前回のブログについて、
「競争して、『よりよいもの』を目指すことは人間行動の本質的属性ではないか?」
と「上を向いて歩くこと」に否定的な私の見解を疑問視した人が多かったのではないだろうか?
こう考えている人が、日本人の大多数を占めていると思うので、私の見解を書きたい。
「上昇志向」がもたらすものは、当然下位・劣位に対する蔑視や嘲笑、ときに憐憫を生む。
だから、容姿の劣る人、能力の劣る人、地位の低い人、家柄の悪い人などは、いつでも「日陰者」としてコンプレックスを持ちながら生きてゆかねばならない。
宗次徳二もまた、雑草を採って食べなければならないほど、あまりにも貧しく悲惨な自分の人生に耐えてゆくため、「自分は社会の日陰に生きる最底辺の人間なのだ」と自覚し、教室でも、会社でも、一切光の当たる場所に出るつもりがなかった。と語っている。
弁当を持参できない小学生の彼は、昼休みはいつでも校舎の裏で過ごした。
彼が、子供食堂に財産を投入している理由は、かつての飢えた自分に食事を与えているのだ。
彼は人の見ていないところで早朝の4時から清掃を行い、仕事に没入しきった。他人との交際も一切せず、贅沢にも何の興味もなかった。
今は残った財産を、すべて全国の子供食堂に寄付し、また好きなクラシック音楽のため、才能ある音楽家に、ストラディのような超高価な楽器を貸し与えている。
https://gendai.media/articles/-/46365
だが、彼は誰がみても、日本有数の成功者としての評価を得ている。今や、宗次を見下すような人は一人もいないだろう。
だが、彼は最底辺の出身であるため、公的な表彰など、ほとんどされないし、その人生が評価されることも、ほとんどない。ただ宗次会館の周辺の美しさだけが残っている。
「上を向いて歩く人たち」の視界に入らない人生なのだ。
私が、世間一般の価値観である「恵まれた人生」に本質的な疑問を抱いたのは、1990年代にタクシー運転手をしていたとき、ダウン症児の家庭の送迎をたくさん行ったときだった。
私は、ダウン症児のいる家庭は悲惨な境遇だろうと思い込んでいた。家族は気の毒だと……。だが、実際に接してみると、全然違った。
どこの家庭に行っても、家族はとても明るくて親切で、その人間性が洗練されていることに驚いた。不幸など微塵も感じられなかった。
宗次さんの送迎を行ったときも同じだった。優しくて、ものすごく洗練された人間性だと思ったのだ。
余談だが、私は人の気を感じ取ることができる。宗次さんやダウン症児家庭は、まるで北アルプス雲の平にいるような清浄な気を感じた。
ところが、ときどき、乗客のなかには、乗せた瞬間から恐怖と圧迫感が続く、大量殺人現場のような恐ろしい気を発する人がいる。
下車するまで、私は恐怖感に包まれて、注意力まで散漫になってしまう。たぶん、もの凄い数の霊に取り憑かれているのだと思った。
人を欺して死に追いやるような詐欺師が、こんな有害工場排煙のなかにいるような気を発するのだ。
最近、ある農業事業所で、私はこの気を発している人を見かけた。よく米を買いに行く農産物直販店なのだが、きっと人を欺して死なせた人なのだろうと思った。
横道に逸れたが、「ダウン症児は気の毒な存在」と思い込んでいた私は、実はとんでもない間違いだったことに気づいた。
ダウン症児のいる家庭には、洗練された気と幸福感があった。他の家庭にはないものだ。
私は、もしかしたら「ダウン症児は神の使い」ではないかと思った。彼が来た家庭には圧迫感がなく、人を幸せに導く何かがあると思った。
つまり、ダウン症児は、周囲にいる人々の人間性を大きく向上させるのだ。だから不幸だと認識することなど、とんでもない間違いだと私は悟った。
また、私が70年以上生きてみて、つきあって暖かい心の豊かさを感じる人に、金持ちや権力者は皆無だった。みんな内職をしたり、ギリギリの生活をしている人が多かった。
貧しい中で、必死に生きている人の心にこそ天国があると思った。
