「次は狭山」かなわず 狭山事件の石川一雄さん死去 無実を訴え続け47年 「(罪を)認めれば10年で出してやるという約束を信じてうその自白をした」と主張 3/13(木)
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e9c688f47892c1e5b9627a993defdda64c07583
1963年の狭山事件で再審請求をしていた石川一雄さんが11日、86歳で死去した。無実を訴えて77年に第1次再審請求から47年余り。無期懲役が確定して94年に仮釈放された後も、冤罪(えんざい)を訴えて闘ってきた。再審開始の司法判断が相次ぎ、期待が高まる中、「次は狭山」を合言葉に体調不良を押して支援者らと懸命に活動してきたが、思いは実現しなかった。
石川さんは無期懲役の確定後の94年に仮出所。31年ぶりに埼玉県狭山市内の自宅に戻った。記者会見で「人生の最も大切な時期を奪われた無念さは言葉で言い表すことはできない」とした上で、「(罪を)認めれば10年で出してやるという約束を信じてうその自白をした」と主張していた。
無罪を訴え続けた石川さんは2023年10月に東京都千代田区で行われた集会で、体の衰えについて触れつつ「でも命はまだあります。無罪を勝ち取るまでは石川一雄は死にません」と宣言していた。
24年10月に静岡県一家4人殺害事件で再審無罪が確定した袴田巌さん(89)とは約6年間、東京拘置所で共に過ごし、「イワちゃん」と愛称で呼ぶ旧知の仲。無罪判決の際には静岡県に向かい、「完全無罪判決だと確信していた。ゆっくりと休んでください」とコメントを発表した。
「次は狭山という思い。袴田裁判と同じように再審開始、再審法改正の実現を目指す」と決意表明していた。
狭山事件では、2度にわたる再審請求が退けられ、06年から始まった第3次再審請求は今年で19年を迎える。弁護団は有罪判決の有力証拠だった石川さんの自宅から発見された被害者の女子高校生のものとされた万年筆の鑑定を実施。
被害者が当時使っていたインクと証拠の万年筆に入っていたインクの成分が異なることを蛍光エックス線分析に基づき示し、万年筆は被害者のものではないと主張した。
犯人が被害者宅に届けた脅迫状の筆跡についても、コンピューターによる筆跡鑑定で科学的に石川さんのものとは異なるとした証拠を提出し、鑑定人の証人尋問を要求。
今月上旬の三者協議後には、弁護団は「裁判所が(証人尋問を)実施するか否か判断する局面に来ている」との見解を示し、石川さんも「光が見えてきた」と期待を示していた。
再審制度を巡っては、検察側に証拠の開示が義務付けられていないことや検察側の抗告により再審開始が先延ばしされるなどの問題点が指摘されている。
狭山事件では、東京高検が逮捕当日の石川さんの上申書や取り調べの録音テープなどの証拠を断続的に開示してきたが一部にとどまり、石川さんや支援者らは制度改正も併せて訴えていた。
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引用以上
狭山事件とは
https://rekisiru.com/14981
被差別部落出身の石川一雄は、24歳当時、1963年5月1日、狭山市の女高生だった中田善枝を強姦し殺害したとして逮捕され、一審で死刑判決を受けた。二審では無期懲役に減刑されたが、最高裁でも無期懲役になり、以来30数年間服役した。
石川氏が、ろくな証拠もないまま逮捕された事情は、事件前の3月に「吉展ちゃん事件」の警察の大失態があり、当時の警察庁長官が引責辞任したことで、捜査員がひどく焦って、早期の犯人逮捕に焦っていたことが大きい。
当時の警察は、事件を科学的に解析するよりも、犯人と疑った者を無理矢理自白させて有罪にすることが最優先される雰囲気にあった。袴田事件と同じである。
これは、たぶん今でも続いていて、昨年でも、鹿児島県警本部長が捜査資料を隠滅する指示を行っている。警察は、何よりも自分たちのメンツを最優先させるのだ。
https://373news.com/news/local/detail/197112/
