静岡県西部、いわゆる遠江(とおとうみ)の国の山々である。したがって、遠州山地と呼ぶ人もいる。この南アルプス深南部の概念をまとめるにあたって、浜松・天竜・島田の図書館で文献を探したが、少ないのに閉口した。

 余多ある旅行観光紀行で、遠州を紹介したガイドは甚だ少ない。ましてや深南部の山々を紹介した文献は皆無に等しい。これは深南部が、いまだ観光産業による汚染を受けない処女地であることを示しているのかもしれない。

 実際、現地を訪れてみると、全国のどこよりも心の平安を掻き乱すケバケバしい宣伝と無縁で、深い山と谷に包まれた、静かで素朴な、心暖まる土地であることを知ることができる。「知られていない」ということは、実にすばらしいことでもあるのだ。

 しかし、ここには大和地方ほどではないにせよ、古くからの人間生活にまつわる歴史(必ずしも権力史ばかりでない)の強い馨りが漂っている。だから、民俗学的資料は少なくなく、興味深い文献にもであうことができた。

 「深南部」という山岳範囲は便宜的な名称であるから、確定的な境界が存在しないのは奥美濃などと同じである。一般的な通念では、西を国道152号線と天竜川、東南を国道362号線と大井川、北を南アルプス主稜最南端の、光岳から青崩峠までの稜線で囲む山々というところであろう。

 そして、これらのすべてが北の光岳 (三隅岳)に向かって収斂してゆく。それゆえに、深南部の盟主は疑いもなく光岳であって、むしろ「テカリ山地」と考えた方がよいかもしれない。

 このなかの主要な山は、光岳の南尾根には、池口岳、中ノ尾根山、不動岳、丸盆岳、黒法師岳など、南東尾根には、信濃俣、大無間山と、胸のときめく超2000m級のクセモノが揃っていて、山狂いを魅了してやまないが、どれも一般的観光登山とは無縁で、一筋縄ではいかない。それでも、整備された登山道ではないにせよ、狩猟や林業用の踏跡がそこかしこにあるので、比較的登りやすいともいえる。

 しかし、深南部主稜の山々には、南アルプス本峰を凌駕するほどの豊富な原生の自然が遺されていて、日本中見渡しても、これらの山のように熊やシカの跳梁する深山はザラにあるものではない。もっともこの場合、「知られない」という要素が逆に、膨大な赤字決済を迫られる林野庁につけ入られることになり、官僚機構による、すさまじい自然収奪の暴威に曝されていることを強く喚起しておきたい。

 黒法師岳は、西に向かって、麻布山、定光寺山を起こす山稜と、南に向かって蕎麦粒山を起こし、板取山、大札山、岩岳山、京丸山を持ち上げて春野町に降りる山稜を有するが、これらの山々は居住者が多いので、山道の整備は比較的ゆき届いている。そして、それゆえに、これらの山々には深い歴史のヒダが刻まれているのである。

 大井川鉄道の井川・千頭間や、黒法師岳より南の、水窪町、春野町、川根町に下る山稜には、都会人の常識では考えられないような深山の超僻地に、多くの部落が存在している。

 例えば、水窪町には門桁があり、春野町には京丸があり、中川根町には尾呂久保がある。これは、はじめて知る者に、一種異様な感銘を与えるほどの僻村である。なぜ、これほどの僻地に部落が存在するのか、民俗学上の大きな謎を秘めているといえる。

秋葉信仰

かつて今日ほど観光旅行の習慣がなかった頃、それは決して大昔のことではなく、まだ数十年ほど前のことなのだが、人々は気分転換のレジャーをハイキングも兼ねた神仏詣に求めるのが普通だった。

 それも、できることなら山岳の清浄な空気に親しみ、古刹の霊気に刺激を求めて、富士・御岳・白山・出羽三山・大峰山などには人気が集中し、講中を組織して登り、大気分転換を愉しんで帰るのが習わしだった。

 それほどの大登山をなしとげる余裕のない人たちは、地域に必ず存在した標高1000m以下の手軽に登れる山の名刹を訪ねたもので、遠州地方では、春埜山大光寺、法多山尊永寺、それに秋葉山大権現秋葉寺と秋葉神社などが大きな人気を集めた。秋葉山には、富士や御岳と似た秋葉講まで組織され、往事は栄華を極めたようだ。

