人間には、タテマエとホンネの二重性がある。
 人間はハリボテ仮面のようなもので、人々は毎日仮面を被って人に対し、虚構の自分を作り上げて、ベタベタと化粧をして他人に接している。
 貞淑で真面目と評価される人間性の裏側に隠された、奔放な性的欲望や変態的嗜好、世間体に支配された仮面の生活の裏側にあるホンネの世界は、表側から知ることはできない。

 私は、幼い頃から周囲の人間関係のなかで、人間のホンネとタテマエの解離について、いろいろ思い知らされてきた。
 だから成人しても、世間体を前提にした地位や蓄財、見栄や虚構の人間関係に強烈な不信感を抱いていた。私は、あらゆる権威から自由でいたかったのだ。

 人間の本質は、見た目では見えない隠された欲求、スケベや変態、異常性のなかにこそあるのではないかと思い、変態エロ小説作家を志したりしたこともある。
 タテマエや権力に依存している人間には、どうしても不快感があった。

 すべての人は二重性を持っている。それは、この社会が二重性を要求しているからだ。
 タテマエの世界、虚構の世界での人間性を前提に成立している経済活動に規定された表社会と、そこから解放された、本当の自分のいる裏側社会。

 もっとも顕著なのが警察・司法関係者、そして権力機構の管理職、企業の役職者、教師などだ。彼らは表の決まり事に依存して利権、利益を得ているので、仕事中は、本当に役職になりきってしまう。
 しかし、生物学的人間としての本能からの欲求があるので、立場と自己規制の強い管理職ほど、本能を抑えつける結果、ときどき本能を抑制しきれずに暴走してしまうのだ。

 https://www.asahi.com/articles/ASS7C3GVFS7CPTIL00MM.html

  https://373news.com/_news/storyid/194882/

 https://news.yahoo.co.jp/articles/2567656d102a1470383958ea8a72c426a46de11f

 だが、ほぼすべての「役職者」が同じ「表人間と裏人間の乖離」という「存在してはならない問題」を抱えているので、性犯罪を犯しても、表世界に依存している司法は結構優しい姿勢を示す。
 警察官や検察官が性犯罪を犯しても、普通は鹿児島県警のようにもみ消されるが、一般市民が同じことをやれば、とてつもない弾圧を受けることになる。

 権力的立場のない普通の市民が、例えば「満員電車で痴漢した」ような性犯罪の疑いをかけられると、被疑者の主張など、ほとんど聞き入れられず、強引に根拠のない刑罰を科す傾向がある。痴漢冤罪被害者が救済される可能性は非常に少ないのだ。
 司法関係者・裁判官は、「存在してはならないのに巨大な存在感のある裏社会」に激しい憎悪と敵意を示すのである。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BC%B7%E5%A7%A6%E5%86%8D%E5%AF%A9%E7%84%A1%E7%BD%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%8C%BB%E5%A4%A7%E6%95%99%E6%8E%88%E7%97%B4%E6%BC%A2%E5%86%A4%E7%BD%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 今回は、ただ「裸を見せて男を喜ばせ、商売した」だけの、誰一人被害者のいない、「表社会の勝手な取り決め」による「性犯罪」事件を紹介する。
 
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 1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。
 川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第64回
 『「男を喜ばせ、男に裁かれた」…日本中が注目した最高裁「ポルノ裁判」で伝説のストリッパーに下された鉄槌』より続く

 一条の裁判にて
 1審で証人になった作家の駒田はこう語った。
 「私が彼女のマジメさ、芸熱心さにうたれて小説を書いたことで、彼女は注目された。それで実刑になった。私にも責任があります」
 また、作家の今東光は男女格差の視点から、判決文を読んだ感想を雑誌にこう書いた。

 「か弱い女が泥まみれになって働いた結果、まるで袋だたきにあったごとく1審、2審、最高裁と泣き叫んで訴えたにも拘わらず、牢に叩き込まれるのを寒々とした気持ちで読んだのだ。何とも後味の悪い想いだ」
 彼は当時、歌舞伎の始祖とされる出雲の阿国について、小説を書きはじめていた。そのため、阿国と一条を半ば同一視して考えずにいられなかった。

 女性不在の司法
 そして、彼の筆は、当時日本の司法にはない女性の視点に及ぶ。
 「男女同権の文化国家と謳い文句はまことしやかだが、もし地裁、高裁、最高裁に女性の法官が存在したら一条さゆりの運命はどう変わっていたか。僕はうたた沙翁の『ヴェニスの商人』を想いださずにいられない」

 この視点は重要だ。最高裁に女性判事が任命されたのは94年2月の高橋久子が最初である。一条の最高裁判決から約20年後になる。一条は終始、男性によって裁かれた。あまりに不公正だといえるだろう。

