朝4時、東京から、東北方面の空が真っ赤に染まっていると報告



こちらでは4時段階で、まだ暗い内からカラスが騒いでる



 今日から数日中に東北太平洋方面に巨大地震の疑いがある



 このブログの読者は、可能なら今日中に、水や非常食などの備蓄をすませていただきたい



海岸沿いの方は、津波が来るときの逃げ道シュミレーションを 海抜40m以上に逃げていただきたい



この記事では、キラウエア噴火後、数ヶ月以内に、関東東北太平洋岸で巨大地震が発生するのが定例化していることが分かる

http://tocana.jp/2018/06/post_17060_entry_2.html





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 インド人はアングリマーラを殺さなかった



 ある日、師匠が王の招きにより留守だったが、師の妻がアヒンサ(アングリマーラ)に邪に恋慕し誘惑した。しかしアヒンサはこれに応じず断ると、その妻は自らの衣を破り裂き、悲相を装い師の帰りを待って「アヒンサに乱暴された」と偽って訴えた。



 これを聞いた師は怒り、アヒンサに剣を渡して「明日より、通りで出逢った人を順に殺して、その指を切り取り鬘(首飾り)を作り、100人(あるいは1000人)の指が集まったとき、お前の修行は完成する」と命じた。



 彼は悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。これにより彼はアングリマーラ(指鬘)と呼ばれ恐れられた。

 アングリマーラとなったアヒンサは、そのときすでに99人の指を集め終わっており、あと一人殺せば修行が完成するはずであった。



 この話を比丘たちからすでに聞いていた釈迦は、アヒンサの帰りが遅いのを心配した母が息子を迎えに行き、ちょうど100人目となって息子に殺されてしまうことを神通によって知り、その場へ駆けつけて、アヒンサを改心させ、帰依させた。



 釈迦仏の弟子となった彼は、街へ托鉢に出かけると、今までの経緯から人びとから多くの迫害を受けるようになった。

 あるときは彼を見た妊婦が難産となったこともあったという。また彼を見ていた少年から暴行されたこともあったという。彼はこれは自分がしたことの報いだと耐えたといわれる。

 アングリマーラは「人殺し」と罵られ、民衆から殴られ、石を投げられ、托鉢に出て帰ると、血まみれになっているのが常であった。



http://buddha-tree.com/2013/07/17/352/



 アングリマーラのその後を調べたが、よく分からない。分かってることは99名の人を殺害して指を切り取った彼は、ひどく痛めつけられたが殺されずに生き残って悟りを開いたということだ。



 インド人は、これほどの殺人鬼も殺さなかった。

 しかし日本人は……。



 これは10年近く前に私が書いたブログである。



 日本人は、どれほどのショパンを殺してきたのか?

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-257.html



 近年の日本人は、人の間違いに極度に不寛容である。他人の間違いを見つけたら、口を極めて罵り尽くし、全身全霊で制裁せずにはいられない。

 わずかでも間違いを犯したら最後、周囲から寄ってたかって責められ、二度と、そのコミュニティに溶け込むことはできず、転校できない学校の場合は、校舎の屋上から身を投げることしか許されていない。



 そうして他人に極端に不寛容になったいじめっ子が成長すると、今度は我が子さえもいじめ、やがてエスカレートして殺してしまうようになる。



 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/post-5815.php



 https://matome.naver.jp/odai/2142607316627886501



 「人間の命を大切にする」という人間社会を根底で支えてきた信仰から解き放たれ、誰が死のうが、我が子を殺そうが「カラスの勝手でしょ」という社会がやってきた。

 

 今の時代に、アングリマーラが現れたなら、日本では、投石、撲殺、絞首と大変なことになり、彼の命は数分ももたないかもしれない。寄ってたかって、イジメ殺されるのだ。

 アングリマーラは、古代インドに生まれたことを感謝すべきだろう。

 

 もちろん、話は、「なんで、こんなになっちまったんだ?」

 というのが主題なのだが、凄惨な我が子殺しの情景が、ことさら強調されて報道される毎日に気が滅入ってしまって、この話題を直視するのは、とても辛くて苦しい。



 子供を育てるということは、「可愛い」という本能的な快感を満足させる行為であり、誰にでもある自然なものだと思っていた。

 しかし、可愛い我が子に熱湯をかけて大やけどをさせ、食事を与えずに餓死させる子殺しの心理が、私の世代では、どうしても理解不能なのだ。



 どんなに考えても、可愛い子供を育てることは快感であり、満足であり、人生の本源的な喜びのはずなのだ。

 私は子供を持つどころか結婚さえもできずに老人になってしまった人生のオチコボレなのだが、まあ、子供の代わりに、家を作ったり、家具を作ったり、野菜を作ったりして育てる満足感を味わっている。



我が子をいじめて殺すことは、それよりも大きな喜びなのか?

