実は半月ほど前から、相当にやばい地震前兆データが続くようになった。
東大阪市でラドンの定点観測を続けている高井さんのデータに強烈な異変が表れたのは7月15日くらいで、
【15日のラドン値は、昨日30〜33㏃から短時間で22㏃まで急落】
さらに、22日、突然ラドン値が㎥メートルあたり15ベクレルまで低下した。
普段の平均値は22ベクレル程度で、これよりも低下すると大地震が起きる傾向がある。しかも、じわじわではなく急落だと危険性が増す。
過去の経験則でいえば、この程度の急落データが出ると、数日以内にほぼ巨大地震が起きていた。
ただし、日本列島とは限らず、赤道方面であることも多い。
おまけに、7月23日に電波掲示板で、コスモスさんのガンマ線定点観測にマイナス21%という数年に一度しかない程度のガンマ線急落情報が出た。
https://tokaiama.bbs.fc2.com/
これも、たぶんラドン222→ビスマス214の急落情報で、高井さんとコスモスさんは、おなじものを計っている可能性がある。
つまり、同時に急落情報が出たので、巨大地震は確実に思えた。
ただし、高井さんのラドンデータについては、2021年3月末から桁外れのとんでもないデータが出たことがある。
【5/22報告で 「東大阪市では、2021/3/30から52日間、最高濃度で+6シグマ以上のウルトラ異常を観測した。6年間で初めてのウルトラ異常だった。」
そのウルトラ異常値のさらに倍濃度の+10シグマ以上の超ウルトラ異常を10/24から観測した】
このときは、高井さんも夜逃げ寸前の上ずった声で電話してきて、「すわ日本列島沈没!」とリアル小松左京を本気で心配し、右往左往したのだが、何が起きたのかというと、
年が明けた2022年1月15日、フンガトンガ・フンガハアパイ火山が、凄まじい噴火を起こした。その爆発音は、9000キロ離れた米アラスカ州でも聞かれたという。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/112400545/
このときの噴火は近世最大級の噴火として、日本の稲作農業に深刻な影響を与えた、1991年のピナツボ噴火を上回る史上最大級のものだった。
噴出量も桁違いだったが、噴出ガスに二酸化硫黄が少なかったことで、天明大飢饉など世界的な農作不振を引き起こしたアイスランド、ラキ火山やピナツボのような世界的な農業不振を引き起こすまでには至らなかった。
だが、2023年度の農業に紫外線量の減少などから、有害微生物、カビ、真菌類、テントウムシダマシなどの病虫害が増えたことを実感した方も多かったと思う。
1992年ほどの影響はなかったが、それでも農業は無事ではなかった。
今回の高井さんの急落データは、そのときと比べれば小さなものだが、経験則として、日本列島を含む東アジア地域で、M7〜8が、数日中に発生することを予想できた。
ところが、それらしい結果が、これを書いている28日現在、起きていないのだ。
https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/jp/earthquake/list/
これでは、観測データの経験則が、まるで役に立たなくなってしまう。なぜ起きないのか、まるで分からない。
しかし、過去に似たような現象があったことを思い出した。
それは2004年の年末に起きた、スマトラ島巨大地震のときだ。このときは大津波により全世界で50万人を超える直接死者を出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%A9%E5%B3%B6%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87
2004年は、年初から、巨大地震前兆を思わせる、さまざまの宏観現象が現れて、宏観予知を行っていた我々は、とてつもない巨大地震が来るぞと大騒ぎを続けていたが、いつまでたっても地震が起きず、いいかげん「自信」をなくした? しかし、年末に、それはやってきた。
顕著だったのは、今年と同様に、山での熊加害情報とくじら打ち上げなど海洋生物の異常行動が多かったことだ。今年は、あのときの再来と思えるほど、全国規模で熊出没と海洋生物異変が続いている。
まあ、ネット界隈の地震予知サイトを見ても、たぶん南海トラフM9や日本海溝アウターライズM9が来るのは確実に思える。
https://www.youtube.com/watch?v=cFQCXKGT9kE&ab_channel=%E3%82%82%E3%81%8B%2Fmoka
上のリンクでは、8月後半にM8.5クラスの巨大地震が発生する(5分すぎ)と予告している。
以下は東日本大震災アウターライズ地震による巨大津波の警告
https://www.youtube.com/watch?v=U7ZUDNgl8po&ab_channel=%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AB