石川氏有罪の証拠は、3点挙げられている。
カバン、万年筆、腕時計が石川の自供により発見されたことは、犯人しか知り得ない物証として各判決の決め手となった。
腕時計については当初捜索のために発表された品名はシチズン・コニー(埼玉県警から特別重要品触として5月8日に手配された物はコニー6型で側番号C6803 2050678と個体識別情報があった)となっていたものが、実際に発見されたのはシチズン・ペット。つまりまったく別の物だった。
発見された万年筆は中に入っていたインクがブルーブラック。被害者が当日にペン習字の授業で使っていたとされるインクはライトブルー。
後に、再審請求で、弁護団はインクの科学鑑定を行い、蛍光分析により、まったく別のものであると証明したが、最高裁は石川が万年筆を盗んでからインクを入れ替えたと決めつけた。
また万年筆は、何度も家宅捜索が行われた自宅の鴨居から発見されたが、これは容易に発見できる位置だったのに、なぜか、かなり後に突然発見される。
警察側が最大の証拠とする脅迫状の筆跡が石川の筆跡と異なるものであることは明確であり、かつ、当時の石川には文字を書く能力がないに等しかった。
石川氏が学校教育を受けたのは小学校5年生までで、以降、養豚業などに就業している。ところが、文面は、日本語教育を受けた者しか書けない内容だった。
石川氏は、収監後、独学で日本語読み書きを習得している。
いずれも、最高裁が不可解で非科学的な決めつけで石川氏を犯人と断定しているが、まさに先入観による犯人決めつけだけがあり、科学的分析の視点が粗雑、倫理性の欠如、曖昧な根拠不明の判断で、まるで「素人の決めつけ」としかいえないものだ。
「部落民なら犯罪者に違いない」という思い込みが裁判官など司法関係者に蔓延していたのだ。(ウィキペディア参照)
警察は、犯行現場に近い養豚場の番犬が、事件前後の時間に吠えなかったことから、養豚場関係者が犯人と見立てをつけた。また、この地域が被差別部落だったことも警察官の先入観に大きな影響を与えていた。
実は、事件後、石川氏が逮捕拘禁されてから、石川氏に近い人たちに不可解な死者が多数が出ていた。
1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。
1963年5月6日 - 被害者宅の元使用人 が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。
(石川氏は、事件の真犯人はこの男だろうと推察している)
1963年5月11日 - 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。なお、この通報者は石川一雄の競輪仲間であった。「つまりは、彼は石川氏に容疑が向けられ始めた直後に警察に現れたため、おそらくは『捜査かく乱を狙う人物』と疑われたのである」と伊吹隼人は推測している。
1964年7月14日 - 被害者の姉が農薬を飲んで自殺。
1966年10月24日 - 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の長兄 が西武新宿線入曽駅〜入間川駅間の踏切で電車に轢かれて自殺。
1977年10月4日 - 被害者の次兄が首を吊って自殺。
1977年12月21日 - 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』の取材協力者として事件を追っていたルポライター集団「文珠社」のひとり片桐軍三 が暴行死とも見られる変死を遂げる。
さらに1963年5月 - 石川一雄宅と同番地に住む青年O(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になったこと。
1964年3月18日[263] - 身代金受け渡しの際に被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が石川の死刑判決の直後に脳出血で急死したこと。
