えておきたい。

     ウインドウズ・セキュリティシステムの本質は、他人との区別、差別であり、人間疎外である。それは「他人を絶対に信用しない!」という人間不信の姿勢に貫かれている。自分の姿を徹底的に隠し、自分のデータ、資産を犯されないためのシステムを確立しようとしている。
     「自分のことを絶対に他人に教えない」
     これが、パソコンに限らず、セキュリティシステムに共通する本質であり、それを信奉するアメリカ国家や資本主義体制が世界人民に強要している根源的なモラルである。それは人間社会を人間不信の思想で塗りつぶすものだ。

     セキュリティ思想が、なぜ必要なのか? それは、他人が自分の利益を奪うという強迫観念を前提としているからだ。それは「他人は敵である」との基本哲学から出発している。
     だが、筆者が幼児少年として育った50年前の貧しい日本の街角では、人はもっと優しいものだった。他人を恐れる人など滅多にいなかった。

     道で倒れている人がいれば、みんなで寄ってたかって心配し、救急車を呼び、夫婦喧嘩で追い出された隣の女房がいれば、親身になって泊めてやって、横暴な旦那に対し、町内をあげて糾弾の談判をしたものだ。
     自分が食えなくとも、飢えた人に食事を提供する人だって珍しくもなかった。
     みんな他人のことを知り、噂し、深く同情し、連帯し、一緒に助け合って生きている実感を抱いていた。そこには人間疎外はなく、人間不信もなかった。
     他人を深く知り、自分と一体で生きているということを理解することが、人生の喜び、生きる希望を与えてくれたのだ。他人の情報を知るということこそ、生きるための第一歩であった。

     朝起きて玄関を出れば、隣人の暖かい笑顔があった。だから家の鍵さえ必要なかった。セキュリティなんて、愚かな、つまらない思想も必要なかったのである。
     当時、確かに泥棒もいた。だから鍵もあった。だが泥棒に入られるより、隣人との交際に鍵をかけることを恐れた人の方が多かった。鍵が普及したのは、「三種の神器」家電製品の普及と同じ時期だった。
     セキュリティは「守るもの」と同時に成立したのである。

     読者は、信頼している人物が、自分のことを決して教えようとしないなら、どのような気分になるだろう?
     とても空しい、寂しい気分になって、「自分が信頼されていない」と悲しくなるだろう。
     逆に考えてみよう、人を愛するということ、信頼するということの前提は、まず言葉を交わし、「他人を知る」というところから始まるのだ。そこから交際が出発し、愛が育まれるのである。
     その逆、「教えない」ということは、愛と信頼の関係を拒絶するということであり、敵対宣言なのである。
     「人に自分を教えない社会」これがセキュリティ社会である。ということは、すなわち、人間同士を敵対させる社会を意味している。人が孤立し、愛が破壊される社会を意味しているのである。
     セキュリティは人間関係の根底を破壊する。人を愛するということは、人を知るということであり、自分を見せるということである。それを拒否する思想は、人間関係を孤立させ、破壊する思想である。

     こうしたセキュリティ社会が誰に何をもたらしたのか?
     我々は、はっきりと見ておかなければならない。
     セキュリティ社会でトクをする者がいる。人間同士の愛が破壊されて儲かる者たちがいる。逆に言えば、人が敵対意識を持たないようになると困る一群の人々がいある。
     人が周囲をすべて敵と認識し、人間不信に陥って権力の庇護を要求し、利己主義の権化となって金儲け蓄財だけに邁進することで、いったい誰がトクをしているのか?
     このことこそが、セキュリティ社会の本質を見抜くための基礎知識である。このことこそ、現代人間社会の根底に仕掛けられた罠を見抜く唯一の視点である。

     別の角度から見てみよう。
     我々、日本列島に住む者、「日本人」は、戦後、日米安保条約により「安全」が守られてきたと信じている者が多い。
     「日本列島はロシア(ソ連)・中国・北朝鮮などから絶えず狙われていて、もし米軍が駐留していなければ、たちどころに軍事侵攻されて侵略併合されてしまう」
     という認識が当然であると見なされてきた。
     この立場こそ戦後、自民党が政権を超長期にわたって維持し、日本をコンクリートで固め、巨大な借金に押しつぶしてきた根底にある前提であった。

     「日本を『共産主義の脅威』から守ってくれるセキュリティシステムのアメリカ」
     この認識によって、日本がアメリカに支払ってきた経費は、戦後、おそらく1000兆円にも上るだろう。国民の得るべきカネの半分近くがアメリカに供与されてきた。
     多くは米国債購入だが、その米国債はアメリカの5000兆円の借金と相殺されて紙屑になる宿命が約束されているわけだから、結果としてタダであげたに等しいのである。

     だが、戦後65年間、アメリカが、主に沖縄人民の犠牲の上に巨大な米軍を駐留させ、それによって日本人民の利益を守った事実が一度でも存在したのか?
     皆無である。逆に、アメリカの戦後侵略戦争の基地として機能してきた。
     朝鮮戦争とベトナム戦争のもっとも重要な出撃基地であり、アフガン・イラク戦争の拠点としても機能してきた。
     自民党は「日本国内の米軍基地が他国への抑止力として働いてきた」と強弁しているが、決してそうではない。
     米軍駐留の真の狙いは、日本国内における社会主義運動の高揚を軍事的に圧殺する目的であり、日本政権が左傾化したときに、それを軍事的に恫喝し、実力で圧殺するための監視機能に他ならなかったのである。

     米軍の軍事的機能や経費の合理化などの視点からは、すでに20年も前からグアム島基地集約論が提起されていて、実際に米軍は、グアムへの一括集約機能を着々と準備してきた。普天間基地は、とっくに整理してグアムに移転させる計画が知られていたのである。
    http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/091126_mayor_5.pdf
     それでは、稀少珊瑚やジュゴンの生息する海を大規模に埋め立てて「辺野古基地を早急に実現せよ」と、ごねている米軍の姿勢は何なのか? これは沖縄における米軍利権を日本政府に高く買い取らせるための陰謀策略以外のものではない。

     この事情の背景には、日米安保条約の恐るべき真意が隠されていた。沖縄は日本政府を監視するための基地であるとともに、日本の利権、資源を横取りするための基地でもあった。
     昨年、オバマ政権誕生までは、ジョゼフ・ナイという人物が日本大使に任命される予定だったが、オバマはナイを退け友人のジョン・ルースを赴任させた。
     ところが、このナイという人物こそ、戦後、アメリカの利権を代表した戦後対日軍事戦略の核心にいる人物であった。
     彼は、かつて国防次官補として通称「ナイ・イニシアティヴ」と呼ばれる「東アジア戦略報告(EASR)」を作成したが、そのなかで、尖閣諸島に眠るサウジアラビア級の原油資源をアメリカが横取りするために、日中戦争を誘導させよと進言していたのである。
    http://www.asyura2.com/09/senkyo57/msg/559.html

     今、民主党政権が米軍をグアム集約させると決定していながら、沖縄から撤退しない本当の理由が、ここに書かれていた。
     それは、日米安保条約の根幹に関わる真実であり、「日本を『共産主義の脅威』から守っていると見せかけて、実際には、日本政権の左傾化を監視、弾圧し、対アジア軍事戦略の拠点として利用し、さらに日本の資源を横取りすることが目的であることを示していたのである。

     紙数が長くなりすぎるので、これは別項で書くことにしよう。
     問題は、こうしたセキュリティの思想は、本当に人を守るというものでは決してなく、ある特定の目的のための口実として利用されるという真実を知っておく必要があるのだ。

     セキュリティ社会が、本当はいったい何の目的で人間社会を拘束しているのか? これを明確に分析し、その正体を見抜いておかねばならない。

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    hutennma
     セキュリティ社会 その5

     セキュリティ社会の本当の意味を理解するためには、セキュリティを必要とする者が決して社会の全員ではないという真実を知る必要がある。
     社会の誰がセキュリティを必要とし、誰が必要としないのか?
     先に結論を言ってしまえば、セキュリティの必要な者は、セキュリティによって「守るべきもの」を「所有」する者だけなのである。それがない者にとって、どのようなセキュリティが必要だというのか?

     パソコンを例にとってみよう。
     先にパソコンのCPU速度が千倍になったのに、実用速度はあまり変わっていないという話をした。その理由は、ウイルスチェックなどセキュリティシステムが極端に大きく重くなったためである。
     本当ならば、我々は草創期の千倍のスピードでパソコンを利用することができるはずなのに、多くの人にとって不要無用のクソ重たいセキュリティシステムを押しつけられて、草創期と変わらないほど、ときには、それ以上に遅い実用性能に、煮えくりかえるような思いを我慢させられている。
     いったい誰のための、何のためのセキュリティなのか?

     それは、悪意や悪戯でデータを破壊されたり、「トロイの木馬」に侵入されて、データを盗まれない対策を必要とする人たちの要求であった。
     だが考えてごらん。パソコンで資産運用やクレジットなどを扱わない限りは、イタズラに対処すれば十分なわけだから、今のウィンドウズの資産運用セキュリティシステムは面倒で、邪魔で、余計なガラクタ以外の何ものでもないのだ。

     イタズラでシステムを壊されても、昔のパソコンはROMベースだったから、立ち上げ直すだけで復旧した。しかし、今は金儲けに直結したデータを盗まれたり、破壊されるわけにはいかないから、外部から侵入されないよう壮大な防御システムが設置されている。
     それでも、それを突破しようとするハッカーとイタチごっこで、いつまでたっても「安全で早いパソコン」は実現しないのだ。筆者が利用しているVISTAも購入当初から比べるとセキュリティが数倍重くなったために、初期メモリでは間に合わないほどだ。
     普段使っていても、突如、意志に反して勝手にダウンロードを始め、警告に気づかないうちに再起動されてしまい、パソコンをぶち壊したくなることもしばしばだ。
     守るべき資産を持たない我々がパソコンを利用しようとするとき、今のウィンドウズは、容易に異なるソフトで同じファイルを認識し、扱うことさえできない。よくも、こんな欠陥品を高値で売りつけているものだとマイクロソフトのセキュリティ思想に激怒するしかないが、これこそ、その本質を如実に示しているのである。一方で、マイクロソフトOSには、所有者データを統一的に収集管理しているという噂がつきまとっていることも覚えておきたい。

     ウインドウズ・セキュリティシステムの本質は、他人との区別、差別であり、人間疎外である。それは「他人を絶対に信用しない!」という人間不信の姿勢に貫かれている。自分の姿を徹底的に隠し、自分のデータ、資産を犯されないためのシステムを確立しようとしている。
     「自分のことを絶対に他人に教えない」
     これが、パソコンに限らず、セキュリティシステムに共通する本質であり、それを信奉するアメリカ国家や資本主義体制が世界人民に強要している根源的なモラルである。それは人間社会を人間不信の思想で塗りつぶすものだ。

     セキュリティ思想が、なぜ必要なのか? それは、他人が自分の利益を奪うという強迫観念を前提としているからだ。それは「他人は敵である」との基本哲学から出発している。
     だが、筆者が幼児少年として育った50年前の貧しい日本の街角では、人はもっと優しいものだった。他人を恐れる人など滅多にいなかった。

     道で倒れている人がいれば、みんなで寄ってたかって心配し、救急車を呼び、夫婦喧嘩で追い出された隣の女房がいれば、親身になって泊めてやって、横暴な旦那に対し、町内をあげて糾弾の談判をしたものだ。
     自分が食えなくとも、飢えた人に食事を提供する人だって珍しくもなかった。
     みんな他人のことを知り、噂し、深く同情し、連帯し、一緒に助け合って生きている実感を抱いていた。そこには人間疎外はなく、人間不信もなかった。
     他人を深く知り、自分と一体で生きているということを理解することが、人生の喜び、生きる希望を与えてくれたのだ。他人の情報を知るということこそ、生きるための第一歩であった。

     朝起きて玄関を出れば、隣人の暖かい笑顔があった。だから家の鍵さえ必要なかった。セキュリティなんて、愚かな、つまらない思想も必要なかったのである。
     当時、確かに泥棒もいた。だから鍵もあった。だが泥棒に入られるより、隣人との交際に鍵をかけることを恐れた人の方が多かった。鍵が普及したのは、「三種の神器」家電製品の普及と同じ時期だった。
     セキュリティは「守るもの」と同時に成立したのである。

     読者は、信頼している人物が、自分のことを決して教えようとしないなら、どのような気分になるだろう?
     とても空しい、寂しい気分になって、「自分が信頼されていない」と悲しくなるだろう。
     逆に考えてみよう、人を愛するということ、信頼するということの前提は、まず言葉を交わし、「他人を知る」というところから始まるのだ。そこから交際が出発し、愛が育まれるのである。
     その逆、「教えない」ということは、愛と信頼の関係を拒絶するということであり、敵対宣言なのである。
     「人に自分を教えない社会」これがセキュリティ社会である。ということは、すなわち、人間同士を敵対させる社会を意味している。人が孤立し、愛が破壊される社会を意味しているのである。
     セキュリティは人間関係の根底を破壊する。人を愛するということは、人を知るということであり、自分を見せるということである。それを拒否する思想は、人間関係を孤立させ、破壊する思想である。

     こうしたセキュリティ社会が誰に何をもたらしたのか?
     我々は、はっきりと見ておかなければならない。
     セキュリティ社会でトクをする者がいる。人間同士の愛が破壊されて儲かる者たちがいる。逆に言えば、人が敵対意識を持たないようになると困る一群の人々がいある。
     人が周囲をすべて敵と認識し、人間不信に陥って権力の庇護を要求し、利己主義の権化となって金儲け蓄財だけに邁進することで、いったい誰がトクをしているのか?
     このことこそが、セキュリティ社会の本質を見抜くための基礎知識である。このことこそ、現代人間社会の根底に仕掛けられた罠を見抜く唯一の視点である。

     別の角度から見てみよう。
     我々、日本列島に住む者、「日本人」は、戦後、日米安保条約により「安全」が守られてきたと信じている者が多い。
     「日本列島はロシア(ソ連)・中国・北朝鮮などから絶えず狙われていて、もし米軍が駐留していなければ、たちどころに軍事侵攻されて侵略併合されてしまう」
     という認識が当然であると見なされてきた。
     この立場こそ戦後、自民党が政権を超長期にわたって維持し、日本をコンクリートで固め、巨大な借金に押しつぶしてきた根底にある前提であった。

     「日本を『共産主義の脅威』から守ってくれるセキュリティシステムのアメリカ」
     この認識によって、日本がアメリカに支払ってきた経費は、戦後、おそらく1000兆円にも上るだろう。国民の得るべきカネの半分近くがアメリカに供与されてきた。
     多くは米国債購入だが、その米国債はアメリカの5000兆円の借金と相殺されて紙屑になる宿命が約束されているわけだから、結果としてタダであげたに等しいのである。

     だが、戦後65年間、アメリカが、主に沖縄人民の犠牲の上に巨大な米軍を駐留させ、それによって日本人民の利益を守った事実が一度でも存在したのか?
     皆無である。逆に、アメリカの戦後侵略戦争の基地として機能してきた。
     朝鮮戦争とベトナム戦争のもっとも重要な出撃基地であり、アフガン・イラク戦争の拠点としても機能してきた。
     自民党は「日本国内の米軍基地が他国への抑止力として働いてきた」と強弁しているが、決してそうではない。
     米軍駐留の真の狙いは、日本国内における社会主義運動の高揚を軍事的に圧殺する目的であり、日本政権が左傾化したときに、それを軍事的に恫喝し、実力で圧殺するための監視機能に他ならなかったのである。

     米軍の軍事的機能や経費の合理化などの視点からは、すでに20年も前からグアム島基地集約論が提起されていて、実際に米軍は、グアムへの一括集約機能を着々と準備してきた。普天間基地は、とっくに整理してグアムに移転させる計画が知られていたのである。
    http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/091126_mayor_5.pdf
     それでは、稀少珊瑚やジュゴンの生息する海を大規模に埋め立てて「辺野古基地を早急に実現せよ」と、ごねている米軍の姿勢は何なのか? これは沖縄における米軍利権を日本政府に高く買い取らせるための陰謀策略以外のものではない。

     この事情の背景には、日米安保条約の恐るべき真意が隠されていた。沖縄は日本政府を監視するための基地であるとともに、日本の利権、資源を横取りするための基地でもあった。
     昨年、オバマ政権誕生までは、ジョゼフ・ナイという人物が日本大使に任命される予定だったが、オバマはナイを退け友人のジョン・ルースを赴任させた。
     ところが、このナイという人物こそ、戦後、アメリカの利権を代表した戦後対日軍事戦略の核心にいる人物であった。
     彼は、かつて国防次官補として通称「ナイ・イニシアティヴ」と呼ばれる「東アジア戦略報告(EASR)」を作成したが、そのなかで、尖閣諸島に眠るサウジアラビア級の原油資源をアメリカが横取りするために、日中戦争を誘導させよと進言していたのである。
    http://www.asyura2.com/09/senkyo57/msg/559.html

     今、民主党政権が米軍をグアム集約させると決定していながら、沖縄から撤退しない本当の理由が、ここに書かれていた。
     それは、日米安保条約の根幹に関わる真実であり、「日本を『共産主義の脅威』から守っていると見せかけて、実際には、日本政権の左傾化を監視、弾圧し、対アジア軍事戦略の拠点として利用し、さらに日本の資源を横取りすることが目的であることを示していたのである。

     紙数が長くなりすぎるので、これは別項で書くことにしよう。
     問題は、こうしたセキュリティの思想は、本当に人を守るというものでは決してなく、ある特定の目的のための口実として利用されるという真実を知っておく必要があるのだ。

     セキュリティ社会が、本当はいったい何の目的で人間社会を拘束しているのか? これを明確に分析し、その正体を見抜いておかねばならない。

     

     セキュリティ社会 その4

     ニュースから
     【電車内の痴漢事件、愛知県職員に無罪 名古屋地裁判決:: 電車内で痴漢行為をしたとして、愛知県迷惑防止条例違反罪に問われた同県産業労働部労働福祉課主幹、岡野善紀被告(52)の判決公判が18日、名古屋地裁であった。伊藤納裁判長は「脚の接触はあったが、故意とは認められない」などとして、無罪(求刑罰金50万円)を言い渡した。岡野主幹は逮捕段階から一貫して無罪を主張。物的証拠がなく、被害女性と目撃男性の証言の信用性が争点だった。
     伊藤裁判長は被害者らの証言の信用性について「慎重な吟味が必要」と指摘。被害女性が、以前にも岡野主幹から痴漢にあったと主張した点について「(女性の)供述はあいまい。十分確認しないまま、誤認した可能性がある」と述べた。】

     電車内で痴漢を働いたとして逮捕され、身に覚えのない罪で、証拠もないまま有罪にされて実刑や高額の罰金刑になるケースが後を絶たないが、この数年、司法もやっと、痴漢事件の多くが冤罪である現実に気づきはじめているようだ。
     それは、司法関係者が見下してきた一般大衆だけでなく、司法に携わるレベルの大学教授まで冤罪の餌食になっている現実に、さすがに危機感を抱くしかないからだろう。そのうち、本当に裁判官・検察官が痴漢で逮捕されるかもしれない。
     この二年、痴漢行為で起訴されて無罪になるケースが30件にも達しているとされる。

     日本の検察官は強烈な特権意識・エリート意識を持っていて、自分たちは天与の監督者で、国民は愚かな犯罪者集団と思いこんでいる。
     どんな手を使ってでも(脅してウソの自白をさせてでも)「隙あらば有罪に持ち込んで、刑務所にぶち込んでやる」とする傲慢な強権姿勢が顕著だった。
     だが、志布志事件・足利事件・富山事件など、低俗な手口の捏造冤罪が続々と明るみに出されると、「検察の正義」とやらが、軽薄なメンツのための捏造、デタラメであったことに気づく人が増えている。
     「自分たちを追い回す犬の正体がやっと分かったか、羊たちよ」 というところだ。
     今起きている民主党、小沢資金問題でも、本来なら立件さえしないような微罪で逮捕、起訴に持ち込んでいる検察が、結局、官僚の利権を代表して、自民党復権に加担する政治目的での弾圧を行っていると自ら暴露しているようなもので、やがて必ず窮地に追い込まれることになるだろう。

     さて、痴漢冤罪の理由だが、痴漢被害者として告発者になる女性のなかに、全員とは言わないが、被害妄想傾向の強い人が多いと以前から指摘されていた。
     女性のなかには非常に思いこみの強い人がいて、一度でも痴漢被害を受けた女性は、次に痴漢に遭ったとき、ヒステリーを起こして、相手をきちんと確かめずに目の前にいただけの人に罪をかぶせることが多いようだ。
     筆者も、知人の著名女性から似たような目に遭った経験が何度もあるので、女性特有の感情的激昂が、理性的な判断に蓋をしてしまう事実を思い知らされている。女性(多くの短絡的男性もだが)は怒ると目が見えなくなるのだ。
     無罪判決を出した裁判官も、あるいは女性の思いこみヒステリーの被害者だったのかもしれない。

     さて、この思いこみの被害妄想、感情的激昂が人の目を曇らせる現実、これが問題だ。
     女性に限られた特徴かと思いきや、とんでもない。世界一激しい思いこみの被害妄想狂・加害者は国家である。それも、アメリカやロシアのような大国ほどだ。
     世界中の国家が、激しい思いこみと被害妄想に突き動かされて、罪なき人を罪に陥れ、善良な市民を犯罪者にでっちあげ、敵意のない生活民衆をテロリストに仕立て上げ、これでもかと弾圧し、殺しまくっているのである。
     アメリカは、幻のビンラディンとアルカイダを求めて、アフガン・パキスタンに侵入し、数百万の罪なき民衆を殺しまくり、土地を破壊しまくっているのだ。

     数日前、アメリカFBIが911テロ首謀者ビンラディンの顔写真をスペイン議員の写真から捏造していた事実が発覚して世界に報道された。

     【ビンラディン容疑者写真、別人の顔借用 1月18日20時3分配信 TBS
     90年代ごろに撮影されたウサマ・ビンラディン容疑者。このころは髪の毛も髭も真っ黒でした。では、今はどんな顔をしているのでしょうか。 アメリカのFBI=連邦捜査局は、今回新たに最近のビンラディン容疑者の姿を予想して、合成写真を公表しました。髪も髭も白髪が多くなり、しわが増えたビンラディン容疑者。 ところが、これは全く別の人物の写真をもとに作られたことが明らかになりました。
     「最初は信じられなかった。冗談かと思いました」(顔写真を使われたガスパル・リャマサレス議員) 勝手に顔写真を使われたのは、反米で知られる、スペインのガスパル・リャマサレス議員。彼の選挙ポスターの写真が無断で使われたといいます。 「(当局からは)何の説明もありませんよ。ビンラディンに危険は及ばないけど私の身は危険ですよ」(リャマサレス議員)
     FBIは、「適当な素材がなかったため、インターネットで検索して見つけた写真を使った」と無断借用を認めました。怒りが収まらないリャマサレス議員は、アメリカ政府に対し訴訟も辞さない構えです。(18日19:10)】

