前回、ヘーゲル弁証法を取り上げたついでに、必ず知っておく必要がある命題として「絶対精神=イデー」がある。
フランスの画家、ゴーギャンが、タヒチ島に渡って「本当の理想生活」を求めたことは有名だが、1900年前に彼は
「我々は、どこから来たのか? 我々は何者か? どこに向かうのか?」
という代表的な大作を完成させた。
これは、「人間は、どこから来て、どこに向かうのか?、人間とは何者なのか?」と非常に大きな意味で、必ずしも、物質的、現実的な意味だけにとどまらず、人の存在全体に対する本質的な疑問であって、哲学的な命題として知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%8B
ヘーゲルの「絶対精神=イデーは」1800年前後に書かれた「精神現象学」という大著のなかに、人間の終着点は「絶対精神」であって、我々の存在は、絶対精神に到達するプロセスであると書いた。
https://rikizoamaya.com/hegel-philosophy/
簡単にいえば、宇宙のすべての存在は、矛盾を内包し、矛盾から解き放たれるプロセスを経験し、すべての矛盾が克服された段階で、すべての対立を止揚して「絶対精神」に到達する。
これが「存在」の終着点である……という理論だ。
まあ、どんな人も、一つの人生で終わるのではなく、次々に輪廻転生して、たくさんの人生経験を重ねるなかで、カルマという矛盾を克服し、まるで双六のような展開で、いつかは「上がり」になる……ということだ。
「一丁上がり」という終着点に達すれば、もう輪廻転生する必要もなく、霊界通信のなかでは、「光の中に溶け込む」と表現されている。
「カルマ」という概念は、釈迦が説明しているのだが、簡単にいえば、「心の矛盾」と考えてよい。
https://j-theravada.com/dhamma/sehonbunko/buddhagaoshietakarma/
ただし、これを理解しようと思うと、唯物論を捨てなければならない。
実は、このあたりの解釈で、哲学というものは、「唯物論」と「唯心論」の正反対の理屈に分化対立してしまった。
私は、中学高校時代にマルクス主義の影響を受けたので、弁証法を学んだ最初もマルクス・エンゲルスの「弁証法的唯物論」だった。
唯物弁証法が間違っていることに気づいたのは、たぶん30歳を過ぎて、「気」の存在を学び、自分自身にわずかながらも超能力があることを自覚してからだ。
私は、未来に起きることを予知できたり、「気」の力によって少しだけ物体を動かしたり、あるいは幽体離脱という現象を経験するなかで、この世界の実体は、物質的存在と物理法則だけで動いているのではなく、もっと桁違いに精神的な意味が大きいのではないかと思い始め、やがて唯物論を捨てて、唯心論に移行した。
唯物論と唯心論の本質的な違いは、存在の原点の解釈である。
唯物論は、最初に「有」があり、物質的存在がある。物質の上に、それを否定するように心(精神)が誕生し、さらに、それを否定して再び物質的世界に還る。
というのが唯物弁証法の考え方であり、最初から最後まで、「物質的有」のなかにある。つまり、双六のように矛盾を克服した上がりの終着点にたどり着いても、そこには物質的世界しかない。
だが、唯心論は、存在の原点は「無」であると考え、無のなかに心=意思が登場するとする。つまり、最初に心が生まれ、それは超越的存在であり「神」と呼ぶ。
やがて、無と心の世界を否定して、物質的存在が登場するが、それは矛盾の塊である。矛盾は進化し、次々に克服され、双六のように「上がり」のときがやってくる。
これをヘーゲルは絶対精神=イデーと呼んだ。
この宇宙のすべての存在は、絶対精神に到達するための存在であり、矛盾そのものである。
あまりにも抽象的で、これを日常的な思考によって理解することは困難だが、なんとなく直観で、宇宙、社会や我々の人生は矛盾そのものであって、だが、やがてそれは解消(止揚)され、「一丁上がり」の世界がやってくると分かればよい。
霊的なことに関心を抱く人なら、誰でも、人間の心は、ただ一度の肉体で終わる物質的存在ではなく、肉体は死滅しても、次々に心は輪廻転生して、新しい肉体を得て、絶対精神に近づいてゆくというプロセスを感じ取っていることだろう。
人は、心の矛盾=カルマを克服するための人生を与えられている。
だから、人は生まれて育ってゆくプロセスで、本能的に自分が過去生で蓄積したカルマを解消するための人生経験を選ぶのである。
私の場合は、たぶんだが……過去生で、権威や地位に束縛された人生にあり、この人生では、そんな束縛を離れて、完全に自由な生身の肉体と精神で、自分を見つめ直す人生を選んだ。
だから、生まれてこの方、権威や権力が嫌で仕方がなかった。虚飾のない真実だけの人生を求めたかった。
自分の人生に与えられたカルマの克服に失敗して(耐えきれず)自殺してしまった人には、再び、次の人生でも同じカルマが与えられる。
人はカルマを克服できなければ、何度でも同じカルマの人生を経験しなければならなくなるのだ。
カルマというものは、それを自覚した瞬間に人生に覆い被さってくる。カルマの自覚がなければ、それが人生を左右することはない。だが、いつかはカルマを自覚するときがやってくる。しかし、カルマを自覚できないまま死ねば、必ず同じカルマを繰り返すのだ。
例えば、宅間守は2001年に、池田小学校で8名の児童を殺害したが、逮捕されてわずか3年後に、死刑執行されてしまったため、刑務所でカルマを自覚する猶予がなかった。
死刑執行が確定から5年以上経る理由は、本人がカルマを自覚する意味が含まれているといわれるが、野沢太三という法務大臣が、確定から、わずか1年で死刑執行命令を出したため、カルマを理解できないまま悪霊として解き放たれた彼は、何を起こしたのか?
