いつのまにか、気づかないうちに老人といわれる年齢になって、死の影に包まれ行く自分を見て、生きているうちに、自分は、いったい何を残したのだろう? と振り返ってみても、「そこには風が吹いているだけ……」。(ごめん、フォークルさん)
昔、そのまた昔、人々は、個人で生きていたわけではなかった。「その人」ではなく、「一族=部族=一団」とでも表現すべき、集合体で生きていた。
それは例えば、白川郷あたりの記録をみれば、明治時代まで、一軒の合掌造りで、数十名の人々が共同生活をしていて、柳田国男の秋風帖には荘川で最大42名が一軒に住んでいたと書かれている。
そこに、個性はあっただろうが、「自分を強く意識する個的自我」は少なかっただろう。男女は別々の部屋で居住し、結婚(性交)は、一つ屋根の同居人とは固く禁止され、必ず他の屋根の異性でなければならなかった。
もちろん、これは遺伝病を出さないための洗練された「生活の知恵」だった。
合掌造りには、茶室のような小さな「にじり戸」が設けられ、それが異性に逢いにゆく扉だった。
性交は、小さな出作り小屋などで行った。生まれてくる子供は、一つ屋根の「みんなの子」だった。一応、男女の関係は特定されていて、もしも、他の異性と浮気でもしようものなら、集落全体から口を極めて罵られたと書かれている。
人々は、「個人としての人生」を送るのではなく、家に付随した「みんなのための人生」を送った。そこでは「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という共同体の合理的な関係があり、白川郷では、人の自我は、その家に付随したものと考え、いわば、珊瑚が一つ一つの胞子に独立しながら、全体で「共生体」を作り出して、それが「一個の存在」であるかのように、人の心は「全体像」を見せても、独立したものではなかった。
私は、若い頃から全国の山を歩き、「限界集落」を多く見てきた。数十名にまで減った小さな集落では、一人一人に集落を守るための大切な役割があって、一人一人の個性の集合体が、集落の命を司っている。
そんな不便な限界集落に、国や自治体が道を拓くと何が起きるか? それは限界集落に便宜を図って作られたのに、道は限界集落にとどめを刺す残酷な剣として作用する。
「拓かれた道」を通って、人々は、そこから出ていってしまうのだ。
白川郷でも同じことが起きた。冬になれば5メートルもの積雪のある白川郷では、その閉鎖性故に、人々の共有と団結があったのだ。
そこに、資本主義と道がやってきた。
戦国時代から、白川郷は「煙硝つくり=鉄砲火薬」に適した環境として知られ、加賀藩は、「お留め村」として外部との出入りを遮断して、白川郷の住民に煙硝作りに当たらせていたのだが、それも明治維新とともに廃れた。
代わって入ってきたのが生糸産業のような資本主義だった。
それは高山や岡谷などで最初に一大産業として勃興し、女工さんの人手を求めて、飛騨一帯の娘たちが駆り出されるようになった。
白川郷からも、娘たちが、白骨や野麦峠を経て高山や松本、岡谷に斡旋されるようになった。
これが白川郷の共同体を崩壊させた。娘たちは苛酷な労働であっても、そこで稼ぐようになり、一個の個性と自我を成立させていったのだ。
ひとたび、「個人生活」を知った娘たちは、元の共同体合掌集落に帰りたがらなくなった。六畳一間に10名以上が寝るような生活に戻りたくなかったのだ。そこには個人的自由が存在しなかったのだから。
一つの共同体では、一人一人に共同体を支えるための大きな役割が課されている。食料生産、家事、介護、子育て、祭祀など、それは決して楽ではないが、共同体の一員として、集落全体をも支える大切な生活要素だった。
だが、資本主義は、そんな共同体から情け容赦なく、大切な「細胞」を奪っていった。
とりわけ、若い娘たちが高山や岡谷に出るようになると、合掌造りを支えてきた要素、介護や家事、祭祀が崩壊してゆく。子供が減ってゆく。遺されるのは老人ばかり。
老人は、孤独に埋もれて朽ちてゆかねばならなくなった。
共同体では、若い娘に子供が生まれてきて、子供たちは、老人たちの愛と教育をいっぱいに受けて、その死を見ながら育ってゆくのだ。
老人にとって、子供たちに、自分の人生で得た、すべての知識と経験を教えながら、自分の死に様を見せて去ってゆくというのが、共同体生活の神髄なのだ。
私自身が、今、自分の死期を前にして、本当にいたたまれないほど後悔しているのは、そうして、自分の得てきたものを伝える子供たちが目の前にいないということだ。
だから、せめて一生懸命、ブログの文字で遺そうとしている。
