【ダイジェスト】天皇は朝鮮人?文化勲章を受賞した売国歴史学者の罪とは?(三橋貴明)

 https://www.youtube.com/watch?v=j14IfcwBOSY&t=76s&ab_channel=%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%80%8D%E7%B5%8C%E4%B8%96%E6%B8%88%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E%E4%B8%89%E6%A9%8B%E8%B2%B4%E6%98%8E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB



 私は、半世紀以上前から、三橋が嘲笑する江上波夫の大ファンだ。私の信じている歴史理論の多くが、江上波夫説から来ている。

 江上波夫は、1960年代の歴史学会における、反権力・反皇国史観・革新的雰囲気のなかで生き生きと革命的新説を明らかにした。江上説によって、古代史の謎が天地を覆すほどの衝撃で、歴史の闇から飛び出してきた。



 現在の天皇家は、今から1600年以上前に、朝鮮半島にあった百済という国にいた騎馬民族が渡来した末裔であるというのが江上説の骨子だ。

 このことは、日本書紀にも鮮明に記録されている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B



 弓月というのは、古代キルギスタンを示すが、応神14年、AD300年前後に、弓月氏=秦氏が、120県の民(約20万人)を連れて、百済から日本に上陸したと書かれている。

 彼らは「秦の始皇帝の末裔」を称していた。

 これが日本古代記録に表れた騎馬民族大量渡来の最初の記録である。

 これを知れば、キルギスタン先住民と日本人が酷似している謎が、容易に解けるだろう。



 それ以前の先住民は、2500年前に、呉越戦争によって呉(蘇州)が敗北し、国ぐるみの坑刑(生き埋め)を逃れて、水郷地帯特有の操船技術を生かして、南シナ海をこぎ出した「弥生人」である。

 行き着いた先は、台湾・山東半島・朝鮮南岸・そして九州であった。彼らを総称して、今では「弥生人」と名付けているが、弥生文化や稲作が、上の地域で共通して出土しているのは、呉越戦争という事情に伴うものだ。



 いわゆる「天孫降臨」の初代は「神武天皇」だが、中国史学では、これは呉の首長だった、太伯の弟の李歴であるとの学説が定説となっている。

 つまり、彼らが「邪馬台国」など弥生国家群の創始者なのだ。

 皇国史観学者は、これを否定するいかなる理論も持ち合わせていない。ただ天皇制を維持する目的の「万世一系論」が崩壊するという恐怖から、根拠の希薄なDNA論を持ち出して反対しているだけだ。



 太伯は、史記・東夷伝・魏志倭人伝における「邪馬台国人は、呉の太伯の裔」という一節で、日本でも有名だが、その人物の概括は以下に詳しい。

 https://blog.goo.ne.jp/mryanagi_1947/e/a06e8c3349c0cbd7804ec95603769d9b

 http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%AE%8B%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%B3%BB%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E8%80%83.html



 神武による「天孫降臨」は2600年前(皇紀)という皇国史観の主張も、呉が越に敗北して、蘇州民が船で逃れてくる時代と、ほぼ一致しているといっていいだろう。

 また、魏志倭人伝、東夷伝など、多数の記録にも一致している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D



 この弥生人の渡来には、たくさんの民俗学的証拠が付随している。

 一番分かりやすいのが、稲作農耕を携えて、日本や朝鮮南岸にやってきたことだ。日本列島に稲作が確認されたのが2500年前なので、ぴったり符合する。

 (蘇州)呉国民が船で上陸した済州島・山東半島・九州などで、古代稲作の痕跡が多数出土している。たぶん台湾でも出土するはずだ。



 呉という地名と稲作農耕における「裾からげできる衣類」から「呉服」という言葉も生まれている。これはシッキム・レプチャに発して東亜三角弧、照葉樹林帯文化のなかで発展した、稲作に関連した文化であり、副食としての納豆や味噌文化なども含んでいる。

 また、収穫に使う刃物類も、鎌に類似した曲刀が伝えられ、直刀は見られない。彼らが騎馬民族と無縁であることの証明だ。



 弥生人における、蘇州人DNA問題は複雑なので、いずれ、まとまって書きたいが、弥生人のDNAは蘇州人に近似したものである。それは九州や瀬戸内居住民と共通している。

 朝鮮半島でもDNAの解釈で、皇国史観系学者と大きな齟齬が生じているが、彼らの主張はあまりに一方的で、騎馬民族文化と弥生文化を混同していたり、呉国人が海から朝鮮半島に上陸したという前提が顧みられていなかったり。エベンキ族と百済人を混同していたり、学問的に極めて未熟で疎漏が多すぎるのでアテにならない。

 

 皇国史観系歴史家たちは、何が何でも天皇制を守るための「万世一系論」を守りたい一心で、それを前提に、呉国人九州上陸説も、百済人、天皇家先祖説も頭ごなしに否定しているだけで、学問的な説得力のある根拠は何もない。

 30年ほど前から始まった「反江上論」の大半が、皇国史観系右翼による、逆襲と考えて良い。



 例えば、ウィキの説明のなかでも、「日本海の荒波を超えて馬が移動できるはずがない」と決めつけているが、釜山〜対馬は、目視可能な、わずか50Kmであり、手こぎ船でその日のうちに移動できる。