 とりわけ秋葉山が名声を集めたのは、この神社に伝わる火防信仰が、当時深刻だった火災からの救済を求める人々の心情にマッチしたからであろう。

 秋葉山に参詣する道筋は、いつしか秋葉街道と呼ばれるようになり、信州方面からは、高遠から青崩峠を越えて水窪に抜ける街道がそう呼ばれ、駿河方面からは、掛川市大池から犬居に至る街道がそう呼ばれた。

 もっともよく歩かれたのは、浜松から光明山を経て登る道で、三河方面からの姫街道と併せて関西方面からの講中で賑わったという。

 江戸期の地誌である「遠江古跡図絵」に、行基の開山した山のうち、春に開いた山を春野山とし、秋に開いた山を秋葉山としたと記されている。そこで秋葉寺は、春野町をはさんで春埜山大光寺と兄弟関係にあることがわかる。

 開山は奈良時代の養老2年(718年)で、行基が大登山霊雲院を開創したときに始まると記される。それから1世紀後の大同4年(809年)に、越後国蔵王堂から修験者三尺坊が飛来してきて、この山の守護神となり、寺号が秋葉寺と改められたとも言われる。

 もっとも、役の行者や空海と同様に、行基の開山と伝えられる古刹などいくらでもあって、今日なおそうであるように、「有名人の名前を出せば、人々がありがたがって経営が楽になる」という、単純な原理による虚名であることはまちがいなかろう。
 実際には、仏法による衆生済度を決意した無名の民衆の使命感によって、このような寺院が拓かれていったのである。

 ところで、三尺坊は無名でありながら、今日秋葉山を世間に知らしめた本尊なのである。三尺坊は実在の人物で、信州木島平(野沢温泉村)の出身で、幼い頃から出家し、やがて阿闍梨となった。そして、越後蔵王堂一二坊のうちの三尺坊の主となり、火難救済を成就すべく誓願をたてて修行し、修験者としての名声を築いた。

 どういうわけか9世紀はじめに秋葉山に飛来し、その主になったと記される。超能力者であった三尺坊は、役の行者と同様、白狐に乗って空を飛んでしまうのである。(この当時の修験道は、超能力を磨くものであったらしい。
 現代からみれば空想的な虚構であっても、必ずしもそうとばかり決めつけられない事実もあった。あまり、頭ごなしにインチキと決めつけないほうが良さそうだ)

 秋葉山に三尺坊が登場すると、たちまち火防の山としての霊験が世に知れ渡るようになり、朝廷からも庇護を受け、1711年には正一位の神階を受け、1725年には勅願所に指定されるまでになった。これはひとえに、修験道の三尺坊の霊威によるものであり、秋葉寺の信仰に基づくものであった。

 しかしこの間に、秋葉山中でいかなる故か法力およばず、武田信玄による放火も含めて数回の大火が起こっている事情は他の山と全然変わることがないのだが、それを書くのは谷保天神というものだろう。

 90年に秋葉山頂社が再建されるまで、十数年の間、山頂社は火災のため存在していなかった。これほど当てにならない火防の神があったものではないが、神社側に言わせると、焼失した社は世界の大火災の身代わりになっておられるのだそうだ。モノもいいようである。

 秋葉神社の由緒には、開殿が和銅2年(709年)と、寺よりも古いことを言っていて、元明天皇の歌に、「あなたふと 秋葉の山にまし座せる この日の本の火防ぎの神」というのが紹介されている。神体は火之迦具土大神といい、イザナギ・イザナミの子で、火を統べる神である。

 中世、両部神道(神は仏の仮の姿、つまり権現と考える思想。本地垂迹説という)の影響を受けて、「秋葉大権現」と称するようになった。永い繁栄が秋葉権現を名刹として磨きあげ、勝軍地蔵のまつられた権現には、戦勝を祈念する足利尊氏や秀吉、信玄らが競って刀剣を奉納している。

 ところが明治維新に、神道天皇制を主張する本居・平田国学の影響を受けた神道至上主義者によって廃仏棄釈・神仏分離の嵐が吹き荒れ、両部神道を代表する秋葉権現は攻撃の矢面にたたされたのである。