 私には分からない。



 この倒錯した子殺しを理解するためには、大きな努力が必要になる。

 そもそもの倒錯は、学校におけるイジメなのだ。もちろん私の時代にも激しいイジメがあった。あんまり虐められたので、学校の同窓会にさえ顔を出したくないほどだ。

 私を虐めた同級生たちの運命を知ることができたが、無期懲役、死刑と、驚くような犯罪者になっていた。

 こんなことはヤクザ社会だった、私の育った地区特有の事情かもしれない。



 私が、おそらく子殺しやイジメに夢中になっている連中に対して感じていることは、彼らは、他人を嘲笑し、小馬鹿にし、見下し、罵倒することが、三度のメシより好きなのだろうということだ。



 逆に言えば、彼らが、どれほど凄まじいコンプレックスの牢獄に叩き込まれていたかということになる。

 彼ら自身が、実は、子供社会におけるイジメの犠牲者だったのではないか? 被害者は反転して加害者に変わるのである。



 私自身、ツイッターなどで、もの凄い数の嘲笑、罵倒、嫌がらせを受けてきたのだが、彼らの共通点は、人をリスペクトする喜びを知らないということである。

 何が何でも馬鹿にせずにはいられないのだ。相手を見下さずにはいられないのだ。



 こんなに人を馬鹿にする癖をつけてしまったら、私だけでなく、周囲のあらゆる人を小馬鹿にするようになるのは避けられず、たぶんというより、ほぼ確実に、周囲の誰からも恨まれ、やがて憎悪殺人の被害者になる運命は避けられないだろうと思うような、根性の腐乱しきった嫌がらせマニアを、たくさん見てきた。

 彼らのような腐った人間性が、自分の子供をイジメ殺すのだろうとは容易に想像できることである。



 人から何かを学び、対話しようとするなら、まずは相手をリスペクトしなければならない。これが人間関係の原則であり常識なのだが、彼らは、まず相手を小馬鹿にし、嘲笑し、罵倒するのである。

 

 正直、彼らに対しては、死刑制度に反対してきた私でさえ、心の底から湧き上がる猛烈な殺意を抑えることができず、もし住所氏名が分かったなら、何も考えずに飛んでゆくだろうとさえ思った。

 こそこそと身元を隠して卑劣な嫌がらせを書いている姿勢も、怒りにガソリンを注ぐものであった。



 私のように、地位や財産や家族など守るものを持たない人間は、本当に危険なんだ。

 私はアングリマーラを殺さなかった古代インド人ほど寛容ではない。聖人君子ではない。まして、全身が病気で、生きているうちに激怒を晴らしたいと願っているのだから。



 ちなみに、古今東西に伝承される「聖人君子」ほどいい加減なものはない。

 孔子の大好物は「人醤醢」で、罪人の処刑遺体を塩漬けにした食品だったそうだ。キリストも、市場でパリサイ人に殴り込みをかけたことが聖書に描かれている。



 本題 「人は必ず失敗する」



 人間最大の属性は何か? それは「必ず失敗する」ことである。

 失敗するから人間なのだ。失敗しない人間は、もはや人間ではない。完璧な人間は、この世界に生まれてくる意味はない。この世界に存在する本当の理由は、失敗するカルマなのである。



 人はカルマを超えるために、おそらく数千回も人生を繰り返す。死んでは生まれ、死んでは生まれ、そのたびに人生を失敗し、それゆえに再生し、再び失敗し、尺取り虫が進むように、少しずつカルマを減らしてゆき、やがて失敗しなくなれば、再生も不要となる。



 釈迦だってキリストだって、失敗するから、この世に生まれ変わってくるのである。ただ、普通の人よりも、失敗が少ないだけのことで、だから再生回数も少ないのだろう。



 カルマを減らすことの意味は、「失敗する自分」の意味を知ることである。

 人が失敗するものであることを知ることであり、それゆえに人の失敗に対して、どう考えるべきかを知るということが、カルマを減らすということである。



 私は、幼い頃から自分が死刑になるイメージを持ち続けてきた。私は過去生において、人殺しを繰り返したのではないかと疑っている。

 私に対してツイッターで嫌がらせをした連中に対する激しい憎悪と殺意が、それを示している。私は短気で、嫌がらせをされたら、すぐにカッとなって報復に向かうキャパシティの小さな人間だったのだ。



 私は、過去生で、どれほど人殺しをしたか分からない。だから死刑のイメージから逃れることができない。

 私もアングリマーラの一人だったのだ。



 アングリマーラは殺されなかった。身内を殺された怒りで、被害者の家族や友人から百回も殺されても仕方のない人間だったのに死ななかった。

 やがてアングリマーラは、釈迦最高の弟子といわれるまでになった。



 こんなことを考えていると、思い出されるのは千日回峰の酒井雄哉だ。



 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%9B%84%E5%93%89



 特攻隊に入って生き残った酒井は、戦後ラーメン屋や、いかがわしい事業を経営したが、数億円の借金を抱えて、妻を自殺させてしまった。

 それから40歳近い高齢で比叡山に出家し、文字通り命がけの行三昧人生を送った。



 彼の失敗観は、こんなものだ。

http://president.jp/articles/-/7053



 要するに、人は必ず失敗するものだ。人の失敗を笑ったりすれば、それは大きなカルマを作り出す。「失敗は成功の元」であり、失敗しなければ決して前に進めない。



 同じように、すべての人が、たくさんの欠点を抱え、失敗を抱えているのだから、それを制裁したり処罰したりしか考えられない人が、前を向いて人生を進むことなどできないのである。



 実は、人生など何度でも再生がある。だから一度の死で終わるわけでは決してない。

人殺しをすれば、相手の人生を、すべて終わらせたわけではけっしてない。

 例え、人殺しをしてしまった人でも、その失敗を命で償わせるようなことをしてはいけない。報復死刑は、人生に巨大なカルマを作り出すだけだ。



 人の命を命で償わせてはいけない。アングリマーラの逸話は、そのことを示しているのである。