     このニュースの意味するところに気づいた人は、国家の被害妄想が利権によって成立している本質を知っている人である。
     ビンラディンは、実は、911テロのときに、すでに重度の腎不全を患い、余命いくばくもないと報道されていたのだ。それが、なぜか未だに生き延びていることにされている。
     あのアメリカが、世界最大の軍隊、国家機能の全力を尽くして、おそらく数兆円の予算を費やして全世界にスパイ網を拡大して追って、ただ一人の重要人物を発見できないわけがないだろう。

     このニュースは、FBIの似顔絵担当者は、ビンラディンがとっくに死んでいることを百も承知であることを示しているのである。
     でなければ、どうして安易にネット上の写真など使うものか。これが理解できない人は、完全な権力の洗脳にあって、思考力も失った人間家畜だけだ。

     それでは、なぜ、「死せるビンラディン」が「生けるアメリカ」を走らせているのか?
     それは、アフガンとイラクでのテロとアメリカ軍の進駐、殺戮がアメリカ軍産複合体のメシの種になっているからである!
     すでにアメリカはベトナム戦争に注ぎ込んだ全費用の数十倍もの国費を不毛な民衆大殺戮に使っている。これも「ビンラディンやアルカイダの恐怖」があればこそであって、ビンラディンを簡単に死なせるわけにはいかないのである。

     ビンラディンどころか、アメリカが仇敵として付け狙うアルカイダというグループさえ、実は存在しない架空のものである事実が続々と暴露されている。
     http://tanakanews.com/f0818terror.htm
     http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/014.html
     実はビンラディンも911テロのときに、すでに死亡していた可能性さえ指摘されている。これまでメディアに登場していた人物は、すべてCIAがでっち上げた替え玉だというのだ。でなければ、アメリカが総力をあげて発見できないはずがない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
     【1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。】

     これらの情報が真実であるとすれば、アメリカは幻のビンラディンとアルカイダを恐怖し、過去10年間に300兆円の国費を投入してきたことの意味が浮き彫りになるであろう。
     投じられた300兆円によって、アフガン・イラク民衆に地獄の大殺戮をもたらしたが、一方で、アメリカ国家を牛耳る死の商人たち、たとえば、チェイニーの経営するハリバートン社や、ベクテル社、デュポンなどロックフェラー系列の軍産複合体に膨大な利益をもたらし続けている。
     たった今も、ベクテルの提供した無人偵察爆撃機が、パキスタンのありもしない「アルカイダ」拠点を爆撃し、何の罪もない民衆を殺戮し、「資金源のケシ畑を破壊する」と称して大地をモンサントの極悪除草剤で壊滅させ続けているのだ。

     アメリカは世界最大のセキュリティ社会である。その警備システムを担うのは世界最大の実力を持つアメリカ軍である。
     セキュリティシステムによって、「アメリカ人の自由と財産を守るため」、CIAによって、ありもしないアルカイダがでっちあげられ、とっくに死んだビンラディンが生かされ続けている。

     アメリカは、民衆を恐怖で洗脳し、「正義」をでっちあげ、かつては「共産主義の脅威」から守るため、そして共産主義が崩壊、自滅すれば、今度は「テロの脅威」からアメリカの財産を守るため、という名目で、若者たちを戦争に駆り出し、イラク・アフガン戦争で失われたアメリカ兵の命も5000名を突破した。

     一般民衆の犠牲者は数百万人と指摘されている。
     無差別殺戮によって民衆の憎悪を煽り、普通の民衆がアメリカ軍に抵抗し怒ることで、これを「アルカイダの攻撃」と決めつけ、ますます無差別殺戮を拡大しているのである。
     こうして、戦争が激しさを増し、武器弾薬が消耗されるほどに、ロックフェラーとロスチャイルドの支配する「死の商人たち」軍産複合体は笑いが止まらない。

     これが「テロとの戦争」の正体だ!
     これがセキュリティ社会の正体だ!
     人を恐怖し、人を追いつめ、暴走させ、そして破壊する。セキュリティという美化を行いながら、人間社会を根底から破壊する奴らを許すな!

     tero.jpg

    tero 

     ニュースから
     【電車内の痴漢事件、愛知県職員に無罪 名古屋地裁判決:: 電車内で痴漢行為をしたとして、愛知県迷惑防止条例違反罪に問われた同県産業労働部労働福祉課主幹、岡野善紀被告(52)の判決公判が18日、名古屋地裁であった。伊藤納裁判長は「脚の接触はあったが、故意とは認められない」などとして、無罪(求刑罰金50万円)を言い渡した。岡野主幹は逮捕段階から一貫して無罪を主張。物的証拠がなく、被害女性と目撃男性の証言の信用性が争点だった。
     伊藤裁判長は被害者らの証言の信用性について「慎重な吟味が必要」と指摘。被害女性が、以前にも岡野主幹から痴漢にあったと主張した点について「(女性の)供述はあいまい。十分確認しないまま、誤認した可能性がある」と述べた。】

     電車内で痴漢を働いたとして逮捕され、身に覚えのない罪で、証拠もないまま有罪にされて実刑や高額の罰金刑になるケースが後を絶たないが、この数年、司法もやっと、痴漢事件の多くが冤罪である現実に気づきはじめているようだ。
     それは、司法関係者が見下してきた一般大衆だけでなく、司法に携わるレベルの大学教授まで冤罪の餌食になっている現実に、さすがに危機感を抱くしかないからだろう。そのうち、本当に裁判官・検察官が痴漢で逮捕されるかもしれない。
     この二年、痴漢行為で起訴されて無罪になるケースが30件にも達しているとされる。

     日本の検察官は強烈な特権意識・エリート意識を持っていて、自分たちは天与の監督者で、国民は愚かな犯罪者集団と思いこんでいる。
     どんな手を使ってでも(脅してウソの自白をさせてでも)「隙あらば有罪に持ち込んで、刑務所にぶち込んでやる」とする傲慢な強権姿勢が顕著だった。
     だが、志布志事件・足利事件・富山事件など、低俗な手口の捏造冤罪が続々と明るみに出されると、「検察の正義」とやらが、軽薄なメンツのための捏造、デタラメであったことに気づく人が増えている。
     「自分たちを追い回す犬の正体がやっと分かったか、羊たちよ」 というところだ。
     今起きている民主党、小沢資金問題でも、本来なら立件さえしないような微罪で逮捕、起訴に持ち込んでいる検察が、結局、官僚の利権を代表して、自民党復権に加担する政治目的での弾圧を行っていると自ら暴露しているようなもので、やがて必ず窮地に追い込まれることになるだろう。

     さて、痴漢冤罪の理由だが、痴漢被害者として告発者になる女性のなかに、全員とは言わないが、被害妄想傾向の強い人が多いと以前から指摘されていた。
     女性のなかには非常に思いこみの強い人がいて、一度でも痴漢被害を受けた女性は、次に痴漢に遭ったとき、ヒステリーを起こして、相手をきちんと確かめずに目の前にいただけの人に罪をかぶせることが多いようだ。
     筆者も、知人の著名女性から似たような目に遭った経験が何度もあるので、女性特有の感情的激昂が、理性的な判断に蓋をしてしまう事実を思い知らされている。女性(多くの短絡的男性もだが)は怒ると目が見えなくなるのだ。
     無罪判決を出した裁判官も、あるいは女性の思いこみヒステリーの被害者だったのかもしれない。

     さて、この思いこみの被害妄想、感情的激昂が人の目を曇らせる現実、これが問題だ。
     女性に限られた特徴かと思いきや、とんでもない。世界一激しい思いこみの被害妄想狂・加害者は国家である。それも、アメリカやロシアのような大国ほどだ。
     世界中の国家が、激しい思いこみと被害妄想に突き動かされて、罪なき人を罪に陥れ、善良な市民を犯罪者にでっちあげ、敵意のない生活民衆をテロリストに仕立て上げ、これでもかと弾圧し、殺しまくっているのである。
     アメリカは、幻のビンラディンとアルカイダを求めて、アフガン・パキスタンに侵入し、数百万の罪なき民衆を殺しまくり、土地を破壊しまくっているのだ。

     数日前、アメリカFBIが911テロ首謀者ビンラディンの顔写真をスペイン議員の写真から捏造していた事実が発覚して世界に報道された。

     【ビンラディン容疑者写真、別人の顔借用 1月18日20時3分配信 TBS
     90年代ごろに撮影されたウサマ・ビンラディン容疑者。このころは髪の毛も髭も真っ黒でした。では、今はどんな顔をしているのでしょうか。 アメリカのFBI=連邦捜査局は、今回新たに最近のビンラディン容疑者の姿を予想して、合成写真を公表しました。髪も髭も白髪が多くなり、しわが増えたビンラディン容疑者。 ところが、これは全く別の人物の写真をもとに作られたことが明らかになりました。
     「最初は信じられなかった。冗談かと思いました」(顔写真を使われたガスパル・リャマサレス議員) 勝手に顔写真を使われたのは、反米で知られる、スペインのガスパル・リャマサレス議員。彼の選挙ポスターの写真が無断で使われたといいます。 「(当局からは)何の説明もありませんよ。ビンラディンに危険は及ばないけど私の身は危険ですよ」(リャマサレス議員)
     FBIは、「適当な素材がなかったため、インターネットで検索して見つけた写真を使った」と無断借用を認めました。怒りが収まらないリャマサレス議員は、アメリカ政府に対し訴訟も辞さない構えです。(18日19:10)】

     このニュースの意味するところに気づいた人は、国家の被害妄想が利権によって成立している本質を知っている人である。
     ビンラディンは、実は、911テロのときに、すでに重度の腎不全を患い、余命いくばくもないと報道されていたのだ。それが、なぜか未だに生き延びていることにされている。
     あのアメリカが、世界最大の軍隊、国家機能の全力を尽くして、おそらく数兆円の予算を費やして全世界にスパイ網を拡大して追って、ただ一人の重要人物を発見できないわけがないだろう。

     このニュースは、FBIの似顔絵担当者は、ビンラディンがとっくに死んでいることを百も承知であることを示しているのである。
     でなければ、どうして安易にネット上の写真など使うものか。これが理解できない人は、完全な権力の洗脳にあって、思考力も失った人間家畜だけだ。

     それでは、なぜ、「死せるビンラディン」が「生けるアメリカ」を走らせているのか?
     それは、アフガンとイラクでのテロとアメリカ軍の進駐、殺戮がアメリカ軍産複合体のメシの種になっているからである!
     すでにアメリカはベトナム戦争に注ぎ込んだ全費用の数十倍もの国費を不毛な民衆大殺戮に使っている。これも「ビンラディンやアルカイダの恐怖」があればこそであって、ビンラディンを簡単に死なせるわけにはいかないのである。

     ビンラディンどころか、アメリカが仇敵として付け狙うアルカイダというグループさえ、実は存在しない架空のものである事実が続々と暴露されている。
     http://tanakanews.com/f0818terror.htm
     http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/014.html
     実はビンラディンも911テロのときに、すでに死亡していた可能性さえ指摘されている。これまでメディアに登場していた人物は、すべてCIAがでっち上げた替え玉だというのだ。でなければ、アメリカが総力をあげて発見できないはずがない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
     【1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。】

     これらの情報が真実であるとすれば、アメリカは幻のビンラディンとアルカイダを恐怖し、過去10年間に300兆円の国費を投入してきたことの意味が浮き彫りになるであろう。
     投じられた300兆円によって、アフガン・イラク民衆に地獄の大殺戮をもたらしたが、一方で、アメリカ国家を牛耳る死の商人たち、たとえば、チェイニーの経営するハリバートン社や、ベクテル社、デュポンなどロックフェラー系列の軍産複合体に膨大な利益をもたらし続けている。
     たった今も、ベクテルの提供した無人偵察爆撃機が、パキスタンのありもしない「アルカイダ」拠点を爆撃し、何の罪もない民衆を殺戮し、「資金源のケシ畑を破壊する」と称して大地をモンサントの極悪除草剤で壊滅させ続けているのだ。

     アメリカは世界最大のセキュリティ社会である。その警備システムを担うのは世界最大の実力を持つアメリカ軍である。
     セキュリティシステムによって、「アメリカ人の自由と財産を守るため」、CIAによって、ありもしないアルカイダがでっちあげられ、とっくに死んだビンラディンが生かされ続けている。

     アメリカは、民衆を恐怖で洗脳し、「正義」をでっちあげ、かつては「共産主義の脅威」から守るため、そして共産主義が崩壊、自滅すれば、今度は「テロの脅威」からアメリカの財産を守るため、という名目で、若者たちを戦争に駆り出し、イラク・アフガン戦争で失われたアメリカ兵の命も5000名を突破した。

     一般民衆の犠牲者は数百万人と指摘されている。
     無差別殺戮によって民衆の憎悪を煽り、普通の民衆がアメリカ軍に抵抗し怒ることで、これを「アルカイダの攻撃」と決めつけ、ますます無差別殺戮を拡大しているのである。
     こうして、戦争が激しさを増し、武器弾薬が消耗されるほどに、ロックフェラーとロスチャイルドの支配する「死の商人たち」軍産複合体は笑いが止まらない。

     これが「テロとの戦争」の正体だ!
     これがセキュリティ社会の正体だ!
     人を恐怖し、人を追いつめ、暴走させ、そして破壊する。セキュリティという美化を行いながら、人間社会を根底から破壊する奴らを許すな!

     


     ニュースから
     【電車内の痴漢事件、愛知県職員に無罪 名古屋地裁判決:: 電車内で痴漢行為をしたとして、愛知県迷惑防止条例違反罪に問われた同県産業労働部労働福祉課主幹、岡野善紀被告(52)の判決公判が18日、名古屋地裁であった。伊藤納裁判長は「脚の接触はあったが、故意とは認められない」などとして、無罪(求刑罰金50万円)を言い渡した。岡野主幹は逮捕段階から一貫して無罪を主張。物的証拠がなく、被害女性と目撃男性の証言の信用性が争点だった。
     伊藤裁判長は被害者らの証言の信用性について「慎重な吟味が必要」と指摘。被害女性が、以前にも岡野主幹から痴漢にあったと主張した点について「(女性の)供述はあいまい。十分確認しないまま、誤認した可能性がある」と述べた。】

     電車内で痴漢を働いたとして逮捕され、身に覚えのない罪で、証拠もないまま有罪にされて実刑や高額の罰金刑になるケースが後を絶たないが、この数年、司法もやっと、痴漢事件の多くが冤罪である現実に気づきはじめているようだ。
     それは、司法関係者が見下してきた一般大衆だけでなく、司法に携わるレベルの大学教授まで冤罪の餌食になっている現実に、さすがに危機感を抱くしかないからだろう。そのうち、本当に裁判官・検察官が痴漢で逮捕されるかもしれない。
     この二年、痴漢行為で起訴されて無罪になるケースが30件にも達しているとされる。

     日本の検察官は強烈な特権意識・エリート意識を持っていて、自分たちは天与の監督者で、国民は愚かな犯罪者集団と思いこんでいる。
     どんな手を使ってでも(脅してウソの自白をさせてでも)「隙あらば有罪に持ち込んで、刑務所にぶち込んでやる」とする傲慢な強権姿勢が顕著だった。
     だが、志布志事件・足利事件・富山事件など、低俗な手口の捏造冤罪が続々と明るみに出されると、「検察の正義」とやらが、軽薄なメンツのための捏造、デタラメであったことに気づく人が増えている。
     「自分たちを追い回す犬の正体がやっと分かったか、羊たちよ」 というところだ。
     今起きている民主党、小沢資金問題でも、本来なら立件さえしないような微罪で逮捕、起訴に持ち込んでいる検察が、結局、官僚の利権を代表して、自民党復権に加担する政治目的での弾圧を行っていると自ら暴露しているようなもので、やがて必ず窮地に追い込まれることになるだろう。

     さて、痴漢冤罪の理由だが、痴漢被害者として告発者になる女性のなかに、全員とは言わないが、被害妄想傾向の強い人が多いと以前から指摘されていた。
     女性のなかには非常に思いこみの強い人がいて、一度でも痴漢被害を受けた女性は、次に痴漢に遭ったとき、ヒステリーを起こして、相手をきちんと確かめずに目の前にいただけの人に罪をかぶせることが多いようだ。
     筆者も、知人の著名女性から似たような目に遭った経験が何度もあるので、女性特有の感情的激昂が、理性的な判断に蓋をしてしまう事実を思い知らされている。女性(多くの短絡的男性もだが)は怒ると目が見えなくなるのだ。
     無罪判決を出した裁判官も、あるいは女性の思いこみヒステリーの被害者だったのかもしれない。

     さて、この思いこみの被害妄想、感情的激昂が人の目を曇らせる現実、これが問題だ。
     女性に限られた特徴かと思いきや、とんでもない。世界一激しい思いこみの被害妄想狂・加害者は国家である。それも、アメリカやロシアのような大国ほどだ。
     世界中の国家が、激しい思いこみと被害妄想に突き動かされて、罪なき人を罪に陥れ、善良な市民を犯罪者にでっちあげ、敵意のない生活民衆をテロリストに仕立て上げ、これでもかと弾圧し、殺しまくっているのである。
     アメリカは、幻のビンラディンとアルカイダを求めて、アフガン・パキスタンに侵入し、数百万の罪なき民衆を殺しまくり、土地を破壊しまくっているのだ。

     数日前、アメリカFBIが911テロ首謀者ビンラディンの顔写真をスペイン議員の写真から捏造していた事実が発覚して世界に報道された。

     【ビンラディン容疑者写真、別人の顔借用 1月18日20時3分配信 TBS
     90年代ごろに撮影されたウサマ・ビンラディン容疑者。このころは髪の毛も髭も真っ黒でした。では、今はどんな顔をしているのでしょうか。 アメリカのFBI=連邦捜査局は、今回新たに最近のビンラディン容疑者の姿を予想して、合成写真を公表しました。髪も髭も白髪が多くなり、しわが増えたビンラディン容疑者。 ところが、これは全く別の人物の写真をもとに作られたことが明らかになりました。
     「最初は信じられなかった。冗談かと思いました」(顔写真を使われたガスパル・リャマサレス議員) 勝手に顔写真を使われたのは、反米で知られる、スペインのガスパル・リャマサレス議員。彼の選挙ポスターの写真が無断で使われたといいます。 「(当局からは)何の説明もありませんよ。ビンラディンに危険は及ばないけど私の身は危険ですよ」(リャマサレス議員)
     FBIは、「適当な素材がなかったため、インターネットで検索して見つけた写真を使った」と無断借用を認めました。怒りが収まらないリャマサレス議員は、アメリカ政府に対し訴訟も辞さない構えです。(18日19:10)】

     このニュースの意味するところに気づいた人は、国家の被害妄想が利権によって成立している本質を知っている人である。
     ビンラディンは、実は、911テロのときに、すでに重度の腎不全を患い、余命いくばくもないと報道されていたのだ。それが、なぜか未だに生き延びていることにされている。
     あのアメリカが、世界最大の軍隊、国家機能の全力を尽くして、おそらく数兆円の予算を費やして全世界にスパイ網を拡大して追って、ただ一人の重要人物を発見できないわけがないだろう。

     このニュースは、FBIの似顔絵担当者は、ビンラディンがとっくに死んでいることを百も承知であることを示しているのである。
     でなければ、どうして安易にネット上の写真など使うものか。これが理解できない人は、完全な権力の洗脳にあって、思考力も失った人間家畜だけだ。

     それでは、なぜ、「死せるビンラディン」が「生けるアメリカ」を走らせているのか?
     それは、アフガンとイラクでのテロとアメリカ軍の進駐、殺戮がアメリカ軍産複合体のメシの種になっているからである!
     すでにアメリカはベトナム戦争に注ぎ込んだ全費用の数十倍もの国費を不毛な民衆大殺戮に使っている。これも「ビンラディンやアルカイダの恐怖」があればこそであって、ビンラディンを簡単に死なせるわけにはいかないのである。

     ビンラディンどころか、アメリカが仇敵として付け狙うアルカイダというグループさえ、実は存在しない架空のものである事実が続々と暴露されている。
     http://tanakanews.com/f0818terror.htm
     http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/014.html
     実はビンラディンも911テロのときに、すでに死亡していた可能性さえ指摘されている。これまでメディアに登場していた人物は、すべてCIAがでっち上げた替え玉だというのだ。でなければ、アメリカが総力をあげて発見できないはずがない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
     【1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett) の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる[誰?]。テープ自体は頻繁に出されている。】

     これらの情報が真実であるとすれば、アメリカは幻のビンラディンとアルカイダを恐怖し、過去10年間に300兆円の国費を投入してきたことの意味が浮き彫りになるであろう。
     投じられた300兆円によって、アフガン・イラク民衆に地獄の大殺戮をもたらしたが、一方で、アメリカ国家を牛耳る死の商人たち、たとえば、チェイニーの経営するハリバートン社や、ベクテル社、デュポンなどロックフェラー系列の軍産複合体に膨大な利益をもたらし続けている。
     たった今も、ベクテルの提供した無人偵察爆撃機が、パキスタンのありもしない「アルカイダ」拠点を爆撃し、何の罪もない民衆を殺戮し、「資金源のケシ畑を破壊する」と称して大地をモンサントの極悪除草剤で壊滅させ続けているのだ。

     アメリカは世界最大のセキュリティ社会である。その警備システムを担うのは世界最大の実力を持つアメリカ軍である。
     セキュリティシステムによって、「アメリカ人の自由と財産を守るため」、CIAによって、ありもしないアルカイダがでっちあげられ、とっくに死んだビンラディンが生かされ続けている。

     アメリカは、民衆を恐怖で洗脳し、「正義」をでっちあげ、かつては「共産主義の脅威」から守るため、そして共産主義が崩壊、自滅すれば、今度は「テロの脅威」からアメリカの財産を守るため、という名目で、若者たちを戦争に駆り出し、イラク・アフガン戦争で失われたアメリカ兵の命も5000名を突破した。

     一般民衆の犠牲者は数百万人と指摘されている。
     無差別殺戮によって民衆の憎悪を煽り、普通の民衆がアメリカ軍に抵抗し怒ることで、これを「アルカイダの攻撃」と決めつけ、ますます無差別殺戮を拡大しているのである。
     こうして、戦争が激しさを増し、武器弾薬が消耗されるほどに、ロックフェラーとロスチャイルドの支配する「死の商人たち」軍産複合体は笑いが止まらない。

     これが「テロとの戦争」の正体だ!
     これがセキュリティ社会の正体だ!
     人を恐怖し、人を追いつめ、暴走させ、そして破壊する。セキュリティという美化を行いながら、人間社会を根底から破壊する奴らを許すな!

     


    iraku 危機の妄想

     「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

     人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
     この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

     だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
     それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
     そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
     恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

     世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
     イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

     宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
     だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

     たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
     とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
     これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
     
     なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
     こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人〜数百万人にも上っていると指摘されている。
     女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
     http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

     旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
     女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
     差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
     女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
     こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
     一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

     このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
     体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

     こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
     死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
     こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

     そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
     支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

     だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

     「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
     セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

     逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
     貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

     セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
     
     ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
     この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
     セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
     いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
     あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

     日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
     それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

     だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
     人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

     よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
     そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
     どんなセキュリティが必要とされるというのか?

     アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
     「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
     我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

     「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
     とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
     これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

     それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
     これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!

    iraku.jpg
     危機の妄想

     「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

     人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
     この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

     だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
     それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
     そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
     恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

     世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
     イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

     宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
     だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

     たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
     とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
     これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
     
     なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
     こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人〜数百万人にも上っていると指摘されている。
     女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
     http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

     旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
     女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
     差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
     女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
     こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
     一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

     このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
     体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

     こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
     死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
     こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

     そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
     支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

     だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

     「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
     セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

     逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
     貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

     セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
     
     ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
     この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
     セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
     いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
     あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

     日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
     それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

     だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
     人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

     よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
     そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
     どんなセキュリティが必要とされるというのか?

     アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
     「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
     我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

     「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
     とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
     これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

     それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
     これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!


     「セキュリティ」という思想は、どのように社会に登場したのか?

     人間の暮らす環境は、あらゆる危険に満ちている。「地震・雷・火事・親父」、天災に人災、事故・強盗・戦争・陰謀・ストーカー・詐欺・誤謬・強欲と、我々は生まれてから死ぬまで身の危険を感じ続けて生き続けなければならない。
     この意味で、人生は、まさしくサバイバルゲームだ。だから、セキュリティという思想が、人間社会の根幹に大きく根付くのもやむをえないかもしれない。

     だが一方で、セキュリティという考え方は、「人間が悪意を持って自分を襲う」という前提で、「自分の身を守る対策を講じる」という姿勢であって、人を「性悪説」に押し込めるものである。
     それは、人間社会と、その未来に対する明るい希望を曇らせるものであり、人を人間不信の絶望に閉ざすものでもある。
     そこには、「なぜ自分が襲われるのか?」という視点は問題にされず、「襲われる前に、そうならないよう問題を解決する」という視点も存在しない。「襲われる」という恐怖だけが勝手に一人歩きしているのだ。
     恐怖だけを問題にするならば、「人は悪さをするものだ」と決めつける、偏狭で矮小な思想、人に対して心を開けない頑なな人を、たくさん生み出してゆくことになる。

     世界には、「人は悪さをするものだ」と決めつけ、「だから悪さをした人間を見せしめに懲らしめることが必要だ」と、予防的制裁の思想を人生観・世界観の基礎に置いている人たちがたくさんいる。
     イスラム教・ユダヤ教・キリスト教・儒教などでは、民族ぐるみ、国ぐるみで、制裁の思想を人々に強要しているのが現実だ。

     宗教の本質は「戒律」にあり、人の自由な意志、行動を、ある特定の目的のために制限する機能がある。人類史を顧みるならば、宗教の本当の目的は、人民の幸福とは相容れない、政治・支配体制の正当化、維持にあることが分かる。
     だから、宗教の多くは、人の自由に寛容ではなく、政治目的に障害となる要素を取り除くために、信仰者を刑罰の恐怖で縛り付けるものが多いのである。

     たとえば、旧約聖書を信奉するユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、旧約に記されている通り、女性が自由に生きることを極端に嫌う傾向があり、男性にとって好ましからざる行動を女性がとれば、ただちに残酷な報復、制裁を行って殺害してしまうことが多い。
     とりわけイスラム教では、いまだに男性の束縛から離れて、自由な恋愛を求めた女性を敵視し、親の定めた結婚をせず、自由意志で恋愛しただけで、土に埋められて投石で殺害されるケースが後を絶たない。
     これは、主に、女性たちに対する見せしめであって、恐怖で人間を縛ろうとする矮小卑劣な姿勢というしかない。こんなものは人間の尊厳に敵対する愚劣な思想である。人の勇気を辱め、誇りを奪うものだ。イスラム的制裁思想は、人間として断じて許し難いものだ。
     
     なんで、こんな残酷なことをするかといえば、女性が男性の意志を無視して自由に性交し、父親の特定できない子を産むとすれば、男性が自分の子を特定して、その権力や財産を相続させるという男性権力社会→王権→イスラム家父長社会の倫理的基礎が崩壊してしまうからである。
     こうして、イスラム圏全体では、女性に対する愚かで不当な制裁、虐殺が年間、数万人〜数百万人にも上っていると指摘されている。
     女性の自由な性欲を封じ込めるための「割礼」により性器を縫合された結果、妊娠・出産による裂傷感染で死亡してしまう深刻な事態も、北アフリカを中心に想像以上に多発している。
     http://www.asyura.com/0505/holocaust2/msg/394.html

     旧約聖書が、なぜ女性の性的自由を敵視するかといえば、それは男性支配権力を維持するために作られた思想宗教だからである。
     女性が社会の主人公になるのは好ましくないという思想は、社会全体に救いのない差別と対立の連鎖構造を定着させることになる。
     差別は人間にとって耐え難い屈辱感を与える。差別・侮辱された人は、その悔しさを他人に対する逆差別・蔑視で置き換えることが多い。だから差別は連鎖し、ネズミのように際限なく増殖を始めるのである。
     女性差別の結果、その次に社会の底辺にいる人々を差別するようになり、主人公にさせないようにする。すると彼らも、また新しい差別を作り出す。次々に差別を連鎖的・重層的に構造化することで、人々の連帯感情を奪い、階級・階層間の孤立反目をもたらしてゆくのである。
     こうした差別対立の増殖は、支配階級を利するもので、支配者にとって、これほど都合のよいものはない。
     一番トクをするのは、差別の一番上にいる支配階級ということになる。だから旧約の思想は、そうした支配階級トップによって生み出されたものであることが分かる。

     このように、権力者の利益を守るため、人と人との自由な連帯を疎外する思想体制は、本来人間に備わった自由、連帯、愛の思想を抑圧して成立するわけで、必ず、反体制思想を生み出すことになり、それを、さらに激しい残酷な権力で弾圧するという負の連鎖を生み出すことになる。
     体制は暴力で民衆を弾圧するようになり、恐怖によって萎縮させ、体制の物言わぬ家畜にしてしまうおうと考えるから、残酷な刑罰、死刑制度を作り出すのである。

     こうした懲罰・制裁を国是とする差別国家の共通点は「死刑制度」が生きていることだ。死刑制度の有無は、その国家の自由、民主、愛、人間解放のバロメータであり、人間の尊厳を計る物差しである。
     死刑制度の堅持されているアメリカや中国、日本のような国家では、人間が解放されていない、つまり家畜として扱われている社会なのである。そこには、人の勇気、愛情、誇りを大切にする尊厳思想は存在しない。
     こうした国家では、「人が間違いを犯す弱い愚かな存在である」という大前提に考慮が払われることはなく、愛情をもって人を育てるという「優しさ」の視点もなく、ただ、国家に都合の悪い結果をもたらした者は、厳罰に処し、その命を奪い、国民を恐怖で統制しようとするのである。

     そうした国家を支えている官僚やトップの連中は、国家の利益に適うか、あるいは敵対するかという尺度だけで民衆を見るわけで、間違いや失敗に対しては、制裁・報復によってでしか報いることはない。
     支配体制に貢献した者に対しては、「名誉」という一番安上がりなレッテルを貼ってすませようとするだけだ。

     だから、支配者は「人は国家に敵対する」という「性悪説」だけに支配されることになる。これこそ「セキュリティ」という愚かな思想を生み出した本質というべきである。

     「セキュリティの思想」は、このように、底辺の人たちに対する愛情が根源的に欠落した者たち、つまり、「国家、あるいは、国家システムによって利益を受ける立場の人が、利益を守るために、人の間違いを制裁する」という発想によって生み出されるのである。
     セキュリティを本当に必要とする人は、「人が自分を攻撃する」という被害妄想に囚われた人たちである。すなわち、人を攻撃に駆り立てさせるような理不尽な扱いを強いている張本人たちなのである。

     逆に考えれば、金持ちや役人たちに家畜のように使われ、飼育され、骨まで利用される立場の民衆にとって、セキュリティなど自分たちの怒りから金持ちや役人を守るためのものでしかない。
     貧しい人民にとって、セキュリティなど何の役に立つのか? 盗まれるものもない。これ以上、奪われるものもない。すなわち守るもののない民衆にセキュリティなど何の必要があろうか?

     セキュリティが必要な人たちは、「持てる人たち」だけだ。財産と権力、地位を持ち、それを公平に分配してほしいと望む人たちから隠し、守り抜くためのシステムがセキュリティなのである。
     
     ここで、「セキュリティ」というものが、民衆にとっては、何の役にも立たない無用の長物であっても、実は、国家における特定の階級の利益を守るために必要なシステムであるという本質が浮き彫りになる。
     この世に存在するセキュリティシステムの意味をもう一度考えていただきたい。
     セキュリティ・システムが、本当にあなたの生活を守ったことがあるのか?
     いったい誰から、いったい何を守ったというのか?
     あなたの家のセキュリティが、あなたの財産を泥棒から守ったというのだろうか? これは、セキュリティ思想信奉者が一番強調したい視点だろう。だが、よく考えてごらん。

     日本人、一般市民が、これほどまでにセキュリティを問題にするようになったのは、1960年代あたりだろう。
     それまで、貧しかった市井の家々には鍵を必要としない時代さえあった。泥棒が入っても、金目のものなどなかったからだ。人々は、地位や財産に頼って生きていたのではなく、一緒に住んでいた地域の仲間の人情に支えられて生きていたのだ。人情に鍵は必要ないのである。

     だが、そんな貧しかった時代から、日本の高度成長によって豊かになって行くにつれて、人々は、財産や地位を得ていった。
     人情は失われ、連帯も失われ、人々は互いを羨み、侮蔑し、孤立化していった。泥棒から守るべきものを所有するようになっていった。そうして、人が自分の財産を奪うのではと恐れるようになり、セキュリティが必要になったのだ。

     よく考えてもらいたい。泥棒のいない社会にセキュリティは必要か? 守るべき財産のない社会にセキュリティは必要か?
     そこに住むみんなが家族や兄弟のような愛情、連帯感に支えられている社会に、「他人に奪われる」という恐怖が存在するのか?
     どんなセキュリティが必要とされるというのか?

     アメリカという世界最大のセキュリティ国家は、戦後、「共産主義の脅威」なる危機意識をでっちあげた。
     「共産主義者が自由で豊かなアメリカを襲う」という巨大な危機意識を宣伝し、これを錦の御旗にして、朝鮮を侵略し、ベトナムを侵略し、数百万人の人たちを虐殺していった。
     我々は911テロ以降、同じような錦の御旗、セキュリティを掲げたアメリカが、「テロの脅威から国家を守れ」というスローガンの元、民衆の自由、権利、民主主義を拘束し、破壊し、人々の命を虫けらのように奪ってゆく姿を目撃してきた。

     「イラクは大量破壊兵器を所有し、人類を大虐殺しようとしている」
     とブッシュが高らかに演説し、アフガンやイラクに進軍し、大規模な軍事攻撃を仕掛けた。
     これによって、貧しい民衆から徴兵されたアメリカ兵も5000名の命を奪われ、イラクやアフガンでは、100万人をはるかに超える命が奪われていったではないか?

     それでは、全世界に宣伝した「大量破壊兵器」は、どこにあったのか?
     これこそ、アメリカ流セキュリティ思想の本質を余すところなく示しているではないか!


    nec 

     おびえる子供たち

     筆者が7年前に中津川市蛭川に移り住んで驚いたことが、いくつかあった。
     一番びっくりしたのは、散歩中、道で出会う子供たちの大部分が、見ず知らずの私に向かって、「こんにちわ」 と挨拶するのだ。
     これは、当たり前だと思うなかれ、新鮮なカルチャーショックだった。
     いい年をしたオッサンの私でも、どぎまぎしながら挨拶を返すことになったが、人を恐れない子供たちの明るく素直な表情を見ていると、暖かい安心感と未来への希望が満ちてくるのである。

     それまで20年以上住んだ名古屋市内の公団アパートでは、エレベータに子供が乗り合わせたとき、挨拶どころか、危険な浮浪者にでも見えたのか、私を見て恐れ、脅えたような緊張した表情を見せて、扉が開けば一目散に駆け出すような具合だった。
     ついぞ都会で、見知らぬ大人に対する子供たちの無邪気な人なつこい笑顔など見たこともなく、もちろん親たちも一人暮らしの得体の知れない、胡散臭い男に対して警戒の表情を緩めなかった。

     こんな子供ばかり見ていると、昔ながらの大人と子供の自然な関係など忘れてしまって、自分が変態異常者として扱われていると意識しはじめることになり、小中学生の女児あたりが一人で居合わせるなら、ついつい、ふくらみはじめた胸に目が行き、「お嬢ちゃん、おじちゃんが抱っこしてあげようか、ゲヒヒヒヒ」 (^o^) (冗談ですら)
     とやりたくなるのが人情ではないだろうか。
     こちらだって毛頭、構う意志もないのに、勝手におびえて警戒されると、子供といえどもムカッ腹がたつもので、期待に応えて悪さをしなければならないような気分に襲われるのだ。

     池田小学校殺傷事件が起きてからというものの、全国津々浦々まで学校のセキュリティが厳重になり、臆病で小心な学校管理者たちは、「人を見れば泥棒か変態と思え」と子供たちを洗脳するようになった。
     近道しようと校庭を横切るだけでセキュリティシステムが作動し、警備員が飛んでくるような状態だ。
     本当にうんざりさせられるが、人より野生動物の多い蛭川でも、おそらく学校では警戒システムが厳重なはずだが、さすがに、こんな僻地には変態はいないと、みんな信じているようで、タテマエは厳重であっても、運用上は、のどかで素直な子供たちの表情が生き残っているのである。

     これが大都会の学校のように、子供たちが「見ず知らずの大人は変態・痴漢・泥棒・異常者だ」などと教育洗脳されるようになっては、もう田舎もオシマイだ。僅かに残った人間性のカケラさえ凍り付いてしまうではないか。
     大人が道を歩いているだけで、子供たちが猛獣にでも遭遇したかのように警戒するようでは、何か困ったことや事故が起きていても、それを助けようとしたら逆に変態異常者扱いされかねないと、こちらまで警戒して手を出せなくなってしまう。
     だから、こうした過剰な警戒と恐怖心の洗脳が、明らかに人間関係に悪影響、逆効果をもたらすのであって、むしろ、子供たちを危険に晒す結果を招いていると危惧せざるをえないのである。

     筆者は、過剰なセキュリティが、どれほど効果のない大きな無駄を生み出しているか、社会から、暖かい人間関係を奪っているか、得られる安全よりも、はるかに残酷な危険をもたらすものであるかを読者に問いたい。

     911テロ以降、恐怖におびえて過剰な反応を示すことで、アメリカは、どれほど、社会の暖かみ、大らかさを喪失し、たくさんの大切なものを失ったのかを、我々は直視する必要がある。

     911テロの犠牲者は、アメリカ国内で約3000名であった。これは大きな数字だ。しかし、激昂した世論による報復、復讐心を満足させるため、アメリカ国家が怒りの矛先をアフガンやイラクにぶつけて侵略戦争を行った結果、報復作戦による米兵死者総数は4000名をはるかに超え、この結果起きた宗教対立、自爆テロなどで、罪なき民衆に強いた犠牲者は実に百万人に達するのである。
     テロが成功した場合の損失と、それを未然に防ぐために用いた過剰なセキュリティ態勢によって失った損失の差し引きを考えていただきたい。おそらく比較にならないほど、愚かしい結果がもたらされているにちがいない。

     911事件によって、ブッシュらが持ち出した「テロとの戦争」 という陳腐な屁理屈、スローガンによって、いったい誰がトクをして、誰が損をしたのか?
     「社会の至る所にテロリストが潜んでいる」
     と錦の御旗を掲げて民衆の恐怖心を煽ったのは、共和党ネオコンだったが、姿形の見えないテロリストを収監するために全米600カ所の強制収容所と300万人分の棺桶が用意され、さらに、あらゆる空港・駅や公安システムに投入された新たなセキュリティシステムに使われた税金は数十兆円の巨額に上った。

     それを優先的に請け負って巨額のボロ儲けをした者こそ、ネオコン総帥、チェイニー副大統領の経営するハリバートン社であった。それだけでない、ハリバートンは、イラクから奪った石油利権の復興プロジェクトに関与して、前年の三倍以上の利益を得た。
    http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/halliburton.html
     こうして、得られた結果から考えれば、「テロとの戦争」の中身は、ネオコンの金儲けであり、実は911テロが本当は誰が仕組んだものか、朧に見えてくるはずだ。
     
     最近では、911ツインタワー倒壊が、旅客機の突入では絶対に起こりえず、イスラエル・モサドやCIAの使用する軍事用テルミットが仕掛けられていたことを全米建築家協会が崩壊ビデオを解析して証明してみせた。
     http://www17.plala.or.jp/d_spectator/

     「テロによる巨大な被害を防止するために厳重なセキュリティが必要」
     という主張は、完全に破綻している。アメリカは911テロを再発させないで、国民の命を守るために、人間の権利を破壊し、自由を破壊し、民主主義までも破壊し、911テロの千倍以上の犠牲者を出したのである。
     
     厳重なセキュリティが敷かれたことで、得られた利益が本当にあったのか?
     我々は、よくよく考えて、こうしたセキュリティシステムによって、本当は誰に、どのような利益がもたらされたのか? 見つめる必要がある。

     セキュリティは、それを行ったことにより、行わないよりも桁違いの不利益を発生させるものだと知る必要がある。
     我々は、「人の意志による破壊行為」に対し、それを規則や法律で縛ってみたり、報復制裁、軍事行動で解決しようとしてはならないのである。
     破壊行為を招いた真の原因を分析し、原因を具体的に解決することを通じて、予防する姿勢が必要なのであって、予算を注ぎ込んだシステムによって対応しようとするなら、際限のないイタチごっこが繰り返されるだけになり、結果は逆効果にしかならないことを知っておかねばならない。

     もう一つ、例をあげてみよう。
     筆者がパソコンに触れ始めたのは、まだマイコンと呼ばれた時代で、今から30年ほど前、最初に買ったのは、シャープMZ80だった。
     当時としては、ずいぶん高価なもので、安い軽自動車が買えるほどの値段だったと思う。たしか8ビットZ80、8Mだかのクロックだったが、当時のBASICで、そこそこの計算能力があって、メモリの大きな関数電卓という印象だった。しかし、ほとんどパックマンのようなゲームで遊んでいただけだったと思う。

     数年後、次に買ったNECノートは、16ビットでV30、10M程度のクロックがあり、一太郎も十分に使えて、申し分なく実用的なものだった。
     当時のパソコンLTや9801Nは、未だに引っ張り出して使っても、スイッチを入れた瞬間から十分に役立つもので、カシオFX890ポケコンなど、曲率や勾配計算などに欠かせず、現役で使用し続けている。
     
     以来30年、どれだけのパソコンを購入したか覚えてもいないが、間違いなく十数台は買った。演算スピードも上がり、8Mだったのが、すでに3Gを超えているから、400倍以上になっている勘定だ。
     しかし、それでは使用勝手や実用性が上がったかといえば、とんでもないことで、30年前のパソコンと今のパソコン(最新はDELL・INSPIRON)を比較してみて、少なくとも木工計算での実用性は昔のポケコンの方がはるかに上なのだ。

     いろいろな機能は数桁以上も増えたが、ワープロ一つとってみても、その実用的な入力スピードは、ほとんど変わっていない。変換辞書は数千倍になったはずなのに、使い勝手があまり変わらないというのは、どんな事情によるものか?
     むしろ、スイッチを入れて、ソフトが立ち上がり、入力して答えを利用する時間を考えれば、今のパソコンは実用性が劣っているのだ。

     その最大の理由は、せっかくCPUの性能が数千倍にもなったのに、それが動かすプログラム量が、それ以上の重さになったせいである。
     最大の桎梏(足かせ)はセキュリティソフトである。今のパソコンを利用しようと思うと、最初にパスワードを入力し、数分もかけて重い重いOSを立ち上げねばならない。さらに、巨大なセキュリティシステムを立ち上げることになる。

     筆者が今でも使う25年前のNEC9801LTなど、スイッチを入れた瞬間にOSが立ち上がり、数秒で利用できる。実用上も十分な性能だ。当時、購入した25Mクロックのワープロだって、変換スピードや使い勝手は、今の最新式よりも上なのだ。
     結局、ネット接続からシステムを守るためのセキュリティシステムが、あらゆるソフトを極端に重くし、使い勝手を損なっているのである。

     それでは、こうしたセキュリティシステムが本当に必要なのか?
     といえば、そうした人はネットを利用した高度情報通信を行っている人に限られるのであって、ネット閲覧、書き込み、ワープロと図面計算に使う程度の筆者も含めて、今ほどの巨大なシステムなどまったく必要としていない。
     ネットを利用さえしなえれば、今のパソコンなどシステムが重すぎて使いたくもない。

     これこそ、余計なセキュリティ思想が、実用性を損なっている典型的な例といわねばならないのだ。
     30年かけて飛躍的に発展したハードウェアに対して、ソフトウェアが、それ以上の負荷を必要とするなどという現実は、まさに笑い話というしかないのである。

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     おびえる子供たち

     筆者が7年前に中津川市蛭川に移り住んで驚いたことが、いくつかあった。
     一番びっくりしたのは、散歩中、道で出会う子供たちの大部分が、見ず知らずの私に向かって、「こんにちわ」 と挨拶するのだ。
     これは、当たり前だと思うなかれ、新鮮なカルチャーショックだった。
     いい年をしたオッサンの私でも、どぎまぎしながら挨拶を返すことになったが、人を恐れない子供たちの明るく素直な表情を見ていると、暖かい安心感と未来への希望が満ちてくるのである。

     それまで20年以上住んだ名古屋市内の公団アパートでは、エレベータに子供が乗り合わせたとき、挨拶どころか、危険な浮浪者にでも見えたのか、私を見て恐れ、脅えたような緊張した表情を見せて、扉が開けば一目散に駆け出すような具合だった。
     ついぞ都会で、見知らぬ大人に対する子供たちの無邪気な人なつこい笑顔など見たこともなく、もちろん親たちも一人暮らしの得体の知れない、胡散臭い男に対して警戒の表情を緩めなかった。

     こんな子供ばかり見ていると、昔ながらの大人と子供の自然な関係など忘れてしまって、自分が変態異常者として扱われていると意識しはじめることになり、小中学生の女児あたりが一人で居合わせるなら、ついつい、ふくらみはじめた胸に目が行き、「お嬢ちゃん、おじちゃんが抱っこしてあげようか、ゲヒヒヒヒ」 (^o^) (冗談ですら)
     とやりたくなるのが人情ではないだろうか。
     こちらだって毛頭、構う意志もないのに、勝手におびえて警戒されると、子供といえどもムカッ腹がたつもので、期待に応えて悪さをしなければならないような気分に襲われるのだ。