 秋葉権現は、太政官布告によって強制的に神社と寺に分離され、このときから神社が山頂に残って静岡県社の指定を受け秋葉神社と称するようになり、秋葉寺は尾根下杉平の三尺坊に追いやられた。

 さらに明治6年、住職の死とともに廃寺にされ、仁王像や教典類は焼却され、仏像仏具は本山である万松山下睡斉(袋井市・曹洞宗)に移管された。しかし、信徒の執拗な再建運動が実り、明治13年、再び秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)が再建されることになった。以来、秋葉山には統一された権現はなくなってしまったのである。

それでも、今日なお秋葉信仰は根強く残り、12月16日の火祭には全国の消防団が参詣におしかけ、大きな賑わいを見せるという。

 しかし、今では秋葉山から黒法師岳に至る長大な尾根にスーパー林道が敷設され、人々は汗を流して山を歩くことによってしか得られぬ感動を失い、本殿さえも、今年からみせかけばかりの味気のないコンクリート製に代わり、しらけた風が秋葉山の将来を暗示しているようにも思える。

 秋葉寺や三尺坊の宿泊所もヒト気はなく、私の目には山頂に残る巨杉も、なぜか寂しげに見えた。


 常光寺山  1439m
(磐田郡水窪町山住臼ヶ森より 89年2月17日)

 京丸山から北を見ると、樹林の合間に同じくらいの高さの山々が延々と連なっている。そのなかの、一番近い立派なピークが常光寺山である。

 池口岳、不動岳、丸盆岳、黒法師岳などの超2000m級の秘峰を起こして遠州平野に消えゆく光岳南山稜は、いまだ世に知られぬ名山をあまた隠し持っている。
 沢口山、板取山、蕎麦粒山、高塚山、竜馬ヶ岳、岩岳山、京丸山、白倉山、奈良代山、それに黒法師西稜から始まって、麻布山、竜頭山、秋葉山に至る長大な稜線上にあるこの常光寺山など、まったく数えきれないほどの高い峰と深い渓谷の立派な山々が連なっていて、しかもこれらの山々に分け入る登山者は本当に僅かで、観光臭を嫌う真の山好きにとって、実にこたえられない魅力的な山域なのである。

 しかし、これらの山々の信じられぬほどの奥地にまで、古くから人間の生活が息づいているのを知る人は少ない。
 遠州は日本でも最も温順な気候の地である。有数の険しい山岳地帯を抱えながら、これらの山々に冬の季節風も降雪も極めて少なく、それが、この山岳の奥地にまで人間を抱擁してきた理由であった。

 常光寺山のある遠州最奥の町、水窪町は、そんな都会の常識を外れた僻遠の山里ばかりから成りたっている。
 なにしろ、町の中心街に行くにすら、大型観光バスが余裕を持って通行できる道路がひとつもない。いちばん良い道路は、浜松市から天竜市を経由する国道152号線だが、これも龍山村あたりから1車線になってしまう。

 おまけに、水窪町から北は、旧秋葉街道に沿って高遠方面に抜ける国道が何十年も前から計画されているのだが、途中に青崩峠という、南アルプス特有のもろい地質帯があって、絶えまなき崩壊のために、道路接続計画はほぼ絶望的に中止されたままになっている。

 狭い林道の兵越峠が間道として利用できるが、大型車は通過不能である。つまり、水窪町は袋道のどん詰まりの町で、国道152号は、この時代にあってすら幻の分断道路のままなのである。ただ、旧国鉄飯田線が町を貫通しているので、これだけでも他の山村よりよほどマシだと地元の人達は思っている。

 ところが、この水窪町は、かつて天竜林業が盛んだった頃は、非常に大きなにぎわいを見せていた。現在の数倍の人口が、この天竜川界隈を活気づかせていたのである。

 かつて、日本の大河川の多くが重要な交通手段に利用されていた。河川水運である。今、ダムに侵食された天竜川から往時をうかがうすべもないが、明治、大正あたりまでは、天竜川には数百の運搬船が行き交い、伊奈谷と河口を結んで、流通経済の動脈となっていたという。

