2010年04月

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     警察国家への道 その1 家康の施政哲学

     今回は、今、日本国民が直面している著しい民衆管理苛酷化について警鐘を鳴らす目的で書きたいと思っている。
     淫行条例・ポルノ規制など、隠された心の襞まで管理し、エロ漫画を所持しただけで懲役半年という苛烈な懲罰で縛ろうとする姿勢に対して、これが何の目的でなされ、どのような結果を招くのかについて、読者に問題提起していきたい。
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     近世民衆管理の元祖といえば徳川家康だ。彼ほどの統制管理の達人は滅多にいない。それは家康が人の心を読み切る能力に優れていたからだが、家康統治の本質について触れた文章は滅多に見ない。
     これまで、家康の本質に迫ることのできた論者が、ほとんどいなかったのだ。
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     家康の築いた徳川時代は、1603〜1868年までの265年間を言う。これは人類史上希にみる長期の固定体制政権で、他に比肩するとすれば、千年王国といわれる大ローマ帝国くらいだろう。
     だが、こちらは紀元前27年〜西暦395年あたりまでが実質的なローマ帝国であって、長さでいえばいくらも変わらない。しかも、中味は持続的体制というには問題があり、継続性のある政権とはいえない。
     ところが、江戸時代は、たった一人の権力者が政治的基礎を構築し、それが260年以上も崩壊せずに継続したわけで、こんな例は、おそらく世界史にもほとんど存在しないだろう。
     これほどの超長期にわたる安定政権を築いた秘密は、どこにあるのか?
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     それは家康の築いたシステムに300年の時代に堪えうる普遍性があったということだ。人間と社会の核心を突いた本質的法則を見抜き、利用していたということだ。その家康政治の驚異的エッセンスについて、筆者が気づいたことを挙げてみよう。
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    (1) まず家康は、強大な江戸幕府中央集権と、大きな権限をもった地方自治委任体制のバランスを確立した。
     中央政府の権限は、直轄地(天領)を除けば極小に抑えられた。経済運営ですら100%各藩の自治に委ねた。収税権は藩にあり、自治権を保証されただけでなく、収入も地方税として直接得ることができて、住民を国家が直接収奪する国税もなかった。後に、享保の改革で国税が設定されたが藩収の1%程度にとどまった。
     地方自治を強固に構築し、幕府が管理調停者にとどまって地方に余計な負荷をかけなかったことが政権長寿の最大の理由であったといえよう。逆に、崩壊に至った理由は、江戸時代末期に天災が相次ぎ、加えて権力機構が肥大して藩の費用が嵩み、各藩の負荷が激増して堪えられなくなったことであろう。
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     ここで家康の思想哲学の根底に、「他人を支配するスタイルは委任を原理とする」という姿勢が明確に見える。収入まで奪って管理し、あらゆる統制を強めるのでなく、配下の者の自主性を最大限尊重して生かし、できる限り自由を保証し、権力は、桶のタガのような調停者として君臨するにとどめるという姿勢が、体制を安定させ、長持ちさせる最大の秘訣であったといえよう。
     人類史における政権崩壊の共通点は、政権と官僚制度が肥大し、その独占権益と統制を極度に強めて配下の収益や自由を奪ったことで政権を底辺で支えるシステムが疲弊崩壊したことが真の理由なのである。
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    (2) 家康の支配原理は、「二極化システム」であった。政争や武力衝突を起こしそうな強大な勢力、とりわけ宗教組織を、すべて二極に集中し、互いに対立させた。
     一番危ない武装兵を持つ修験を天台系と真言系に二極化し、神道も吉田系と白川系に、木地屋でさえ、筒井系と小椋系に分けた。幕府の抱える兵法者、大工や火消しなどまでも二極化しようとした。
     こうすれば、武力を持った集団は、必ず互いに競争牽制する意識が働き、相争い、幕府は、その調停者として君臨することで存在理由を確立することができたのである。
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     これは人の競争・闘争本能を利用した最高級の統治理論、知恵である。
     家康の用意した施政哲学の根元にあるものは、心の法則を利用するものであった。人は集団になると一定の原理、法則で動く性質を持っているのである。分けても、人が競争・闘争しようとする性質を、政治支配に利用するという視点こそ、まさに家康の真骨頂であった。
     これを会得したのは、おそらく今川氏の人質だった竹千代時代、日本最大の今川文庫のなかで対立を主題にした「太平記」を学んだことによるものだろう。
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    (3)「知らしむべからず、拠らしむべし」 家康は、大衆が知恵をつけて反権力組織を結成することをもっとも恐れた。
     人が生まれて死ぬまでの、すべてを管理し、体制に疑問を抱く反抗者を出さないために、家康は、痒いところまで手の届くような徹底した管理システムを構築した。それは、人生のすべてが「お上」によって与えられ、支配下大衆は、家畜のように従っていれば、不満のない人生が過ごせるというものだった。
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     制度の核心にあったのは、民衆の自治と、それを統制する五人組連帯責任制度であった。この基礎となったのは、律令制下の五保制だが、秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させたシステムを家康が継承発展させたものだ。
     五人組は、惣百姓・地主・大家を中核に、五戸前後を一組として編成し、組頭を定めて名主・庄屋の統率下に組織化した。これは連帯責任・相互監視・相互扶助を目的とし、領主はこの組織を利用して治安維持・争議解決・年貢確保・法令の伝達周知をはかった。
     これによって江戸時代の民衆は、生まれて死ぬまで、仕事も旅も、性と出産も、教育も、ケンカも病気も、あらゆる生活を監視され、一方で人生を委ね、生活に安心感を得ると同時に、他方で、体制の家畜として利用されるシステムに生涯押し込められることになった。
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     人間は、荒野に一人で放り出されたなら、いったいどうやって食物を得て、どうやって身を守り、欲望を満たし、何を目的に生きたらいいのか見当がつかず、強い不安を抱く弱い存在なわけだが、家康は、大衆に対して、その日常から思想、行為まで、すべてを明確に定めてみせたわけだ。
     これなら人生に不安も迷いもない。悩みもなく、ただ家畜として励んで終わればいいわけだ。こんな体制に疑問を抱かず、黙って従う大衆に洗脳教育するために、さまざまな仕組みを考え出したわけだが、その核心システムが五人組であった。
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     最大の問題は、生活に産み出される不満をどう解消するかということだ。五人組は、人間に関するさまざまの問題を、地域共同体(構成員は数十名)のなかで、助け合って解決するシステムであった。
     食欲・性欲・病気・教育・争議・死など、この助け合いシステムが、すべてを解決することで、権力は、その監視者、庇護者として君臨するものであった。そして、思想的根幹として、体制擁護の儒教(朱子学)と死生観・人生観について仏教を与えた。
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     こうして、人の心の隅々まで監視し、フォローする体制が確立、265年という長期安定政権が成立したわけだが、その崩壊は、結局のところ、体制が安定していたことで、システムに対する過剰な依存心が生まれ、そのなかで官僚たちが利権(私腹)を拡大し、権力を肥大化させ、システムを必要以上に増やしすぎて余計な荷物を抱え込むようになった結果、藩も民衆も、その負荷に耐えられなくなり、倒壊してしまったのが実態である。
     今、まさに、明治以来の日本権力が倒壊する現実を、我々は目撃しているわけだが、その本質にあっては、江戸幕府の倒壊と何一つ変わらないものであることを認識する必要がある。
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    (4) 徳川時代は、人の心を矮小化することで統治した。 人の心が、どの程度解放され、活性化されていたか? それは時代の芸術作品に忠実に反映している。
     戦国の大争乱のなかで生まれた安土桃山時代の芸術文化は、まさにルネサンス、世界的にも人類最高峰に至ったものが多い。例えば茶道・織部・加納派絵画・水墨画・安土城・伏見城、京都の代表的な建築文化は、ほとんど、この時代に創り出されたものだ。だが、江戸時代、家康統治が始まってから、芸術文化は俄に活気を失い、その芸術的質も劇的に下落した。
     職人の精緻な工芸が廃れたわけではないが、戦国時代の雄大で開放的なロマンは、すでに見られない。人類最高峰の織部焼は幕命で廃棄処分にされ、芸能も失われた。
     人々は、体制に奉仕するためだけの人生を強要され、家畜としての一生に満足するよう、臆病で矮小姑息な人間性に貶められたのである。このために、解放された伸びやかな人間性を必要とする芸術・芸能をも矮小化していった。
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     徳川政治の本質は、人々の自由な主体性を奪い、豊かな心を奪い、いつでも権力に怯え、互いに監視しあって足を引っ張り合い、臆病者に貶めることであった。
     このため、人間に対して、「してはならない」 「御法度」をこれでもかと大量に作り出し、苛酷な刑罰をもって、はみ出し者を規制するシステムがとられた。
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     筆者が、今回、「警察国家への道」と題して、この文章を書いている理由は、表向き自民党から民主党政権に権力転換が起きても、国家が民衆を法によって苛酷に規制し、その思想と人生をがんじがらめに束縛する姿勢が変わっていないからである。
     為政者は国家体制のために国民を家畜として利用するという基本的な理念を一つも放棄していない。この国家体制を本当に支配し、そこに強固な利権を構築している輩の正体は、実に、資本主義を構築したフリーメーソンにつながる資本家たちである。
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     それは、表舞台には決して出てこない奥の院に鎮座してきた大金持ちたちと、それを参拝し飼犬として使役される政治家・官僚たちから成立している。
     その思想は、ユダヤ金融資本と何一つ変わらない。自分たちが国家システムを利用して特権階級として君臨する。大衆は特権階級に奉仕するためのゴイム(家畜)にすぎない。
     家畜を利用するために、その競争・闘争本能を利用して、人生の価値が他人を出し抜いて特権を得ることであると洗脳し、互いに争わせることで、権力を、その調停者として君臨させ続けるというやり方である。
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     この本質が、民主党政権に変わっても、ほとんど一つも変わっていない事情を明らかにし、今のやり方が、家康と同じように、大衆を臆病な家畜に仕立て、相互監視で矮小な人生を送らせる目的になることを明らかにしてゆきたい。

