● 余談 インターネットの普及によって情報量が飛躍的に激増した結果、個々の情報のインパクトが低下し、感受性が極端に鈍磨してしまったことの影響
筆者は、1979年頃からパソコンを使い始め(シャープMZ80)、数年後あたりには電話回線でのニフティ掲示板ネットに加わり、90年代半ばあたりからインターネットを利用するようになった。当初は、電話回線の300ボーで、電話代も非常に高くつくため、一日20分程度の利用しかできず、得られる情報も、テレビ・ラジオ・本や週刊誌などに比べてとるにたらないもので、既成のメディアを脅かすものではなかったが、ウインドウズ3、1000ボーを超したあたりから、ネット環境が良くなり、情報量が飛躍し、既存メディアに拮抗するようになった。ウィンドウズ95の登場とともに、インターネット情報は明確に既存メディアを凌駕し、圧迫するようになった。
インターネットによって得られる情報量が、既存メディアを桁違いに凌駕するようになったのは10年ほど前からだが、この頃から、文章を書く場合でも、書庫に向かうことはなく、すべてネット情報の参照ですませる安易なやり方に溺れるようになった。筆者自身の脳が脳挫傷萎縮によって壊れている事情もあるが、ネット情報参照の安易さに頼り切ったことで、情報の推敲精査が極端に劣るようになったと自省している。言い換えれば情報の受信・発信ともに非常に安易なものになってしまったことで、人生における情報そのものの値打ちが落ちてしまったのではないかと思う。
これは筆者だけでなく、社会全体に言えることで、ワープロの普及とともに、漢字を辞書で引くこともなくなり、タイプミスも激増し、変換不良による間違いが極端に増えて、教育レベルにも影響を及ぼすようになったと思う。
何よりも、ネット情報が、あまりに膨大であるため、それを受信する側の心が飽和し、慣れきってしまい、新鮮な感受性が失われたのは間違いのないことだ。こうした情報の飽和と、感受性の鈍磨が、情報を利用する段階で、どのような悪影響を及ぼしたのか、調査し、その問題点を見ておくことが、これから非常に重要なことになると思う。
筆者の若い頃、情報は非常に大切なもので、テレビ・ラジオ・新聞・図書館・本屋・講演会などは宝物のように貴重なものだった。みんな食い入るように見つめ、吸収していったように思う。ところが、今では、情報でも、あまりにも安易にネットで入手できるため、必要な情報を得られるのが当たり前と思いこみ、情報に感謝しなくなったのは間違いない。
どんなメディアよりも、たくさんの情報が容易に入手できて、その真偽さえ確かめやすくなり、人は瞬時に正しい情報を得られることで、インターネットを取り扱える人たちにとっては、詐欺に遭うことも少なく、誤った情報に振り回されることも減った分だけ、人生に迷いにくくなったわけだが、このことが、むしろ人生の値打ち、光輝をくすませるようになった側面も否定できないだろう。
すなわち、あまりにも安易に正しい人生を歩めることで、人生の苦難が失われ、ときめくように鮮やかな希望・期待、冒険心も薄れていった。
これが、我々の人生に、どのような影響を与えているのか? 今こそ、その意味を考えねばならない時ではないだろうか?
一方で、ネットの熟練利用者にとってはウソの通用しない世の中になろうとしている。しかし、他方で欲の皮の突っ張った人にとっては逆に詐欺に遭いやすい世の中になったとも言える。今の社会は、ネットの利用技術・熟練度で、ずいぶん人生のの合理性に差が付くようになった。
しかし、このことで、人生がつまらなくなった人も増えていることは間違いのないことで、ネット利用者ほど自殺に憧れる傾向があり、例えば、練炭自殺・硫化水素自殺などは、ネットの熟達者たちだけに急速に広まったものだ。
そこで、我々は、「人生を楽しく過ごす」という観点から、あまりに合理化、洗練されすぎる人生の技能についても、その意味を振り返る必要があるのではないか? すなわち、分かりすぎることは人生の魅力を失うということも気付いた方がよさそうだ。
人生にとって、本当に大切なものは、筆者の半世紀余りの人生を振り返ってみると、胸をときめかせる期待、癒される人情、新しい未知のものに触れたときの感動に類するものだと思い知らされてきた。
つまり、人生を色鮮やかに輝かせる、ときめく希望と期待に満ちた感動を与える要素とは、必ずしも正しい情報にあるとは限らない。それは、すべてのストーリーと結末を先に知ってしまった推理小説のようなもので、正確な情報とは、ときめきを失わせる要素にもなることを知っておいたほうがよい。
筆者は若い頃、登山から単独での沢登り、岩登りに夢中になった時期があったが、未知の沢に入るときは、恐れと期待、立ちふさがる困難を突破して、一人で無事に生還できるのか? いつも入り口で逡巡したものだ。
胸の高鳴りを抑え、転落・滑落・動物襲撃・迷い込みなどの恐怖に打ち克って、一歩一歩と沢の奥に進み、恐ろしい大滝をよじ登り、源流を突破し、未知の山稜の藪に飛び込み、登山道に出るまで、息もつけない緊張の連続で、そんなスリルがたまらず、憑かれたように鈴鹿や中央・南アルプスに通い続けた。そして、沢登りこそ、本当に人生の縮図だと、しみじみと思ったものだ。
安全を確保するために、できるだけ、その沢の情報を確保して研究してから入るわけだが、筆者の時代は、まだ草創期で、ほとんど情報らしい情報もなく、ただ、どんな困難に遭遇しても対処できるように、フリークライミング技術や、サバイバル技術など、普段から必死になって身につけようと努力し続けた。おかげで、数回の滑落・骨折・彷徨などに見舞われたが、なんとか無事に生き抜くことができた。
今では、ネットで検索すれば、全国の岩場や沢の正確な情報が容易にに入手できることが多く、対処に失敗することも少なくなったが、逆に、それを鵜呑みにして、それ以外に起きうる偶発的な事態に対する準備が疎かになったり、普段から、何が起きても大丈夫なように、汎用的訓練をしたりということが減り、これが致命的遭難の増加につながっているのかもしれない。
こうして考えると、ネットで正確な情報が膨大に瞬時に入手できるということが、必ずしもメリットばかりでなく、新しいデメリットを引き起こしていることに想像がつくはずだ。ネットの巨大な情報量が、我々の人生に与える影響について、もう少し、総合的な視野で見当すべき時期にきているように思う。
<span itemprop="headline">2009年2月7日 ネット普及の影響</span>
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