宿泊料金を支払って入った温泉はともかく、自然に湧出する温泉に入るのは、なかなか大変で、日本全国に温泉利権が設定されてしまっているから、今では、本当に自然な温泉に入ろうと思うと、相当な準備と長時間の苦労が必要になる。
だが、私が山歩きを始めた半世紀前は、結構、日本中に、自然湧出の温泉がたくさんあって、その気になれば、場所さえ分かれば、自分で湯船を作って入ることもできた。
もちろん、多くの場合は、先人がさまざまな工作をしてくれていて、せいぜい、コッヘルで穴を深くしたり、沢から水を入れて温度を調整したり程度で入ることができた。
半世紀前に、私がとても気に入った野生の温泉といえば、まずは大雪山だ。
旭岳山頂から間宮岳方面に迂回して、山上を一周できるルートがあって、その途中に地図で「中岳温泉」と書かれているのだが、行ってみると、温泉設備などなくて、硫黄臭の湯気の立つ河原にいくつかの小さな湯船が掘ってあるだけだった。
ここは、そこら中に「ヒグマ出没注意」の看板があって、みるからに出てきそうな雰囲気で緊張を強いられたが、湯船をコッヘルで広げて、入浴してみると、これが野生の趣なんて生やさしいものではなくて、大自然と自分が、一体化できているような、「この世に、こんな極楽があったのか……」と感動するほどの満足感を得られる場所だった。
これで、はじめて温泉入湯の味をしめた私は、以来、百名山登山の傍ら、全国の秘湯制覇を目指して、人生のあらゆる熱意を総動員することになった。
おかげで、今では世間に見捨てられた老人になっても、一人暮らしを強いられる寂しい運命になってしまったのだが……。
秘湯マニアという人種はたくさんいるが、私の場合は、百名山踏破という目的があったので、登山と無縁の海岸線などの秘湯には行ってなくて、それが心残りだ。
踏破自体は1990年頃に完結したのだが、温泉は、懐具合もあって、全部というわけにはいかなかった。
中岳温泉以外の本当の秘湯としては、これも半世紀前、霧島連山の韓国岳山腹にあった自然湧出の温泉を紹介したかったのだが、今、調べてみても、当時は山地図にあった温泉マークは、どこにも見当たらない。
確か、えびの高原道路から、韓国岳に向けて登山道ではないが、藪道があって、30分ほど小さな沢を遡ると、河原に温泉らしき湯気が立っていた。
小さな湯船がたくさん掘ってあったが、湯水には、赤く見えるほどのユスリカの幼虫(アカムシ)の大群が蠢いていた。
そのアカムシをかき分けながら、湯船をコッヘルで掘り進み、沢の水で薄めて入浴してみると、これも素晴らしい風情だった。
なんといってもロケーションが素晴らしい。ここは熊出没の心配もないし。
霧島連山は、巨大火山の一角で、今でも激しい活動を繰り返していて、なかでも新燃岳が凄い。半世紀前、ここには国民宿舎の新燃荘があって、ここの温泉は、私の知る限り、全国でもっとも強烈な硫黄泉だった。
全身が疥癬などの皮膚病に冒された人が来ていて、専用の浴槽もあった。普通の水虫なら、数年ものの頑固な爪白癬でも一晩で治るとの評判だ。
私が入ってから、数年後に、新燃荘の温泉で、湯治客が4名ほど硫化水素中毒で死亡したというニュースがあって、どうも、数年に一度、湯治死者が出るらしい。
その後、度重なる噴火があって、今でも営業しているかは分からない。
ただ、日本一の硫化水素温泉というのは、掛け値なしの評価であると保証する。
あとは、いくつか、山の湧出温泉に入った記憶があるが、なぜか記憶が薄れてしまって、今、思い出しても、強い思い出として残っている温泉は、どれも、秘湯ブログなどに紹介されたものばかりで、新鮮味がない。
フクイチ事故が起きる前の話ではあるが、日本全国の温泉宿を渡り歩いたなかでは、やはり、福島が飛び抜けて素晴らしい。
わけても、新野路温泉には数回行ったが、植村直己の色紙など日本山岳会の拠点になっていて、温泉の雰囲気といい泉質といい、食事といい、素晴らしいの一語だ。
ただし、フクイチ事故後、放射能汚染調査のために泊まったときは、食事(出された鮎)に含まれたセシウムのせいで、数日後に炎症反応が出てしまい、もう行けないと思った。
もう一泊した、横向温泉中ノ湯も、若い頃から何回も行っていた大好きなぬる湯で、一晩中温泉に浸かりながら寝るのは至上の楽しみだった。
ただし、この中ノ湯は、霊が出没することで、その手の人には心霊スポットとして知られている。金縛りを経験できるのだ。
50歳を過ぎてから、日本中を出歩く資金も体力もなくなって、年に数回程度、皮膚病の治療がてら、近場の硫化水素泉に行くことが増えた。
乗鞍高原温泉は若い頃から乗鞍山スキーに行っていたから知っていたが、半世紀を経ても未だに、儲からない、とても寂しい観光地だ。
