たくさんの戦時体験者が生きていた1970年くらいまで、日本軍による南京大虐殺と、東京での朝鮮人大虐殺を否定する人は、ほぼいなかった。
日本軍が、どれほど恐ろしい存在だったか、朝鮮人差別が、どれほど凄まじいものだったか、みんな知っていたからだ。
現場で、それを目撃した人、当時の雰囲気を知っている人が、次々にこの世を去っていった1980年代あたりから、南京大虐殺も朝鮮人大虐殺も、そして731部隊による数千名の生体実験虐殺でさえ妄想虚偽であり、そんな事実は存在しないと、声高に叫ぶ人が増えていった。
日本人は、悪いことをしないのだという。
「日本人は悪いことをしない」と主張する「そよ風」という団体がある。
極右ヘイトで知られる桜井誠らが関係している市民団体だという。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2b76ac758f7ef56e8898e8a11143b7910eb3c145
結局、「そよ風」も含めて「朝鮮人虐殺はウソ」と主張する人たちの根拠は、工藤美代子という日本会議所属作家の主張から来ているらしい。
https://www.io-web.net/ioblog/2020/06/25/81850/
2009年、ノンフィクション作家であり日本会議のメンバーを務めている工藤美代子さんという右翼言論人が「関東大震災朝鮮人虐殺の真実」という本を出版した。
そのなかで、震災直後の流言記事を出したり、『朝鮮人の怒りが天皇に向かないように「朝鮮人暴動説」を日本政府が否定し、自警団に身を引いてもらった』という旨の新説を唱えたり、資料を都合よく切り刻み引用するなどのあらゆるトリックで虐殺否定論を展開した。震災当時の記憶を伝える人がいなくなった頃に「虐殺はなかった」と主張したのが同書だ。
虐殺否定論が及ぼした影響は、ネット右翼にとどまらず、草の根右翼や政治家にも広まっている。2014年には、当時、自民党の文部科学部会長を務めていた赤池誠章参議院議員がブログで「根拠なき流言飛語によって多数の無辜の朝鮮人を虐殺したというのは信じられない」と発信し、工藤さんの著書を称賛した。
2017年からの小池都知事の関東大震災朝鮮人虐殺追悼式への追悼文の取りやめも、同年3月に古賀俊昭自民党都議(当時、故人)が「あの追悼碑には、流言飛語により日本人が虐殺をしたというヘイトスピーチが書いてある」と、工藤さんの著書を掲げて虐殺否定論を展開し、小池都知事に追悼文の取りやめと追悼碑の撤去を提起したことが背景にある。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/345496
古賀議員にそのように働きかけたのは、2009年に結成された排外主義団体「そよ風」だ。虐殺否定論をもって、草の根右翼の動きも強くなり、政治家たちがあのような判断を下しているという問題が起きている
********************************************************
一部引用以上
私は、半世紀前から関東大震災朝鮮人大逆殺と南京大虐殺について、一定の研究を重ねてきて、何十回もブログに取り上げている。
これまで報道されてきた、関東大震災朝鮮人大虐殺は、むしろ控えめな報告であって、実態ははるかに凄まじかったことを知った。
在日朝鮮人大虐殺事件 2023年06月28日
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6049160.html
1906年、日本は、大韓帝国を傀儡化し、韓国統監府を設立、1910年、大韓帝国を廃止させ、朝鮮総督府として併合し、完全に日本国の一部となった。
李朝崩壊の1897〜1910年までの期間、朝鮮半島の両班階級など有力者が大挙して日本に移住したといわれる。行く先は、秀吉が陶工を連れ帰って定住させた有田、薩摩加世田や田布施などといわれる。
1910年、朝鮮総督府成立以降は、1945年まで朝鮮半島は日本国の正式領土となったことで、今度は、大韓帝国時代の奴隷階級である白丁も含む下層階級が「日本人」の権利を与えられ、大量に日本に移住した。
1945年の在日朝鮮人は210万人と公式に説明されているが、実際には記録されない密入国も多く、300万人を大きく超えていたという説もある。
80年後の現在、移住した朝鮮人の血を引く「日本人」は1000万人くらいいるという推計もある。実は朝鮮ヘイトで知られる桜井誠も移住者の子孫という説がある。実家は福岡在日地区で、祖母が韓国語を話しているとの証言があるからだ。日本人のなかで、桜井のような民族差別ヘイトを公然と主張する者は、非常に少ない。朝鮮では、他人を見下す歴史的文化があるのだ。
https://umi-iro.com/sakurai-makoto-nanimono/
関東大震災の起きた1923年に、全国で、すでに移住者が数百万人規模といわれている。大韓帝国(朝鮮全土)総人口が1300万人だったので、渡航者を300万人とするなら、実に国民の4人に1人が日本人として日本に移住したことになる。
名古屋市中村区で育った私の記憶でも、クラスの数割が在日といってもよかったほどだ。その地域的な人間性は、新潟出身の母親にとって苛酷なものだった。