中国などで、立て続けに児童8名が殺害されるという池田小事件の再現が起きてしまった。
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828346.html
私は、中国での、この事件報道を知った瞬間に、宅間守の姿が見えた。
だが、霊的成長プロセスの世界では、どんな極悪人でも、いずれカルマを克服して絶対精神=神の領域に至るとされる。
例えば、釈迦の弟子となったアングリマーラがそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9
良き人も、極悪人も、すべての人が、やがて矛盾(カルマ)を克服し、神の領域(イデー)へと至るというのが、釈迦の説いた人生観世界観である。
自殺を否定するのは、自殺してカルマから逃げても、次の人生までカルマが追いかけてくるからだ。
私が、マルクス主義の唯物論を否定するようになった事情は、マルクス・エンゲルスという人物の人間性と、彼らの創造した「共産主義」という概念が、現世的利益を追求し、弱者を認めないで、「優秀性」を賛美していたことだった。
共産主義は、「優秀な理論で、優秀な人間が指導すれば、最高の結果が得られる」という、とんでもない誤解を前提にしている。
例えば、最初の共産国家であるソ連で、レーニンは「一党独裁」という綱領的原理を押し出した。
それは「優秀な理論と優秀な人間のいる政党だけが国家を救う」という勘違いを前提にしたものだが、マルクス主義の根底に流れている思想だ。
この「優秀救済論」を前提にしたのは、共産主義だけではなくヒトラーやムッソリーニも同じことを考え、「自分たちは優秀で正しい」から、ユダヤ人を600万人以上虐殺したのである。
ソ連共産党もスターリンは、自国民を含めて数千万人を同じ理由で虐殺したといわれる。
そして、我が日本共産党も、志位和夫が23年間も独裁を続けていて、その理由は「彼が優秀だから」である。
これは物質的存在だけが実存であるとする唯物論から導かれる思想なのである。唯心論を前提にし、精神世界を信奉する人々は、決して、こんな独裁的発想など考えない。超自然的存在に対する畏敬心を持っているからだ。
唯物論は、人を傲慢にし、盲目にすると言ってもいい。
「優秀なものが人間社会を指導すれば合理的な結果が生まれる」という唯物論、共産主義の考え方は、完全に間違っていると私は思う。
大切なことは、我々の実存、人生、輪廻転生の本質が矛盾=カルマであるということ。
カルマを克服することが物質的人生の役割であり、それは、ときに数百世代にも転生が続くということ。
たとえ、宅間守やアングリマーラであっても、いずれは絶対精神に至ること。
そして、もう一つ覚えておかねばならないことは、輪廻転生は必ずしも人間に限定したものではないことだ。
LGBT、性同一性障害は、前世で女性だった、あるいは男性だった人が異性に転生したときに、前世の霊的記憶を引きずって自分の肉体や発想に強い違和感を感じることで生じるといわれるが、実は、異性だけではなく、別の動物だったりすることもあるとう考えがある。
それは人間に強い愛情を受けたペットが、どうしても人間に生まれ変わりたくて実現してしまうこともあるし、その逆の場合もある。
それどころか、霊的な輪廻転生は、あらゆる存在で起きるとする指摘もある。
例えば、無機的な物質や、異生物、昆虫や魚類にだって転生する。
高橋信次は、3億6000万年前に、ベータ星というところから、人類の先祖が、ナイルの三角州であるエデンという場所に移住した。彼らの肉体は滅びたが、物質や生物に霊が転生し、やがて猿人が登場したとき、再び人類として転生したと説明している。
このとき、二回目にエデンに来たなかにルシファーがいたが、彼がアブラハムの神=ヤハウェ=エホバになったという説もある。旧約聖書はルシファーが作ったと。
なるほど、そう考えると、レビ記などの恐ろしい記述にも納得がゆく。
イエスは、旧約を否定するために登場したが、この争いは、未だに続いているとされる。また本当の新約は、トマス福音書であるとの指摘もある。
トマス福音書の隠された本当の記述のなかで、イエスは、「石造りの建物=教会のなかに私はいない」と語り、すべての教会キリスト教を完全否定しているのである。
こんなことを書き出すと、興奮して止まらなくなってしまうので、このあたりで止めるが、人間存在の本質が矛盾であり、これを克服するために無数の輪廻転生があり、その回数は、物質的存在も含めれば、数万とか数十万とかの数になる可能性があることを知っておけば、今の肉体的、物質的な自分の存在が、絶対的なものではないことがリアルに理解できると思う。
私も、もうすぐ自分の肉体とお別れになると予想しているが、今は全然、絶望していない。むしろ、次の人生をどう楽しむか? さまざまなビジョンを検討しているところなのだ。

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