政府系機関も、南海トラフM9の発生確率は、30年以内に8割としていて、この確率は日増しに上昇しているという。
https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/r01/hakusho/r02/html/n1222000.html#:~:text=%E5%9C%B0%E9%9C%87%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%8E%A8%E9%80%B2%E6%9C%AC%E9%83%A8,%E6%99%82%E7%82%B9%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
ほとんどの人が、メディアなどによる煽りもあって、巨大地震への一定の準備を行っているにちがいない。
私も、半年程度はギリギリで生きられる食料や生活物資などの準備を整えている。
今日は、ブログネタを探していて、現代ビジネスに江戸時代の元禄地震の面白い文献記述を見つけたので紹介したい。
著者は、53歳になるベルギー人、日本学研究者。
「町が完全に流出した」…オランダ人が見た「江戸時代の巨大地震」の悲惨すぎる様相 フレデリック・クレインス 2023.07.28
https://gendai.media/articles/-/113388
18世紀にオランダ商館長として長崎に赴任したタントは、当時発生した「元禄地震」の被害を目の当たりにする。ここでは、前回の<長崎の「オランダ商館長」が聞いた、「将軍に不満を持つ人間」の「あまりに不敬すぎる言葉」>に引き続き、そのときタントが残した記録を追う。
※本記事は、フレデリック・クレインス (著), 磯田 道史 (解説)『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
愛妻の安否を気遣う長崎奉行
十七日に江戸からふたたび書状が届いた。その内容は十五日と十六日の情報を裏付けるものであった。しかし、本震以後の新たな情報もあった。「地震活動は弱まることなく続いている。人びとはどこへ逃げるべきかわからない状態であり、江戸の半分は火災や地震によって崩壊している」とタントは記録している。死傷者の数についての情報はこの時点でまだ確認できなかった。
翌十八日にもタントは複数の役人や通詞から江戸の状況についての情報を得ている。それによると、余震が続き、江戸の三分の二は崩壊しているという。
また、一人の通詞の話では、長崎奉行・永井直允は、彼の江戸屋敷が倒壊し、多くの親族と使用人が亡くなったことを知らせる書状を受け取ったそうである。この悲報を読んだ直允が受けた衝撃はさぞかし大きかったにちがいない。
しかし、この書状では妻の安否には触れられていなかったため、無事に避難しているかもしれないという希望を直允は抱いていた。
タントの日記にこの記述を見つけた筆者は、直允の妻がその後どうなったのかを知りたくなった。そこで、彼女のその後の消息に関してさらに記述されていないかどうかを調べるためにタントの日記の続きを飛ばしながら読み進めた。しばらく読んでいくと、二月八日条に次の記述を発見した。
「〔直允と交代する予定だった〕前述の新任長崎奉行・石尾氏信が今月二十一日ないし二十二日に当地〔長崎〕に到着する予定であると聞いた長崎奉行・永井直允は非常に喜んでいた。というのも、これをもって彼は早く上〔江戸〕へ行けるからである」。
この時点で妻の安否がまだ確認できていなかったと推測される。直允は一刻も早く江戸に戻って自分で妻の安否確認をしたい。しかし、長崎からの出発は後任が長崎に到着してからしかできないことである。直允は首を長くして、出発できる機会を待っていた。
結局、直允が出発できたのは二月二十七日であった。タントの日記で伝えられている情報を見るかぎりでは、直允は大急ぎで江戸へ駆けつけたらしい。しかし、タントの日記ではその後、直允の妻に関する記録は見当たらない。
ようやく、四月一日条に永井家の江戸での状況について書かれた記録が見出される。それによると、屋敷が焼失してしまったため、直允は江戸から二里離れた農村の粗末な民家に滞在しているという。
一方、タントの日記のこの条には、妻についての記述は見当たらない。さらに、タントの日記の続きを読み調べていくと、粗末な民家に泊まらざるを得ないという物理的要因によって不自由を強いられていることよりも、直允にとって「火災で被った損失は、特に心の悲しみである」と指摘されている。
ここからは、元禄地震の際に発生した火災で直允が近親者を亡くしたものと推察できるが、その被災者が妻だったかどうかまでは特定できない。
これについて、いろいろ調べているうちに、直允の妻が創設したと言われる円珠院という日蓮宗寺院が東京都江東区にあることを知った。早速、詳細を確認したところ、円珠院の前に設置されている町角みちしるべの看板には、次のような文章が綴られている。