FC2ブログが、どれほど残るのかは分からないが、ヤフーブログで10年以上にわたって書き留めたものは、ヤフーによるブログ閉鎖で灰燼に帰した。半分以上が永久に失われてしまった。
このブログも、私が死ねば、いつまでも残らないだろう。大切なことは、「生きた子供たち、若者たち」に、私が人生で得た体験、知識を遺すことなのだが、自分は、ほとんど遺せないことが悲しく、残念だ。
「どれだけ遺せたか?」
が、人生の成果であるはずなのだが、私の遺すものは、役に立たないゴミばかりだ。
本当ならば、アルプスのハイジのような、子供たちが全力で体を動かして、たくさんの動物たちと交流して、命の大切さに感動しながら、社会や世界の哲学を構築してゆけるような共同体牧場を遺したかった。
まあ、他人に対する嫌がらせだけで一生を終える馬鹿と比べれば、多少はマシなのかもしれないが、私は「哲学」を遺したかったのに、残念ながら、風に吹かれて飛んでしまうような言葉の羅列しか遺せないのが悲しい。
とりわけ、自民党青年部のゴミどもが、私を低俗下劣に誹謗中傷し続けて、なんでこんな愚かな連中が、私を取り巻いているか、それが私の波動が吸引したことによるものなのか、残念でならない。
たぶん、私が彼らの妄想のなかに生み出された、「被曝しても被害はない」かのような脳天気観念をぶち壊していて、それが絶対に許せないということなのだろう。
だが、自民党・保守の愚かすぎる価値観=利己主義による世界は、自らの愚劣さによって自滅寸前であり、もう時間の問題で、人々の人生からも、社会からも追放されてゆくだろう。
それは、人の命より金儲けを上位に置く価値観であり、それ自身の矛盾によって破綻したのだ。
福島の被曝の真実も、いつまでも隠し通すことができるはずがない。必ず、私が書いてきた恐ろしい真実が人々に共有されるときがくるはずだ。
福島第一原発の事故で、数千名の人々が、放射能で直接殺されたこと。数千万人の人々が被曝して、心臓病や癌のイニシエーションを受けてしまったこと。
胎児被曝させられた子供たちの知的劣化が起きていることなどが、誰の目にも明らかにされるはずだ。
そのときになれば、我々、反原発活動家が続けてきたことの意味を理解してくれる人も増えるにちがいない。
また、正真正銘の利他主義の時代がやってくるにちがいない。
もしも、我々の世界に未来があるとすれば、それは「利他主義」だけなのだから。
昔、そのまた昔、人々は、個人で生きていたわけではなかった。「その人」ではなく、「一族=部族=一団」とでも表現すべき、集合体で生きていた。
それは例えば、白川郷あたりの記録をみれば、明治時代まで、一軒の合掌造りで、数十名の人々が共同生活をしていて、柳田国男の秋風帖には荘川で最大42名が一軒に住んでいたと書かれている。
そこに、個性はあっただろうが、「自分を強く意識する個的自我」は少なかっただろう。男女は別々の部屋で居住し、結婚(性交)は、一つ屋根の同居人とは固く禁止され、必ず他の屋根の異性でなければならなかった。
もちろん、これは遺伝病を出さないための洗練された「生活の知恵」だった。
合掌造りには、茶室のような小さな「にじり戸」が設けられ、それが異性に逢いにゆく扉だった。
性交は、小さな出作り小屋などで行った。生まれてくる子供は、一つ屋根の「みんなの子」だった。一応、男女の関係は特定されていて、もしも、他の異性と浮気でもしようものなら、集落全体から口を極めて罵られたと書かれている。
人々は、「個人としての人生」を送るのではなく、家に付随した「みんなのための人生」を送った。そこでは「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という共同体の合理的な関係があり、白川郷では、人の自我は、その家に付随したものと考え、いわば、珊瑚が一つ一つの胞子に独立しながら、全体で「共生体」を作り出して、それが「一個の存在」であるかのように、人の心は「全体像」を見せても、独立したものではなかった。
私は、若い頃から全国の山を歩き、「限界集落」を多く見てきた。数十名にまで減った小さな集落では、一人一人に集落を守るための大切な役割があって、一人一人の個性の集合体が、集落の命を司っている。
そんな不便な限界集落に、国や自治体が道を拓くと何が起きるか? それは限界集落に便宜を図って作られたのに、道は限界集落にとどめを刺す残酷な剣として作用する。
「拓かれた道」を通って、人々は、そこから出ていってしまうのだ。
白川郷でも同じことが起きた。冬になれば5メートルもの積雪のある白川郷では、その閉鎖性故に、人々の共有と団結があったのだ。