それは交通がとても不便で、移動の危険性が高い場所だからだろう。でも、儲からない観光地というのは、みんなとても親切で、充実した満足感を得ることができる。
しかし、温泉の泉質は、草津温泉と比べても見劣りしないほどの一級品なので、硫黄泉に入りたいとなると乗鞍高原しか選択肢がない。
夏場は、薮原から野麦峠を越えて、我が家から2時間半もあれば行けてしまう。
源泉掛け流しの硫黄泉で、24時間入浴できる。露天風呂に数時間も寝ながら入っていられて、深夜、たった一人で満天の銀河を眺めてぼーっとしているのが人生最高の快楽だ。
無料の露天風呂は、熊の出没があるので注意が必要だ。
宿泊料金も1万円に満たず、食事も素晴らしく、とてもリーズナブルだ。比較的空いていて、いつでも予約しやすい。
問題は、トイレが共同で洗浄式でないことだ。これは洗浄便座に慣れた若い人には、致命的な欠陥に映るかもしれない。
理由は、電気機械式洗浄装置が硫黄ガスに弱く、すぐにダメになってしまうかららしい。テレビも2年持たないという。金属部品は、どれも真っ黒になっている。だから逆に皮膚病にも強烈に効いてくれると思っている。
こうして温泉湯治に馴染んでみると、これが実は人生最高の快楽の一つだと思うようになり、我々日本人にとっては珍しくもなく、有り難みも薄いが、世界の人たちが、この快楽を知ったなら、おそらく日本の湯治文化は世界的な支持を受けて、むしろ美食会食よりも上位に位置づけられると確信するのである。
幸いなことに乗鞍高原は、不便な場所で、御岳の濁河温泉とならんで、当分、鶴の湯のように外国人に占有されることもないだろう。
しかし、いずれ、世界の人々にとって、桃源郷と認識されることは確実だと思う。
なお、濁河温泉は、若い頃から、御岳をゲレンデにしていたので、50回程度は行っている。例の噴火事故後、泊まったら、入浴中に「カキーン」という音や、人がいないのに洗い場で流す気配があったりして、文句のない心霊スポットに変わった。
全国の心霊マニアには、是非、行っていただきたい。
日本の温泉湯治は、世界に誇る素晴らしい文化だ。温泉と食事が世界一素晴らしいと思う。この大恐慌が一段落ついたなら、日本は観光立国として、温泉湯治文化で世界の人々に素晴らしい体感を提供すべきだろう。
コロナ禍が収束すれば、再び、世界中から日本の温泉旅館めざして観光客が押し寄せるにちがいない。
だが、私が山歩きを始めた半世紀前は、結構、日本中に、自然湧出の温泉がたくさんあって、その気になれば、場所さえ分かれば、自分で湯船を作って入ることもできた。
もちろん、多くの場合は、先人がさまざまな工作をしてくれていて、せいぜい、コッヘルで穴を深くしたり、沢から水を入れて温度を調整したり程度で入ることができた。
半世紀前に、私がとても気に入った野生の温泉といえば、まずは大雪山だ。
旭岳山頂から間宮岳方面に迂回して、山上を一周できるルートがあって、その途中に地図で「中岳温泉」と書かれているのだが、行ってみると、温泉設備などなくて、硫黄臭の湯気の立つ河原にいくつかの小さな湯船が掘ってあるだけだった。
ここは、そこら中に「ヒグマ出没注意」の看板があって、みるからに出てきそうな雰囲気で緊張を強いられたが、湯船をコッヘルで広げて、入浴してみると、これが野生の趣なんて生やさしいものではなくて、大自然と自分が、一体化できているような、「この世に、こんな極楽があったのか……」と感動するほどの満足感を得られる場所だった。
これで、はじめて温泉入湯の味をしめた私は、以来、百名山登山の傍ら、全国の秘湯制覇を目指して、人生のあらゆる熱意を総動員することになった。
おかげで、今では世間に見捨てられた老人になっても、一人暮らしを強いられる寂しい運命になってしまったのだが……。
秘湯マニアという人種はたくさんいるが、私の場合は、百名山踏破という目的があったので、登山と無縁の海岸線などの秘湯には行ってなくて、それが心残りだ。
踏破自体は1990年頃に完結したのだが、温泉は、懐具合もあって、全部というわけにはいかなかった。
中岳温泉以外の本当の秘湯としては、これも半世紀前、霧島連山の韓国岳山腹にあった自然湧出の温泉を紹介したかったのだが、今、調べてみても、当時は山地図にあった温泉マークは、どこにも見当たらない。
確か、えびの高原道路から、韓国岳に向けて登山道ではないが、藪道があって、30分ほど小さな沢を遡ると、河原に温泉らしき湯気が立っていた。
小さな湯船がたくさん掘ってあったが、湯水には、赤く見えるほどのユスリカの幼虫(アカムシ)の大群が蠢いていた。
そのアカムシをかき分けながら、湯船をコッヘルで掘り進み、沢の水で薄めて入浴してみると、これも素晴らしい風情だった。