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     日本は「先進国」だ。だが、どのような理由で先進国になったのか? きちんと説明できる人は少ない。
     筆者は、日本も含めて世界の「先進国」である欧米日が、そうなった理由を探してみて、結局のところ、これらの国家が共通して「競争原理」を適用してきた思想性を持っていることに気づいた。
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     先に述べたように、「競争原理」こそ、進歩発展のメカニズムである。
     これを信奉する国家では、国民は生まれてから死ぬまで、あらゆる競争に晒され、優れたものに憧れるように教育洗脳されることになる。他人を出し抜いた者がエライのだと・・・。
     人を出し抜いて勝者となり、競争社会からオチコボレた者を馬鹿にして排除し、秀でていると他人から評価されることを目指して邁進するという価値観を共有することで、そうした国家群が地球上で強い利権を確保する支配的勢力となったのは当然のことだ。
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     だが、忘れてはいけない・・・・こうした「競争原理社会」では、「優れたもの」を獲得したと同時に、必ず対極に「劣ったもの、悲惨なもの」までも副産物として作り出すことになるのだ。
     「世界一」の称号を得るために、「アンタはエライよ」と言われたいために、それと引き換えに失うものが必ず存在することを忘れてはいけない。大いなる豊かさを求めるなら、それは同時に大いなる貧しさをも産み出す。
     それゆえ、「先進社会」にあっては、素晴らしく恵まれた特権階級の「豊かな暮らし」が成立する反面、彼らが侮蔑てきた「後進社会」には決して存在しない、悲惨な貧困階層と人間疎外を産み出すことも避けられないのだ。
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     「先進社会」を動かす基本法則は弱肉強食、淘汰の原理であり、優越的支配層は豊かで恵まれた生活を謳歌する反面、底辺の大衆は家畜として彼らに奉仕するために飼育・使役される運命をもたらすのである。
     特権階級への奉仕さえできないオチコボレ大衆は、苛酷で悲惨な境遇に追いやられ、淘汰排除される残酷な国家システムが成立することになる。
     例えば、ヒトラーが提唱した優生保護思想、すなわち劣った人たちを「遺伝的悪」と決めつけて排除抹殺する思想は、こうした「先進社会」の避けがたい属性であって、特権者が敬われ、もてはやされる風潮の反作用として、必ず社会的蔑視の末に抹殺するシステムが成立するようになる。
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     日本では、ライ病者や遺伝障害者がそうであって、彼らの子供たちが、これまで、権力によって、どれほど強制的に抹殺処分されてきたか、その実態を知ったなら読者は驚愕するにちがいない。
     またホームレスや犯罪者、障害者、働けなくなった老人たちを援助しようとする暖かい思想など先進的行政には存在しない。あるのは陳腐な見せかけ、言い逃れの正当化だけであって、その実態は「臭いモノにフタ」、そして放置・餓死・病死・自殺を期待する人情のカケラもない侮蔑的政策に他ならなかった。
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     我々は、21世紀を迎えても、いまだに一向に改善しない、こうした「先進国行政」の愚劣さ、非人間性、「人間疎外」の理由を突き止めなければならない。
     「いったい、何が間違っていたのだ!」
     資本主義の下で、「自分さえよければよい」という利己主義に導かれて、この社会は発展したが、いまや、それは金融資本の強欲とともに歴史的破綻を起こしたのだ。
     もはや競争原理をもてはやす社会は完全に破滅しているのだ。もうすぐ、競争原理信奉者たちが最期にすがってきた御神体である紙幣は、紙屑になる運命だ。
     そうなって、右往左往しながら地獄を彷徨う前に、子供たちの未来は、どんな思想性をもって切り開くべきなのか、はっきりと理解する必要がある。
     「競争による進化」をもたらした愚かな思想とは、いったい何だったのか? いったい、どこから来たのか? はっきりと見抜くことができなければ、子供たちの明るい未来など作りようがないのだ。
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     筆者は、若い頃から、すでに40年以上も、こうした間違った社会の本質を見極めようとしてきた。そうして、ある一つの結論にたどり着くことになった。
     この社会を根底から破壊している利己主義や競争原理を、歴史や民族の移動から調べてゆくと、たった一つの思想教典に導かれることが分かった。その正体とは「旧約聖書」であった。
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     中世から近世、現代へ、地球上で大規模な発展成長を遂げた最初の国家群は、古代エジプト・ギリシア・ローマ帝国を引き継いだハプスブルグ王朝から欧州資本主義国家群だ。
     昨年、リスボン条約によって、EUが統一的な欧州合衆国政府を成立させたのも、その根底には、欧州特権階級の人々に古い統一国家、ローマ帝国・ハプスブルグ王朝に対する憧憬があったからだろう。
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     こうした国家群の再編成統一が、単に経済利権だけで行われるはずはなく、歴史的経緯からのアイデンティティが存在しなければ絶対に不可能だ。この意味で、EUはローマ帝国の再来であると断言してもよい。
     フリーメーソン・イルミナティと呼ばれる、世界のエスタブリッシュメント、超上流階級の大金持ちたちも、結局のところ、こうした「スグレモノへの憧れ」に突き動かされ、最終的には世界規模の統一政府、大ローマ帝国の再建を夢見ているにちがいない。
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     かつて世界の先進地だった欧州に、カトリックに敵対したプロテスタントが登場し、ピューリタンと呼ばれた彼らがアメリカ大陸に渡り、合衆国を建設した。
     もちろんアメリカも欧州とのアイデンティティを共有しており、その基盤はキリスト教であった。故に、欧米は一体的な「先進社会」である。
