人は地球という環境の上で、動物たちのように目指す目的もなく、与えられた環境に順応し、産まれて、生きて、死んでゆくのか? といえば、少し違う。
人は高い知能ゆえに「進化」を求めている。
知能・進化とは何か? 現在置かれている矛盾や不都合を解消し、より快適な未来に向かうことが知能と進化の意味するところであり、これをヘーゲルは「合理性に向かう精神」と呼んだ。
ヘーゲルは、結局、進化を求める人類の行き着く先は、究極の合理性であり、それをイデー=絶対精神と呼んだ。それは「神」という概念でもある。
そこまで極端な思索を進めずとも、我々が与えられた知能ゆえに、際限のない進化発展を求めているのは事実だ。我々は、理由も分からないまま、進化発展を求めて生きている。
もしも、人が他の動物と明確に区別される特性があるとすれば、このことだろう。
人に与えられた高い知能は、問題を解決して、より快適、合理的な世界に向けて歩むという特性があるのだ。これが人の本質だ。
現代に生きている我々は、どこを向いて歩いているのか?
より苦痛の少ない、あらゆる束縛から解放された自由な人生に向かっている。矛盾の少ない、単純明快な人生を欲している。重苦しい心の負荷から解放された、快適な精神性=人生を求めている。
どうしてそうなるのかといえば、進化発展を求める人間の一部に、権力を得て他人を支配し、自分だけの利権を得たいという者が出てくるからだ。
いいかえれば、これを利己主義という。このために利用される人々には苦痛が与えられる。
人類史・社会史を俯瞰すれば、この矛盾が、歴史の本質をなしているともいえる。
我々の生きている社会は、権力者が人に重荷を強要する社会だ。税金から始まって、苦役の強要、差別の強要、序列の強要、果てには嘘つきだらけの国家に命を捧げる徴兵の強要まである。国家が気に入らない人間は、死刑制度で抹殺してしまう。
だから、我々は、こうした国家や組織による苦役から解放されたい。人に序列をつけ、他人を差別し、見下し、ありもしない権威の虚構に洗脳されたような愚かな社会から抜け出したい。
我々は解放されたい。人間解放の人生を目指したい。
人間解放とは何か?
この社会で、もっとも人々を拘束し続けてきた虚構の「序列価値観」からの解放である。
孔子は儒教体系のなかで、人に序列をつけて組織を支配することを教えた。国家という組織に根拠を求めるとすれば、それは「序列の高い者が、低い者を支配する合理性」という虚構である。
人には生まれながらの貴賤があり、能力の差があり、序列があるという虚構を洗脳し、権力の統治に従わせるというやり方が儒教の本質である。
こうして、生物学的人間として何一つ差のないにもかかわらず、皇族と名付けられるなら、「血筋」という虚構によって「特別にえらい人たち」と根拠もなく決めつけ、人々を欺して序列の価値観をすり込んできた。
皇族なんてタダの人に過ぎないのは、彼らを観察していれば誰にもあっというまに分かる事実なのだが、そんな嘘をありがたがる一群の人々がいて、そんな嘘の価値観を全国民に強要してきたのだ。
「王様は裸だ」=「皇族はタダの人だ」と叫ぼうとすれば、抹殺される社会なのだ。
現在の社会にあって、我々は二種類の人間に区分することができる。
「王様は裸だ」と素直に言える人々と、裸なのに立派な服を着ているように思い込まされている人々だ。
なぜそうなるかといえば、序列という虚構を刷り込まれた人々にとって、「特別の価値ある人」と思い込まされている相手は、例え裸であっても立派な権威を身にまとっているかのように洗脳され、思い込まされ、畏怖させられる幻想に束縛されているからだ。
序列や権威という虚構に洗脳されている人々のことを「右翼」といい、「王様は裸だ」と言える人々のことを「左翼」と便宜上言っている。
つまり、右翼というのは、天皇が素っ裸で歩いていても王様の衣装を身につけているように思い込まされている人々であり、左翼というのは、素っ裸であることが素直に見えてしまって「王様は裸だ」と言ってしまえる人々のことである。
我々は、序列・格差・差別という虚構を「実際にはありもしない虚構にすぎない」と素直に思い、素直に口に出す。
すると、それを激しく怒り、ありもしない序列の虚構にしがみつこうとする人々が出てくる。今の日本は、そんな連中が社会を支配している。
なぜかというと、無条件に権威や序列に従う人間は、権力者にとって、とてもありがたい存在であり、その人を利用して利権を得て、自分の権力を拡大再生産できるからだ。
この文章は、昨日のブログの続きのつもりで書き出したが、ずいぶん異なる方向に歩き出してしまった。昨日書いたことは、以下のようだ。
【日本人は合理化が大好きなので、すぐに効率化、合理化を進め、会社組織のような生産性を作り出し、上下関係を生み出してしまう。
