今起きている経済の大混乱について、ほとんどの人が「深刻な大不況」という程度の認識しかないが、たった今、我々は、本当は人類史最大級の激変に直面している現実を知らなければならない。
それは地上を支配してきた、すべての価値が崩壊し、生きるため新たな価値観の再編が要求される時代になったということだ。
家族・国家・宗教・カネ・仕事、あらゆる規範・価値・組織が自滅し、我々は絶望的な混乱に投げ出されようとしている。
我々は、これから何が真実か見極め、新たな価値・仕事・人生の目的を求めて彷徨わねばならないのだ。
60歳を過ぎた老人にとって、価値の崩壊は辛い現実だ。もう適応力がない。だが、これほどの激動を招いた原因は、その60歳代の団塊世代が強欲に走り、歴史的な社会秩序を金儲け欲によって破壊してしまったことにある。
団塊世代は、自分たちの行ってきた強欲、カルマの果実を収穫しなければならない。それは、価値と信じて帰属してきた組織の破滅であり、依るべき心の故郷の喪失である。それは、家族の崩壊という形で、子供たちに忍び寄っている。
団塊世代は、自分たちが求めてきたものが、どれほど社会を破壊し、子供たちの未来を破壊する危険なものだったのか、これから思い知らされることになるだろう。
これまで筆者は、我々が、互いに孤立させられた一夫一婦制小家族から、多夫多妻制、互いに助け合う共同体の大家族生活スタイルに回帰する必然性をもっていると主張してきた。
もう人生の果実と信じられた、名誉や社会的評価、一戸建て豪邸・美人妻・高級車・学歴といった虚構価値は強欲とともに腐敗死滅しているのだ。
やがて人は、これまでのような他人と競う自我に支配された個人から、共同体に帰属する一部品となって個人の自我も失われるだろう。そうなれば、これまでの価値はすべてゴミに変わる。
「自我を許さない組織」というイメージに、命令に無条件に従う天皇の軍隊のようなファッシズム組織を思い浮かべる人も多いだろう。だが、もちろん天皇制信奉者が吹聴するような、「王を戴く共同体」などではない。
天皇制社会が共同体であるかのように主張する北一輝のような思想もあるが、それは王権社会であって、天皇への信仰、統治を利用した特権階級の利権確保システムに他ならない。
それは、池田大作の支配する創価学会や、文鮮明の統一教会と同じものであり、本質は洗脳と詐欺に他ならない。神格的存在に憧れる陳腐な右翼の妄想に騙されてはいけない。
これらの欺瞞的組織は、支配と利権のシステムを必ず世襲しようとするから、「権力世襲」を見たそのとき、これが低俗な利権の世襲であることを理解できるはずだ。「世襲」が現れたとき、それは大衆に敵対する勢力である。
よって、天皇制も、北朝鮮も、統一教会も、自民・民主世襲議員も人間に敵対するインチキ利権勢力であり、すべて打倒・破壊・廃棄の対象でしかない。
王権を利用して組織を支配する側と、家畜のように支配される民の分断された組織体は断じて共同体ではない。この原理を明確に認識できない者は、「共同体」の意味をまったく理解できていない。権力がなければ生きて行けない王権と、権力を作らない共同体を混同してはいけない。
ただし、個人の自我が、組織によって吸収されてゆくという本質では似た部分もある。だが、共同体には構成員を家畜のように利用・使役・搾取する者などいない。いるとすれば、それは王権組織である。
構成員は、帰属する群、共同体を一つの人格、自我として共有し、個人の人生は共同体の全体の利益に捧げられる。みんなの命や生活を守るための努力こそ、人生の最終目的と認識されるようになる
ところが、王権組織(国家)は、首長と、その取り巻きに利権が集中し、利権システムを守るために、所属する民衆を家畜のように利用し、搾取し、命を弄ぶものである。
構成員に明確な格差が成立しているものこそ、王権組織である。口先で社会主義であるかのような宣伝をしてみても、差別制度を温存する国家は、すべて王権である。
差別・格差を本質とする王権の組織体制では、個人が組織に人生を捧げるモチベーションなど芽生えるはずがなく、したがって共同体が自発的モチベーションだけに依存するのに対し、王権では民衆動員のすべてに洗脳・武力・強制力・契約が用いられることになる。
こうした王権組織にとって望ましい民衆生活(王権が期待する人間像)とは、どういうものか?