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     旧約聖書を基礎教典とするのは「世界三大宗教」であるユダヤ教・イスラム教・キリスト教だが、実は欧米におけるカトリックも、そしてプロテスタントも、その本質において、実は決してキリスト教とはいえずユダヤ教に近いものなのだ。
     その証拠に、カトリックはキリスト教といわれながら、実際には、新約聖書を引用することは少なく、ほとんどの教義は旧約聖書に基づいている。
     現在、欧米で性道徳に対する苛酷な倫理規制が進み、性や麻薬を含めて、僅かな人間の過ちを信じられないほど苛酷な刑罰で規制する法の仕組みが実現している。
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     アメリカでは麻薬を三回摘発されれば終身刑、万引きや売春の微罪で三回起訴されても終身刑だ。
     イエスは、人を苛酷な刑罰で規制せよなどと一言も言っていないが、これらの刑罰苛酷化による警察支配を進めてきたのはキリスト教勢力(共和党)なのだ。
     この思想はイエスの教えによる新約ではなく、人々を苛酷な刑罰によって従わせるように定めた旧約の教えによるものであって、したがって、欧米のキリスト教は、新しい契約を示したイエスではなく、旧約聖書を実現するユダヤ教と同じ本質を持っていることに気づく必要がある。
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     欧米のキリスト教は、イエスの思想と全く別のものと断言してもよい。イエスは生涯、一度も他人を殺せ、異教徒を排除せよ、キリスト教会に参拝せよなどと言ったことはない。
     ところが欧米キリスト教の歴史は、殺戮教と言ってもよいほど残酷な大虐殺に満ちている。中世カトリックは、十字軍遠征によってイスラム教徒数千万人を虐殺し、さらに魔女狩り摘発により数百万人の罪なき人々を残酷に殺害して回った。プロテスタントも負けていない。ルター・カルビンの凄まじい大虐殺は歴史に名を残した虐殺魔たちの所業にランキング入りしている。
     日本に落とした原爆も、ベトナム戦争の枯葉剤やナパーム弾も、キリスト教の教えに基づいて行われた。
     つまり、キリスト教は断じてイエスの思想ではなく、まさに旧約聖書倫理をキリストの名において強要するユダヤ教に他ならなかったのである。
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     旧約聖書は、まず女性を差別し、男のための家畜として利用する思想であって、奴隷を容認し、人に差別を持ちこみ増幅させる思想であった。
     そこから、「神に選ばれた」傲慢な選民意識に満ちたユダヤ教が発生し、競争原理と社会の進歩発展を進めていったわけだ。
     我々は、およそ世界の「先進技術」、電気からコンピュータや原子力の大部分、数学・物理化学の基礎理論の大部分がユダヤ教徒によって発見され利用されてきたことを知っている。
     その理由は、彼らが人を競争させ、差別し、利用し、追いつめたからなのだ。
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     ところが、同じ旧約聖書を聖典とするイスラム教にあっては、ユダヤ・キリスト教ほどの競争原理は持ち込まれなかった。
     基本的に、自然環境の苛酷な砂漠の民に持ち込まれた旧約聖書は、家父長社会を維持することに役だっても、競争原理を持ち込んでも、助け合いの思想なくしては生き延びる条件がなかったからだろう。
     イスラムはユダヤ教のタルムードのような選民主義に向かわず、苛酷な自然のなかで互いに助け合い、支え合う思想として利用するにとどまったのである。
     したがって、競争のないイスラムは「先進社会」にならなかった・
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     それでは、欧米とならんで「先進社会」を築いた日本ではどうだったのか?
     日本における思想的規範となったのは「神道」と「仏教」だが、仏教は1500年ほど前、秦氏によって朝鮮から持ち込まれたとき、すでに神道と習合していた。
     日本における仏教界は、基本的に、中国の形式が持ち込まれたものだったが、それは、すでに道教との習合だったと言えるだろう。
     むしろ、過去1500年間、日本における思想的規範をリードしてきたのは、神道思想である。
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     神道とは何か?
     それは、まさしく旧約聖書の体現であり、ユダヤ教の日本版と断言してもよい。その証拠、神道の公式マークであるカゴメ紋こそ、ユダヤ教のマークである「ダビデの星」 六芒星であることに端的に象徴されている。
     これまでも、これからも、神道とユダヤ教が同じものであることを機会を捉えて証明してゆきたいと考えているが、具体的な証拠は、あまりに多すぎるので、別の機会に譲ろう。
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     その核心的エッセンスは、神道も女性差別を原理とした、差別の重層的社会を構築することを目的としていることだ。
     神道思想に導かれた日本社会も、またローマ帝国以来の欧州と同じように競争原理に支配された社会であり、みんなが助け合って平等な社会を作るのではなく、選ばれた特権階級というゴールがあって、人々は、そこを目指して競争する仕組みが成立してきたということだ。
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     日本社会にあっては、「スグレ主義」が人々の価値観を支配し続けてきた。
     人は「優れたモノ」目指して、全身全霊で突き進んでいかねばならないとされた。
     みんな同じように、特権階級のゴール目指して全力でかけっこをするように強要され、オチコボレは馬鹿にされ、排除され、ときに殺害されてきたのである。
     こうした価値観は、今や、50年前よりも、はるかに激しいものになっていて、若者たちの選民への憧れは強烈で、逆に、弱者オチコボレに対する蔑視、排除も苛酷さを増している。
     まさに、旧約の競争原理、選民思想が日本社会にあって究極の結実をなしているといわねばならない。
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     人が、自分自身を見つめ、人を愛し、無理なくゆっくりと歩むことを許さない社会、家畜のように管理され、追い立てられ、息を切らして倒れたなら、後ろから殴り倒され、屠殺場に投げ捨てられる社会がやってきた。
     まさに、旧約聖書の理想が実現し、社会は究極の利己主義社会となっているのだ。

