https://www.yomiuri.co.jp/science/20220719-OYT1T50202/



「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」のメンバーらが19日、日本記者クラブで記者会見し、東京電力福島第一原子力発電所事故について「放射線 被曝ひばく を原因とする健康被害は認められない」とする解析結果を紹介した。

 メンバーは、昨年3月に公表した事故影響に関する報告書を住民や科学者らに解説するため来日している。



 同委員会は世界の放射線医学などの専門家が参加しており、500本超の論文や調査を基に報告書をまとめた。

 報告書では、住民の避難経路などを精査した結果、被曝線量は高くないと推計し、「被曝によるがんなどの健康影響が増加する可能性は低い」と結論づけた。前議長のギリアン・ハース氏は「報告書は最新の知見やデータに基づいている。結論は堅固で将来も大きく変わるとは思われない」と強調した。

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 引用以上



 フクイチ事故では、何一つ人体被害はなかったと決めつけた「国連科学委」なる組織が、どのようなものか、2013年の哲野イサクレポートにすべて語られている。

 http://www.inaco.co.jp/isaac/



 簡単にいえば、国連科学委とは、1960年代に世界中で激しい放射線遺伝障害(胎児の死亡や奇形、出生後の知的障害など)を引き起こした米ソ英仏などによる大気圏核実験への批判世論に対して、アメリカが中心になって、核実験を正当化する目的で国連に設立した組織である。



 核実験が(地下実験を残して)全面禁止になってからは、原子力発電所や再処理工場の健康影響・遺伝障害を隠蔽し正当化する目的に変わった。

 その延長として、今回のフクイチ事故、放射能障害の隠蔽が起きている。

 福島県=星北斗らによる、フクイチ小児甲状腺癌を原発事故と無関係とする公式見解も、この国連科学委が最初からバックアップしている。



 国連科学委とは何か?



 原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)について 2013.5.29

 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/genpatsu/UNSCEAR/01.html



 日本語ウィキペディア『原子放射線の影響に関する国連科学委員会』は次のように述べている。(現在、以下の批判的文面は別の編者によって完全に削除されている)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E3%81%AE%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%80%A3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A



 「1950年代初頭の冷戦下、核兵器の開発競争のために核実験が頻繁に行われだし、『放射性降下物などによる被曝の懸念から核爆発の即時停止を求める提案をかわす意図』もあって、第10回国際連合総会にて電離放射線の程度と影響の情報の収集と評価するための委員会を設置する提案がなされ、1955年の12月3日に満場一致で承認された。」



 アメリカ、旧ソ連による大気圏核実験からの放射能は、地球全体を覆い各地で放射線健康障害が発生した。このため国連で大気圏核実験の禁止の要求が強く起こった。この時アメリカは、放射線の影響を“科学的”に調査した上で大気圏核実験禁止問題を議論しようという提案を行って、UNSCEARが誕生した。

 つまりUNSCAERは、大気圏核実験を継続するため、またその放射性降下物による放射線被曝の人体影響を科学的概観を装って過小評価する組織として誕生したということができる。



 ついでに言えば、大気圏核実験の影響は深刻で、ついに1963年アメリカ・ソ連・イギリスを中心にして『大気圏核実験禁止条約』(正式名称は『大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約 - Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water』)が成立、発効する。この条約は63年8月に署名され10月には発効という慌ただしさであり、いかに『大気圏内核実験禁止』が私たち人類にとって緊急の課題だったか、そしてそのことをアメリカといえども認識せざるをえなかったかがわかる。



 ところがこの条約は地下核実験を禁止していなかった。そのため『部分的核実験禁止条約』(PTBT)と呼ばれることもある。核兵器後進国である中国とフランスはこのため『大気圏核実験禁止条約』に参加しなかった。

 このように核実験禁止条約には、核兵器保有国間の政治的駆け引きという側面もあったのだが、それはこの条約の本質ではない。アメリカ・ソ連が率先して『大気圏核実験』を禁止しなければ、降下物の放射能影響によって、人類の存続そのものが危うくなる瀬戸際にあった、というのがこの条約の本質である。



 事実男性の前立腺がんの発症、女性の乳がんの発症だけとってみても、北半球諸国を中心に激増し、『大気圏核実験禁止条約』発効後、約15年のタイムラグをおいて1970代の半ば頃ピークを迎えるのである。大気圏核実験の放射能による世界規模の健康損傷の実態はいまだに明らかになっていない。