 小島鳥水の作品に、「天竜川」という紀行文がある。鳥水は、「日本山嶽誌」の著者、高頭式らと、南アルプスを飯田に下山して、当時、すでに衰退しつつあった天竜下りを体験した。

 やや装飾過多ではあるが、なかなか情緒にあふれた名作で、当時の河川水運の光景をまざまざと見せてくれる。一部を抜き書きしてみよう。

 「けれども、山の町から一直線に、はた目もふらず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄が丈高く生えている海岸まで、突き抜ける天竜川という道路があることを私は知っている。しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知っている。」

 「薄っぺらの船板は、へなへなにしなって、コルクみたいに柔らかく水をいなすから、板といっても帆布製の船で、漂流するような気もされる。」

 鳥水は、変化に富んだ流れに使用される船の特性も書き残してくれている。文中にも指摘されているが、天竜川水運業を衰退させたのは、木曾谷の中央線鉄道の開業であった。

 天竜林業の隆勢は、天竜川あってのものであった。トラックのない当時は、川だけが材木の運搬手段だったのである。この点、木曽川とならんで有数の水量を誇る天竜川は、林業にとってかけがえのない味方であった。

 だが、道路と鉄道開発に伴って水運業は廃れ、都市工業の発展のために犠牲にされた形で林業や育蚕も衰退し、若者はテレビや雑誌に登場する生活様式に憧れて、次々に大都市に流出していった。

 水窪町は、20年ほど前から深刻な過疎に脅かされるようになった。住民の平均年齢は高齢化の一途をたどっている。

 「このままでゆけば、町は消滅する」
 住民の誰もが、口には出さないまでも、そんな危機感をもっているのではないか。それらの焦燥のうえに、この山域に無謀なスーパー林道が続々と建設され、太古から人間生活を支えてきてくれた原始の自然が次々に破壊されている。

 誰もが、「こんなバカなことをしなくとも」と思っていても、誰も口に出さない。「過疎救済」の大義の前に、自然保護は説得力をもちえないのである。



 2月16日の夕方、春野町気田から気田川沿いに狭い林道(県道)を門桁に向かった。途中、森山や勝坂といった辺境の部落を通る。

 石切もそうだが、どうして食っているのか不思議なほどの寂遠の山里ばかりである。
 このあたりの猿、鹿、猪の棲息密度は、確実に人間のそれを上回っているであろう。石垣の上の小さな平屋、猫額ほどの畑と急斜面の茶畑、こんな僻地でしたたかに生き抜いている人々の姿は、一種の感動をあたえずにはおかない。

 勝坂の部落には、竜頭山登山道の標識があった。だが、このコースを登ると頂上直下に秋葉スーパー林道があって、気分の良いものでないので、もはや登る人は少なかろう。
 その先に、夜間通行禁止の標識があった。落石の危険のためだと書いてある。だが、柵が設けられているわけでないので走ることにした。なるべくなら、その日のうちに門桁までたどり着きたかった。

 最初は甘く考えていたが、そのうち通行禁止の標識がダテでないのが分かってきた。狭い林道のいたるところに、人間の頭大の落石が大量に転げでていた。こうなると、落石にタイミングが合わないよう祈って突っ走るしかない。

 これは、おそらく南アルプス特有の破砕帯の露頭が出ているのであろう。南アルプスは、このような地質をもたらす天竜川〜糸魚川大地溝帯のために、本来、林道建設に向かないのである。造っても、崩落破壊される率が極めて高い。にもかかわらず、自然破壊が楽しくてしかたないように、無謀な林道建設が他地域の数倍のペースで強行され続けている。歯止めがないのである。

 門桁の部落に着いたのは、午後8時半頃だった。戸数は多かったが、明かりの点る家が少ないのは、このような山里の常である。

 部落のはずれのダムの上で車泊した。
 翌朝見た部落には、一軒の精密機械工場があった。このような流通僻地で採算を求めるのは難しい。ここは、安い労働力を求めてと考えるよりも、僻村の活性化(いやな言葉だが)のために一肌脱いだ工場と、好意的に考えるべきだろう。

 チロリン村と書かれた看板もあった。最近、このような僻村に、好んで住みつく若者が少なくないとも聞く。(もっともチロリン村では、もはや若くはあるまいが)私も、縁さえあればそうしたいと考えているが、なぜか無縁なのだ。

