優生保護法による障害者への強制不妊手術問題が、大きな話題となってニュースに取り上げられるようになり、「お国のために役立たない者を排除する」という、麻生太郎以下、全体主義をめざす極右自民党議員たちの心根に焦点が当たるようになっている。



 かつて優性保護法を推進した議員のなかに、加藤シズエや福田昌子ら社会党議員がいたというのは事実だが、基本的に、「お国のために邪魔な者を排除する」発想は、自民党保守系議員の思想であって、加藤シズエらは、女性が自由に堕胎できる権利を主張する延長で議論を進めたものである。



 「優性保護」の本質は、「優れ主義」とでもいうべき、「劣ったものを排除し、優れたものだけを残す」という、一見合理的に見える、人類史の根源にもかかわる問題であるから、これと対峙するには、人類史全般と、人生観、世界観の哲学に深い問いかけの思想が求められる。



 哲学でいえば、ヘーゲルが「人類は合理性を原理として上昇進化してきた」と述べているように、宇宙の根源法則における「合理性こそ進化の原理」と解釈する思想が幅をきかせ、それが国家主義と優性保護を正当化する理屈になっているといえるだろう。



 それを真正面から否定できるだけの、人生観、世界観を獲得しなければ、優性保護正当化の流れに立ち向かうのは困難である。すなわち、社会を進化させる合理性と、劣ったものを排除する優性保護思想は、まったく異なるものと知る必要がある。



 障害者は社会のなかで合理性がないかのように信じこみ、実際に数十名を殺害したのが植松聖だが、麻生太郎も、「老人や障害者は、お国の邪魔者」と平然と発言し、自民党ネトウヨたちの大きな支持を集めている。



 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-201702.html



 優性保護主義者たちにはヘーゲル弁証法の「合理性」解釈に大きな誤りがある。



 ヘーゲルは、単純な優劣の淘汰など何一つ問題にしていない。ただ、対立の統一、否定の否定、量質転化の原則を形而上学的に述べているだけで、人類史における障害者の役割について、非合理だから淘汰の対象だなどと決めつけてはいない。



 むしろ逆なのだ。老人や障害者のいない社会では、住みやすい、暖かい人間性は成立しない。



 ヘーゲル弁証法の意味は、明るさを認識するには暗さの認識が前提になり、進化を知るには退化を知ることが前提になり、表という概念は、裏という概念を前提とする、というわけで、すべての事物現象は二面性の対立の上に存在しているというものであって、健常者の意味は障害者を前提するする仕組みなのである。

 逆に言えば、障害者なくして健常者は認識されず、もし障害者を邪魔者として社会から強制排除してしまえば、今度は健常者のなかに新たな障害者を見いだすことになるという意味である。



 社会というものは、合理性と不合理性、優劣の両方がバランスをとって、はじめて、みんなが住みやすい環境を見いだすものである。

 我々が、住みやすい心癒やされる社会に生きようと思うなら、障害者に対する優しさが前提になるのだ。



 今西錦司進化論では、生物の進化には意思が巨大な役割を果たすと、ダーウィニズムに真っ向から挑戦するような結論を示している。

 何を意味するかというと、生物の進化を定めるのは、ダーウィンが示した偶然の確率論的進化ではなく、ひとつひとつの個体の体験から導き出された意思であるという。



 つまり、人間社会の進化を定めるものも、偶然の確率や、劣ったものの淘汰ではなく、すべての個体における意思であって、優れた者も、劣った者も、健常者も障害者も関係なく、意思あるものすべての総和が人類社会の未来を構築していくのである。