それは「庚申信仰」のように権力維持に都合の良いもので、「見ざる、言わざる、聞かざる」 対話せず、自発性もなく、言われたことだけをやっていればよい無知蒙昧、愚鈍で従順な人物像である。
このため、王権は、歴史的に民衆から力を殺ぎ、従順で愚鈍な人間性に仕立てるための、さまざまなシステムを開発してきた。その最大の核心部分が家族制度であった。
そもそも、今、我々が当然の慣習と認識している「一夫一婦制小家族」が定着した歴史的理由は、王権・封建領主や資本家が、民衆を効率よく支配し、自分たちの独占的利益を確保するための民衆統治システムに他ならなかった。
我々は、本来、数十万年前の大昔から、「群、共同体」(母系氏族)で生活していたのである。こんな大家族こそが、人間にとって、もっとも自然で効率的、合理的な生活スタイルであった。
ところが、数千年前に強大な権力・武力を得た「王権」(男系氏族)が成立し、生活地域が「領主」を称する武力集団によって支配されるようになると、権力から独立し、ときに敵対する可能性のある「共同体」が王権領主の脅威となった。
大家族共同体には、対話と知恵による合理性が集積され、人のモチベーションも高く、極めて活発な活動を行うため、王権の不合理を破壊する急先鋒となることが多かったからだ。
このため、大家族生活の共同体を分断し、その対話による団結を破壊して力を殺ぐ必要があり、一夫一婦の小家族に孤立させることで弱体化し、共同もさせず、知恵を抑圧し、「知らしむべからず、依らしむべし」と、従順な家畜になることを要求したのである。
例えば、日本史をみるなら、大和政権成立の時代、日本列島はたくさんの部族王権のひしめく時代であり、また無数の共同体によって拮抗した社会だった。
大部族は互いに覇を競って争いを続け、そのなかで、朝鮮から渡来した戦闘力の優れた強大な秦氏(百済王家)末裔、天皇家が統一王権を宣言することになった。
王権は、天皇家から源平・北条・足利氏、そして織田・豊臣・徳川と変遷したが、その間、全国に無数に成立していた豪族、小領主、地域共同体は、徴兵組み分けによって次々に分断され、孤立した家族に矮小化させられていき、最期には強大な大領主と無力な一夫一婦制家族の支配関係にまでされてしまった。
数十名単位の大家族共同体であった農民の生活も、家康によって統制的な五人組共同体に強制的に組分けられていった。
これに明治維新以降、資本主義が持ち込まれると、さらに五人組も解体され、徴兵納税義務から、一夫一婦制小家族への分断がさらに進み、村落共同体ですら破壊されるようになった。
資本主義工業が要求する生活スタイルは、生産効率の要求に応じて容易に移動赴任できる一夫一婦制であり、物言わぬ家畜として支配するために、共同体にある頻繁な対話、民主的習慣を奪うことでもあった。
また小家族に分断すれば、商品需要も増大する。共同利用の習慣を破棄させ、家族毎に生活用品を必要とし、助け合いの効率性を奪い、それに変わる商品ニーズを産み出した。
たった二人の家族であっても、テレビや洗濯機、車が必要になり、大家族に比べて節約せず、非効率な浪費に走ることになり、資本主義需要を大幅に高めて歓迎されることになった。
また小家族に分断したことで生まれた最大の成果は、「競争主義」であった。家族同士、見栄を張り合って、次々に浪費や贅沢を競合して拡大するというニーズ増大も生まれることになった。
これが大家族の効率的な生活スタイルなら、現在の資本主義経済の規模は、おそらく数分の一に縮小してしまうだろう。
一夫一婦制小家族制度によって、民衆は競って贅沢浪費の資本主義スタイルに埋没し、競争主義に洗脳されて、人生を全力で疾走しなければならないことになった。
こうして、大家族の共同体生活で育まれていた「利他主義」が、小家族の見栄張り競争のなかで失われてゆき、人々は新たな「利己主義」の価値観に洗脳されていった。
そして、利己的価値観が社会全体を支配するようになった結果、無言で社会の底辺を支えてくれていた民衆が消え去り、無私のボランティア精神、利他思想によって社会を支えるという「道徳的規範」も忘れ去られていった。
このことで、とりわけ、社会の安定的運営の要にいる役人たちの腐敗が進み、「民衆に奉仕する」という役人の矜恃が失われ、天下りや業者との癒着利権に走った役人たちによって、日本社会は大きな音を立てて崩壊を始めたのである。
小家族に分断され、矮小化した生活のなかでも、我々の群れへの帰属意識、本能は遺伝子に強く刻み込まれているわけだから、人々は無意識のうちに、帰属すべき群れを探して彷徨うと前回に指摘した。
こうして、人々は、競争し、対立しながらも、帰属すべきアイデンティティを探し、高学歴、インテリ集団、経営者集団、中産階級などの帰属を求めてひた走ることになった。
そうした帰属本能に規定され、強欲な金儲け競争のアイデンティティを目指したのが、世界的な意味での団塊世代であった。
彼らは、競争本能に突き動かされ、「イチバーン」を求めて、拡大競争、強欲競争に走り、環境を破壊し、資源を浪費し、子供たちの未来に借金、ツケを回して、自らの利権を確保し、「持続可能な社会的基盤」をことごとく破壊し、取り返しのつかないほどの荒廃をもたらした。
そして、その結果として、世界の金融秩序は自滅し、あらゆる組織が死滅し始めた。
そうして、もはや、若者たちにあって、一夫一婦制による生活が成り立たなくなってしまったのだ。子供を作りたくとも、育てるカネがないどころか、明日のメシを用意するカネさえ必死に稼がねばならなくなった。
この豪華な高層ビル街の下で、子供たちが今日の食事を取れずに飢えて過ごすという事態まで出現している。
こうなったのは、子供たちの未来を食い潰して利権を漁った、今の団塊世代や官僚たちの努力によるものだ。
まさに、日本は利己主義の結果が花開いたといわねばならない。
これに対して、既存の価値観が、滅亡をもたらすという現実を思い知らされた若者たちが、身を守り、子供たちの未来を用意するために、農業共同体を結成し、一夫一婦制家族ではなく、結婚にこだわらない新たな共同体生活を模索するしか、生き残る術がないというのが現実なのである。
今年から、追いつめられた人々は、すべてを捨てて、あらゆる価値を激変させなければならない。そのことによって団塊世代の価値観は崩壊し、老人たちの生活も追いつめられることだろう。
だが、それは自分たちの愚かな強欲が招いたものである。