竹島が韓国人に知られたのは1947年のことだった。
いくつかの韓国メディアが、漁業問題を論じるとき、竹島をはじめて引き合いに出した。
敗戦後、マッカーサーGHQは、東シナ海と日本海に「マッカーサーライン」と呼ばれる中間線を引き、日本漁船に竹島海域への立ち入りを禁じた。また竹島は日本政府の行政権が及ばないと定めた。
しかし、これは講和条約のような最終決定ではない暫定的な措置だったが、韓国政府は、それを自分たちに都合良く解釈し(韓国の十八番)、あたかも領土条約のように思い込んでしまった。
1948年、日本漁船の出漁がGHQに禁止されると、韓国側は、竹島が韓国領土になったと勘違いして出漁したが、それを知った米軍の爆撃に遭って韓国人が多数死傷した。
この事件を韓国メディアが連日報道したことで、はじめて一般韓国人の意識に竹島が上り始めた。そして1906年以降、鬱陵島での竹島の呼び名であった「独島」を用い始めた。
初代、李承晩大統領は、1952年、マッカーサーラインに準じた「李承晩ライン」を勝手に宣言した。
その前年から李承晩は、マッカーサーラインの堅守、域内での日本漁船排除、領土化をアメリカに要請したが、アメリカはこれを拒絶し、竹島は歴史的に島根県の管轄下にある日本領土であることをラスク書簡で示した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9B%B8%E7%B0%A1
しかし、韓国側は、ラスク書簡をはじめ、連合国側の国際的領土解釈と承認を完全無視し、李承晩の一方的宣言だけで、竹島の領有を実行した。
それから、韓国は、李承晩ライン周辺での「日本漁船狩り」の暴力的な不法拿捕を繰り返すようになり、4000名の島根県などの漁民が不法に拿捕され、拷問的取り扱いを受けた8名が獄死している。
死者は8人"竹島"を狙った韓国の漁船狩り 約4000人が不法抑留された 宇山 卓栄
https://president.jp/articles/-/23184?page=1
【「“この世の地獄” 日一日と弱る体力」。1956年5月19日、島根県の地方紙石見タイムズは、韓国当局に拿捕され抑留されていた漁船乗組員の石田儀一郎さんが、韓国の収容所から送った手紙を掲載しました。
「異国刑務所においてはこの世の地獄の生活を味わい、冬は零下15度を降(くだ)る、膚(はだ)を裂く寒さの中に相(あい)擁(よう)して暖をとり、夏は狭い監房の中で呻吟(しんぎん)し、格子窓越しの移りゆく四季に、また漏れきたる三日月に我が身の不幸を嘆き妻子をしのび、思いを故国の山河に馳(は)せて耐えて参りました」(新字・新仮名遣いに編集部で修正)。】
結局、韓国による独善的な強硬対応により、戦後李承晩ライン周辺での漁民被害は、1953年〜日韓国交回復の1965年までの12年間に、50名近い韓国軍側による漁船銃撃による死傷者と、4000名の不法拿捕拘束者を出した。
https://www.news-postseven.com/archives/20101022_4077.html?DETAIL
この問題は、1993年河野談話で突然、問題になり始めた従軍慰安婦問題どころではない、もしも日本が戦後、敗戦国のダメージを負っていなければ、韓国との直接戦争を引き起こすほどの大きな国際紛争の火種である。
しかし、日本政府は、1952年の独善的な李承晩ライン宣言も、その後の拿捕獄死問題も、韓国に対し口頭での「遺憾砲」を発射しただけで、具体的な措置は講じないされるがままの状態だった。
なぜ、日本は韓国の残酷な横暴に対して、何もできなかったのか?
