私は社会の経済的底辺で生きている人間だ。一人暮らしの年収は、年金がわずか50数万円、先代の残してくれた、わずかな預金とで食いつないでいる。

 仕事に出ようとしても、肺に疾患があって、ちょっと激しい行動をすると息をつなぐことができなくなり、厳しい。



 だから、最低限のライフスタイルになる。食事は、近所にあるバロードラッグで、一個18円のうどんと蒸しそば、15円のもやしを買って炒めて食べている。

 最近、このうどん、そばが、やたらに売り切れるようになった。以前は、買う人間が決まっていたような気がするのだが……。



 バロードラッグは、バロースーパーに比べて、安い食品を売っているので、重複するものは、ほとんどドラッグで買うことになる。

 売り切れた棚を見ると、大半が安価な商品ばかりだ。

 これを以前と比較しながら、社会全体が貧しくなっている現実を肌身で感じている。



 「みんな厳しい」

 それもそのはず、GDPはコロナ禍のなかで実質3割近く下落していて、竹中平蔵・小泉純一郎が作った「格差社会」では、企業の収益が落ちると、たちまち労働者の首を切り、派遣社員の雇い止めを行うから、労働者としての権利、社会保障を竹中に奪われた世代は、たちまち、稼げなくなり、家を追われ、生活に支障を来す仕組みになっているからなのだ。



 雇用保障保険があっても、長くて半年程度しかない。半年以内にコロナ禍が収まって、経済の循環と雇用が回復しなければ、多くの人々が、その日の食のアテもなく、路頭に迷うことになる。

 来年になったら、本当に食べられず、家賃を払えなくて街頭に追い出された人々が日本を覆い尽くすことになる。



 日本社会は、「生活に余裕のある階級」と「その日暮らしの余裕のない階級」に完全に二分化しするのは確実だ。

 それでは、余裕階級は、貧しい階級に手を差し伸べるだろうか? それは身内や友人の絆がない限り、ほとんど望めないだろう。

 竹中や小泉が招いた「新自由主義社会」は、「カラスの勝手社会」なのだ。



 私は、小泉純一郎が首相在任中に吐いた「日本を金融国家にする」という宣言が忘れられない。

 「金融」というのは、株や投機で儲ける「金コロガシ」の世界だが、その本質は「ゼロサムゲーム」ということだ。つまり、誰かが大儲けすれば、その分、必ず誰かが大損するというシステムだ。

 金融国家というのは、真面目にモノを生産するのではなく、カネコロガシだけでボロ儲けしようという意味であり、私はこれを聞いて、「これで日本は終わった」と確信した。



 そして、日本は実際に、「人々のために役立つ、イノベーションに溢れた商品を生産する」道を捨てて、労働者の基本的権利を剥奪し、正規雇用を廃止して、すべての労働者を派遣や臨時労働者などの、「ルンペンプロレタリアート」に転落させ、少し景気が悪くなれば、すぐに労働者の首を切って、経営陣の利権を守ろうとする、まさに愚劣な経営倫理の「金儲け絶対優先社会」に転落していった。



 経営側は、竹中平蔵・安倍晋三の大企業と大金持ち優遇政策に沿って、内部留保を溜め込んだ。

 今では、その総額は、日本の国家予算の5年分以上、500兆円に迫るといわれている。



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 内部留保が多いほど、企業経営者は、自らへの報酬を高く設定することができるので、ますます内部留保を増やそうとする。

 一方で、若者を育て、イノベーションを研鑽し、未来に向かって投資する姿勢は影を潜めるのだ。目先のカネばかり盲目的に追求し、本当に世の中の役に立つ、企業の存在理由、倫理は経営者の眼中から消えてしまうのだ。



 だから、日本社会は衰退するに決まっている。小泉純一郎の「金融国家宣言」は、日本国家崩壊宣言でもあったのだ。いわば、正業を捨てて日本を博打国家にすると言ったのだから当然だ。そして、その通りに、日本は、もはやかつての栄光など完全に見失った「バクチ依存症=ギャンブル中毒」の国に成り果て、崩壊を待つばかりとなっている。



