かつて、1957年、神戸に中内功率いるダイエーというスーパーマーケットが誕生した。 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進し、日本の小売業を席巻したといっても過言ではないが、1990年、バブル崩壊とともに挫折して、イオンに買収される結果になり、現在は名前だけを残している。



 同じく、大規模店舗の小売業では、ユニーやイトーヨーカドー、西友、ジャスコ(イオン)などがあったが、ダイエーが最初に破綻した理由は、誰がどうみても、呆れるほどの拡大覇権主義だったといえよう。



 凄まじい勢いで店舗を増やし、地域の伝統的な小売供給システムを押しつぶすように破壊しながら、怪獣のように増殖を遂げていった。

 破綻の前後には、人間より狸や狐の方が多いのでは、と思われる過疎の田舎にまで進出して看板を上げた。



 これを見て、多くの人々は、後先を考えず、発展があれば衰退がある「諸行無常」を見ようともせず、ひたすら、「拡大すれば利益が増える」の妄想と呪縛から逃れられない自縛的経営スタイルを見て「ダイエーは時間の問題で破綻する」と確信し、私もそう思った。



 ダイエーの破綻は予想通りとして、驚いたのは、ダイエーに続いたユニーやイオンもまた、ダイエーが自滅した轍をそのまま踏んで断崖絶壁に向かって突き進んできたことだった。

 まるで大規模小売業界全体が、拡大主義の呪縛のなかに、互いの見栄張り競争を繰り返すなかで、自制的発想が存在しないかのようだった。

 もちろん、ユニーもイオンも、予想どうりの断崖絶壁に向かう自滅坂を転がり落ちている最中だ。



 そもそも、私は日本にアマゾンが登場した2000年前後、ネット通販の便利さ、合理性を見て、もう大規模小売業は歴史的使命を終えて、通販に地位を明け渡すしかないと確信し、ダイエーが崩壊した後もなお、競争拡張主義の愚かさを反省せずに、店舗増大を止めようとしない、ユニーやイオンの自滅を完全に予測していた。



 この頃、世界がアマゾンの手中に落ちることを予測したが、しかし、その後、アマゾンが信用力のない無責任で詐欺的な中国産業を利用するようになり、これはアマゾン全体の信用を失わせ、衰退に向かわせることになるだろうとも考えた。

 実際に、今起きているアマゾンの足踏みは、中国の詐欺商法を利用した報いというしかない。



 私が、中津川市に移住してからも、地域の小売業の変遷を見つめてきたのだが、2003年当時、当地のスーパーは、スマイルによって独占されていたが、その後、東濃地区を拠点とするバローグループが大規模に進出し、店舗を10近く増やした。

 これはダイエーやユニーの衰退の隙を狙って入り込んだものだ。



 現在では、バロー薬局や、オークマ、ゲンキーといった集中小売業の店舗が、かつてのダイエーの轍を 何一つ反省せずに拡大主義に陥っている。

 私は、オークマもゲンキーも、過疎地中津川市によほどの人口激増が起きない限り、存続は困難と考えている。

 そもそも、こんな人口の少ない過疎地に、どうして、たくさんの店舗を支える大量の消費ニーズが存在するのか、経営のもっとも基本的なリサーチ情報が存在しないかのようだ。



 いったい、なんで、こんなに競争拡大ばかりにしか目を向けないのだ?



 ダイエーという巨大な失敗先例があり、ユニーが撤退し、スマイルが縮小し、バローも飽和しているのに、なぜ人間よりカモシカや猪の方が多そうな、こんな田舎町に新店舗が殺到するのか、まことに奇天烈、天下の七不思議だ。

 「おめーら、脳味噌が空っぽなのか?」



 もちろん、これは経営者が拡大競争の自縄自縛に陥っているからで、競争意識で見栄を張り合って拡大レースをやっていて、地域社会の消費のバランスとか、抑制とか、撤退とか、企業経営の後退局面が、一切目に入らないほど競争に夢中になってしまっているからだろう。

 結局、経営者の誰一人、ダイエーの愚かな轍から外れることができず、そのままレミングの群れのように断崖絶壁に飛び込んで自滅する道を選んでいるのだ。



 私は、過去のブログのなかで、さんざん、「資本主義は、競争と拡大再生産にしか生きられない」と指摘してきた。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-162.html



 その理由は、資本主義社会の本質から来ている。日本のような資本主義社会における企業は、多額の納税を避けるために、利益の大半を設備投資と配当金に回し、借金経営のなかで利益を最小に計上しなければ株主が納得しない。

 企業は、必ず多額の借金に押しつぶされ、あえぎながら設備投資、拡大再生産に邁進することしか考えられないのだ。

 それによって、人間より狐狸兎相手に商売するのかと言いたくなる弩田舎に巨大な店舗を建設するのである。それが自滅の合図だ……。



 企業は、借金と拡大再生産なくして延命することができない。そして、最期は消費ニーズを見誤って、拡大再生産のなかで、「赤信号みんなで滅べば怖くない」と、究極の不況、断崖絶壁のなかにレミングの群れのように集団自殺してゆくのである。