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     侵入したハクビシンに襲われたニワトリが瀕死の状態になった。
     すると、仲間から突つかれたり、羽毛を抜かれたりして攻撃されたので、別のケージに移して回復させることにした。二ヶ月後、完全回復を見計らって元の飼育場に戻したところ、仲間たちから再び激しい攻撃に遭った。
     とりあえず落ち着いたものの、現在でも絶えず追い立てられ、エサを食べようとしても攻撃され、片隅で寂しく生きている。元は立派なボスだったのだが・・・・。
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     ニワトリは弱肉強食で、例え実の兄弟だろうと、親しい仲間だろうと、一度、病気や怪我で力を失うと、群れ社会から袋だたきに遭い、ときには殺されてしまう。
     ニワトリの直系先祖は、かつて地上の王だった恐竜、チラノザウルスだ。哀れチラノの末裔は、人間様の家畜として、また良き友として今日に至るわけだが、その見境のない闘争本能の凄まじさに太古の残映をかいま見ることができる。
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     ニワトリ社会にあっては、まずは己の利権を確立するために、激しくも徹底的な序列付け闘争を行い、優位の個体は、劣位の個体をいじめ抜き、エサも水も与えず、ときに殺してしまうことさえある。
     エサが余ったときだけ劣位個体はオコボレを食べることが許されるが、夜間、一番最初に襲われる可能性の高い危険な場所に追いやられるのだ。
     こうしてみると、「死の商人」ユダヤ金融資本の利権のために、愛国心教育で洗脳され戦場に送り込まれる哀れなアメリカ青年たちの運命が思い浮かぶのだ。
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     ニワトリ社会に鶏情はカケラもなさそうだ。そこでは優位を残し、劣位を淘汰するという原理が非情に貫かれている。そこでニワトリたちは、毎日、利己的な餌の奪い合い、順序付け合戦に明け暮れることになる。まさに実に人間的な利己主義社会を体現しているではないか!
     人間社会は、こんな肉食恐竜の末裔、ニワトリ社会から比べて、いったいどれほど進化したのだろう?
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     この数年、人類規模で起きている金融危機の始末を見ている限り、我々はニワトリだった時代から、その本質において、些かの進歩もないのではないか?・・・と悲しくなるときさえある。
     まさに我々の社会は、ニワトリ並みの利己主義社会なのだ! 人情のカケラでもあったなら、どうして世界中の貧しい人たちが石油や食料の暴騰に苦しむような残酷な投機ができるだろう?
     ゴールドマンサックスらユダヤ投機集団のやっていることは、アメリカ政府に財務長官を送り込み、自分たちに都合よく公的資金を引き出し、失敗のツケを国民負担に押しつけているだけだ。それどころか、テロをでっちあげて危機感を煽り、若者たちの命を金儲けのために弄び、戦場に送り込んで、莫大な利権を掠め取っているのだ。
     世界中の人々が苦しむのに目もくれず、石油や食料を買い占め、値をつり上げ、社員は数千億円という給料ボーナスをかすめ取ってゆく。まさに、これほどの凄まじい利己主義を実現してみせた強欲組織は、人類史上かつてなかったといえよう。
     もし、地上に本当の悪魔がいるとすれば、それはゴールドマンサックスやJPモルガンなどユダヤ金融資本のことではないか?
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     筆者はこれまで、こうした利己主義を生みだしたメカニズムは「競争」だと指摘してきた。
     我々は、生まれたそのときから競争に追い立てられ、「他人より秀でよ、成績を上げよ、社会的評価を求めよ、覇権を求めよ、蓄財せよ」 と息つく間もなく鞭打たれ、走り続けさせられてきた。立ち止まれば、そこでは自殺の運命しか許されない社会だった。
     「末は博士か大臣か」・・・「人を出し抜くことこそ正義」と幼いうちから洗脳させられ続け、競争を正当化させられてきた。
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     競争を正当化する理屈とはなんだったのだろう?
     それは、人には、というより生物にはプログラムされた「競争・闘争本能」があり、自然には劣位種(オチコボレ)を競争によって淘汰する原理が働いているというわけだ。
     競争によって、人々は知恵と認識を深化させ、次々と合理的なものを産み出し、社会を進化させてゆくというメカニズムが語られてきた。確かに、そうした一面は否定できない。
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     だが、他方で、競争は人々に非情な淘汰排除を正当化させ、優越志向をもたらし、ヒトラーの提唱した優生保護思想をも正当化してきた。
     社会に役立たない、障害者やライ・結核患者など弱者を抹殺せよ・・・と、日本でもライ患者の生んだ子を取り上げて殺害することが平然と行われてきた。ヒトラーは、ドイツの障害者を30万人以上、ガス室で抹殺したといわれる。(T4作戦)
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    こんな思想の行き着く先は、「そして誰もいなくなった・・・」というオチでしかない。優れた者だけが生き残るとすれば、最期には誰もいなくなるのである。