 中川保雄『放射線被曝の歴史』



 UNCSEAR成立の経緯を中川保雄はその著書『放射線被曝の歴史』の中で次のように記述している。少々長い引用になるかも知れないが、ご容赦願いたい。その前に。



 戦後1950年に本格的に活動を開始したICRP(国際放射線防護委員会)は、1950年勧告では、放射線被曝は「可能な限り最低レベルまで」(“to the lowest possible level”)規制すべき、という一般原則を打ち出していた。

 ところが1958年勧告では「実行可能な限り低く」(“as low as practicable: ALAP”)にあらためた。原則を根本的に変えたのである。一言でいえば「被曝受忍論(被曝強制論)」の本格的な導入である。

 この時ロックフェラー財団がICRPに財政的援助を申し出た、それはICRPが「被曝受忍論」を導入したからであったろう、と中川は書いている。



 「 そのICRPの方針転換に大きな影響をおよぼしたものは、1958年勧告にも明記されたが、1955年の原子力平和利用会議であった。この会議は、アメリカのアイゼンハワー大統領が1953年末に国連で行った例の『原子力の平和利用』演説が契機となって開催された。」



 原子力平和利用会議は、外務省の昭和34年(1959年)3月付け『わが外交の近況(第3号)』で次のように記述されている。



「 第二回国連原子力平和利用国際会議



 昨年(1958年) 九月ジュネーヴで開催された第二回国連原子力平和利用国際会議は、一九五五年の第一回会議以後三年間における世界の原子力発電、核融合反応その他の分野における急速かつ飛躍的な進歩を反映し、七十カ国の科学者専門家等約七千名の出席をみ、また学術論文二千百余篇が提出されるなど、未曽有の一大国際学術会議となつた。



  中略

 「世界に広がった原子力開発への関心の高まりが、その会議の開催に結びついたとするなら、アメリカのビキニ核実験によって世界的に高まった死の灰への不安は、国連の下に『原子放射線の影響に関する科学委員会』(UNSCEAR)を誕生させた。

 互いに対立する契機(すなわち“原子力平和利用”と“死の灰への不安”)から生まれた二つの組織ではあったが、国連科学委員会は、本質的には、『原子力の平和利用』をスムーズに進めるためのものでしかなかった。

 そのためにアメリカは、この両組織で主導権を握るためにあらゆる手を使った。



 原子放射線の影響に関する国連科学委員会は、名称こそ科学委員会とされているが、科学分野ではなく国家の代表から構成された。

 (後でも見るが、中川の指摘どおり現在のメンバーも国家代表であり、各国科学研究機関の代表から構成されていない。“科学委員会”の名に値しない)

 アメリカが強い反対を押し切ってそのようにしたが、その大きなねらいは、人類的影響を問題にする遺伝学者を排除して、国家利益を全面的に押したてた議論へと持ち込むことにあった。



 もちろんアメリカの代表団に遺伝学者は一人も選ばれなかった。ビキニ後(ビキニ環礁の熱核融合爆弾実験で被曝した第五福竜丸事件は1954年3月1日)放射線問題の行方を決める議論が展開されたこの時期、アメリカ原子力委員会は(当時アメリカ原子力委員会は核の軍事利用・平和利用を促進する行政組織であると同時に規制組織でもあった。一連の核実験もアメリカ原子力委員会の事業として行われた)、遺伝学者の声を可能な限り封じ込めようとしていた。



 『もうひとつのICRP』

 「そのよい例がつぎのような事件であった。

 アメリカを代表とする遺伝学者マラー(ハーマン・J・マラー=Hermann Joseph Muller。ショウジョウバエに対するX線照射の実験で人為的に突然変異を誘発できることを発見した。

 この業績により1946年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。精子バンクの提唱者でもある)は、すでにNCRP(アメリカ放射線防護委員会。NCRPの国際版がICRPである。NCRPはその後アメリカの行政機関の一つとして位置づけられ現在アメリカ放射線防護審議会となっている)の許容線量の委員会のメンバーとしてNCRPよりの姿勢を強めていた。