 米国で人種の絡む裁判について、黒人の被告を白人ばかりの陪審員が裁いた場合を想像してみるといい。公正さに疑問が付き、裁判がやり直しになるのは間違いない。弁護士の杉浦はこう語っている。

 「全国にはあのころ、ストリップの劇場が300館くらいあったでしょう。一つの劇場に10人以上の踊り子が出ていたので、裸になっているダンサーはおそらく5000近くにもなったはずです。観客は1日数万人です。その一大娯楽産業に対し、警察が定期的に取り締まりをして、女性たちに前科をつけていくわけです。不思議な世界でした」

 踊り子たちがなぜ、処罰されなければならないのかという疑念が、一般国民の素朴な感情としてあったと杉浦は考えていた。
 そのうえで彼の頭には、市民が裁判に参加するシステムの必要性が浮かんでいた。
 「日本の裁判は当時、『お上の裁き』の側面が強かった。一条さんにしても、市民感覚と近いところで判決が出ていたら、結果が同じであろうと、もっと納得できたように思います」

 米国や英国では陪審員制度が採用され、多くの場合、有罪無罪を決めるのは陪審員(市民)である。裁判官の大きな役割は公判の進行役だ。
 日本でも大正デモクラシーのころ、このやり方を学び、陪審員制度が採用された時期があった。日本社会では、「お上」への信頼度が比較的高く、プロの裁判官の判断が尊ばれる側面があったようで、陪審制は定着しなかった。杉浦は言う。

 「ただ、戦争による混乱から抜けだし、日本に民主主義が根付いた。国民の教育レベルは格段に上がった。それなのに、『お上の裁き』から抜け出せない制度に問題があると思いましたね」

 日本で裁判員制度が始まったのは2009年5月である。一条の引退公演から37年後である。しかも、裁判員制度の対象となるのは殺人、強盗致死傷、現住建造物等放火や身代金目的誘拐など重大な罪で起訴された事件に限られる。公然わいせつ事件の公判には今なお、市民感覚は反映されていない。
 最高裁で一条の刑が確定した直後、杉浦はこう述べた。

 「負け惜しみで言うのではなく、この裁判は現実のなかでは、一局地戦に過ぎず、複雑な人間社会の歴史的な営みのなかでは片々たるものに過ぎない。あのいまわしかった大東亜戦争の経過を省みるまでもなく、何十年か後には勝ち負けに関係なく、なんというバカげた裁判をしていたのか、ということになるような気がしてならない」

 杉浦の予測は的中した。今、インターネットをつなげば人間の裸はいつでも、どこでも見られる。ストリップ劇場はほとんど姿を消した。警察による捜査や裁判所の判断を尊重して、劇場がなくなったわけではない。もはや女性の裸が珍しくなくなったのだ。権力者が目くじらをたてて取り締まっても「特出し」は残り、「生板」や「まな板」と呼ばれる「本番」を売りにする出し物も登場した。

 一方、どんなに過激になっても、社会の求めが変化すると、出し物は変わる。人々が以前ほどストリップを求めなくなったとき、劇場は役目を終える。今、残っているストリップ劇場で「生板」はほとんど見られない。踊り子たちは美しさを競い、女性客も増えている。陰部、陰毛の見えた、見えないでのどたばたぶりが滑稽に思える。

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 1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

 『踊る菩薩』連載第65回
 『市民感覚が反映されない...あまりに不公平な裁判、昭和のストリッパー達が直面した理不尽すぎる日本の社会』より続く

 「わいせつ」の定義
 判例によると、「わいせつ」とは、「いたずらに性欲を興奮、刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」である。
 この公判を通し、日本の司法は一条の「特出し」行為を、「わいせつ」と判断した。高裁の判決はこう認定している。

 〈被告人(一条)が舞台上で多数の観客を前にして短い腰巻き、あるいはベビードール一枚のみの姿となり、中腰またはしゃがむなどの姿態で股を開き、指で陰部を広げるなどしてことさらに陰部を露出する所為は、わいせつの行為に当たることは明らか〉

 ストリップは「善良な性的道義」に反するのだろうか。私はストリップに詳しい者に、この点をどう考えるべきか意見を聞こうと、橋本裕之を訪ねた。
 ストリップの世界を内と外から観察した演劇学者はこう語った。
 「風俗と芸能で分けると、ストリップは芸です。100パーセント、アートです」