     そんなことも気づかず、人々は競争に勝つ「優れたもの」に憧れ、いわば「スグレ主義」というべき観念的偏執を産み出し、他人を蹴落として自分だけが優位に立つ弱肉強食の、残酷な社会を作り出してゆくことになる。
     上流階級に集う経営者たちが、労働者を苛酷に扱い、血の一滴まで絞りに絞って合理化し、大衆を宣伝で騙して必要のないものまで買わせ、自分の会社を行き着くところまで拡大して「一番」になりたがるのも、こうした「スグレ主義」あるいは優越特権志向の産物であろう。
     こんな思想がもてはやされる社会では、やがて、かつてナチスや日本軍統制派がやった劣等民族大殺戮処分の思想が復活するにちがいない。
     それでも、あなたは優れたものが欲しいか? 劣ったものを処分したいのか? 競争原理を信奉したいのか?
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     実は、ユダヤ金融資本が、あれほど傲慢で強欲な世界資産の独り占めを行っている理由も、彼らの教科書であるタルムードという教典の教義を実行しているからだ。
     タルムードには、世界は最高エリートであるユダヤ人のためにあり、ユダヤ以外の人々は、ユダヤに奉仕するためのゴイム(家畜)であると明確に記されていて、ゴイムの命や財産をユダヤのために勝手に使っても構わないとまで書かれている。
     その理由は、彼らユダヤ教徒が神に選ばれた民であり、「優れているからだ」というわけだ。
     こんな思想こそ、競争と進化を金科玉条にした人たちの行き着く先なのだ。だから、世界のスグレ主義、人類の進歩の歴史は、ユダヤ人を中心に行われてきた。
     人類の先進技術のほとんど、核に至るまで、進化だけを目指したユダヤ教徒たちの尽力によるものといっても過言ではない。
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     もし人が競争しなくなったなら?
     その人間的成長も、社会的進化も、恐ろしいほどスピードが落ちて、自然の脅威や社会的問題を解決する能力すら失ってゆくかもしれない。
     いわゆる先進社会は消えて、ニューギニアやアマゾンの奥地に暮らす先住民のような生活を連綿と続けることになるかもしれない。
     だが、その何が悪いのか? という視点も見失わないようにしよう。ロボットが生産し、あらゆる生活が自動化されるオートマチック社会が、はたして人間に本当の幸せをもたらしているのか? もう一度、よく考えるべきだろう。
     筆者は、ニューギニアの山々に裸で暮らす人たちに憧れる口だが・・・。
    .
     子供たちは競争のなかで成長を見いだしてゆく。人類史においても、「競争とは進化の属性である」という理解も決して間違っていないだろう。
     競争は諸刃の剣であった。それは人類に優れた技術をもたらしたとともに、世界を支配する独裁者と、ゴイムとして使役される哀れな大衆の二極社会をもたらすことになった。
     物質的な豊かさと引き替えに、心の貧困を招いたとも言えよう。ごく少数の幸福な特権階級と、大多数の貧しい悲惨な家畜人類を作り出すことになった。
    .
     生命は競争と淘汰の苛酷な宿命を背負わされている。であるとするなら、人類に利権競争と弱者淘汰の宿命はやむをえないことなのか?
     いや、そうではない。それをもって人を究極に差別する利己主義社会を正当化することなどできないのだ。
     なぜなら、ニワトリよりも進化した高等動物たちのなかには、はるかに利他的な助け合い社会を構築してきた種もたくさんいるからであって、例えば、オオカミや類人猿の群れでは、鮮明な利他主義に貫かれているものもあるからだ。
     一番進化しているはずの人類だけが、古代恐竜なみの利己主義に退化してしまっているのは、いったい、どういうわけなのだ?
    .
     我々は、競争・闘争本能が社会をどのように支えているのか? 競争原理とは何か? そして、それが社会をどのように破壊しているのか? その両面を見て、本当に人類の未来に必要な思想とは何であるのか? しっかりと考えておく必要があるだろう。
    .
     我々は、人を成長させ、人類を進化させてきた「競争」というメカニズムをどのように位置づけ、利用し、そうして「人情味溢れた持続可能な社会」を、どのように構築していったらよいのか? はっきりとした理解をしておかないと、再びヒトラーの亡霊を呼び覚ますことにもなりかねない。
     今、ゴールドマンらユダヤ資本のやっていることは、ヒトラーの世界統一支配を経済面で行っているに他ならないからだ。
     このままゆけば、ユダヤ金融資本は、タルムードに書かれている通りの社会を、彼らの宗教的理念に従って実現してゆくことになる。
     競争原理を絶対視し、人類に無数の階段序列を設け、最高位に位置するユダヤ教徒が、大多数の民衆をゴイム(家畜)として利用する社会がやってくる。
    .
     そんな統一支配の武器がコンピュータであって、すべての人民に18桁の背番号を設定し、巨大なコンピュータで、生まれてから死ぬまで家畜として管理し、利用する社会なのだ。
     我々は、こうした恐るべき悪魔の目論見に対し、明確にノーを突きつけるときがやってきた。
    .
     競争原理は利己主義しか生まない。競争と進化だけが人生のすべてではない! 我々は競争から解放されて、のびのびと自分の足で大地を踏みしめ、誰からも追い立てられず、自分の意志で歩みたいと。
     そうして、他人を淘汰して自分が特権を得たいわけではなく、みんなが楽しく過ごせる社会、差別のない、明るい楽しい社会が欲しいんだ! ・・・と、大声を上げる日がやってきた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     