1952年の日本の首相は、吉田茂だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
上のリンクにあるとおり、吉田の在任中の、アメリカの関心事は「赤狩り」だった。
アメリカは、共産圏との争いに目を奪われて、竹島問題に仲介することを避けた。むしろ、日本の左傾化防止に注力し、日韓政権を協調させて右傾化させる支援を行った。
日本でも、吉田茂政権は、アメリカ盲従の姿勢を堅持し、言いなりになって、ひたすら事なかれ主義を貫いた。
そして4000名拿捕、不当勾留の相次いだ1953年〜1965年の首相は、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤栄作だった。
いずれも、韓国による日本漁船、海上保安庁巡視船への銃撃、拿捕、強制拘留などに対し、海上自衛隊による武力行使を行わず、遺憾砲に終始した。
なぜ、日本政府は、韓国に実力で対峙しなかったのか? それは、もちろん、アメリカによる国際防共戦略が基本にあったからなのだが、それにしても海上保安庁巡視船が砲撃され、日本国民が数千名も被害にあって死傷者も多数出しているにもかかわらず、具体的な行動ができなかった理由は、あまりに異常というしかない。
そこで、対韓国の核心的人物を調べてみると、吉田茂と岸信介が浮かび上がってくる。
韓国に竹島を「献上」した吉田茂の誤ったシグナル SEALDsも元首相の亡霊に取り憑かれ安保法反対遊びへ…産経 2016/8/22
https://www.sankei.com/article/20160822-6GHPBRVX5NPYDNRRIHNFSPIZB4/2/
上のリンクに指摘されているが、吉田茂は、韓国からの武力行使と領土占領に対し、「自衛権」を行使できたのにしなかった。
なぜ、吉田が韓国に自国領土を思い通りに占拠させたのか? これが竹島問題の根底にある。
そして、韓国による日本漁船不当拿捕がもっとも激しかった時期の首相は岸信介だが、これも、実力行使を拒否して、アメリカの仲介に頼った。
実は、上の二人には共通点がある。それは、二人が日本最大の政治人脈の核心だったということだ。二人は遠縁だが、親戚どおしだ。
おまけに、二人は韓国側の主要人物である、朴正熙大統領、統一教会教祖の文鮮明と非常に親しかった。
竹島問題は、二人が朝鮮李朝と関係をもった特殊な人脈のなかにいることと無関係ではない。

そして、岸信介(妻良子の)の曾祖父が岸(李)要蔵であることは前回説明した。
上の人脈を「田布施人脈=システム」と呼んでいるが、実は、戦後、日本国の首相を務めた半数以上が、この人脈から輩出されている。
世襲政治家 2022年12月11日(このなかにも家系図がある)
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5996029.html
この田布施システムは、今のところ明確な証拠がないので、もしかしたらだが、李要蔵の子か孫である大室寅之祐=明治天皇が含まれていて、だとすれば、明治以来の日本国が朝鮮李朝に乗っ取られてきたことさえ意味している。
田布施という土地は、寒村だが、江戸期、大内氏の領地であり、大内氏は戦国時代から朝鮮李朝と深い関係があり「朝鮮部落」と呼ばれてきたと、前回のブログに、鬼塚英昭氏の講演コンテンツに説明されている。
つまり、田布施は、日本のなかでも李朝の領地に近い存在だった。だから岸要蔵と文鮮明の祖父が定州で李朝儒者の両班だったのに、日本に大きな影響を与えた。
実は、田布施が朝鮮と関係を持ったのは、豊臣秀吉が朝鮮から陶工を連れ帰り、住まわせた土地だったことから始まっている。
同じように、陶工を住まわせたことで知られているのが、薩摩加世田で、沈寿官などの存在が知られている。
実は、加世田に関係した人物として、上の吉田茂家系図のトップにある大久保利通がいる。吉田茂は、大久保利通の親族だったのだ。
大久保は先祖が加世田から鹿児島に移住した。さらに、加世田の名家、鮫島家から出た鮫島純也→小泉純也がいる。小泉純一郎の父だ。彼らもまた朝鮮人脈と深い関係があるといわれている。純也は、後に朝鮮に渡り昭和通商(岸信介の作った世界最大の麻薬シンジケート)に名前がある。日本に帰国後、厚相を務めた。
純一郎は、北朝鮮の歴史的人脈があったから、拉致被害者を連れて帰ることができた。
つまり、吉田茂も岸信介も、実は、朝鮮人脈と深い関係があり、とりわけ岸は、大統領になった朴正熙(日本陸軍、高木正雄中尉)とは、統一教会の文鮮明とともに兄弟のような親しい関係だった。
ちなみに、統一教会初代日本支部は、岸信介の渋谷南平台、自宅の敷地に建設された。
