私ごとで恐縮だが、私は、子供の頃から分解と組み立てが好きで、身の回りにあるものを何でも分解するクセがあった。元通りに組み立てた記憶はあまりなく、母親が私の工作を見て、いつも戦々恐々としていたことを思い出す。
「何でも自分でやってみたい」 自分にできないことなどない。
というのが、私の信条で、中津川に移住して、広い土地を自由に扱えるようになって、この趣味が一気に花開いた。
真っ先に工作室を設置し、あらゆる工具を買いあさった。私の手元には、ホームセンターで売られている大半の電動工具や木工機械があるし、旋盤まで2台あり、小型だがフライス盤まで買った。
おかげで、生活に使う、大半の家具や建具は自作することができた。扉や窓枠、棚、机、椅子、箪笥、階段に至るまで、ほとんど手作りである。
最初は拙い工作だったが、数をこなせば自然に精度も上がる。職業的業務のレベルとはいかないが、まず購入する必要は感じない。
(プロとアマチュアでは、どこに差が出るかといえば、木工・金工では完全に工作機械の質である。ホームセンターの道具と、プロ用機械では、精度がまるで違う)
金属加工も、板金工作で換気扇集気傘やポスト、屋根瓦などを作っている。
「何でも作る」趣味から、この1年ほどは、漬物やピクルス、梅酒に茄子の古漬けなどに夢中になっている。
もちろん、食事は三食、完全自炊で、腕前も、自称そこそこである。
野菜も庭に50坪ほどの畑を拓いて、必要な基本野菜を栽培して食べている。
とにかく、生きているうちに何でもやってみたい。何でも経験してみたい。そのうち、私に嫌がらせに来るネトウヨを捕まえて殺人までやりかねない。
日本アルプスの厳冬期縦走や、沢登りも、一人で覚えて一人で実現した。クライミングもそうだ。
人に指導されるのは、あまり好きではないから、指導がなければ上達できない分野の仕事は、いつまでたってもレベルが上がらないのも事実だ。
仕事といえば、まずは金稼ぎしか考えない人は、自作することの意味を理解できない。作るより買った方が、はるかに安く上がるし、見栄えのよい立派な製品だからだ。
私の場合は、例え見栄えが悪くとも、機能的に劣っても、自分で作ったという満足感の付与された物品には、なんともいえない思い入れがあって、愛着がわき、手放したくないのである。
「私にできないことなどない」と信ずるに至った理由は、たぶん、私の子供時代、1950〜60年代という時代の迸るような創作創造の雰囲気が関係しているだろう。
あの当時のあらゆる物品は、相当高度なものに至るまで、我々が日常的に手が届くと思えるレベルだったのである。
車でも、分解すれば、組み立てる技術さえあれば、元に戻すことも可能であり、ほとんどの部品が人間味を持った設計であった。
今は違う。1980年代にマイコンが爆発的に浸透してからというもの、多くの部品が、ひとたび分解したなら決して元に戻せないブラックボックスと化すようになった。
当時、人間からはるか遠い存在といえば原子力くらいで、だからこそ、人を超越したくてたまらない若者たちは、こぞって核物理の分野に進んだのである。
だが、80年代のコンピュータリゼーション以来、世の中はブラックボックスだらけになってしまって、うかつに分解したなら、もう誰も元通りに戻すことができない。
私の生まれたのが、あと20年遅ければ、何でも分解する趣味の私は、あらゆるものを分解したまま戻せずに泣き暮らす運命になったことだろう。
こうなると、「世の中、自分の力でなんとでもなるさ」という私の豪語は、一切通用しない。「世の中は、なんともならない、受け身の社会でしかない」と、分解欲は影を潜め、与えられたものだけを喜ぶ、矮小、狭小な人生観に変わっていたことであろう。
しかし、手の届かない恐ろしい社会のなかで、身を潜めて過ごさねばならない若者たちは、だんだん人間性も矮小になってゆき、「規則を守る」奴隷根性に洗脳されて、奴隷からはみ出して創作創造の世界に羽ばたこうとする者たちの足を引っ張るようになる。
これも、環境がブラックボックス化していったことで、主体的な変革欲を押し潰されていった必然なのだろうと思う。
「周囲はブラックボックスに囲まれているのだから、自分の力では変革できない」と思い込まされた若者たちが、どのような方向性に向かうか考えると、創造創作を押し潰されて、残るのは、社会の規範、規則のなかで要領よく世渡りする技術ということになる。
規則を破れば、皆目見当もつかないブラックボックス社会が待ち構えているわけだから、規則を守り、社会常識にすがって、要領よく生き抜いてゆくことしか考えられないわけなのだ。
「自分が世の中を変革するのだ」と、自分の主体性に依存した発想、思想が、陰をひそめ、「誰も世の中を変えられないのだから、いかに要領よく過ごすか」という発想しか残らないのは、あまりにも必然ではないだろうか?