上昇志向の人たち、権力や蓄財に価値を見いだす人たちに、人の心に安らぎと豊かさを与える人など一人もいない。
意外だったのは、人を恐怖に陥れる暴力団幹部をタクシーで送迎したのだが、他の運転手が敬遠する司組の幹部の送迎を、私は喜んでやったのだが、一度も恐怖や不快感を感じたことはなかった。
司組長と初めて接点を持ったのは、厳冬期の中央アルプス越百山だった。1980年代末だと思う。私は冬山訓練のため、頻繁に訪れていたのだが、いつでも登山口に外車が止まっていた。
私は最初、暴力団が拳銃発射訓練を行っているのだと思った。しかし、積雪の山を登ってゆくと、どうみても暴力団員に見える恐ろしい風貌の人と出会った。驚いたが、彼とは元気に挨拶を交わした。
たぶん、越百山で彼と出会ったのは3回くらいだ。このときは分からなかったのだが、後に、タクシー運転手になって司組の送迎をするようになって、彼が組長であることが分かってきた。司組長を送迎したのは数回程度だが。
後に、この人が山口組6代目に就任したときは驚いた。山口組最高幹部の趣味は冬山登山だったのだから。
他にも数名の大幹部を送迎したが、司組長も3人くらい殺してるし、他の幹部もたくさん殺している。だが、不思議なことに、恐ろしい気を感じることはなく、むしろ清浄な気を感じたのだ。
私は、人殺しを重ねた司組幹部が清浄な気を持っていることが不思議だったが、どこかの情報で、司組では出入りで殺した者を毎朝、必ず供養しているということを聞いた。組のため犠牲になった者を、敵味方を問わず供養感謝しているというわけだ。
なるほど、それならば清浄な気を保っているわけだ。
暴力団は忌避され、軽蔑されているが、実は彼らなりの論理で、筋を通していることを知った。それは彼らの妥協のない正義感なのだ。
だからタクシーで司組を送迎すると、若衆の礼儀正しさに驚かされることが多かった。それは尊敬に値するものだった。
多くの日本人が、上を向いて歩いている。それは社会のあらゆる現象に価値の序列をつけて、価値の高いものに憧れてそれを追求するのが人生だと信じているのだ。
だが、みんなが信じている価値が、本当の価値であるとは限らない。
若者たちが羨む、スポーツカーや超高級車、高学歴、大金持ち、美男美女、豪邸などの価値が本当の価値なのだろうか?
70年も生きていると、決してそうではないことを思い知らされることが多い。
私にとって、たとえば車の価値でいえば、低燃費で小回りがきき、故障しにくいことだが、私にとって、もっとも魅力的な、もっとも価値ある車はスズキアルトFなのだ。
学歴が役立つのは、みんなが学歴価値観を持っている企業や役所の組織内だけだ。社会に出れば何の役にも立たず、本当の価値は、確実に仕事をこなせることだけだ。
配偶者は美男美女である必要などなく、その逆だ。見せかけだけの価値を信じて高慢になっている美男美女などいらない。本当に欲しいのは、心優しい、自分が困ったときに手を差し伸べてくれる人だけだ。
豪邸などいらない。掃除の手の届く小さな家で十分である。大きな家は掃除が大変で、私など呼吸器病になってから、広い土地を持て余し、ゴミ屋敷になってしまっている。
「本当の価値」というのは、その人の人生のなかで長い時間をかけて定まるものであって、社会の風潮とは何の関係もない。
価値があるように見えても、実際には何の価値もなく、価値がない役立たずのお荷物に見えても、実は周囲の人々を救い、幸せにしている隠された価値がある。
だからT4作戦や優生保護など、とんでもないことだ。思いつきの軽薄な判断で、本当に人々を救ってくれている存在を排除したり殺戮したりするのだ。
さて、「よりよいモノ」を競って求めることが正義なのか? という問題を考えてみよう。
「競争がなければ進化はない」という法則は、ある程度真実だ。
だから、「進化」を求めて、我々は幼稚園の時代から競争に晒され、他人を上回り、上に立つことが正義であるかのように思い込まされてきた。