     池田小学校殺傷事件が起きてからというものの、全国津々浦々まで学校のセキュリティが厳重になり、臆病で小心な学校管理者たちは、「人を見れば泥棒か変態と思え」と子供たちを洗脳するようになった。
     近道しようと校庭を横切るだけでセキュリティシステムが作動し、警備員が飛んでくるような状態だ。
     本当にうんざりさせられるが、人より野生動物の多い蛭川でも、おそらく学校では警戒システムが厳重なはずだが、さすがに、こんな僻地には変態はいないと、みんな信じているようで、タテマエは厳重であっても、運用上は、のどかで素直な子供たちの表情が生き残っているのである。

     これが大都会の学校のように、子供たちが「見ず知らずの大人は変態・痴漢・泥棒・異常者だ」などと教育洗脳されるようになっては、もう田舎もオシマイだ。僅かに残った人間性のカケラさえ凍り付いてしまうではないか。
     大人が道を歩いているだけで、子供たちが猛獣にでも遭遇したかのように警戒するようでは、何か困ったことや事故が起きていても、それを助けようとしたら逆に変態異常者扱いされかねないと、こちらまで警戒して手を出せなくなってしまう。
     だから、こうした過剰な警戒と恐怖心の洗脳が、明らかに人間関係に悪影響、逆効果をもたらすのであって、むしろ、子供たちを危険に晒す結果を招いていると危惧せざるをえないのである。

     筆者は、過剰なセキュリティが、どれほど効果のない大きな無駄を生み出しているか、社会から、暖かい人間関係を奪っているか、得られる安全よりも、はるかに残酷な危険をもたらすものであるかを読者に問いたい。

     911テロ以降、恐怖におびえて過剰な反応を示すことで、アメリカは、どれほど、社会の暖かみ、大らかさを喪失し、たくさんの大切なものを失ったのかを、我々は直視する必要がある。

     911テロの犠牲者は、アメリカ国内で約3000名であった。これは大きな数字だ。しかし、激昂した世論による報復、復讐心を満足させるため、アメリカ国家が怒りの矛先をアフガンやイラクにぶつけて侵略戦争を行った結果、報復作戦による米兵死者総数は4000名をはるかに超え、この結果起きた宗教対立、自爆テロなどで、罪なき民衆に強いた犠牲者は実に百万人に達するのである。
     テロが成功した場合の損失と、それを未然に防ぐために用いた過剰なセキュリティ態勢によって失った損失の差し引きを考えていただきたい。おそらく比較にならないほど、愚かしい結果がもたらされているにちがいない。

     911事件によって、ブッシュらが持ち出した「テロとの戦争」 という陳腐な屁理屈、スローガンによって、いったい誰がトクをして、誰が損をしたのか?
     「社会の至る所にテロリストが潜んでいる」
     と錦の御旗を掲げて民衆の恐怖心を煽ったのは、共和党ネオコンだったが、姿形の見えないテロリストを収監するために全米600カ所の強制収容所と300万人分の棺桶が用意され、さらに、あらゆる空港・駅や公安システムに投入された新たなセキュリティシステムに使われた税金は数十兆円の巨額に上った。

     それを優先的に請け負って巨額のボロ儲けをした者こそ、ネオコン総帥、チェイニー副大統領の経営するハリバートン社であった。それだけでない、ハリバートンは、イラクから奪った石油利権の復興プロジェクトに関与して、前年の三倍以上の利益を得た。
    http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/halliburton.html
     こうして、得られた結果から考えれば、「テロとの戦争」の中身は、ネオコンの金儲けであり、実は911テロが本当は誰が仕組んだものか、朧に見えてくるはずだ。
     
     最近では、911ツインタワー倒壊が、旅客機の突入では絶対に起こりえず、イスラエル・モサドやCIAの使用する軍事用テルミットが仕掛けられていたことを全米建築家協会が崩壊ビデオを解析して証明してみせた。
     http://www17.plala.or.jp/d_spectator/

     「テロによる巨大な被害を防止するために厳重なセキュリティが必要」
     という主張は、完全に破綻している。アメリカは911テロを再発させないで、国民の命を守るために、人間の権利を破壊し、自由を破壊し、民主主義までも破壊し、911テロの千倍以上の犠牲者を出したのである。
     
     厳重なセキュリティが敷かれたことで、得られた利益が本当にあったのか?
     我々は、よくよく考えて、こうしたセキュリティシステムによって、本当は誰に、どのような利益がもたらされたのか? 見つめる必要がある。

     セキュリティは、それを行ったことにより、行わないよりも桁違いの不利益を発生させるものだと知る必要がある。
     我々は、「人の意志による破壊行為」に対し、それを規則や法律で縛ってみたり、報復制裁、軍事行動で解決しようとしてはならないのである。
     破壊行為を招いた真の原因を分析し、原因を具体的に解決することを通じて、予防する姿勢が必要なのであって、予算を注ぎ込んだシステムによって対応しようとするなら、際限のないイタチごっこが繰り返されるだけになり、結果は逆効果にしかならないことを知っておかねばならない。

     もう一つ、例をあげてみよう。
     筆者がパソコンに触れ始めたのは、まだマイコンと呼ばれた時代で、今から30年ほど前、最初に買ったのは、シャープMZ80だった。
     当時としては、ずいぶん高価なもので、安い軽自動車が買えるほどの値段だったと思う。たしか8ビットZ80、8Mだかのクロックだったが、当時のBASICで、そこそこの計算能力があって、メモリの大きな関数電卓という印象だった。しかし、ほとんどパックマンのようなゲームで遊んでいただけだったと思う。

     数年後、次に買ったNECノートは、16ビットでV30、10M程度のクロックがあり、一太郎も十分に使えて、申し分なく実用的なものだった。
     当時のパソコンLTや9801Nは、未だに引っ張り出して使っても、スイッチを入れた瞬間から十分に役立つもので、カシオFX890ポケコンなど、曲率や勾配計算などに欠かせず、現役で使用し続けている。
     
     以来30年、どれだけのパソコンを購入したか覚えてもいないが、間違いなく十数台は買った。演算スピードも上がり、8Mだったのが、すでに3Gを超えているから、400倍以上になっている勘定だ。
     しかし、それでは使用勝手や実用性が上がったかといえば、とんでもないことで、30年前のパソコンと今のパソコン(最新はDELL・INSPIRON)を比較してみて、少なくとも木工計算での実用性は昔のポケコンの方がはるかに上なのだ。

     いろいろな機能は数桁以上も増えたが、ワープロ一つとってみても、その実用的な入力スピードは、ほとんど変わっていない。変換辞書は数千倍になったはずなのに、使い勝手があまり変わらないというのは、どんな事情によるものか?
     むしろ、スイッチを入れて、ソフトが立ち上がり、入力して答えを利用する時間を考えれば、今のパソコンは実用性が劣っているのだ。

     その最大の理由は、せっかくCPUの性能が数千倍にもなったのに、それが動かすプログラム量が、それ以上の重さになったせいである。
     最大の桎梏(足かせ)はセキュリティソフトである。今のパソコンを利用しようと思うと、最初にパスワードを入力し、数分もかけて重い重いOSを立ち上げねばならない。さらに、巨大なセキュリティシステムを立ち上げることになる。

     筆者が今でも使う25年前のNEC9801LTなど、スイッチを入れた瞬間にOSが立ち上がり、数秒で利用できる。実用上も十分な性能だ。当時、購入した25Mクロックのワープロだって、変換スピードや使い勝手は、今の最新式よりも上なのだ。
     結局、ネット接続からシステムを守るためのセキュリティシステムが、あらゆるソフトを極端に重くし、使い勝手を損なっているのである。

     それでは、こうしたセキュリティシステムが本当に必要なのか?
     といえば、そうした人はネットを利用した高度情報通信を行っている人に限られるのであって、ネット閲覧、書き込み、ワープロと図面計算に使う程度の筆者も含めて、今ほどの巨大なシステムなどまったく必要としていない。
     ネットを利用さえしなえれば、今のパソコンなどシステムが重すぎて使いたくもない。

     これこそ、余計なセキュリティ思想が、実用性を損なっている典型的な例といわねばならないのだ。
     30年かけて飛躍的に発展したハードウェアに対して、ソフトウェアが、それ以上の負荷を必要とするなどという現実は、まさに笑い話というしかないのである。

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     セキュリティ遭難

     以下は、最近起きた実話である。

     昨年末の木枯らし吹きすさぶ深夜、著名な企業に勤める友人は、連日、4時間以上もの残業で年末決算処理に追われていた。
     この会社のセキュリティシステムでは、労務管理通達により、社員が23時までに帰宅する前提になっており、23時を過ぎるとオフィスに厳重なセキュリティロック・システムが作動するように設計されていた。

     だが、彼に課せられていた期限の迫った仕事は、23時を過ぎても終わりそうもなかった。彼は机の周りに、すべての荷物を置いて、尿意を催してトイレに立った。
     トイレから事務所に戻ったとき、その扉が開かないことに血の気が引いた。ロック解除カードも机の上だ。セキュリティシステムを忘れていた自分の迂闊さを責めたが、時はすでに遅いのだ。

     上着も財布も携帯電話も、車のキーも、家の鍵すらも、すべての荷物が机にある。ロックが解除されるのは、明日の9時以降でしかない。
     今は着の身着のまま、外は寒風吹きすさぶ凍るような冬の街路。
     助けを呼ぼうにも、ビル内には誰も残っていない。保安担当もいない、電話も通じない。監視カメラが録画しているだけで、担当者が駆けつけてくることはない。

     歩いてゆける近くに知人はいない。電話さえできない。寒さから身を守る術さえない。
     「どうしたらいいんだ・・・」
     途方に暮れながら、必死になってポケットを探ると、そこに小銭で250円あった。だが250円で何ができる。終夜営業のレストランに入っても、250円で買えるものなどない。
     「待てよ、250円・・・・」
     そのとき、まだ終電のある電車で250円区間のところに兄が住んでいることを思い出した。寒さをこらえて終電に乗り、兄に救いを求めに向かった。
     
     バス賃もないから、相当に歩きて着いた兄の家に、幸い兄がいた。
     1万円を拝借してタクシーで一人暮らしの郊外の家に帰ったものの、今度は家の鍵もないことを思い出して絶望的な気分に襲われた。田舎の一軒家なので、泥棒避けに頑丈な鍵や防犯ライトなどセキュリティが敷いてあるのだ。
     玄関前で、寒さに震えながら途方に暮れた。そのとき、そういえば新しいテレビアンテナ線を通すために鍵を閉められない小さな出窓があったことを思い出した。
     そこで、必死にその窓をこじ開けて、無我夢中で中に入った。
     ようやくストーブに暖まることができ、命が助かったというところで、この恐ろしい物語は一件落着したわけだ。

     ちなみに、彼はこのロックアウトが実は二回目であった。前回は真夏だったので会社で朝まで待っても凍死することもなく、問題を甘く見ていたのだ。
     だが、もし、これが氷点下の猛吹雪のなかで、ポケットに250円がなかったなら、本当に命の危険に見舞われていたかもしれない。

     これは「セキュリティ遭難」とでも名付けるべき、現代社会における新たな遭難災厄なのである。
     その実態が調査されたなら、驚くべき恐ろしい現実が明らかになるかもしれない。ことによると、交通遭難や山岳遭難に次ぐような一大遭難事案になっているかもしれないのである。

     この例と同じでなくとも、似たような経験をされた方は少なからずいるはずだ。
     筆者も、鍵を持たないまま家のドアを迂闊にロックしてしまい、中に入るのに四苦八苦したことが何度もある。
     鍵を無理矢理こじ開けて壊してしまったこともある。筆者宅は自作の木造バラックでなので破壊も復旧も簡単だが、今の厳重な鋼鉄製ロックシステムは、素人が簡単に突破できるような代物ではないのだ。
     素手で突破侵入できるようなものではない。おまけに、無理に壊せば後でとんでもない復旧費用がかかる。
     深夜、こうしたセキュリティシステムによって、会社にも家にも立ち入れないで彷徨い、カネもなくて、どうすることもできず。ときに凍死してしまうような恐ろしい事件は、どうも決して少なくなさそうだ。

     昔なら、こんなありふれた失敗は問題にもならず、単なる笑い話ですんでしまった。日本中どこでも近所つきあいは濃密で、困ったときは近所の人をたたき起こせば、それで解決できたからだ。
     だが、今は違う。三軒隣のご近所さんの顔も一度も見たことがない人だって珍しくない。コミュニケーションなど存在せず、連帯感を確かめ合う場もない。だから、誰も助けてくれないのだ。

     今後、場合によっては、警察や消防が「セキュリティ遭難救助隊」を結成しなければならないかもしれない。昔なら、ご近所のつきあい、連帯が、こうした、ありふれたミスを簡単に解決したものだ。
     だが、人間疎外の進んだ今では、こうした問題は、役所の仕事になったかもしれないのである。セキュリティに追放された遭難者を助ける避難所が必要になっているのかもしれない。

     家はたくさん建っている。しかし、顔も知らない隣近所の連帯がないのだ。友人だって、毎日数時間の残業を強いられ、帰宅するのは深夜、家では寝るだけで早朝出勤しなければならない。とても町内の分担仕事などやっていられない。
     だから、町内会のゴミ捨て場にゴミを捨てることさえ拒否される事態になっていた。捨てた郵便物から足がついて、「捨てるな」と通告されたのだ。
     ゴミを庭先で燃そうとすれば、たちどころに消防に通報され消防車がサイレンを鳴らして飛んでくる。
    (実は、中津川市蛭川の山奥に住む筆者でさえ、庭で落ち葉を燃していると、近所の別荘に住む夫婦が消防に通報する (>_<) )
     こんな関係のご近所様に、どうして深夜の救援を求められようか?

     筆者らの若い頃を思い出してみると、ご近所の出番を待つまでもなく、こうしたセキュリティシステムを設計運用する上で、「フールセーフ」の考え方が、もっと強く意識されていたように思う。
     人間は、もともと「信じられないほどアホ」なのである。想像もつかないような初歩的な失敗を繰り返すものだ。この真実を、みんないやというほど思い知らされていた。
     だから、「システムというものはアホを前提にしなければうまくいかない」という真理が広く理解されていたと思う。
     昔の人は、自分だって、しょっちゅう失敗するのだから、誰だって失敗するさと鷹揚に考え、どんな信じられないミスをしても当然と考えて、こうした設備を作ったものだ。

     それに、昔なら警備員が巡回して手動でロックしたわけだから、そうした失敗は起こりにくかった。だいたい、23時ジャストで自動的にロックアウトされ、どうすることもできなくなるオフィスなんて、ありえなかった。
     人間は、そんなシステムに順応できるほど利口にできていないのである。人を何様と心得ておるのか(怒)

     商品の世界では、「フールセーフ」の思想を念入りに実現しなければ、いまや失敗によって損失がでたとき訴えられてしまう。
     だからストーブや電化製品など危険性の予測される商品には、過剰なほどのフールセーフシステムが設置されていることが多い。
     冒頭に上げたセキュリティシステムも、死者が出て訴訟を起こされたなら、きっと、もっとフールセーフ機能に気を遣うことだろう。
     しかし、現実は、人々が、人間の実態を無視した厳格なセキュリティシステムに追い立てられ、はじき出され、人を振り落としながら勝手に暴走するシステムについて行けなくなっているのだ。

     どうして、これほど非人間的なセキュリティシステムが大手を振って席巻するようになったのか?
     そして、こうしたシステムが、人間の完全な行動を前提にしてしか作動せず、何かの間違いが入り込むと、とたんに、もろくも、全体がマヒしてしまうような、お粗末な設計ばかりに変わってしまったのは、いったいいつ頃からなのか?

     つい最近、以下のような事件が起きた。

     【[ワシントン 3日 ロイター] 米ニューアーク国際空港のターミナルCが3日、セキュリティー上の問題で閉鎖された。同空港はニュージャージー州内に位置するが、ニューヨーク市からも近い。CNNが米運輸保安局(TSA)の話として伝えた。
     それによると、ある男性がセキュリティー検査を受けることなく誤った場所から出発エリアに入ったことが分かったため、ターミナルが閉鎖され、検査済みの乗客も再検査を受けている。 リスボン行きの便への搭乗を待っていたトロント出身の旅行者によると、ターミナル内はセキュリティー検査を待つ2000─3000人の乗客でごった返しているという。 同ターミナルはコンチネンタル航空が使用しているが、CNNによると、現時点ではすべての出発便が止まっている。 】

     【ニューヨーク時事】米ニューヨーク近郊のニューアーク国際空港で3日、不審者情報によりターミナルが一時閉鎖された事件で、警察は8日、監視カメラに写っていた男(28)を不法侵入容疑で逮捕した。 ABCテレビ(電子版)などによると、男はニューアークに近い自宅で拘束された。その際、カメラに写っていたのは自分だと認めたという。 ニューアーク空港の不審者騒ぎは、クリスマスに起きた米機爆破テロ未遂事件の直後で、当初は緊張が走った。しかし、7日に公開されたカメラ映像では、男が空港内の警備の目を盗み規制線を越えて親しい関係にあるとみられる女性搭乗客とキス。そのまま一緒に出発エリアに入り込んだことが分かっていた。】
     
     結局、この「犯人」は中国人の若者で、彼は逮捕され罰金五万円が課せられることになった。
     この事件こそ、アメリカで911事件以降、恐ろしいまでの非人間的セキュリティシステムが強要されるようになった現実を端的に示している。
     責められるべきは勝手に持ち場を離れていた監視保安員のはずだが、なぜか、中国やアメリカでは、「犯人」に対する激しい非難が巻き起こっている。

     社会不安や矛盾を、真正面から原因を探って解決する姿勢ではなく、法律や規則を厳格に定めて、それを破った者を厳罰に処すことで秩序を作ろうとする思想が、911以降、アメリカ・中国・日本などで大手を振るようになった。
     これらの厳罰主義の国に共通するものは「死刑制度」である。個人の間違いを絶対に許容しない。間違えば制裁するという思想であって、人が間違うものだという「人に対する優しさ」が完全に欠落しているのが特徴だ。

     こうした優しくない国家群で、冒頭に述べたような民衆に対する締め付け、規則の苛酷化、厳罰化が急激に拡大している現実を認識しなければいけない。

     いったいなぜ、こうなってしまったのか?

    keibi セキュリティ遭難

     以下は、最近起きた実話である。

     昨年末の木枯らし吹きすさぶ深夜、著名な企業に勤める友人は、連日、4時間以上もの残業で年末決算処理に追われていた。
     この会社のセキュリティシステムでは、労務管理通達により、社員が23時までに帰宅する前提になっており、23時を過ぎるとオフィスに厳重なセキュリティロック・システムが作動するように設計されていた。

     だが、彼に課せられていた期限の迫った仕事は、23時を過ぎても終わりそうもなかった。彼は机の周りに、すべての荷物を置いて、尿意を催してトイレに立った。
     トイレから事務所に戻ったとき、その扉が開かないことに血の気が引いた。ロック解除カードも机の上だ。セキュリティシステムを忘れていた自分の迂闊さを責めたが、時はすでに遅いのだ。

     上着も財布も携帯電話も、車のキーも、家の鍵すらも、すべての荷物が机にある。ロックが解除されるのは、明日の9時以降でしかない。
     今は着の身着のまま、外は寒風吹きすさぶ凍るような冬の街路。
     助けを呼ぼうにも、ビル内には誰も残っていない。保安担当もいない、電話も通じない。監視カメラが録画しているだけで、担当者が駆けつけてくることはない。

     歩いてゆける近くに知人はいない。電話さえできない。寒さから身を守る術さえない。
     「どうしたらいいんだ・・・」
     途方に暮れながら、必死になってポケットを探ると、そこに小銭で250円あった。だが250円で何ができる。終夜営業のレストランに入っても、250円で買えるものなどない。
     「待てよ、250円・・・・」
     そのとき、まだ終電のある電車で250円区間のところに兄が住んでいることを思い出した。寒さをこらえて終電に乗り、兄に救いを求めに向かった。
     
     バス賃もないから、相当に歩きて着いた兄の家に、幸い兄がいた。
     1万円を拝借してタクシーで一人暮らしの郊外の家に帰ったものの、今度は家の鍵もないことを思い出して絶望的な気分に襲われた。田舎の一軒家なので、泥棒避けに頑丈な鍵や防犯ライトなどセキュリティが敷いてあるのだ。
     玄関前で、寒さに震えながら途方に暮れた。そのとき、そういえば新しいテレビアンテナ線を通すために鍵を閉められない小さな出窓があったことを思い出した。
     そこで、必死にその窓をこじ開けて、無我夢中で中に入った。
     ようやくストーブに暖まることができ、命が助かったというところで、この恐ろしい物語は一件落着したわけだ。

     ちなみに、彼はこのロックアウトが実は二回目であった。前回は真夏だったので会社で朝まで待っても凍死することもなく、問題を甘く見ていたのだ。
     だが、もし、これが氷点下の猛吹雪のなかで、ポケットに250円がなかったなら、本当に命の危険に見舞われていたかもしれない。

     これは「セキュリティ遭難」とでも名付けるべき、現代社会における新たな遭難災厄なのである。
     その実態が調査されたなら、驚くべき恐ろしい現実が明らかになるかもしれない。ことによると、交通遭難や山岳遭難に次ぐような一大遭難事案になっているかもしれないのである。

     この例と同じでなくとも、似たような経験をされた方は少なからずいるはずだ。
     筆者も、鍵を持たないまま家のドアを迂闊にロックしてしまい、中に入るのに四苦八苦したことが何度もある。
     鍵を無理矢理こじ開けて壊してしまったこともある。筆者宅は自作の木造バラックでなので破壊も復旧も簡単だが、今の厳重な鋼鉄製ロックシステムは、素人が簡単に突破できるような代物ではないのだ。
     素手で突破侵入できるようなものではない。おまけに、無理に壊せば後でとんでもない復旧費用がかかる。
     深夜、こうしたセキュリティシステムによって、会社にも家にも立ち入れないで彷徨い、カネもなくて、どうすることもできず。ときに凍死してしまうような恐ろしい事件は、どうも決して少なくなさそうだ。

     昔なら、こんなありふれた失敗は問題にもならず、単なる笑い話ですんでしまった。日本中どこでも近所つきあいは濃密で、困ったときは近所の人をたたき起こせば、それで解決できたからだ。
     だが、今は違う。三軒隣のご近所さんの顔も一度も見たことがない人だって珍しくない。コミュニケーションなど存在せず、連帯感を確かめ合う場もない。だから、誰も助けてくれないのだ。

     今後、場合によっては、警察や消防が「セキュリティ遭難救助隊」を結成しなければならないかもしれない。昔なら、ご近所のつきあい、連帯が、こうした、ありふれたミスを簡単に解決したものだ。
     だが、人間疎外の進んだ今では、こうした問題は、役所の仕事になったかもしれないのである。セキュリティに追放された遭難者を助ける避難所が必要になっているのかもしれない。

     家はたくさん建っている。しかし、顔も知らない隣近所の連帯がないのだ。友人だって、毎日数時間の残業を強いられ、帰宅するのは深夜、家では寝るだけで早朝出勤しなければならない。とても町内の分担仕事などやっていられない。
     だから、町内会のゴミ捨て場にゴミを捨てることさえ拒否される事態になっていた。捨てた郵便物から足がついて、「捨てるな」と通告されたのだ。
     ゴミを庭先で燃そうとすれば、たちどころに消防に通報され消防車がサイレンを鳴らして飛んでくる。
    (実は、中津川市蛭川の山奥に住む筆者でさえ、庭で落ち葉を燃していると、近所の別荘に住む夫婦が消防に通報する (>_<) )
     こんな関係のご近所様に、どうして深夜の救援を求められようか?

