2010年03月

     kane 利己主義から利他主義へ その6 群れと競争

     今起きている経済の大混乱について、ほとんどの人が「深刻な大不況」という程度の認識しかないが、たった今、我々は、本当は人類史最大級の激変に直面している現実を知らなければならない。

     それは地上を支配してきた、すべての価値が崩壊し、生きるため新たな価値観の再編が要求される時代になったということだ。
     家族・国家・宗教・カネ・仕事、あらゆる規範・価値・組織が自滅し、我々は絶望的な混乱に投げ出されようとしている。
     我々は、これから何が真実か見極め、新たな価値・仕事・人生の目的を求めて彷徨わねばならないのだ。

     60歳を過ぎた老人にとって、価値の崩壊は辛い現実だ。もう適応力がない。だが、これほどの激動を招いた原因は、その60歳代の団塊世代が強欲に走り、歴史的な社会秩序を金儲け欲によって破壊してしまったことにある。
     団塊世代は、自分たちの行ってきた強欲、カルマの果実を収穫しなければならない。それは、価値と信じて帰属してきた組織の破滅であり、依るべき心の故郷の喪失である。それは、家族の崩壊という形で、子供たちに忍び寄っている。
     団塊世代は、自分たちが求めてきたものが、どれほど社会を破壊し、子供たちの未来を破壊する危険なものだったのか、これから思い知らされることになるだろう。

     これまで筆者は、我々が、互いに孤立させられた一夫一婦制小家族から、多夫多妻制、互いに助け合う共同体の大家族生活スタイルに回帰する必然性をもっていると主張してきた。
     もう人生の果実と信じられた、名誉や社会的評価、一戸建て豪邸・美人妻・高級車・学歴といった虚構価値は強欲とともに腐敗死滅しているのだ。

     やがて人は、これまでのような他人と競う自我に支配された個人から、共同体に帰属する一部品となって個人の自我も失われるだろう。そうなれば、これまでの価値はすべてゴミに変わる。
     「自我を許さない組織」というイメージに、命令に無条件に従う天皇の軍隊のようなファッシズム組織を思い浮かべる人も多いだろう。だが、もちろん天皇制信奉者が吹聴するような、「王を戴く共同体」などではない。

     天皇制社会が共同体であるかのように主張する北一輝のような思想もあるが、それは王権社会であって、天皇への信仰、統治を利用した特権階級の利権確保システムに他ならない。
     それは、池田大作の支配する創価学会や、文鮮明の統一教会と同じものであり、本質は洗脳と詐欺に他ならない。神格的存在に憧れる陳腐な右翼の妄想に騙されてはいけない。

     これらの欺瞞的組織は、支配と利権のシステムを必ず世襲しようとするから、「権力世襲」を見たそのとき、これが低俗な利権の世襲であることを理解できるはずだ。「世襲」が現れたとき、それは大衆に敵対する勢力である。
     よって、天皇制も、北朝鮮も、統一教会も、自民・民主世襲議員も人間に敵対するインチキ利権勢力であり、すべて打倒・破壊・廃棄の対象でしかない。

     王権を利用して組織を支配する側と、家畜のように支配される民の分断された組織体は断じて共同体ではない。この原理を明確に認識できない者は、「共同体」の意味をまったく理解できていない。権力がなければ生きて行けない王権と、権力を作らない共同体を混同してはいけない。

     ただし、個人の自我が、組織によって吸収されてゆくという本質では似た部分もある。だが、共同体には構成員を家畜のように利用・使役・搾取する者などいない。いるとすれば、それは王権組織である。
     構成員は、帰属する群、共同体を一つの人格、自我として共有し、個人の人生は共同体の全体の利益に捧げられる。みんなの命や生活を守るための努力こそ、人生の最終目的と認識されるようになる

     ところが、王権組織(国家)は、首長と、その取り巻きに利権が集中し、利権システムを守るために、所属する民衆を家畜のように利用し、搾取し、命を弄ぶものである。
     構成員に明確な格差が成立しているものこそ、王権組織である。口先で社会主義であるかのような宣伝をしてみても、差別制度を温存する国家は、すべて王権である。
     差別・格差を本質とする王権の組織体制では、個人が組織に人生を捧げるモチベーションなど芽生えるはずがなく、したがって共同体が自発的モチベーションだけに依存するのに対し、王権では民衆動員のすべてに洗脳・武力・強制力・契約が用いられることになる。

     こうした王権組織にとって望ましい民衆生活(王権が期待する人間像)とは、どういうものか?
     それは「庚申信仰」のように権力維持に都合の良いもので、「見ざる、言わざる、聞かざる」 対話せず、自発性もなく、言われたことだけをやっていればよい無知蒙昧、愚鈍で従順な人物像である。
     このため、王権は、歴史的に民衆から力を殺ぎ、従順で愚鈍な人間性に仕立てるための、さまざまなシステムを開発してきた。その最大の核心部分が家族制度であった。

     そもそも、今、我々が当然の慣習と認識している「一夫一婦制小家族」が定着した歴史的理由は、王権・封建領主や資本家が、民衆を効率よく支配し、自分たちの独占的利益を確保するための民衆統治システムに他ならなかった。

     我々は、本来、数十万年前の大昔から、「群、共同体」(母系氏族)で生活していたのである。こんな大家族こそが、人間にとって、もっとも自然で効率的、合理的な生活スタイルであった。
     ところが、数千年前に強大な権力・武力を得た「王権」(男系氏族)が成立し、生活地域が「領主」を称する武力集団によって支配されるようになると、権力から独立し、ときに敵対する可能性のある「共同体」が王権領主の脅威となった。

     大家族共同体には、対話と知恵による合理性が集積され、人のモチベーションも高く、極めて活発な活動を行うため、王権の不合理を破壊する急先鋒となることが多かったからだ。
     このため、大家族生活の共同体を分断し、その対話による団結を破壊して力を殺ぐ必要があり、一夫一婦の小家族に孤立させることで弱体化し、共同もさせず、知恵を抑圧し、「知らしむべからず、依らしむべし」と、従順な家畜になることを要求したのである。

     例えば、日本史をみるなら、大和政権成立の時代、日本列島はたくさんの部族王権のひしめく時代であり、また無数の共同体によって拮抗した社会だった。
     大部族は互いに覇を競って争いを続け、そのなかで、朝鮮から渡来した戦闘力の優れた強大な秦氏(百済王家)末裔、天皇家が統一王権を宣言することになった。
     王権は、天皇家から源平・北条・足利氏、そして織田・豊臣・徳川と変遷したが、その間、全国に無数に成立していた豪族、小領主、地域共同体は、徴兵組み分けによって次々に分断され、孤立した家族に矮小化させられていき、最期には強大な大領主と無力な一夫一婦制家族の支配関係にまでされてしまった。

     数十名単位の大家族共同体であった農民の生活も、家康によって統制的な五人組共同体に強制的に組分けられていった。
     これに明治維新以降、資本主義が持ち込まれると、さらに五人組も解体され、徴兵納税義務から、一夫一婦制小家族への分断がさらに進み、村落共同体ですら破壊されるようになった。

     資本主義工業が要求する生活スタイルは、生産効率の要求に応じて容易に移動赴任できる一夫一婦制であり、物言わぬ家畜として支配するために、共同体にある頻繁な対話、民主的習慣を奪うことでもあった。
     また小家族に分断すれば、商品需要も増大する。共同利用の習慣を破棄させ、家族毎に生活用品を必要とし、助け合いの効率性を奪い、それに変わる商品ニーズを産み出した。
     たった二人の家族であっても、テレビや洗濯機、車が必要になり、大家族に比べて節約せず、非効率な浪費に走ることになり、資本主義需要を大幅に高めて歓迎されることになった。

     また小家族に分断したことで生まれた最大の成果は、「競争主義」であった。家族同士、見栄を張り合って、次々に浪費や贅沢を競合して拡大するというニーズ増大も生まれることになった。
     これが大家族の効率的な生活スタイルなら、現在の資本主義経済の規模は、おそらく数分の一に縮小してしまうだろう。
     一夫一婦制小家族制度によって、民衆は競って贅沢浪費の資本主義スタイルに埋没し、競争主義に洗脳されて、人生を全力で疾走しなければならないことになった。

     こうして、大家族の共同体生活で育まれていた「利他主義」が、小家族の見栄張り競争のなかで失われてゆき、人々は新たな「利己主義」の価値観に洗脳されていった。
     そして、利己的価値観が社会全体を支配するようになった結果、無言で社会の底辺を支えてくれていた民衆が消え去り、無私のボランティア精神、利他思想によって社会を支えるという「道徳的規範」も忘れ去られていった。
     このことで、とりわけ、社会の安定的運営の要にいる役人たちの腐敗が進み、「民衆に奉仕する」という役人の矜恃が失われ、天下りや業者との癒着利権に走った役人たちによって、日本社会は大きな音を立てて崩壊を始めたのである。

     小家族に分断され、矮小化した生活のなかでも、我々の群れへの帰属意識、本能は遺伝子に強く刻み込まれているわけだから、人々は無意識のうちに、帰属すべき群れを探して彷徨うと前回に指摘した。
     こうして、人々は、競争し、対立しながらも、帰属すべきアイデンティティを探し、高学歴、インテリ集団、経営者集団、中産階級などの帰属を求めてひた走ることになった。

     そうした帰属本能に規定され、強欲な金儲け競争のアイデンティティを目指したのが、世界的な意味での団塊世代であった。
     彼らは、競争本能に突き動かされ、「イチバーン」を求めて、拡大競争、強欲競争に走り、環境を破壊し、資源を浪費し、子供たちの未来に借金、ツケを回して、自らの利権を確保し、「持続可能な社会的基盤」をことごとく破壊し、取り返しのつかないほどの荒廃をもたらした。
     そして、その結果として、世界の金融秩序は自滅し、あらゆる組織が死滅し始めた。