 ダーウィン進化論は間違っていると今西は言う。世界は劣ったものの排除で、優れたものに変化するわけではなく、また偶然の淘汰で変わるわけでもないのだ。

 世界の実存は、すべての意思の総和なのである。



 健常者が、幸福な人生を送れるのは、障害者がいてくれるおかげである。

 能力の高い者が、大きな仕事をなすことができるのは、能力の低い者がいてくれるおかげである。そして、その立場は絶えず逆転する。否定され、さらに否定される。

 こうした視点が本当の弁証法であって、すべては対立とバランスが定めるのである。



 優性保護思想の支持者たちが目指すように、「お国の邪魔者」である老人や障害者を排除抹殺した世の中は、どんな事態になるか想像してみればよい。



 それを実際にやってのけた国があった。ナチスドイツである。



 ドイツは1940年代に、国内の障害者40万人を「国に役立たない」と決めつけてガス室に送り込んで殺害した。これが人類史上、もっとも悪名の高いT4作戦である。

 その悪質性は、日本の731部隊にも匹敵する。

 ただ、同じナチスによるユダヤ人ホローコストの規模が600万人と、あまりに巨大だったので、陰に隠れて、その恐ろしさから意図的に目を背けられてきたともいえよう。



http://www.geocities.jp/torikai007/1939/t4euthanasia.html

https://povril.wordpress.com/2016/07/28/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%AE%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%80%8Ct4%E4%BD%9C%E6%88%A6%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8/

 

 実は、T4作戦がドイツに何をもたらしたのか? ネット上で探しても、ほとんど記録は残されていない。あまりの凄まじい悪行に、ドイツ人の誰もが目を背けたまま、未だに直視できないでいるのだ。



 しかし、ドイツ国内でナチズムを賞賛しようとすれば、たちまち恐ろしいほどの怨念が襲いかかってくる。まだT4作戦の犠牲者の身内が、たくさん生きているからだ。



 これはドイツ人の心を深く傷つけたなんて生やさしいものではない。引き裂かれた心は、まだドロドロ血がにじみ出ていて、ドイツ人の心は毎日、新たに切り裂かれ出血し続けている。

 T4作戦を知る世代が、すべて死に絶えたとしても、はたしてドイツは癒やされるのだろうか? 私はドイツの未来永劫を呪い続けるように思えるのだ。



 それは、人間社会を暖かく支える心、人の優しさというものが、老人・障害者など弱者を排除せず、最期まで、人間性を失わないで支え続けるという姿勢から生み出されるものであり、もしも邪魔だからガス室に送って殺すなんてことをすれば、社会全体の良心をも殺してしまうことになるからである。



 そこには、物理的人間として生きているだけの社会しか残らない。どんなに「優れたもの」に包まれて生きることができたとしても、暖かい優しい笑顔が生まれない。人をモノのように考え、扱う、冷たい社会だけになってしまうだろう。



 麻生太郎の理想社会は、心の凍結した地獄のような社会になるだろう。自民党議員たちも、自分たちが、どれほど悪意に満ちた、地獄社会を作ろうとしているのか、誰も理解していない。



 安倍晋三もまた、麻生太郎と同様に、「美しい国日本」をスローガンに、人口の数パーセントの大金持ちだけを支配階級として優遇し、大多数の民衆を被支配階級として奴隷制度のように固定する国家作りを目指している。



 これを指揮してきたのは竹中平蔵である。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-326.html



 竹中は、金儲けする大金持ちだけが価値のある人間であるという。もちろん、老人や障害者に同情し、連帯し、守ろうとする意思は万に一つもない。

 国家は、彼らに対する援助、社会福祉を廃止し、大金持ちのためだけに奉仕せよという。

 竹中平蔵もまた、間違いなくT4作戦を推進してゆく人間性であろう。彼の目には、老人や障害者、弱者が、この社会で果たしている本当の意味は、何一つ見えていないのだから。

 非合理な存在は、切り捨て、抹殺することしか彼の脳裏に存在しないのである。



 竹中はじめ、保守自民党支持者たちの発想の根源には、何がなくとも「日本国家」という絶対普遍の価値があって、それを守るために日本国民がいるという完全に倒錯した虚構の世界がある。



 「偉大な日本」 「美しい日本」 「優れた日本」を守るために、劣ったもの、美しくないものを排除抹殺しようという発想が「優生保護」なのである。



 極右勢力の妄想する「偉大な日本」というのは、いったい何か?



