世界的な分業、資本主義経済体制の下では、「生きてゆくために、いくらかかるのか?」 という発想で十分だった。

 ところが、資本主義経済が崩壊し、世界的な交易も崩壊するとすれば、「生きてゆくために」必要なことは、「いくらかかるのか?」ではなく、「何をしたらよいのか?」である。



 我々が、カネの支配する社会から放り出され、「大自然の摂理」だけが支配する自然界のなかに生きねばならないとすれば、「どうやって生きてゆくか?」は、哲学的問題として多重に覆い被さってくる。



 生きて行くために、一番必要なものは何か?

 それは、メシを食うことだ。だが、その必要量も、資本主義経済下と、「命を永らえる最低限の食生活」とでは、相当に違う。



 まず、現時点で、保有する生産手段や権利、備蓄、など条件によって雲泥の差がある。

 仮に日本政府がデフォルトして、海外貿易が停止したとすれば、最初に食料と石油が止まる。政府がデフォルトした段階で、公的備蓄が半年以上はあるはずだが、本当にあるかは疑わしい。差し押さえられる可能性もあるからだ。

 いずれにせよ、一年もすれば、あらゆる社会的備蓄は尽きる。



 そうなると、手元に家や土地があったとしても、食料とガソリン、灯油が手に入らなくなるので、車での移動が困難になる。また電気の供給も危うい。

 また、食料を自力で生産するために、耕作放棄地を耕運しようとしても、耕運機のガソリンが入手できなくなるので、鍬や鋤、スコップなどを使って手作業で耕運する必要が出てくる。



 家があり、衣類や布団があることを前提にしても、暖房用の電気や灯油がなくなる可能性は留意すべきだ。煮炊きは、外で一斗缶や簡易カマドを使って行わなければならない。だが、そんな条件のない集合住宅なら、どうする?



 最悪の条件は、水道が止まることだ。

 我々は、川崎の高級タワマンが洪水によって浸水し、住民はトイレに行くにも、生活用水を使うにも、20階以上から階段を使って移動しなければならない姿を目撃した。

 だから多くの住民が、近郊のビジネスホテルなどでの生活を強いられた。だが、ビジネスホテルを利用できる条件を失ったならどうする?



 電気はない、水道もない、暖房もない、食料もない、ガソリンもない、という多重苦の生活条件に追い込まれたとき、ここは、やはり、過疎の山中が圧倒的に有利だ。

 私は、こんな日が来るのではないかと考えて、17年前に、中津川の山奥に移住した。

 ここは、熊や猪が出るが、水がなくとも、裏山を少し歩けば清冽な水が無尽蔵に手に入る。

 それに敷地内に井戸があり、とりあえず水の心配は、ほぼない。



 まったく備蓄のない人も少ないだろう。多くの人は、食料が遮断されても、数十日、数ヶ月を持ちこたえることができると思う。

 しかし、その間に、次の食料を生産することを考えなければならない。

 だが、農地のない大都会では、他人のものを盗むくらいしか方法がない。つまり、阿鼻叫喚の食料地獄がやってくる。



 そんなことを想像しながら、私は、買った方が安上がりなのに、市販価格の数倍の手間暇、投資をして、家庭菜園の経験を積んだ。

 最低限、生き抜くために必要な食料を作りたかったのだ。



 まず、何を置いても、食料として効率の高いのは、馬鈴薯・甘藷である。これを上手に作るのが生き延びるための基本だ。

 以下に、一反(300坪)あたりの、収量のグラフを示す。

 素人農法では、右端の滋賀県を目標にすると良いだろう。1反の土地で、1トンの馬鈴薯が収穫できる。

 一人が一日に必要な食料は、馬鈴薯換算で600グラムといわれるので、これは1700日分の食料であり、約5人分の一年間の食料になる。





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 鶏糞などの肥料は、あまり必要なく、草木灰などのカリ肥料を投入する。これは草を刈り取って焼いたものをすき込めばよい。

 馬鈴薯と甘藷は、チッソ分の多すぎる土壌、アルカリの強い土壌、水分の多い土壌では育ちにくいので、30センチ以上の高畝とし、丁寧な草取りと草木灰の追肥投入で、たぶん誰がやっても一反1トンは収穫できるはずだ。