     そうして、もはや、若者たちにあって、一夫一婦制による生活が成り立たなくなってしまったのだ。子供を作りたくとも、育てるカネがないどころか、明日のメシを用意するカネさえ必死に稼がねばならなくなった。
     この豪華な高層ビル街の下で、子供たちが今日の食事を取れずに飢えて過ごすという事態まで出現している。
     こうなったのは、子供たちの未来を食い潰して利権を漁った、今の団塊世代や官僚たちの努力によるものだ。

     まさに、日本は利己主義の結果が花開いたといわねばならない。
     これに対して、既存の価値観が、滅亡をもたらすという現実を思い知らされた若者たちが、身を守り、子供たちの未来を用意するために、農業共同体を結成し、一夫一婦制家族ではなく、結婚にこだわらない新たな共同体生活を模索するしか、生き残る術がないというのが現実なのである。
     今年から、追いつめられた人々は、すべてを捨てて、あらゆる価値を激変させなければならない。そのことによって団塊世代の価値観は崩壊し、老人たちの生活も追いつめられることだろう。
     だが、それは自分たちの愚かな強欲が招いたものである。

    kizoku  「群体」という生物形態がある。
     数が増えても、そのまま集合している動物体で、我々の目から見れば、巨大な生物に見えるが、その実体は、とても小さな虫の集合にすぎない。
     ヒドロ虫類、管クラゲ類、サンゴ、コケムシ類、ホヤ、サルパなどがあり、サンゴの場合ほとんど群体で、群体ではないものは特別に単体サンゴと呼ぶ。
     群体サンゴは、群れから離れて生きてゆくことができない。さまざまな意味で共生関係にあり、また群れでありながら大理石のような美しい統一構造体を持ち、珊瑚宝石として我々を魅了してやまない。

     最近、北極の深海で発見されたmarrus orthocanna というクラゲは、数十尾が連結し、それぞれが推進・捕食・消化などの役割を分担していて、全体で一尾の生物として生きる共生関係にあるらしい。何かの事情で、一部が死んでも、すぐに他のクラゲが役割を受け継ぎ、共生が生き続けてゆく。
     高等生物にあっても、狼などは社会性が極めて高い動物で、群れなくしては生きてゆくことができない。群れこそ狼の本質である。
     狼は個体が役割分担して、生殖・子育て・食料確保などを行っていて、単独になれば、生きるモチベーションを失ってしまう。そして、この社会性の故に、日本狼はジステンパーや狂犬病が浸入して、わずか60年程度の短期間に絶滅してしまった。

     さて、人間はどうだろう? もちろん、人間も狼以上に社会性の強い動物であって、群れから離れたら生きてゆくことはできない。
     柳田国男が追求した、社会から背を向けて、山奥の孤立生活を求めた人たちは、どうなったか?
     おそらく、むしろ都会生活者の何倍も人恋しくなり、人に憧れたにちがいない。また、本当に数十年もの間、孤立し、社会から隔絶したなら、それは精神の停滞、廃人化をもたらしたにちがいない。人と相対し、刺激を受けることこそ、生きるモチベーション、源泉なのだから。

     人は、決して一人では生きられないのだ。筆者は中津川市の山奥で、一人で誰にも会わず、対話もせずに長い時間を過ごすことが多いが、こんな体験を積んでみれば、人が人によって生かされているという真実を思い知らされる。
     自分にとって、人の存在が、どれほど大切なものか、大都市の雑踏のなかでは、うっとおしいばかりで見えなかったが、山奥に住んでみれば、寂しい孤独感のなかに、それを実感することができる。

     また、人恋しさゆえに、他人から疎外されたくないという思いがあり、誰かとつながっていたい、共通の価値観、アイデンティティのなかにいたいという思いを強く抱く。
     そうなれば当然、利己的な行動を慎み、全体のために奉仕する利他的モチベーションも生まれてくるというものだ。
     利他主義というものは、人を愛する気持ちだけから芽生えるものであって、利己主義を強いられる荒んだ人間関係から生まれるものではない。人が恋しいという気持ちは、利他思想を育む上で一番大切なのである。

     逆に考えれば、利己主義が発生する原因は、人が増えすぎて人恋しさを失ったという事情も無視できない。利己主義の蔓延は、増えすぎた人を淘汰するための自然発生的メカニズムと考えることもできるかもしれない。
     つまり、増えすぎた人を減らし、人恋しさを回復するため、人が利己的になって人に敵対し、競争し、淘汰しあう必然性が生まれていると解釈することもできる。そうだとすれば、これは生物本能であって、『天の摂理』という他はない。

     例えば、バッタの幼虫は、低い密度だと単独生活を送るふつうの成虫になるが、幼虫が高い密度で生息すると群生相という飛翔能力と集団性が高い成虫に変化する。群生相の成虫は、孤独相の成虫にくらべて後脚が短く、翅が長いスマートな体型となり、体色も黒くなる。
     こうなると、巨大な集団で遠い地域に飛翔するようになり、いわゆる飛蝗害、パールバックが「大地」のなかで描写したイナゴの大被害が発生し、次に集団自滅も起きる。バッタの繁栄と自己淘汰メカニズムといってもよい。

     同じように、齧歯類も大規模な増殖と死滅を繰り返す。ネズミの仲間は、生息密度が高くなりすぎるとストレスが高まって遠くに移動し、レミングで有名になった大量死に至ることがある。
     人間も同じで、大都市のように人口密度が大きくなりすぎる地域では、ストレスが高まり、結果として人が優しさを失って苛酷になり、ときに凶暴化して、大量殺戮が起きることがある。

     21世紀の現代に至っても、この問題は解決するどころか、ますます深刻化していて、人類は未だに大量殺戮(ホローコスト・ジェノサイド)の危機に直面しているといわねばならない。
     例えば、人口密度が高く、民主主義思想が浸透していないアフリカ地域、スーダンのダルフールでは、過去40年間に600万人中、200万人以上の民族浄化思想による大量虐殺死者が出ているし、この数年でも50万人を超える死者が出ている。
     ルワンダでも過去20年間に100万人以上の虐殺死者が出ているし、アメリカが侵攻したイラクやアフガンでも100万人規模の犠牲者が出ているといわれる。
     みんな分かっていないようだが、日本だって本当は安閑としていられないのだ。政府が崩壊すれば治安が失われ、必ずセルビアで起きたような大虐殺が起きると覚悟すべきなのだ。警察が消えたそのとき、人殺しが一斉に湧いて出てくるかもしれない。
     日本では、つい70年前まで、朝鮮・中国人・被差別者などが大量虐殺に遭っていたことを思い起こすべきだ。ネットウヨクの低俗な知性を見る限り、同じことが必ず繰り返されるはずだ。

     少し歴史を遡れば、人口過多といわれる中国では、文革中、国民集団発狂といえる事態で3000万人〜1億人の死者、日本人が侵略者だった太平洋戦争では1000万人を超える死者が出ており、ソ連でもスターリン指導下で6000万人の反体制側虐殺死者が出たと指摘されている。
     わが日本では、大戦中に300万人を超す死者が出た。この残酷、悲惨を昨日のことのように記憶している人だって少なくない。
     愚かとしかいいようがなく、人類の知的レベルのお粗末さを端的に表すような、こうした非日常死の本質的な理由を探すと、一因として人口過多によるストレスを上げたとしても不自然ではない。

     「地球は苦悩の惑星である」
     と筆者は度々書いているが、苦悩の理由は、必ずしも人間性の愚劣さだけでもなく、人口過多ストレスという視点を抜いて考えることなどできないのである。
     人口密度が少なく、人恋しい地域で、こうした大虐殺が発生した例は、たぶん少ないだろう。

     地球上に人類が、まだ少なかった時代。例えば西暦元年あたりの人口は3億人くらいだったが、この当時の分布と生産能力から考えれば、すでに人口は過剰に飽和しており、絶え間なき戦乱と民族淘汰の嵐に直面していた。
     だが、一万年前には400万人ほどの人口で、さすがに、この頃は遠く旅しても、なかなか人間に出会うことは少なかっただろう。
     こうなると、生殖・捕食・環境・種の維持という生物的モチベーションによって、人は人恋しく、人の群れだけが生きる支えとなったことだろう。

     この頃の人類は、普遍的に母系氏族社会であったことが明らかで、人には個体の自我という観念も成立していなかったと思われる。おそらく利己主義などという概念は想像すらできなかったにちがいない。
     人の意識にあるのは、群れのなかに生まれ、群れと共に生きる自分であって、自分の所属する群れこそ、一個の珊瑚のようなものであり、自分そのものである。自分は群れの部品にすぎず、個体の生死など問題にならず、その群れの維持、持続こそ、所属する人たちの最終目的であった。すなわち、群れが全体で一個の人格であったと断言してもよいと思う。
     したがって群れある限り、個体の生死を超えて、それが一個の人格として続いてゆくことになる。

     このとき、群れに属する個体の意識を支配する概念は、群れに依存する『帰属意識』である。
     自分の属する群れの持続が価値のすべてであって、群れを維持することだけが人生のすべてであった。
     この『帰属意識』は人類の本能に刷り込まれ、個的自我の確立した現代社会にあっても、我々の本能を固く束縛しているのである。

     今、我々が、資本主義の利己的な世界にあって、孤立し、分断され、個的な自我を強要され、「自分は自分、人は人」という疎外された価値観を抱かされているとしても、潜在意識や本能には、「群れに依存する」という習性が深く刻み込まれている。
     人は帰属する群れなくしては生きることができない。孤立した人間関係でありながら、我々は無意識に帰属すべき群れを探し、彷徨い続けるのである。