ちなみに、中村区の暴力団の99%は在日といわれる。もちろん山口組弘道会もそうだ。(私は子供時代、彼らに虐められたので、かなり調べている)
現在の山口組も、大幹部の中には、篠田(司)組長以外に日本人はいないといわれている。
https://www.jica.go.jp/Resource/jica-ri/ja/news/topics/20230413_01.html
関東大震災直後、東京では、民間人や軍関係者による在日朝鮮人の大虐殺事件が起きた。これは、戦争を除けば、日本史上における最大最悪の恥ずべき闇歴史である。
これほどの規模で起きた民族ジェノサイドは、世界史的にも後生に残されるべき悪質な虐殺事件であった。
関東大震災朝鮮人虐殺事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1923年の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した事件である。正確な犠牲者数は不明であるが、論者の立場により、推定犠牲者数に数百名(日本会議)〜約6700名と、非常に幅広い差がある。
(アマ註=公式記録では6440名だが、軍部が隠蔽を図ったので、実際には数割多いといわれている。「毒を入れた」とデマを流したのは、当時、警視庁警備局長(副総監)、後に大政翼賛会総裁、読売新聞社主となった正力松太郎で、関東のメディアは正力のデマを信用せず無視したが、仙台河北新報が騙されて首都圏に情報を逆流させ、それを信じた民間によって虐殺が始まった)
https://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html
(正力の指示を受けて)内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった。
この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、間違われた中国人、内地人であるところの日本人(ろう者など)が殺傷される被害が発生した。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。
市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」
下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。
「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」
正確な犠牲者数は不明だが、2008年3月の中央防災会議では、震災全体の犠牲者の1〜数パーセントが殺害によるものと推定されている(すなわち、一千〜数千人)。
当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、内地人58名、中国人3名。戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名(うち約200は中国人との説あり)である。
(工藤美代子・そよ風・桜井誠・は、上の「233名」をタテにとって、公式の犠牲者数としている。小池百合子知事も、この数字を挙げて、6000名はデマと決めつけているようだ。)
内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)の弔慰金が832名へ支払われた 。
山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった。
これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった。陸軍や警察はこの混乱を奇貨として社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に虐殺された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行されたが、こうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。
当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた。
黒澤明の自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中では、当時中学2年生だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。その中に黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸に毒を入れたという目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある。
*********************************************************
なぜ、このような朝鮮人虐殺が起きたのか?