1967年2月14日 - 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡したこと(享年83)。
1968年1月28日[263] - 主任検事の原正が浦和市の自宅にて脳出血で急死したこと。
1970年12月25日 - ハンガーストライキ4日目(1963年6月22日)の石川を診察したことのある川越署嘱託医が行方不明となった後、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見されたこと。
I養豚場時代の石川一雄の同僚で、石川と前後して別件逮捕され(1963年6月3日)、共犯容疑を追及され、1966年7月に証人として公判に出廷した被差別部落出身の青年TA(逮捕当時23歳)が行方不明になったとされること。
を加算し、変死者を12人と数える場合もある。ただし、青年TAについては身元を隠して千葉県に移住したことが確認されている。
12名もの犠牲者を出した「狭山事件」の総仕上げとして3月13日、石川さん本人が死亡した。
これを詳細に調べてゆくと、まさにどんでん返しのミステリーの連続で、いずれ映画になりそうな奇っ怪至極の事件だった。
実は、私は、1970年頃、名古屋の高校を中退して立川市に住んでいた。ここでは、反戦運動の新左翼とも大きな関わりを持っていて、狭山事件を運動課題にしていた中核派や反帝学評とも関わりがあった。
だから半世紀以上も前から、たくさんの情報に接していた。
ただ、部落解放運動とや新左翼は、無実の石川さんへの人間的な支援はそっちのけで、自分たちの党派的利害に拘泥し、とうてい世間一般の人々の連帯を引きだすような共感を持たれる運動とは無縁の対極、党派の独善的な自己顕示欲しか見えなかった。
世間は、狭山事件を暴力的な新左翼がかかわる、アンタッチャブルな存在と認識していた。
私は、もしも狭山事件に新左翼党派がかかわらなければ、広く国民的救援運動が成立し、とっくの昔に石川さんの冤罪が証明され、正義の結末を獲得できていたと思う。
新左翼党派のせいで、人々は狭山事件を、触れてはならない暴力団の抗争のように思い込まされてしまったのだ。とくに中核派はひどかった。
石川さんを有罪にした裁判官たちも、支援団体である新左翼党派に対する警戒心が、判決を石川さんに不利に導く心情を形成した可能性が強いと私は思う。
狭山事件は、党派や部落解放同盟が事件を弄んだ結果、石川さんを地獄に堕とす結果となった。純粋に正義の実現を求める人々を事件から遠ざけてしまった。
部落解放同盟は、その後、暴力団の利権と深く関わり、事実上、組織が乗っ取られてしまった。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h3207
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%9B%E5%90%8C%E5%92%8C%E8%A1%8C%E7%82%BA
これでは死刑と同じ…狭山事件の「無罪」訴えつつ石川一雄さん死去 再審制度見直しの「骨抜き」を防ぐには 東京新聞 2025年3月14日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/391614
◆「死刑執行になったのと同じ」
「悔しい」という声が東京高裁前で何度も響いた。石川さんの訃報を受けて13日午前に開かれた緊急行動。全国の支援者ら20人ほどが集まり、速やかな再審開始決定を訴えた。
石川さんの顔写真を掲げた即席の献花台に、好きだったというヒマワリに見立てた黄色のガーベラと白い菊の花束が置かれた。
「実質、死刑執行になったのと同じです」。最初にマイクを握った「石川一雄さんを支える埼玉東部市民の会」の事務局長、西田立郎さん(70)は、そう語気を強めた。命日となった11日は、ちょうど61年前に埼玉県の浦和地裁(現さいたま地裁)の死刑判決が出た日だった。
◆「部落差別に基づく冤罪事件」
事件は1963年5月1日に発生。狭山市で女子高生=当時(16)=が誘拐され、3日後に遺体で見つかった。