     その「群れ志向」を悪しき立場で利用しているのが偏狭なナショナリズムであり、国粋主義である。
     人が帰属すべき群れを探しているという本能をタテにとって、教育システムを利用し、「我々は日本人だ、日本国家に帰属し、その命を国家に捧げる」というような低俗なナショナリズムで洗脳しようとする。
     現在、ネットを徘徊する在日外国人に対する低俗な偏見に満ちた排外主義を喚き散らして回る連中がこれだ。
     朝鮮人だろうが中国人だろうが、その本質にあって、我々日本人と一つも違わないのに、あたかも日本人が優越的であって、外国人が劣っているかのようなケチな幻想に酔っている阿呆どもが、日本人を悪しきナショナリズムで洗脳し、80年前に起きた排外主義、帝国主義侵略の道を再び用意している。
     だが、彼らは、しょせん人間の本質を何一つ考えたことのない無知性な連中にすぎず、結局、韓国や中国の愚劣なナショナリズムを喚起し、新たな戦争による大量殺戮に陥ってゆくしかない運命だ。

     また、我々が、学校や企業などに入ると、やはり帰属習性が顔を覗かせる。
     学生時代、ヘルメットを被って全共闘なんかやってた若者が、大企業に就職したとたんに、コロッと方向転換して、企業の社員として忠誠を尽くすなんてのも、帰属本能のなせる業だが、帝国主義や搾取反対のマルクス主義者を標榜していた者が、社員になったとたん、「利益率が低いよ・・・もっと合理化できんのか」なんて言い出すのを筆者は散々見聞してきた。
     帰属意識は、民族意識や会社や学校のような明確なものだけではなく、社会的な概念での帰属もあり、一人の人間がいくつもの帰属を持っている。
     例えば、「中産階級」 「中年男子」 「初老」 「男」 「ニューハーフ」 「オフィスレディ」 「大卒」 「知識人」 なんて概念も、無意識に帰属する指標となるもので、人は、自分に共通する集団を探し出し、帰属する集団の価値観に迎合することで安心しようとするわけだ。

     このため、自分の姿形、服装の好み、発音や表現方法、判断基準まで、そうした帰属集団の価値観に埋没することになり、国母のように「オリンピック選手」という帰属から外れると、よってたかって糾弾し、制裁し、価値観を強要することで安心を求めることになる。
     筆者の地震予知HPで、地震予知が成功することを喜ぶと「不謹慎」といって批判したがる連中も、似たような帰属概念で、自分を全身がんじがらめに束縛していないと安心できないことになる。
     
     次回に続く

    kyousou 

     我々がいる、この社会が崩壊し、破滅寸前に至った理由は何だろう?
     分からないって? そりゃウソだよ! 
     心に手を当ててみな・・・本当は、みんなが十分過ぎるくらい知っているはずだ。

     意識しないまでも、うすうす感じている。しかし決して口に出さない。なぜなら、「分からない」ことにしておきたいからだ。
     社会に破滅をもたらした本当の理由を正面から見据えることが怖いから、見ないことにして、それを正当化し続けているからだ。
     口に出してしまえば、人生の指標と信じていた価値体系が崩壊し、何をしてよいのか分からなくなるからだ。

     それは、決して他人のやったことじゃない・・みんなで、いつのまにかやってしまったことだ・・・あなたも、もちろん私も、犯人の一人なのだ。
     社会崩壊の理由、それは、たった一つの言葉でくくることができる。『利己主義』だ。

     地位や金儲けを人生の目的とさせられる資本主義社会の中で、誰もが他人に敵対し、自分の利益を優先させる思想に洗脳されてきた。
     しかし、それは言い訳にならない。人生の価値は、地位や金儲けじゃなく、他人に対する暖かい気持ちのあり方だと見抜き、利他思想に生きてきた人もたくさんいる。
     しかし一方で、金儲けや地位のためなら、どんなひどいことも許されると勘違いし、社会の秩序をぶち壊してきた強盗や詐欺師のような企業家・政治家・役人たちもいる。

     多くの企業家たちは、名誉と蓄財だけを価値と考え、会社という組織を使い、他人を家畜のように見下して搾取し、使い捨てにしてきた。社会の役に立つモノを売ることより、必要性がなかろうと、よりカネの儲かるものを売ってきたし、このため、たくさんのウソまでついて商品を宣伝してきた。

     例えば、自動車産業は、今では安全性をうたい文句にしているが、実際には安全な車を売るよりも儲かる車を売ってきた。
     発泡スチロールが登場したのは1960年だ。このとき、車の前後にこれを使えば、衝突事故の損傷や事故被害・死傷率は大幅に減ると提唱した人がいた。しかし、メーカーは耳を傾けなかった。なぜなら、「かっこ悪い」から売れなくなると考えたからだ。
     ミニバス型のマツダボンゴが登場したのは1966年だ。とても便利で実用的な車で、その圧倒的な効率性から、すぐに世界中の車がボンゴスタイルになると予想した人がたくさんいた。
     しかし、実際に、乗用車がボンゴ型に追随しはじめたのはエスティマが出た1990年頃からだった。メーカーは、便利な車でなく、贅沢感を煽り、モデルチェンジを繰り返す儲かる車を目指していたからだ。

     役人たちも、地位と利権拡大だけを目指して、親方日の丸の座布団にぬくぬくと座って、企業にすり寄り、無用な事業で税金を食い物にしてきた。
     1980年代、高度成長が爛熟すると、中央・地方の役人たちが、こぞって「地方の開発・活性化」などと叫び始め、必要性もない、埋め立て、ダム建設、空港などの公共事業、箱物建設ラッシュが始まった。
     今では、それらがことごとく破綻し、民衆生活と日本経済を地獄に導いている。それは、役人たちが日本の将来に必要なことを目指したのではなく、自分の地位を上げる実績、業者との癒着利権を目指したからだ。

     政治家たちも、もちろん同じだ。自民党は資本主義の召使いでしかなかった。
     大資本から巨額の献金を受け、彼らの利権・便宜に奔走し、子供たちの将来に必要なカネを先取りして企業に奉仕した。
     これによって、今の子供たちの未来は、永遠に返せない巨大な借金に押し潰されることになった。
     それは、政治家が、子供たちの未来に何一つ関心を持たず、今ある自分の名誉と利権しか考えてこなかったからだ。

     みんなは、どうなんだ?

     「自分は他人より上だ」と、優越感、満足感に浸りたくて、仲間を蹴落とし、恵まれない立場の人たちを小馬鹿にし、他人の幸福に何の関心もないまま、利己主義に邁進してきたのではないか?
     どんな理由で進学したんだ? 本当に勉強したかった? 違うだろ?
     低学歴のオチコボレと言われるのが怖くて、とりあえず進学したんだろ? いい大学に入って、いい企業に勤めれば、世間並み以上のぬくぬくとした人生が送れると考えたんだろ?
     貧しい人、弱い立場の人たちを足蹴にして、自分だけ恵まれた優越的な生活をしたかったんじゃないのかい?
     他人を出し抜けると信じて、「一流大学」や「一流企業」を目指したんでないかい?

     「立派な人間になりたかった」
     どんな立派さだったんだい? 他人よりも、たくさん財産を貯めることかい? 他人よりも高い地位に昇ることかい? 他人よりも大きな家に住むことかい? 他人よりも美人の女房をもらうことかい?
     あなたの「立派さ」のなかに、社会を少しでも良くしたいという願いが、どこにあったのだろう?
     カネにもならず、評価もされない、少しも自分を潤さない、他人のための努力を、あなたは、ほんの少しでも目指したことがあるのかい?
     あなたの「立派」は、あなたの利益に奉仕するためだけの立派さではなかったのか?

     あなたは自分の人生を、一度でも恵まれない弱者のために捧げたかい? 誰からも認められず、誰にも知られない奉仕をしたことがあるのかい?
     社会全体が良くなるように、一度でも努力したかい?

     「周囲のみんなが、やらなかったから・・・・」
     なんて、つまらん言い訳、正当化をするなよ。
     だが、その通りだ。資本主義世界のみんなが、日本人のみんなが自分の利益だけを求めはじめたんだ。あなたの周囲がやっているから、あなたもやったんだよ。
     だが、そうなれば社会はどうなる? 壊れるのは当たり前じゃないか?
     だから、「こんなことをしていれば社会がダメになってしまう」と薄々思いながら、あなたも利己主義を突っ走ったんだ。

     みんながみんな、同じように利己主義を目指せば、社会を底辺から支える人たちなど一人もいなくなってしまうじゃないか・・・・だから、この社会は破滅しているんだ。

     みんなが利己主義に走れば、この社会はあっという間に壊れてしまう。実際に、そうなったんだ。誰にでも簡単に分かることだろ?
     この社会が破滅している本当の理由は何か? もう自分の心を隠すな、誤魔化すな、正当化するな!
     『みんなが「自分さえよければよい」と考える人間集団は、たちまち崩壊する』 そんなこと小さい頃から、友人やサークル、クラスの人間関係のなかで、さんざん学んできたじゃないか?
     誰だって、心の底では思い知っている、あたりまえの真実じゃないか。これでも、この社会が破滅している真の理由が思い当たらないと言いたいのか?