だが、それでは、これまでの日本社会と本質的に何も変わらないことになってしまう。
それでは「真の人間解放」を実現することはできないのだ。】
「人間解放の理念」を示したかった。
人間は高い知能があり、それは他人との比較のなかで鍛えられてゆく。競争は知能を高めるのだが、それゆえに、競争の勝者は、弱者を支配する傾向が生まれる。
勝者は必ず奢るようになり、弱者を見下すようになり、序列と差別が自然発生してくる。
日本人は競争の好きな民族だ。「自分こそは勝者だ」と自己満足したくて、すぐに序列と階級を作り出し、差別に自己陶酔するのだ。
そんな関係ができれば、その集団には必ず階級差別の構造が成立してくる。
例えば、「れいわ新撰組」で、大西つねきという人物が、「命の選別が政治家の仕事」と言い出した。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1179.html
彼は、金融トレーダーで、大金持ちであり、この社会の勝者でいるつもりの人物だ。それが障害者など、底辺に必死に生きる人々を自分の判断で選別する=抹殺する=と発言した。
さすがに山本太郎も、大西を追放したのだが、「強者であれば弱者の命を選別支配できる」と勘違いした人物が出てきたのには本当に驚かされた。
私が前回のブログで、共同体の構成人員が20名を大きく超えると、それは必ず階級分化した組織になり、効率をタテに、人を選ぶようになると言いたかったのだが、組織のなかで有能と無能というように分別が行われるようになると、必ず大西のような人物が登場してきて、共同体における「人間解放」の理念を破壊し始めるからだ。
私も、若い頃から、さまざまな組織を見てきて、日本人のなかに強固に存在している「有能・無能の選別」という価値観が、組織に序列を持ち込み、有能さや効率を錦の御旗にした「人間疎外の組織」に変わってゆくということを思い知らされている。
私がかかわったベ平連的市民運動や、ヤマギシ会なども例外なく、「有能・無能の選別」により、序列の価値観がグループの団結を根底から浸食してゆく姿を見せつけられてきた。
だから、我々が精神的ストレスの少ない、みんなが楽しく連帯できる共同体を作ろうとするとき、最初から最後まで克服しなければならない問題が、序列と選別の価値観なのだ。
「人間解放」という理念を実現しようとすれば、必ず人間の序列を排し、人の笑顔を自分の喜び、生き甲斐として前に進む利他主義の価値観を共有しなければならない。
解放された人間には序列はない。有能も無能もない。あるのは、「あなたが嬉しければ私も嬉しい」という純粋な連帯感だけなのだ。
人間疎外は利己主義を増殖させる。誰か一人が独占的権力や利益を求め始めれば、組織全体が腐ってゆき、「金儲けが最高の価値」と決めつける思想が蔓延するようになる。 こうなれば、共同体は金儲けだけに支配されて、人間はただの労働力に転落させられてしまう。人々は、一番大切な笑顔を失ってゆくのだ。
利他主義は失われ、利己主義だけに支配されるようになる。これが今の日本の姿だ。
だから、今の日本では、我々は「王様は裸だ」と言うことさえできず、呼吸することさえ苦しい毎日であり、未来に何の希望も持てない重苦しさに支配されている。
これが「人間解放」の正反対の姿であり、「人間疎外」という現実なのだ。
こんな利己主義者の社会を、利他主義によって奪い返さねばならない。
我々は、コロナ禍のなかで、利他主義を指標にして共同体を結成しなければ生き抜けないように追い込まれている。
「自分だけ金儲けして、権力を得て、特別ないい思いをしたい」という利己主義では、もはや生きてゆくことさえできない社会に変わりつつある。
他人の笑顔を人生の最高価値とする利他主義を頼りに生き抜いてゆかねばならない時代なのだ。
人は高い知能ゆえに「進化」を求めている。
知能・進化とは何か? 現在置かれている矛盾や不都合を解消し、より快適な未来に向かうことが知能と進化の意味するところであり、これをヘーゲルは「合理性に向かう精神」と呼んだ。
ヘーゲルは、結局、進化を求める人類の行き着く先は、究極の合理性であり、それをイデー=絶対精神と呼んだ。それは「神」という概念でもある。
そこまで極端な思索を進めずとも、我々が与えられた知能ゆえに、際限のない進化発展を求めているのは事実だ。我々は、理由も分からないまま、進化発展を求めて生きている。
もしも、人が他の動物と明確に区別される特性があるとすれば、このことだろう。
人に与えられた高い知能は、問題を解決して、より快適、合理的な世界に向けて歩むという特性があるのだ。これが人の本質だ。
現代に生きている我々は、どこを向いて歩いているのか?