お絵かきからかけっこに至るまで、何でも点数をつけられ、評価に晒され、褒められたり、貶されたりしてきたことで、競争に過敏に反応する人間性が作られてしまっている。
「競争に負ける人間は価値のない人間だ」と思い込まされてきたのが、普通の日本人なのだ。
だから、その反動で、障害者などを嘲笑蔑視する風潮が成立してしまう。ちょっとでも世間体の価値観から外れた人間を「道外れ者」と嘲笑するわけだ。
LGBTやホームレス、社会の底辺とみなされる者たち、私のような老人も、「価値がない人間」と判断されてしまっている。
その対極に、「強い人、大金持ち、権力者、支配者」の価値観が蔓延しているから、K1以来の格闘技も大繁盛している。みんな他人を蹴落とすのに夢中になっている。
その延長に「強い日本国」への憧れが成立し、核武装しなければならないとして、岸信介、正力松太郎らが核開発、原子力産業を推進した。
だが、究極の武器である核兵器を作ろうとした見返りは恐ろしいものだ。日本国内には、数十万トンを超える高レベル核廃棄物が蓄積し、環境に拡散汚染される日を待っている。
日本政府は、フクイチ事故を利用して、それを海洋投棄する恐怖の戦略を採用しはじめた。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6152778.html
500年も地上冷却が必要なMOX使用済み燃料が、現在も猛烈な勢いで生産されているが、その冷却が途絶えてキャスクが放置され放射能が環境に漏れ出すことなど誰も考えていない。
だが、500年も持った安定政権は人類史に存在しない。せいぜい250年程度だ。もし政権や管理企業が崩壊したなら、冷却が続けられる保証など存在しないのだ。
そうして環境に漏れ出した放射能は、人々を蝕み、DNAを破壊してゆく。日本民族を根底から破壊し、破滅させてゆくのだ。
「フクイチ事故では一人も死んでいない」と主張する高市早苗のような馬鹿のために、過去の恐ろしい放射能汚染拡散事故を紹介しておこう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E8%A2%AB%E6%9B%9D%E4%BA%8B%E6%95%85
ブラジルのゴイアニア市(人口153万人)で、チェルノブイリ事故の翌年、1987年に、廃止病院に残された放射線機器(縦横数センチの円筒)が盗み出され、廃品回収業者がセシウム137が93グラムを手にした。
光る粉に興味を持った業者は、これを取り出して、家族や周辺住民に分け与えた。
これによって市民数十万人の被曝事故が発生した。うち4名が死亡し、数万人が数十年間に癌で死亡したといわれる。
このセシウムの量は、福島県に降下したものよりも少なかった。福島県には、たぶん数十キログラムを超えるセシウム137やストロンチウム90が降下している。
だから「死者が一人も出なかった」などとんでもない。政府が必死になって隠しているだけで、私の調査では、一ヶ月以内に数千名が死亡し、数十年で数百万人や数千万人という単位の癌死者を引き起こすことが分かっている。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6113472.html
だから、私は総裁選候補者たちや立憲党首選候補者たちが、「福島で死者が出なかった」という発言に激怒して、これを書いている。
「上を向いて歩く」ことの結末が、原発事故であり、核廃棄物の環境汚染である。
「強い日本」を目指せば、「滅びる日本」がやってくる。
だから、競争に勝たなくていい、てっぺんを目指さなくていい。ただ、人々の幸せな笑顔を求めて生きてゆかねばならないのだ。
「競争して、『よりよいもの』を目指すことは人間行動の本質的属性ではないか?」
と「上を向いて歩くこと」に否定的な私の見解を疑問視した人が多かったのではないだろうか?