     逆に考えれば、みんなが利己主義を捨てて、この社会を良くしようと考え、利他主義に目覚めれば、あっというまに社会は修復される。
     我々の子供のころ、社会には、利他思想に生きる人がたくさんいたんだ。
     みんな他人のためを思って、家の前を掃除し、倒れている人がいれば、すぐに駆け寄って介抱し、飢えた人がいれば、貧しくとも食事を提供したものだ。「カネが儲からなければ何もしない」なんて人は、滅多にいなかったよ。
     銭湯に行けば、みんな最初に体を洗ったもんだ。汚いまま入れば、じいさんたちから、きつく注意されたよ。でも、みんな優しかった・・・・。

     社会は利他主義に満ちていた。だから、我々の子供時代は、日本は世界有数の天国だったんだ。
     貧しい田舎へ行けば、まだまだ日本には利他主義が残っている。他人に対する思いやりに溢れたひとたちが、たくさん生きている。そんな土地を旅してごらん。
     我々が生きるということ、子供たちが生きることのできる社会に、本当に必要なものは何か? はっきりと見えてくるはずだ。

     それとともに、子供たちの未来を永遠に返せない借金漬けの犠牲にすることと引き替えに、自分たちの「豊かな生活」利権を確保してきた、我々の愚かな習慣、浅ましい欲望を明確に自己批判するときがきた。
     我々を、こんな愚劣な利己主義に向かわせた原因を、今、はっきりと明らかにしなければならない。
     我々は、どこで間違ってしまったのか? どうして自分たちの豊かさと引き替えに、子供たちの未来を売り飛ばしてしまったのか?

     子供たちの未来、人類の未来について何の関心も持たず、自分の豪邸や高級車、美人妻、会社の地位、他人の評価ばかりに拘泥した原因は何だったのか?
     結局、それは学校教育での競争主義にあった。
     仲間と競争し、自分の方が上を行くことだけが価値と思いこまされた教育体制にあった。人を小馬鹿にし、睥睨するエライ人が目標であると勘違いさせられた教育体制にあった。
     「エライ人」になりたかった。
     それは、人に尽くす人では決してなく、自分に尽くす人であった。
     だが、それは根本的に間違っていたのだ。
     自分に尽くすだけの人物の、どこがエライのか?
     何の見返りもなく、人の幸せのために努力する人を軽蔑していたのは誰だ?

     たったいま、我々は破滅の淵に立たされている。
     日本人が利己主義に染まり、自分の利益しか考えなくなり、社会の底辺を無言で支えてきた人がいなくなった結果、当たり前の結果として、日本社会は瓦解しはじめた。
     破滅を目前にした今になっても、「まだ日本社会が何とか持ちこたえるんじゃないか」と幻想を抱いている脳天気な人たちが大勢いる。
     なぜなら、みんな社会がどうなるか、子供たちの未来をどうすべきか、何一つ関心を持たず、自分の地位や、金儲けのことしか興味がなかったから、今、日本がどうなっているのか、理解する能力さえ失ってしまったからなのだ。

     本当に、物事の本質を理解できる人なら、もはや日本が瓦解し、おそらく立ち直れないで、このまま崩壊してゆくことを分かっているはずだ。
     だが、自分のことしか関心のない人には、それが見えない。彼らは盲目なのだ。今、我々が、どれほど恐ろしい局面にいるか、崩落した黒部桟道のような絶望の淵を歩いていることを、どうしても見ることができないのだ。

     もう、今すぐ、農業共同体を作って、助け合い社会を復活させなければ、子供たちの未来など、どこにも存在しない。
     このままでは、断崖に向かって集団で突き進むレミングの群れのように、ある瞬間に、みんな終わってしまう。
     だが、心ある者は、我々の立場や運命が見えているはずだ。
    何をすべきか、情報を集め、せめて子供たちの、よき未来を何とか確保してやろうと考え、動き始めているはずだ。

     高級車や豪邸、優越的老後の幻想も捨てて、愚かしい利己主義を捨てて、利他思想の共同体を目指しているはずだ。
     今、何をしなければならないのか? 陳腐な優越感を捨てて、人生の本質に目覚めるべきときが来た!
     

    sinka 我々のいる、この世界では、あらゆる出来事が偶然、現れるように思える。だが、本当は偶然など皆無だ。すべての事物現象が因果関係をもって必然的に起きるのである。したがって、そこには法則がある。

     広島の橋桁落下事故による大事故で亡くなった人たちも、偶然、通りがかったのではなく、それぞれ意味を持って集まってきて、死ぬべくして死ぬと書いた。生きなければならない運命の者たちは、橋桁に差しかかる直前尿意を催し、パチンコ屋のトイレを借りていて助かった。交差点で止まったタクシーも、信号無視して暴走し、助かった。
     日航123便に搭乗していた人たちも、決して偶然ではなく、乗るべくして乗った。坂本九は乗って死亡したが、乗るはずだった逸見政孝や稲川淳二、明石家さんまは、なぜか乗らなかった。
     それは、おそらく、彼らが、まだ死の運命に至っていなかったからだ。生きねばならない必然性があったからだ。

     この世に偶然など存在しない。すべては必然である。そして、必然を貫く法則がある。
     それは『カルマの法則』である。年齢を重ねるごとに、失敗と反省を重ねるごとに、それが真実であると深く思い知らされ続ける。カルマとは何か?
     それは人生の本質である。人はカルマによって登場し、カルマを克服して消える。人の一生、人の運命を定める本質はカルマである。
     人生とは何か? それは、カルマを克服するプロセスである。すなわち、対象世界の真実を見抜くことである。自らを自然の摂理に一体化させ、ムダ、無益な幻想から解放され軽やかに宇宙に同化してゆくことである。
     カルマを消し去ったとき、人は宇宙に溶け込み、人生は意味を失う。もう人間という不自由な肉体を捨て去ることができるのだ。

     人は愚かな生物であり、過ちを犯す存在である。たくさんの失敗を繰り返し、人生の本質を体で思い知らされてゆく。失敗するたびに、余計な思いこみ、幻想は消え、真実の中味がはっきりと見え始める。
     自分の愚かさを思い知るたびに、世界が透き通るように見えるようになり、あらゆる煩悩・懊悩から解き放たれ、無意味な欲は消え、すべての運命を受け入れることができるようになる。

     我々は、宇宙の光、天空の意志から誕生した。そして、我々は輝く意志から放り出され、暗黒の荒野に投げ捨てられた。
     それは、何一つ見えない無知蒙昧であり、何一つできないデクノボウであり、それは、苦難と苦悩に満ちた愚かしい人生であった。
     我々の人生は、失われた自らを探して彷徨う旅路であった。
     愚かな失敗を繰り返して学び続け、真実を知り、もっとも高い合理性を獲得し、結果として、すべての欲から解放されたとき、自らを再発見することができる。
     このとき、再び宇宙に戻り、溶け込むのだ。

     我々は利己主義に囚われ、人生の真実を見失う。逃げ水のように際限のない権力や金、贅沢の幻想を求め、他人を出し抜くことの救いのない愚かしさを思い知らされ続ける。
     人から奪い、人を傷つけ、人を犯し、人を殺し、利己的な金儲けや権力、権威、地位に邁進し、それが結局、自らに、その数百倍もの苦悩をもたらす愚行であると、繰り返し思い知るのである。
     そうして、やっとの思いで地獄の利己世界から抜け出し、利他の合理性を見いだすことができるのだ。

     利己の愚劣さを知り、利他の真実を見抜くために、我々は何をしたらよいのか?
     それは、偶然の連続のように見える対象世界が、必然に貫かれている真理に気づくことだ。

     我々が、目にし、感じ、触り、歩むこの(対象)世界は混沌に満ちて、何もかも雑多な偶然に支配されているように見える。
     しかし真実は違う。無秩序な混沌しかないならば、我々は、この世界で生きることさえ不可能だ。我々は、この世界に「秩序」を見いだすことで生きている。
     秩序とは何か?
     それは、「一定の原因で一定の結果が起きる」という原理であり、原因のない結果は存在せず、すべての事物現象に原因と結果があるという真理である。
     我々は、この因果関係を知ることで、すべての現象を因果の流れのなかで理解することができるのである。

     秩序を知ることで、この社会における苦悩の理由を知り、それを改善し、あるいは問題解決することが可能になる。
     この社会が、かくも間違った方向に進み、人々に耐え難い苦悩を与えている現状を解決するためには、一番、根本にある原因を知り、それを解決しなければならない。
     この社会に苦悩をもたらしている最大の原因は、利己主義である。これを証明する前に、もう少し、「人が知るということ、因果関係を理解し、問題を解決する」ということの意味を深く考えてみよう。

     秩序を見いだすことができるということは、実は、この世界が秩序に満ちているからだ。因果の必然的な流れから一歩も外れていないからだ。デタラメ、偶然が存在しないからだ。
     デタラメに見える対象を解きほぐし、秩序を見いだす行為を認識と呼んでいる。
     「認識」とは何か?
     それは混沌に見える無秩序な対象に、秩序、法則を発見することである。それは共通点を見いだすことからはじまる。
     我々は対象世界の共通点を発見し、「同じ現象」に対して共通の言葉を冠する。

     例えば、火が燃えているところに体を近づければ「熱い」。それは「熱いから火があるかもしれない」という真理を示すものだ。
     熱いには、「暖たかい」 「怖い火傷」 「焼失」 「料理」など、たくさんの事象があるが、それは「熱い」という包括的な言葉(抽象→カテゴリー)の下に、重層的に含めることができる。つまり、「熱い」→「だから暖かい」→「だから危ない」→「だから調理できる」というように「熱い」を生活に利用できるようになる。
     これによって生活の秩序を確立できるわけで、これが因果関係の認識ということだ。

