「ウリナラファンタジー」という言葉が使われはじめて久しい。たぶん10年は超えているような気がする。

 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6008091.html



 これは、朝鮮韓国人が、滅多矢鱈に自尊心が強くて、自分たちの自尊心に都合の良い情報ばかり主張することから、呆れ果てた日本人が使い始めたと思うのだが、実は、すでに120年以上も前に、福沢諭吉が同じ意味のことを書いている。



「約束は無効と覚悟せよ」 福沢諭吉が見抜いた韓国の本質

https://www.news-postseven.com/archives/20180416_657811.html?DETAIL



 韓国の不実はいまに始まったことではない。明治の傑出した知識人、福澤諭吉は当時すでにそのことを看破していた。「脱亜論」で彼はなぜ朝鮮を見限ったのか。いまこそその背景にある思想に学ぶべきだ。文芸評論家の富岡幸一郎氏が解説する。



 《左れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に従来の国交際上にも屡ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ》(『時事新報』明治三十年十月七日)



 これは福澤諭吉の言葉であるが、まさに現在の日韓関係の本質を言い当てているではないか。ただし福澤は決して「嫌韓」論者なのではなかった。後で引く有名な「脱亜論」もそうである。

 彼は西洋列強のアジアへの帝国主義的な侵略にたいして、明治維新によって近代化の道を拓いた日本こそが、中国や朝鮮にたいして力を貸して共に連帯して抗すべきであると考えていた。



 また亜細亜という言葉から中国(清朝)と朝鮮を同じく捉えていたのではなく、むしろ朝鮮をアジア同胞として清韓の宗属関係から脱却させ日本のように文明化させることの必要性を説き尽力したのである。

 李氏朝鮮の旧体制(血族や門閥による支配)のままでは早晩、清国やロシアの植民地となり、それはそのまま日本の国難になるからだ。



 李朝末期のこの腐敗した絶望的な国を変革しようとした開化派を福澤は積極的に支援し、そのリーダーであった金玉均らの青年を個人的にも受け入れ指導教育を惜しまなかった。

 また朝鮮に慶應義塾の門下生を派遣する行動を起こし、清朝の体制に取りこまれるのをよしとする朝鮮王朝の「事大主義」の変革をうながした。



  清仏戦争が勃発し、清国軍が京城から退却したのを機に開化派がクーデターを企てるが(甲申事件・明治十七年)、それが失敗に帰したことから、朝鮮における清国の影響力は決定的となった。福澤のなかにあった日本による朝鮮の文明化の期待も潰えた。

 日本に十年余り亡命した金玉均も明治二十七年上海で朝鮮の刺客に暗殺され、その遺体は無残に切断され国中に晒された。福澤に「脱亜論」を書かしめたのも、朝鮮の開明派、独立派の人々への必死の支援がことごとくその固陋な中国従属の封建体制によって無に帰したことによるものだ。



 《我日本の国土はアジアの東辺に在りと雖ども、その国民の精神は既にアジアの固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。》(「脱亜論」明治十八年三月十六日)。



 この近隣にある「二国」は、《その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず……教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として……道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し》



 福澤の文章の烈しさは、そのまま朝鮮の開化を祈念していた彼の思いの裏返しの憤怒であった。しかし福澤は「文明化」自体に絶対的な価値を置いていたのではない。

 「脱亜論」の冒頭でも「文明は猶麻疹の流行の如し」といい、「有害一偏の流行病にても尚且その勢いには激すべからず」として文明化は利害相伴うものであることも語っている。



 むろん福澤はアジアのなかで唯一文明化に成功した日本を正しい選択であったとしている。大切なのは西洋文明の波がかくも急速に高く押し寄せているときに、旧態依然の「外見の虚飾」を捨てない朝鮮の政体と人民への絶望と苛立ちをはっきりと表明してみせた言論人としての姿勢である。



 《左れば今日の謀を為すに我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。

 悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。》



 当時も今も国際社会のなかで外交を「謝絶」することはできない。問題は「心に於て」、すなわち日本はユーラシア・中華帝国の膨張の現実を前にして、この世界史に参与すべく如何なる「思想」を自ら打ち建てるかである。



