ヤマギシズムの本質は「私有財産の否定」である。
参画者は、すべての私有財産を無条件に提供することを求められる。だが、近年、ヤマギシ会内部の矛盾によって、参画を断念し、離会した人たちから多数の財産返還訴訟が起こされ、最高裁による返還判例も定着したようだ。
とまれ、これは参画者に運命共同体としての「背水の陣」を求めると同時に、人間共同体を紡ぐ糸が何であるのか、人が人生で頼るべき真実は何であるのか、思想哲学の原点を確立させるという意味が大きい。
共同体を作るにあたって、『私有財産』が、なぜこれほど重要なのか?
それは、エンゲルスが「家族・私有財産・国家の起源」のなかで指摘しているように、無私有の原始共同体社会のなかから「私有財産の成立と継承」というメカニズムによって疎外され孤立した家族を産み出し、共同体を崩壊させて国家に変えていった本質だからなのである。
つまり、私有財産の蓄積を野放しにすれば、必ず、共同体内部に格差や妬み、差別が生まれて崩壊し、やがて、それは階級対立を産み出し、強い者たちが弱い者たちを組織の制度、武力によって利用し、支配する仕組みの大組織、すなわち人間疎外の国家が成立すると考えられるからである。
ヤマギシズムは、その逆をやろうとした。すなわち、私有財産を消すことで国家を崩壊させ、孤立家族制度を破壊し、人間疎外のない大家族共同体に戻そうとしているのである。
筆者が、当ブログで一貫して主張してきたことも、まさにこれなのだ。それは共産主義の本質でもある。しかし、誤解なきよう言っておくが、人類史上、共産主義が真に実現したことは原始社会を除けば皆無である。ソ連体制や中国は、共産主義とはほど遠いインチキまみれの官僚独裁国家にすぎなかった。これまで登場した「社会主義・共産主義」なるものは、ただの一度として差別をなくし、人間を解放したことなどないのである。
これに対して、ヤマギシ社会は、個人の間に生まれる財産格差、差別をなくすことで、真の共産主義を目指したと言えよう。
人類史のすべてにおいて、その始まりは無私有の母系氏族共同体であった。この共同体は、どうして崩壊し、私有財産を認めた父系社会の国家に変わっていったのか?
それは、共同体全体が平等な構成員によって支えられた、「全体で一個の人格」だった時代から、分かち合うことのない私有財産が生まれ、特定の権力が発生することによって、共同体の団結が崩壊し、複数の人格、差別が成立していったことからはじまった。
共同体社会とはいっても、人の能力には大きな個人差がある。ある者は肉体的に優れ、ある者は耐久力に優れ、ある者は頭脳に優れ、ある者は弁舌に優れるといった具合に、人には大きな個性の差異があり、このことによって、人間関係に優劣が発生することが避けられない。
例えば、大飢饉が起きたとき、食料を発見したり、生産したりする能力に優れた者がいれば、共同体構成員は彼に大きな期待をかけ、その指示に従うようになり、権力が発生することになる。
また、部族間戦争が起きたときなど、戦闘力の強大な者がいれば、やはり構成員は彼を頼り、従うようになる。
おおむね、能力の高い者は、生理的に男子に偏ることが避けられない。なぜなら、女性には出産・子育てという巨大な能力を与えられており、男性は、それを支えて子孫を残す役目を与えられているわけだから。
(このことが、男性が、どれほど望んでも決して得られない女性の圧倒的優位を与えていて、これに対する根源的コンプレックスが男系社会への渇望になっているメカニズムも知っておきたい)
このようにして、構成員のなかで尊敬され、また軽蔑される序列ができあがり、差別の秩序が成立するようになる。これは猿のような動物社会でも同じ原理が働いている。
そこで、部族共同体にはボスが発生し、権力が集中するようになる。このとき、ボスが一代限りで消滅するなら問題は起きないが、ボスに対する強い信仰(甘え)が成立するほどだと、権力が無条件にボスの子に引き継がれることが起きるようになる。「ボスは凄い」という信仰が人々を洗脳し、そうさせるのである。
ボスの権威・権力・財産が、その子に引き継がれるシステムが成立するために、ボスの子を特定する必要があるわけで、そのためにボスと性交する母親は他の男と交わらないようにするため、厳格な貞操を要求されるようになる。
これが貞操家族の起源であり、ボスの血統継承が目的なのだから、最初、必ず一夫多妻制として出発する。後に一夫一婦制が成立する事情は、虐げられる立場の女性の権利拡大要求が成功したからにすぎない。
ボスの子がボスになる社会では、権力が血統によって継承される『王権』の成立ということになり、これが父系社会の成立であり、同時に国家の起源なのである。
地上のあらゆる国家が、このメカニズムによって成立しており、国家の本質は、ボスの特権継承システムと考えて差し支えないだろう。したがって、すべての国家にボスが成立しており、ボスが消える社会こそ、同時に国家が消える社会である。ボスこそ国家の本質だ。だからこそ、天皇制と日本国が切り離せないわけだ。
ところが、ヤマギシ社会では、このボスを消してしまった。
ボス、すなわち指導部に「絶対者がいない」「無固定」というシステムが、ヤマギシ社会の核心であるとされた。
また創立者、山岸巳代蔵の意図によって、指導部は統一されず、複数に分割された。中央調正機関と実顕地本庁で、これは同等の権限を持っていて、互いに暴走を監視し、補完しあうシステムといわれている。
実際に、中央機関が金儲けの効率から、ヤマギシズムの本質をなす平飼養鶏を捨てて効率的なケージ飼育に切り替えようとしたとき、実顕地からの抵抗で阻止されたともいわれる。
こうして、相互に対立することで、一方的な暴走が防がれる体制は、とても優れたものであると同時に、はるかに深い意味が隠されている。
今、多くの人々が、世界大恐慌が身近な生活恐慌に深化するプロセスを毎日のように思い知らされ、それが、いつ自分に及んで、路傍を彷徨わねばならないときがくるかもと恐れているはずだ。こうした不安を、どのように解決するのか?