     寒さで死にそうになれば、「暖かい」という意味を知り、火傷すれば「熱い・危ない」という意味を知り、熱で調理した食物から「うまい」という概念も発生する。
     「熱い」という言葉の先に、たくさんの事象を思い浮かべ、「熱いから火事かもしれない」 「火傷するかもしれない」 「暖まれるかもしれない」 「調理できるかもしれない」と連想し、「熱さ」という言葉を利用して生活に役立てるのである。

     「熱い」という言葉一つには、さまざまの因果関係が広がっていることが分かる。これらの現象は偶然ではなく、「火が燃える」という原因の結果として成立するのであって、これが『因果関係』である。
     我々は、原因と結果の流れを理解できている範囲において、これを『必然』と呼ぶのであって、火があれば「熱い」のは『偶然』ではない。

     現象を『必然』と言った場合、『偶然』との本質的な違いは、その現象を利用できることである。
     因果関係を法則として認識すること。「火が燃えて熱ければ火傷する」ならば、「火傷しないために火に近づかない」という論理が成立することになる。
     「火が燃えているなら料理ができる」 と拡張することもできる。
     『偶然』起きることとは、因果関係が理解できないことを指すのであって、理解し、その本質を利用できるときは『必然』なのである。

     『すべての現象は、「心の法則」によって現れる』と指摘してきた。
     命は心の安堵を求めている。例えば『進化』を考えてみよう。
     生物種は、原始的な状態から「進化」し、より合理的、機能的なスタイルに変化してゆく法則がある。ダーウィンは、進化は偶然に貫かれていると指摘した。
     「キリンは首が長い」 首の長いキリンは他の草食生物よりも自由に高い葉を食べられたので、たくさんの子孫を残すことができ、結果として、首の長いキリンばかりになった。
     「マグロは早く泳ぐ」 遅いマグロは、シャチや鮫の餌食になって、早いマグロだけが生き残ることができた。
     これが『自然淘汰説』である。
     だが、この理論には重大な欠陥がある。
     偶然の作用で突然変異が発生し、環境適応だけを理由に、劣位種が淘汰されたという理屈だが、突然変異を偶然だけに求めるならば、足が三本や七本の人間が誕生し、二本よりも生活能力が劣ったから淘汰されたと説明しているわけだが、 我々が、自然界を見渡しても、そんな極端な突然変異など滅多にあるものではない。せいぜい、指が長かったり、一本余分にあったり、耳が大きかったり、目がよく見えたり、見えなかったりくらいが普通だ。ダーウィン論は、突然変異の条件が、とても不明瞭なのだ。

     ダーウィン論に対して、今西錦司は「棲み分け進化論」を提唱した。「棲み分け」は種同士の社会的関係を表す概念である。カゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。
     「流れが遅く砂が溜まったところに生息する種は、砂に潜れるような尖った頭をしている」
     「流れのあるところに生息する種は、泳ぐことに適した流線型の体をしている」 「流れの速いところに生息する種は、水流に耐えられるように平たい体をしている」
     このようにそれぞれが棲み分け環境に適応し亜種が成立することを示し、もしも、これが突然変異と淘汰だけで動的平衡が成立するとするなら、変異はダーウィンの示した数百倍も頻繁に起き、淘汰も同じように劇的に進むのでなければ、説明がつかないというわけだ。
     今西の観察によれば、変異は決してランダムではなく、生物にとって都合のよい方向性をもち、意志の関与が認められるという。
     このことは、ゆっくりとした突然変異と確率論的自然淘汰を原理とするダーウィニズムと真っ向から対立するものである。

     この意味するところは、生物の進化が、生物自身の要求、心の求めによって起きていることを示すものである。と同時に、ダーウィニズムが偶然に支配される唯物論の原理を生物に、そのまま適用したのに対し、今西は、唯心論の原理を持ち込むことになり、『生命』の根源を巡る、地上でもっとも本質的な対立を示したのである。
     すなわち、「進化は、偶然によるのか、それとも意志によるのか?」

     もし、進化が意志によって支配されるということが真理であるなら、それは、この世のすべての現象に意志が関与する可能性を見いだすものとなる。
     逆に、進化がダーウィニズムどおり、偶然に支配されるものならば、宇宙は物質と偶然の作用だけで成立していることになる。

     『意志が世界を変える』
     このテーゼが真理ならば、冒頭に述べた広島橋桁落下事故や日航123便の被災者もまた、意志の作用を考える必要があることになる。人は潜在意識の求めに応じて死地に向かうこともありうると考えるのだ。
     進化論→唯物論・唯心論とは飛躍的な拡張論理のように思われるだろうが、決してそうではない。
     なぜなら、宇宙の原理はフラクタルな共通性に満ちているからだ。心が先か、物質が先か? という原理は、この宇宙をあまねく貫く究極の原理なのである。

     対象世界を作り出すもの、それは己の心である。
     暖かい世界を求め、暖かさを人に与え続けるなら、世界は暖かく、自分に還ってくるものも暖かい。
     金儲けや地位、権力の価値に幻想を抱き、人を出し抜き、ときには命をも使い捨てにして満たした欲望にが、どれほど人の心を癒すだろうか?
     他人を犠牲にし、その不幸を踏み台にして物質的豊かさを求め続けた人生に待ち受けるものとは何か?
     金融資本が世界中の富を奪い尽くし、人々の生活を破壊し、苦悩と苦難を与え続けていることで、その主役たちは、巨額の富を受け取り、代わりに何を失ったのか?
     人を苦しめ続けた利己主義の彼らに、最後に還ってくるものとは何か?

     この真実を見抜くために、我々は、世界と人生の原理が、物質ではなく心であることを思い知る必要がある。

    hirosima イエスの有名な一節 『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん』「マタイ福音書」
     (念のために言うが、筆者はキリスト教の信者ではない。キリスト教は、キリストの名を利用した反キリストのインチキ宗教だと確信してる。イエスは旧約を破棄するために登場したが、『キリスト教』は、すべて旧約を復活させていることに注意)

     この言葉の意味は、「この世界は、願い、想いの実現する世界」ということだ。「想い」が先で「結果」が後だと言っているのだ。言い換えれば、「想う心」が先にあり、それによってのみ結果が生みだされると明確に述べている。
     これが唯物論者なら、結果は「想い」と無関係に、すべて偶然に左右されると考えるわけだから、「求めたって、尋ねたって、門を叩いたって、与えられる、見いだされる、開かれるとは限らんわい!」と冷たくあしらうことになる。

     人間が住んでいるこの世界は、ダーウィンが指摘したように偶然の累積・確率によって定まる世界ではなく、すべて意志の関与した必然の世界だとイエスは言っている。この世に起きることには偶然はなく、すべて心が求めた結果であるということだ。
     これは進化論の世界で、偶然による淘汰法則(ダーウィニズム)を否定して、生物は意志の作用によって進化したと主張した今西錦司と同じことを言っているわけだ。

     ヘーゲルは、同じ立場で、最初の意志を「絶対精神」(イデー)と名付けた。そして人類史とは、それが否定されて唯物論に傾き、さらに、もう一度否定されて唯心論のイデーに戻った段階で完結、オシマイになると考えた。
     人類史にあっても個々の人間にあっても、イデーによって人が誕生し、たくさんの人生で自己否定(カルマ)を重ねて、ついには人生の意味を終わって宇宙に溶け込むと考える。この世は、意味のある「合理性」によってのみ存在が成立し、意味がなくなれば消えてしまうとヘーゲルは指摘した。
     これを「否定の否定」 「対立の統一」という弁証法法則で解明しているが、興味のある方は、自分なりに弁証法を学ばれたい。ただし、アカデミーの推薦する哲学書や解説書の大部分は、「哲学者」と呼ばれたさに、知ったかぶりの屁理屈を並べただけのゴミばかりなので、既存の学問を学ぶことはやめて、自分の人生経験を統括して、その法則を自分のアタマで抽象しなければ絶対に理解できないと忠告しておく。

     イエスもヘーゲルも今西も、最初に絶対的意志が存在し、その作用で進化が起きていると考える唯心論である。進化の本質は「合理性」である。合理性、つまり意味が消えれば進化も終わり、滅びがやってくる。
     だが、ダーウィンやフォイエルバッハ・マルクスなど唯物論者は、まず物質ありきと正反対の主張をしている。物質は偶然によって支配されているから、合理性など無意味だ。また、それは合理性、意味とは無関係に永遠に存在し続けると考える。
     こんなわけだから、唯心論VS唯物論という論争は、人類思想のなかで一番重要な本質なのである。この、どちらの立場で、ものを考えるかによって、世界が逆さまになってしまうことも起きる。

     筆者も、昔、(高校生の頃だが)マルクス・エンゲルス・毛沢東に夢中になっていた時代があって、学校教育による洗脳の土台があるから、当然のように唯物論者であった。
     社会を動かす原理は、物質の過不足であり、人間の原理は肉体存在であって、物質や肉体に規定されて心が生じると絶対的確信をもっていた。すべての意志は物質によって成立するというわけだ。
     神などいるはずがない。そんなものは人間の空想・妄想が産み出した金儲けのための利権詐欺だ! 筆者は実家の仏壇を叩き壊してやろうとさえ考えたが、母親に泣かれてやめた。

     唯物論は分かりやすい理屈だが、物質が心を生みだすとすれば、肉体の死によって心も、すべての意味も消えてしまうわけだから、今の肉体を極度に大切にし、自分の肉体と心だけを絶対価値と考えて行動するしかないわけだ。
     こうなれば、死ぬのは絶対に嫌だ。誰が人助けのために危ないことなんかやるもんか! 徹底的に自己利益を追求し、面白おかしく人生を終わりたい。死によってすべてがオシマイ・・・・チーン。
     「自分さえ良ければよい」 徹底的な利己主義だけが、唯一の正しい価値観ということになるわけだ。逆にいえば、利己主義は唯物論の慣れの果てなのである。

