奈良時代以前、AD300〜700年あたりに、朝鮮半島から百済という国ぐるみで、新羅や唐に追われて日本列島に移住した一群の人々は、主に、秦の始皇帝の末裔を称する弓月=秦氏であった。



 渡来人は歴史学者の間で言われているように、三々五々、観光旅行でもするように日本列島に立ち寄ったとは考えられない。

 古代における民族移動は、必ず戦争を前提にし、敗北すれば国ぐるみ抹殺された時代だったので、集団で逃げ出すしかなかったのだ。



 百済という国が、400年近くに渡って唐や新羅に攻められ、やがて国ぐるみの移住に至ったのは、百済と日本との間に、かなり安全で明瞭な交易ルートが確立していたからであり、むしろ、日本と百済の連合国家のような状態が成立していたからだと考える。



 実は、百済と新羅、加羅、高句麗の関係は非常に複雑で、加羅国は、かつて任那が「日本府」と称し、日本列島で日本という呼称が使われる以前に使われていた。

 万世一系支持の史学者は、大和王朝の出先機関と称しているが、これはウソだ。

 まだ細かい事情は解明されていないが、表向きの事情は、このリンクにある。



 https://manareki.com/bukyo

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C



 これ以前には、「倭」と称される地域社会があり、これも伝えられるように、日本西南部を指すわけではなく、私は、呉越戦争で呉国住民が、朝鮮半島南端や九州に上陸して弥生人国家を成立させ、この南朝鮮・日本を広く結ぶ海岸沿いの交易範囲を「倭」と称したのだと考えている。



 百済は、高句麗にあった扶余=女真族が作った国であるが、明らかに倭とも、深く結びついて、弥生人国家と騎馬民族国家の橋渡しをして、弥生人王朝であった「ヤマト=邪馬臺」を、そのまま騎馬民族の「大和」に移し替えていったと考える。



 歴史学者たちが、百済が日本列島にも存在したことを否定し、倭の範囲を日本列島に限定したがる理由は、平泉澄らの国粋主義史学の呪縛から抜け出せないからであり、江上波夫の騎馬民族制服王朝説を嘲笑する理由も、どうしても天皇家の万世一系説を死守したい「平泉の呪い」=極右保守思想からだけの問題であろう。



 日本列島に国ぐるみで移住した百済国は、天武ら数名の天皇が、焚書を行った記録から、日本史を根底から改竄し、弥生人王朝の痕跡を消してしまったのだと考える。

 騎馬民族が日本列島に大規模に移住した、日本書紀の弓月氏の記録から、AD300年〜700年の間に、百済は大和王朝を完全に簒奪したと見るべきである(江上波夫=騎馬民族征服王朝説)



 国家という、巨大なアイデンティティを成立させるためには、人々に共有させるイデオロギーが必要であり、百済は「仏教」という思想を持っていた。



 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D



 国家権力の保全のためには、孔子儒教の方が都合が良いはずなのだが、なぜ仏教だったのかといえば、それは長安における当時の流行の影響ではなかっただろうか?

 当時は、孔子儒教は、仏教に比べて見劣りのする思想だったように思う。



 AD300〜700という時代は、明らかに情報ルネサンスが爆発的に進んだ時代であり、東アジアにおける海洋交通と交易は著しい進展をみせ、遣隋使・遣唐使・空海・最澄らも、東アジア一帯に広がった知的高揚のなかで情報伝達者として機能したはずである。



 これが宋元帝国時代に至って、「タタールの軛」に見られるような恐怖社会に変わり、情報ルネサンス時代は終息してしまうのだが、日本では、平安〜鎌倉時代に相当する。



 この頃、空海や最澄が日本に持ち込んだ仏教体系が大きな華を開く。高野山と比叡山である。

 とりわけ比叡山には、鎌倉仏教を代表する名僧たちが勢揃いし、日本列島住民の思想的アイデンティティの構築に巨大な役割を果たしたと考える。



 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99



 この鎌倉仏教が広く日本民衆に流布した思想こそ、現代に至るまでの日本仏教の根源思想であって、これが、以降の日本社会に及ぼした日本的美学というか、道徳的規範を定めた民衆のアイデンティティとして寄与したと考えることに異論のある者はあるまい。

 https://buddha-christ.com/2017/10/21/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%80%8E%E6%97%A7%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%A8%E6%96%B0%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4%E3%80%8F%E3%81%A8%E3%81%AF/



 国家という、ひとくくりのまとまりの根底には必ず思想的共有が必要であり、儒教は、上から権力的に定める統制思想であったが、仏教は下から社会を規律する思想であった。

 江戸時代末期、外国からたくさんの知識人が日本にやってきて、見聞記を残しているが、いずれも一様に、日本民衆の道徳的高さを褒め称えるものばかりである。



 https://thepage.jp/detail/20170612-00000004-wordleaf



https://www.youtube.com/watch?v=N4OHmmflENM



https://www.youtube.com/watch?v=z5mPBYsKiuA



 こうした底辺の民衆のなかにある文明の本質的な高さを形作ったのは、鎌倉仏教であると断言してもよいのではないか?

 鎌倉仏教が広く流布した、利他思想こそ、現代日本における文化の高さを形作った基礎であり、こうした宗教的規範とアイデンティティが、今の我々の何に作用しているのか? 我々は明確に認識しておかねばならない。



 いわゆる「宗教」が文明文化に果たしてきた役割は、我々の想像をはるかに超える巨大なものであり、人間社会と宗教を切り離して考えることなど絶対にできない。

 私は、宗教的形象こそ霊的世界を反映したものであって、霊世界の実在を証明するものだと考えているが、釈迦はむしろ、霊ではなく、目に見えるものだけを見つめよと諭している。



 もしも、人類史に寺院や説教が存在しなければ、それは恐ろしい戦争社会ばかりになっていたような気もする。

 「やっていいこと、悪いこと」を定めて教えたのは宗教の存在であり、わけても仏教は、それを体系的に教えようとしてきた。



 今、我々は、全国の仏教施設が、民衆から見捨てられ、崩壊してゆく有様を見せつけられているわけだが、このことにより、仏教が規範として示してきた思想性まで失われるとすれば、若者たちが「やっていいこと、悪いこと」を見失うことを示している。



 ほとんど毎日のように、我々は我が子殺し、妻殺し、夫殺し、恋人殺しなど凄惨な人間崩壊を見せつけられているが、この恐ろしい傾向と、仏教社会の崩壊は完全にリンクしていると考えるしかない。



 今更、檀家仏教を戻せとは言わないが、若者たちに「やっていいこと、悪いこと」を日常的に教育する施設を失うことが、どれほど恐ろしい結果を招くのか?

 我々は想像力を働かせるべきである。