1950年代前半生まれの私が、「日本社会は悪くなった」とはっきり直観するようになったのは、1970年代後半である。

 1980年代に至っては、「人としての生き様、他人に対する思いやり」を完全に見失った企業利益最優先の価値観が、社会の表にあからさまに登場してきた。



 私が、国立市に住んでいた当時、国立駅南口のロータリーのなかにお立ち台を置いて、「社員研修」という名目で、「自分は、どれほど馬鹿だったか」を延々と怒鳴らせる光景があった。

 https://rocketnews24.com/2010/01/23/%E9%A7%85%E5%89%8D%E3%81%A7%E5%A4%A7%E5%A3%B0%E3%81%A7%E3%82%AC%E3%83%8A%E3%82%8B%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%84%E5%A7%BF%E3%81%AE%E7%94%B7%E6%80%A7%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81%E8%A6%8B%E7%89%A9%E4%BA%BA/



 上の動画は、2010年に富士宮駅前で撮影されたものなので、あれから30年以上も続いていたわけだ。

 初めて目撃した私は、本当にショックを受けた。個人の自尊心を、企業の金儲け、合理化、効率化を目的として踏み潰し、いわば奴隷に仕立てるための洗脳研修だったのだ。



 当時の私の価値観、人生観は、岡林信康らの歌に触発された「人を大切にする」という「人間解放」の思想だったから、企業の金儲けのために、人の尊厳を破壊する洗脳研修に対して、激しく憤った。

https://www.youtube.com/watch?v=MNrJ18P8k5s



 「そんなにまでして……奴隷として心の尊厳を売り飛ばしてまで……踏みにじられてまで、カネが欲しいのかよ」

 というのが、参加者たちに対する私の感想だ。私なら、人の尊厳をないがしろにするヤツは、その場でぶん殴ってやりたい。

 社長だろうが、平社員だろうが、同じ人間だ。立場などいつ逆転するか分からない。「諸行無常、生々流転」こそ世の中の本質であり、自分の利権のために他人の心を踏みにじるヤツは許せねー!



 他人を大切にする心は、人間社会の基本だ。すべてを失っても、最後まで自分を支えてくれるのが、他人を大切にする心、すなわち利他主義なのだ。

 もう少しいえば、これを「人間愛」と呼んでいる。

 これさえあれば、人生、どんなに苦しくても辛くても希望の光に導かれて生き抜いてゆける。



 だが、現代の企業組織は、そんな人間愛、基本的人権の上に金儲けを置いて、人々を利用しようとする。

 これを我々は「利己主義」と呼ぶ。私は、こんな利己主義や基本的人権の蹂躙に憤る人たちとだけ心を共有し、「利他主義」の価値観を掲げて、仲間として生き抜いてゆきたい。



 先に書いたように、目を覆うような利己主義思想が社会を席巻するようになったのは、1980年前後からだと思う。「バブル時代」人々は、金儲けしか目に入らず、カネを得た者が勝ち組といわれた時代だ。



 だが、そんな人間性崩壊のなかでは、底辺の人々のモチベーションは失われ、ただ毎日、食事をして排泄し、刹那的に時間が過ぎてゆくだけという、実に空しい流れのなかに立たされていた。

 誰が他人を踏み倒して金儲けすることが人生の目的だと思うものか? 人生の喜びを感じられるものか?



 日本は、そんな利己主義の社会ではなかった。人を愛する社会だったのだ。

 だから人々は生きる意欲さえ失い、たくさんの人が自ら命を絶った。我々は、毎日のように国鉄の線路に横たわる骸を見せつけられていた。



 社会は一直線に悪化し、バブル崩壊とともに、雪崩を打ったように利己主義を強要した企業群は崩落していった。ちょうど、山一証券倒壊の時代だ。

 日本は「失われた20年」という、モチベーションを見失った暗黒の時代を過ごさねばならなくなった。



 翻って思えば、日本は、戦時中、731部隊に象徴されるような、まさに人間性の根源を崩壊させるような残虐な戦争支配を行ったのだが、一方で、帝国主義侵略を繰り返す欧州諸国の植民地支配から、人々を解放しようとする意思もあった。