こう考えている人が、日本人の大多数を占めていると思うので、私の見解を書きたい。
「上昇志向」がもたらすものは、当然下位・劣位に対する蔑視や嘲笑、ときに憐憫を生む。
だから、容姿の劣る人、能力の劣る人、地位の低い人、家柄の悪い人などは、いつでも「日陰者」としてコンプレックスを持ちながら生きてゆかねばならない。
宗次徳二もまた、雑草を採って食べなければならないほど、あまりにも貧しく悲惨な自分の人生に耐えてゆくため、「自分は社会の日陰に生きる最底辺の人間なのだ」と自覚し、教室でも、会社でも、一切光の当たる場所に出るつもりがなかった。と語っている。
弁当を持参できない小学生の彼は、昼休みはいつでも校舎の裏で過ごした。
彼が、子供食堂に財産を投入している理由は、かつての飢えた自分に食事を与えているのだ。
彼は人の見ていないところで早朝の4時から清掃を行い、仕事に没入しきった。他人との交際も一切せず、贅沢にも何の興味もなかった。
今は残った財産を、すべて全国の子供食堂に寄付し、また好きなクラシック音楽のため、才能ある音楽家に、ストラディのような超高価な楽器を貸し与えている。
https://gendai.media/articles/-/46365
だが、彼は誰がみても、日本有数の成功者としての評価を得ている。今や、宗次を見下すような人は一人もいないだろう。
だが、彼は最底辺の出身であるため、公的な表彰など、ほとんどされないし、その人生が評価されることも、ほとんどない。ただ宗次会館の周辺の美しさだけが残っている。
「上を向いて歩く人たち」の視界に入らない人生なのだ。
私が、世間一般の価値観である「恵まれた人生」に本質的な疑問を抱いたのは、1990年代にタクシー運転手をしていたとき、ダウン症児の家庭の送迎をたくさん行ったときだった。
私は、ダウン症児のいる家庭は悲惨な境遇だろうと思い込んでいた。家族は気の毒だと……。だが、実際に接してみると、全然違った。
どこの家庭に行っても、家族はとても明るくて親切で、その人間性が洗練されていることに驚いた。不幸など微塵も感じられなかった。
宗次さんの送迎を行ったときも同じだった。優しくて、ものすごく洗練された人間性だと思ったのだ。
余談だが、私は人の気を感じ取ることができる。宗次さんやダウン症児家庭は、まるで北アルプス雲の平にいるような清浄な気を感じた。
ところが、ときどき、乗客のなかには、乗せた瞬間から恐怖と圧迫感が続く、大量殺人現場のような恐ろしい気を発する人がいる。
下車するまで、私は恐怖感に包まれて、注意力まで散漫になってしまう。たぶん、もの凄い数の霊に取り憑かれているのだと思った。
人を欺して死に追いやるような詐欺師が、こんな有害工場排煙のなかにいるような気を発するのだ。
最近、ある農業事業所で、私はこの気を発している人を見かけた。よく米を買いに行く農産物直販店なのだが、きっと人を欺して死なせた人なのだろうと思った。
横道に逸れたが、「ダウン症児は気の毒な存在」と思い込んでいた私は、実はとんでもない間違いだったことに気づいた。
ダウン症児のいる家庭には、洗練された気と幸福感があった。他の家庭にはないものだ。
私は、もしかしたら「ダウン症児は神の使い」ではないかと思った。彼が来た家庭には圧迫感がなく、人を幸せに導く何かがあると思った。
つまり、ダウン症児は、周囲にいる人々の人間性を大きく向上させるのだ。だから不幸だと認識することなど、とんでもない間違いだと私は悟った。
また、私が70年以上生きてみて、つきあって暖かい心の豊かさを感じる人に、金持ちや権力者は皆無だった。みんな内職をしたり、ギリギリの生活をしている人が多かった。
貧しい中で、必死に生きている人の心にこそ天国があると思った。
上昇志向の人たち、権力や蓄財に価値を見いだす人たちに、人の心に安らぎと豊かさを与える人など一人もいない。
意外だったのは、人を恐怖に陥れる暴力団幹部をタクシーで送迎したのだが、他の運転手が敬遠する司組の幹部の送迎を、私は喜んでやったのだが、一度も恐怖や不快感を感じたことはなかった。
