ロシアが水爆ミサイルを使ってNATO諸国(や日本を含む西側諸国)を攻撃するのも時間の問題だと私は思う。
 もう第三次世界大戦になることは絶対に避けられない。ロシアが強欲を撤回することは、自国の滅亡を意味するのだから、負けそうになれば最後っ屁をかますことだけが唯一残された自尊心なのだ。

 たくさんの予言者が、それによって、人類人口が極端に減ってしまう、つまりもの凄い数の人々が死んでしまうことを予言している。
 出口王仁三郎は、日本の人口が3%以下になると予言した。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5967194.html

 なんでこんなことになったのか? 考えてゆくと、私には、大元に「肉食文明」があるように思える。
 地球上の同じ生き物は、すべて同じように生きる権利がある。しかし人類は、他の動物に優越し、管理して、その命を奪い、肉を食らって生き延びてきた。
 この恐ろしいカルマが、人類文明の恐ろしい終末をもたらしている。

 同じ生き物を勝手に、その命まで利用するという身勝手な人類が、同じ論理を同胞に向けているのが「戦争」というものだ。
 牛や豚の命と肉体を利用する発想が、戦争になると同じ人間にまで拡張されるのだ。
 これが中国社会では鮮明で、人間は、食料の余裕がなくなれば食料にされた。孔子の大好物は、人肉の塩漬け(醬醢)だったといわれる。
 https://yukashikisekai.com/?p=88456

 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5836853.html

 食料が不足すれば人間が食材として意識される社会で、「人権を大切に」という観念は通用しない。他人は、すべて自分の利権のための対象でしかない。習近平を見ていれば、それがはっきりと分かる。
 なにせ、中国共産党は、自国民を勝手に拘束したり誘拐したりして、生きたまま内臓を抜き取って売り飛ばし、殺してしまうのだ。その被害者は、江沢民政権以来、数十万人といわれていて、臓器を売った金は中国共産党幹部の懐を潤してきた。

 日本人も、二階俊博の妻が法輪功の若者の生きた肝臓を移植されて生き延びたことが知られているが、日本人で不当に拘束された中国人から臓器移植を受けた数は、数千名ともいわれている。
 https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/3198

 中国で、人という存在は、その命を利用するだけの家畜のような存在であり、人権などという概念は空疎な建前でしかない。
 日本だって、ビッグモーターのようなブラック企業の経営者は、似たような価値観を持っているだろう。自分以外のすべての人は、自分の利権に奉仕するためだけの存在だと。

 我々が「命を大切にする」文明を選択しようとするなら、同じ地上に生きている動物仲間の命を奪って利用することは、本来、まったく間違っていた。
 肉食文化の延長に、他人の命を奪って利用するという発想が生まれていた。
 家畜を飼育して命を利用できるなら、同じ人間を飼育して命を利用して何が悪いという価値観に至るのだ。
 肉食文化がある以上、凄惨な暴力や戦争、虐待は避けられないのだ。

 だから、第三次世界大戦後に、もし生き残る人類がいるとすれば、我々と同じ肉食文明のカルマを否定(止揚)しなければ、未来は存在しないと私は強く思う。
 肉食文明のカルマを否定するとは、どういうことか?

 もちろん、同じ動物仲間を支配し、命を利用する「畜産」という産業を放棄し、動物食ではない植物食に切り替えることだ。
 もしかしたら魚類は過渡的に許されるかもしれないが、しかし遠い将来には否定されるだろう。
 私はナマズを飼育したことがあるが、実に賢くて情緒的な存在であることを知っている。結構、人に慣れる可愛い存在なのだ。

 それでは何を食べるかというと、米と大豆のような豆類を主食にすべきだ。これで必須アミノ酸、タンパク質は十分で、あとはキャベツやブロッコリーのような野菜を食べればよい。
 こんなアイデアが心に浮かんだのは、すでに半世紀以上前、ジョーン・バエズのドナドナを聞いてからだ。
 心に刺さって衝撃的だった。もしかしたら人生観の基礎に組み込まれたかもしれない。
 https://www.youtube.com/watch?v=R445V0OeHT4&ab_channel=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%81%AE%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8D%E3%81%8B%E3%81%9B

 親戚が隣村で飛騨牛牧場を経営しているのだが、仔牛たちは人なつっこくて、近寄ってきて私の手に吸い付く。本当に可愛いのだ。こんな体験をすれば、彼らを殺して食べるなんてありえないと思ったが、親戚の牧場の牛は極上の5ランク飛騨牛を産み出すことで有名だった。
 ちなみに、私は牛ステーキを食べたのが、福生で半世紀近い前が最後だ。以来、せいぜい切り落とし、小間肉しか食べたことがない。