 満州や朝鮮・台湾の日本型支配は、利他主義によらなければ決してできないほど、地元先住民への優しさがあった。



 日本は、親鸞・道元・日蓮・法然・一遍など、優れた仏教思想の指導者たち、その後継者たちが「因果応報思想」を民衆に、手に取るように教えてきた社会であり、「命を大切にする」という哲学を幼いうちから叩き込まれた人々だったのだ。

 里に五軒の家があれば、一軒の寺ができるといわれるほどだった。

 鎌倉仏教の思想性は、「利他主義」に貫かれていて、人々が先祖を敬い、子孫を大切にして安定的な社会生活を行うのに、これほど合理的な思想もなかった。



 この影響は、鎌倉時代、南北朝、戦国、江戸時代、そして明治期を過ぎても、日本全国の寺で、毎月行われていた講による教育を通じて、民衆は「因果応報」こそ宇宙の真理であると教えられ続けたから、民衆は「自分のやったことは、全部自分に還ってくるものだ」と自戒しながら生活を行った。

 こうした思想的民衆だったから、例え、「政府上層部が他国民を皆殺しにしろ!」と命令しても、苦悩し、躊躇し、「人道に反した人殺しをするくらいなら自ら命を絶つ」と決意した兵士たちも少なくなかった。



 明治新政府になって、山県有朋は、神道の大神主に過ぎなかった天皇を神として敬う思想教育をはじめ、「天皇のおかげで日本国民がある」という洗脳教育を大規模に施した。 このため、それまで純粋に「他人の喜ぶ顔見たさに生きる」という利他主義の思想性がゆがめられ、「天皇のために、(僕=奴隷として)生きる」という新たな価値観を洗脳されてしまったため、利他主義は大きく変貌させられた。



 太平洋戦争が起こり、神風特攻隊を命じられた兵士たちは、「天皇のために死ぬ」ことを強要されたのだが、実際には「家族のため、国民のため犠牲になる」と考えた。

 死ぬ前に叫ぶ言葉も、「天皇陛下万歳」ではなく「おかーさん!」だった。

 日本政府の支配者たちも、若者たちの心を神髄まで洗脳しきったわけではなかった。



 戦後の凄まじい復興も、利己主義によって行われたわけではない。それは「みんなのためにがんばる」という利他主義によって行われたのだ。

 そうした、「他人のために生きる」という利他主義が心の根底を占めていた人々は、1970年代まで、日本人の大多数だったように思える。

 私の記憶する、60年代、70年代の日本社会は、みんな暖かく、連帯して、互いに他人のために生きようとする社会だったから、当時の私にとっては、極めて快適だった。



 そんな利他主義社会を破壊したものがなんであったのか?

 それを「バブル時代」と単純に決めつけていいものかどうか、私は躊躇する。

 利己主義の蔓延とともに、利他主義を教えるための機関であった仏教系寺院は、その役割を終えたかのように、詐欺や荒廃が押し寄せ、櫛の歯が抜けるように失われてゆく。 地域社会の中核となり、文化の場であり、民衆教育の場であった鎌倉仏教寺院の崩壊が、もう手の届くところに見えている。



 日本人が、鎌倉仏教を失ったら、もう二度と利他主義=因果応報を教えてくれる教育機能を失うことになる。

 親鸞や日蓮、道元の名前とともに、仏教そのものが失われてゆく。

 釈迦は、このことを「末法の世」として明瞭に預言している。

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3



 つまり、「利他主義」が失われる時代がやってくる。「因果応報」の意味を理解できない人々で占められる。

 これを体現しているのが、まさに竹中平蔵である。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-910.html



 日本国を蝕む魑魅魍魎のうち、安倍晋三の退陣が決まったが、彼は、パシリにすぎない。本当に、人々の心を荒ませ、日本社会を根底から破壊し続けているのは竹中平蔵だ。 そして、それを堀江貴文や橋下徹らが、後押ししている。

 利他主義の真理に目覚めた人々は、利己主義の社会と決別して、自分たちの新しい世界を構築してゆく。

 もう二度と、竹中平蔵の究極の利己主義社会を寄せ付けない、人の愛、人の優しさ、人間解放を原理とした社会を作り出してゆくにちがいないと、私は信じる。