より苦痛の少ない、あらゆる束縛から解放された自由な人生に向かっている。矛盾の少ない、単純明快な人生を欲している。重苦しい心の負荷から解放された、快適な精神性=人生を求めている。
どうしてそうなるのかといえば、進化発展を求める人間の一部に、権力を得て他人を支配し、自分だけの利権を得たいという者が出てくるからだ。
いいかえれば、これを利己主義という。このために利用される人々には苦痛が与えられる。
人類史・社会史を俯瞰すれば、この矛盾が、歴史の本質をなしているともいえる。
我々の生きている社会は、権力者が人に重荷を強要する社会だ。税金から始まって、苦役の強要、差別の強要、序列の強要、果てには嘘つきだらけの国家に命を捧げる徴兵の強要まである。国家が気に入らない人間は、死刑制度で抹殺してしまう。
だから、我々は、こうした国家や組織による苦役から解放されたい。人に序列をつけ、他人を差別し、見下し、ありもしない権威の虚構に洗脳されたような愚かな社会から抜け出したい。
我々は解放されたい。人間解放の人生を目指したい。
人間解放とは何か?
この社会で、もっとも人々を拘束し続けてきた虚構の「序列価値観」からの解放である。
孔子は儒教体系のなかで、人に序列をつけて組織を支配することを教えた。国家という組織に根拠を求めるとすれば、それは「序列の高い者が、低い者を支配する合理性」という虚構である。
人には生まれながらの貴賤があり、能力の差があり、序列があるという虚構を洗脳し、権力の統治に従わせるというやり方が儒教の本質である。
こうして、生物学的人間として何一つ差のないにもかかわらず、皇族と名付けられるなら、「血筋」という虚構によって「特別にえらい人たち」と根拠もなく決めつけ、人々を欺して序列の価値観をすり込んできた。
皇族なんてタダの人に過ぎないのは、彼らを観察していれば誰にもあっというまに分かる事実なのだが、そんな嘘をありがたがる一群の人々がいて、そんな嘘の価値観を全国民に強要してきたのだ。
「王様は裸だ」=「皇族はタダの人だ」と叫ぼうとすれば、抹殺される社会なのだ。
現在の社会にあって、我々は二種類の人間に区分することができる。
「王様は裸だ」と素直に言える人々と、裸なのに立派な服を着ているように思い込まされている人々だ。
なぜそうなるかといえば、序列という虚構を刷り込まれた人々にとって、「特別の価値ある人」と思い込まされている相手は、例え裸であっても立派な権威を身にまとっているかのように洗脳され、思い込まされ、畏怖させられる幻想に束縛されているからだ。
序列や権威という虚構に洗脳されている人々のことを「右翼」といい、「王様は裸だ」と言える人々のことを「左翼」と便宜上言っている。
つまり、右翼というのは、天皇が素っ裸で歩いていても王様の衣装を身につけているように思い込まされている人々であり、左翼というのは、素っ裸であることが素直に見えてしまって「王様は裸だ」と言ってしまえる人々のことである。
我々は、序列・格差・差別という虚構を「実際にはありもしない虚構にすぎない」と素直に思い、素直に口に出す。
すると、それを激しく怒り、ありもしない序列の虚構にしがみつこうとする人々が出てくる。今の日本は、そんな連中が社会を支配している。
なぜかというと、無条件に権威や序列に従う人間は、権力者にとって、とてもありがたい存在であり、その人を利用して利権を得て、自分の権力を拡大再生産できるからだ。
この文章は、昨日のブログの続きのつもりで書き出したが、ずいぶん異なる方向に歩き出してしまった。昨日書いたことは、以下のようだ。
【日本人は合理化が大好きなので、すぐに効率化、合理化を進め、会社組織のような生産性を作り出し、上下関係を生み出してしまう。
だが、それでは、これまでの日本社会と本質的に何も変わらないことになってしまう。