なんといってもロケーションが素晴らしい。ここは熊出没の心配もないし。
霧島連山は、巨大火山の一角で、今でも激しい活動を繰り返していて、なかでも新燃岳が凄い。半世紀前、ここには国民宿舎の新燃荘があって、ここの温泉は、私の知る限り、全国でもっとも強烈な硫黄泉だった。
全身が疥癬などの皮膚病に冒された人が来ていて、専用の浴槽もあった。普通の水虫なら、数年ものの頑固な爪白癬でも一晩で治るとの評判だ。
私が入ってから、数年後に、新燃荘の温泉で、湯治客が4名ほど硫化水素中毒で死亡したというニュースがあって、どうも、数年に一度、湯治死者が出るらしい。
その後、度重なる噴火があって、今でも営業しているかは分からない。
ただ、日本一の硫化水素温泉というのは、掛け値なしの評価であると保証する。
あとは、いくつか、山の湧出温泉に入った記憶があるが、なぜか記憶が薄れてしまって、今、思い出しても、強い思い出として残っている温泉は、どれも、秘湯ブログなどに紹介されたものばかりで、新鮮味がない。
フクイチ事故が起きる前の話ではあるが、日本全国の温泉宿を渡り歩いたなかでは、やはり、福島が飛び抜けて素晴らしい。
わけても、新野路温泉には数回行ったが、植村直己の色紙など日本山岳会の拠点になっていて、温泉の雰囲気といい泉質といい、食事といい、素晴らしいの一語だ。
ただし、フクイチ事故後、放射能汚染調査のために泊まったときは、食事(出された鮎)に含まれたセシウムのせいで、数日後に炎症反応が出てしまい、もう行けないと思った。
もう一泊した、横向温泉中ノ湯も、若い頃から何回も行っていた大好きなぬる湯で、一晩中温泉に浸かりながら寝るのは至上の楽しみだった。
ただし、この中ノ湯は、霊が出没することで、その手の人には心霊スポットとして知られている。金縛りを経験できるのだ。
50歳を過ぎてから、日本中を出歩く資金も体力もなくなって、年に数回程度、皮膚病の治療がてら、近場の硫化水素泉に行くことが増えた。
乗鞍高原温泉は若い頃から乗鞍山スキーに行っていたから知っていたが、半世紀を経ても未だに、儲からない、とても寂しい観光地だ。
それは交通がとても不便で、移動の危険性が高い場所だからだろう。でも、儲からない観光地というのは、みんなとても親切で、充実した満足感を得ることができる。
しかし、温泉の泉質は、草津温泉と比べても見劣りしないほどの一級品なので、硫黄泉に入りたいとなると乗鞍高原しか選択肢がない。
夏場は、薮原から野麦峠を越えて、我が家から2時間半もあれば行けてしまう。
源泉掛け流しの硫黄泉で、24時間入浴できる。露天風呂に数時間も寝ながら入っていられて、深夜、たった一人で満天の銀河を眺めてぼーっとしているのが人生最高の快楽だ。
無料の露天風呂は、熊の出没があるので注意が必要だ。
宿泊料金も1万円に満たず、食事も素晴らしく、とてもリーズナブルだ。比較的空いていて、いつでも予約しやすい。
問題は、トイレが共同で洗浄式でないことだ。これは洗浄便座に慣れた若い人には、致命的な欠陥に映るかもしれない。
理由は、電気機械式洗浄装置が硫黄ガスに弱く、すぐにダメになってしまうかららしい。テレビも2年持たないという。金属部品は、どれも真っ黒になっている。だから逆に皮膚病にも強烈に効いてくれると思っている。
こうして温泉湯治に馴染んでみると、これが実は人生最高の快楽の一つだと思うようになり、我々日本人にとっては珍しくもなく、有り難みも薄いが、世界の人たちが、この快楽を知ったなら、おそらく日本の湯治文化は世界的な支持を受けて、むしろ美食会食よりも上位に位置づけられると確信するのである。
幸いなことに乗鞍高原は、不便な場所で、御岳の濁河温泉とならんで、当分、鶴の湯のように外国人に占有されることもないだろう。
しかし、いずれ、世界の人々にとって、桃源郷と認識されることは確実だと思う。
なお、濁河温泉は、若い頃から、御岳をゲレンデにしていたので、50回程度は行っている。例の噴火事故後、泊まったら、入浴中に「カキーン」という音や、人がいないのに洗い場で流す気配があったりして、文句のない心霊スポットに変わった。
全国の心霊マニアには、是非、行っていただきたい。
日本の温泉湯治は、世界に誇る素晴らしい文化だ。温泉と食事が世界一素晴らしいと思う。この大恐慌が一段落ついたなら、日本は観光立国として、温泉湯治文化で世界の人々に素晴らしい体感を提供すべきだろう。
コロナ禍が収束すれば、再び、世界中から日本の温泉旅館めざして観光客が押し寄せるにちがいない。
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