だから、自分は、「みんなが歩いている轍」から外れないようにして、たまに轍を外す者を激しく糾弾し、「みんな同じ」同調圧力を強要することになる。
異端者を激しく攻撃し、新しい世界を示そうとする者、自分の心に忠実に生きようとする者、真実を示そうとする者が許せず、同調圧力的立場で、攻撃するようになるのである。
これが、高遠菜穂子さんや安田純平氏に対して、同調圧力の立場から「自己責任論」を持ち出して激しく攻撃を続けるネトウヨたちの心のメカニズムと分析してよいのではないか?
こうした姿勢は、自分が臆病で踏み出せない新しい世界を生み出そうとする、すべての人々に対して向けられる保守的な感情であり、これこそ、ネトウヨを規定する本質であると考えてよいと私は思う。
もちろん、こんな愚かな連中=ネトウヨが、新しい未来を拓くことは不可能であって、前に進もうとする、すべての人々の足を引っ張って沈めようとすることしかできない。
だから、こんな時代を逆行させるだけの臆病なネトウヨにならないために、我々は、創造の世界に立ち返る必要がある。
冒頭に述べた「自作の薦め」というのは、まさに、その意味なのだ。
「なんでも自分で作れ!」
というのが、創造的人間に至る、解放された心に至る第一歩の思想であると私は思う。
私は中津川の山村で暮らしているが、一番近い食料品店まで徒歩40分、一番近いスーパーまでは、車で20分かかり、バスは日4本しかない。
5時の終バスに乗り遅れれば、街灯のない暗黒の夜道を4時間かけて歩いて帰宅しなければならない。タクシーは五千円とられるから。
こんな過疎地に暮らしていると、日用品で不足したものは、自作しないとやってられないのだ。だから、大抵の家では、なんでも自作できるように、さまざまな道具をそろえている。
なかには、ユンボやフォークリフトまで備えている家もある。
米作農家が大半だが、耕運機、田植機、コンバインなど、一通りの機械を備えている家が多い。もちろん農業に必要な道具類は、根こそぎ全部保有しているから、私のように家具まで自作する人も少なくない。
このような自作環境に生きていると、森羅万象、天地のあらゆる法則に通じていないと、年中困ってばかりいる生活になってしまう。
人生、もの凄い数の知識が必要だが、その根源は、それほどたくさんない法則に支配されているのであって、家具を作れる知識があれば、家を一軒全部手作りできるのである。
田舎暮らしは人を利口にし、あらゆる融通の利く人間を作り出す。
そして、何より、透徹した目で人を観察し、その本質を見抜くようになり、人間性が広く大きく育ってゆく。
こんな田舎では、人に嫌がらせするだけが趣味のネトウヨは生きて行くことさえできないから、否応なしに、心も広く深くなってゆくのである。
だいたい、周りを見渡してごらん。
何でも自作する人に、姑息な人、悪口だけで生きてる人なんかいないだろ?
何でもできる人は心が広く、大きくなり、誰からも信頼されるようになるのだ。
だから、田舎に住んで、なんでも作ろうじゃないか!
