警察国家への道 その6 裁判員制度のもたらす愚民化、報復制裁主義の愚劣
国家権力が納税・徴兵・教育・住民登録などの義務を国民に強要する理由は、「国民の生活と権利を守るため」と信じている、とても幸福な方が、たくさんおられるようだ。
だが、まことに申し訳ないが、「世の中、そんなに甘くないよ」と、ウンザリ顔でいうしかないのである。 (ΘoΘ;)
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半世紀以上、この国に生きてきた経験から申し上げるなら、国家が自分に与えたものと、奪ったものを勘案、相殺するなら、桁違いに後者が大きいと断ずる。
筆者の見てきた日本国家とは、実に独善、自分勝手、ムダの固まりであり、権力者はメンツばかり尊大だが、中味はウソツキ・ゴロツキばかり。
国民を騙し、愚弄し、傷つけ、殺害し、ウソの上にウソを塗り固めて、我々から苛酷な収奪を続けている泥棒システムの親玉に他ならないのである。
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わが人生の大半は、国家というより、国家の背後にいて、それを利用して私腹を肥やしてきた官僚や大金持ち秘密結社の利権のために苛酷な奴隷労働を強いられ、召使いのように、家畜のようにこき使われ、利用されてきた。それは泣きたくなるような悲しい時間の浪費にすぎなかった。
嗚呼、私は泥棒国家に奪われてきた時間を返してほしい。失われた時間を使って、世のため、人のために、はるかに素晴らしいことがなしえたのではないか? \(≧▽≦)丿
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そして、それ以上に、そのことに気づかず、気づこうともせず、自分が奴隷・家畜として扱われている情けない、悲しい、恥ずかしい事態を見ようともせず、聞こうともせず、言おうともせずしない人々が大部分であることに憤激する。
権力の暴力、恐怖に怯えて、こまわり君のように風景に埋もれた壁になりすまし、自分の臆病を正当化しながら、収容所の豚であり続ける人たちが日本人の大多数であり、自由を求めて出る杭を打ち、塀を乗り越えようとする者を密告し、寄ってたかって制裁している哀れにして悲惨な事態に、心が張り裂けんばかりだ。
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「国民が国家を支配している」と思っているお目出度い人たちよ、現実はまるで違うのだ。見よ! それは、選挙によって民主主義が実現しているかのように思いこまされているだけなのだ。それは欺瞞なのだ。例えば、我々に本当に役に立つ人材を選ぼうとしても、そんな人が選挙に出られるシステムがどこにあるのか?
少数政党を作っても、小選挙区制・二大政党制優先の前に、資金や宣伝力などから事実上、泡沫扱いになり、当選もできず、したとしても意味のある活動ができないように仕組まれているではないか。
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なぜなのか? それは、国家を本当に支配している少数の連中が、自分たちの利権を守るための国家システムを、隅々まで堅牢無比の巨大要塞のごとく作ったからだ。
家畜にすぎない国民に、選挙制度やマスコミ宣伝によって、我々が自由な市民であるかのごとき錯覚を見せ続けてきた。学校教育を支配し、子供たちに、あたかも選挙によって民意が実現するかのようなウソ八百を、真実であるように思いこませ、洗脳し続けてきた。選挙でない、民衆の直接の意思表明を、許し難い暴力であり、犯罪であるかのように思いこませてきたからなのだ。
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昨年から、新たな国民義務として裁判員制度が登場した。
だが、これも、「国民の手によって直接、犯罪者を裁く」 とキレイゴトを装ってはいるが、その実態は、国民をして国民を追いつめ、がんじがらめに束縛し、矮小卑屈な人生を強要するための、システムに他ならないのだ。
それは、あたかも日本が民主主義国家であるかのような幻想を国民に抱かせて洗脳し、権力に都合のよい警察管理社会、収容所社会を厳重に構築するための新たな重い足枷にすぎないのである。
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【産経「裁判員制度」 栃木2010.5.22 02:09より
国民が刑事裁判に参加する裁判員制度は21日、施行から1年を迎えた。栃木県内ではこれまでに4件行われたが、従来の量刑判断よりも判決が重くなる傾向がみられ、厳罰化が懸念される一方、「市民感覚が反映された」とする声も。6月以降、9件(21日現在)が予定されており、司法関係者の負担も大きくなるなか、市民感覚を発揮できる法廷をいかに守っていくのか。法曹3者の力量が試される】
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さて、裁判員制度が導入されて一年、多くのマスコミが、市民感覚、被害者の感情が正しく判決に反映されるようになった」と、良いことであるかのように指摘されている。この意味するところは何か?
