江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」について、日本会議系(国際勝共連合の主導)の右翼、チャンネル桜とか虎ノ門ニュースとか、あるいは自民党支持経済学者の三橋貴明や藤井聡なども、「そんな事実はない」と否定する風潮が拡大している。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC



 「日本は万世一系であって、神武天皇の血脈が途絶えたことはない」

 と、戦前に平泉澄東大史学部教授が捏造した「万世一系論」を言い張っているわけだ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%B8%96%E4%B8%80%E7%B3%BB#:~:text=%E4%B8%87%E4%B8%96%E4%B8%80%E7%B3%BB%EF%BC%88%E3%81%B0%E3%82%93%E3%81%9B%E3%81%84,%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E8%A1%80%E7%AD%8B%EF%BC%89%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82



 【ダイジェスト】天皇は朝鮮人?文化勲章を受賞した売国歴史学者の罪とは?(三橋貴明)

 https://www.youtube.com/watch?v=j14IfcwBOSY&t=5s



 だが、古事記のような創作文学でない記録としての日本書紀には、朝鮮半島から大規模に移住してきた渡来人の記述が少なからず存在している。



 日本書紀の応神天皇の時代に多くの渡来人の記事がある…毎日新聞 2018/7/13

 https://mainichi.jp/articles/20180713/ddm/001/070/153000c



 日本書紀の応神(おうじん)天皇の時代に多くの渡来人の記事がある。秦(はた)氏や倭漢(やまとのあや)氏などの祖先たちが「百二十県の人民」や「十七県のともがら」を率いてやってきたとある。



 これが事実だとすれば、すごい大量移住である▲応神紀の記事は、その後の何波かにわたる渡来人の来朝を象徴する記述と見られている。6世紀半ばの欽明(きんめい)天皇元年の渡来人の戸籍調査では秦人(はたひと)だけで7053戸を数えている。



 当時の人口を思えば渡来人の存在感は大きかったろう▲こちらは今日の人口動態調査だ。今年初めの日本人の人口は前年から37万人減って、1億2520万人、人口減は9年連続、減少幅は調査開始以来最大となる。これに対し国内在住の外国人は249万人で、4年連続最多を更新した▲こと15〜64歳の生産年齢人口は、初めて全人口の6割を切った。



 一方で国内に住む外国人は若い世代が多く、20代について見れば同年代の日本の人口の6%近くを外国人が占め、東京では20代の10人に1人が外国人という計算になる▲街のあちこちで働く外国人が目立って当然である。



 先ごろ政府が外国人の単純労働者の制限つき受け入れ方針を示したのも、深刻化する人手不足のゆえだった。だがそこには共に社会を支える外国人の暮らしを守る策や構想は乏しい▲古代の渡来人がもたらした文化はその後の日本を作った。

 ならば今、人口減少社会の日本人は外国の多様な働き手をどう迎え入れ、共に安心できる暮らしを営むのか。なすべき論議が現実に追い越された。

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 引用以上



 上の記事の、日本書紀=応神記に描かれた秦氏=弓月氏は、AD300年前後(応神14年)に、百済から120県(約20万人)の人々が日本に移住してきた史実を示す。

 この人口は、当時の日本には、全国に200万人程度しかいなかったから、いかに巨大な人数か分かる。まさに「騎馬民族」が先住民族を換えるほどの勢いで大量流入してきたのだ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B



 「秦氏」というのは、「秦の始皇帝の子孫」を自称する集団という意味である。同時に「弓月氏」を名乗ったのは、自分たちの祖先地が弓月国(現在のキルギスタン付近)だったことを示す。

 始皇帝は、傍証によれば、漢民族ではなく、匈奴の血が入っていたと言われている。

 始皇帝の子孫を名乗る秦氏は、土木作業が非常に得意で、大湿地帯だった京都盆地を埋め立てて平安京を作ったり、始皇帝がシルクロードや馳道に導入させた「駅馬制」による道路流通インフラの整備を行った。

 律令の五畿七道は、「秦の馳道」システムをコピーしたように見える。



 秦氏が「渡来人」として日本列島に流入してきた時代は、3〜7世紀といわれるが、その核心部分は、百済の武寧王462年 - 523年の時代である。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B



【523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は513年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。



 桓武天皇(今日の皇室の祖)の生母である高野新笠は、武寧王を遠祖とする渡来人系の和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、武寧王の没年(523年)および純陁太子の没年(513年?)と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため、疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。新笠は皇后ではなかったが(皇后は井上内親王)、桓武天皇の生母として皇太夫人とされ、死後に皇太后と追贈された。 】