 そのマラーが1955年の国連の原子力平和利用会議で、放射線の遺伝的影響について報告しようとした。そのことを知ったアメリカの原子力委員会は、圧力をかけてマラーの発表を行わせなかった。

 この例のように。原子力委員会は微量放射線の影響をもとに放射線に安全線量は存在しないとする主張を徹底的に排除しようとした。

 

 国連科学委員会のアメリカ代表団には、代表のシールズ・ウォレン(Shields Warren。アメリカ原子力委員会の生物・医学部の初代の長で、その任期の後も一貫してアメリカ原子力委員会の諸組織の要職を務めた)の他にブルーズとアイゼンパッドが加わった。

 (ブルーズはオースティン・ブルーズ。Austin M. Bruse。全米科学アカデミーの下部組織である全米研究審議会=National Research Council=NRCのもとにできていたABCC=原爆傷害調査委員会−Atomic Bomb Casualty Commission の創設期からの中心メンバーの一人。アイゼンバッドはMerril Eisenbud。アメリカ原子力委員会の幹部で健康安全研究所初代所長、原子力委員会ニューヨーク事務所長、のちに原子力委員会全体のすべてのウラニウム調達の責任者。アメリカ保健物理学会会長。電力業界ともつながりが深かった。)



 すべて原子力委員会を代表するメンバーであった。イギリスやカナダの代表もアメリカと似たようなもので、放射線問題の専門家といえば、大抵が(各国)原子力委員会の人間であった。スウェーデンもまた同様で、ICRP議長のシーベルトが代表であった。

 (シーベルトはロルフ・シーベルト=Rolf Sievert。ICRPの線量体系単位“シーベルト”も彼の名前からとった。なおシーベルトは1958-59年の国連科学委員会委員長を務めている。国連科学委員会メンバーとはICRPのメンバーと完全に重なっている)またしても同じような顔ぶれが並んだ。」



 国連科学委員会を理解するにあたって非常に重要な記述となるので、中川保雄を続ける。



 「国連科学委員会を構成したのは、それらアメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデンの他にフランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、さらにソ連とチェコスロバキアの15か国であった。

 これらの国々の中で、『BEAR報告』、『MRC報告』、NCRP勧告やICRP勧告といった放射線問題で図抜けた経験とデータをもっていたのは、最初の4か国であった。ICRPを主導していたそれら4か国が、ソ連・社会主義国と開発途上国が加わった、いわばもう一つのICRPといえる国際科学委員会をリードすることになった。」



 このか所で中川はUNSCEARの本質をズバリ一言で言い当てている。すなわち『もう一つのICRP』である。

 ICRPが国際的科学者の集まりという偽装をこらした「国際被曝強制委員会」とすれば、国連科学委員会は国際連合の権威を振りかざした「国際被曝強制委員会」といういい方もできるだろう。



 なお、中川がこの文章を書いたのは1990年から1991年にかけてであろうが、現在の国連科学委員会は、旧ソ連崩壊後、旧社会主義国からロシア(旧ソ連)、チェルノブイリ事故の当事国ウクライナ、ベラルーシ、分裂後のスロバキア(チェコは参加せず)、ポーランド、それに核兵器保有国である中国が参加し、核兵器保有国であり国連安全保障理事会の永久理事国(P-5)が揃った。

 それに西側から、ドイツ、スペイン、フィンランド、韓国(イタリアは参加せず)、発展途上国からは核兵器保有国であるパキスタン、ペルー、スーダンが参加し27か国体制となっている。



 うちもっとも新しく参加したのは2011年参加のベラルーシ、ウクライナ、フィンランド、韓国、パキスタン、スペインである。しかし基本的な構図はアメリカ、カナダ、イギリス、スエーデン主導であることには変わりない。



 隠れた「国際核推進体制」

 しかし大気圏内核実験の是非については、この問題が国連科学委員会設立のきっかけでもあっただけに鋭い内部対立があった。



 「その問題ではアメリカ、イギリス等とソ連、チェコスロバキアとの意見は真っ向から対立した。

 社会主義国は、核実験即時停止を盛り込むよう主張した。被爆当事国日本からは都築正男や田島英三等が代表として参加したが、なんと日本は核実験即時停止に反対した。結局核実験即時停止は、少数意見として葬り去られた。」