 それは、自分の棲む日本国が世界で一番だと信じて陶酔したい心情にすぎず、それは日常的なコンプレックスのなかに叩き込まれることで醸成された、「自分を救済してくれるなにものか」への期待が生み出した幻想にすぎないのである。



 美しいとか偉大とか、優れているとかいうのは、すべて相対的価値であって「あれよりもこれの方が」という選別の発想だが、これは、競争主義のもたらした淘汰の価値観からきている。



 物心ついた幼い頃から「選別淘汰」の発想に洗脳されきって、自分も含めて、あらゆるものを仕分けし、取捨選択してゆく人生観というのは、人間の自然なあり方では決してない。



 人は「優れたもの」だけを選んで生きてきたわけではない。むしろ、劣ったもの、未完成のもの、のなかから、自分の人生にふさわしいものを見いだし、作りだしてきたのであって、優劣など実は二義的なものだったのである。

 

 真実を直視できる者なら、日本国なんて実態など、本当はどこにもない。国土も天皇も、人間社会のなかで根拠のあるものではなく、人々の洗脳や妄想のなかだけにあることに気づいているだろう。



 イムジン河やイマジンに歌われるように、鳥たちにも獣たちにも、流れる空気にも、水にも国境など関係ない。

 国境というのは宇宙や地球の実態ではなく、国家を信奉する人々の妄想のなかだけに存在しているのである。



 そんなことは、この世に生まれて、人間関係と社会の原理を直観できたとき、すべての人が思うことだ。

 それを見抜き、自分にとっての回答を定めることができず、本当は虚構にすぎない国家という妄想、幻想の価値のを信じ込み、強いもの、優れたもの、美しいものばかりを求めて、そうでないものを排除しようとする国家主義思想が生み出すものこそ、植松聖の世界観である。



 我々は、T4作戦やホローコストの歴史的事実を知っている。

 歴史に向き合えば、それが何をもたらすかも容易に想像できるはずだ。

 宮城県や北海道で行われた人権無視の強制堕胎に対し、自民党も含めて超党派の対策会議が設置されたが、実は、安倍晋三が「美しい国」などと標榜しているうちは、自民党議員は、再び優性保護を目指すしかない運命なのだ。



 311東日本震災における莫大な放射能まき散らしは、日本人の多くを被曝させ、これから遺伝子の劣化した日本人が大量に生まれてきて、影響は十世代も続く可能性がある。



 単純に口蓋裂や多指症児など奇形も、もの凄い数、誕生してきており、目に見える被曝障害はごく一部で、99%の被曝障害は、実は目に見えない遺伝障害になって現れ、その多くは知的障害である。

 軽度知的障害は、大人になって競争に晒されないと見えないこともある。

 そのうちの多くが、障害者として優生保護法の対象になりうる人々である。



 実は、1961~63年における米ソを中心とした凄まじい大気圏核実験競争によって、地球上では莫大な放射能被曝に晒され、チェルノブイリ事故が起きるまで、この放射能被曝によって、地球上全土で、恐ろしい数の奇形や知的障害などが出た。



 私の子供時代も、大気圏核実験が行われ、安倍晋三も被害世代である。このとき、日本中の学校に「特殊学級」が置かれ、ダウン症児や奇形児童が収容されたのを私は目撃している。

 その後、大気圏核実験が廃止されると、この種の学級は消えて支援学校へと統合されていった。

 フクイチ放射能事故の影響が、大規模に直接現れるのは、まだまだ先であり、我々は、凄まじい被曝障害者と癌の激増を目撃してゆかねばならない。

 このとき、再び「優性保護思想」が問われることになるのは確実である。