当時24歳だった石川さんは同月23日、窃盗などの別件容疑で逮捕された。1カ月間否認したが、取調官から兄の逮捕を示唆され「自白」した。
二審の東京高裁で「自白」を撤回し、無罪を主張したが、無期懲役が言い渡され、最高裁で確定。94年に55歳で仮釈放されるまで、31年以上、獄中で過ごした。
石川一雄さんの死去を受け、支援者らの前で話す金聖雄監督=13日、東京・霞が関の東京高裁前で(坂本亜由理撮影)
石川さんが被差別部落出身だったことから、支援者らは「差別に基づく冤罪(えんざい)事件だ」と訴えてきた。
2010年に石川さんと出会い、映画を撮ってきた金聖雄(キムソンウン)監督(61)は「石川さんは冤罪や部落解放運動の象徴。支援者の前で弱音を吐かず、闘志を見せていた」と振り返る。
◆「袴田さん再審無罪」喜びつつも…
ただ、加齢による衰えは避けられなかった。石川さんは両親のお墓参りは「無罪を勝ち取ったら」と決めていたが、「再審が始まったら」に変わったという。
昨年9月、1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)であった一家4人強盗殺人事件で確定死刑囚となった袴田巌さん(89)が、静岡地裁で再審無罪になった。
石川さんは駆けつけた時、両手でつえを突き、人に支えられながら歩くようになっていた。金さんは「友人の無罪に喜びつつ、切なそうな顔もしていた。『なぜ自分のは進まないのか』と思ったんじゃないか」と推し量る。
◆第3次請求、光明が見えてきた中で
支援者らによると、石川さんは昨年末に徳島県で肺炎になり、入院。その後、埼玉県の自宅に戻り、療養していた。
今年2月、「北埼玉地区狭山裁判を支援する市民の会」の事務局長、赤嶺菊江さん(70)に石川さんから電話があった。埼玉県議会で再審法(刑事訴訟法の再審規定)改正を求める意見書が通った日の深夜11時に「赤嶺さん、ご尽力ありがとう」と元気な声で語ったという。体調を心配していた赤嶺さん。「これだったら大丈夫」と感じた。
東京高裁で20年近く続く第3次再審請求の審理にも一筋の光明が見えていた。弁護団は、石川さん宅で発見された万年筆が被害者の使っていた物と異なるとして、新証拠となるインクの鑑定人尋問などを求めていた。これに対し、高裁が4月上旬にも判断を示す可能性が高まっていた。
◆「亡くなった場合は手続き終了」
しかし、11日の急逝で事態は一変した。13日午後、東京都中央区の部落解放同盟中央本部で支援者らの集会が開かれ、弁護団事務局長の竹下政行弁護士は「再審請求は大詰めまできているが、ご本人が亡くなった場合、手続き終了という決定になる」と説明した。
民事訴訟では親族らが引き継ぐ「受継(じゅけい)」の規定があるが、再審制度にはない。竹下弁護士によると「ゼロからのやり直しになる」。再審は、本人の死後に配偶者らが申し立てることはできるが、新たな手続きになるため、担当裁判官が代わる可能性もあるという。
竹下弁護士は「亡くなった後でも冤罪を雪(すす)ぐ再審の理念が実現できるように法改正すべきだという思いを強めた」と語った。
◆検察の不服申し立てで審理長期化
現行の再審法は、証拠開示のルールや審理の進め方に明確さを欠くことが大きな問題だ。検察側が重要な証拠の開示を拒否したり、再審開始決定に不服申し立てを繰り返したりできるため、審理の長期化につながっていると指摘されてきた。
先の袴田さんの場合、最初の再審請求から昨年10月の無罪確定までに43年もの歳月を要した。
86年に福井市の中学3年の女子生徒=当時(15)=が自宅で殺害された事件では、懲役7年が確定して服役した前川彰司(しょうし)さん(59)の再審の初公判が今月6日に名古屋高裁金沢支部で開かれ、検察側は有罪を立証する新証拠を提示せず、即日結審。無罪は確実とみられるが、裁判のやり直しを求めてから初公判まで20年余りかかった。
◆制度見直し「決め打ちではない」
こうした状況の中、石川さんの死で、再審制度の問題点がいっそう浮き彫りになっている。