 また、当時の馬を運ぶための専用船と思われる双胴船も出土している。対馬〜壱岐〜唐津は半日行程にすぎない。「日本海の荒波」を持ち出すのは、地理を知らないからだ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E6%B3%A2%E5%A4%AB



 現在では、ますます江上学説の正しさを確信するばかりだ。自民党、皇国史観系学者による江上波夫に対する誹謗中傷が私は我慢できないので、その浅薄さを糾弾するつもりで、上の三橋リンク動画に、たくさんのコメントを書いた。



 1700年前に、百済という国が、国ぐるみで、日本列島に渡来してきた証拠は無数にある。これから、三橋のYouTube動画を叩きながら証明してゆこう。



 冒頭の天つ神(騎馬民族)国つ神(呉由来弥生人)について、記紀の伝承に騎馬民族はない。「天皇が馬に乗っている光景など一つもない」と三橋は強調するが、冒頭に書いた弓月氏の応神14年、120県(20万人)渡来は、日本書紀に明記されていて、三橋は勉強不足もいいところだ。

 しかも、「百済から移動している」とも明記されていて、彼らが同時代の、百済武寧王の関係者であることも分かる。



 「天皇が馬に乗っている光景は皆無」という下りも、「その程度の知識で江上説を嘲笑しているのか?」と言うしかない。

 聖徳太子像を見れば分かるように、古代天皇の残された肖像画は、ズボンを履き、ミズラを結っている。

 ズボンは騎馬民族特有の衣類で、内股を馬の背のこすれから守るための工夫であり、ミズラは乗馬時の風圧から髪が暴れるのを防ぐための工夫である。馬に乗っていなくたって、彼らが騎馬民族であることを証明するものだ。



 江上は、天皇家の先祖について、高句麗→扶余→百済→(加羅)→大和と提示した。現行韓国民族は、元々、濊エベンキや沿海州オロチョンだったことが遺伝解析によって明らかにされたが、韓国歴史学会は、自分たちを美化する目的で、それを隠してしまった。

 https://career-find.jp/archives/221955



 だが、天皇家を生んだ百済(武寧王?)は、史学上では、高句麗・扶余由来であり、金・清・満州族と同じ女真族である。これはエベンキ族とは、まったく相容れない別民族である。百済が国ぐるみ日本列島に移住した本当の理由は、非妥協的で残虐といわれるエベンキ族による襲撃から逃れるためだったのだろうと、私は考えている。

 おそらく「好太王の碑」の好太王も、新羅のエベンキ族ではなかっただろうか?



 江上波夫が、天皇家が扶余・百済由来であり、加羅を経由したということは、対馬を船で渡ったことを意味するのであり、すべて正しい。三橋の嘲笑は、何一つ的を得ていない。

 弓月=秦という名を用いたのは、騎馬民族が先祖地を名字に使う習性があったからだ。

 民族的には、ツングース女真族(満州族)であり、同じツングースでも、濊・エベンキ・オロチョンなどとは全く異なる。



 女真族は、後に金・清を建国し、中国全土を支配しているが、天皇家は同族である。

 だから、昭和天皇は、清王朝皇帝=溥儀を傀儡満州国皇帝に据えたとき、溥儀に対して「兄弟」と呼びかけている。

 つまり裕仁氏は、満州族と天皇家が同一民族であったことを知っていたのだ。



 呉由来の、天孫降臨族=ヤマト王朝は、やがて、畿内に侵出し、騎馬民族に事実上、乗っ取られることになる。時代背景としては、私は継体天皇の時代を想定している。

 継体は福井海岸に上陸し、不可解な流れで、琵琶湖から京都に入ったが、このとき、「秦庄」という地名に名を残した。

 彼らは、当時、巨大な湿地帯だった京都盆地を埋め立てて、千年の都、京都を作り出した。



 天孫降臨族=呉の末裔ヤマト王朝は、おそらく大阪から奈良に向かい、そこに拠点を構えていたが、継体や曽我氏、聖徳太子らに王権を乗っ取られた。

 その歴史的記録を天武の時代、藤原不比等が焚書によって記録を消し去ったというのが私の推量だが、もちろん十分な証拠を得ているわけではない。



 しかし、民俗学的には、ズボンを履いた騎馬民族がAD300年以降、畿内に勢力を拡大し、やがて天皇家となるプロセスは確実と考えている。

 江上は、それまで円墳が主体だった古墳が、騎馬民族以降は方墳に変化し、馬具が大量に出土するようになったことも明らかにしている。



 これらの経過は、皇国史観系歴史家が江上を嘲笑しているような軽薄なものではない。江上説は、平泉澄学派の軽率独善からみて、桁違いに重く、現実的リアリティに富んでいる。



 この問題は、これからも何度も蒸し返して説明するつもりだ。



 追記 文中「彼らが同時代の、百済武寧王の関係者」と書きましたが、これは誤りでした。

 武寧王はAD462〜523なので、弓月渡来とは時代が違います。むしろ継体王と同時代であり、血縁が疑われています。間違った記述、申し訳ありませんでした。