それでは「真の人間解放」を実現することはできないのだ。】
「人間解放の理念」を示したかった。
人間は高い知能があり、それは他人との比較のなかで鍛えられてゆく。競争は知能を高めるのだが、それゆえに、競争の勝者は、弱者を支配する傾向が生まれる。
勝者は必ず奢るようになり、弱者を見下すようになり、序列と差別が自然発生してくる。
日本人は競争の好きな民族だ。「自分こそは勝者だ」と自己満足したくて、すぐに序列と階級を作り出し、差別に自己陶酔するのだ。
そんな関係ができれば、その集団には必ず階級差別の構造が成立してくる。
例えば、「れいわ新撰組」で、大西つねきという人物が、「命の選別が政治家の仕事」と言い出した。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1179.html
彼は、金融トレーダーで、大金持ちであり、この社会の勝者でいるつもりの人物だ。それが障害者など、底辺に必死に生きる人々を自分の判断で選別する=抹殺する=と発言した。
さすがに山本太郎も、大西を追放したのだが、「強者であれば弱者の命を選別支配できる」と勘違いした人物が出てきたのには本当に驚かされた。
私が前回のブログで、共同体の構成人員が20名を大きく超えると、それは必ず階級分化した組織になり、効率をタテに、人を選ぶようになると言いたかったのだが、組織のなかで有能と無能というように分別が行われるようになると、必ず大西のような人物が登場してきて、共同体における「人間解放」の理念を破壊し始めるからだ。
私も、若い頃から、さまざまな組織を見てきて、日本人のなかに強固に存在している「有能・無能の選別」という価値観が、組織に序列を持ち込み、有能さや効率を錦の御旗にした「人間疎外の組織」に変わってゆくということを思い知らされている。
私がかかわったベ平連的市民運動や、ヤマギシ会なども例外なく、「有能・無能の選別」により、序列の価値観がグループの団結を根底から浸食してゆく姿を見せつけられてきた。
だから、我々が精神的ストレスの少ない、みんなが楽しく連帯できる共同体を作ろうとするとき、最初から最後まで克服しなければならない問題が、序列と選別の価値観なのだ。
「人間解放」という理念を実現しようとすれば、必ず人間の序列を排し、人の笑顔を自分の喜び、生き甲斐として前に進む利他主義の価値観を共有しなければならない。
解放された人間には序列はない。有能も無能もない。あるのは、「あなたが嬉しければ私も嬉しい」という純粋な連帯感だけなのだ。
人間疎外は利己主義を増殖させる。誰か一人が独占的権力や利益を求め始めれば、組織全体が腐ってゆき、「金儲けが最高の価値」と決めつける思想が蔓延するようになる。 こうなれば、共同体は金儲けだけに支配されて、人間はただの労働力に転落させられてしまう。人々は、一番大切な笑顔を失ってゆくのだ。
利他主義は失われ、利己主義だけに支配されるようになる。これが今の日本の姿だ。
だから、今の日本では、我々は「王様は裸だ」と言うことさえできず、呼吸することさえ苦しい毎日であり、未来に何の希望も持てない重苦しさに支配されている。
これが「人間解放」の正反対の姿であり、「人間疎外」という現実なのだ。
こんな利己主義者の社会を、利他主義によって奪い返さねばならない。
我々は、コロナ禍のなかで、利他主義を指標にして共同体を結成しなければ生き抜けないように追い込まれている。
「自分だけ金儲けして、権力を得て、特別ないい思いをしたい」という利己主義では、もはや生きてゆくことさえできない社会に変わりつつある。
他人の笑顔を人生の最高価値とする利他主義を頼りに生き抜いてゆかねばならない時代なのだ。

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