     筆者らの若い頃を思い出してみると、ご近所の出番を待つまでもなく、こうしたセキュリティシステムを設計運用する上で、「フールセーフ」の考え方が、もっと強く意識されていたように思う。
     人間は、もともと「信じられないほどアホ」なのである。想像もつかないような初歩的な失敗を繰り返すものだ。この真実を、みんないやというほど思い知らされていた。
     だから、「システムというものはアホを前提にしなければうまくいかない」という真理が広く理解されていたと思う。
     昔の人は、自分だって、しょっちゅう失敗するのだから、誰だって失敗するさと鷹揚に考え、どんな信じられないミスをしても当然と考えて、こうした設備を作ったものだ。

     それに、昔なら警備員が巡回して手動でロックしたわけだから、そうした失敗は起こりにくかった。だいたい、23時ジャストで自動的にロックアウトされ、どうすることもできなくなるオフィスなんて、ありえなかった。
     人間は、そんなシステムに順応できるほど利口にできていないのである。人を何様と心得ておるのか(怒)

     商品の世界では、「フールセーフ」の思想を念入りに実現しなければ、いまや失敗によって損失がでたとき訴えられてしまう。
     だからストーブや電化製品など危険性の予測される商品には、過剰なほどのフールセーフシステムが設置されていることが多い。
     冒頭に上げたセキュリティシステムも、死者が出て訴訟を起こされたなら、きっと、もっとフールセーフ機能に気を遣うことだろう。
     しかし、現実は、人々が、人間の実態を無視した厳格なセキュリティシステムに追い立てられ、はじき出され、人を振り落としながら勝手に暴走するシステムについて行けなくなっているのだ。

     どうして、これほど非人間的なセキュリティシステムが大手を振って席巻するようになったのか?
     そして、こうしたシステムが、人間の完全な行動を前提にしてしか作動せず、何かの間違いが入り込むと、とたんに、もろくも、全体がマヒしてしまうような、お粗末な設計ばかりに変わってしまったのは、いったいいつ頃からなのか?

     つい最近、以下のような事件が起きた。

     【[ワシントン 3日 ロイター] 米ニューアーク国際空港のターミナルCが3日、セキュリティー上の問題で閉鎖された。同空港はニュージャージー州内に位置するが、ニューヨーク市からも近い。CNNが米運輸保安局(TSA)の話として伝えた。
     それによると、ある男性がセキュリティー検査を受けることなく誤った場所から出発エリアに入ったことが分かったため、ターミナルが閉鎖され、検査済みの乗客も再検査を受けている。 リスボン行きの便への搭乗を待っていたトロント出身の旅行者によると、ターミナル内はセキュリティー検査を待つ2000─3000人の乗客でごった返しているという。 同ターミナルはコンチネンタル航空が使用しているが、CNNによると、現時点ではすべての出発便が止まっている。 】

     【ニューヨーク時事】米ニューヨーク近郊のニューアーク国際空港で3日、不審者情報によりターミナルが一時閉鎖された事件で、警察は8日、監視カメラに写っていた男(28)を不法侵入容疑で逮捕した。 ABCテレビ(電子版)などによると、男はニューアークに近い自宅で拘束された。その際、カメラに写っていたのは自分だと認めたという。 ニューアーク空港の不審者騒ぎは、クリスマスに起きた米機爆破テロ未遂事件の直後で、当初は緊張が走った。しかし、7日に公開されたカメラ映像では、男が空港内の警備の目を盗み規制線を越えて親しい関係にあるとみられる女性搭乗客とキス。そのまま一緒に出発エリアに入り込んだことが分かっていた。】
     
     結局、この「犯人」は中国人の若者で、彼は逮捕され罰金五万円が課せられることになった。
     この事件こそ、アメリカで911事件以降、恐ろしいまでの非人間的セキュリティシステムが強要されるようになった現実を端的に示している。
     責められるべきは勝手に持ち場を離れていた監視保安員のはずだが、なぜか、中国やアメリカでは、「犯人」に対する激しい非難が巻き起こっている。

     社会不安や矛盾を、真正面から原因を探って解決する姿勢ではなく、法律や規則を厳格に定めて、それを破った者を厳罰に処すことで秩序を作ろうとする思想が、911以降、アメリカ・中国・日本などで大手を振るようになった。
     これらの厳罰主義の国に共通するものは「死刑制度」である。個人の間違いを絶対に許容しない。間違えば制裁するという思想であって、人が間違うものだという「人に対する優しさ」が完全に欠落しているのが特徴だ。

     こうした優しくない国家群で、冒頭に述べたような民衆に対する締め付け、規則の苛酷化、厳罰化が急激に拡大している現実を認識しなければいけない。

     いったいなぜ、こうなってしまったのか?


     セキュリティ遭難

     以下は、最近起きた実話である。

     昨年末の木枯らし吹きすさぶ深夜、著名な企業に勤める友人は、連日、4時間以上もの残業で年末決算処理に追われていた。
     この会社のセキュリティシステムでは、労務管理通達により、社員が23時までに帰宅する前提になっており、23時を過ぎるとオフィスに厳重なセキュリティロック・システムが作動するように設計されていた。

     だが、彼に課せられていた期限の迫った仕事は、23時を過ぎても終わりそうもなかった。彼は机の周りに、すべての荷物を置いて、尿意を催してトイレに立った。
     トイレから事務所に戻ったとき、その扉が開かないことに血の気が引いた。ロック解除カードも机の上だ。セキュリティシステムを忘れていた自分の迂闊さを責めたが、時はすでに遅いのだ。

     上着も財布も携帯電話も、車のキーも、家の鍵すらも、すべての荷物が机にある。ロックが解除されるのは、明日の9時以降でしかない。
     今は着の身着のまま、外は寒風吹きすさぶ凍るような冬の街路。
     助けを呼ぼうにも、ビル内には誰も残っていない。保安担当もいない、電話も通じない。監視カメラが録画しているだけで、担当者が駆けつけてくることはない。

     歩いてゆける近くに知人はいない。電話さえできない。寒さから身を守る術さえない。
     「どうしたらいいんだ・・・」
     途方に暮れながら、必死になってポケットを探ると、そこに小銭で250円あった。だが250円で何ができる。終夜営業のレストランに入っても、250円で買えるものなどない。
     「待てよ、250円・・・・」
     そのとき、まだ終電のある電車で250円区間のところに兄が住んでいることを思い出した。寒さをこらえて終電に乗り、兄に救いを求めに向かった。
     
     バス賃もないから、相当に歩きて着いた兄の家に、幸い兄がいた。
     1万円を拝借してタクシーで一人暮らしの郊外の家に帰ったものの、今度は家の鍵もないことを思い出して絶望的な気分に襲われた。田舎の一軒家なので、泥棒避けに頑丈な鍵や防犯ライトなどセキュリティが敷いてあるのだ。
     玄関前で、寒さに震えながら途方に暮れた。そのとき、そういえば新しいテレビアンテナ線を通すために鍵を閉められない小さな出窓があったことを思い出した。
     そこで、必死にその窓をこじ開けて、無我夢中で中に入った。
     ようやくストーブに暖まることができ、命が助かったというところで、この恐ろしい物語は一件落着したわけだ。

     ちなみに、彼はこのロックアウトが実は二回目であった。前回は真夏だったので会社で朝まで待っても凍死することもなく、問題を甘く見ていたのだ。
     だが、もし、これが氷点下の猛吹雪のなかで、ポケットに250円がなかったなら、本当に命の危険に見舞われていたかもしれない。

     これは「セキュリティ遭難」とでも名付けるべき、現代社会における新たな遭難災厄なのである。
     その実態が調査されたなら、驚くべき恐ろしい現実が明らかになるかもしれない。ことによると、交通遭難や山岳遭難に次ぐような一大遭難事案になっているかもしれないのである。

     この例と同じでなくとも、似たような経験をされた方は少なからずいるはずだ。
     筆者も、鍵を持たないまま家のドアを迂闊にロックしてしまい、中に入るのに四苦八苦したことが何度もある。
     鍵を無理矢理こじ開けて壊してしまったこともある。筆者宅は自作の木造バラックでなので破壊も復旧も簡単だが、今の厳重な鋼鉄製ロックシステムは、素人が簡単に突破できるような代物ではないのだ。
     素手で突破侵入できるようなものではない。おまけに、無理に壊せば後でとんでもない復旧費用がかかる。
     深夜、こうしたセキュリティシステムによって、会社にも家にも立ち入れないで彷徨い、カネもなくて、どうすることもできず。ときに凍死してしまうような恐ろしい事件は、どうも決して少なくなさそうだ。

     昔なら、こんなありふれた失敗は問題にもならず、単なる笑い話ですんでしまった。日本中どこでも近所つきあいは濃密で、困ったときは近所の人をたたき起こせば、それで解決できたからだ。
     だが、今は違う。三軒隣のご近所さんの顔も一度も見たことがない人だって珍しくない。コミュニケーションなど存在せず、連帯感を確かめ合う場もない。だから、誰も助けてくれないのだ。

     今後、場合によっては、警察や消防が「セキュリティ遭難救助隊」を結成しなければならないかもしれない。昔なら、ご近所のつきあい、連帯が、こうした、ありふれたミスを簡単に解決したものだ。
     だが、人間疎外の進んだ今では、こうした問題は、役所の仕事になったかもしれないのである。セキュリティに追放された遭難者を助ける避難所が必要になっているのかもしれない。

     家はたくさん建っている。しかし、顔も知らない隣近所の連帯がないのだ。友人だって、毎日数時間の残業を強いられ、帰宅するのは深夜、家では寝るだけで早朝出勤しなければならない。とても町内の分担仕事などやっていられない。
     だから、町内会のゴミ捨て場にゴミを捨てることさえ拒否される事態になっていた。捨てた郵便物から足がついて、「捨てるな」と通告されたのだ。
     ゴミを庭先で燃そうとすれば、たちどころに消防に通報され消防車がサイレンを鳴らして飛んでくる。
    (実は、中津川市蛭川の山奥に住む筆者でさえ、庭で落ち葉を燃していると、近所の別荘に住む夫婦が消防に通報する (>_<) )
     こんな関係のご近所様に、どうして深夜の救援を求められようか?

     筆者らの若い頃を思い出してみると、ご近所の出番を待つまでもなく、こうしたセキュリティシステムを設計運用する上で、「フールセーフ」の考え方が、もっと強く意識されていたように思う。
     人間は、もともと「信じられないほどアホ」なのである。想像もつかないような初歩的な失敗を繰り返すものだ。この真実を、みんないやというほど思い知らされていた。
     だから、「システムというものはアホを前提にしなければうまくいかない」という真理が広く理解されていたと思う。
     昔の人は、自分だって、しょっちゅう失敗するのだから、誰だって失敗するさと鷹揚に考え、どんな信じられないミスをしても当然と考えて、こうした設備を作ったものだ。

     それに、昔なら警備員が巡回して手動でロックしたわけだから、そうした失敗は起こりにくかった。だいたい、23時ジャストで自動的にロックアウトされ、どうすることもできなくなるオフィスなんて、ありえなかった。
     人間は、そんなシステムに順応できるほど利口にできていないのである。人を何様と心得ておるのか(怒)

     商品の世界では、「フールセーフ」の思想を念入りに実現しなければ、いまや失敗によって損失がでたとき訴えられてしまう。
     だからストーブや電化製品など危険性の予測される商品には、過剰なほどのフールセーフシステムが設置されていることが多い。
     冒頭に上げたセキュリティシステムも、死者が出て訴訟を起こされたなら、きっと、もっとフールセーフ機能に気を遣うことだろう。
     しかし、現実は、人々が、人間の実態を無視した厳格なセキュリティシステムに追い立てられ、はじき出され、人を振り落としながら勝手に暴走するシステムについて行けなくなっているのだ。

     どうして、これほど非人間的なセキュリティシステムが大手を振って席巻するようになったのか?
     そして、こうしたシステムが、人間の完全な行動を前提にしてしか作動せず、何かの間違いが入り込むと、とたんに、もろくも、全体がマヒしてしまうような、お粗末な設計ばかりに変わってしまったのは、いったいいつ頃からなのか?

     つい最近、以下のような事件が起きた。

     【[ワシントン 3日 ロイター] 米ニューアーク国際空港のターミナルCが3日、セキュリティー上の問題で閉鎖された。同空港はニュージャージー州内に位置するが、ニューヨーク市からも近い。CNNが米運輸保安局(TSA)の話として伝えた。
     それによると、ある男性がセキュリティー検査を受けることなく誤った場所から出発エリアに入ったことが分かったため、ターミナルが閉鎖され、検査済みの乗客も再検査を受けている。 リスボン行きの便への搭乗を待っていたトロント出身の旅行者によると、ターミナル内はセキュリティー検査を待つ2000─3000人の乗客でごった返しているという。 同ターミナルはコンチネンタル航空が使用しているが、CNNによると、現時点ではすべての出発便が止まっている。 】

     【ニューヨーク時事】米ニューヨーク近郊のニューアーク国際空港で3日、不審者情報によりターミナルが一時閉鎖された事件で、警察は8日、監視カメラに写っていた男(28)を不法侵入容疑で逮捕した。 ABCテレビ(電子版)などによると、男はニューアークに近い自宅で拘束された。その際、カメラに写っていたのは自分だと認めたという。 ニューアーク空港の不審者騒ぎは、クリスマスに起きた米機爆破テロ未遂事件の直後で、当初は緊張が走った。しかし、7日に公開されたカメラ映像では、男が空港内の警備の目を盗み規制線を越えて親しい関係にあるとみられる女性搭乗客とキス。そのまま一緒に出発エリアに入り込んだことが分かっていた。】
     
     結局、この「犯人」は中国人の若者で、彼は逮捕され罰金五万円が課せられることになった。
     この事件こそ、アメリカで911事件以降、恐ろしいまでの非人間的セキュリティシステムが強要されるようになった現実を端的に示している。
     責められるべきは勝手に持ち場を離れていた監視保安員のはずだが、なぜか、中国やアメリカでは、「犯人」に対する激しい非難が巻き起こっている。

     社会不安や矛盾を、真正面から原因を探って解決する姿勢ではなく、法律や規則を厳格に定めて、それを破った者を厳罰に処すことで秩序を作ろうとする思想が、911以降、アメリカ・中国・日本などで大手を振るようになった。
     これらの厳罰主義の国に共通するものは「死刑制度」である。個人の間違いを絶対に許容しない。間違えば制裁するという思想であって、人が間違うものだという「人に対する優しさ」が完全に欠落しているのが特徴だ。

     こうした優しくない国家群で、冒頭に述べたような民衆に対する締め付け、規則の苛酷化、厳罰化が急激に拡大している現実を認識しなければいけない。

     いったいなぜ、こうなってしまったのか?


    ai10 続 山の歩き方

     前回は獣道と人道の見分け方、疲れない歩き方などについて説明した。
     まだ少し言い足りない部分を補足しておきたい。

     前回、安全登山のために大切な姿勢は「ゆっくり歩く」ことだと説明したつもりだが、これでは説明不足で、急傾斜の山道を歩く上で意識しなければならないことは、ゆっくり歩き、かつ歩幅を狭くするということである。
     筆者は若い頃、先達から「猫のように、しなやかに歩け」と教わったことがある。一歩一歩、無理のないダメージの少ない歩き方を心がければ、長丁場では大きな違いになって返ってくる。

     「ゆっくり、歩幅を狭く、しなやかに歩く」
     これが基本だが、これでも、まだ足りない。筆者は16歳から今日まで約二千回程度の山歩きを行っていると思うが、この経験の蓄積から言わせていただくと、「余分な力を抜いて歩く」ということが一番大切である。全部力を抜いてしまえば当然歩けないので、歩くために本当に必要な筋肉だけを瞬時に使い、必要でなくなったら、瞬時に休ませるのである。
     必要なときにだけ筋肉を働かせ、必要でない筋肉は瞬時に完全にリラックスさせていることが、登山で疲れない、バテない最大の秘訣であると指摘しておきたい。

     このために、本当に力が必要な瞬間だけ筋肉が働くように、普段から感覚を養い、「無駄な力は使わない」訓練が必要である。
     もちろん、登山だけでなく、あらゆるスポーツに共通する深い奥義というべきだが、フリークライミングに凝った経験のある人なら、これがもの凄く身にしみて理解できるはずだ。
     クライミングを上手に行うコツは「力の抜き方」であり、必要な筋肉だけを、必要なタイミングだけに使い、それ以外では完全にリラックスさせ、疲労回復するテクニックがクライミングの真の奥義であることを思い知らされるはずだ。
     登山でも同様に考えるのである。「力を抜きなさい」
     この奥義こそ、普段は酒かっくらって寝ているだけの中年メタボ、ダメ親父が、10クラスの難ルートをあっというまに登って見物人を驚かせる本当の理由である。

     さて、ここまでは少しスポーツを囓った人なら誰でも知っている。この先は筆者のオリジナル奥義を伝授しよう。

     山頂から下山するとき、下り坂で滑って転倒した経験を持つ人も多いだろう。これは、単に足を滑らせたというだけでなく、実は山歩きのなかで大切な歩行メカニズムが隠されているのである。

     雪国の人なら、アイスバーンでの基本的な歩き方を知っているはずだ。それは、決してカカトで歩かない。つま先で歩くのである。つま先に力を入れ、足指を多用する。これが凍結路で滑らないコツである。
     だから凍結の多い寒い地域の人たちは、歴史的に足指が長くなる傾向がある。日本海側の人たちは、太平洋側に比べて足指が長いのである。このため、短距離走は若干苦手ということになる。

     実は、急傾斜の山道・坂道を歩くコツも、まったく同じメカニズムであり、滑らないような歩き方は、カカトではなくつま先に力を入れて歩くのである。
     これは山の場合、主に下りということになる。急傾斜の下りで、つま先に力を入れて足指を最大に利用しながら下れば滑らない。

     ところが、それでも滑って転ぶ人がいる。実は、このとき、つま先に力を入れているつもりでも腓腹筋が疲労して力が入らなくなってしまい、カカトだけで歩くような投げやりな歩行姿勢になっているのである。
     本人は登山で興奮しているから腓腹筋の疲労が分からないが、ベテランがまったく滑らない下りで滑ってばかりいる人は「カカト歩き」という状態に陥っていることを知っておく必要がある。

     どううして「カカト歩き」だと滑りやすいのだろう?
     それは、凍結路における「カカト歩き」と「つま先歩き」の違いと同じもので、つま先歩きの場合は、滑ってバランスが崩れたときに重力バランスを立て直す筋肉の可動域、幅が、足先全体にあって広いため容易に対応できるが、カカト歩きでは、足が棒状になっていて、滑ったときに、それを補正する動きが限定されるために転倒しやすくなるのである。
     滑ったとき、つま先に力が入っていれば、膝・足首・足指と三つの関節を動かして対応できるが、カカト歩きだと、事実上、膝だけで対応することになる。

     これで、急傾斜の下山時に、つま先歩きが必要なことが理解できると思うが、登山用筋肉が衰えている人、未発達な人は、意識しても、これができずにカカトで歩いてしまい、どうしても滑りやすくなる。
     このとき、補助アイテムとして活躍してくれるのがストックである。

     筆者がストックを一般登山に使い出したのは、30年前、1980年頃で、当時は、もちろんスキーストックなど無雪期に使う人などいなかったから、すれ違う人は奇異な目で見ていたが、今では、折りたたみの優秀なストックが開発されたこともあり、ダブルストックで歩く人は珍しくもない。
     筆者は1970年代、冬になると北鈴鹿の山々で山スキー歩行に凝っていて、ストック歩行が、どれほど役に立つか、さんざん思い知らされていたから、夏山でもスキーストックで歩くようになったのだ。
     今では痛風による膝関節のダメージ、衰えもあって、ストックなしでは山を歩けなくなってしまった。二本足よりは四本足の方がはるかに効率よく、山では安全なのである。イノシシや熊に遭遇したときも心強い。
     中高年の登山ハイキングには、ダブルストックは膝を守るために欠かすべからざる必須アイテムである。

     登山ハイキングで決して忘れてはいけないものとして、次のものをあげたい。

     1・ 純毛厚手セーターとヤッケ(雨具も可) これは軽ハイキングも含めて、最後の命綱と思っていただきたい。肌着が濡れたなら、セーターを肌に直接着込むこと。
     2・ ライト・スペア電池・地図 当然の装備、この他に水(ペット飲料可)食料、雨具ということになる。
     3・冒頭に述べた理由で、折りたたみストック二本を加えていただきたい。これは、どうしても必要とはいわないが、長い歩行積み重ねのなかで、あなたの膝を守ってくれる大切なアイテムだ。

     特殊装備について

     筆者は若い頃から、一般的な登山に飽きたらず、ロッククライミングや沢登りにも夢中になった。普通の人が敬遠する藪漕ぎも数多くこなした。
     そこで、あまり一般的とはいえないが、山のすべてを知りたいと思っている人のために、特殊な装備についても言及しておきたい。

     沢登りは登山道の整備されていなかった古典的な山登りでは常識であり、昔は沢道を経由しなければ頂上に立つことができず、今でも北海道では日高などで多くの登山道が沢を利用している。
     沢はコケがついていて滑りやすいのが普通で、昔は地下足袋ワラジや荒縄を靴に巻き付けて対処したものだ。80年あたりから沢用フェルト底靴が出てきたが、面倒な大荷物になるので、荷を減らしたい場合、古い穴のあいた毛糸靴下を代用すればよい。
     靴の代わりに使う靴下なので、三枚以上履き重ねることになる。靴の上から履ければ、それでもよい。これは凍結路でも役立つことを知っておいて損はない。

     下山時や出水時に、希にロープが必要になるときがある。本格的なロッククライミングなら9ミリ・40m以上、沢登りなら8ミリ・30m以上、非常装備なら1パーティで1本、7ミリ・20m程度(1キロ程度)を持参する。

     これで簡単な懸垂下降や徒渉を行う。懸垂下降は器具のいらない肩・股絡み下降を普段から訓練すること。
    http://members.at.infoseek.co.jp/kuma3_3/kura/1.htm

     非常ロープはツエルトを張るときなども役に立ち、転落時に真の命綱になることもあり、誰でも一本は所持しておいたほうがよい。
     徒渉のときは、ロープを張るために特殊な結び方を覚える必要がある。筆者はトラック運送で覚えた「万力縛り」を利用することが多い。
    http://www1.ocn.ne.jp/~tatsujin/ropework/truck/index.htm

     筆者の40年間の登山経験で、ヘルメットが必要だと思ったことは、ほとんどない。氷雪クライミングで確保のとき、上から氷が落ちてくるのに役に立ったくらいだ。ヒマラヤクラスなら必要だろうが、日本の沢登りくらいで持参するのはナンセンスだと思う。ロッククライミングでも、ゲレンデならほとんど無用だ。
     山は必要な装備を絶対に忘れてはいけないが、無用な装備を何一つ持参してもいけない。本当に役立つものだけを持って行こう。