 でも、自分で育てた枝豆は、たぶんステーキにも匹敵するくらいうまい。
 人類の未来のためにどんな食材を選ぶべきかといえば、やはり大豆なのだ。
 私も、安い肉しか食べていないとはいえ、結構、焼き鳥、ソーセージなどを食べているので、肉食カルマから逃れられないだろう。
 ずいぶん長い間、私は肉類を食べると腎臓が腫れて腰痛が出るようになっている。たぶん尿路結石や腎臓結石を起こしている。

 人類にもし未来があるとすれば、それは肉食文明を克服した未来だと私は思う。
 日本が菜食主義、ビーガン国家になったとしても不都合なことは起きない。文明が進化するということは、より矛盾の少ない、人が人を大切にする社会、人が、あらゆる命を大切にする社会のことなのだから、食文化が変質するのは当然のことだ。
 動物たちの命を大切にすることが、人の命を大切にする文明なのだ。

 もし第三次世界大戦後に生き残る人が、新たな文明を産み出すとすれば、それは現在のような「利己主義」を前提にした文明ではなく、「利他主義」を前提とした文明でなければならない。
 自分を幸せにするということは、他人を幸せにするということの結果なのだ。他人を幸せにできない人が自分を幸せにできるわけがない。

 最近、私は宇宙や社会の法則である「弁証法」について何回か触れた。
 
 本当に役に立っているもの 2019年05月30日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827948.html

弁証法 追記 2019年05月31日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827949.html

本当の未来とは 2023年09月09日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6067498.html

 ヘーゲルの絶対精神 2023年09月10日
  http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6067727.html

 弁証法というのは、「現れてくる現象を引き出したもの」を大切にする。すべての事物現象には、必ず理由がある。「それは対立を統一した結果だ」という理屈なのだが、抽象的すぎて分かる人は少ない。
 今回私が書いているのは、「戦争が起きる理由は肉食文明にある」という理屈で、動物たちの命を奪って利用していれば、必ず、そのカルマは自分たちの命を奪うことになる……と言いたいのだ。

 肉食文明を否定しなければ、決して戦争をなくし、残酷な暴力をこの世から追放することはできない……と書いているわけだ。
 我々が、菜食、ビーガン食文明に移行すれば、たぶん暴力も戦争も消えてゆくのだろうと私は思っている。
 これが歴史の発展というものだ。ドナドナの世界に矛盾を感じる青少年たちなら理解できるはずだ。

 さて、世の中を変えるということはどういうことかというと、私は「思う」ということだと思う。
 「我思う、故に我あり」は唯物論者のデカルトの言葉なのだが、実は、これは唯心論である。唯物論というのは、必ず物質が原点であり、物質から精神が誕生して、やがて物質に還るのだ。
 最初に「思う」のは、最初に意思=心の存在を認めることであり、唯心論である。

 屁理屈は置いといて、我々が何かを変えようと思うとき、そこには「思う」というイベントが必要である。
 進化論で、生物の進化には「思い」は無関係、すべて偶然に登場し、淘汰されて生き残ったものが優勢を獲得して主役になるというのが唯物論のダウィーン進化論である。
 だが、今西錦司は、種の進化には、「思いがある」と示した。「種の未来を改善しようとする意思の思いが見える」と述べたのだ。

 私は今西進化論を支持している。すべての進化、変化は決して「偶然の確率と淘汰」だけではない、必ず「変えたいという思い」があると考えている。
 だから、この社会を良くするために、何が必要か? と問うなら、それは「社会を良くしよう」と思うことだと私は思う。

 「思う」ことで未来の方向性が定まる。
 肉食をやめて菜食にしようという意思が働くようになる。ビーガン食=精進食まで行かなくとも、せめて肉食はやめようという方向性を見いだすことができる。
 私も蕎麦が大好きで、やっぱり鰹節がないと困るのだ。精進の大豆昆布椎茸ダシでは納得できない。鰹節のあの香りが大切なのだ。
 まあ、焼き鳥はやめて枝豆や空豆に変えることは難しくない。

 社会全体で、菜食文化が進めば、もうあの可愛らしい牛や鶏や豚たちを殺して食べるという習慣も影を潜め、やがて消えてしまうだろう。
 人が生きた動物の命を利用しなくなれば、同じ人に対しても優しくなれるだろう。
 そうすれば、人類社会から強欲、残酷、戦争の文字も消えてゆくのではないだろうか?