当時の子供でさえ、朝鮮からの移住者たちを「チョウセン」と呼んでひどく蔑視していた事情があった。
https://www.youtube.com/watch?v=qErKrhTwuYs
それは、当時の朝鮮には、世界一清潔な都市といわれた東京の人々を激怒させるような習慣があったからだ。
1894年、李朝末期に朝鮮を旅行した62歳のイザベラ・バードは、ソウルを「世界一不潔な都市」と表現した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B4%80%E8%A1%8C
上流階級以外にトイレがなかった街では、屎尿は道端に垂れ流されるのが普通で、凄まじい悪臭が漂っていた。数百万人の朝鮮移民は同じ習慣を東京でも行った。
私は、子供の頃、名古屋市内で朝鮮人女性が、普通に道端で排尿排便している姿を普通に見ていた。
それ以上に東京市民を激怒させたことは、当時、都市住民の大半が銭湯利用だったのだが、朝鮮移民には入浴習慣がなく、オンドルのサウナで垢をこすり取り、出てから川に飛び込んで体を洗うのが普通だった。だから、彼らは銭湯の浴槽のなかで体を洗い流したのである。
今でも、私の住む地域の温泉銭湯で同じことをする人がいるが、ほとんど朝鮮系移住者である。
こうした民俗的習慣の齟齬が、大虐殺の土壌になったのは確実である。「清潔」を宗教的に信仰している日本人にとっては、許せる習慣ではなかった。
関東大震災の混乱のなかで、極限の緊張を強いられた下町の人々が、普段から軽蔑している朝鮮人が「井戸に毒を入れた」とのデマを聞いて、冷静でいられるはずがなかった。
だから、関東大震災時における朝鮮人大虐殺には、伏線になる土壌と、必然的な事情があったのだ。その犠牲者は、たぶん6000名をはるかに超えるだろが、うち数割は、聾唖者や中国人、別言語民族だったといわれる。
また、朝鮮ヘイトの主体は、実は、民族差別の伝統を持った桜井誠のような在日系住民である可能性が強い。
朝鮮には他人を見下す序列主義の儒教文化があり、差別を煽る習慣があるからだ。
実は、「朝鮮人虐殺も南京事件も存在しない」と主張する主体は、工藤美代子の日本会議なのだが、その日本会議は国際勝共連合から生まれた団体で、その創始者は、朝鮮人の統一教会教祖、文鮮明であることは知っておいた方がよい。
今、そよ風や日本会議が声高に主張しているのは、日本人、日本軍が東アジアに進出したのは、「ソ連共産党軍」から東アジア国家を守るためだったという主張で、日本が独裁権力により帝国主義圏を作ろうとしたわけではない、「日本は悪いことをしない」というものだ。
だから、南京大虐殺なんて真っ赤なウソで、当時の南京城には10万人もいなかったのだから全部ウソという。
だが、これについても、私は専門的に研究を重ねてきた。
河村たかし市長の父と私の父(愛知県部隊)が、中支戦線からビルマ方面に移動していたとき、ちょうど南京付近を通過したが、そんな情報には一切触れていない。
だから、南京大虐殺はウソだと河村はいう。
だが、南京大虐殺は、その前に起きた、通州猟奇大虐殺事件の復讐として行われたのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
硫黄島で戦死した長勇中佐が、30万人の大虐殺を自分が命令したと告白している。それは厳重に秘匿され、秘密裏に行われた、国民党軍への復讐だった。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827202.html
河村たかしが実父の証言により誤解するのもやむをえないが、日本軍内部でも極秘に進められた大虐殺だった。
中支軍司令官は、松井石根大将だった。彼は、中国人に対する見下しを厳しく諫めていた。長勇中佐のような傲慢な暴走を絶対に許さなかったから、独断と極秘で南京大虐殺を命令したのだ。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5953982.html
松井石根は尾張藩士子孫のなかでも文武両道の大秀才で、河村たかしの先祖とも交友があったはずなので、河村は、松井の名誉のために、「南京事件はなかった」などの妄言を撤回して真実を調べ直してほしい。
私は松井石根の屋敷跡で生まれていて、彼に強い尊敬心を抱いている。
結局、松井石根は、中国人に対する不当な扱いを激しく諫めていたにもかかわらず、南京大虐殺の責任を一人で負って、何一つ弁解せず、絞首台に消えた。
はっきりいうが、半世紀前に、朝鮮人大虐殺や南京大虐殺を否定するような人は、ほとんどいなかった。それは事実を体験し、目撃した人が生きていたからだ。
真実の目撃者が姿を消し始めて、はじめて関東震災大虐殺は存在しない、南京事件は存在しない、731部隊生体実験は存在しないと主張する工藤美代子のような愚かな人たちが、ハエのように湧き始めた。
今では、死体に集るハエのようにうるさく飛び回っている。
歴史というものは、調べれば調べるほど、知識が有機的に結合して全体像がリアルに見えてくるものだ。矛盾点が次々に消えてゆき、まさに目の前で行われているように知ることができる。