 韓国に関していえば日韓基本条約(一九六五年)で国交正常化をなし、日本から韓国への膨大な資金提供もあり「漢江の奇跡」と呼ばれた経済復興を成し遂げたにもかかわらず、日本のおかげというその現実を認めたくないがために慰安婦問題や戦時徴用工などの「歴史問題」を繰り出し続けてやまない。その国家としての態度に日本は毅然とした「処分」を示さねばならない。韓国がやっているのは、福澤のいうまさに「外見の虚飾のみを事として」の「背信違約」の狼藉三昧である。



 かかる「悪友」への処し方を、われわれは今こそ明治国家の多極的な外交戦略と、その背後にあった福澤諭吉のような近代日本の思想的先達によくよく学ぶべきであろう。

 ※SAPIO2018年3・4月号

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 引用以上



 福沢諭吉の脱亜論は、今から約140年近い前、1885年に執筆された時事新報の社説である。ちょうど日清戦争の10年前で、諭吉は中津藩士の子だったので西郷隆盛に心酔し、西郷の「征韓論」を強く支持していた。

 そもそも征韓論は、西欧帝国主義のような侵略思想ではない。司馬遼太郎の「飛ぶが如く」に詳しく描かれているが、西郷は李朝による朝鮮民衆の窮状を知り、ひどく怒って「両班支配階級の圧政に苦しむ朝鮮民衆を救うために日本が朝鮮を併合すべきだ」と、いわば人道的見地からの朝鮮併合を求めるものだった。



 西郷も福沢も、ロシアの南下圧力から、朝鮮半島を日本の支配下に置くことが、西洋列強の帝国主義から日本列島を守るための不可欠の条件と考えていたようで、日清日露戦争の戦勝を受けて、日本は朝鮮を併合したが、そのやり方は、西洋の植民地主義とは異なり、台湾と朝鮮半島を本当に日本の国土として開発するもので、朝鮮民衆に対する扱いは、本土国民への扱いと差別するものではなかった。



 この点は、日本帝国主義を批判する私でも、日本政府が植民地を奴隷化するのと対極というしかない保護的な扱いをしたことを賞賛するしかない。

 しかし、同時に、朝鮮(大韓帝国)と満州国の実質的なトップだった岸信介が、麻薬を売りさばいて民衆の資産を収奪し、また徴労者たちを本土の炭坑やダム工事に送り込んで、凄まじい苦役を与え、多くを死なせたこと、731部隊や登戸研究所などが、朝鮮人を大量虐殺した疑惑など、決して忘れてはならない。

 https://www.youtube.com/watch?v=AK263WhBZDE&ab_channel=makototonohira



 だが、儒教の「権力者のメンツ最優先世界観」にどっぷりと浸って500年を過ごしてきた李朝両班階級にとって、自分たちの権威を剥奪し、四民平等思想を強要しようとした日本政府は、まさに自分たちの存在理由を破壊する強権悪魔としか映らず、以来、朝鮮韓国で反日・抗日といえば、必ずその背後に両班階級残党がいた。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95



 現在、慰安婦問題や強制連行問題を取り上げて激しい反日教育が行われているが、これも背後に李朝両班階級の残党がいると指摘されている。

 そもそも、朝鮮韓国の一般国民には教育の機会が与えられず、すべての権益、言論、思想を両班など特権階級が独占する固陋な社会だった。



 それは福沢の指摘に端的に見えている。

 《その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず……教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として……道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し》 つまり、「タテマエ、虚飾だけのインチキ社会」と決めつけているわけだ。

 残念ながら、こうした虚飾の論理を前面に押し出して旗印にする姿勢は、北朝鮮、韓国とも、140年近く経た現在でも、何一つ変わっていない。

 日本人の感覚からすれば、慰安婦も強制連行も呆れ果てるしかない屁理屈だ。



 なんでも悪いことは、すべて日本のせいにして、自分たちは日本人よりも優越しているとの主張が、ウリナラファンタジーの土台にあるのだが、こうした主張の出所も、すべて旧両班階級との指摘がある。