     あって助かったものはザ・エクストラクター、ポイズンリムーバーという名の毒吸引器(3000円程度)だ。山ではアブ・ヒルから蜂など毒虫にやられることが少なくないので、マムシ・アブ・スズメバチ刺傷に有効な、この器具は必需品と位置づけてもよい。
     これまで、どれほど助けられたか分からない。これを使えばアブに刺されても数日で完治する。ブヨに刺されたときも腫れ上がらずにすむ。
     沢登りにヒルはつきもので、とりわけ鈴鹿は凄い。一度、足に百匹くらい貼り付いているのを見て卒倒しそうになったことがある。後で完治するまでに数ヶ月を要した。
     ヒル避けはいろいろあるが、簡単なのは塩や灯油、酢やクエン酸で、濃い溶液を百円噴霧器に入れて持参し、ときどき膝下に噴霧するだけでよい。帰宅後きちんと洗わないと金属部品が錆びてしまう。

     山の危険としては、迷い込みなど地理的条件以外に動物の危険がいわれる。
     99%は上にあげたように虫や小動物だが、希にヒグマや熊、イノシシとの遭遇がある。最近では、昨年、秋、御岳「ヒメシャガの湯」の近く巖立峡で子熊と遭遇した。
     過去40年間に、熊と遭遇したのは数十回、ヒグマとも5回以上あり、最大数メートルというニアミスもあった。
     しかし、熊に襲われたことは皆無で、みんながいうほど心配なものではない。

     それでも日本登山界の鉄人、山野井君が奥多摩でトレーニング中に熊に襲われたニュースを聞いて驚いた。おそらく、子連れでいた熊に気づかず、走って近づいたために母熊が母性本能で恐怖して攻撃したのだと思う。
     実は、動物が人間を襲うとき、人間のように攻撃してやろうという凶暴な意図で襲うことなど希であって、ほとんどは恐ろしさに震えて無我夢中で攻撃するのである。人間ほど怖い動物はないのだ。
     だから、熊に自分の存在を気づかせる鈴などの工夫が大切で、もし「いる」と分かったときは、優しい声で「おーい、おーい」と切れ目なく声をかけるのがよい。
     ほとんどの動物は、優しい声なら恐怖せず、その主を確かめようとする好奇心があり、攻撃本能は出てこない。
     筆者はこの手で、牛ほどの巨大なカモシカに5mまで近寄ったことがある。
     これまでの40年の経験で、イノシシと真正面から遭遇したことは皆無、姿を見たのも数回にとどまる。
     もし襲われたなら、ストックを使って対峙するしかないと思っている。襲うとしても、アホな猟師がしとめ損なった手負いくらいだろう。

     続 山の歩き方

     前回は獣道と人道の見分け方、疲れない歩き方などについて説明した。
     まだ少し言い足りない部分を補足しておきたい。

     前回、安全登山のために大切な姿勢は「ゆっくり歩く」ことだと説明したつもりだが、これでは説明不足で、急傾斜の山道を歩く上で意識しなければならないことは、ゆっくり歩き、かつ歩幅を狭くするということである。
     筆者は若い頃、先達から「猫のように、しなやかに歩け」と教わったことがある。一歩一歩、無理のないダメージの少ない歩き方を心がければ、長丁場では大きな違いになって返ってくる。

     「ゆっくり、歩幅を狭く、しなやかに歩く」
     これが基本だが、これでも、まだ足りない。筆者は16歳から今日まで約二千回程度の山歩きを行っていると思うが、この経験の蓄積から言わせていただくと、「余分な力を抜いて歩く」ということが一番大切である。全部力を抜いてしまえば当然歩けないので、歩くために本当に必要な筋肉だけを瞬時に使い、必要でなくなったら、瞬時に休ませるのである。
     必要なときにだけ筋肉を働かせ、必要でない筋肉は瞬時に完全にリラックスさせていることが、登山で疲れない、バテない最大の秘訣であると指摘しておきたい。

     このために、本当に力が必要な瞬間だけ筋肉が働くように、普段から感覚を養い、「無駄な力は使わない」訓練が必要である。
     もちろん、登山だけでなく、あらゆるスポーツに共通する深い奥義というべきだが、フリークライミングに凝った経験のある人なら、これがもの凄く身にしみて理解できるはずだ。
     クライミングを上手に行うコツは「力の抜き方」であり、必要な筋肉だけを、必要なタイミングだけに使い、それ以外では完全にリラックスさせ、疲労回復するテクニックがクライミングの真の奥義であることを思い知らされるはずだ。
     登山でも同様に考えるのである。「力を抜きなさい」
     この奥義こそ、普段は酒かっくらって寝ているだけの中年メタボ、ダメ親父が、10クラスの難ルートをあっというまに登って見物人を驚かせる本当の理由である。

     さて、ここまでは少しスポーツを囓った人なら誰でも知っている。この先は筆者のオリジナル奥義を伝授しよう。

     山頂から下山するとき、下り坂で滑って転倒した経験を持つ人も多いだろう。これは、単に足を滑らせたというだけでなく、実は山歩きのなかで大切な歩行メカニズムが隠されているのである。

     雪国の人なら、アイスバーンでの基本的な歩き方を知っているはずだ。それは、決してカカトで歩かない。つま先で歩くのである。つま先に力を入れ、足指を多用する。これが凍結路で滑らないコツである。
     だから凍結の多い寒い地域の人たちは、歴史的に足指が長くなる傾向がある。日本海側の人たちは、太平洋側に比べて足指が長いのである。このため、短距離走は若干苦手ということになる。

     実は、急傾斜の山道・坂道を歩くコツも、まったく同じメカニズムであり、滑らないような歩き方は、カカトではなくつま先に力を入れて歩くのである。
     これは山の場合、主に下りということになる。急傾斜の下りで、つま先に力を入れて足指を最大に利用しながら下れば滑らない。

     ところが、それでも滑って転ぶ人がいる。実は、このとき、つま先に力を入れているつもりでも腓腹筋が疲労して力が入らなくなってしまい、カカトだけで歩くような投げやりな歩行姿勢になっているのである。
     本人は登山で興奮しているから腓腹筋の疲労が分からないが、ベテランがまったく滑らない下りで滑ってばかりいる人は「カカト歩き」という状態に陥っていることを知っておく必要がある。

     どううして「カカト歩き」だと滑りやすいのだろう?
     それは、凍結路における「カカト歩き」と「つま先歩き」の違いと同じもので、つま先歩きの場合は、滑ってバランスが崩れたときに重力バランスを立て直す筋肉の可動域、幅が、足先全体にあって広いため容易に対応できるが、カカト歩きでは、足が棒状になっていて、滑ったときに、それを補正する動きが限定されるために転倒しやすくなるのである。
     滑ったとき、つま先に力が入っていれば、膝・足首・足指と三つの関節を動かして対応できるが、カカト歩きだと、事実上、膝だけで対応することになる。

     これで、急傾斜の下山時に、つま先歩きが必要なことが理解できると思うが、登山用筋肉が衰えている人、未発達な人は、意識しても、これができずにカカトで歩いてしまい、どうしても滑りやすくなる。
     このとき、補助アイテムとして活躍してくれるのがストックである。

     筆者がストックを一般登山に使い出したのは、30年前、1980年頃で、当時は、もちろんスキーストックなど無雪期に使う人などいなかったから、すれ違う人は奇異な目で見ていたが、今では、折りたたみの優秀なストックが開発されたこともあり、ダブルストックで歩く人は珍しくもない。
     筆者は1970年代、冬になると北鈴鹿の山々で山スキー歩行に凝っていて、ストック歩行が、どれほど役に立つか、さんざん思い知らされていたから、夏山でもスキーストックで歩くようになったのだ。
     今では痛風による膝関節のダメージ、衰えもあって、ストックなしでは山を歩けなくなってしまった。二本足よりは四本足の方がはるかに効率よく、山では安全なのである。イノシシや熊に遭遇したときも心強い。
     中高年の登山ハイキングには、ダブルストックは膝を守るために欠かすべからざる必須アイテムである。

     登山ハイキングで決して忘れてはいけないものとして、次のものをあげたい。

     1・ 純毛厚手セーターとヤッケ(雨具も可) これは軽ハイキングも含めて、最後の命綱と思っていただきたい。肌着が濡れたなら、セーターを肌に直接着込むこと。
     2・ ライト・スペア電池・地図 当然の装備、この他に水(ペット飲料可)食料、雨具ということになる。
     3・冒頭に述べた理由で、折りたたみストック二本を加えていただきたい。これは、どうしても必要とはいわないが、長い歩行積み重ねのなかで、あなたの膝を守ってくれる大切なアイテムだ。

     特殊装備について

     筆者は若い頃から、一般的な登山に飽きたらず、ロッククライミングや沢登りにも夢中になった。普通の人が敬遠する藪漕ぎも数多くこなした。
     そこで、あまり一般的とはいえないが、山のすべてを知りたいと思っている人のために、特殊な装備についても言及しておきたい。

     沢登りは登山道の整備されていなかった古典的な山登りでは常識であり、昔は沢道を経由しなければ頂上に立つことができず、今でも北海道では日高などで多くの登山道が沢を利用している。
     沢はコケがついていて滑りやすいのが普通で、昔は地下足袋ワラジや荒縄を靴に巻き付けて対処したものだ。80年あたりから沢用フェルト底靴が出てきたが、面倒な大荷物になるので、荷を減らしたい場合、古い穴のあいた毛糸靴下を代用すればよい。
     靴の代わりに使う靴下なので、三枚以上履き重ねることになる。靴の上から履ければ、それでもよい。これは凍結路でも役立つことを知っておいて損はない。

     下山時や出水時に、希にロープが必要になるときがある。本格的なロッククライミングなら9ミリ・40m以上、沢登りなら8ミリ・30m以上、非常装備なら1パーティで1本、7ミリ・20m程度(1キロ程度)を持参する。

     これで簡単な懸垂下降や徒渉を行う。懸垂下降は器具のいらない肩・股絡み下降を普段から訓練すること。
    http://members.at.infoseek.co.jp/kuma3_3/kura/1.htm

     非常ロープはツエルトを張るときなども役に立ち、転落時に真の命綱になることもあり、誰でも一本は所持しておいたほうがよい。
     徒渉のときは、ロープを張るために特殊な結び方を覚える必要がある。筆者はトラック運送で覚えた「万力縛り」を利用することが多い。
    http://www1.ocn.ne.jp/~tatsujin/ropework/truck/index.htm

     筆者の40年間の登山経験で、ヘルメットが必要だと思ったことは、ほとんどない。氷雪クライミングで確保のとき、上から氷が落ちてくるのに役に立ったくらいだ。ヒマラヤクラスなら必要だろうが、日本の沢登りくらいで持参するのはナンセンスだと思う。ロッククライミングでも、ゲレンデならほとんど無用だ。
     山は必要な装備を絶対に忘れてはいけないが、無用な装備を何一つ持参してもいけない。本当に役立つものだけを持って行こう。

     あって助かったものはザ・エクストラクター、ポイズンリムーバーという名の毒吸引器(3000円程度)だ。山ではアブ・ヒルから蜂など毒虫にやられることが少なくないので、マムシ・アブ・スズメバチ刺傷に有効な、この器具は必需品と位置づけてもよい。
     これまで、どれほど助けられたか分からない。これを使えばアブに刺されても数日で完治する。ブヨに刺されたときも腫れ上がらずにすむ。
     沢登りにヒルはつきもので、とりわけ鈴鹿は凄い。一度、足に百匹くらい貼り付いているのを見て卒倒しそうになったことがある。後で完治するまでに数ヶ月を要した。
     ヒル避けはいろいろあるが、簡単なのは塩や灯油、酢やクエン酸で、濃い溶液を百円噴霧器に入れて持参し、ときどき膝下に噴霧するだけでよい。帰宅後きちんと洗わないと金属部品が錆びてしまう。

     山の危険としては、迷い込みなど地理的条件以外に動物の危険がいわれる。
     99%は上にあげたように虫や小動物だが、希にヒグマや熊、イノシシとの遭遇がある。最近では、昨年、秋、御岳「ヒメシャガの湯」の近く巖立峡で子熊と遭遇した。
     過去40年間に、熊と遭遇したのは数十回、ヒグマとも5回以上あり、最大数メートルというニアミスもあった。
     しかし、熊に襲われたことは皆無で、みんながいうほど心配なものではない。

     それでも日本登山界の鉄人、山野井君が奥多摩でトレーニング中に熊に襲われたニュースを聞いて驚いた。おそらく、子連れでいた熊に気づかず、走って近づいたために母熊が母性本能で恐怖して攻撃したのだと思う。
     実は、動物が人間を襲うとき、人間のように攻撃してやろうという凶暴な意図で襲うことなど希であって、ほとんどは恐ろしさに震えて無我夢中で攻撃するのである。人間ほど怖い動物はないのだ。
     だから、熊に自分の存在を気づかせる鈴などの工夫が大切で、もし「いる」と分かったときは、優しい声で「おーい、おーい」と切れ目なく声をかけるのがよい。
     ほとんどの動物は、優しい声なら恐怖せず、その主を確かめようとする好奇心があり、攻撃本能は出てこない。
     筆者はこの手で、牛ほどの巨大なカモシカに5mまで近寄ったことがある。
     これまでの40年の経験で、イノシシと真正面から遭遇したことは皆無、姿を見たのも数回にとどまる。
     もし襲われたなら、ストックを使って対峙するしかないと思っている。襲うとしても、アホな猟師がしとめ損なった手負いくらいだろう。ai10.jpg

    yama1 山の歩き方

     十数年前から痛風発作を繰り返すようになり、足の関節が変形して古い登山靴が履けなくなったりして、昔のように自由な山歩きができなくなったが、25〜40歳くらいまでは年間50回以上のペースで山歩きを続けていた。
     20歳頃から意識した日本百名山は前世紀の90年頃、とりあえず完全踏破することができた。(噴火立入規制などで山頂を踏んでいない山がいくつかあるが)
     今は友人などとともに二巡目の百名山ハイキングを楽しんでいる。

     通算では40年ほどの登山歴ということになり、まだ死んでいないところをみると、おそらく自分の山歩きが間違っていなかったように思っている。
     そこで今回は、おこがましいながら、私なりの山歩きの知恵をブログに書き残しておきたい。
     このところ冬山登山の遭難ニュースが非常に多いので、ハイキング気分で冬山に入るような甘い考えの人たちに警告を書かねばとも思っていた。

     私は若い頃から道に興味があり、登山道についても数千回の経験から、それが、どのように変遷するのか、ある程度理解することができたと思う。
     そこで、「登山道」の成り立ちについて私なりの考えを書いてみたい。

     山の主は基本的に人間ではない。それは獣たちである。人間は、獣たちの道を借りながら登山道を造り出すのである。だから、ほとんどの山で、登山道の原型は「獣道」であることを知っておかねばならない。
     山では、人道と獣道が無数に交差している。有名山岳では、しっかりした登山道が造られ、まず迷うことも少ないが、無名の藪山では、人道と獣道の区別はないと思う必要があり、その見分け方を叩き込んでおかねばならない。

     獣たちだって、通過の大変な藪漕ぎなんかしたくない。だから、山の中では一番歩きやすい場所を歩くことになり、そこに道ができる。
     ただし、人間ほど背の高い獣は希なので、おおむね狸や狐、イノシシや熊などの背丈に合わせた道ができあがることに注意が必要だ。

     すなわち、獣道と人間道を見分ける原則は、その高さにある。多くの場合、踏み跡だけでは見分けがつきにくいが、獣道は、すぐに人間が通るのが困難な腹より高い位置の枝葉や藪が出てくるから分かる。顔に枝葉が当たるような道は獣道である。
     それに人の道よりも歩幅が狭いし、多くの獣は人より軽いので人道ほど踏み固められていない。そこで、紛らわしい踏み跡があったとき、踏み込んでみれば獣道は柔らかく、人道は固いものだ。

     獣道は生活道路だ。餌場と水飲み場、寝場所を行き交うために踏みつけられる。
     獣たちがもっとも多く通う道は水飲みの道で、したがって沢筋に踏み跡が多く、これを利用するために人道も沢筋が第一になる。
     山の道は基本的に沢筋である。人が山菜採り、炭焼き、木材運搬などに利用するのも9割以上が沢筋である。しかし日本の沢には多くの滝があり、急峻危険なため、大滝やゴルジュ(水流に掘られた洞窟状水路)などで迂回路や他の安全な沢筋に移るトラバースルートが成立することになる。
     「沢筋に危険箇所が出てくると避難路がつけられる」これも覚えておく必要がある。

     次に、テリトリー拡大のため獣の峠越えルートもある。獣だって一番安全なルートを探すから、人様の峠道も獣道を利用することが多い。
     最後に、藪の多い道よりも歩きやすく、かつ外敵に遭遇したとき、いち早く逃げられる視界良好なルートということで尾根筋が利用される。もっとも、尾根筋に関してだけは、獣よりも人間の利用がはるかに多い。

     それは、一番高い場所で見晴らしが良いので、里などとの位置関係を確認できるからであり、尾根道というものは動物よりも人間が、より多く利用するものである。
     だから、尾根道は下界集落にまでつながっている場合が多く、山で迷ったときは、決していきなり沢筋に降りず、最初に尾根に登り、道を確認してから人間様ルートを利用して下界に向かうのが遭難しない大切なコツである。
     迷うと喉が渇くから沢に降りたくなり、そのまま人里につながっていると安易に想像してしまうが、決してそうではない。日本の沢は滝の連続であり、沢を下るのは危険に満ちている。
     冬山遭難以外の大半は、迷って沢に迷い込み、そのまま下って滝で滑って負傷・死亡するというケースである。

     ちなみに、獣たちは尾根道のてっぺんを歩くことは少なく、笹や藪の少ない北側の斜面の尾根より5〜20mほど下側に尾根に沿った獣道があることが多い。ベテラン猟師たちは、この道を使って猟を行う。
     歩きにくい笹藪が繁茂するのは南側の日当たりの良い場所で、北側の風雪に晒される場所は植生が悪く、逆に歩きやすいものだ。
     尾根のてっぺんにつけられた踏み跡は人間様のものであることが多い。日本中の尾根で、人道の皆無というルートは希で、そんなとき、その尾根は断崖絶壁に消えると覚悟すべきだ。

     山の道は、1・沢筋 2・尾根筋 3・峠道 4・滝・ゴルジュ迂回路 5・トラバース というように整理して覚えよう。今歩いている踏み跡は、獣道か人道か? 沢か尾根かトラバースか? などと、その属性を考え、記憶しながら歩けば、まず迷うことは少ない。

     最近は、わかりにくい場所に赤テープなどをつけても「クリーン作戦」などと余計なお節介の環境美化運動で剥がされてしまうことも多いが、迷いやすい藪山で、目印をつけるのは登山の大切な基本テクニックである。
     赤テープがダメなら、昔のようにナタで目印をつけよう。下山時の目標であるから、必ず上から降りてくるときに見えるよう人間の目の位置の皮を剥ぐ。これは自分の記号であるから、独特の分かりやすい形にする。
     マタギは目印に数十種類の共有暗号を含ませていた。形を見れば、この道が持つ情報が分かる仕組みになっていた。
     木を傷つけるのも良心が咎めるが、迷わないよう帰路を確認し、命を守る方が大事だ。必要もないのに、むやみに傷つけるのはもってのほかだが、安全のために、ためらってはいけない。

     最近は、警察検問で、車にナタやナイフが置いてあると逮捕されるらしい。必ず登山ザックに入れて、「理由なき所持」にならないように工夫する必要がある。
     私が山で目印をつけているとき、たまたま見ていた人から「自然破壊」と糾弾されたこともあった。山も難しくなったものだ。
     十分な標識が設置されているなら別だが、藪山でテープもアカン、目印もアカンじゃ困る。冬山では細い赤布をたくさん持参し、頭より高い位置の枝に縛りながら行く。一晩で2mも積もることもあり、低い位置では雪に埋もれてしまうことがある。木のない場所では、細い竹などを刺して結ぶことになる。
     結び目の作り方で、どちらが上下か分かるようにする。帰路、回収するのが常識なようだ。もちろん上から見る下山標識であることを忘れずに。

     次に、歩き方のコツを伝授する。
     歩き始めは、必ずゆっくり、最初の30分は持てる実力の三分の一しか使ってはいけない。これが準備運動だ。次の30分は二分の一の力でゆっくり歩き、十分に休んでお茶や菓子を飲食し、いよいよ本番だ。
     準備運動をしないで、いきなりハイペースで歩くと、必ずバテることになる。そんな人たちは結局、上の方で息が切れて苦しくなり、我々カメさんに追い抜かれてしまい、山歩きが楽しいものではなくなってしまう。

     1時間歩いてから、実力の8分目を出して山頂に向かう。休憩はおおむね1時間に5分程度。ほとんどの人が同じように休憩するので、有名山岳では、その位置に休憩所のような場所ができていることが多い。
     決して休みすぎてはいけない。軽く息を整える程度で、できるだけお菓子などを飲食しよう。糖尿病になりそうな甘いジュースも山ではOKだ。

     疲れてきたら、休むのではなく、「ゆっくり歩く」ことを心がける。休んでしまうと疲労が吹き出し、ますますバテることになる。
     飲食しながら、ゆっくり歩いていれば、疲れは消えてゆく。老人だって、若者のように早く歩けないが、ゆっくり山頂に着くことができる。体力のない人だって、ゆっくり歩けば、高体力の人と同じように楽しめる。

     最近、経験不足の中高年による遭難事故が多発しているが、最大の問題点は、「自分を知らないこと」である。
     自分を実力以上に過剰に評価するクセのある人は遭難しやすい。自分の実力に対して謙虚な姿勢が必要だ。
     山は大変なスポーツだ。準備があれば、困難を克服できる。装備を準備するだけではダメだ。体力・精神力を準備しなければならない。
     最初から苦しい大変な山など行ってはいけない。まずは高尾山や筑波山のような山を十数回も登り、基本的な歩き方の訓練を行い。普段から2時間程度歩く訓練を重ねる必要がある。
     そして、体力の必要な重い登山では、必ず「ゆっくり歩く」ようにすれば大丈夫、バテこそ遭難の第一歩であることを肝に銘ぜよ。

     バテない基本テクニックは、第一にゆっくり歩くこと。第二に、頻繁に軽い飲食を行うこと。第三に、こまめに衣類を脱着することだ。
     衣類を調節して、体温を一定に保つことは、非常に重要なテクニックで、山では非日常的な体験をしているので、普段の感覚が分かりにくくなる。
     体が寒がっているのに、本人は暑いと勘違いしている場合があり、着重ねしなければならない状況下で、強風に吹かれて体温が低下し、意識が朦朧としながら、そのまま死亡することも珍しくない。
     寒いと疲労度が加速する。体が熱を作るために余分なエネルギーを浪費するからだ。だから暖かく快適にすることが疲労を少なくするテクニックなのである。