 門桁に自動車道路ができたのは、1959年のことであった。それは、私の通った気田川沿いの恐ろしい道で、最初の頃は、運がよければ通行できる、といった程度のものだったらしい。それまでは、営林署の森林軌道しかなかった。行政区域である水窪町への、山住峠越えの道路ができたのは、やっと1970年頃であった。

 道路のできるまで、門桁への生活物資は、一本の索道によって山住峠を越えて搬入された。土地の人達は、それを空輸作戦と呼んだという。一番近い公共交通の飯田線向市場駅に出るためには、およそ6時間も歩かねばならなかった。
 この部落の起源も、おそらく木地師の定着村であろう。水窪町の山あいの部落の大部分が、木地師の末裔といっていい。
 現在、44戸およそ100名が居住するという。だが、人口統計グラフは、確実な速度で、この部落が消滅に向かっていることを教えてくれる。もっとも、この傾向は天竜川流域の集落の全部に共通しているが。

 山住峠は標高1107mで、山住山と呼ばれ、樹齢千数百年の巨杉を境内に吃立させた立派な神社がある。山住神社という。

 この神社には、山姥の伝承がある。これは柳田国男も取り上げているので抜粋しよう。
  遠州奥山郷の久良幾山には、子生タワと名づくる岩石の地が明光寺の後ろの峰にあって、天徳年間に山姥ここに住し、三児を長養したと伝説せられる。

 竜頭峰の山の主竜築房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祭られるのみか、しばしば深山の雪の上に足跡を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。

 「遠江国風土記伝」には、平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐に来たと記してはあるが、後に和談成って彼らの末裔もまた同じ神に仕えたことは、秋葉・山住の近世の歴史から、これを窺うことができるのである。

 山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつの頃よりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。
 街道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、何と本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎えて来て、魔障盗賊を退ける目的のほかに出なかった。(山の人生より)

 常光寺山の山頂には、山住神社の奥社が設けられている。奥の院の常光房は、常光寺山の主である。山姥の三男だというが、その正体について、柳田は狼とのかかわりをほのめかしている。山住神社は、春埜山大光寺とともに狼を御神体として祀っていて、神職の山住家には山犬絵図が伝わっている。

 山住神社のいわれは、和銅2年(709)に愛媛県越智郡大三島町の大山祇(おおやまずみ)神社から移し祭ったとされる。元は、門桁の部落に置かれていた。

 オオヤマズミノ神は山々を管理する国津神とされる。その娘がコノハナサクヤ姫で、高天原から日向に降臨した初めての神であるニニギノミコトとまぐあって海彦と山彦を産み、さらに、その孫が神武天皇ということまで知っている人は、古事記あるいは古代空想史のマニアであろう。
 家康が三方ヶ原の戦いの際、山住神社に武運長久を祈願し、信玄に敗れはしたものの一命難を逃れたのは、この社の神力のおかげなりとし、江戸時代には徳川家の手厚い庇護があった。



 門桁から狭い県道を登り詰めると、そこが山住神社で、境内の二本の巨大な杉が見事である。峠の上には茶店もあったが、この日は日曜でも閉ざされていた。

 登山道について何も知らなかったので、2・5万図の山住からの破線路を辿ることにした。

 峠の危うい急坂を降りきった部落が山住家のある河内浦(こうちうれ)で、8戸、30人余りが居住しているというが、洗濯もののかかった人間臭のある家は3軒だけだった。河内という地名は畿内で多く使われ、川中の小平地を意味し、浦は船着の入り江を意味するとされるから、この地名は、かつて上方の人間によって名付けられ、そして水運に関係していた場所であったのだろう。

 山住家当主、紀氏の家は、常光寺山山麓の小平地に築かれた、天竜界隈きっての見事な石垣の上にある。ここは代々、山住神社の神事を司ってきた旧家である。

 山住家の歴史は、守屋兵部大輔を祖とし、12世紀保元年間にまで遡ることができるという。おそらく、上方の人間であっただろう。江戸時代初期、この地方の代官であった山住大膳亮茂辰は、この山域に広大な植林を行なったことで知られる。それは、大膳が、吉野地方に旅したとき、杉の美林に感動したからだと伝えられる。