袴田さんの無罪確定以降、70年以上見直されてこなかった再審法の改正を目指す動きが国会で活発になってきている。超党派の議員連盟は、再審法の改正案を議員立法で今国会に提出し、成立を目指す方針を示している。改正案骨子の「たたき台」には、再審請求審で証拠開示請求があった場合、裁判所は原則として検察に開示を命令できることや、再審開始決定に対する検察の不服申し立ては全て禁じることなどが盛り込まれている。
一方、政府側も、鈴木馨祐法相が2月7日の記者会見で、再審制度の見直しに関して法制審議会(法制審)に諮問する方針を示した。ただ結論の方向性に関しては「法整備をすべきだとか、すべきでないと決め打ちするということではない」と含みを持たせている。
日弁連再審法改正実現本部長代行の鴨志田祐美弁護士は、法務省の対応について「法制審で(問題に)取り組むことの意義を全面的に否定するわけではないが、(実質的な)内容を伴った法改正を実現できるかはかなり疑わしい」と指摘する。
◆「時すでに遅し」では被害者を救えない
鴨志田弁護士は「議員立法による法改正を最優先に進めるべきだ」とした上で、法制審での議論については、その後の検討作業も含めて骨抜きとならないよう「冤罪被害者本人やその家族、再審制度の問題に詳しい弁護士や再審の裁判に関わった人材を参加させる必要がある」と主張する。
甲南大の笹倉香奈教授(刑事訴訟法)は再審制度の現状について「冤罪の救済にはスピード感が不可欠だ。袴田さんの件などを含めて、無罪を求める当事者が高齢になってからの再審への取り組みになってしまってきているが、本来それでは遅い」と危機感をあらわにする。
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引用以上
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e9c688f47892c1e5b9627a993defdda64c07583
1963年の狭山事件で再審請求をしていた石川一雄さんが11日、86歳で死去した。無実を訴えて77年に第1次再審請求から47年余り。無期懲役が確定して94年に仮釈放された後も、冤罪(えんざい)を訴えて闘ってきた。再審開始の司法判断が相次ぎ、期待が高まる中、「次は狭山」を合言葉に体調不良を押して支援者らと懸命に活動してきたが、思いは実現しなかった。
石川さんは無期懲役の確定後の94年に仮出所。31年ぶりに埼玉県狭山市内の自宅に戻った。記者会見で「人生の最も大切な時期を奪われた無念さは言葉で言い表すことはできない」とした上で、「(罪を)認めれば10年で出してやるという約束を信じてうその自白をした」と主張していた。
無罪を訴え続けた石川さんは2023年10月に東京都千代田区で行われた集会で、体の衰えについて触れつつ「でも命はまだあります。無罪を勝ち取るまでは石川一雄は死にません」と宣言していた。
24年10月に静岡県一家4人殺害事件で再審無罪が確定した袴田巌さん(89)とは約6年間、東京拘置所で共に過ごし、「イワちゃん」と愛称で呼ぶ旧知の仲。無罪判決の際には静岡県に向かい、「完全無罪判決だと確信していた。ゆっくりと休んでください」とコメントを発表した。
「次は狭山という思い。袴田裁判と同じように再審開始、再審法改正の実現を目指す」と決意表明していた。
狭山事件では、2度にわたる再審請求が退けられ、06年から始まった第3次再審請求は今年で19年を迎える。弁護団は有罪判決の有力証拠だった石川さんの自宅から発見された被害者の女子高校生のものとされた万年筆の鑑定を実施。
被害者が当時使っていたインクと証拠の万年筆に入っていたインクの成分が異なることを蛍光エックス線分析に基づき示し、万年筆は被害者のものではないと主張した。
犯人が被害者宅に届けた脅迫状の筆跡についても、コンピューターによる筆跡鑑定で科学的に石川さんのものとは異なるとした証拠を提出し、鑑定人の証人尋問を要求。
今月上旬の三者協議後には、弁護団は「裁判所が(証人尋問を)実施するか否か判断する局面に来ている」との見解を示し、石川さんも「光が見えてきた」と期待を示していた。