     ところが、イエスはそうではないという。
     我々の生きているこの世界とは、願ったこと、求めたことが叶う世界だとイエスは指摘している。ただ受動的に流されているだけでなく、能動的に問題を解決したいなら、まずは願いなさい、求めなさいと言っている。
     つまり、世界を作っているのは心だ。社会も人間の肉体も、すべて心が作っているのだと。極端に飛躍すれば、今、我々が向き合っている対象的世界は、いわば、心の作り出した幻影であるともいえよう。

     心次第で、対象的世界は、いくらでも変わるのだと言っているわけだ。
     こうなれば、自分の肉体も心の産物であって、肉体よりも心を大切にしなければならないことになり、利己主義は通用しないことになる。
     酒池肉林に囲まれて、どんなに究極の贅沢が実現できたとしても、そんなことは無意味だ。「飲める酒には限度があり、胃袋には容量があり、美しい女も飽きればブスより劣る」であって、贅沢など心の平安に比べれば何の価値もないことだと・・・・物質ではなく、心の喜び、心の平安、心の満足こそが、最高の価値なのだと指摘しているわけだ。
     自分の肉体と、それに付随した財産や権力よりも、その元になる心を大切にしなければならず、自分の心を生みだしてくれた周囲の愛情こそ、この世で一番大切な価値であるという思想が成立することになる。
     そうして、北朝鮮・中国のような圧政・暴政や不合理により、心を苦しめるような事態が起きれば、肉体の保全よりも、心の満足をを優先させるために、己の肉体を滅ぼすことだって当然だと諭している。愛のためなら死など問題にならないということだ。

     これこそ利他主義の核心にある論理だ。「ニワトリが先か、卵が先か?」 「心が先か、物質が先か?」の論争にあって、明快に「心が先だ」と確信することによって、利他主義が成立するのである。
     「心が現実を産み出す。物質的世界を産み出す」
     という唯心論の原理が正しいとするならば、これまでの常識は天地大逆転だ。
     この意味するところを、ひねくれて考えるなら、この世では、願わないことは決して実現しない世界であり、どんな、残酷で理不尽な結果が与えられたとしても、それは自分の願いが産み出すものだということにもなってしまう。
     つまり、道路に飛び出して、車に轢かれるのも、轢き逃げの加害者になるのも、猟奇殺人の被害者になるのも、交差点で橋桁が落下して下敷きになるのも、津波に流されるのも、女房が他の男と浮気することも、すべて自分が想い願った運命が実現したのだと指摘しているのである。

     「そんな馬鹿な!」
     筆者も、最初、こうした結論をもたらす唯心論などバカバカしくて話にならないと拒絶していた。
     「人は、良い思いを求めるはずだ。不利益になること、自分の死を願う者など、どこにいるんだ・・・・馬鹿にすんじゃねえ!」
     と考えるのが当然だ。資本主義による戦後教育を受けてきた我々の大半が、「物質が心を規定する」 「現実は偶然によって左右される」 と確信しているはずだ。学校で、そう習ってきたのだから。心が世界を作るなどとテストの答案に書いたら零点を付けられた上、オチコボレにされたあげく、精神病院送りになるような社会だったから。

     だが、我々は真実を見抜く力を奪われてきたことに気づかねばならない。
     テレビやマスコミや、芸能やスポーツや受験競争などによって、思惟・思索の時間を奪われ、自分のアタマで考える姿勢を弾圧され続けてきた。我々は与えられた結果だけが見える盲人にされ、自分の足で歩き、自分のアタマで考える能力を奪われ続けてきた。
     我々は国家や支配者の定めた回答だけを書くように強いられてきた。教育体制の指定したシナリオから一歩でも外れれば、国母のように朝青龍のように弾圧され追放されてきた。
     我々は国家に利用されるだけの愚かな家畜として飼育され、見ざる、言わざる、聞かざるの愚民に洗脳されてきたから真実が見抜けなくなっていたのだ。

     自分の真の願いがどこにあるのか? 願いには真と偽があることを分かっているか? 教師に定められ、国家に強いられた回答が、あなたの本当の願いなのか?
     もう一度、よく考え直してごらん。
     人は平気でウソをつく。自分に対してもだ。高度に洗脳された現代人の心には複雑な裏表構造があるのだ。だから、あなたの見せかけの願いは、あなた自身をも欺いているウソかもしれない。だとすれば、それは自分の真の想い、願いではなく、ゆえに、本当の心は、それが実現しないことを願っていることになる。

     ユリゲラーがテレビの前で、「さあ、みんなスプーンを持って、曲がれと念じよう」 と呼びかけたとき、本当にスプーンが曲がってしまった人がたくさんいた。しかし、どんなに念じても決して曲がらなかった人も大勢いた。
     このとき、心に裏表のない人はスプーンが簡単に曲がった。しかし、表では曲がれと念じても、裏の心が「曲がってしまったら怖い・・・・学校では超能力など存在しないと教えているではないか・・・・・曲がれば、これまでの価値観が崩壊してしまう」と恐怖する複雑な心の持ち主は、「曲がれ」とかけ声をかけながら、心の奥底では「曲がるな」と念じていたことになる。
     「曲がらなかった」やはり超能力はインチキだった・・・と安心したいわけだ。
     真の心が「曲がるな」と願っているのに、どうしてスプーンが曲がるだろう?

     「願いが実現する世界」に生きているとは、どういうことか? 
     と言ったって、フォアグラを食いたいと願えば、目の前に飛び出してくるほど単純なものではない。心とは何かを理解しないと、この言葉の意味は分からない。
     実は、求める心、実現している想いとは、人間の皮相の願い、想いなどではなく、深奥の心、想いである。いわば潜在意識といってもよい。
     人の心には大きく分けて二種類ある。顕在意識と潜在意識だ。

     顕在意識とは、潜在意識に操作された心であり、現実の世界のなかで、自分が人生の規範と信ずる観念によって洗脳された心である。教育やら、常識やら、宗教やらの観念によって粘土細工のように作り出されたものだ。
     潜在意識とは、深奥にある真実の心である。「自分が本当に願っていること」というものは、この潜在意識である。

     例えば、20年前、広島で交差点の橋桁が落下して、信号待ちしていた車が潰されて15名が死んだ。
     この事故で死亡した人々は偶然の不幸と片付けられたが、先に述べた「想いの実現」という論理でいうと、死ぬために、ここに集まってきたことになる。そして、それぞれが死ぬ理由を抱えていたということになる。
     実は、下敷きになる運命だった幼稚園の送迎バスがあったが、現場に差し掛かる直前、園児がトイレに行きたいといったので数分遅れることになり、被災を免れた。
     後に調査したが、いったい、どの園児がトイレに行ったのか、誰も思い出せなかった。記憶を辿って特定した園児は、事故前に転園していた。

     我々の置かれている、この世界では、あらゆる出来事が偶然、登場してくるように思える。だが、本当は、偶然など皆無だ。すべての事物現象が原因と結果の因果関係をもって必然的に起きるのである。したがって、そこには法則がある。 次号に続く

    ahugan  「NHKラジオあさいちばん」で、筆者が「日本の良心」と評価する内橋克人が、中村哲医師の活動を支援する澤地久枝の『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』という本を紹介している。
     筆者は中村哲の活動を、マスコミで語られた程度しか知らなかったが、彼と支援のペシャワール会に関するHPを見ると、私利私欲のない、人間愛に貫かれた素晴らしい活動だと分かる。

     中村がアフガンに向かったのは25年前、1984年のことだ。
     かつてイギリス植民地だったアフガンで、1920年頃、独立戦争に勝利したカーン国王が、やがてソ連と結びつき、土着のパシュトゥーン人を弾圧し、暴政を布いたため、反政府ゲリラが組織され内戦状態になった。
     これをアメリカ政府が対ソ戦略のなかで利用するため、CIA工作員を派遣し、大規模な支援を行ったため、アフガン内戦は全土を巻き込んだ絶望的な状況に陥った。

     1973年に親米派ダーウード率いるゲリラ軍によって国王勢力が倒され、アフガン共和国となるが、1979年、ソ連KGBの陰謀攻勢によって、再び親ソ傀儡政権となった。
     その後、数年ごとに親ソ・親米政権への揺り戻し、激しい綱引き戦争が続いた結果、国土は破壊され、民衆は大きく疲弊していった。
     米ソ陰謀合戦の舞台として利用されたアフガンは、国民の数割もが戦闘に巻き込まれ、長い歴史に培われた豊かな自給自足インフラさえも壊滅的に破壊され、まさしく「地上の地獄」が体現される地域となり、民衆はアヘン栽培にすがって、辛うじて生きながらえる日々が続いていた。

     中村がアフガンに行って、四年後の1988年、CIAに支援されたビンラディンを含むアルカイダの苛烈な抵抗運動によって、アフガンからソ連軍が全面撤退し、国土はイスラム原理主義、タリバンの支配下に入った。
     この頃のアフガンでは、耕作地に無数の地雷が敷設されたまま放置され、手足を吹き飛ばされて死亡したり、重度障害者になる人が後を絶たず、戦争で飲料水インフラが破壊されたため、住民は上下水道兼用の不潔な水を利用するしかなく、赤痢やコレラなどの蔓延で、新生児の多くが死亡する悲惨な状況だった。

     そこで中村は、住民が大国の陰謀的援助に頼らず、自立した生活力を確保するために、最初に必要なものは水利・農耕インフラだと考え、大国が利権と破壊だけを持ち込んだこの国に、はじめて飲料水インフラ復活プロジェクトを、民間努力だけで出発させた。
     当時は、日本政府も利権につながらない、こうした真の人道援助を白眼視し相手にしなかったために、中村や支援組織ペシャワール会は、なけなしの自家資金を持ち出すしかなかった。