 登山口は、そこから300mほど下った右手の林道を、さらに500mほど登った臼ヶ森の部落にあるはずだった。
 未舗装の林道のどん詰まりに小さな空き地があって、右手に10戸ほどの部落があった。車は全く駐車してなく、静まりかえっている。

 朝7時頃で、エンジンの音に驚いたのか、一番下の家からおばあさんが顔を出した。おばあさんに「駐車していいですか」と尋ねると、「いいよ」とのことだった。登山道は部落のなかの道を上がればよいと教えてくれた。おばあさんは、私の姿が見えなくなるまで表に出て私を見ていた。

 部落に、生活の気配はなかった。山道も荒廃している。だが、かつて木馬道だったのだろう、緩くて幅の広い、歩きやすい道である。

 きびしい寒さのなかを登り詰めると、やがて急な尾根に出て踏跡程度になった。薮がうるさい。下から1時間半ほどで、突然、向市場駅上村部落方面からの立派な登山道に飛び出した。最新の2・5万図にも記されていない。最近、地理院の地図は、歩道についての記述が実にいいかげんになった。

 快適な道を右手にとって歩くと、雪道になり、しばらくで鳥居をくぐり、祠や立派な社もあった。常光寺奥の院である。

 この付近は、ちょっとした部落でも造れそうな、二重山稜の平原地形であった。この地域は、山稜にこうした舟窪平原地形が多いと思える。
 山頂には、カリカリのアイスバーンを踏んで、痩せた尾根をひと登りして達した。臼ヶ森から2時間半程度である。わりあい良い山頂といえる。しかし、黒法師岳に至るこの山稜の彼方は、舞い降りる雪のために霞んでいた。殖生に見るべきものはない。ヤシオとシャクナゲが目に着いた程度である。

 帰路は、山住峠方面にとった。小雪のちらつくアイスバーンの尾根を、簡易アイゼンを装着して降りていった。途中、最近では珍しく5人の中年男性登山者にであった。こんな日に登るモノズキがいるんだと、笑ってしまった。

 しばらくで山住峠からの林道に降りた。そこからテクテクと歩くと、奥三河国定公園整備地域という標識の付近に、広い遊園地が造られていた。だが、ゲートは封鎖されていた。

 山住神社には、あっけなく着いた。日曜というのに人気はない。旧歩道は、秋葉スーパー林道方面に、ツルツル滑る凍りついた道を20mほど歩いた右下にあった。

 滑落を心配したが取り越し苦労で、雪はあったが実に良く手入れされた立派な歩道だった。ほとんど駆け降りることさえでき、40分ほどで、見事な石垣の山住河内浦に降りたった。
 昼前に臼ヶ森に戻ると、私の車の先に1台の軽自動車が停まっていた。朝のおばあさんの家に人影があって、あいさつにゆくと、中年男性が出てきて、その人と1時間以上も話しこんでしまった。

 その人は、おばあさんの娘婿で、浜岡町に在住とのことだった。生まれ育ったこの部落を離れたがらないおばあさんのために、週に1度ずつ食料や日用品を届けにきていると話された。

 驚いたのは、この部落に住んでいるのは、そのおばあさんを含めて、80才を越した老婆が二人だけだという。この部落には、終末の日が忍び寄っていたのである。


 竜頭山  1352m
(磐田郡佐久間町大井字大輪より 90年3月10日)

 竜頭山には山姥の伝説があって、明光寺の裏のクラキ山(佐久間駅東の愛宕山)で、山姥が3人の子を産み、そのうちの長男の竜築坊が竜頭山の主になり、次男の白髪童子が戸口山の主になり、三男の常光坊が常光寺山の主となったことを「遠江(とおとうみ)風土記伝」が伝えている。

 山姥伝説が、遠江の民衆にとって何だったのか、それを伝える人はすでにいない。ただ、山の神が、山姥やオオヤマズミの娘の木花開耶姫のように女性であることについて、ほのかな想像をすることはできよう。

 私の思うところ、これは実に単純な理由である。自然界の2大存在は、すくなくとも日本にあっては山と海であった。儒教風土が男女の和合をもって社会の鎮めとした伝統思想(日本的体臭というべきか)を考えれば、山のイメージは荒々しい突出の陽物であって、したがってその鎮めは女性でなければならない。