再審制度を巡っては、検察側に証拠の開示が義務付けられていないことや検察側の抗告により再審開始が先延ばしされるなどの問題点が指摘されている。
狭山事件では、東京高検が逮捕当日の石川さんの上申書や取り調べの録音テープなどの証拠を断続的に開示してきたが一部にとどまり、石川さんや支援者らは制度改正も併せて訴えていた。
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引用以上
狭山事件とは
https://rekisiru.com/14981
被差別部落出身の石川一雄は、24歳当時、1963年5月1日、狭山市の女高生だった中田善枝を強姦し殺害したとして逮捕され、一審で死刑判決を受けた。二審では無期懲役に減刑されたが、最高裁でも無期懲役になり、以来30数年間服役した。
石川氏が、ろくな証拠もないまま逮捕された事情は、事件前の3月に「吉展ちゃん事件」の警察の大失態があり、当時の警察庁長官が引責辞任したことで、捜査員がひどく焦って、早期の犯人逮捕に焦っていたことが大きい。
当時の警察は、事件を科学的に解析するよりも、犯人と疑った者を無理矢理自白させて有罪にすることが最優先される雰囲気にあった。袴田事件と同じである。
これは、たぶん今でも続いていて、昨年でも、鹿児島県警本部長が捜査資料を隠滅する指示を行っている。警察は、何よりも自分たちのメンツを最優先させるのだ。
https://373news.com/news/local/detail/197112/
石川氏有罪の証拠は、3点挙げられている。
カバン、万年筆、腕時計が石川の自供により発見されたことは、犯人しか知り得ない物証として各判決の決め手となった。
腕時計については当初捜索のために発表された品名はシチズン・コニー(埼玉県警から特別重要品触として5月8日に手配された物はコニー6型で側番号C6803 2050678と個体識別情報があった)となっていたものが、実際に発見されたのはシチズン・ペット。つまりまったく別の物だった。
発見された万年筆は中に入っていたインクがブルーブラック。被害者が当日にペン習字の授業で使っていたとされるインクはライトブルー。
後に、再審請求で、弁護団はインクの科学鑑定を行い、蛍光分析により、まったく別のものであると証明したが、最高裁は石川が万年筆を盗んでからインクを入れ替えたと決めつけた。
また万年筆は、何度も家宅捜索が行われた自宅の鴨居から発見されたが、これは容易に発見できる位置だったのに、なぜか、かなり後に突然発見される。
警察側が最大の証拠とする脅迫状の筆跡が石川の筆跡と異なるものであることは明確であり、かつ、当時の石川には文字を書く能力がないに等しかった。
石川氏が学校教育を受けたのは小学校5年生までで、以降、養豚業などに就業している。ところが、文面は、日本語教育を受けた者しか書けない内容だった。
石川氏は、収監後、独学で日本語読み書きを習得している。
いずれも、最高裁が不可解で非科学的な決めつけで石川氏を犯人と断定しているが、まさに先入観による犯人決めつけだけがあり、科学的分析の視点が粗雑、倫理性の欠如、曖昧な根拠不明の判断で、まるで「素人の決めつけ」としかいえないものだ。
「部落民なら犯罪者に違いない」という思い込みが裁判官など司法関係者に蔓延していたのだ。(ウィキペディア参照)
警察は、犯行現場に近い養豚場の番犬が、事件前後の時間に吠えなかったことから、養豚場関係者が犯人と見立てをつけた。また、この地域が被差別部落だったことも警察官の先入観に大きな影響を与えていた。
実は、事件後、石川氏が逮捕拘禁されてから、石川氏に近い人たちに不可解な死者が多数が出ていた。
1963年から1977年にかけ、6人の狭山事件関係者が変死している。
1963年5月6日 - 被害者宅の元使用人 が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。
(石川氏は、事件の真犯人はこの男だろうと推察している)