「何でも自分でやってみたい」 自分にできないことなどない。
というのが、私の信条で、中津川に移住して、広い土地を自由に扱えるようになって、この趣味が一気に花開いた。
真っ先に工作室を設置し、あらゆる工具を買いあさった。私の手元には、ホームセンターで売られている大半の電動工具や木工機械があるし、旋盤まで2台あり、小型だがフライス盤まで買った。
おかげで、生活に使う、大半の家具や建具は自作することができた。扉や窓枠、棚、机、椅子、箪笥、階段に至るまで、ほとんど手作りである。
最初は拙い工作だったが、数をこなせば自然に精度も上がる。職業的業務のレベルとはいかないが、まず購入する必要は感じない。
(プロとアマチュアでは、どこに差が出るかといえば、木工・金工では完全に工作機械の質である。ホームセンターの道具と、プロ用機械では、精度がまるで違う)
金属加工も、板金工作で換気扇集気傘やポスト、屋根瓦などを作っている。
「何でも作る」趣味から、この1年ほどは、漬物やピクルス、梅酒に茄子の古漬けなどに夢中になっている。
もちろん、食事は三食、完全自炊で、腕前も、自称そこそこである。
野菜も庭に50坪ほどの畑を拓いて、必要な基本野菜を栽培して食べている。
とにかく、生きているうちに何でもやってみたい。何でも経験してみたい。そのうち、私に嫌がらせに来るネトウヨを捕まえて殺人までやりかねない。
日本アルプスの厳冬期縦走や、沢登りも、一人で覚えて一人で実現した。クライミングもそうだ。
人に指導されるのは、あまり好きではないから、指導がなければ上達できない分野の仕事は、いつまでたってもレベルが上がらないのも事実だ。
仕事といえば、まずは金稼ぎしか考えない人は、自作することの意味を理解できない。作るより買った方が、はるかに安く上がるし、見栄えのよい立派な製品だからだ。
私の場合は、例え見栄えが悪くとも、機能的に劣っても、自分で作ったという満足感の付与された物品には、なんともいえない思い入れがあって、愛着がわき、手放したくないのである。
「私にできないことなどない」と信ずるに至った理由は、たぶん、私の子供時代、1950〜60年代という時代の迸るような創作創造の雰囲気が関係しているだろう。
あの当時のあらゆる物品は、相当高度なものに至るまで、我々が日常的に手が届くと思えるレベルだったのである。
車でも、分解すれば、組み立てる技術さえあれば、元に戻すことも可能であり、ほとんどの部品が人間味を持った設計であった。
今は違う。1980年代にマイコンが爆発的に浸透してからというもの、多くの部品が、ひとたび分解したなら決して元に戻せないブラックボックスと化すようになった。
当時、人間からはるか遠い存在といえば原子力くらいで、だからこそ、人を超越したくてたまらない若者たちは、こぞって核物理の分野に進んだのである。
だが、80年代のコンピュータリゼーション以来、世の中はブラックボックスだらけになってしまって、うかつに分解したなら、もう誰も元通りに戻すことができない。
私の生まれたのが、あと20年遅ければ、何でも分解する趣味の私は、あらゆるものを分解したまま戻せずに泣き暮らす運命になったことだろう。
こうなると、「世の中、自分の力でなんとでもなるさ」という私の豪語は、一切通用しない。「世の中は、なんともならない、受け身の社会でしかない」と、分解欲は影を潜め、与えられたものだけを喜ぶ、矮小、狭小な人生観に変わっていたことであろう。
しかし、手の届かない恐ろしい社会のなかで、身を潜めて過ごさねばならない若者たちは、だんだん人間性も矮小になってゆき、「規則を守る」奴隷根性に洗脳されて、奴隷からはみ出して創作創造の世界に羽ばたこうとする者たちの足を引っ張るようになる。
これも、環境がブラックボックス化していったことで、主体的な変革欲を押し潰されていった必然なのだろうと思う。
「周囲はブラックボックスに囲まれているのだから、自分の力では変革できない」と思い込まされた若者たちが、どのような方向性に向かうか考えると、創造創作を押し潰されて、残るのは、社会の規範、規則のなかで要領よく世渡りする技術ということになる。
規則を破れば、皆目見当もつかないブラックボックス社会が待ち構えているわけだから、規則を守り、社会常識にすがって、要領よく生き抜いてゆくことしか考えられないわけなのだ。
「自分が世の中を変革するのだ」と、自分の主体性に依存した発想、思想が、陰をひそめ、「誰も世の中を変えられないのだから、いかに要領よく過ごすか」という発想しか残らないのは、あまりにも必然ではないだろうか?
だから、自分は、「みんなが歩いている轍」から外れないようにして、たまに轍を外す者を激しく糾弾し、「みんな同じ」同調圧力を強要することになる。
異端者を激しく攻撃し、新しい世界を示そうとする者、自分の心に忠実に生きようとする者、真実を示そうとする者が許せず、同調圧力的立場で、攻撃するようになるのである。
これが、高遠菜穂子さんや安田純平氏に対して、同調圧力の立場から「自己責任論」を持ち出して激しく攻撃を続けるネトウヨたちの心のメカニズムと分析してよいのではないか?
