https://bigissue-online.jp/archives/1075236447.html



 子供の頃、今から60年も前のことだが、父親が我が家のブロック塀の上に、モルタルで割れたガラスを埋め込んだ。ネコを排除するためだ。

 私は、子供心に「なんて、ひどいことをする父親なんだ」と憤り、いっぺんに父が嫌いになった。



 父にしてみれば、苦労して建てた我が家に、ネコを招いた覚えはないと怒って、排除に走ったのだろう。私有意識の強い父だった。彼の関心は、自分の財産と権力を誇示して、威を張ることだったのだろう。

 ネコと共存するという意識は存在しなかった。



 街を歩いていると、同じようにネコを排除する危険な仕掛けをしている家は少なくない。共通点は、みんな立派な塀を持っていることだ。

 塀は、「他人を我が家に入れない」仕掛けだが、それは危険な泥棒や押し売りを排除すると同時に、自分の心をも固く閉ざし、他人を受け入れないことの意思表明になってしまう。

 少なくとも、「塀」という価値観を共有できる者以外は……。



 もし、父親が生きていたら、トランプの「メキシコ国境の壁」政策に何を感じただろう? たぶん、トランプを支持したにちがいない。

 壁はメキシコ人の侵入を拒絶すると同時に、メキシコ人の助けをも拒絶する意思表明だ。人々を拒絶するとともに、自分をも遮断し、孤立させ、交流から得られる成果も拒否するのだ。



 塀は、拒絶であり戦争の意思表明でもある。万里の長城が、それをはっきりと示している。客家の円楼も拒絶の壁だ。中国には、昔から械闘という恐ろしい習慣があって、ある一族が、他の一族を皆殺しにして資産を乗っ取ってしまうのだ。円楼は、まさに械闘のための砦なのだ。



 これに対して、見知らぬ人々に対しても分け隔てなく優しさを示すポリネシアでは塀は存在しない。塀は、その民族の他者への融和性を示す尺度である。

 他人に暖かいポリネシアでは民族が滅亡した記録はないが、巨大な塀を作った国家・民族で、滅亡しなかった例はない。



 もう十数年前のことだが、私は千葉市の幕張臨海公園を散歩していた。



 トイレなき公園 2009年03月16日

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-291.html



 幕張には、広大な野原が続き、立派な公園が整備されていた。だが、小用を催してトイレに立ち寄ると厳重に封鎖されていて入れない。水を飲もうと、水飲み場に行くと、バルブがすべて撤去されていた。

 当時、激増していたホームレス対策だと、すぐに分かった。



 私は、これを見て、千葉市の行政の姿勢に対し、冒頭に書いた、父親が塀に埋めたガラスと同じ不快感、絶望感を抱いた。

 千葉市の市長(当時は鶴岡啓一)の冷酷な発想を思って、「こんな街には住みたくない」と思った。千葉県は、汚職が多いことでも知られているが、江戸時代から関八州ヤクザの拠点で、闇に隠れた不正の多い地域でもある。

 新潟県のように、人に対する暖かさが感じられない。



 日本社会全体が、千葉市のように弱者を排除する思想が鮮明になりつつあることを感じている人は多いだろう。

 今回は、「排除アート」という、奇っ怪で残酷、まるで現代に生きるナチズムが作ったとしか思えない構造物を見ておこう。



 人間を拒絶する排除アートはすべて排除すべきだ 

http://www.asyura2.com/20/genpatu53/msg/266.html

魑魅魍魎男 2021 年 1 月 24 日

 

魑魅魍魎氏の価値観には全面的に賛同する。これができはじめたのは、やはり、竹中平蔵による正社員追放、雇用の臨時派遣化、ルンペン化政策が行われ、リーマンショックで、大量の非正規採用者が街頭に放り出されて、野宿者となった、あの時代だ。



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 私は、都心部のあらゆる空間に、次々に「排除アート」なる、行政による悪意のデモンストレーションを見せつけられて、毎日、不快な厭世観に沈んでいた。

 リーマンショックで職を失い、宿舎を追われてホームレスになったのは、個人の努力不足ではなく、自分の意思でもない。

 国家権力が、経済危機の失政を、一人一人の個人に押しつけて逃げ、底辺で国家や企業を支えていた人々を、救いもせず、情け容赦なく徹底的に追い払ったのだ。



 これによって、たくさんの人々が自殺に追い込まれたのは、現在起きているコロナ禍と同じだ。

 こんな愚劣極まりない自民党保守の行政を許している人たちも同罪だ。まさに今、コロナ禍で、当時ホームレスを嫌悪し、悪意を見せて追放しようとした人々が、今度は被害者の側に立とうとしている。



 こんな極度に不愉快な「排除アート」を作った人々は、「悪意の見本」として、永遠に後世に遺すべきだろう。

 こういう発想は、例えば、車を転落から守るガードレールに、転落させる罠や残酷な突起物をつけて、車を大破させるような愚劣な発想に進化してゆくにちがいない。

 それは、構想した人を含めて、許容する人々の心を地獄に墜としてゆくのだ。



 「排除アート」の構想者は、もはや、とっくに地獄に墜ちているだろう。無意識のうちに、「弱者は排除すべき」という悪意を洗脳してしまう。「優しさ」という心を奪い去ってしまう。それは、自宅に持ち帰って、家族や友人をも不幸に陥れるのだ。

 ホームレスを排除したつもりで、本当に排除したのは「自分の良心」なのだ。 



 こんな悪意のモニュメントは、かかわるすべての人々の心を、不幸のどん底に陥れてゆくにちがいない。ひいては、日本の未来を真っ黒に塗りつぶし、子供たちの明るい未来をも排除してゆくのだ。