自分に都合のよい史実しか見えない人々、天皇制社会復活のような特定の政治目的を前提にして歴史資料を見ている人にとっては、いつまでたっても真実は見えない。真実が現れても、視界に入らないのである。
日本軍が、どれほど恐ろしい存在だったか、朝鮮人差別が、どれほど凄まじいものだったか、みんな知っていたからだ。
現場で、それを目撃した人、当時の雰囲気を知っている人が、次々にこの世を去っていった1980年代あたりから、南京大虐殺も朝鮮人大虐殺も、そして731部隊による数千名の生体実験虐殺でさえ妄想虚偽であり、そんな事実は存在しないと、声高に叫ぶ人が増えていった。
日本人は、悪いことをしないのだという。
「日本人は悪いことをしない」と主張する「そよ風」という団体がある。
極右ヘイトで知られる桜井誠らが関係している市民団体だという。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2b76ac758f7ef56e8898e8a11143b7910eb3c145
結局、「そよ風」も含めて「朝鮮人虐殺はウソ」と主張する人たちの根拠は、工藤美代子という日本会議所属作家の主張から来ているらしい。
https://www.io-web.net/ioblog/2020/06/25/81850/
2009年、ノンフィクション作家であり日本会議のメンバーを務めている工藤美代子さんという右翼言論人が「関東大震災朝鮮人虐殺の真実」という本を出版した。
そのなかで、震災直後の流言記事を出したり、『朝鮮人の怒りが天皇に向かないように「朝鮮人暴動説」を日本政府が否定し、自警団に身を引いてもらった』という旨の新説を唱えたり、資料を都合よく切り刻み引用するなどのあらゆるトリックで虐殺否定論を展開した。震災当時の記憶を伝える人がいなくなった頃に「虐殺はなかった」と主張したのが同書だ。
虐殺否定論が及ぼした影響は、ネット右翼にとどまらず、草の根右翼や政治家にも広まっている。2014年には、当時、自民党の文部科学部会長を務めていた赤池誠章参議院議員がブログで「根拠なき流言飛語によって多数の無辜の朝鮮人を虐殺したというのは信じられない」と発信し、工藤さんの著書を称賛した。
2017年からの小池都知事の関東大震災朝鮮人虐殺追悼式への追悼文の取りやめも、同年3月に古賀俊昭自民党都議(当時、故人)が「あの追悼碑には、流言飛語により日本人が虐殺をしたというヘイトスピーチが書いてある」と、工藤さんの著書を掲げて虐殺否定論を展開し、小池都知事に追悼文の取りやめと追悼碑の撤去を提起したことが背景にある。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/345496
古賀議員にそのように働きかけたのは、2009年に結成された排外主義団体「そよ風」だ。虐殺否定論をもって、草の根右翼の動きも強くなり、政治家たちがあのような判断を下しているという問題が起きている
********************************************************
一部引用以上
私は、半世紀前から関東大震災朝鮮人大逆殺と南京大虐殺について、一定の研究を重ねてきて、何十回もブログに取り上げている。
これまで報道されてきた、関東大震災朝鮮人大虐殺は、むしろ控えめな報告であって、実態ははるかに凄まじかったことを知った。
在日朝鮮人大虐殺事件 2023年06月28日
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6049160.html
1906年、日本は、大韓帝国を傀儡化し、韓国統監府を設立、1910年、大韓帝国を廃止させ、朝鮮総督府として併合し、完全に日本国の一部となった。
李朝崩壊の1897〜1910年までの期間、朝鮮半島の両班階級など有力者が大挙して日本に移住したといわれる。行く先は、秀吉が陶工を連れ帰って定住させた有田、薩摩加世田や田布施などといわれる。
1910年、朝鮮総督府成立以降は、1945年まで朝鮮半島は日本国の正式領土となったことで、今度は、大韓帝国時代の奴隷階級である白丁も含む下層階級が「日本人」の権利を与えられ、大量に日本に移住した。
1945年の在日朝鮮人は210万人と公式に説明されているが、実際には記録されない密入国も多く、300万人を大きく超えていたという説もある。
80年後の現在、移住した朝鮮人の血を引く「日本人」は1000万人くらいいるという推計もある。実は朝鮮ヘイトで知られる桜井誠も移住者の子孫という説がある。実家は福岡在日地区で、祖母が韓国語を話しているとの証言があるからだ。日本人のなかで、桜井のような民族差別ヘイトを公然と主張する者は、非常に少ない。朝鮮では、他人を見下す歴史的文化があるのだ。
https://umi-iro.com/sakurai-makoto-nanimono/
関東大震災の起きた1923年に、全国で、すでに移住者が数百万人規模といわれている。大韓帝国(朝鮮全土)総人口が1300万人だったので、渡航者を300万人とするなら、実に国民の4人に1人が日本人として日本に移住したことになる。
名古屋市中村区で育った私の記憶でも、クラスの数割が在日といってもよかったほどだ。その地域的な人間性は、新潟出身の母親にとって苛酷なものだった。