     最近ではトムラウシ・ツアー登山の遭難が風に吹かれた低体温遭難だったようだ。
     強風で、少しでも寒さを感じたら、必ず、防風ヤッケ(雨具でもよい)を着ること。肌着は登山用か純毛薄手セーターを着ること。
     汗や雨に濡れて肌着の保温性が落ちたなら、純毛セーターを直接肌に着込むこと。純毛セーターは最後の命の綱である。どんなハイキングでも持参すること。
     雨中登山では、稜線に出ると凄まじい強風に遭って、とてもじゃないが、着替えなど不可能なことが多い。
     だから稜線に出る前に、藪の中で状況を予測して、先に着替えや着重ねを済ませること。

     冬山は、同じ山であっても、他のシーズンとは基本的に別世界だと思う必要がある。
     私は若い頃から鈴鹿の鈴北岳・御池岳をトレーニング場所にしていて鞍掛峠などから百回以上も登っているが、慣れきって地図も持参しないで、すべて知っているつもりでいた。
     ところが、ある冬、もの凄い暴風雪のときに登って、ホワイトアウトという現象に出くわした。これは降雪と薄い太陽光により、雪と空間の境目が認識できなくなる現象である。
     このとき、隅から隅まで知り抜いているはずの鈴北の地形が、今どこにいるのか、まったく分からなくなった。積雪で地形も変わり、自分が歩いている場所が尾根なのか、いつものルートなのかも完全に見失い、彷徨する羽目になった。

     このとき冬山が、どれほど恐ろしい魔物であるのか思い知らされることになった。
     ゲレンデとして百回も通っている地形でさえ、まったく理解できなくなる。
     1000m前後の低山でさえ、そんな現象が起きる。まして3000mの世界は凄い。
     正月に、吹雪の中で立派な登山道や標識のある間ノ岳から北岳に向かう尾根が、どうしても発見できなかったことがある。1時間も彷徨い、奇跡的に北岳への稜線が見えて助かった。

     冬山をなめてはいけない。数千回の登山経験があっても、見るも無惨に打ちのめされることがあるのだ。
     迷ったとき、行き先を確かめるのは、地図とコンパス、それに踏み跡や視界などだが、位置を確認するのに、一つや二つではダメで、高度計やGPS、無線機など、少なくとも五つくらいのアイテムを用意しておきたい。
     そして冷静に、自分を信じ、普段から訓練している自分は、必ず助かると確信して、自信をもって臨むのでなければ、冬山は地獄であり、命を奪いにくる魔物でしかない。

     山の歩き方

     十数年前から痛風発作を繰り返すようになり、足の関節が変形して古い登山靴が履けなくなったりして、昔のように自由な山歩きができなくなったが、25〜40歳くらいまでは年間50回以上のペースで山歩きを続けていた。
     20歳頃から意識した日本百名山は前世紀の90年頃、とりあえず完全踏破することができた。(噴火立入規制などで山頂を踏んでいない山がいくつかあるが)
     今は友人などとともに二巡目の百名山ハイキングを楽しんでいる。

     通算では40年ほどの登山歴ということになり、まだ死んでいないところをみると、おそらく自分の山歩きが間違っていなかったように思っている。
     そこで今回は、おこがましいながら、私なりの山歩きの知恵をブログに書き残しておきたい。
     このところ冬山登山の遭難ニュースが非常に多いので、ハイキング気分で冬山に入るような甘い考えの人たちに警告を書かねばとも思っていた。

     私は若い頃から道に興味があり、登山道についても数千回の経験から、それが、どのように変遷するのか、ある程度理解することができたと思う。
     そこで、「登山道」の成り立ちについて私なりの考えを書いてみたい。

     山の主は基本的に人間ではない。それは獣たちである。人間は、獣たちの道を借りながら登山道を造り出すのである。だから、ほとんどの山で、登山道の原型は「獣道」であることを知っておかねばならない。
     山では、人道と獣道が無数に交差している。有名山岳では、しっかりした登山道が造られ、まず迷うことも少ないが、無名の藪山では、人道と獣道の区別はないと思う必要があり、その見分け方を叩き込んでおかねばならない。

     獣たちだって、通過の大変な藪漕ぎなんかしたくない。だから、山の中では一番歩きやすい場所を歩くことになり、そこに道ができる。
     ただし、人間ほど背の高い獣は希なので、おおむね狸や狐、イノシシや熊などの背丈に合わせた道ができあがることに注意が必要だ。

     すなわち、獣道と人間道を見分ける原則は、その高さにある。多くの場合、踏み跡だけでは見分けがつきにくいが、獣道は、すぐに人間が通るのが困難な腹より高い位置の枝葉や藪が出てくるから分かる。顔に枝葉が当たるような道は獣道である。
     それに人の道よりも歩幅が狭いし、多くの獣は人より軽いので人道ほど踏み固められていない。そこで、紛らわしい踏み跡があったとき、踏み込んでみれば獣道は柔らかく、人道は固いものだ。

     獣道は生活道路だ。餌場と水飲み場、寝場所を行き交うために踏みつけられる。
     獣たちがもっとも多く通う道は水飲みの道で、したがって沢筋に踏み跡が多く、これを利用するために人道も沢筋が第一になる。
     山の道は基本的に沢筋である。人が山菜採り、炭焼き、木材運搬などに利用するのも9割以上が沢筋である。しかし日本の沢には多くの滝があり、急峻危険なため、大滝やゴルジュ(水流に掘られた洞窟状水路)などで迂回路や他の安全な沢筋に移るトラバースルートが成立することになる。
     「沢筋に危険箇所が出てくると避難路がつけられる」これも覚えておく必要がある。

     次に、テリトリー拡大のため獣の峠越えルートもある。獣だって一番安全なルートを探すから、人様の峠道も獣道を利用することが多い。
     最後に、藪の多い道よりも歩きやすく、かつ外敵に遭遇したとき、いち早く逃げられる視界良好なルートということで尾根筋が利用される。もっとも、尾根筋に関してだけは、獣よりも人間の利用がはるかに多い。

     それは、一番高い場所で見晴らしが良いので、里などとの位置関係を確認できるからであり、尾根道というものは動物よりも人間が、より多く利用するものである。
     だから、尾根道は下界集落にまでつながっている場合が多く、山で迷ったときは、決していきなり沢筋に降りず、最初に尾根に登り、道を確認してから人間様ルートを利用して下界に向かうのが遭難しない大切なコツである。
     迷うと喉が渇くから沢に降りたくなり、そのまま人里につながっていると安易に想像してしまうが、決してそうではない。日本の沢は滝の連続であり、沢を下るのは危険に満ちている。
     冬山遭難以外の大半は、迷って沢に迷い込み、そのまま下って滝で滑って負傷・死亡するというケースである。

     ちなみに、獣たちは尾根道のてっぺんを歩くことは少なく、笹や藪の少ない北側の斜面の尾根より5〜20mほど下側に尾根に沿った獣道があることが多い。ベテラン猟師たちは、この道を使って猟を行う。
     歩きにくい笹藪が繁茂するのは南側の日当たりの良い場所で、北側の風雪に晒される場所は植生が悪く、逆に歩きやすいものだ。
     尾根のてっぺんにつけられた踏み跡は人間様のものであることが多い。日本中の尾根で、人道の皆無というルートは希で、そんなとき、その尾根は断崖絶壁に消えると覚悟すべきだ。

     山の道は、1・沢筋 2・尾根筋 3・峠道 4・滝・ゴルジュ迂回路 5・トラバース というように整理して覚えよう。今歩いている踏み跡は、獣道か人道か? 沢か尾根かトラバースか? などと、その属性を考え、記憶しながら歩けば、まず迷うことは少ない。

     最近は、わかりにくい場所に赤テープなどをつけても「クリーン作戦」などと余計なお節介の環境美化運動で剥がされてしまうことも多いが、迷いやすい藪山で、目印をつけるのは登山の大切な基本テクニックである。
     赤テープがダメなら、昔のようにナタで目印をつけよう。下山時の目標であるから、必ず上から降りてくるときに見えるよう人間の目の位置の皮を剥ぐ。これは自分の記号であるから、独特の分かりやすい形にする。
     マタギは目印に数十種類の共有暗号を含ませていた。形を見れば、この道が持つ情報が分かる仕組みになっていた。
     木を傷つけるのも良心が咎めるが、迷わないよう帰路を確認し、命を守る方が大事だ。必要もないのに、むやみに傷つけるのはもってのほかだが、安全のために、ためらってはいけない。

     最近は、警察検問で、車にナタやナイフが置いてあると逮捕されるらしい。必ず登山ザックに入れて、「理由なき所持」にならないように工夫する必要がある。
     私が山で目印をつけているとき、たまたま見ていた人から「自然破壊」と糾弾されたこともあった。山も難しくなったものだ。
     十分な標識が設置されているなら別だが、藪山でテープもアカン、目印もアカンじゃ困る。冬山では細い赤布をたくさん持参し、頭より高い位置の枝に縛りながら行く。一晩で2mも積もることもあり、低い位置では雪に埋もれてしまうことがある。木のない場所では、細い竹などを刺して結ぶことになる。
     結び目の作り方で、どちらが上下か分かるようにする。帰路、回収するのが常識なようだ。もちろん上から見る下山標識であることを忘れずに。

     次に、歩き方のコツを伝授する。
     歩き始めは、必ずゆっくり、最初の30分は持てる実力の三分の一しか使ってはいけない。これが準備運動だ。次の30分は二分の一の力でゆっくり歩き、十分に休んでお茶や菓子を飲食し、いよいよ本番だ。
     準備運動をしないで、いきなりハイペースで歩くと、必ずバテることになる。そんな人たちは結局、上の方で息が切れて苦しくなり、我々カメさんに追い抜かれてしまい、山歩きが楽しいものではなくなってしまう。

     1時間歩いてから、実力の8分目を出して山頂に向かう。休憩はおおむね1時間に5分程度。ほとんどの人が同じように休憩するので、有名山岳では、その位置に休憩所のような場所ができていることが多い。
     決して休みすぎてはいけない。軽く息を整える程度で、できるだけお菓子などを飲食しよう。糖尿病になりそうな甘いジュースも山ではOKだ。

     疲れてきたら、休むのではなく、「ゆっくり歩く」ことを心がける。休んでしまうと疲労が吹き出し、ますますバテることになる。
     飲食しながら、ゆっくり歩いていれば、疲れは消えてゆく。老人だって、若者のように早く歩けないが、ゆっくり山頂に着くことができる。体力のない人だって、ゆっくり歩けば、高体力の人と同じように楽しめる。

     最近、経験不足の中高年による遭難事故が多発しているが、最大の問題点は、「自分を知らないこと」である。
     自分を実力以上に過剰に評価するクセのある人は遭難しやすい。自分の実力に対して謙虚な姿勢が必要だ。
     山は大変なスポーツだ。準備があれば、困難を克服できる。装備を準備するだけではダメだ。体力・精神力を準備しなければならない。
     最初から苦しい大変な山など行ってはいけない。まずは高尾山や筑波山のような山を十数回も登り、基本的な歩き方の訓練を行い。普段から2時間程度歩く訓練を重ねる必要がある。
     そして、体力の必要な重い登山では、必ず「ゆっくり歩く」ようにすれば大丈夫、バテこそ遭難の第一歩であることを肝に銘ぜよ。

     バテない基本テクニックは、第一にゆっくり歩くこと。第二に、頻繁に軽い飲食を行うこと。第三に、こまめに衣類を脱着することだ。
     衣類を調節して、体温を一定に保つことは、非常に重要なテクニックで、山では非日常的な体験をしているので、普段の感覚が分かりにくくなる。
     体が寒がっているのに、本人は暑いと勘違いしている場合があり、着重ねしなければならない状況下で、強風に吹かれて体温が低下し、意識が朦朧としながら、そのまま死亡することも珍しくない。
     寒いと疲労度が加速する。体が熱を作るために余分なエネルギーを浪費するからだ。だから暖かく快適にすることが疲労を少なくするテクニックなのである。

     最近ではトムラウシ・ツアー登山の遭難が風に吹かれた低体温遭難だったようだ。
     強風で、少しでも寒さを感じたら、必ず、防風ヤッケ(雨具でもよい)を着ること。肌着は登山用か純毛薄手セーターを着ること。
     汗や雨に濡れて肌着の保温性が落ちたなら、純毛セーターを直接肌に着込むこと。純毛セーターは最後の命の綱である。どんなハイキングでも持参すること。
     雨中登山では、稜線に出ると凄まじい強風に遭って、とてもじゃないが、着替えなど不可能なことが多い。
     だから稜線に出る前に、藪の中で状況を予測して、先に着替えや着重ねを済ませること。

     冬山は、同じ山であっても、他のシーズンとは基本的に別世界だと思う必要がある。
     私は若い頃から鈴鹿の鈴北岳・御池岳をトレーニング場所にしていて鞍掛峠などから百回以上も登っているが、慣れきって地図も持参しないで、すべて知っているつもりでいた。
     ところが、ある冬、もの凄い暴風雪のときに登って、ホワイトアウトという現象に出くわした。これは降雪と薄い太陽光により、雪と空間の境目が認識できなくなる現象である。
     このとき、隅から隅まで知り抜いているはずの鈴北の地形が、今どこにいるのか、まったく分からなくなった。積雪で地形も変わり、自分が歩いている場所が尾根なのか、いつものルートなのかも完全に見失い、彷徨する羽目になった。

     このとき冬山が、どれほど恐ろしい魔物であるのか思い知らされることになった。
     ゲレンデとして百回も通っている地形でさえ、まったく理解できなくなる。
     1000m前後の低山でさえ、そんな現象が起きる。まして3000mの世界は凄い。
     正月に、吹雪の中で立派な登山道や標識のある間ノ岳から北岳に向かう尾根が、どうしても発見できなかったことがある。1時間も彷徨い、奇跡的に北岳への稜線が見えて助かった。

     冬山をなめてはいけない。数千回の登山経験があっても、見るも無惨に打ちのめされることがあるのだ。
     迷ったとき、行き先を確かめるのは、地図とコンパス、それに踏み跡や視界などだが、位置を確認するのに、一つや二つではダメで、高度計やGPS、無線機など、少なくとも五つくらいのアイテムを用意しておきたい。
     そして冷静に、自分を信じ、普段から訓練している自分は、必ず助かると確信して、自信をもって臨むのでなければ、冬山は地獄であり、命を奪いにくる魔物でしかない。
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     民俗学の素晴らしい点は、それが民衆の装わず、飾らない実際の生活そのものに密着しながら、その背後に隠れた歴史的な本質を導き出す「帰納法」に貫かれているという点である。
     「民衆の生活に歴史の本質が隠れている」
     これが民俗学のテーゼである。だが、それは「権力が歴史を作った」と考える支配階級の学者たちから真っ向否定されてきた。

     たとえば、かつて日本の歴史学は学問アカデミーである東大史学部が作り出してきた。その代表的な教授だった平泉澄の主張に、「アカデミー日本史」の正体が余すところなく見えている。
     彼は天皇や武家権力だけが日本史を作ってきたと考え、天皇制を正当化することだけを前提とし、あらゆる史実を「演繹的」に解釈した。
     天皇を輩出し続けた秦氏のような百済系渡来人の存在を完全に無視し、天皇が大昔から日本にいた原日本人であるかのようなウソ八百を学問的にでっちあげた。「万世一系・神州不滅」などという史実に反したウソを教科書に書いて民衆に押しつけ、洗脳しようとした。

     こうした皇国史観を代表する平泉澄の思想は以下の引用で言い尽くされている。
     【昭和のはじめ学生だった中村吉治(きちじ)は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は「百姓に歴史がありますか」と反問したという。意表をつかれた中村が沈黙していると、平泉はさらに「豚に歴史がありますか」といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。また昭和十八年、学生の研究発表の場で、「豊臣秀吉の税制」を発表した斎藤正一(しょういち)は、「君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する反逆である」と決めつけられ、大目玉をくった。そのうえ、参考文献について尋ねられ、研究室に備えられている社会経済史関係の雑誌を挙げたところ、そのようなものを読んでは駄目だと断言され、副手の名越時正を呼びつけ、これら雑誌は有害であるから撤去せよと命じられたという】

     柳田国男らによって始められた「民俗学」に対し、「民衆は権力の家畜にすぎず、家畜に歴史は存在しない」という平泉流皇国史観によって敵対した史学界だが、山県有朋〜平泉らによってでっちあげられた、「正統インチキ史学」によって、たくさんの日本人が騙され、「天皇は逆らうことのできない絶対的存在である」と洗脳された。
     人々は奴隷のように戦争へと駆り立てられ、東アジア全体で数千万の失われずにすんだ命が奪われていき、民衆に巨大な悲しみと歴史の停滞を生み出すことになった。

     しかし、民俗学の成果は、そうした勝手な正当化や屁理屈を許さない。
     それは捏造された文献や、書斎での勝手な思惟想像から生まれるものではなく、食料生産や調理、嗜好など民衆の生活に染みついた歴史的事実を取り上げ、具体的にその理由を探りながら、背後にある本質に迫るものだ。
     農林漁業に従事することが、どれほど辛く大変なものか、食料生産がどれほど大きな負荷とともに喜び、安心感をもたらしたのか。そうした日常の上に築かれる生活儀礼がどのような形になるのかなど、生活の原点を調査し、その共通点を見いだすことによって、民衆の生活史を明らかにするものであった。

     それは権力とは無縁に築かれてきた底辺の生活史を明らかにし、権力史ではなく民衆史こそが、歴史を動かす主体である事実を証明するものであった。
     天皇や幕府、政府を軸とした表の権力に対して、日本列島の片隅に生きる無名の人生が決して劣った無価値なわけでなく、一人一人の具体的な人生の断片にこそ歴史の真実が息づいていることを明らかにするものであった。
     そして、この世には、一つとしてオチこぼれの人生など存在しないという真理を明らかにするものであったのだ。

     民俗学の包摂する分野は実に多岐にわたり、山の民俗、海の民俗、農民の民俗、都市の民俗、生死の民俗、交通の民俗、戦争の民俗など、人々が耕し、狩り、漁撈し、食料を作り、工芸を行い、争い、カネを得て、子供を設け、育て、老いて死に、葬り、慰霊する、あらゆる生活の断片を記録し、人間生活と社会を具体的切片から追究するものであって、まさしく徹頭徹尾、「人間の学問」であり、「具体的証拠の学問」なのである。
     それは学問である以上に後生に伝えるべき大切な記録であり、津々浦々の異なる民俗の共通点を明らかにすることで、学ぶ者に人間の本質を浮き彫りにしてみせる。

     私が若いころから取り組んだ分野は、農山村の生活道路、交通や荷役、家屋などであった。それはアカデミーの学問体系とは無縁であったが、宮本常一などの著作に学ぶところが大きかった。
     しかし、基本的には自分の足と目で見いだすものであったし、その成果も、社会からの評価を受けるものではなかった。また、自分を潤すこともなかった。
     だから、仕事上の制約を受けるものではなかったが、運転商売柄、道に強い興味を抱き、全国の路地裏を歩き、曲がりくねった旧道を運転しながら道の持つ意味、そこに共通する建物の特異な意味を考えてきた。

     草深い野道から、集落を結ぶ峠道、小川や畝を渡る農道、何の意味もなさそうなのに曲がりくねった古街道、大宝律令の五畿七道駅路である東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道、そして、官道に至る幹線支道、それらが後に整備され付け替えられるたびに変化する道筋などに注目して、できる限り多くの道を知ろうとした。

     それらを広く知るほどに、私のなかで、民衆生活の変化にともなった道の生成流転がはっきりと見えはじめた。
     ある地域に、他所から人が流れ着いて、そこで耕し、子孫を増やし、集落を拡大させ、生産物や嫁を求めて他の集落と交易し、やがて街となり、権力が構築されてゆくプロセスの共通点から、道の生々流転を見いだすことができた。
     多くの場合、それは三々五々ではなく、たとえば巨大な飢饉や政変により追われた人たちが移動彷徨することや、軍事的功績の報奨として受領した土地に「一所懸命」の領地を築くことから始まった。

     これを調べてゆくうちに、民族移動や歴史的転換の本当の意味も浮き上がって見えてくる。
     たとえば、今私が住んでいる土地は、南北朝時代に後醍醐天皇を支援するために新田義貞に追従して京に向かった林一族が最初に棲み着いた土地であり、蛭川初代開拓者であった林三郎太郎その人の墓所があり、実際に住んでいた場所に私が住むことになった。
     ここは林一族の「一所懸命地」であった。その後、700年を経て、林一族はまだこの地を守り続けている。筆者もそのなかでは胡散臭い他所者にすぎない。

     ここに存在する祭祀や民俗を調査してゆくと、群馬県の風俗や人相的特徴が受け継がれていることが分かるし、氏神である「安広見神社」は元々「祇園神社」であり、周辺を調べてみると、この地域(蛭川・黒川・八百津町には秦氏の関係した「貴船神社」・「八坂神社」・「祇園神社」ばかりが存在していた。
     これらは「ユダヤ神社」と呼ばれ、旧約聖書、ユダヤ教の儀礼が受け継がれており、新田一族とは実は、百済系渡来人であった秦氏の末裔であった可能性が浮き彫りになり、日本ユダヤと深い関係がありそうだとも分かった。

     この土地が拓かれた理由は、最初、南朝方支援勢力が、何らかの理由で定着したこと。その当時の儀礼が未だに「杵振り祭」などに受け継がれていること。
     当地は住民の神道帰依率が9割以上と極端だが、これは幕末に平田国学が布教され、それが全国でもっとも激しい廃仏毀釈を引き起こし、江戸期強要された仏教系寺院が根こそぎ破壊されたこと。その背景に、旧約聖書と関係した秦氏系の人たちが定着していたことが関係していそうだということも分かってきた。

     また、群馬と京都を結ぶのに、なぜ当地を経由したかといえば、律令古道であった東山道の存在が見えてくる。
     古東山道は京都〜群馬〜奥州を結ぶ律令畿道であり、古代・中世における代表的な幹線道路であった。京都にいた秦氏が、朝廷から領地経営を委嘱されて各地に向かうための主要街道であり、古代における道の深い意味が伺える道なのである。

     東山道は中山道〜奥州道の原型であり、古道は険しい山岳地帯を貫いている。その多くは尾根道であった。
     集落が発展し、国家が形成されるプロセスで律令官道のような「公的通路」が成立するが、このときに一定の法則があることを見落としてはいけない。
     日本列島のような険しい山岳地形にあっては、もっとも容易な通路は「海路」である。したがって、最初に整備される公的通路は海路ということになるが、気象激変の危険性などから追って内陸路も整備されることになる。
     内陸にあって、もっとも通行の容易な道は、川沿いの道であり、次に尾根沿いの道である。全国の主要道路の古道は、ほとんど、大河川に沿った道であることが多く、次に尾根沿いの道である。

     こうした視点が民俗学者の目から見れば、古道がどこに成立するか、地形を見ただけで見抜くことができる理由なのである。
     古道は、時代とともに、より合理的に改変されてゆくことになる。集落が拡大し、交易の道、朝貢の道、塩の道、嫁取りの道などが整備される。官道が成立し、古道は新道となり、馬車や自動車の発達とともに、より広く便利なバイパスもできる。尾根道は積雪を避けて平野に近い道に付け替えられてゆく。
    しかし、それらは必ず古道と平行し、より合理的な場所に設置されるのであり、どこに合理性があるのかさえ分かれば、その位置を見ずとも指摘することができるというわけだ。