 「1958年の夏にICRP勧告と国連科学委員会報告が出そろい、放射線問題に関する国際的議論の大勢が固まった。まるでそれを待っていたかのように、他の国際組織も本格的に動き出した。

 1955年の原子力平和利用会議が母体となって生まれた原子力推進のための「国際原子力機関(IAEA)」も、文字通り推進の立場から放射線被曝基準の制定をめざして検討を開始していた。



 それらの国際的強調の総仕上げとも言うべき集まりが、1958年8月末に密かにスイスで開催された。その会議はICRP議長のシーベルト(ロルフ・シーベルトのICRP議長は1956年-1962年)の個人的招集をというかたちをとって、1958年の第2回原子力平和利用会議に参加する各国の代表を密かに呼び集めて開かれた。

 これには『国際放射線防護委員会』(ICRP)、『国際放射線単位委員会』(正確には国際放射線単位測定委員会-International Commission on Radiation Units and Measurement-ICRU)、『国際放射線会議』(正確には国際放射線研究会議- International Congress of Radiation Research- ICRR)、『国連科学委員会』、『国際原子力機関』(1957年に設立されている)、『ユネスコ』、『世界保健機関』(WHO。1959年WHOなどはIAEAと協定を結び放射線問題については、WHOはIAEAに従属する体制をとった。

 

 後で出てくるFAOも同じ)、『国際労働機関』(ILO)、『食糧農業機構』(FAO)、『国際科学組合評議会』(ICSU)、『国際標準組織』(ISO)の6政府組織、5非政府組織が参加した。この会議では、

 (1) 放射線の影響に関する基礎研究

 (2) 放射線によるリスクの評価を含むデータの集積と評価

 (3) 上の2点を基礎とする放射線防護基準の確立

 (4) 実用的な規範(たとえばIAEAなどのセーフガードがそれにあたる)の確立

 (5) 勧告の実施に向けた実務

を進めることで意志統一がはかられた。



 原子力平和利用会議に参集した国際諸組織が、一方では原子力の推進を図るための協議を行いながら、他方では放射線被曝問題を議論するのであるから、放射線被曝の危険性が副次的なものとして扱われ、軽視されることになるのは明らかである。

 その方針で、ICRP主導の下に共同して事にあたろうと誓いあったのである。」



 「これはまさに、原子力開発の推進を前提とした、放射線被曝問題に関する国際協調体制の構築であった。1958年に築かれたこの協調体制は、その後も陰に陽に表れて、重要な政治的役割を果たす。放射線や原子力の問題を見る場合、決して見落としてはならない隠れた原子力推進体制なのである。」



 もし中川の指摘する「隠れた原子力推進体制」を踏まえるなら、1958年にICRP(というよりロルフ・シーベルトを表面に立てた国際核利益共同体)は、国連科学委員会、IAEA、WHO、FAOなど放射線被曝問題及び健康影響問題に大きな利害関係をもつ国際組織から、「すべてICRPに任せる」という一札をとった格好となる。

 その意味でオール国連体制でICRP支持を打ち出したかに見えるし、事実表面その通りである。



 しかし一歩中に入って見ると国連も決して一枚岩ではない。WHO自体も一枚岩ではないし、ここに集まらなかった国際機関、たとえば国連人権委員会などは、ICRPの掣肘の埒外にある。要するに私たちが、誰の指摘を正しいと受け止めるかの問題ではないだろうか?



 この記事のテーマである『国連科学委員会』(UNSCEAR)はもちろん完全にICRPの管理下にある。というより、ICRPとUNSCEARは人的には完全に重なっており、中川保雄の指摘するとおり、国連科学委員会は「もう一つのICRP」なのだ。



 完全に核推進学者とダブる日本代表団

 たとえば、国連科学委員会の現在の日本代表メンバーを見てみよう。日本代表は米倉義晴である。

 米倉は私の記事にもしばしば登場するが、独立行政法人放射線医学総合研究所(放医研)理事長を2012年3月まで務めた日本のICRPを代表する大物の一人である。

 また同時にICRPの医療被曝を担当する第3委員会のメンバーである。米倉は2013年以来国連科学委員会の委員長、副委員長に次ぐ三役の一人である特別代表(Rapporteur)にも指名されている。