 逆に、海のイメージは広く深い包容力の陰物であって、その鎮めは男性でなければならない。ゆえに、山の神に女性が多いのは、山と海からなる日本の風土が、ごく自然に醸しだしたまったくナチュラルな帰結であろうと思うのである。

 だが、今では山の神が恐妻の代名詞であったことを知る若者も少なかろう。かつて、山の民を代表した木地師達は、木工ロクロを回転させるのに妻の手助けを必要とした。だから、木地師の妻の発言力は強かった。それが、「山の神」というあだ名を生んだのではないかと私は考える。

 しかし、やがて動力を水車などで代用することが普及するにおよんで、山の神の威力も衰えたのかもしれない。もっとも、荒れ狂うと手のつけられぬ山の神も、訴訟ばやりの日本ではシラケてしまっているのではなかろうか。
 これらの民俗伝説も、日本中を金太郎飴のように平凡化し、管理に便利な組織化・統一化が図られようとする、おしとどめがたい画一化潮流のもとで激しく侵食され、風前のともし火といっていいのだろう。

 今、それらを書き留めるには、すでに遅きに失しているかもしれない。しかし、だからこそ、私はそのような伝承に惹かれ、いとおしく思い、遺さねばと焦らずにいられない。

 山住峠から秋葉山に至る稜線は、龍のうねるような長く明確な尾根である。天竜川の向かい側の、奥三河の山々からそれを望むと、ちょうど竜頭山こそがくっきりと頭をもたげた最高地点であることが分かる。龍の山と、龍の川なのである。

 かつて、山住神社が秋葉神社の奥社であった頃、この長い尾根には多くの参詣者や修験者が、山々の神気を心ゆくまで愉しんで通行したにちがいない。
 人々は、当時珍しかったはずの杉の美林に感嘆し、しばしば足をとめたかもしれない。山住や秋葉には、樹齢1000年を超す巨杉もあった。これらの杉も、室町前期の植林と伝えられる。

 山住家第23代の山住大膳は、江戸初期から、この稜線一帯に膨大な植林を行なった。「大膳亮手鑑」(たいぜんのすけ、てかがみ)によれば、吉野地方から入手した杉苗による植林本数は、実に36万本を超したと記される。

 そして、それらの見事に育った美林が、天竜林業の礎を築いた。しかし、その大部分はすでに伐採され、現在は2世代3世代目の植林地になっているものが多い。この山域は、いわば日本の植林事業の原点なのである。

 それらの針葉樹材は、江戸時代すでに大規模寺院建築に使用される大型用材が不足していたなかにあって、天竜川のおかげで運搬が容易なために人気をよび、多くは上方や江戸へ運ばれていった。

 また、今でこそダムのために面影はないが、浅瀬や瀞や激流と多彩な変化をみせていた天竜川のような河川では、通常の海船ではたちどころに座礁破損してしまうので、剛性よりも柔軟性に主眼をおいた、底が広く喫水の浅い形式の高瀬舟(角倉舟)が多く用いられた。
 良質の天竜杉は、それらの用材ともなり、天竜川の水運の主力となった。天竜杉は、天竜川と一体のものであったのである。



 前日、まだ明るいうちに浜松に着いた。ずいぶん夜が遠くなったものだ。浜松インターから天竜市を経由して天竜川沿いに152号を走ると、たいした時間もかからずに龍山村に達する。

 このあたりから伊奈谷にかけての山村では、部落が山の急斜面にへばりつくように点在していて、夜間は部落のある山がまるでクリスマスツリーのように幻想的に見える。このような集落の光景は、木地師村に特有のもので、冬期積雪の少ない一部の山間地方にしか見ることができない。木地師がこのような山地に住んだ理由は、柳田国男が「史料としての伝説」のなかで詳しく考察している。

 まだ寝るには早すぎる。することがないときは飲むしかない。最近見た静岡新聞に、龍山村の秋葉茶屋という長く休業していた村営レストランに、南アルプス二軒小屋ロッジにいた若夫婦が経営に入ったと書いてあった。懐かしい二軒小屋の管理人氏なら、どういう店か様子を見たくなった。