    aho
     利己主義から利他主義へ その8 子供たちの未来こそ

     「みんなが利己主義に走れば、結局、社会も人生も滅ぼしてしまう」という真理は、誰にでも分かる、恐ろしいほどに簡単な原理だ。
     みんなが自分のことしか考えなくなれば、協調で作り出されている社会なんか、あっというまに壊れてしまう・・・こんなことを分からない人がいるのか?

     それなのに、我々が生きている、この社会は、自分の利益しか考えない利己主義に完全に呑み込まれてしまい、すでに取り返しのつかないほど根底から崩壊してしまっているのだ。
     小金の余った老人やOL、主婦まで、みんなが金儲けを狙ってゼロサム(誰かが儲かれば、誰かが必ず損をする)の投機ゲームに夢中になり、儲かるファンドに投資し、ファンドがますますボロ儲けを狙って、石油や穀物を買い占めてガソリンや灯油、トウモロコシが暴騰した。それは今も続いている。

     おかげで、貧しい人たちは厳冬に暖房もつけられず、老人たちの寿命が大きく縮まっている。貧しい家庭の子供たちが、暖房も食事もまともに取れなくて寒い辛い思いをしている。
     飢えて倒れた人をまたいで歩く人々、今日のオカズも買えない人たちの脇を、投機で儲けた人の豪華なベンツが猛スピードで走り去ってゆく。
     こんな社会にしたのは、いったい誰なのか? 何なのか? 分からないとは言わせない・・・・。

     こんな強欲人間ばかりが世界を席巻してしまった。だから、世界経済は巨大な借金に押し潰されて崩壊している。もう取り返しがつかない・・・。
     今、見せかけだけ景気が回復しているように見えるが、実際には、この景気は政府が国債を信じられないほど増刷し、紙幣を印刷しまくって、株を無理矢理買い支え、ツケを子供たちの未来に回しているだけじゃないか・・・もちろん、こんなインチキ対策のメッキが剥がれるまで時間はかからない。
     我々は、やがて、911のツインタワーに閉じこめられた人たちのように、凄まじい崩壊地獄に直面することになるだろう。それは、たぶん前触れもなく、突然やってくる・・・。

     「利己主義じゃ、ダメなんだよ・・・」
     欲望に汚染されない子供たちにとっては、ありふれた人間関係から、毎日のように思い知らされる、あたりまえの真理であって、分からない方がどうかしている。
     それなのに、どうしても分からない人がいる。それは、分かると困ることがあるのだ。真実を見つめたくない人が、当たり前の真実に、最期まで気づこうとしない。
     金儲けだけが人生の目的だと信じている人に、「それは愚かな間違いだ、大切なことは物質の豊かさでなく、心の豊かさだよ」と繰り返し諭しても、決して聞き入れることはない。
     あたりまえのことも見えないのだ。みんなが、やっているからだ。周囲しか見えないからだ。牧童に追われる羊たちのように、立ち止まることもなく、追従だけに生きているからだ。我先に進む競争に夢中になっているからだ。
     そうだ我々は、家畜のように飼い慣らされている。競争社会のなかで、それ以外のものが見えないように洗脳され続けている。

     【アンデルセン童話 「裸の王様」より:
     新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。
     王様は大喜びで注文する。
     仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。
     家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。
     見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついにみなが「王様は裸だ」と叫ぶなか王様一行はただただパレードを続けた。】

     誰の目にも、王様が裸に見える。しかし、裸に見える人は「馬鹿」だという噂が飛び交っている・・・だが、王様は裸だ。自分は馬鹿かもしれない・・・「自分が馬鹿だなんて・・・ウソー・・・」 内緒にしようね・・・。
     目に貼り付いた厚い鱗のおかげで、誰もが目の前にある、ありふれた真実を直視できないのだ。
     あなたの目に貼り付いた鱗は何でできてる? それは、自分だけがトクをしたいという強欲ではないのか? その鱗のおかげで、真実が見えない。だから、王様が裸だと言えないんだよ。

     なぜ、あなたは強欲になってしまったのか?
     それは、たぶん競争社会に置いてけぼりにされる恐怖心、カネ持ちや権力者、エライ人へのコンプレックスからだろう。
     「自分はオチコボレでないんだ」
     と安心して、オチコボレになる恐怖心から逃れたいんだろ? オチコボレがひどい目に遭わされるのを見せつけられてきたからな。あなたは、エライ人にならなければ人生の勝者になれないと信じ、脇目もふらずにひた走ってきた。
     あなたは競争社会に煽られ、焦り、そして必死になって追従し、それゆえに、あなたの目には厚い鱗がこびりついてしまったのだ。

     「みんなと同じでいたい」 つまり「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
     の人生を送ってきた。
     だけど、たまにはオチコボレになる恐怖や出世・蓄財の競争を忘れて立ち止まり、よく考えてごらん。
     あなたの目指す、人生の勝者なんて、いったいどこにいるんだい?
     みんなが羨む、素晴らしい人物なんて、いったい、どこにいるんだい?
     よーく確かめてみな。大統領も天皇も法王も、タダのアホばかりじゃないか?

     筆者は、半世紀を超える人生のなかで、これまで、本当に完璧な人など一度も見たことがない。すべての人に、さまざまな間違いがあり、ウソがあった。
     「馬鹿」でない人など、一人もいるものか・・・釈迦だってキリストだって馬鹿だよ。馬鹿でなければ、キリストの名で人類最大の殺戮なんか起きるはずがない。釈迦だって、ただの、「エエとこのボンボン」じゃないか。
     偉大なソロモン王が、部下の女房を寝取ったことを隠したさに部下を戦場で殺させたのは有名な話だ。ムハンマド(モハメッド)や孔子なんて、もっとひどいぞ。
     ムハンマドは9歳の少女を妻にして強姦した。だからイスラムでは児童性犯罪が日常化している。女性を奴隷化して、どれほど虐殺させたか見当もつかない。
     孔子も凄まじい。女房を奴隷のようにこき使って何度も逃げられた。孔子がいなければ、中国や北朝鮮の傲慢な権力犯罪など生まれなかったかもしれない。孔子こそ、見えない裸の王様の服を、見えると言い張った真のウソツキだ。
     今、世界の聖人の頂点に立っていたはずのローマ法王が、性職者たちの児童性的虐待を隠蔽してきたことが暴露され、世界中から糾弾されてるじゃないか。
     偉人・聖人なんていってみたって、この程度なんだよ。

     もちろんのこと、日本のエライさんたちも負けてないぞ。
     「日本をお作りになった、ありがたい天皇様」の正体は、朝鮮人渡来者の一人にすぎない。元をただせば、中央アジア(キルギス)からやってきた人たちだよ。
     池田大作だ、大川隆法だなんてのは、もう書くのもウンザリだ。メシがまずくなるから、やめておこう。
     このブログを書いてきたら、我ながら、どうみても馬鹿丸出しの筆者を「先生」と呼ぶ者まで現れた。筆者は、地球上のどこへ出しても恥ずかしくない(いや恥ずかしい)立派なアホの一人だが・・・(ΘoΘ;)

     筆者は、何度も書いてきた。
     「地球は苦悩の惑星だ。地球にはアホしかいない。アホだから地球に生まれてきた」
     と、つまり、我々の生きている、この人間社会に、完全な人など皆無。全員が地球だけの、ある特別な事情でアホに生まれているんだ。それを認めたくないから、裸の王様の服が見えるとウソを信じてしまうわけだ。
     「自分はアホではない!」
     と信じたい。だから詐欺師に騙される。騙されたくないなら、自分を直視せよ。自分のアホさ加減、馬鹿さ加減を思い知ったらどうだい?
     自分の利己主義が、社会をどれほど破壊してきたか、いいかげんに直視したら、どうなんだい?