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日本では、かつて世界でも指折りの先進的な司法思想が導入されてきた。
それは明治末、岐阜県出身の牧野英一が導入した「教育刑主義」司法制度であった。
牧野はドイツ刑法草創期の重鎮、リスト(フォイエルバッハ派)の影響を受け、復讐制裁を目的とする刑罰、つまり応報刑に反対し、司法によって得られる国民の利益と秩序維持を目的とし、社会を犯罪から防衛しながら犯罪者による再度の犯罪を予防する観点が大切であると説いた。
犯罪を結果の重大性ではなく、その行為を行う者の問題と捉えて、犯罪の原因を社会的要因と個人的要因に分けて考えた。前者は政府の社会政策で後者は個々の刑事政策で解決に導いていくべきであると主張した。
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明治政府は、牧野らの努力、活動により、復讐制裁感情に支配された応報刑の未熟・愚劣さを克服し、司法の立場としては、犯罪の結果に感情的に左右されるのではなく、刑罰によって国家社会を防衛する視点、犯罪を繰り返させない視点、犯罪者を教育によって更正させる視点が基本にあるべきだとし、当時としては、世界的にも非常に優れた刑法思想によって司法体系を構築したのである。
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これによって、国民の司法に対する信頼感も大きく高まり、すぐれて、それは国家への信頼感となって忠誠心を醸成することに役だったが、一方で、元武家支配階級による「国民を国家の捨て駒、家畜として利用する」という傲慢さも強く残り、結局、侵略戦争へと引きずられることになったが、思想犯罪のデタラメ運用を別にすれば、世界的にも極めて高く評価される先進的なものであった。
この牧野式教育刑主義は、戦後も東アジアの刑法思想のモデルとなり、朝鮮半島やフィリピン、インドシナ半島などでも引き継がれていった。
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だが、昨年導入された裁判員制度は、こうした牧野らの努力、司法における教育主義の崇高な理念を、真っ向から打ち砕き、前時代的、封建的な感情報復主義司法に大きく後退させる尖兵となって機能しはじめた。
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筆者は、明治末に擁立された「教育刑主義」ですら、すでに時代遅れであり、そもそも「犯罪」なる概念自体が、恐怖心による誤解によって湾曲された不当なものであり、「すべての犯罪は病気である」という新しい人間錯誤理論を構築し、「病気は治療するものであって制裁復讐するものではない」という未来を拓く思想性を提起してきた。
すなわち、人は本来、錯誤するものであり、それは人間の人であるがゆえの分けがたい属性であって、制裁や復讐によって克服するのではなく、教育と訓練によって克服すべきだと主張してきた。
人は短所是正法によって矯正されることは決してなく、長所進展法だけが人を救うのである。
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ところが裁判員制度の最大最悪の本質的欠陥は、それが民主主義を装いながら、実は、裁判員に事件調査権さえ与えず、短時間のレクチャーとプレゼンテーションによって、検察の一方的な情報だけを与えられ、「犯行者は悪いヤツだ!」と、その悪質性を強調されて刷り込まれることで、必ず、報復制裁型の判決を導くというシステムにある。
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これによって何が起きるのか?
それは、司法から厳密な調査と、国家や子供たちの未来にとって最善の判断は何か? という理性的、計画的な視点を奪い、ただ感情論による報復、制裁主義に陥ることしかありえないのだ。
こうして、日本の司法界からは、すでに飴色がかった「教育刑主義」すら憎悪と復讐感情に洗脳された「裁判員システム」によって追放され、明治刑法よりも、さらに原始的、劣悪な感情的復讐刑法へと堕落してゆく必然性を持たされたということである。
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こうしてみれば、裁判員制度は見せかけだけの民主主義であり、その本質は、司法から理性を奪い、国家全体を短絡的な感情や恐怖心によって支配しようとする劣悪な無知性社会に向かわせる意図が隠されていることが分かるはずだ。
すなわち、国民から理性を奪い、感情だけに支配される動物的人間として飼育してゆこうとする権力の意図が鮮明に見えてくるのだ。
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近年、刑法適用や判例が異常に苛酷さを増している現実を多くの人が気づいている。例えば、かつて死刑適用事案の基準は、成人が、人二人以上を悪質な意図方法で死亡されたことなどであった。
ところが、近年、永山事件によって未成年者への死刑執行が既成事実化され、さらに、名古屋闇サイト殺人事件によって、一人の被害者死亡で加害者二名が死刑になるという判例が定着しかけている。
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これなどは、母子家庭の娘が通りがかりの三名によって殺害されたが、母親がS学会の会員で、組織的な署名活動を行い、組織ぐるみで裁判支援を行い、感情的な女性裁判官によって死刑判決となったわけだが、母親の短絡的ヒステリーに迎合し、刑法運用の意味を見失った愚劣な判決といわねばならない。
この事件以降に裁判員制度が導入されたが、犯人に対して苛烈な報復制裁を実現することが司法の役割であるかのような論理が、マスコミによっても公然と主張されるようになってしまった。
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これは恐ろしいことで、牧野が提唱したように、国家とは司法によって、第一に社会の安定、秩序を維持するとともに、犯罪を犯した原因を、社会的問題と、個人的未熟性に分けて二面的に解決するという姿勢が完全に失われ、ただ復讐することだけが司法の意義であるかのように主張されはじめたのである。
人は誰でも失敗する弱い存在であるにもかかわらず、失敗すれば制裁するという短所是正法だけが司法の中核となり、殺人を行えば犯人の処刑抹殺だけが解決であり、彼が過ちに至った原因を追及し是正することなどありえない。
司法は、被害者感情だけを見て、加害者に代理報復、制裁すればこと垂れりとする原則を打ち出したことになる。
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人は愚かな存在だ。生まれてから死ぬまで、ほとんど過ちの連続であり、一つ一つ、克服し、少しずつ利口になり、より高い人格が生成されてゆくのである。
ところが、こうした司法の短所是正的姿勢では、少しでも失敗すれば殴り倒し、追放するというものであり、失敗した人を教育し、成長させようとする姿勢は微塵も見られない。
こんなやり方で、失敗して殴られ、追放されることで、人間が成長するとでも思うのか? それがもたらすものは、失敗への強烈なプレッシャーであり、生きていることへの恐怖心であり、絶望であり、人間不信と人間疎外に他ならないではないか!
こんな姿勢が未来を拓くとでも思っているのか!!
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今、起きていること、裁判員制度もまた、警察国家への道、収容所列島への道を驀進するシステムである。
それは人を追いつめ、権力に対して怯えさえ、恐怖心によって矮小姑息な人格を育成し、全国民を臆病な家畜として言いなりに支配しようとする愚劣な政策に他ならないのだ!