1963年5月11日 - 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。なお、この通報者は石川一雄の競輪仲間であった。「つまりは、彼は石川氏に容疑が向けられ始めた直後に警察に現れたため、おそらくは『捜査かく乱を狙う人物』と疑われたのである」と伊吹隼人は推測している。
1964年7月14日 - 被害者の姉が農薬を飲んで自殺。
1966年10月24日 - 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の長兄 が西武新宿線入曽駅〜入間川駅間の踏切で電車に轢かれて自殺。
1977年10月4日 - 被害者の次兄が首を吊って自殺。
1977年12月21日 - 佐木隆三『ドキュメント狭山事件』の取材協力者として事件を追っていたルポライター集団「文珠社」のひとり片桐軍三 が暴行死とも見られる変死を遂げる。
さらに1963年5月 - 石川一雄宅と同番地に住む青年O(警察は彼と石川との共犯を疑っていた)が行方不明になったこと。
1964年3月18日[263] - 身代金受け渡しの際に被害者の姉の脇で犯人の声を聞いていた教育振興会会長が石川の死刑判決の直後に脳出血で急死したこと。
1967年2月14日 - 証拠品の腕時計の発見者である男性が控訴審の途中で死亡したこと(享年83)。
1968年1月28日[263] - 主任検事の原正が浦和市の自宅にて脳出血で急死したこと。
1970年12月25日 - ハンガーストライキ4日目(1963年6月22日)の石川を診察したことのある川越署嘱託医が行方不明となった後、タイの港に停泊中の船内で死亡しているのが発見されたこと。
I養豚場時代の石川一雄の同僚で、石川と前後して別件逮捕され(1963年6月3日)、共犯容疑を追及され、1966年7月に証人として公判に出廷した被差別部落出身の青年TA(逮捕当時23歳)が行方不明になったとされること。
を加算し、変死者を12人と数える場合もある。ただし、青年TAについては身元を隠して千葉県に移住したことが確認されている。
12名もの犠牲者を出した「狭山事件」の総仕上げとして3月13日、石川さん本人が死亡した。
これを詳細に調べてゆくと、まさにどんでん返しのミステリーの連続で、いずれ映画になりそうな奇っ怪至極の事件だった。
実は、私は、1970年頃、名古屋の高校を中退して立川市に住んでいた。ここでは、反戦運動の新左翼とも大きな関わりを持っていて、狭山事件を運動課題にしていた中核派や反帝学評とも関わりがあった。
だから半世紀以上も前から、たくさんの情報に接していた。
ただ、部落解放運動とや新左翼は、無実の石川さんへの人間的な支援はそっちのけで、自分たちの党派的利害に拘泥し、とうてい世間一般の人々の連帯を引きだすような共感を持たれる運動とは無縁の対極、党派の独善的な自己顕示欲しか見えなかった。
世間は、狭山事件を暴力的な新左翼がかかわる、アンタッチャブルな存在と認識していた。
私は、もしも狭山事件に新左翼党派がかかわらなければ、広く国民的救援運動が成立し、とっくの昔に石川さんの冤罪が証明され、正義の結末を獲得できていたと思う。
新左翼党派のせいで、人々は狭山事件を、触れてはならない暴力団の抗争のように思い込まされてしまったのだ。とくに中核派はひどかった。
石川さんを有罪にした裁判官たちも、支援団体である新左翼党派に対する警戒心が、判決を石川さんに不利に導く心情を形成した可能性が強いと私は思う。
狭山事件は、党派や部落解放同盟が事件を弄んだ結果、石川さんを地獄に堕とす結果となった。純粋に正義の実現を求める人々を事件から遠ざけてしまった。
部落解放同盟は、その後、暴力団の利権と深く関わり、事実上、組織が乗っ取られてしまった。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h3207
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%9B%E5%90%8C%E5%92%8C%E8%A1%8C%E7%82%BA