ちなみに、中村区の暴力団の99%は在日といわれる。もちろん山口組弘道会もそうだ。(私は子供時代、彼らに虐められたので、かなり調べている)
現在の山口組も、大幹部の中には、篠田(司)組長以外に日本人はいないといわれている。
https://www.jica.go.jp/Resource/jica-ri/ja/news/topics/20230413_01.html
関東大震災直後、東京では、民間人や軍関係者による在日朝鮮人の大虐殺事件が起きた。これは、戦争を除けば、日本史上における最大最悪の恥ずべき闇歴史である。
これほどの規模で起きた民族ジェノサイドは、世界史的にも後生に残されるべき悪質な虐殺事件であった。
関東大震災朝鮮人虐殺事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1923年の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した事件である。正確な犠牲者数は不明であるが、論者の立場により、推定犠牲者数に数百名(日本会議)〜約6700名と、非常に幅広い差がある。
(アマ註=公式記録では6440名だが、軍部が隠蔽を図ったので、実際には数割多いといわれている。「毒を入れた」とデマを流したのは、当時、警視庁警備局長(副総監)、後に大政翼賛会総裁、読売新聞社主となった正力松太郎で、関東のメディアは正力のデマを信用せず無視したが、仙台河北新報が騙されて首都圏に情報を逆流させ、それを信じた民間によって虐殺が始まった)
https://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html
(正力の指示を受けて)内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった。
この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、間違われた中国人、内地人であるところの日本人(ろう者など)が殺傷される被害が発生した。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。
市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」
下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。
「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」
正確な犠牲者数は不明だが、2008年3月の中央防災会議では、震災全体の犠牲者の1〜数パーセントが殺害によるものと推定されている(すなわち、一千〜数千人)。
当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、内地人58名、中国人3名。戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名(うち約200は中国人との説あり)である。
(工藤美代子・そよ風・桜井誠・は、上の「233名」をタテにとって、公式の犠牲者数としている。小池百合子知事も、この数字を挙げて、6000名はデマと決めつけているようだ。)
内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)の弔慰金が832名へ支払われた 。
山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった。
これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった。陸軍や警察はこの混乱を奇貨として社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に虐殺された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行されたが、こうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。
当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた。
黒澤明の自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中では、当時中学2年生だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。その中に黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸に毒を入れたという目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある。
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なぜ、このような朝鮮人虐殺が起きたのか?