おそらく、ほとんどの人たちが、筆者の主張しているように効率的な『大家族生活』を目指す必要があると考えはじめていると思う。
その時期は、筆者は今年であると指摘してきた。いよいよ今年、仕事がなくなった者たちが孤立生活を捨てて、みんなで寄り集まって助け合い生活を始めなければならない時が来ている。
それが実現できなければ、我々に残された運命は、飢えて路頭を彷徨い朽ちてゆくことしかない。
このとき、すでに半世紀を超す経験を積んだヤマギシ会の歴史が、これから目指すべき社会について、たくさんの知恵を与えてくれるのだ。
単に、集まって、みんなで暮らせば問題が解決するなどと甘いことを考えてはいけない。
長い資本主義的価値観の洗脳のなかで、孤立し、対立し、制裁しあうような人間疎外の関係を当然と思いこまされてきた我々が、助け合って、支え合って生き抜いてゆく新たな価値観を獲得するには、極めて大きな障害が横たわっている。
ほとんどの人は利己的価値観を当然と考えているが、そのままで大家族共同体を始めても必ず失敗が約束されている。
なぜなら、共同体は、構成員が他人を思いやる『利他主義』思想を身につけない限り絶対にうまく機能しないからだ。
すなわち、構成員が利己主義に洗脳されているならば、共同体組織を自分の利権のために利用しようとする輩が必ず登場し、他の構成員を不快にさせて、組織を崩壊させてしまうことが明らかなのだ。
また真の利他思想を身につけるには、単に講習会や学習会をやった程度では無理だ。多くの失敗の経験を積み、困難、苦難を共に味わい、乗り越える経験のなかでしか真に身につかないのだ。
このとき、上に述べた「ヤマギシズム式二元指導部」の考えが有効になるだろう。つまり、問題が発生したときに、それを公平に解決するシステムとして、組織の権力を一元化せず、二元化することが、とても大切なのである。
一元化すれば、組織は権力者によって暴走する可能性が強くなる。利他主義思想が不十分な段階ではなおさらのことだ。しかし、二元化し、相互に監視するシステムにすれば、暴走を抑制し、誤った方針が是正される可能性が高くなる。
もちろん、一元化のときのような効率性は落ちるだろうが、それでも暴走し破滅するよりマシなのである。
一元指導部は弁護士なき裁判所のようなものであり、選挙なき国会のようなものだ。北朝鮮や中国のような運命になりたくなければ、我々は二元対立指導体制を研究すべきだろう。
我々は、世界でも希な共同体成功例であるヤマギシ会から、多くのものを学ぶ必要がある。
人間がやっているのだから失敗は避けられない。ヤマギシ会にも、これまでたくさんの失敗があり、愚行もあった。しかし、その思想的本質である私有財産なき大家族共同体社会を成功させ、圧倒的な実力、安定性を獲得している組織は他にない。
かといって、我々が困ったときヤマギシ会に参画すればよいというほど簡単なものではない。
ヤマギシ会側だって、世界大恐慌で食えなくなったから便宜的に入会したいという程度の発想で参画されたのでは迷惑だろう。利他思想が身についていない人が入ったとしても、起きる結果は目に見えているのだ。
筆者がヤマギシの特別講習研鑽会に参加したとき、幹事が最初に言ったことが、「ヤマギシでは、みんなで入る風呂が最後まで汚れない」
ということだった。
ヤマギシ参画者は、必ず他人の利益に奉仕する思想を身につけることが求められ、例えば、風呂に入るときでも、他の人がきれいな風呂に浸かれるように、必ず体を十分に洗ってから入浴するのである。
これこそ、ヤマギシズムの核心的思想であり、すなわち共同体が利他思想によってでしか成立できない本質を示すものであった。
今年、筆者も大家族共同体の結成に向かうことになるだろう。
もう、このままでは食べてゆくことさえできない。都市の路上には、餓死者が散乱する事態が、そこまで迫っている。
そうした光景を見せつけられたなら、我々は、否応なしに、もっとも合理的な解決策である農業共同体の結成に向かうしかない。
安定するまでの数年間は、おそらく苛酷な試行錯誤の日々が続くことだろう。米など無理で、芋を食いながら堪え忍ぶ苦渋の日々を過ごさねばならない。
だが、そのなかで心を安らがせてくれるのは、参画者の利他思想だけであり、互いの思いやりによって我々は、どんな困苦からでも救われるのだ。
人は、どうせ死ぬ運命にあるのだから、一緒に生きている人たちの笑顔を見られるなら、死などどうして怖いことがあろうか?
我々は「連帯を求めて孤立を恐れず」、利他思想の元に結集し、力を合わせて農業共同体を目指すしかないのである。
このとき力及ばず、死を迎えたとしても、利他思想に包まれる喜びのなかで迎える死は貴いものであり、何の後悔もないだろう。
だが、手をこまねいて失敗し、悲惨な運命を迎える必要はない。日本に先駆者として屹立するヤマギシズムから、学べるものを、たくさん学んでゆけばよい。