日本漁民を不法拿捕、4000名を拉致し地獄のような環境で拘留した最高責任者は、1963〜1965年までは朴正熙だった。
だから、岸信介は、竹島の奪還に、まるで意欲を見せず、日本漁民の被害にも関心を持たなかった。
吉田茂も、1952年からの韓国の異常な対日侵略にも、ほとんどまともな反応をせず、領土回復措置も行わなかった。
それは、彼らの朝鮮人脈と無関係ではないように見える。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6158881.html
日本は、二人の親韓国総理大臣の努力によって、竹島という領土を事実上、韓国に奉納してしまった。この種の領土問題は、既成事実がものをいうので、実効支配をしている韓国が竹島を返還する可能性は絶望的に低い。
その責任は、吉田と岸に帰せられるべきだが、二人とも、日本の右寄り勢力の核心部の人脈なので、チャンネル桜など右翼スピーカーや、参政党、国民新党も、絶対に触れないアンタッチャブルになっている。
結局、竹島に対しては、実力行使をするしかない事態になってしまっているのだが、日本政界が韓国宗教である統一教会に乗っ取られた状態である以上、それも不可能だろう。
いくつかの韓国メディアが、漁業問題を論じるとき、竹島をはじめて引き合いに出した。
敗戦後、マッカーサーGHQは、東シナ海と日本海に「マッカーサーライン」と呼ばれる中間線を引き、日本漁船に竹島海域への立ち入りを禁じた。また竹島は日本政府の行政権が及ばないと定めた。
しかし、これは講和条約のような最終決定ではない暫定的な措置だったが、韓国政府は、それを自分たちに都合良く解釈し(韓国の十八番)、あたかも領土条約のように思い込んでしまった。
1948年、日本漁船の出漁がGHQに禁止されると、韓国側は、竹島が韓国領土になったと勘違いして出漁したが、それを知った米軍の爆撃に遭って韓国人が多数死傷した。
この事件を韓国メディアが連日報道したことで、はじめて一般韓国人の意識に竹島が上り始めた。そして1906年以降、鬱陵島での竹島の呼び名であった「独島」を用い始めた。
初代、李承晩大統領は、1952年、マッカーサーラインに準じた「李承晩ライン」を勝手に宣言した。
その前年から李承晩は、マッカーサーラインの堅守、域内での日本漁船排除、領土化をアメリカに要請したが、アメリカはこれを拒絶し、竹島は歴史的に島根県の管轄下にある日本領土であることをラスク書簡で示した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9B%B8%E7%B0%A1
しかし、韓国側は、ラスク書簡をはじめ、連合国側の国際的領土解釈と承認を完全無視し、李承晩の一方的宣言だけで、竹島の領有を実行した。
それから、韓国は、李承晩ライン周辺での「日本漁船狩り」の暴力的な不法拿捕を繰り返すようになり、4000名の島根県などの漁民が不法に拿捕され、拷問的取り扱いを受けた8名が獄死している。
死者は8人"竹島"を狙った韓国の漁船狩り 約4000人が不法抑留された 宇山 卓栄
https://president.jp/articles/-/23184?page=1
【「“この世の地獄” 日一日と弱る体力」。1956年5月19日、島根県の地方紙石見タイムズは、韓国当局に拿捕され抑留されていた漁船乗組員の石田儀一郎さんが、韓国の収容所から送った手紙を掲載しました。
「異国刑務所においてはこの世の地獄の生活を味わい、冬は零下15度を降(くだ)る、膚(はだ)を裂く寒さの中に相(あい)擁(よう)して暖をとり、夏は狭い監房の中で呻吟(しんぎん)し、格子窓越しの移りゆく四季に、また漏れきたる三日月に我が身の不幸を嘆き妻子をしのび、思いを故国の山河に馳(は)せて耐えて参りました」(新字・新仮名遣いに編集部で修正)。】
結局、韓国による独善的な強硬対応により、戦後李承晩ライン周辺での漁民被害は、1953年〜日韓国交回復の1965年までの12年間に、50名近い韓国軍側による漁船銃撃による死傷者と、4000名の不法拿捕拘束者を出した。
https://www.news-postseven.com/archives/20101022_4077.html?DETAIL
この問題は、1993年河野談話で突然、問題になり始めた従軍慰安婦問題どころではない、もしも日本が戦後、敗戦国のダメージを負っていなければ、韓国との直接戦争を引き起こすほどの大きな国際紛争の火種である。
しかし、日本政府は、1952年の独善的な李承晩ライン宣言も、その後の拿捕獄死問題も、韓国に対し口頭での「遺憾砲」を発射しただけで、具体的な措置は講じないされるがままの状態だった。
なぜ、日本は韓国の残酷な横暴に対して、何もできなかったのか?