当時の子供でさえ、朝鮮からの移住者たちを「チョウセン」と呼んでひどく蔑視していた事情があった。
https://www.youtube.com/watch?v=qErKrhTwuYs
それは、当時の朝鮮には、世界一清潔な都市といわれた東京の人々を激怒させるような習慣があったからだ。
1894年、李朝末期に朝鮮を旅行した62歳のイザベラ・バードは、ソウルを「世界一不潔な都市」と表現した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B4%80%E8%A1%8C
上流階級以外にトイレがなかった街では、屎尿は道端に垂れ流されるのが普通で、凄まじい悪臭が漂っていた。数百万人の朝鮮移民は同じ習慣を東京でも行った。
私は、子供の頃、名古屋市内で朝鮮人女性が、普通に道端で排尿排便している姿を普通に見ていた。
それ以上に東京市民を激怒させたことは、当時、都市住民の大半が銭湯利用だったのだが、朝鮮移民には入浴習慣がなく、オンドルのサウナで垢をこすり取り、出てから川に飛び込んで体を洗うのが普通だった。だから、彼らは銭湯の浴槽のなかで体を洗い流したのである。
今でも、私の住む地域の温泉銭湯で同じことをする人がいるが、ほとんど朝鮮系移住者である。
こうした民俗的習慣の齟齬が、大虐殺の土壌になったのは確実である。「清潔」を宗教的に信仰している日本人にとっては、許せる習慣ではなかった。
関東大震災の混乱のなかで、極限の緊張を強いられた下町の人々が、普段から軽蔑している朝鮮人が「井戸に毒を入れた」とのデマを聞いて、冷静でいられるはずがなかった。
だから、関東大震災時における朝鮮人大虐殺には、伏線になる土壌と、必然的な事情があったのだ。その犠牲者は、たぶん6000名をはるかに超えるだろが、うち数割は、聾唖者や中国人、別言語民族だったといわれる。
また、朝鮮ヘイトの主体は、実は、民族差別の伝統を持った桜井誠のような在日系住民である可能性が強い。
朝鮮には他人を見下す序列主義の儒教文化があり、差別を煽る習慣があるからだ。
実は、「朝鮮人虐殺も南京事件も存在しない」と主張する主体は、工藤美代子の日本会議なのだが、その日本会議は国際勝共連合から生まれた団体で、その創始者は、朝鮮人の統一教会教祖、文鮮明であることは知っておいた方がよい。
今、そよ風や日本会議が声高に主張しているのは、日本人、日本軍が東アジアに進出したのは、「ソ連共産党軍」から東アジア国家を守るためだったという主張で、日本が独裁権力により帝国主義圏を作ろうとしたわけではない、「日本は悪いことをしない」というものだ。
だから、南京大虐殺なんて真っ赤なウソで、当時の南京城には10万人もいなかったのだから全部ウソという。
だが、これについても、私は専門的に研究を重ねてきた。
河村たかし市長の父と私の父(愛知県部隊)が、中支戦線からビルマ方面に移動していたとき、ちょうど南京付近を通過したが、そんな情報には一切触れていない。
だから、南京大虐殺はウソだと河村はいう。
だが、南京大虐殺は、その前に起きた、通州猟奇大虐殺事件の復讐として行われたのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
硫黄島で戦死した長勇中佐が、30万人の大虐殺を自分が命令したと告白している。それは厳重に秘匿され、秘密裏に行われた、国民党軍への復讐だった。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827202.html
河村たかしが実父の証言により誤解するのもやむをえないが、日本軍内部でも極秘に進められた大虐殺だった。