司組長と初めて接点を持ったのは、厳冬期の中央アルプス越百山だった。1980年代末だと思う。私は冬山訓練のため、頻繁に訪れていたのだが、いつでも登山口に外車が止まっていた。
私は最初、暴力団が拳銃発射訓練を行っているのだと思った。しかし、積雪の山を登ってゆくと、どうみても暴力団員に見える恐ろしい風貌の人と出会った。驚いたが、彼とは元気に挨拶を交わした。
たぶん、越百山で彼と出会ったのは3回くらいだ。このときは分からなかったのだが、後に、タクシー運転手になって司組の送迎をするようになって、彼が組長であることが分かってきた。司組長を送迎したのは数回程度だが。
後に、この人が山口組6代目に就任したときは驚いた。山口組最高幹部の趣味は冬山登山だったのだから。
他にも数名の大幹部を送迎したが、司組長も3人くらい殺してるし、他の幹部もたくさん殺している。だが、不思議なことに、恐ろしい気を感じることはなく、むしろ清浄な気を感じたのだ。
私は、人殺しを重ねた司組幹部が清浄な気を持っていることが不思議だったが、どこかの情報で、司組では出入りで殺した者を毎朝、必ず供養しているということを聞いた。組のため犠牲になった者を、敵味方を問わず供養感謝しているというわけだ。
なるほど、それならば清浄な気を保っているわけだ。
暴力団は忌避され、軽蔑されているが、実は彼らなりの論理で、筋を通していることを知った。それは彼らの妥協のない正義感なのだ。
だからタクシーで司組を送迎すると、若衆の礼儀正しさに驚かされることが多かった。それは尊敬に値するものだった。
多くの日本人が、上を向いて歩いている。それは社会のあらゆる現象に価値の序列をつけて、価値の高いものに憧れてそれを追求するのが人生だと信じているのだ。
だが、みんなが信じている価値が、本当の価値であるとは限らない。
若者たちが羨む、スポーツカーや超高級車、高学歴、大金持ち、美男美女、豪邸などの価値が本当の価値なのだろうか?
70年も生きていると、決してそうではないことを思い知らされることが多い。
私にとって、たとえば車の価値でいえば、低燃費で小回りがきき、故障しにくいことだが、私にとって、もっとも魅力的な、もっとも価値ある車はスズキアルトFなのだ。
学歴が役立つのは、みんなが学歴価値観を持っている企業や役所の組織内だけだ。社会に出れば何の役にも立たず、本当の価値は、確実に仕事をこなせることだけだ。
配偶者は美男美女である必要などなく、その逆だ。見せかけだけの価値を信じて高慢になっている美男美女などいらない。本当に欲しいのは、心優しい、自分が困ったときに手を差し伸べてくれる人だけだ。
豪邸などいらない。掃除の手の届く小さな家で十分である。大きな家は掃除が大変で、私など呼吸器病になってから、広い土地を持て余し、ゴミ屋敷になってしまっている。
「本当の価値」というのは、その人の人生のなかで長い時間をかけて定まるものであって、社会の風潮とは何の関係もない。
価値があるように見えても、実際には何の価値もなく、価値がない役立たずのお荷物に見えても、実は周囲の人々を救い、幸せにしている隠された価値がある。
だからT4作戦や優生保護など、とんでもないことだ。思いつきの軽薄な判断で、本当に人々を救ってくれている存在を排除したり殺戮したりするのだ。
さて、「よりよいモノ」を競って求めることが正義なのか? という問題を考えてみよう。
「競争がなければ進化はない」という法則は、ある程度真実だ。
だから、「進化」を求めて、我々は幼稚園の時代から競争に晒され、他人を上回り、上に立つことが正義であるかのように思い込まされてきた。
お絵かきからかけっこに至るまで、何でも点数をつけられ、評価に晒され、褒められたり、貶されたりしてきたことで、競争に過敏に反応する人間性が作られてしまっている。
「競争に負ける人間は価値のない人間だ」と思い込まされてきたのが、普通の日本人なのだ。
だから、その反動で、障害者などを嘲笑蔑視する風潮が成立してしまう。ちょっとでも世間体の価値観から外れた人間を「道外れ者」と嘲笑するわけだ。
LGBTやホームレス、社会の底辺とみなされる者たち、私のような老人も、「価値がない人間」と判断されてしまっている。