 大金持ちたちが、ますます金儲けだけに目を奪われて自ら墓穴を掘り、自らの社会的存在理由を失って崩壊する様を我々は見せつけられているが、彼らが、我々底辺の生活者に何一つ関心を持たないように、我々もまた、彼らが、どのように滅亡しようが知ったこっちゃない。

 これが二極化社会なのだ。



 我々は、明日食えるか、今夜の飯があるかを心配していなければならない。

 こんなときに、貧しい我々の力を何十倍、何百倍に拡大する方法がある。

 それは、貧しいものどうし、助け合う「連帯の力」である。



 これは、勝ち組である「生活にゆとりのある人々」にはできないことだ。個人で生きてゆけるなら、煩わしい人付き合いなど誰も望まない。

 助け合わなければ生きてゆけないから、共同し連帯し、助け合うのだ。



 貧しい者どうしは、まず互いに運命を共感し、共有させられる。次に手を取り合って、一人ではなしえなかったことを三人寄り添って、10人分の成果を獲得してゆくのだ。

 今は、まだゆとりのある人が多いからピンと来ないだろう。

 でも来年は雇用保険も切れて、かといって仕事もなく、コロナ禍は、本当の第二波=ウイルスの猛毒変異が起きて、もの凄い数の人が死んで行くことになり、今年の4月5月に現れた社会活動の停止現象が、桁違いに凄まじいものになる。



 そうなったとき、貧しい者は、手を取り合って、危険な大都会を逃げ出し、ウイルス汚染の少ない過疎の田舎に行き、まずは食べ物を確保しなければならなくなる。

 過疎地には耕作放棄地が山ほどあるから、これを借りるなり買うなりして、共有の農場を確保する。



 また、過疎地には、住む人のいない空き家が無数にあるので、あえて新築家屋を作る必要もなく、配水やトイレの設備を新設する必要がないので、とても安上がりだ。

 行政も、従来の私有観念を超えて、大都会の若者たちを、過疎地に誘導して食料生産させなければ、日本社会の未来が存在しないことを理解する人も増えるだろう。 



 私の予想では、新型コロナ禍は、これまでのSARSやMARS、スペイン風邪のときのパターンから、2年、長くとも3年で収束すると考えている。RNAウイルスはDNAの1000倍のスピードで変異してゆくが、猛毒化も早い代わりに、無毒化も早いと考える。

 新型コロナ禍の問題は、軽症者・無症状者に強い感染能力があり、かつ治ったようにみせかけて、実は深刻な後遺症が残ることだ。



 それは、間質性肺炎であり、うち一定割合で肺線維症(IPF)に移行するともいわれている。ジョコビッチや錦織も感染したが、もう永久にかつての可憐な動きが見られなくなるかもしれない。これは非可逆的疾患なので完治は無理との報告もある。



 そこで、半病人みたいな人を、たくさん抱えながら共同体建設を進めなければならなくなる。かなりギリギリのライフスタイルを要求されることになるだろう。

 それでも、一反300坪の農地があれば、そこで馬鈴薯を作れば、5人の1年分の食料を生産することができる。食料と家さえあれば、こっちのものだ。



 人が集まればイノベーションが芽生える。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3



 「三人寄れば文殊の知恵」というのは、対話のない一人の世界では、何も生み出すことができないが、仲間ができて、その生活を大切にしようという動機が無数のイノベーションを生み出すのだ。創意工夫と言い換えてもいいかもしれない。



 豊かな金持ちたちには、ありえない世界であり、彼らは莫大な資産とともに閉ざされた孤立無援の世界に向かうしかない。

 何もない我々は、目の前にいる人を大切にして、ギリギリのライフスタイルに、イノベーションを発揮しながら、新しい価値観の社会を切り拓いてゆけるのだ。



 新しい未来、新しい社会を切り拓いてゆけるのは、持たざる貧しい我々、人を信じてポジティブに生きるしかない、我々しかないのだ。