中支軍司令官は、松井石根大将だった。彼は、中国人に対する見下しを厳しく諫めていた。長勇中佐のような傲慢な暴走を絶対に許さなかったから、独断と極秘で南京大虐殺を命令したのだ。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5953982.html
松井石根は尾張藩士子孫のなかでも文武両道の大秀才で、河村たかしの先祖とも交友があったはずなので、河村は、松井の名誉のために、「南京事件はなかった」などの妄言を撤回して真実を調べ直してほしい。
私は松井石根の屋敷跡で生まれていて、彼に強い尊敬心を抱いている。
結局、松井石根は、中国人に対する不当な扱いを激しく諫めていたにもかかわらず、南京大虐殺の責任を一人で負って、何一つ弁解せず、絞首台に消えた。
はっきりいうが、半世紀前に、朝鮮人大虐殺や南京大虐殺を否定するような人は、ほとんどいなかった。それは事実を体験し、目撃した人が生きていたからだ。
真実の目撃者が姿を消し始めて、はじめて関東震災大虐殺は存在しない、南京事件は存在しない、731部隊生体実験は存在しないと主張する工藤美代子のような愚かな人たちが、ハエのように湧き始めた。
今では、死体に集るハエのようにうるさく飛び回っている。
歴史というものは、調べれば調べるほど、知識が有機的に結合して全体像がリアルに見えてくるものだ。矛盾点が次々に消えてゆき、まさに目の前で行われているように知ることができる。
自分に都合のよい史実しか見えない人々、天皇制社会復活のような特定の政治目的を前提にして歴史資料を見ている人にとっては、いつまでたっても真実は見えない。真実が現れても、視界に入らないのである。

コメント
ご紹介のあったニュースの一つ
関東大震災と朝鮮人虐殺「なかった」ことにしたい集会、誰が参加するのか?
では「そよ風」の主張は、虐殺が無かったという主張ではなく、犠牲者の数が6000人は多いということでした。
「実は朝鮮ヘイトで知られる桜井誠も移住者の子孫という説がある。」と、ご紹介のサイト記事では
「しかし、桜井誠さんが、在日韓国人だというのはガセです!」
とハッキリ書いてありますね。なぜこのようなタイトルが誤解を生む記事をわざわざ紹介されるのか、不思議です。
南京虐殺についてですが、30万人虐殺とか、中には女子供を強姦して殺しまくったという話もあるようですが、それは中国兵なら実際に強姦殺戮は別の事件で行っているので、日本兵も同じことをするだろうという発想ではないでしょうか?
命令した張本人の話しだからといって無条件に信じるわけにもいきません。個人なら異常な心理状態にあるかもしれないし、話を盛っているかもしれないし。部下全員がそんな酷い命令に従って30万人も黙々と殺しまくった?はなはだ疑問です。
私が20年近く前に取材した元兵士の方は、
南京大虐殺をどう思われますかと言ったら
「冗談じゃない」とおっしゃっていました。
なぜかというと、
兵士というのは場合によって
40、50キロの荷物を担いで歩くわけです。
しかも、中国の国民党が早々に逃げてしまい、
日本軍に物資を残さないために
村とかも焼いてしまいます。
その村を見つけて入ると住民たちは怖がって、
どこかに逃げていくわけです。
中に入ったら日本と違って
衛生管理が違いますから不潔です。
汚い茶碗や、ハエが集っている米のほか、
布団でも着物でも汚れています。
そんなものを
日本兵が散々略奪したと言われているけど、
ただでさえ
40キロぐらいの荷物を担いでいるのに、
壊れた汚い茶碗とか、
ハエが集っている飯とか、
茶色の布団や着物を
一体誰が取るのかと言っていたので、
非常に説得力がありました。
そのような中で
日本兵が大量の略奪や、女性を暴行して
大量に組織的な虐殺をしたと言ったのが
アグネス・スメドレーです。
ちなみに私は、
日本軍による暴行も当然あったと思っています。
だから憲兵がいて、摘発したわけです。