     また鎌倉・南北朝時代まで主要街道であった五幾七道を理解していれば、民族の移動、文化の伝播ルートさえ見えてくるはずだ。
     今では何の関係もなさそうに見える、京都〜中津川〜群馬〜奥州という不思議な道筋に存在している文化の伝播、人民の移動や共通性も、東山道という存在によって理解することができるのである。

     当地、中津川市の古代領主は「遠山の金さん」で知られる遠山氏だが、その権力が及んだ地域では、共通する鍋蓋(椀に箸)の家紋が使われ、その範囲も、現代行政区から想像もつかない中津川市から南アルプス遠山郷にまで及んでいる。
     この理由も、実は古東山道にあり、遠山氏の関係する地域は東山道の範囲であって、古代から中世にあっては、官道と領地が一体のものであったことが分かる。道とは、すなわち領地を意味する言葉でもあった。
     だから、当地に林一族が棲み着いた理由や、後醍醐皇子であった宗良が遠山領地一帯に関係していた史実は、実は東山道の属性と関係があったのである。

     このように、古代における人々の暮らし、権力との関わり、道の存在、文化の伝播には、民俗学なくしては理解できない、さまざまの要素がある。
     皇国史観学者、平泉澄は、「豚に歴史がありますか?」と民衆を蔑視し、民衆の歴史を軽蔑し、無視しようとしたが、民衆の生活史を調べることなくして、真の歴史の意味を理解することはできないと知っていただきたい。
     民俗学こそは、「我々がどこから来て、どこに行くのか?」 「我々とは何か?」の命題に正しい答えを示してくれる唯一の学問であると確信している。 







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    kinehuri
     民俗学の素晴らしい点は、それが民衆の装わず、飾らない実際の生活そのものに密着しながら、その背後に隠れた歴史的な本質を導き出す「帰納法」に貫かれているという点である。
     「民衆の生活に歴史の本質が隠れている」
     これが民俗学のテーゼである。だが、それは「権力が歴史を作った」と考える支配階級の学者たちから真っ向否定されてきた。

     たとえば、かつて日本の歴史学は学問アカデミーである東大史学部が作り出してきた。その代表的な教授だった平泉澄の主張に、「アカデミー日本史」の正体が余すところなく見えている。
     彼は天皇や武家権力だけが日本史を作ってきたと考え、天皇制を正当化することだけを前提とし、あらゆる史実を「演繹的」に解釈した。
     天皇を輩出し続けた秦氏のような百済系渡来人の存在を完全に無視し、天皇が大昔から日本にいた原日本人であるかのようなウソ八百を学問的にでっちあげた。「万世一系・神州不滅」などという史実に反したウソを教科書に書いて民衆に押しつけ、洗脳しようとした。

     こうした皇国史観を代表する平泉澄の思想は以下の引用で言い尽くされている。
     【昭和のはじめ学生だった中村吉治(きちじ)は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は「百姓に歴史がありますか」と反問したという。意表をつかれた中村が沈黙していると、平泉はさらに「豚に歴史がありますか」といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。また昭和十八年、学生の研究発表の場で、「豊臣秀吉の税制」を発表した斎藤正一(しょういち)は、「君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する反逆である」と決めつけられ、大目玉をくった。そのうえ、参考文献について尋ねられ、研究室に備えられている社会経済史関係の雑誌を挙げたところ、そのようなものを読んでは駄目だと断言され、副手の名越時正を呼びつけ、これら雑誌は有害であるから撤去せよと命じられたという】

     柳田国男らによって始められた「民俗学」に対し、「民衆は権力の家畜にすぎず、家畜に歴史は存在しない」という平泉流皇国史観によって敵対した史学界だが、山県有朋〜平泉らによってでっちあげられた、「正統インチキ史学」によって、たくさんの日本人が騙され、「天皇は逆らうことのできない絶対的存在である」と洗脳された。
     人々は奴隷のように戦争へと駆り立てられ、東アジア全体で数千万の失われずにすんだ命が奪われていき、民衆に巨大な悲しみと歴史の停滞を生み出すことになった。

     しかし、民俗学の成果は、そうした勝手な正当化や屁理屈を許さない。
     それは捏造された文献や、書斎での勝手な思惟想像から生まれるものではなく、食料生産や調理、嗜好など民衆の生活に染みついた歴史的事実を取り上げ、具体的にその理由を探りながら、背後にある本質に迫るものだ。
     農林漁業に従事することが、どれほど辛く大変なものか、食料生産がどれほど大きな負荷とともに喜び、安心感をもたらしたのか。そうした日常の上に築かれる生活儀礼がどのような形になるのかなど、生活の原点を調査し、その共通点を見いだすことによって、民衆の生活史を明らかにするものであった。

     それは権力とは無縁に築かれてきた底辺の生活史を明らかにし、権力史ではなく民衆史こそが、歴史を動かす主体である事実を証明するものであった。
     天皇や幕府、政府を軸とした表の権力に対して、日本列島の片隅に生きる無名の人生が決して劣った無価値なわけでなく、一人一人の具体的な人生の断片にこそ歴史の真実が息づいていることを明らかにするものであった。
     そして、この世には、一つとしてオチこぼれの人生など存在しないという真理を明らかにするものであったのだ。

     民俗学の包摂する分野は実に多岐にわたり、山の民俗、海の民俗、農民の民俗、都市の民俗、生死の民俗、交通の民俗、戦争の民俗など、人々が耕し、狩り、漁撈し、食料を作り、工芸を行い、争い、カネを得て、子供を設け、育て、老いて死に、葬り、慰霊する、あらゆる生活の断片を記録し、人間生活と社会を具体的切片から追究するものであって、まさしく徹頭徹尾、「人間の学問」であり、「具体的証拠の学問」なのである。
     それは学問である以上に後生に伝えるべき大切な記録であり、津々浦々の異なる民俗の共通点を明らかにすることで、学ぶ者に人間の本質を浮き彫りにしてみせる。

     私が若いころから取り組んだ分野は、農山村の生活道路、交通や荷役、家屋などであった。それはアカデミーの学問体系とは無縁であったが、宮本常一などの著作に学ぶところが大きかった。
     しかし、基本的には自分の足と目で見いだすものであったし、その成果も、社会からの評価を受けるものではなかった。また、自分を潤すこともなかった。
     だから、仕事上の制約を受けるものではなかったが、運転商売柄、道に強い興味を抱き、全国の路地裏を歩き、曲がりくねった旧道を運転しながら道の持つ意味、そこに共通する建物の特異な意味を考えてきた。

     草深い野道から、集落を結ぶ峠道、小川や畝を渡る農道、何の意味もなさそうなのに曲がりくねった古街道、大宝律令の五畿七道駅路である東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道、そして、官道に至る幹線支道、それらが後に整備され付け替えられるたびに変化する道筋などに注目して、できる限り多くの道を知ろうとした。

     それらを広く知るほどに、私のなかで、民衆生活の変化にともなった道の生成流転がはっきりと見えはじめた。
     ある地域に、他所から人が流れ着いて、そこで耕し、子孫を増やし、集落を拡大させ、生産物や嫁を求めて他の集落と交易し、やがて街となり、権力が構築されてゆくプロセスの共通点から、道の生々流転を見いだすことができた。
     多くの場合、それは三々五々ではなく、たとえば巨大な飢饉や政変により追われた人たちが移動彷徨することや、軍事的功績の報奨として受領した土地に「一所懸命」の領地を築くことから始まった。

     これを調べてゆくうちに、民族移動や歴史的転換の本当の意味も浮き上がって見えてくる。
     たとえば、今私が住んでいる土地は、南北朝時代に後醍醐天皇を支援するために新田義貞に追従して京に向かった林一族が最初に棲み着いた土地であり、蛭川初代開拓者であった林三郎太郎その人の墓所があり、実際に住んでいた場所に私が住むことになった。
     ここは林一族の「一所懸命地」であった。その後、700年を経て、林一族はまだこの地を守り続けている。筆者もそのなかでは胡散臭い他所者にすぎない。

     ここに存在する祭祀や民俗を調査してゆくと、群馬県の風俗や人相的特徴が受け継がれていることが分かるし、氏神である「安広見神社」は元々「祇園神社」であり、周辺を調べてみると、この地域(蛭川・黒川・八百津町には秦氏の関係した「貴船神社」・「八坂神社」・「祇園神社」ばかりが存在していた。
     これらは「ユダヤ神社」と呼ばれ、旧約聖書、ユダヤ教の儀礼が受け継がれており、新田一族とは実は、百済系渡来人であった秦氏の末裔であった可能性が浮き彫りになり、日本ユダヤと深い関係がありそうだとも分かった。

     この土地が拓かれた理由は、最初、南朝方支援勢力が、何らかの理由で定着したこと。その当時の儀礼が未だに「杵振り祭」などに受け継がれていること。
     当地は住民の神道帰依率が9割以上と極端だが、これは幕末に平田国学が布教され、それが全国でもっとも激しい廃仏毀釈を引き起こし、江戸期強要された仏教系寺院が根こそぎ破壊されたこと。その背景に、旧約聖書と関係した秦氏系の人たちが定着していたことが関係していそうだということも分かってきた。

     また、群馬と京都を結ぶのに、なぜ当地を経由したかといえば、律令古道であった東山道の存在が見えてくる。
     古東山道は京都〜群馬〜奥州を結ぶ律令畿道であり、古代・中世における代表的な幹線道路であった。京都にいた秦氏が、朝廷から領地経営を委嘱されて各地に向かうための主要街道であり、古代における道の深い意味が伺える道なのである。

     東山道は中山道〜奥州道の原型であり、古道は険しい山岳地帯を貫いている。その多くは尾根道であった。
     集落が発展し、国家が形成されるプロセスで律令官道のような「公的通路」が成立するが、このときに一定の法則があることを見落としてはいけない。
     日本列島のような険しい山岳地形にあっては、もっとも容易な通路は「海路」である。したがって、最初に整備される公的通路は海路ということになるが、気象激変の危険性などから追って内陸路も整備されることになる。
     内陸にあって、もっとも通行の容易な道は、川沿いの道であり、次に尾根沿いの道である。全国の主要道路の古道は、ほとんど、大河川に沿った道であることが多く、次に尾根沿いの道である。

     こうした視点が民俗学者の目から見れば、古道がどこに成立するか、地形を見ただけで見抜くことができる理由なのである。
     古道は、時代とともに、より合理的に改変されてゆくことになる。集落が拡大し、交易の道、朝貢の道、塩の道、嫁取りの道などが整備される。官道が成立し、古道は新道となり、馬車や自動車の発達とともに、より広く便利なバイパスもできる。尾根道は積雪を避けて平野に近い道に付け替えられてゆく。
    しかし、それらは必ず古道と平行し、より合理的な場所に設置されるのであり、どこに合理性があるのかさえ分かれば、その位置を見ずとも指摘することができるというわけだ。

     また鎌倉・南北朝時代まで主要街道であった五幾七道を理解していれば、民族の移動、文化の伝播ルートさえ見えてくるはずだ。
     今では何の関係もなさそうに見える、京都〜中津川〜群馬〜奥州という不思議な道筋に存在している文化の伝播、人民の移動や共通性も、東山道という存在によって理解することができるのである。

     当地、中津川市の古代領主は「遠山の金さん」で知られる遠山氏だが、その権力が及んだ地域では、共通する鍋蓋(椀に箸)の家紋が使われ、その範囲も、現代行政区から想像もつかない中津川市から南アルプス遠山郷にまで及んでいる。
     この理由も、実は古東山道にあり、遠山氏の関係する地域は東山道の範囲であって、古代から中世にあっては、官道と領地が一体のものであったことが分かる。道とは、すなわち領地を意味する言葉でもあった。
     だから、当地に林一族が棲み着いた理由や、後醍醐皇子であった宗良が遠山領地一帯に関係していた史実は、実は東山道の属性と関係があったのである。

     このように、古代における人々の暮らし、権力との関わり、道の存在、文化の伝播には、民俗学なくしては理解できない、さまざまの要素がある。
     皇国史観学者、平泉澄は、「豚に歴史がありますか?」と民衆を蔑視し、民衆の歴史を軽蔑し、無視しようとしたが、民衆の生活史を調べることなくして、真の歴史の意味を理解することはできないと知っていただきたい。
     民俗学こそは、「我々がどこから来て、どこに行くのか?」 「我々とは何か?」の命題に正しい答えを示してくれる唯一の学問であると確信している。 

     

     

     

     


     民俗学の素晴らしい点は、それが民衆の装わず、飾らない実際の生活そのものに密着しながら、その背後に隠れた歴史的な本質を導き出す「帰納法」に貫かれているという点である。
     「民衆の生活に歴史の本質が隠れている」
     これが民俗学のテーゼである。だが、それは「権力が歴史を作った」と考える支配階級の学者たちから真っ向否定されてきた。

     たとえば、かつて日本の歴史学は学問アカデミーである東大史学部が作り出してきた。その代表的な教授だった平泉澄の主張に、「アカデミー日本史」の正体が余すところなく見えている。
     彼は天皇や武家権力だけが日本史を作ってきたと考え、天皇制を正当化することだけを前提とし、あらゆる史実を「演繹的」に解釈した。
     天皇を輩出し続けた秦氏のような百済系渡来人の存在を完全に無視し、天皇が大昔から日本にいた原日本人であるかのようなウソ八百を学問的にでっちあげた。「万世一系・神州不滅」などという史実に反したウソを教科書に書いて民衆に押しつけ、洗脳しようとした。

     こうした皇国史観を代表する平泉澄の思想は以下の引用で言い尽くされている。
     【昭和のはじめ学生だった中村吉治(きちじ)は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は「百姓に歴史がありますか」と反問したという。意表をつかれた中村が沈黙していると、平泉はさらに「豚に歴史がありますか」といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。また昭和十八年、学生の研究発表の場で、「豊臣秀吉の税制」を発表した斎藤正一(しょういち)は、「君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する反逆である」と決めつけられ、大目玉をくった。そのうえ、参考文献について尋ねられ、研究室に備えられている社会経済史関係の雑誌を挙げたところ、そのようなものを読んでは駄目だと断言され、副手の名越時正を呼びつけ、これら雑誌は有害であるから撤去せよと命じられたという】

     柳田国男らによって始められた「民俗学」に対し、「民衆は権力の家畜にすぎず、家畜に歴史は存在しない」という平泉流皇国史観によって敵対した史学界だが、山県有朋〜平泉らによってでっちあげられた、「正統インチキ史学」によって、たくさんの日本人が騙され、「天皇は逆らうことのできない絶対的存在である」と洗脳された。
     人々は奴隷のように戦争へと駆り立てられ、東アジア全体で数千万の失われずにすんだ命が奪われていき、民衆に巨大な悲しみと歴史の停滞を生み出すことになった。

     しかし、民俗学の成果は、そうした勝手な正当化や屁理屈を許さない。
     それは捏造された文献や、書斎での勝手な思惟想像から生まれるものではなく、食料生産や調理、嗜好など民衆の生活に染みついた歴史的事実を取り上げ、具体的にその理由を探りながら、背後にある本質に迫るものだ。
     農林漁業に従事することが、どれほど辛く大変なものか、食料生産がどれほど大きな負荷とともに喜び、安心感をもたらしたのか。そうした日常の上に築かれる生活儀礼がどのような形になるのかなど、生活の原点を調査し、その共通点を見いだすことによって、民衆の生活史を明らかにするものであった。

     それは権力とは無縁に築かれてきた底辺の生活史を明らかにし、権力史ではなく民衆史こそが、歴史を動かす主体である事実を証明するものであった。
     天皇や幕府、政府を軸とした表の権力に対して、日本列島の片隅に生きる無名の人生が決して劣った無価値なわけでなく、一人一人の具体的な人生の断片にこそ歴史の真実が息づいていることを明らかにするものであった。
     そして、この世には、一つとしてオチこぼれの人生など存在しないという真理を明らかにするものであったのだ。

     民俗学の包摂する分野は実に多岐にわたり、山の民俗、海の民俗、農民の民俗、都市の民俗、生死の民俗、交通の民俗、戦争の民俗など、人々が耕し、狩り、漁撈し、食料を作り、工芸を行い、争い、カネを得て、子供を設け、育て、老いて死に、葬り、慰霊する、あらゆる生活の断片を記録し、人間生活と社会を具体的切片から追究するものであって、まさしく徹頭徹尾、「人間の学問」であり、「具体的証拠の学問」なのである。
     それは学問である以上に後生に伝えるべき大切な記録であり、津々浦々の異なる民俗の共通点を明らかにすることで、学ぶ者に人間の本質を浮き彫りにしてみせる。

     私が若いころから取り組んだ分野は、農山村の生活道路、交通や荷役、家屋などであった。それはアカデミーの学問体系とは無縁であったが、宮本常一などの著作に学ぶところが大きかった。
     しかし、基本的には自分の足と目で見いだすものであったし、その成果も、社会からの評価を受けるものではなかった。また、自分を潤すこともなかった。
     だから、仕事上の制約を受けるものではなかったが、運転商売柄、道に強い興味を抱き、全国の路地裏を歩き、曲がりくねった旧道を運転しながら道の持つ意味、そこに共通する建物の特異な意味を考えてきた。

     草深い野道から、集落を結ぶ峠道、小川や畝を渡る農道、何の意味もなさそうなのに曲がりくねった古街道、大宝律令の五畿七道駅路である東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道、そして、官道に至る幹線支道、それらが後に整備され付け替えられるたびに変化する道筋などに注目して、できる限り多くの道を知ろうとした。

     それらを広く知るほどに、私のなかで、民衆生活の変化にともなった道の生成流転がはっきりと見えはじめた。
     ある地域に、他所から人が流れ着いて、そこで耕し、子孫を増やし、集落を拡大させ、生産物や嫁を求めて他の集落と交易し、やがて街となり、権力が構築されてゆくプロセスの共通点から、道の生々流転を見いだすことができた。
     多くの場合、それは三々五々ではなく、たとえば巨大な飢饉や政変により追われた人たちが移動彷徨することや、軍事的功績の報奨として受領した土地に「一所懸命」の領地を築くことから始まった。

     これを調べてゆくうちに、民族移動や歴史的転換の本当の意味も浮き上がって見えてくる。
     たとえば、今私が住んでいる土地は、南北朝時代に後醍醐天皇を支援するために新田義貞に追従して京に向かった林一族が最初に棲み着いた土地であり、蛭川初代開拓者であった林三郎太郎その人の墓所があり、実際に住んでいた場所に私が住むことになった。
     ここは林一族の「一所懸命地」であった。その後、700年を経て、林一族はまだこの地を守り続けている。筆者もそのなかでは胡散臭い他所者にすぎない。

     ここに存在する祭祀や民俗を調査してゆくと、群馬県の風俗や人相的特徴が受け継がれていることが分かるし、氏神である「安広見神社」は元々「祇園神社」であり、周辺を調べてみると、この地域(蛭川・黒川・八百津町には秦氏の関係した「貴船神社」・「八坂神社」・「祇園神社」ばかりが存在していた。
     これらは「ユダヤ神社」と呼ばれ、旧約聖書、ユダヤ教の儀礼が受け継がれており、新田一族とは実は、百済系渡来人であった秦氏の末裔であった可能性が浮き彫りになり、日本ユダヤと深い関係がありそうだとも分かった。

     この土地が拓かれた理由は、最初、南朝方支援勢力が、何らかの理由で定着したこと。その当時の儀礼が未だに「杵振り祭」などに受け継がれていること。
     当地は住民の神道帰依率が9割以上と極端だが、これは幕末に平田国学が布教され、それが全国でもっとも激しい廃仏毀釈を引き起こし、江戸期強要された仏教系寺院が根こそぎ破壊されたこと。その背景に、旧約聖書と関係した秦氏系の人たちが定着していたことが関係していそうだということも分かってきた。

     また、群馬と京都を結ぶのに、なぜ当地を経由したかといえば、律令古道であった東山道の存在が見えてくる。
     古東山道は京都〜群馬〜奥州を結ぶ律令畿道であり、古代・中世における代表的な幹線道路であった。京都にいた秦氏が、朝廷から領地経営を委嘱されて各地に向かうための主要街道であり、古代における道の深い意味が伺える道なのである。

     東山道は中山道〜奥州道の原型であり、古道は険しい山岳地帯を貫いている。その多くは尾根道であった。
     集落が発展し、国家が形成されるプロセスで律令官道のような「公的通路」が成立するが、このときに一定の法則があることを見落としてはいけない。
     日本列島のような険しい山岳地形にあっては、もっとも容易な通路は「海路」である。したがって、最初に整備される公的通路は海路ということになるが、気象激変の危険性などから追って内陸路も整備されることになる。
     内陸にあって、もっとも通行の容易な道は、川沿いの道であり、次に尾根沿いの道である。全国の主要道路の古道は、ほとんど、大河川に沿った道であることが多く、次に尾根沿いの道である。

     こうした視点が民俗学者の目から見れば、古道がどこに成立するか、地形を見ただけで見抜くことができる理由なのである。
     古道は、時代とともに、より合理的に改変されてゆくことになる。集落が拡大し、交易の道、朝貢の道、塩の道、嫁取りの道などが整備される。官道が成立し、古道は新道となり、馬車や自動車の発達とともに、より広く便利なバイパスもできる。尾根道は積雪を避けて平野に近い道に付け替えられてゆく。
    しかし、それらは必ず古道と平行し、より合理的な場所に設置されるのであり、どこに合理性があるのかさえ分かれば、その位置を見ずとも指摘することができるというわけだ。

     また鎌倉・南北朝時代まで主要街道であった五幾七道を理解していれば、民族の移動、文化の伝播ルートさえ見えてくるはずだ。
     今では何の関係もなさそうに見える、京都〜中津川〜群馬〜奥州という不思議な道筋に存在している文化の伝播、人民の移動や共通性も、東山道という存在によって理解することができるのである。

     当地、中津川市の古代領主は「遠山の金さん」で知られる遠山氏だが、その権力が及んだ地域では、共通する鍋蓋(椀に箸)の家紋が使われ、その範囲も、現代行政区から想像もつかない中津川市から南アルプス遠山郷にまで及んでいる。
     この理由も、実は古東山道にあり、遠山氏の関係する地域は東山道の範囲であって、古代から中世にあっては、官道と領地が一体のものであったことが分かる。道とは、すなわち領地を意味する言葉でもあった。
     だから、当地に林一族が棲み着いた理由や、後醍醐皇子であった宗良が遠山領地一帯に関係していた史実は、実は東山道の属性と関係があったのである。

     このように、古代における人々の暮らし、権力との関わり、道の存在、文化の伝播には、民俗学なくしては理解できない、さまざまの要素がある。
     皇国史観学者、平泉澄は、「豚に歴史がありますか?」と民衆を蔑視し、民衆の歴史を軽蔑し、無視しようとしたが、民衆の生活史を調べることなくして、真の歴史の意味を理解することはできないと知っていただきたい。
     民俗学こそは、「我々がどこから来て、どこに行くのか?」 「我々とは何か?」の命題に正しい答えを示してくれる唯一の学問であると確信している。 







     


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