     人間なんてアホでいいんだよ・・・・。。。(〃_ _)σ?
     人の一生は、生まれて育ち、生きて、育てて、死んでゆく。それだけじゃないか?
     「人間、立って半畳、寝て一畳」
     人生には、それだけしか必要ないんだよ。人類を数百回も滅ぼす核兵器が、どうして必要なんだい。どうして世界一の称号が欲しいんだい? どうして人様から羨まれる必要なんかあるんだい?

     誰からも認められなくとも、自分の心のなかで、子供たちの明るい未来のために、人様の幸せのために働いているという自己満足があれば十分じゃないか。
     人生、タダのアホで十分だ。大切なのは、自分の心だよ。他人の評価じゃない。自分が悔いなく生きること。それだけが人生の真の目的なんだ。
     そして、「悔いなき人生」とは、子供たちの素晴らしい未来に奉仕することだ。
     これが「利他主義」というものだ。

     我々は全員、一人残らずアホなんだ。特別な人など一人もいない。釈迦もキリストも、皇帝も、天皇も、法王も、モーゼもアホだった。もちろんオイラも・・・。
     自分がアホだという真理を自覚した、その瞬間、我々は、アホでない正しい道を歩むことになるだろう。
     それが利他主義だと筆者は書き続けてきた。

     自分もアホなんだから、他人をアホと馬鹿にするな。「間違いをしでかしたアホは死ね!」と制裁し処刑するようなアホなことはやめておけ!
     と、始めて言えるようになるわけだ。

     「利他主義」を目指す我らは「他」のために人生を捧げる。「他」とは何か?
     一番大切なそれは、子供たちの明るい未来だろう。
     子供たちが、健やかな明るい人生を楽しめるように、我々は人生を捧げる。なぜなら、我々自身が、祖先・先人の努力、子供たちの未来を大切にしようとした利他主義によって、この人生を支えられたからだ。
     誰からも評価される必要はない。タダのアホな人生で十分だ。だけど、子供たちの明るい未来を支えるために人生を費やしてきた。
     この利他主義の満足だけで、どんなエライ、立派な人よりも、素晴らしい人生を送ったと納得できるんじゃないかい?


    huri 利己主義から利他主義へ その7

     人々が利己主義だけを求めて行動するようになれば、たちまち社会が根底から崩壊すると、筆者は繰り返し主張してきた。
     逆に、みんなが他人の喜び、笑顔を愛し、その利益に奉仕し、社会全体が良くなるように願って行動すれば、たちまち素晴らしい天国に変わるのは当然だ。

     人間の生活が紡ぎ出す史観から見れば、これまでの人類歴史は、利己主義を求める勢力と利他主義を求める勢力の争いであったと言える。すなわち、人を家畜のように利用して自分だけが利益を独占したい権力者たちと、みんなで平等に助け合って生き抜こうとする名もなき利他主義者たちとの争いの歴史であった。

     歴史を記録するのは権力である。利他主義者たちは、自己顕示欲の強い権力者のように自分を飾って記録する必要はなかったから、その人生も思想も時の彼方に埋もれてしまっている。だが、それは何気ない生活習慣・民俗のなかに深く密かに息づいているのだ。
     人々の生活を支えてきた機織機や脱穀機、鍬や刃物や農産品種、田畑の作り方、衣類や家の構造などに、それが息づいている。(筆者は、いつか、こうした民俗道具のなかに息づく利他思想を明らかにしてみたい)

     権力が自分に都合良く書き換えた記録ではなく、真の生活進化歴史を知るためには、こうした民俗学の立場で、利他主義者たちの紡いだ歴史を知ることが大切である。今の学問は権力に奉仕するためのものだから、利他思想の歴史を教えることはない。したがって、それは自分で探し、見抜くしかない。

     「後世に自分を残したい」と考えるのは権力の大好きな利己主義者だ。利他主義者にとっては、今、目の前にいる他人の幸せだけが問題なのであって、自分のことなどどうでもよいわけだから、残す必要もない。
     だから歴史は権力史であり、利己主義者のものであることを見抜いておく必要がある。真の歴史は、歴史教科書のなかには存在しない。
     それは、あなたの着ている服、あなたの食べ物、あなたの家、あなたの机、あなたの生活を支えるすべての知恵と工夫の、進化のなかに息づいている。
     それは人の愛の歴史、成果なのだ。それを見いだすことこそ、失われた真の学問なのである。それは辛うじて民俗学(文化人類学)のなかに存在している。我々は、この生活の学問を大切にしなければならない。

     国家権力の大好きな利己主義者たちは、利他主義が生みだした成果を横取りして自分のために利用し、増殖させてきた。利他主義者たちは、見かけの上で、いつでも敗者であり、いいようにあしらわれてきたように見える。
     これまでのところ、どうやら利己主義側が完全勝利を収め、利他思想を滅ぼそうとしているように見える。
     しかし、それは上辺のことであって、真実は一人一人の心のなかにある。人は利他主義によって誕生し、支えられ、未来を紡ぎ出してゆくのである。その証拠に、我々の生活を高いところから見渡してごらん。利己主義者によるもの、国家権力による成果など、どこに見えるのか?
     今、我々の生活を支えている、すべての技術、物資は誰が開発し、作り、利用しているのか、よく考えてごらん。それは利己主義から生まれたものではない。
     人類が利他主義を見失ったなら、滅亡以外の道は残されていないのだ。なぜなら、利他主義だけが人々の成長と暮らしを支えているからだ。 

     人類史における利己主義の歴史を見てみよう。その正体は、記録された歴史とは、まったく異なる姿であることに驚かされるだろう。人類に利己主義をもたらした一番の犯人は誰か?
     私有財産なのか? 家族制度なのか? 国家権力なのか?
     いや、それらの背後にあって、決して姿を見せない、はるかに恐ろしいイデオロギーであった。

     それは、見かけだけ神のように威厳があり、慈愛に満ちた宗教思想である。だが、その正体は、人が人をカネで支配する社会を作ったユダヤ教徒の思想である。
     というより、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の原型となった教義、「旧約聖書」(旧約の意味は、神との旧い契約)である。
     旧約聖書こそは、女性を男性の奴隷・家畜として利用する社会システムを人類に与えたものだ。それは数十万年にわたる原始共産社会、母系氏族社会が破壊され、男系氏族社会、家父長社会が成立し、それを正当化し洗脳するための教書であった。