もちろん不良兵士による小さな事件は
どこの国でもあります。
でも、組織的な一般市民を並べて
100人斬首したという事実はなかったと思います。
武器を捨てた国民党軍の兵士が
逃げられなくなっていました。
実は、中国軍に特戦隊というのがいます。
それは前線で戦わされている
部隊の後ろに監督している部隊の事で、
前線から逃げてくる味方を撃ち殺していました。
それで仕方ないから
前線の兵士たちは敵に向かって
突撃するしかなかったのです。
逃げられなかった兵士たちは
軍服を脱いで民間人を襲って、
服を盗んで着て、
民間人のふりをするのです。
これは国際法違反です。
そのような中で、ピストルを隠し持って
日本兵を撃った奴が出てきたので、
日本は対処せざるを得なかったのですね。
こういう輩を便衣兵と言いますけど、
いわゆる今のゲリラです。
これは、
国際法であるジュネーブの法規上は
保護しなくてもいい対象でありますので、
日本がこれを討伐したという事はあったでしょう。
ただし、一般市民である婦女子まで含め、
並べて首を片っ端から斬ったという事は
ないだろうという事です。
実際に南京を日本が攻略したときは、
南京の人口は20万だったと言われています。
日本軍が1937年12月に南京を占拠しました。
占拠して1ヶ月後に
国際委員会が再度人口統計すると
なんと25万人に増えていたらしいです。
なぜかというと、
途中で日本と戦争になるからと言って
逃げていた人たちが、
戦争が終わって
秩序が回復したので戻ってくるわけです。
もしも、阿鼻叫喚の大虐殺が起きていたとしたら、
そんなところに誰も戻ってこないでしょう。
この大虐殺が今では
30、40万人という話になっていて、
どんどん死者の数が増えているという事ですが、
これを喧伝したのが、
アグネス・スメドレーです。
“南京大虐殺”があったとされる当時、
南京市民から、日本軍に
「感謝状」が贈られていた。
それは、1937年12月のこと…
南京には宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という街があり、
約3万の人々が住んでいました。
そこに、街の調査を任せられた、
日本軍がやってきたのです。
この街には軍需倉庫があり、
兵器、食糧、服など消耗品が
保管されていましたが、
治安は乱れ、とても危険な状態でした。
なぜなら、
日本軍に負けた中国の兵士たちが
怒りや欲求不満のはけ口として、
住民から略奪をしたり、
建物に放火をするなど
暴徒となっていたからです。
市民は不安におびえて暮らしていました。
そこで、この地区の整備確保にあたることを
自ら願い出た、ある日本軍人がいました。
その男の名前は、『土井申二』中佐。
土井中佐はまず、街と街をつなぐ、
宝塔橋(ほうとうきょう)の改修を行いました。
次に、あるだけの食糧や衣類を
市民に供給して、
民心の安定をはかり、
そして街の名前も“平和街”に改め、
暴れまわる中国兵から
市民をまもったのです。
それにより街は、
みるみる復興していきました。
そして、1938年1月2日、
平和街にあった現地の慈善団体の代表が、
土井中佐率いる日本軍へ
「感謝状」を贈ったのです。
(↓実際の感謝状)
(出典:https://abe-sin.com/dokusyo/index.html)
「感謝状」には、
橋の修繕、食糧の供給などに対する
感謝の思いが書かれていました。
この日、 市民たちは家に日の丸を掲げて、
全員で爆竹を鳴らし、日本軍への
感謝を表したと伝えられています。
このように、
“大虐殺”があったとされる当時、
日本軍は南京市民を救っていたのです。
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