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上の記述が意味することは、継体天皇450年? - 531年との整合性である。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

 「462年に生まれた武寧王は41歳(503年?)に至るまで倭国で生活していたとの記述から、もしかしたら、継体天皇は武寧王その人と同一人物であった可能性を示すものかもしれない。



 継体天皇は、「越前国」の支配者であったとされる。越前というのは、百済から大量の人々が日本列島に渡来したときの受け入れ口だったといわれる。

 越前福井と釜山〜蔚山には定期便のような交易ルートが存在した可能性がある。

 私が指摘してきたことは、当時の「国」の概念は、国境で定まった区画ではなく、「交易の道」であった。「道こそ国」なのだ。

 だから、陸路であっても海路であっても、その交易範囲を国として考えるべきなのだ。



 はっきりした記録はないが、当時の百済→倭国のルートは、釜山・蔚山付近→対馬→隠岐→福井の海路であった可能性がある。



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 この時代、すでに釜山周辺から対馬を経由して北九州に向かう南北の交易ルートは確立していたと思われる。

 騎馬民族の本質である馬は、海路を輸送することは無理だから、騎馬民族王朝説は間違っていると、万世一系支持派の歴史学者は言う。

 しかし、韓国では古代の馬輸送専用船と考えられる双胴船が出土している。



 大型船・双胴船であれば、釜山からわずか50K、(時速5Kで10時間)一日行程しかない対馬を経由して、日本列島に馬を運搬することは決して困難ではなかった。

 だが、釜山→福井間は650Kmもあって、馬は無理だっただろう。馬は、釜山→福岡のルートで日本列島に移入したと考えるべきだ。



 武寧王が日本と往来したルートは、蔚山・釜山の良港から右手の巨大な大山と左手の隠岐諸島をランドマークとして進み、海抜2700m、いつでも白い間違えようのないランドマークである白山に向かって進む東進ルートだったと思われる。

 このルートの良いところは、夕日の沈む釜山から朝日の昇る福井に向かう太陽をナビゲートに利用できるところだ。

 釜山を出れば大山を視認でき、隠岐を過ぎれば白山を視認でき、朝日と夕日が方向を示してくれる安全ナビゲーションというわけだ。



 上陸点の越前海岸には、素晴らしいランドマークがあった。それは東尋坊だ。

東尋坊の岩場は巨大で、日本海沿岸のさまざまな景観のなかでも非常な特異性がある。

 そのすぐ南に、九頭竜川の河口があり、これが素晴らしい良港になった。

 当時は、凶暴な海賊「倭寇」が暴れ回った時代であって、海岸沿いの集落は狙われたので、拠点を海岸に設けるのは危険だった。



 だから九頭竜を遡った場所に拠点を構えた。たぶん三国神社のあたりだっただろう。

 武寧王(もしかしたら継体天皇)は、この付近に住んだ可能性があると私は思う。ここは、頗る水運に恵まれた地域で、交易拠点としては理想的な場所だった。

 実は、織田信長の先祖も、敦賀半島にいたらしい。また朝倉氏の一乗谷は、ここから上流に船で行ける場所にある。



 ダムのない時代は、緩やかで豊かな水量があったので、曳船をしなくとも、漕いでゆけた可能性がある。

 また、「万世一系論」の大元である平泉澄も、この上流勝山、平泉寺の神主だった。

 実は、彼こそ騎馬民族渡来人の子孫だったのが確実なのである。



 こうして交通条件を考えると、古代における朝鮮半島との交易、往来は、我々が想像するよりはるかに容易で頻繁なものだった可能性が強い。

 ただし、百済というのは、高句麗・扶余の満州族(女真族)であって、現在の濊国由来のエベンキ韓国人とは異なる。

 韓国人が主張するように、「天皇は韓国人」というのは完全に間違っている。「天皇は満州人」ならば正当性があるだろう。



 もしも継体天皇=武寧王であったなら、古代史の解釈は大変なことになる。

 最初の天皇である推古天皇も継体の孫であり、聖徳太子も曽我氏も、すべて武寧王の身内ということで、聖徳太子が騎馬民族特有の衣装=ズボンをはいた肖像の意味も理解できるようになる。

 まさに「騎馬民族征服王朝」の意味が鮮明に見えるようになるのだ。

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