 日本代表代理は児玉和紀。元ABCCの放射線影響研究所(放影研)の主席研究員である。役員といえば、2004年と2005年の2年間国連科学委員会の委員長を務めたのが日本アイソトープ協会の佐々木康人である。

 また佐々木は1997年から2006年の約10年間国連科学委員会日本代表を勤めている。また2001年から2009年の間、ICRPの主委員会委員の一人でもあった。つまり佐々木も米倉もUNSCEAR日本代表を勤める傍らICRPの主要メンバーだった、あるいは現在も主要メンバーの一人ということになる。



 これは日本に限らない。各国UNSCEARのメンバーは同時にICRPの主要メンバーであり、また同時に各国核産業利用推進機関や研究機関に属していたり、またそのまま放射線防護行政(規制行政)に直接・間接に関与していたりする。

 これでUNSCEARの報告の独立公平性が保てるわけがない。「UNSCEARはもう一つのICRP」と言われるゆえんである。



 2008年、UNSCEARはオーストリアのウィーンで第56回総会を開いた。当然日本も代表団を送った。ところがこの時日本代表の米倉は所要でウィーンに行けなかった。この時米倉に替わって代表代理を勤めたのが京都大学名誉教授の丹羽太貫である。丹羽も日本のICRPを代表する大物である。

 また佐々木康人に替わって現在ICRP主委員会の委員をつとめている。ばかりか、ICRPがリスクモデルを作成する際の主要データであるLSSを提供する放影研の評議員の一人でもある。



 『福島第一原発事故』をテーマとする国連科学委員会第60回総会が今月末終了予定で開催されている。心を躍らせてその報告を待ちわびているものは恐らく一人もいまい。その報告の結論は目に見えているからだ。



 参照資料=中川保雄『放射線被曝の歴史』の『国連科学委員会』(p77からp81)(1991年 株式会社技術と人間社版)

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 引用以上



 国連科学委員会の正体は、哲野イサク氏によって語り尽くされているが、日本側の委員について、もう少し深掘りしておこう。

アゴラの池田信夫が調子に乗ったツイートをしている。

  https://twitter.com/ikedanob/status/1549377531820003328



 日本側の代表は、米倉義晴(放医研前理事長)

 児玉和紀(放影研主席研究員)

 佐々木康人(国連科学委、元委員長)

 丹羽田貫(国連科学委日本代表)



 いずれも、バリバリの原子力産業中枢人脈だ。原子力産業に大きな利権を持ち、原発と核開発の奉仕してきた人物だけが加わっている。

 本来なら必ず入るべき、放射線障害の専門家はいない。米倉や児玉は、アメリカの言いなりになるだけの飼犬といっていいだろう。彼らは、広島長崎の被曝障害について、米軍の意向を受けて矮小化、隠蔽に奔走してきた悪質な人物である。



 日本の原子力政策には、原子力懐疑派や、放射線遺伝障害の専門家が皆無であることが特徴なのである。すべて原子力推進派だけで独占されてきたから、原子力利用に都合の悪い考えを持っている人物は完全に排除されている。

 だから、冒頭のニュースについて、我々は憤ることさえ忘れて、だから、このような事件が頻発すると思う。

 以下は、今日の報道だ。



 「ロシア兵が防護服着けず」原発内へ、9人死傷か…敷地内にミサイルシステム配備7/19 https://news.yahoo.co.jp/articles/0bd4a10114d8e9767f42d4ed2246442d0b9c8a41



 私は、自称「放射能専門家」として言うが、防護服は、空中を浮遊する放射能微粒子を衣類につけることで、内部被曝を引き起こすことを阻止する目的で使われるもので、放射線の遮蔽効果は存在しない。

 この記事を書いた記者も、被曝について恐ろしく無知だ。



 ロシア兵が9名死傷した理由は、原発か周辺の「死の森」におけるガンマ線(セシウム137)の被曝によるものであり、防護服は関係ない。

 おそらく毎時数百ミリシーベルトの場所で、長時間滞在したのだろう。福島と同じで、地表面は堆積物によって遮蔽されていても、ミサイルシステムのため、数十センチ掘り返せば、そこには事故時の半分しか減衰していないセシウム137放射能が残っている。

 軍人も報道も無知なのは、国連科学委などのウソ八百に騙されているからである。