1952年の日本の首相は、吉田茂だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
上のリンクにあるとおり、吉田の在任中の、アメリカの関心事は「赤狩り」だった。
アメリカは、共産圏との争いに目を奪われて、竹島問題に仲介することを避けた。むしろ、日本の左傾化防止に注力し、日韓政権を協調させて右傾化させる支援を行った。
日本でも、吉田茂政権は、アメリカ盲従の姿勢を堅持し、言いなりになって、ひたすら事なかれ主義を貫いた。
そして4000名拿捕、不当勾留の相次いだ1953年〜1965年の首相は、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤栄作だった。
いずれも、韓国による日本漁船、海上保安庁巡視船への銃撃、拿捕、強制拘留などに対し、海上自衛隊による武力行使を行わず、遺憾砲に終始した。
なぜ、日本政府は、韓国に実力で対峙しなかったのか? それは、もちろん、アメリカによる国際防共戦略が基本にあったからなのだが、それにしても海上保安庁巡視船が砲撃され、日本国民が数千名も被害にあって死傷者も多数出しているにもかかわらず、具体的な行動ができなかった理由は、あまりに異常というしかない。
そこで、対韓国の核心的人物を調べてみると、吉田茂と岸信介が浮かび上がってくる。
韓国に竹島を「献上」した吉田茂の誤ったシグナル SEALDsも元首相の亡霊に取り憑かれ安保法反対遊びへ…産経 2016/8/22
https://www.sankei.com/article/20160822-6GHPBRVX5NPYDNRRIHNFSPIZB4/2/
上のリンクに指摘されているが、吉田茂は、韓国からの武力行使と領土占領に対し、「自衛権」を行使できたのにしなかった。
なぜ、吉田が韓国に自国領土を思い通りに占拠させたのか? これが竹島問題の根底にある。
そして、韓国による日本漁船不当拿捕がもっとも激しかった時期の首相は岸信介だが、これも、実力行使を拒否して、アメリカの仲介に頼った。
実は、上の二人には共通点がある。それは、二人が日本最大の政治人脈の核心だったということだ。二人は遠縁だが、親戚どおしだ。
おまけに、二人は韓国側の主要人物である、朴正熙大統領、統一教会教祖の文鮮明と非常に親しかった。
竹島問題は、二人が朝鮮李朝と関係をもった特殊な人脈のなかにいることと無関係ではない。

そして、岸信介(妻良子の)の曾祖父が岸(李)要蔵であることは前回説明した。
上の人脈を「田布施人脈=システム」と呼んでいるが、実は、戦後、日本国の首相を務めた半数以上が、この人脈から輩出されている。
世襲政治家 2022年12月11日(このなかにも家系図がある)
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5996029.html
この田布施システムは、今のところ明確な証拠がないので、もしかしたらだが、李要蔵の子か孫である大室寅之祐=明治天皇が含まれていて、だとすれば、明治以来の日本国が朝鮮李朝に乗っ取られてきたことさえ意味している。
田布施という土地は、寒村だが、江戸期、大内氏の領地であり、大内氏は戦国時代から朝鮮李朝と深い関係があり「朝鮮部落」と呼ばれてきたと、前回のブログに、鬼塚英昭氏の講演コンテンツに説明されている。
つまり、田布施は、日本のなかでも李朝の領地に近い存在だった。だから岸要蔵と文鮮明の祖父が定州で李朝儒者の両班だったのに、日本に大きな影響を与えた。
実は、田布施が朝鮮と関係を持ったのは、豊臣秀吉が朝鮮から陶工を連れ帰り、住まわせた土地だったことから始まっている。
同じように、陶工を住まわせたことで知られているのが、薩摩加世田で、沈寿官などの存在が知られている。
実は、加世田に関係した人物として、上の吉田茂家系図のトップにある大久保利通がいる。吉田茂は、大久保利通の親族だったのだ。
大久保は先祖が加世田から鹿児島に移住した。さらに、加世田の名家、鮫島家から出た鮫島純也→小泉純也がいる。小泉純一郎の父だ。彼らもまた朝鮮人脈と深い関係があるといわれている。純也は、後に朝鮮に渡り昭和通商(岸信介の作った世界最大の麻薬シンジケート)に名前がある。日本に帰国後、厚相を務めた。
純一郎は、北朝鮮の歴史的人脈があったから、拉致被害者を連れて帰ることができた。
つまり、吉田茂も岸信介も、実は、朝鮮人脈と深い関係があり、とりわけ岸は、大統領になった朴正熙(日本陸軍、高木正雄中尉)とは、統一教会の文鮮明とともに兄弟のような親しい関係だった。
ちなみに、統一教会初代日本支部は、岸信介の渋谷南平台、自宅の敷地に建設された。
日本漁民を不法拿捕、4000名を拉致し地獄のような環境で拘留した最高責任者は、1963〜1965年までは朴正熙だった。
だから、岸信介は、竹島の奪還に、まるで意欲を見せず、日本漁民の被害にも関心を持たなかった。
吉田茂も、1952年からの韓国の異常な対日侵略にも、ほとんどまともな反応をせず、領土回復措置も行わなかった。
それは、彼らの朝鮮人脈と無関係ではないように見える。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6158881.html
日本は、二人の親韓国総理大臣の努力によって、竹島という領土を事実上、韓国に奉納してしまった。この種の領土問題は、既成事実がものをいうので、実効支配をしている韓国が竹島を返還する可能性は絶望的に低い。
その責任は、吉田と岸に帰せられるべきだが、二人とも、日本の右寄り勢力の核心部の人脈なので、チャンネル桜など右翼スピーカーや、参政党、国民新党も、絶対に触れないアンタッチャブルになっている。
結局、竹島に対しては、実力行使をするしかない事態になってしまっているのだが、日本政界が韓国宗教である統一教会に乗っ取られた状態である以上、それも不可能だろう。

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