     政権を握ったタリバンはアフガンの稀少鉱物資源を狙うブッシュ(アメリカ大統領)一族やCIAの援助を受けた組織で、ウサマ・ビンラディンらアルカイダの指導下にあり、非常に過激なイスラム原理主義を打ち出し、とりわけ女性たちに厳格な懲罰を適用するイスラム倫理を強要し、底辺の教育機会を奪ってゆき、アフガンは農工業や医療、民衆生活の知的財産を失っていった。

     2001年には、有名な世界遺産、バーミヤンの石仏群が爆破されるほどの事態に陥った。アフガンは、イスラム原理主義宗教国家として、他国から孤立することで、いっそう過激な観念的暴走を行う事態になっていった。。(バーミヤン石窟破壊工作もCIAがアフガン侵攻世論を正当化するためタリバンに行わせた陰謀と指摘されている)

     この年、NYで911テロ事件が起き、ブッシュが支援した友人であったはずのビンラディンを首謀者と決めつけ、それを匿うアフガンに対して、アメリカは総攻撃をかけることになった。
     (筆者の情報では、911テロの首謀者はアメリカ政府であり、実行犯はイスラエル・モサドであった。アメリカは911テロによって戦争を勃発させ、アフガンを戦争産業の利権に利用したのだ)
     
     この戦争で100万人近い死者と300万人を超える難民が生まれた。中村は難民キャンプの巡回診療を行って住民の心の支えとなった。
     究極の貧しさに追いつめられた民衆にあっては、必ず、乳幼児死亡・結核・ハンセン病・伝染性消化器疫病が多発するが、一番大切なことは、良い水インフラを整備すること、免疫力を上げる環境を整備することだ。
     中村は、個人を治療するという方法を後回しにし、アフガン住民全体を助けるという飲料水インフラ整備に全力を尽くすことを選択した。井戸を掘り、灌漑用水を施設していった。これらは、元々民衆の苦難に関心のない米ソ大国が一切手をつけなかったものだ。
     この大局的判断は非常に賢明だと筆者も思う。民衆に対する真実の思いやりがなければできない判断だ。そして、これによって、赤痢などの死者が激減する成果を生みだしている。
     
     中村の活躍と、その真実は以下のHPに掲載されている。
     http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/

     こうした活動を、権威・権力・蓄財の大好きな利己主義者が行うことは絶対にない。彼らは、池田大作のように偽善者でありたがるが、実際には自分の金儲けや権威にしか興味がない。
    中村の活動は、人間が何によって生かされているのかを知っている利他主義者による活動である。人生の価値が思いやりであることを知っている人にしかできない良心の発露だ。

     中村哲と同じように、私利私欲を捨てて、人の幸せに奉仕し続ける医師は少なくない。例えば、ベトナムにおける無給の眼科医として活動する服部匡志の活動が知られている。
     服部の活動も、同じ日本人として真の誇りと連帯感を呼び覚ましてくれる素晴らしいものだ。人が人を無償で援助する行為は美しい。
     http://www.mbs.jp/jounetsu/2006/04_09.shtml

     先日は、2004年にイラクで誘拐された現地ボランティア、高遠菜穂子が久しぶりにテレビで紹介されていたが、彼女もまた純粋な利他思想の持ち主であって、その活動に強い畏敬を抱いている。
     高遠の行っていたのは、イラク・ファルージャの戦災孤児たちの物心両面での支えとなることであった。
     彼女は誘拐後、「自己責任」とやらで激しいバッシングを受けて、未だに「違和感を抱く」などと無知なバカタレがブログに書いているが、それは利己主義に洗脳され尽くした自分を正当化するお粗末な弁明にすぎない。

     この「高遠バッシング」ほど筆者を不快にしたものはない。自己責任論とは、結局、資本主義の家畜として「見ざる、言わざる、聞かざる」の卑劣な奴隷人生を、他人にも強要して安心したいだけのクズどもによるブーイングであって、人生の根源が何によって成立しているのか、見ようともせず、この地上から、いかなる良心をも葬り去ってやろうとする悪意の見本のようであった。
     筆者も、このとき、日本人が、まさかこれほどまでに愚劣な人間性に転落しているとは思わず、本当に驚いた。筆者の若い時代なら、高遠の良心は圧倒的に賞賛されただろうに。あの人間解放と連帯を求めた、我々の仲間たちは、いったい、どこに消えたのだ!

     彼らは、企業が販売戦略としてのイメージ向上作戦で、ボランティア活動をやっているのとは本質的に違う。
     「苦しんでいる人を助けたい」 という人間として原点の良心から、やむにやまれず歩みよるものであり、何一つ対価を望んでいるわけではない。この汚い人間社会にあって、もっとも美しい、かけがえのない真の花たちである。
     それを対価がもらえなければ動けない、私利私欲に汚染されたゴミどもが、「自己責任」だなどとバッシング糾弾して、日本社会から葬り去ろうとする愚劣さに、筆者は激怒し、2ちゃんなどで、悪臭を放つ誹謗書き込みをしている阿呆どもは、やがて来る都市の地獄のなかで焼き殺されるしかない運命と確信したものだ。
     こうした状況や、死刑制度を支持する大衆が9割に達したとのニュースを聞いて、筆者は、すでに日本社会は、とうに腐敗し崩壊している現実を思い知らされた。
     かくなる上は、上に挙げた、真の利他主義者たちを支援し、利己主義に汚染された日本社会の救済を諦め、崩壊するがままに任せて、未来を担う、子供たちのために、わずかな利他思想のオアシスを用意してあげるしかないと考えている。
     だから、山奥の過疎地に農業共同体を結成して、賛同者だけで、苦難の時代をやり過ごそうと提案している。
     未来は子供たちのものだ。彼らの未来に、素晴らしい利他思想の社会を用意してやるために、今何ができるのかを考えている。

     とまれ、人は愚かなものだ。この地上に誕生する、すべての人は、必ず愚かな失敗を繰り返すようにプログラムされている。
     なぜなら、地球は「苦悩の惑星」なのだ。どうしてもカルマを止揚できない、箸にも棒にもかからない愚かしい人たちだけが誕生してくる惑星なのであって、いわば、一種の地獄特訓道場か魂の監獄のようなものだ。
     ここで、我々は、真実が見えるようになるまで、愚行を繰り返し、自分の馬鹿さ加減を思い知らされることになっている。
     我々が、中村、服部、高遠のような利他思想に目覚めたそのとき、数百もの人生のなかで苛まれ続けた苦悩から解放されるのだ。

     筆者も、もちろん本当に愚かな利己主義者だった。
     今、自分の人生を振り返るなら、とても恥ずかしく忸怩とするばかり。絶望的な気分になり、鬱状態に閉じこめられそうだ。
     筆者の人生で、楽しく思い出されることは、ごく僅かでも他人の役に立てた思い出だけだ。後は、自分勝手な利己主義により、人を利用しようとして失敗した恥ずかしい思い出ばかりで、もう生きる気力さえ失ってしまう。

     利己主義の自分は恥ずかしく、苦悩に満ちている。しかし、利他主義の自分は楽しく、未来への希望を与えてくれる。
     人の原点は利他思想なのだ。我々は、母親と周囲の利他思想によって育まれた。利他思想、すなわち無私の愛情がなければ、子供は成長さえできない。
     親が利己主義者だったなら、残酷な迫害のなかで殺される運命しかない。
     だから、今、生きている、すべての人々は、利他思想のおかげで生きているのである。親や周囲の人々の愛に育まれて、ここに存在しているのであって、もし、子供たちの明るい未来を用意してやりたいと思うなら、我々は、利他思想で愛情をいっぱい与えてあげなければならない。

     それなのに、利他思想のおかげで育った人たちが、かくも利己主義思想に汚染され、洗脳されてしまっている現状は、いかなる理由によるものか?
     それは、まさしく、自分の原点を見失わせる洗脳教育の成果に他ならないのだ。
     資本主義社会は、一部の特権的な大金持ちが、自分たちの利権をますます増やそうとして、人々を資本主義が正しいかのように洗脳し、従順で臆病な家畜にしてしまおうとしている。

     利他思想を忘れさせ、利己主義の矮小な人生に埋没させようとしているのだ。
     我々は、自分の原点を思い出さねばならない。
     利己主義による洗脳の成果は、人々に愛を捨てさせて敵対をもたらし、包容・寛容を捨てさせて攻撃・制裁をもたらした。
     こうして愛情を捨てさせられた結果、我々は、まさに苦悩の王国に棲むようになった。
     利己思想が産み出すものは苦悩・絶望である。利他思想の産み出すものは希望と安心なのだ。
     しばらくのあいだ、このことを証明するためにブログを書き続けたい。

    kazoku 

     我々は、ほとんどの場合、生まれ落ちてから家族のなかで育てられ、周囲の人間関係のなかで必要なことを学びながら、自分がやるべきことを自覚し、それを実現しながら年齢を重ねてゆく。
     人は、「自分自身」(自我)を自覚するに至る段階までは、養育者のペットのような客体的存在であって、環境に依存して「生かされる」しかない運命だ。
     しかし、たくさんの経験を積んで、やがて養育者に甘えない「主体的な自分」を自覚することになり、「自分の意志」で対象的世界を変えられる段階にまで成長することになる。
     ここで人は客体的存在から主体的存在へ、受動的存在から能動的存在へと革命的飛躍を遂げるのである。すなわち「自立し、一人前になった」ということだ。もちろん、そのプロセスは千差万別で、人によって異なるものだが。