     創世記から
    【…女に向かって言った。私はお前の産みの苦しみを大いに増す。お前は苦しんで子を産む。それでもお前は男を求め、男はお前を支配する。それから神は最後にアダムに言った。お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、大地は呪われるものとなった。お前は生涯、苦しんで地から食物を取る。大地はお前に対して、いばらとあざみを生えさせ、お前は、顔に汗してパンを食べ、ついに土にかえる。人は塵だから塵に帰る。アダムは女をエバ(命)と名づけた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。】

     旧約は、女を男に奉仕するための奴隷と位置づけ、家父長の権力と財産を、その子に相続させるため、女性の性を苛酷に規制してきたのだ。それは母系社会を否定し、男系社会を正当化するために登場した。
     女性が愛に導かれて定められた男以外に体を開けば、それだけで残酷に殺害される掟であった。これは女性を男性の奴隷として利用するための思想なのだ。
     旧約こそ、女性を根源的に差別する最初のイデオロギーであり、世界のすべての差別が、ここから始まったのである。

     ノアの子、セムの子孫たちは、シナイ半島からチグリス・ユーフラテス河畔に定着し、やがて、旧約聖書を共有し、ユダヤ教を成立させた。
     分けても、タルムードという教義は、自分たちが「神に選ばれた特権階級」であって、他のすべての人々は、自分たちに奉仕する家畜(ゴイム)であると決めつけるものだった。
     それは、最初の根源的差別である「女性差別」が成立した後に、必然的に派生する思想であった。差別は際限もなく勝手に増殖し、新たな差別と苦悩を次々に産み出すのである。

     中東で繁栄したユダヤ教徒のなかで、やがて、「旧約は間違っている」と、一人の男が民に語り始め、新しい契約を示した。
     これがナザレのイエスだ。だが、ユダヤ教徒、分けても「マムシの子ら」とイエスが憎んだパリサイ人は、自分たちの利権を壊されることを恐れて、イエスを激しく憎み、陰謀によって殺害した。

     彼らは、狡猾な「陰謀マニア」だった。彼らは、あらゆる場面で歴史の表舞台には決して登場しない。過去三千年にわたって、必ず権力の背後に隠れて、カネの力で権力を操り、宗教や政治を思うままに操り、自分たちの利権を構築してきたのだ。
     イエス殺害後、広く世界に頒布された新約を潰すため、ついにはキリスト教まで乗っ取ってしまった。
     イエスの「新約」神との新しい契約は、旧約を否定するものだったはずなのに、『ユダヤ教徒が作った「キリスト教」』では、新約を聖書と崇めながら、ほとんど引用しない。教えるのは旧約ばかりだ。これがローマカトリックである。
     だからこそ、イエスは「処刑せよ、虐殺せよ」などと一度も教えていないのに、「イエスの名において」、十字軍・魔女狩り・異端尋問・布教などで数千万人に及ぶ膨大な人々を殺戮して回った。それはイエスを本質において冒涜する悪魔の宗教となった。
     最近ではインターネットのおかげで、これまで隠してきた司教による児童性犯罪などの悪事が暴露されるようになり、もはや風前の灯火にまで追いつめられている。

     パリサイ人たちを特筆すべき事情は、彼らがカネと銀行を発明し、資本主義の元祖となったということだ。イエスが彼らを憎んだ事情も、パリサイ人が人に金を貸し付け、その金利が膨れあがってゆくことに憤ったからだった。
     このことが、実は人類史が金で支配され、権力を利己主義に彩る根源となった。パリサイ人たちの末裔こそ、資本主義の黒幕であり、現代社会の富の大部分を手中にするロスチャイルドらユダヤ財閥なのである。

     旧約聖書のもたらした最大の害悪は、女性を男性の奴隷として位置づけることにより、真実をねじ曲げ、隠蔽したということである。
     真実は、女性と男性は同じ人間であって、互いに相手を人間として尊重し、協調して人生と生活を築いていかねばならない。そこに差別が成立する必然性など皆無なのだ。
     だが、旧約を信奉するユダヤ教やイスラム教では、そうではない。女性は男が利用する家畜でしかないのだ。こんな間違った思想を信奉し、DV暴力や残酷な死刑の恐怖によって女性たちに差別観を無理矢理押しつけてきたのだ。
     だが現実は、まるで違う。女性は家畜などではない! 男女は平等なのだから、至る所でほころびが出て、旧約信奉者たちは不自然なウソを正当化し続けなければならないことになる。

     旧約はウソの上に生活と権力を構築したのである。したがって、旧約を正当化し続けるということは、自分も他人も、すべて騙し、ウソの世界に埋没することを強要されることだ。
     このことが旧約登場後3800年の歴史のなかで、人類全体にどれほど悪影響を与え続けたか知る必要がある。
     まさしく、地上の利己主義のほとんどは、こうしたウソから生まれ、拡大していることに気づかねばならない。
     女性を差別する人たちは、必ず、それだけでなく、あらゆる人間を差別するようになる。これがヒトラーに代表される優生保護思想である。
     ユダヤ教タルムードの、選民思想、「世界人民はユダヤ教徒に奉仕するための家畜として生まれてきた」という勘違いが、人類に、どれほど、ひどい不幸をもたらしたのか、我々は直視すべきときがきた。

     まさに、そんな差別思想の持ち主たちが、世界の科学技術をリードし、世界中の資産を所有し、世界人民に資本主義を押しつけ、そして世界人民を家畜として支配しようとしているのである。
     世界に科学技術幻想から原発をもたらし、ハプスブルグからの欧州王家、中華皇帝や天皇制をももたらし(孔子儒教と天皇神道の本質はユダヤ教である)、死刑制度をもたらし、資本主義と金融帝国主義をもたらしているのだ。
     旧約こそ、利己主義の根源にあり、世界史のなかで戦争や差別、搾取、人類の苦悩をもたらし続けたことを今こそ、我々は見抜かねばならない。

     我々は、もう一度歴史の根底に流れる真実を見直す必要がある。
     人類に限りない苦悩と悲惨をもたらし続けた世界権力史の根底に、旧約聖書が存在している事実を知らなければならない。
     そうして、権力史とは、まったく別に、民衆の利他主義による真の歴史が隠されてきたことに気づかねばならない。
     我々は、どちらの道を目指すべきか?

     我々の人生は、利他のために費やされる。他とは誰なのか?
     それは、子供たちの心暖かい未来、ウソや抑圧のない解放された未来に奉仕する利他思想が必要であることに気づかねばならないのだ。
     続く

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