その対極に、「強い人、大金持ち、権力者、支配者」の価値観が蔓延しているから、K1以来の格闘技も大繁盛している。みんな他人を蹴落とすのに夢中になっている。
その延長に「強い日本国」への憧れが成立し、核武装しなければならないとして、岸信介、正力松太郎らが核開発、原子力産業を推進した。
だが、究極の武器である核兵器を作ろうとした見返りは恐ろしいものだ。日本国内には、数十万トンを超える高レベル核廃棄物が蓄積し、環境に拡散汚染される日を待っている。
日本政府は、フクイチ事故を利用して、それを海洋投棄する恐怖の戦略を採用しはじめた。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6152778.html
500年も地上冷却が必要なMOX使用済み燃料が、現在も猛烈な勢いで生産されているが、その冷却が途絶えてキャスクが放置され放射能が環境に漏れ出すことなど誰も考えていない。
だが、500年も持った安定政権は人類史に存在しない。せいぜい250年程度だ。もし政権や管理企業が崩壊したなら、冷却が続けられる保証など存在しないのだ。
そうして環境に漏れ出した放射能は、人々を蝕み、DNAを破壊してゆく。日本民族を根底から破壊し、破滅させてゆくのだ。
「フクイチ事故では一人も死んでいない」と主張する高市早苗のような馬鹿のために、過去の恐ろしい放射能汚染拡散事故を紹介しておこう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E8%A2%AB%E6%9B%9D%E4%BA%8B%E6%95%85
ブラジルのゴイアニア市(人口153万人)で、チェルノブイリ事故の翌年、1987年に、廃止病院に残された放射線機器(縦横数センチの円筒)が盗み出され、廃品回収業者がセシウム137が93グラムを手にした。
光る粉に興味を持った業者は、これを取り出して、家族や周辺住民に分け与えた。
これによって市民数十万人の被曝事故が発生した。うち4名が死亡し、数万人が数十年間に癌で死亡したといわれる。
このセシウムの量は、福島県に降下したものよりも少なかった。福島県には、たぶん数十キログラムを超えるセシウム137やストロンチウム90が降下している。
だから「死者が一人も出なかった」などとんでもない。政府が必死になって隠しているだけで、私の調査では、一ヶ月以内に数千名が死亡し、数十年で数百万人や数千万人という単位の癌死者を引き起こすことが分かっている。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6113472.html
だから、私は総裁選候補者たちや立憲党首選候補者たちが、「福島で死者が出なかった」という発言に激怒して、これを書いている。
「上を向いて歩く」ことの結末が、原発事故であり、核廃棄物の環境汚染である。
「強い日本」を目指せば、「滅びる日本」がやってくる。
だから、競争に勝たなくていい、てっぺんを目指さなくていい。ただ、人々の幸せな笑顔を求めて生きてゆかねばならないのだ。

コメント
ずっと記事を拝読しておりましたがコメントするのは初めてです
今回の記事もとても同感できる内容でした
何度も胸がキュゥッとなりました
私も故あって底辺の暮らしを体験しました
そこで見たものは
蔑まされて生きる人達の真剣な暮らしぶりでした
私は誰がどんな因果でその状況にいるのかはわかりませんでした
ただ目の前にいるその人を判断するだけでしたが
私よりもしっかり生きている人も多く驚かされ
私もそんな彼らを見習い底辺を生きました
結果私は再び社会復帰しましたかが
今も彼らの姿を追いかけています
つまらないマウントの取り合いよりも
彼らのように真剣に生きたいものです
自分のことで手一杯なはずなのに他人を気分のままに助ける
そんな自由な持つ彼らを見習いたい自分がいます
ほんとうに美しいものは
山奥で誰も見ないところで
可憐に力強く咲く名もない野花なのかも知れません
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