     一人前になった人がやるべきこととは何か?
     最初に自分の命を保全することである。自分が今日食べる食事、保温、安全な寝場所の確保であり、明日の食事、寝場所の確保である。そうして、周囲で自分の生きるモチベーションを支えてくれる人間関係を確保し、安定した快適な生活を送れるよう努力することが人生の仕事といえよう。
     やがて(可能ならば)異性と結ばれ、性欲を満たし、子を設け、育て、老いて死ぬのが人生のすべてだ。人生とは、これ以上でも以下でもない。
     付け加えるなら、好奇心を満たそうとするモチベーションがあることくらいだろう。人は周囲を知りたいものだ。知ることによって、より快適な生活が保障されるようになるからだ。

     今、資本主義国大衆の多くが望んでいるような、周囲にいる人々を蹴落として、自分が優位に立つことが人生の本当の目的ではない。
     有名になることも、他人に秀でることも、蓄財や権力を得ることも、決して人生の普遍的目的ではない。それは人を利用するだけの歪んだ社会によって変形した精神の要求なのだ。それは金儲けと人間疎外を正当化する資本主義による洗脳の産物なのである。

     それは周囲の生き物に怯えて噛みついて回る、病んだ狂犬のように不自然な姿であることを知っておく必要がある。自然のなかで、のびのびと生きている犬は、特別な理由がなければ噛みつきなどしない。しかし、狂犬病に罹ったり、理由なく殴られたりして、不自然なストレスを与えられれば、暴走して周囲に噛みつくようになる。
     人間が、名声・所有欲・権力・蓄財に幻想を抱いて、他人の迷惑も顧みず暴走する理由は、ストレスを与えられた狂犬と似たようなものだと知る必要がある。
     資本主義社会は、人を金儲けのために利用しようと強烈なストレスを強要する社会だ。このなかで、我々はストレスに苛まれ、狂犬のように、怯えて周囲に噛みつき、利己的な欲望に突き動かされて、うろつき回る人生を強いられているのである。
     あらゆる犯罪の根源は、資本主義の生んだ金儲け主義のストレスから生まれるものであり、人の不幸の大部分が、そこから生成されていることに気づかねばならない。

     人が他人に秀でたいと思うようになる理由は、人から疎外され、軽蔑され、悲しい思いを強いられた経験が重なり、秀でることで注目を浴びて、大切にされたいという思いから生み出されるモチベーションである。
     他人から軽蔑されたことのない人間は、決して秀でたいとも思わないのだ。例えば、天皇家で育つ子供たちは、すべてガツガツした自己主張の饑餓など微塵も見えないではないか?
     人は人間関係におけるコンプレックスを解放したいと願うもので、例えば、見下されたなら見返してやろうと思い、愛されたなら愛してやろうと思う。
     人は自分のもらったものを他人に帰す性質を持っている。
     同じもので返せないときは、別のもので返すことになる。例えば、学校で肉体的に脆弱なことが原因で虐められた悔しさを、学業で返したり、地位や蓄財で返したりというメカニズムである。
     こうして、さまざまなコンプレックスが原因で、社会的差別のシステムができあがり拡大してゆくのである。

     人生も社会も、複雑怪奇に見えても、実際には驚くほど単純なメカニズムで成立しているものであり、今、我々が直面している格差・階級社会のメカニズムも、その原因を探せば、小さなコンプレックスの積み重ねということになる。
     したがって、差別・格差社会を解決するために、一番大切なことは、人の心を傷つけない暖かい社会を作ることであり、コンプレックスの解消が、権威・権力や蓄財に結びつかないように、そのメカニズムをすべての子供たちに、きとんと学ばせる必要があるだろう。

     解決の難しい、差別や格差をもたらす社会的コンプレックスを作り出してきた最大のメカニズムは家族制度にある。
     例えば、人口過多社会における家族では、「夫婦が一人っ子を育てる」ことしか許されないようになり、子育てに優しく助言してくれる老いた両親も、親身になって相談に乗ってくれる友人もいない。
     小さな家では両親と共に住むことができず、子供の学歴や、ブランド品を購入する見栄張り競争のために付き合っている友人が心を開くこともない。

     こうした環境で育つ子供は、「他人と仲良くする」という基本的な能力が発達せず、人間に対して恐ろしく無知で、独善的、自分勝手な人間性になってしまう事態が避けられない。
     我慢をすることの大切さも教えられず、周囲は、すべて自分の欲求を満たすための奴隷のようなつもりになってしまう。叱られても、その意味も理解できず、無意味に殴られた狂犬のような精神状態に陥るだけだ。殴られる恐怖で、一時的におとなしくなったとしても、その心は怯えて歪み、やがて他人に対する無意味な攻撃性・凶暴性に転化してゆくことが多い。
     小家族では、子供に自分勝手な利己主義が育まれることになりやすい。

     だが、家族が両親と一人っ子だけの「核家族」でなく、老人や兄弟姉妹など、たくさんの人によって構成されているなら、子はたくさんの愛情を受けてのびのびと育ち、開放的な人間になり、人間とはどのようなものかを知るたくさんの機会に恵まれることになる。
     大家族では、子供たちに、他人の利益に奉仕する利他主義が育まれるのである。

     そもそも、人類史の大部分の生活が「大家族共同体」であった。9割以上は「母系氏族社会」であった。そして、今のような一夫一婦制ではなかった。
     共同体の生活様式は実に多用だが、母系氏族社会にあっては、男女の関係は固定されたものではなく、複数の関係を結ぶのが普通であった。それは「多夫多妻制」に近いものであった。
     現代にあって、我々が洗脳されている倫理である「貞操観念」は、資本主義における小家族制度維持のための虚構にすぎない。

     男女とも貞操が洗脳による虚構にすぎないという真実は、夫婦生活がいかに危ういものか、ほとんどの夫婦が実感しているところだろう。
     すなわち、女性は妻であっても、目の前に魅力的な男が現れたなら、実に簡単になびいて、現実の生活を捨てて跳んでしまうことが少なくないし、男性も、若く魅力的な女性が現れたなら、いとも簡単に浮気するものであって、夫婦という制度が、便宜的な虚構にすぎないことに気づかぬ夫婦はいないはずだ。

     ところが、これでは男性の権力を、その子に継承する相続システムを求める封建的思想にとって非常に困るもので、母親が誰とでも寝たのでは、自分の子供が分からなくなってしまう。
     そこで、母親に貞操を強要するために、苛酷な倫理や残酷な刑罰を考え出した。
     イスラム・モスリムに今なお残るように、夫以外の男性と性交した女性は、例え暴行されて犯されたとしても厳罰に処せられ、その多くは残酷に処刑されてしまうことになっている。
     イスラムでは、毎日のように、こうした自由な心の女性たちが見せしめに殺害され続けている。処刑の理由は、女性を男性の奴隷とすることで、父系社会、家父長社会の秩序を維持するという観念にすぎないのである。

     日本でも、封建社会、男性優位社会の残渣観念が残り、夫婦における貞操を要求する法的制度が成立している。
     しかし、現実には、「財産・権力・地位を我が子に受け継がせる」ことのできない貧しい大衆にとっては、「我が子を特定する」ということは無意味であり、父の子が誰であっても構わない。母親に経済力がありさえすれば、邪魔な父親などいない方がよいことになり、母子家庭が激増しているのである。
     今や、日本にあって、「父の子を特定する」必要のある大衆など、ごく一部であって、下層大衆ではフリーセックス、多夫多妻制が実態化しているのが現実である。

     例えば、私有財産を否定するヤマギシ会にあっては、一応、名目上の結婚制度は存在しているものの、その実態は、1人が生涯で5〜10回の離婚再婚を繰り返しているのであり、これはヤマギシ会に限らず、「子を特定する必要」のない共同体社会では、必然的な現象であることを知っておく必要がある。
     逆に、このことが、男女関係の本質を物語っている。
     結婚は虚構であり欺瞞である。その本質は男性権力社会にあって、男性の子を特定し、その子に権力財産を相続させるものでしかない。
     したがって、その必要のない共同体社会、母系氏族社会では、多夫多妻制、乱婚が常識となる。ただし遺伝的劣化の見地から、白川郷のように共同体内部での血縁性交が許されなくなるということだけだ。

     これから、大恐慌が進行することで、財産をなくした大衆が激増し、受け継がせるべき財産も権力も所有しない大衆にあっては、もはや結婚制度が有名無実化することが避けられない。
     人々は、結婚制度の拘泥から解放されて、今、目の前にいる人と自由に恋愛し、性交するようになるだろう。というより、事実上、とっくに、そうした自由結婚の社会が到来している。
     イスラム諸国が、近年、女性の貞操に対して、残酷極悪な弾圧処刑を繰り返すようになった本当の理由は、実はイスラム圏にあっても、もはや父系社会、男性権力が無意味になり、男性の子を特定し、財産を継承させるシステムが不要になっている結果、女性たちが自由な恋愛を望み始めた事情を恐怖していることによるものだ。
     イスラムにあっても、おそらく数年以内に、父系社会は崩壊し、女性が家族から解放されて自由に恋愛できる社会が到来することだろう。

     社会は小家族から大家族へ、孤立した人間関係から、共同体へ、父系社会から母系社会へと今、巨大な変革が始まっている!
     我々は、結婚という制度を拒否し、誰とでも自由に恋愛し、性交する社会を実現すべきであり、私有財産の継承という制度を否定すべきである。
     共同体を結成し、そのなかで誕生した子供たちは、すべて共同体全員の子として共有し、育てる社会を実現するべきである。

     

    このページのトップヘ