こうした姿勢は、自分が臆病で踏み出せない新しい世界を生み出そうとする、すべての人々に対して向けられる保守的な感情であり、これこそ、ネトウヨを規定する本質であると考えてよいと私は思う。
もちろん、こんな愚かな連中=ネトウヨが、新しい未来を拓くことは不可能であって、前に進もうとする、すべての人々の足を引っ張って沈めようとすることしかできない。
だから、こんな時代を逆行させるだけの臆病なネトウヨにならないために、我々は、創造の世界に立ち返る必要がある。
冒頭に述べた「自作の薦め」というのは、まさに、その意味なのだ。
「なんでも自分で作れ!」
というのが、創造的人間に至る、解放された心に至る第一歩の思想であると私は思う。
私は中津川の山村で暮らしているが、一番近い食料品店まで徒歩40分、一番近いスーパーまでは、車で20分かかり、バスは日4本しかない。
5時の終バスに乗り遅れれば、街灯のない暗黒の夜道を4時間かけて歩いて帰宅しなければならない。タクシーは五千円とられるから。
こんな過疎地に暮らしていると、日用品で不足したものは、自作しないとやってられないのだ。だから、大抵の家では、なんでも自作できるように、さまざまな道具をそろえている。
なかには、ユンボやフォークリフトまで備えている家もある。
米作農家が大半だが、耕運機、田植機、コンバインなど、一通りの機械を備えている家が多い。もちろん農業に必要な道具類は、根こそぎ全部保有しているから、私のように家具まで自作する人も少なくない。
このような自作環境に生きていると、森羅万象、天地のあらゆる法則に通じていないと、年中困ってばかりいる生活になってしまう。
人生、もの凄い数の知識が必要だが、その根源は、それほどたくさんない法則に支配されているのであって、家具を作れる知識があれば、家を一軒全部手作りできるのである。
田舎暮らしは人を利口にし、あらゆる融通の利く人間を作り出す。
そして、何より、透徹した目で人を観察し、その本質を見抜くようになり、人間性が広く大きく育ってゆく。
こんな田舎では、人に嫌がらせするだけが趣味のネトウヨは生きて行くことさえできないから、否応なしに、心も広く深くなってゆくのである。
だいたい、周りを見渡してごらん。
何でも自作する人に、姑息な人、悪口だけで生きてる人なんかいないだろ?
何でもできる人は心が広く、大きくなり、誰からも信頼されるようになるのだ。
だから、田舎に住んで、なんでも作ろうじゃないか!

コメント
現代はブラックボックスが生活や仕事の場に多く、そのことに無自覚な人間(ネトウヨ)は、無意識に自分の身を守るためか、とにかく世の中の大勢に従うことだけを目的にして、行動しているのかもしれませんね。
何でも手作りできる物に囲まれている時代は、現代のように疎外感を持つ人間はそれ程多くなかったように感じます。
本当にできるだけいろんなものを手作りして、考える人間としての原点を失わないようにしたいと、今日のamaさんのブログを読んで思いました。
実際に武器で打倒せず受けた害には念じ見下すの精神的処遇でも効果がある。見下された者は、体中を流れる酵素が逆流するから体調を崩す。首相の遊説は車上から、裁判官は檀上から垂れる。目線にいると軽蔑の眼差しが怖いのである。しかしこの酵素逆流を感じない者が爬虫類人類、ユダヤの神で目線でカネを渡し、誘惑による堕落を得意とする。自前の者はユダヤ商売の範囲外だから虐める。汝念ぜよ、されば倒されん!
先の韓国最高裁判決について浅井論文参照あれ
尚インドネシア語にはromusa(労務者)がある;日本占領時のインドネシア人の強制労働者の意味。meromusakan(労務者として働く)。
韓国語は日本による強制労働者の単語がないのか?なければネシアから輸入だ。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52034146.html
「このような燃え方はレーザー兵器でないとあり得ないと考えられています。私たちには理解できない恐ろしい兵器が既に存在するようです。
攻撃の標的になったのはカリフォルニア州だけではないようです。世界中の複数の地域でも同じような火災が発生しているそうです。人間が標的になれば、一瞬のうちに焼失し灰になってまいますから逃げることもできません。このような恐ろしい兵器がサテライトを介して操作されています。レーザー兵器を使って世界中(人間もあらゆる物も)を焼き払ってしまうつもりでしょうか。」
「ポルトガルでもカリフォルニアと同様の山火事が発生。車が焼失しても、周辺の木々はそのまま残っています。人々が車の中に閉じ込められたまま燃えてしまっています。」
道路を挟んで左右の住宅は、瓦礫だが、樹木は、燃えていない。
消防隊が燃えていない木々にも庭用のホースを使って水を撒いています。
ポルトガルの森林地帯で車だけが燃えた状態。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52034149.html
堺屋太一、何にでも、顔を突っ込む大宅映子の如し。
顔を売る点では、電波芸者、田原総一郎も同様。
ある音楽家が「最近音楽が売れないのは、下手でもみんな自分で演奏したり作曲したほうが楽しいことに気づいてしまったのではないか?」と言ってたのを思い出しました。
話変わってリクエストなんですが、
民族学(民俗学?)的な話に大変興味があります。
過去の記事も少し読みましたが大変難しい(自分にとっては)
もしよろしければ初級者向けの民族学(民俗学)的なお話もまた聞かせて下さい。
ありがとう。
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