 国道の秋葉山入口を過ぎて数キロ走ったところに看板があった。右下に降りる旧街道をしばらく走ると、一回転するために方向感覚を狂わせるややこしい橋を渡って左にわずかでその店があった。明かりは点っていたが、すでに閉店していた。あまりに早い。どうやら、いっぱいひっかけの客層とは無縁のようだ。

 方向が定まらず、目的地に向かうのに苦労したが、秋葉茶屋の前の道は、天竜川の左岸道路になっていて、そのまましばらく走ると秋葉ダムに着いた。橋を渡った龍山村最大市街の生島の部落は、コンクリートの殺風景な建物もある。並びにあった仕出屋さんで飲んだ。

 地元の人か数人飲んでいて、竜頭山の登山口をたずねると、大輪部落からであることを親切ていねいに教えてくれた。龍山村の過疎について話をもちかけると、あまり触れたがらない様子だった。しかし、なかのひとりが、

 「33ナンバーなんかの豪勢な車に乗ろうとさえ思わなけりゃ、十分田舎で生活できるんだよな。なんてったって、メシ代が安くあがるんだから。」
 と語った。田舎暮らしは傍目で見るほど楽じゃないが、食えないというほどのものでもないという。

 「ここらあたりは、田舎でも夜の飲酒運転の取り締まりがキツイから気をつけろや。」
 という忠告を受けて、近くの駐車場で一晩を過ごした。

 翌朝、工事中の国道を走り、大輪橋で天竜川を渡ると、そこから佐久間町大輪であった。教えられた通り、立派なトイレと案内板の前を右手の川伝いに100mほど戻ると、左手のガケの上に竜頭山登山口の標識があった。

 右手は秋葉ダム水域になっているのだが、立小便をしていて真下に古い石地蔵を見つけた。それには「水没者一切の霊」と刻まれていて、ダム工事の犠牲者の碑かとも思ったが、よく考えてみると、天竜川水運の隆盛期に相当な水死者がでていたという記述を思いだして納得がいった。

 登山道は、びっくりするほどよく手入れされた立派な道である。木馬道であった。おまけに、桟木の上には幅50センチほどの擦り跡がついていて、これがバリバリの現役の木馬であることを示していた。私も数多くの木馬道を歩いてきたが、現役にでくわしたのはこれがはじめてである。感激であった。

 杉木立の木馬を緩い傾斜でトコトコと1時間半ほど歩くと、途中何本もの枝道を分けるが、かまわずにまっすぐ行けば、道は沢筋からはなれて尾根道を行くようになる。ここでやっと登山道らしい道になり、全山植林で埋め尽くされているかとも思えた竜頭山も、あたりまえの雑木林に変わった。

 上部は、山住家の植林地帯らしくて、樹齢200年以上の見事な杉林もあった。さすがに林業開闢の地だけあって、手入れが実にゆきとどいている。
 2時間半ほどで稜線に達した。そこは遊園地のように整備されていて、大アンテナ設備まである。スーパー林道が冬期閉鎖されているからいいようなものの、シーズン中なら車から500mも離れると大冒険をしているようなつもりのメデタメデタの大衆が、騒がしい場所である。といっても、私も数年前に車で訪れているのだからエラソーにと自分をわらうのであるが。

 山姥の子でもハダシで逃げだす人為的山頂の展望はないが、わずかに離れたあずま屋から、このところ通っている遠州山地の全貌を見渡すことができた。
 素晴しい天気のうえに、誰もいなくて、展望指示板のおかげで、京丸山・常光寺山・麻布山・黒法師三山・不動岳・大無間山などを指摘することもでき、見事な眺望を楽しんで飽きることがなかった。

 反対側の奥三河山地を見渡せば、ポツリと高いのが20分で登れる愛知県最高峰の茶臼山で、その右手奥のひときわ見事に吃立した白亜のピークは大川入山であろう。ここは一昨年登ったが、期待にたがわぬすばらしい山であった。その先に、恵那山から中央アルプスの尾根筋も見えた。

 頂上直下の雑木林で、キハダの樹皮を少々失敬した。整腸薬に使おうというのである。これは効くのだ。ただ、私の次に登ってきた男は、ナタを手にした私を一瞥して、挨拶も無視して横を向いて通り過ぎた。官僚機構の巨大犯罪にはおそれいる