「開基の円珠院は、永見重直の娘で、のち永井讃岐守直允の後室となりました。生年は不明ですが享保十五(一七三〇)年十二月二十日に没し、自ら開いた円珠院に葬られました」。この情報にもとづくと、元禄地震の際、直允の妻は無事だったようである。
しかし、直允の屋敷の再建にはかなりの月日がかかったようである。タントの後任商館長フェルディナンド・デ・ヒュロートの一七〇五年と一七〇七年の日記には、直允の屋敷が再建されていないという記述がみられる。直允は一七〇九年に解任されるまで長崎奉行を務めた。
このように江戸からつぎつぎと被害の情報が届いているにもかかわらず、献上品の梱包などの江戸参府の準備を進めるようにとの奉行の命令が一月十八日の朝にタントに届けられた。
また、同じ日の午後に通詞・孫平が、幕府から江戸参府の許可が下りたという内容を伝える書状が奉行の手許に届いたことをタントに知らせに来た。出発日は一ヵ月後の二月十九日に決められた。
甚大な災害があったにもかかわらず、江戸参府が許可されたことにいささか驚いたタントは、江戸からの書状に震災の状況についての情報がないかどうか孫平に尋ねた。
孫平は「江戸では余震がまだ収まらず、そのうえ、絶えず火災が起こり、そのために信じられないほど大勢の人びとが命を落としているようである」とだけ答えた。
この答えに納得しかねつつも、タントは奉行に対して感謝の意を伝えてもらうように孫平に頼み、出発日までに江戸参府のすべての準備を済ませることを約束した。
その後も絶えず地震関連の便りが届く。それらの便りには物理的被害についてだけでなく、経済的な影響について言及しているものもある。
例えば、京都からの書状によると、江戸の震災の影響を受けて、すべての商品に対する需要が減少したため値段が下落したようである。販売しても赤字になると見た商人たちは販売を停止し、取引がいっさいおこなわれなくなったという。
震災後の経済状況について、タントの日記ではこのように伝えられているが、この話は妙に思われる。通常、災害時には、供給量の減少により、物価が上がるはずである。
そこで、タントのこの部分の記述の裏付けを確認すべく、日記の続きを読んでいくと、三月十四日条にも京都での物価について言及されている箇所がある。ここでは、食料品や薬品は通常の価格で売られているが、長崎経由で輸入された反物が売れなくなったと書かれている。輸入された反物は高級品であった。つまり、震災の影響により、被災地以外の都市では高級品の購入が手控えられたことがわかる。
一方、江戸においては食料品や水の値段が高騰し、入手困難になっていることがタントの日記の一月二十三日条でみられる。これらの品々の供給不足を改善するために地方から江戸へ食糧や木材を送り、大工を派遣するよう幕府が各藩に命じたとタントは同月二十六日条に記録している。
一月十九日午後に通詞・岩瀬徳兵衛から江戸の状況についての新たな情報がタントのもとへ寄せられた。
それによると、「余震が続き、家屋の倒壊によりたびたび火災が起こり、江戸とその周辺の死者数が三十八万人であると想定されている」という。これはあまりにも大きな数字であるので、明らかに誇張である。元禄地震に関するこれまでの研究においては、死者数はだいたい一万人程度と推定されている。
先行研究で割り出されている死者数は、各地の被害を記録した当時の史料や綱吉の側近であった柳沢吉保の公用日記『楽只堂年録』にまとめられている各地の被害状況を拠り所にしている。タントの日記に記載されている「三十八万人」とは大きく異なる数字である。
もちろん、タントの日記に記録されている数字は、通詞という第三者から聞き伝えられたものにすぎないので、情報の信憑性としては現存している日本側史料にくらべて大きく劣ると言わざるを得ない。
しかしながら、タントの日記と同様に、死者数を数万人から数十万人に推定する日本側史料も存在する。例えば、公卿近衛基熙の日記「基熙公記」には「江戸並近国の死人、只今まで死骸相しれ候分、二十六万三千七百人余のよし風聞に御座候」とある。
とはいえ、京都にいた基熙が得た情報も、タントと同様に「風聞」によるものであるので、信憑性が高いとはいえない。
十九日以降も毎日のように江戸から震災の状況についての情報がタントのもとに寄せられる。それらの情報はこれまで届いたものと同じ内容であった。ようやく一月二十六日に余震活動がいったん収まったという書状が江戸から届いている。震災に関する最初の便りが長崎に届けられてから十一日後である。
その二日後の二十八日に江戸からふたたび書状が来た。それによると、「江戸の近くの海に面した、人口密度の高い、家屋の密集している町が地震の最後の揺れで完全に流失して、沈没した。
そこでは人間も物もいっさい助からず、残っているものは何もなかった」とタントは記録している。