 資本主義の辞書には、「繁栄があれば衰退がある」という諸行無常の真理を示す言葉が存在していないのだ。



 まあ、ダイエーやユニー、イオンが崩壊してゆくくらいなら、いくらでも代わりがあるから問題ないのだが、今は、東芝・日立・三菱といった戦前からの日本資本主義大黒柱が朽ちて倒壊しようとしている。原発に未練を持ち、拘泥したせいだ。

 内部留保を450兆円ため込んでいたって、底辺のニーズが失われてしまえば、シロアリに土台を食い荒らされた豪邸のごとく、倒壊する運命しか残されていない。



 ケインズは、ニューデール恐慌のなかで、景気の本質は、底辺の消費者の消費ニーズにあると喝破した。だから、ケインズは底辺の大衆に消費資金を供給するための公共投資に力を入れるようルーズベルトに促した。

 ドイツのシャハトも同じだ。第一次大戦で疲弊の極地にいたドイツ労働者階級に、直接カネを渡して元気づけ、消費を活性化することだけがドイツ復活の道と確信し、アウトバーン建設を使って、ドイツ労働者階級に新鮮な血液を流し込んだのだ。



 景気の本質は、「人々の未来に向けた希望のマインド」だ。未来が鮮明に見えるからこそ、人々は手元にあるカネを使って、未来に向かって走り出そうとする。

 未来が見えなければ、誰も動こうとさえしない。消費は流行であるとともに「雰囲気」なのだ。



 ところが、日本の究極の痴呆政権=安倍晋三・竹中平蔵の自民党は何をやったか? 消費に10%という罰金を科し、今回のコロナ対策資金として、消費税を15%に増税するとまで言っている。

 新型コロナ禍は、資本の流動性を止めている。いわば血液が滞り、日本経済全体が回転力を失ってしまっている。



 これに、さらに消費税増税をかければ、日本経済の死を通り越して、日本という国の機構そのものがドロドロに腐り落ちてしまうだろう。

 今の、政治家・官僚たちの無能・無知蒙昧・人間性崩壊は、もう絶望の一語であり、これも学歴社会の増長傲慢がもたらしたものなのだが、それ以上に、世襲議員利権を前提とした腐敗した身分制度が確立してしまっている。

 どんなに有能であっても、世襲議員の利権の前に、自由に正しい仕事をこなすことができない。



 安倍晋三という稀代の嘘つき、無能宰相に対して、正論を言って諫める者は絶無だ。

 ただ安倍の背後に控える官邸の警察官僚たちを恐れ、愚かな忖度を繰り返すばかりである。

 こんな絶望的無策ばかり繰り返されれば、やがて、大都市の路上に病死者の遺体が放置され、腐敗して白骨化しても、誰も始末しないという究極の行政崩壊の事態がやってくることは避けられないだろう。



 本当に能力のある者が、行政に口を出すことさえ許されない。私がブログで、どれほど正論を述べても、読んでくれる者さえいない。

 ただ世襲議員利権を死守する者たちが、徴税から莫大な報酬を抜くことだけが国家機能になってしまう。



 新型コロナ禍は、もう二度と取り返しのつかないほど、日本の国家経済の基礎である消費ニーズを破壊し尽くすだろう。馬鹿しかいない行政・政治家は、何一つ手を打てず、国家崩壊に任せるしかないのだ。



 新型コロナ禍は、もう資本主義の基底メカニズムを完全破壊し、日本経済を二度と立ち直れなくさせる。

 そりゃ、一時的に弱毒化して、コロナ禍が収束したように見える時期もあるだろう。しかし、RNAはDNA遺伝子の千倍、突然変異を起こすのであり、弱毒化に次にやってくるのは、核戦争の惨禍のような猛毒ウイルスの蔓延だろう。



 このとき、安倍晋三(おそらく背後霊は竹中平蔵に違いない)が消費税15%増税を打ち出して成功させたなら、日本の産業の半分が倒産し、日本国民の8割が路頭に迷い、猛毒化したコロナ禍で死亡した人々の遺体も放置されたまま回収できなくなる。



 もう、これは待ったなしのスケジュールであり、安倍と竹中をのさばらせておくことは、日本の未来に対する犯罪であると断言するしかない。

 彼らが消えれば、日本経済が救われるわけではないが、少なくとも消費税廃止によって延命することは可能だ。



 しかし、資本主義のメカニズムの破綻、拡大再生産の本質が再生することは二度とないだろう。

 日本人の半数以上は、大混乱のなかで生きてゆく道を失うと、私は予想している。

 それでは、生き残る残りの半分は、どうなるのか?



 私は、「助け合って生き抜く」という心=精神性だけが、未来を保証すると考えている。

 大都会で国家権力に依存する人々に生き残る道はない。過疎の田舎で、「助け合う」心を持った人々が、辛うじて未来に命を伝えていけるだろう。

 資本主義など、もはや存在しない。ただ、人間が必死に生き抜く姿しかない。

 国家が崩壊するとは、そういうことだ。