そこに、資本主義と道がやってきた。
戦国時代から、白川郷は「煙硝つくり=鉄砲火薬」に適した環境として知られ、加賀藩は、「お留め村」として外部との出入りを遮断して、白川郷の住民に煙硝作りに当たらせていたのだが、それも明治維新とともに廃れた。
代わって入ってきたのが生糸産業のような資本主義だった。
それは高山や岡谷などで最初に一大産業として勃興し、女工さんの人手を求めて、飛騨一帯の娘たちが駆り出されるようになった。
白川郷からも、娘たちが、白骨や野麦峠を経て高山や松本、岡谷に斡旋されるようになった。
これが白川郷の共同体を崩壊させた。娘たちは苛酷な労働であっても、そこで稼ぐようになり、一個の個性と自我を成立させていったのだ。
ひとたび、「個人生活」を知った娘たちは、元の共同体合掌集落に帰りたがらなくなった。六畳一間に10名以上が寝るような生活に戻りたくなかったのだ。そこには個人的自由が存在しなかったのだから。
一つの共同体では、一人一人に共同体を支えるための大きな役割が課されている。食料生産、家事、介護、子育て、祭祀など、それは決して楽ではないが、共同体の一員として、集落全体をも支える大切な生活要素だった。
だが、資本主義は、そんな共同体から情け容赦なく、大切な「細胞」を奪っていった。
とりわけ、若い娘たちが高山や岡谷に出るようになると、合掌造りを支えてきた要素、介護や家事、祭祀が崩壊してゆく。子供が減ってゆく。遺されるのは老人ばかり。
老人は、孤独に埋もれて朽ちてゆかねばならなくなった。
共同体では、若い娘に子供が生まれてきて、子供たちは、老人たちの愛と教育をいっぱいに受けて、その死を見ながら育ってゆくのだ。
老人にとって、子供たちに、自分の人生で得た、すべての知識と経験を教えながら、自分の死に様を見せて去ってゆくというのが、共同体生活の神髄なのだ。
私自身が、今、自分の死期を前にして、本当にいたたまれないほど後悔しているのは、そうして、自分の得てきたものを伝える子供たちが目の前にいないということだ。
だから、せめて一生懸命、ブログの文字で遺そうとしている。
FC2ブログが、どれほど残るのかは分からないが、ヤフーブログで10年以上にわたって書き留めたものは、ヤフーによるブログ閉鎖で灰燼に帰した。半分以上が永久に失われてしまった。
このブログも、私が死ねば、いつまでも残らないだろう。大切なことは、「生きた子供たち、若者たち」に、私が人生で得た体験、知識を遺すことなのだが、自分は、ほとんど遺せないことが悲しく、残念だ。
「どれだけ遺せたか?」
が、人生の成果であるはずなのだが、私の遺すものは、役に立たないゴミばかりだ。
本当ならば、アルプスのハイジのような、子供たちが全力で体を動かして、たくさんの動物たちと交流して、命の大切さに感動しながら、社会や世界の哲学を構築してゆけるような共同体牧場を遺したかった。
まあ、他人に対する嫌がらせだけで一生を終える馬鹿と比べれば、多少はマシなのかもしれないが、私は「哲学」を遺したかったのに、残念ながら、風に吹かれて飛んでしまうような言葉の羅列しか遺せないのが悲しい。
とりわけ、自民党青年部のゴミどもが、私を低俗下劣に誹謗中傷し続けて、なんでこんな愚かな連中が、私を取り巻いているか、それが私の波動が吸引したことによるものなのか、残念でならない。
たぶん、私が彼らの妄想のなかに生み出された、「被曝しても被害はない」かのような脳天気観念をぶち壊していて、それが絶対に許せないということなのだろう。
だが、自民党・保守の愚かすぎる価値観=利己主義による世界は、自らの愚劣さによって自滅寸前であり、もう時間の問題で、人々の人生からも、社会からも追放されてゆくだろう。
それは、人の命より金儲けを上位に置く価値観であり、それ自身の矛盾によって破綻したのだ。
福島の被曝の真実も、いつまでも隠し通すことができるはずがない。必ず、私が書いてきた恐ろしい真実が人々に共有されるときがくるはずだ。
福島第一原発の事故で、数千名の人々が、放射能で直接殺されたこと。数千万人の人々が被曝して、心臓病や癌のイニシエーションを受けてしまったこと。
胎児被曝させられた子供たちの知的劣化が起きていることなどが、誰の目にも明らかにされるはずだ。
そのときになれば、我々、反原発活動家が続けてきたことの意味を理解してくれる人も増えるにちがいない。
また、正真正銘の利他主義の時代がやってくるにちがいない。
もしも、我々の世界に未来があるとすれば、それは「利他主義」だけなのだから。

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