この被災地の町名については明記されていないが、熱海の可能性が高い。熱海は当時大名たちが湯治に訪れる温泉街として繁栄していて、五百軒ほどの家屋が密集していた。
熱海の津波被害について、戸塚で元禄地震を体験した京都・下鴨神社の神職であった梨木祐之は『祐之地震道記』において、以下のように記録している。「あたみという所は、人家五百軒ばかり有る所なり。
わずかに十軒ばかり残りたるとぞ」。元禄地震で発生した津波により五百軒ほど建ち並んでいた町が、何も残らず流失するという悲惨な運命を強いられた。このような情報に触れたタントはさぞや衝撃を受けたにちがいない。
さらに連載記事<長崎の「オランダ商館長」が見た「巨大地震」の衝撃>では、タントの経歴から、彼が体験した災害の様子まで詳しく解説しています。
また、本記事の抜粋元・フレデリック・クレインス (著), 磯田 道史 (解説)『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(講談社現代新書)では、明暦の大火や元禄地震など、歴代のオランダ商館長が書き記した災害の様子について詳しく解説しています。ぜひ、お買い求めください。
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引用以上
上の記述の前編を以下にリンクする。
2023.07.26 長崎の「オランダ商館長」が聞いた、「将軍に不満を持つ人間」の「あまりに不敬すぎる言葉」フレデリック・クレインス
https://gendai.media/articles/-/113387
クレインスの発掘した記録は、民俗学的に極めて貴重である。長崎奉行・永井直允の妻が、江東区の日蓮宗・円珠院という寺院を開設できるほどの経済力を持っていたことで、長崎奉行職が想像を超える経済力を与えられていたことが分かる。
元禄地震は、ほぼ関東大震災と同等の規模を持った江戸地震だが、宝永南海トラフ巨大地震(M9)の4年前で、一連の連鎖地震と捉える必要があるかもしれないこと。
ならば、次に来る南海トラフ地震と100年近く発生がない関東巨大地震が同時に来る可能性があること。
従来、死者は1万人以下と推定されていたが、実は、37万人の可能性もあること。
このとき、熱海がほぼ全滅していた可能性が強いこと。これは熱海周辺に住んでいる人にとっては、重大な情報である。海岸線の家を放棄して高い位置に移住しなければ、元禄大震災の再来(全滅)を招く可能性が強いということだ。
そして、震災後、江戸の街では、食料や水の価格が高騰し、入手困難になった。江戸は海浜部での水産物に恵まれた土地なので、内陸部のような餓死者は少ないと思ったが、どうもそうではなさそうということ。
江戸は井戸水の利用率が高かったが、それでも水価格が高騰していたこと。
震災後、高級品が売れなくなり、日用品が高騰したこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E5%9C%B0%E9%9C%87
これらは、現代でも同じことが起きる可能性が大きい。
つまり、南海トラフ巨大地震M9と、新関東大震災M8が連鎖する可能性があり、このとき富士山も高い確率で噴火する可能性があって、横浜付近まで大規模な降灰が起きる可能性がある。
こうなると、たかが半月程度の食料や水の備蓄ではどうにもならない。結局、震災被害の軽微な土地に大規模に移住する以外に、命を守る手段が失われることを意味している。
もしも南海トラフM9が同時発生していれば、西日本太平洋側への移動は無理筋だ。
関東の被災住民は、群馬、新潟、山形方面に民族大移動を強いられるかもしれない。
果たして受け入れる条件があるのだろうか?
大震災後は、交通インフラが破壊され、移動が極端に制限される。車での移動も困難になる。なかにはザックに日用品を詰めて、延々と数百キロを歩く必要も出てくるかもしれない。
はたして、それを綿密にシュミレーションして、何が起きても命を守りきることのできる人が、どれほどいるだろうか?
もしかしたら、路傍に遺体が散乱し、それを片付ける者もいないという惨状が訪れる可能性も考える必要があるかもしれない。
大切なのは、事前のシュミレーションと起きうる事態の確実な予測、準備、そして早め早めに行動する実行力かもしれない。
家族キャンプなんかは、屋外生活のシュミレーションとして有効だと思う。それに、豊富な良水に恵まれた安全な土地を、今の段階で、発見し、震災後生活のビジョンを蓄積してゆくことだ。
後は、食料だが、救荒食料として命をつなぐために、クズ根や百合根などの利用法を研究しておいた方がいい。普段から安全な地方の農家から産直購入をしていれば、いざというとき、助けてもらえるかもしれない。
田舎の人は、「人助け」に充実感を感じる人が少なくない。そんな、人間関係が大切だ。

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