 本当に大変な作業は、草取りくらいだと思う。これをサボると収量は望めない。



 3月前後の種芋植え付けと、6月前後の収穫、9月の植え付け12月の収穫の二期が可能だが、連作障害があるため、二毛作を実施できるのは、よほどのプロだけだろう。

 素人は、初夏の馬鈴薯収穫の後、甘藷を植え付けて12月に収穫を目指す二毛作を狙った方がいいかもしれない。



 まあ、5人いたとしても、一反の耕作地があれば、生き抜いていけるだけの食料を得られることは、おわかりいただけるだろう。

 馬鈴薯は、結構、飽きが来ないで食べ続けられるもので、世界では馬鈴薯を主食とする国は、アイルランドやオーストラリアなど、たくさんある。



 それに人間、必ずしも馬鈴薯一日600グラム食べなければ餓死するわけではない。一日一食主義にして300グラムを食べれば十分に生き抜いてゆける。

 だが、栄養バランスとして、蛋白質が若干不足するので、鶏を飼育したり、池を作って魚を養殖したりすれば、十分にバランスの取れた食事が可能だ。

 馬鈴薯の苗を寒冷紗トンネルで育て、その外側で鶏を放し飼いにして、雑草を食べさせ、卵を産ませるという工夫もある。



 最初に5人の人間と、一反の土地と、家と水と、何よりも種芋が必要になる。これを、どう確保するかは大きな課題だ。

 耕運機はあれば便利だが、絶対必要なものでもなく、多くは手作業で代替することができる。

 一人で、これをこなそうとすると、モチベーションが不足して投げやりになってしまうものだが、五人もいれば、互いに励まし合って、大変な草取りも楽しいコミニュケーションに変えてゆけるだろう。

 何よりも大切なのは、「一緒に生き抜いてゆける仲間」なのだ。



 今のところ、農地に固定資産税はかからない。井戸を掘れば水道代はタダ。電気代と暖房くらいで、それほど大きな出費はない。

 暖房も、薪ストーブにすれば、近所の山野から落木などを確保して燃せば十分な暖房が可能だ。植林地では、間伐された不要な材木の処分に困っているところも多いので、それらの消費は交渉次第で歓迎されるだろう。

 細い木材でも、煮炊きの燃料には十分だ。



 このようにして、食料の自給自足が可能になれば、どんな食料危機が来ようとも、石油不足が起きようとも、生き抜いてゆくのに必要な最低限の条件が確保できる。

 それから、あらゆる創意工夫、イノベーションを働かせて、生きるための諸条件を豊に増やしていけばよい。

 ただし、こうしたことが可能なのは、過疎の山奥だけということを忘れてはいけない。



 今の日本では、自民党政権による地方切り捨て政策の結果、過疎地の交通手段は失われ、中国人などの林野買い占めも多く、おまけに異常な気象変動と乱伐で、深山の生活の安全が土砂崩れなどの危険に晒されている。

 仮に、山奥の過疎地で共同体生活を企画しても、土砂崩れの危険がなく、耕作放棄地や人が住める空き家の確保など、相当にリスクが増えている。



 それでも「ポツンと一軒家」のような番組に触発されて、山奥暮らしを企画する若者も増えているという。

 このとき、三人以下の少人数で、自給自足を成功させるのは、とても困難だと私は思う。とりわけ一人暮らしは、生きる意欲、あらゆるモチベーションが薄れてゆき、カネの切れ目が命の切れ目になってしまうのだ。

 人は数名で助け合って、互いを守る愛と連帯があってこそ、自力更生、自給自足の道が開けるのだと思う。



 なんで、こんなことを繰り返し書いているのかというと、第一に、世界的な意味で、資本主義経済そのものが持つ自己矛盾によって崩壊が約束されていること。

 第二に、人類の利己主義的価値観の結果、地球の気象を壊してしまい、急速に快適な生活条件を失い、我々の生活が、洪水や暴風などで、大きな危機に晒されるようになったこと。

 第三に、有史以来の巨大な地殻変動期に入っていて、いつスーパー地震によって、生活を根底から破壊されるか分からないこと。

 などで、正直、「一寸先は闇」の世界に、我々は放り込まれたという危機感からだ。



 今は、昔とは違うのだ。平和な生活が一瞬にして地獄に変わる姿を、我々は毎日のように目撃させられている。

 地震・水害・地滑り・放射能・疫病・政治の無能・官僚の劣化、あらゆる現象が、我々の未来を、闇に包んでいる。

 もはや、安定したライフスタイルは望めない。最悪の事態のとき、どれくらい被害を減らすかという工夫しか残されていない。



 もう大都会での生存条件は失われたと考えるべきだ。超猛暑のなかで、電気供給が失われたら、どうするつもりだ?

 中津川の山奥ですら、日中はエアコンに閉じこもっていなければならなくなった。

 これからは、おそらく海抜700m以上の土地に生活拠点をシフトしなければならなくなるだろう。

 再び、江戸時代のライフスタイルに戻らなければならなくなると予想している。

 そんな危機感をブログにして書き続けているのだ。