 2021-07-19 韓国のウリナラファンタジー6選

 https://thetruth.hatenablog.com/entry/110



 人は弱いものだ。自分について惨めな思いをしたくない。いつでも自尊心のなかで生きたい。そして自分の悲惨な現実を、なんとかして優越感にすり替えたいと思うのが普通だ。韓国社会では、ウリナラファンタジーという自分たちに都合よく作り上げた夢の世界で、自分たちの優越性に依存したがる精神性が世界でも際立っている。

 福沢は、その原因として、朝鮮半島と中国における儒教の存在を指摘している。

 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828029.html



 だが、その儒教は、徳川家康が林羅山らに命じて、「朱子学」として幕藩体制を支える思想として日本社会にも導入したのだ。

 だから、日本にも「ウリナラファンタジー」が厳然と存在している。

 日本おける愚劣なウリナラファンタジーの存在を明らかにすることで、社会が虚構から現実へ一歩前進できるはずだ。



 我々は、韓国、北朝鮮の社会から学べるものがあるとすれば、そのタテマエだけしなかい虚構社会が、どんな理由で成立し、日本でも同じ愚行をしていないか知ることだけだろう。



 私が、人生を通して痛感してきたことは、男女差別、学歴差別、地位や身分、蓄財の多寡で人間を判別する日本の習慣が、どれほど馬鹿げたウリナラファンタジーをもたらしてきたかということだ。

 それは、権力者が自分の名声を遺そうとして、現実の社会に合理性(必要性)のない、極度に始末の悪い虚構を紛れ込ませようとすることだ。



 例えば、原子力発電、核融合発電がその典型で、実行すれば必ず未来を危機に陥れる放射性廃棄物の蓄積、永久に廃炉さえできない老朽化原子炉、事故を起こせば国家予算10年分でもカタのつかない恐ろしい結末など、あらゆる不合理が目白押しの地球上最悪の始末の悪さであるにもかかわらず、「未来が解決してくれる」と吹聴して、解決の目処も実力もないまま強引に建設稼働させてしまう。

 これなどウリナラファンタジー以外のものではない。



 私は、リニア新幹線も核産業と同じで、すでに新幹線が存在するのに、東京・名古屋間の所要時間をわずか十数分しか短縮できないで数十兆円の国税ドブ捨てが約束された始末の悪い虚構であると断定している。

 https://news.line.me/detail/oa-president/d757b1389bui?mediadetail=1



 このナンデモリモートの時代に、人間が移動する時間を短縮しなければならない必然性がどこにある? 情報も物資も自由自在に移動できる社会になっているのだから、人間くらいは、昔の各駅停車でのんびり駅弁を食いながら旅の情緒を楽しみたいと思うのは私だけなのか?

 そもそも日本社会は大きな人口減少期を迎えて衰退の一途であり、必要なのはリニアではなく、地方路線の高架化による安全性の進化拡大のはずだ。

 もう「早く着く」必要のある時代ではないことが理解できないのか?



 原発やリニアを推進する理由、口実を、あたかも明治時代の近代化路線をそのまま延長引用するような馬鹿げた発想こそ、まさにウリナラファンタジーそのものではないのか?

 我々が本当に向かうべき社会は、産業合理化、高収益化、世界のトップに躍り出る社会ではない。一人一人の人間の心が束縛から解放され、人間にとって、もっとも大切なものを享受できる社会のはずだ。



 それは、人々が笑顔で毎日を楽しめる「炭素循環型」の「持続可能な未来」のはずだ。

 だが、「早く、強く、偉大な……」式のウリナラファンタジーを大声で叫ぶ連中の、どこから、そんな強欲で馬鹿げた発想が出てくるかと考えれば、それは権力者のコンプレックス以外見当たらない。

 

 ウリナラファンタジーを大声で叫び回る連中の大半が、学歴や権威、権力、蓄財のコンプレックスに満ちている。

  学問のない見識の浅い人ほど、学歴自慢に依存したがる。なんとかして他人を見下そうとして蓄財に走る。また他人を攻撃し誹謗中傷することで、優越感を味わえると勘違いする人も多い。

 この競争主義社会のなかで、コンプレックスから抜け出せない、人の幸福や子供たちの未来よりも、自分のコンプレックスを満たすことを重視する人たちが、原発やリニアのウリナラファンタジーを叫びたがるのだ。