 橋本は早稲田大学大学院で芸術学(演劇)を研究し、国立歴史民俗博物館で助手をしたあと千葉、盛岡両大学などで教授を務めた。今は大阪で神主をしている。
 演劇を研究していた橋本がストリップに興味を持ったのは90年、29歳のときである。
 山形県で舞楽を見物し、天童温泉に宿を取った。その温泉街にミカド劇場があった。歴史民俗博物館に勤めていたため、「国家公務員がこんなところに入っていいのかな」と思いながら、友人と2人で劇場に入った。ストリップを見るのは初めてである。

 先客は酔っ払いの男性1人だった。しばらくすると音楽が鳴り、ソバージュの女性が登場する。若くはないがスタイルはよかった。彼女はけだるそうに身体をよじらせて踊る。
 「すごいと思ったんです。身体の動きがなまめかしい。その曲線がきれいに見えたんです」

 客は自分を含め3人しかいない。そのうち舞台の女性が橋本に話し掛けた。
 「初めてなの?」
 橋本は踊り子と話し込み、ストリップを民俗芸能だと考えるようになる。これをきっかけに各地の劇場を訪ね、楽屋に入り込み、踊り子の友人を作った。踊り子たちと一緒に海外旅行に行くほどの仲になり、彼女たちの私生活も知る。
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 引用以上

2024.07.23 「男を喜ばせ、男に裁かれた」…日本中が注目した最高裁「ポルノ裁判」で伝説のストリッパーに下された鉄槌
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 「猥褻の定義」が上に示されているが、実は、この価値観は民俗学研究者なら、「旧約聖書」から来ていることを知っている。
 旧約聖書が代表している、「男系封建氏族社会」が、なぜ性を弾圧したがるのかといえば、説明には、百科事典ほどの量が必要になるのだが、簡単にいえば、「男社会が、男の子供を特定して、財産と権力を自分の子供に移譲したい」という本質から来ている。

 女性は基本的に優しくて誰でも受け入れるようにプログラムされているので、放っておけばフリーセックス社会になってしまう。
 すると乳を与えることにより「母の子」が圧倒的に有利になり、母系氏族社会が成立してしまう。人類社会の始まりは、すべて母系氏族社会だった。

 人間が増えて、部族社会のテリトリーが重なり合うようになると争いが起きる。
 このとき、力の強い男性が争いに必要になり、やがて部族の権力を男性が握るようになる。
 権力者になった男性は、「我が子」に自分の財産と権力を移譲したくなる。
 フリーセックスでは我が子を特定できないので、女性の自由な性交を禁止する目的で、女性をハーレムに閉じ込め、男性は我が子を特定するようになるのだ。

 こうなると、弱い立場の男は自由に女性と性交できず、不満がたまるので、若い男たちを性倫理で教育し、規制しなければならなくなる。
 このときに用いられたのが旧約聖書なのだ。
 旧約聖書を聖典として採用したのは、ユダヤ教とイスラム教であり、後にキリスト教も採用した。現在のイスラムの一夫多妻制(4人妻)の本質は、ハーレムである。

 私は若い頃民俗学研究を志向していたので、日本中の民俗を調べていた。
 西日本には弥生人文化(インドシナ半島〜長江から伝播したもの)の、自由な男女交際の文化が色濃く残っていて、私の子供時代にさえ、夜這いや無礼講のフリーセックス文化が残っていた。若い男女には、「歌垣」のようなロマンチックな交際があった。
 だが、それは九州〜山陽道、大阪、静岡までの弥生人文化圏に特有のもので、山陰〜京都〜東山道文化圏には、まったく異なる騎馬民族系の文化が成立していた。

 今の天皇家を含む騎馬民族文化は、基本的に武家社会である。歌垣もなければ夜這いもない。ただ、弓や刀の戦闘だけがある。
 そこには、個人の自由な性風俗ではなく、「家」という単位の儒教的な人間関係があった。
 ここでの性風俗は、基本的に一夫多妻制である。石丸伸二が「一夫多妻制にすれば少子化問題が解決する」と発言したのは、彼が武家社会のなかにいたからだ。
 そこには女性の性を苛酷に統制する封建的男系氏族社会のルールがあった。

 日本が、こうした旧約聖書の男系氏族社会のルールを採用するようになったのは、AD300年前後の弓月氏(秦氏)の渡来により、日本社会が騎馬民族文化に乗っ取られてからの話だ。

 そんな封建的思考が、上に引用した一条さゆりへの理不尽な弾圧へとつながるのだ。
 女性の自由な性を弾圧する社会とは、封建的男系氏族社会のルールなのである。
 男系氏族社会の利権は、学歴社会や企業組織の倫理にも直結している。すなわち、現代日本が抱えている、矛盾の核心部分なのだ。
 だから、一回や二回のブログで、この問題を提起することはできないと考えている。