「競争社会の洗脳」という仕組みがもたらすものは?



 多くの人々は、ひどい勘違いをさせられている。

 競争社会で切磋琢磨され、劣ったものが淘汰されることで、はじめて「優秀なもの」が誕生するのだと思い込まされているのだ。



 「だから競争が必要なのだ」 と。



 これ、どこかで聞いたよな?

 あの相模原障害者殺戮事件を引き起こした植松聖の持ち出した理屈だ。

 というか、自分が、障害者や老人や死刑囚になる可能性に気づかない、ほぼ全員がそう思っている屁理屈の類いなのだ。

 今は、安倍晋三・麻生太郎政権が、この屁理屈を持ち出して政策を作っている。



 おそらく、自民党・公明党・維新など保守政党の支持者の大半も、そう思っているに違いない。

 優秀な人間を残して、社会に役立たない者を間引けと。

 私に311以降、イチャモン、嫌がらせを繰り返している集団の大半も、これと同じ主張を繰り返している。



 我々は、彼らを総称して「ファッシスト」=全体主義者と呼んでいる。

 「お国のために」という強烈に観念的な洗脳を受けた者たちが、「お国のために役立たない者たちを抹殺せよ」と主張するのがファッシズムの本質である。

 その背景に、彼らに共通する「優秀信仰」が存在している。



 彼らは、自分が老人や障害者、犯罪者などの社会的弱者になる可能性に、まったく気づいておらず、自分だけが、他人を押しのけて特権的な地位にあって、死ぬまで他人を見下し続けることができる勘違いしてるわけだ。



 そして、この社会に必要なものは「優秀」なものだけだと信じている。

 優秀でないものは、この社会に無用なものであり、淘汰排除すべきだと信じているのである。

 それを実践してみせたのが植松聖であった。



 競争をすれば、良いものだけが残るとでも思ってるのだろうか?

 子供たちに競争をさせて、勝ち組に行けるのは、要領のいい子供、勝てる環境にある子供、勝ちたいという強い意志を持つ子供であって、必ずしも「優れた」子供が勝ち残るわけでもない。



 競争が「良いもの」を作るために必要だと思い込まされているあなた。確かに競争して、負けたくないから、一生懸命努力するようになるのは事実だ。

 しかし、我々の生活は、本当に競争によって生み出された「良いもの」を必要としているのだろうか? 考えたことがあるのだろうか?



 私の経験でいえば、経験のなかで、よりよきものを発見し、改良することで「良いもの」は、間違いなくできてゆく。

 しかし、競争することで、本当に「良いもの」ができるかは、甚だ疑問なのだ。

 競争は、必ずしも「良いもの」を生み出さないことも多い。



 生活のすべてを、俯瞰してみてほしい。あなたの妻は、あなたの夫は、競争に勝ち抜いて手に入れた人なのか? 競争に勝って優秀になって、あなたは本当に幸せになれたのか?

 本当に優秀な人材が、社会を良くしてきたのだろうか? 人々を幸せにしてきたのだろうか?



 決してそうではない。オウム真理教の処刑された幹部たちは、実に優秀な人間ばかりであった。

 安倍官邸で不正を繰り返す官僚や側近たちも、実に優秀な人間ばかりである。

 金儲け思想により日本列島に巨大な放射能汚染をもたらした東京電力の社員や経営者たちも、優秀な人材だった。

 日立も三菱も、東芝も、幹部たちは選ばれた優秀な人材ばかりではないか?

 日本を太平洋戦争に突入させ450万人を殺させた者たちも、優秀な人材であった。



 「自分は優秀な人間だ」と自惚れたいばかりに、東芝の西室や西田が、数十万人の人生を崩落させてしまった。

 彼らは、東芝の未来よりも自分の評価と、自分の老後の退職金にしか関心がなかったから、アメリカの詐欺師に1兆円以上も欺されて東芝を崩壊に導いた。



 安倍晋三も、「自分は優秀な指導者」と思い込みたいばかりに、人気取りだけの政策を行い、日本国家そのものを完全崩壊させようとしている。彼は、いずれ希代の詐欺師として、日本を壊した極悪人として歴史に名をとどめることになるだろう。



 本当に「優秀」が必要なのか?



 本当に優秀なものを求めたライフスタイルは、どのようなものか?



 一軒で普通の家が十軒以上も建設できる家に住み、楊貴妃のような妻を娶り、毎日、最高の料理人が作ったものを取り寄せ、子供は家庭教師をつけて東大に進学させ、というような生活が優秀病患者たちの憧れのライフスタイルなのだろう。

 いわゆるセレブライフだが、こんな生活をすれば、今度は、周囲から妬まれるだけでなく、泥棒や詐欺師のターゲットになって大変だ。



 セキュリティ費用が猛烈に嵩むだろう。自分たちは特別に選ばれた人間だという思い上がりが、周囲からの離反を自ら作り出し、孤独な生活になるだろう。

 人は一人では生きられない社会的存在である。



 優秀病がもたらすものは、他人を差別するという思想であって、それは他人を差別し見下しているようでいて、実は自分が差別され、周囲から離反されているのだ。

 「劣ったものを排除」して「優秀なもの」を獲得したつもりが、実は、自分自身が社会で、もっとも劣った存在に成り下がっているのである。



 競争社会の成れの果て、それは「優れたもの」を選び、求めて、もっとも劣った愚かな存在をもたらすことである。



 かつて「競争と優秀」を求めた者たちは、どうなったのだ?

 アメリカは、「優秀=偉大」を求めて、建国以来200回以上もの戦争を繰り返し、世界で一番不幸な国民となっている。

 ドイツは、劣った国民をガス室で抹殺するT4作戦を実行し、ユダヤ人600万人を殺戮した。その結果、優秀になったのか?

 いや、世界で一番不幸な国家となった。

 日本はどうか? 戦前、国民に競争をあおり立て、天皇陛下のために優秀な人材になれと強要し、450万人が戦死させられ、やはり世界で一番不幸に運命に至った。



 あなたの求める「優秀」とは何か?

 競争の果てに「優秀」が得られるのか?

 本当に「優秀」でなければ、生きていけないのか? 普通じゃダメなのか?

 我々は、優秀を求める競争社会を深く問うべきである。