これでは死刑と同じ…狭山事件の「無罪」訴えつつ石川一雄さん死去 再審制度見直しの「骨抜き」を防ぐには 東京新聞 2025年3月14日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/391614
◆「死刑執行になったのと同じ」
「悔しい」という声が東京高裁前で何度も響いた。石川さんの訃報を受けて13日午前に開かれた緊急行動。全国の支援者ら20人ほどが集まり、速やかな再審開始決定を訴えた。
石川さんの顔写真を掲げた即席の献花台に、好きだったというヒマワリに見立てた黄色のガーベラと白い菊の花束が置かれた。
「実質、死刑執行になったのと同じです」。最初にマイクを握った「石川一雄さんを支える埼玉東部市民の会」の事務局長、西田立郎さん(70)は、そう語気を強めた。命日となった11日は、ちょうど61年前に埼玉県の浦和地裁(現さいたま地裁)の死刑判決が出た日だった。
◆「部落差別に基づく冤罪事件」
事件は1963年5月1日に発生。狭山市で女子高生=当時(16)=が誘拐され、3日後に遺体で見つかった。
当時24歳だった石川さんは同月23日、窃盗などの別件容疑で逮捕された。1カ月間否認したが、取調官から兄の逮捕を示唆され「自白」した。
二審の東京高裁で「自白」を撤回し、無罪を主張したが、無期懲役が言い渡され、最高裁で確定。94年に55歳で仮釈放されるまで、31年以上、獄中で過ごした。
石川一雄さんの死去を受け、支援者らの前で話す金聖雄監督=13日、東京・霞が関の東京高裁前で(坂本亜由理撮影)
石川さんが被差別部落出身だったことから、支援者らは「差別に基づく冤罪(えんざい)事件だ」と訴えてきた。
2010年に石川さんと出会い、映画を撮ってきた金聖雄(キムソンウン)監督(61)は「石川さんは冤罪や部落解放運動の象徴。支援者の前で弱音を吐かず、闘志を見せていた」と振り返る。
◆「袴田さん再審無罪」喜びつつも…
ただ、加齢による衰えは避けられなかった。石川さんは両親のお墓参りは「無罪を勝ち取ったら」と決めていたが、「再審が始まったら」に変わったという。
昨年9月、1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)であった一家4人強盗殺人事件で確定死刑囚となった袴田巌さん(89)が、静岡地裁で再審無罪になった。
石川さんは駆けつけた時、両手でつえを突き、人に支えられながら歩くようになっていた。金さんは「友人の無罪に喜びつつ、切なそうな顔もしていた。『なぜ自分のは進まないのか』と思ったんじゃないか」と推し量る。
◆第3次請求、光明が見えてきた中で
支援者らによると、石川さんは昨年末に徳島県で肺炎になり、入院。その後、埼玉県の自宅に戻り、療養していた。
今年2月、「北埼玉地区狭山裁判を支援する市民の会」の事務局長、赤嶺菊江さん(70)に石川さんから電話があった。埼玉県議会で再審法(刑事訴訟法の再審規定)改正を求める意見書が通った日の深夜11時に「赤嶺さん、ご尽力ありがとう」と元気な声で語ったという。体調を心配していた赤嶺さん。「これだったら大丈夫」と感じた。
東京高裁で20年近く続く第3次再審請求の審理にも一筋の光明が見えていた。弁護団は、石川さん宅で発見された万年筆が被害者の使っていた物と異なるとして、新証拠となるインクの鑑定人尋問などを求めていた。これに対し、高裁が4月上旬にも判断を示す可能性が高まっていた。
◆「亡くなった場合は手続き終了」
しかし、11日の急逝で事態は一変した。13日午後、東京都中央区の部落解放同盟中央本部で支援者らの集会が開かれ、弁護団事務局長の竹下政行弁護士は「再審請求は大詰めまできているが、ご本人が亡くなった場合、手続き終了という決定になる」と説明した。
民事訴訟では親族らが引き継ぐ「受継(じゅけい)」の規定があるが、再審制度にはない。竹下弁護士によると「ゼロからのやり直しになる」。再審は、本人の死後に配偶者らが申し立てることはできるが、新たな手続きになるため、担当裁判官が代わる可能性もあるという。
竹下弁護士は「亡くなった後でも冤罪を雪(すす)ぐ再審の理念が実現できるように法改正すべきだという思いを強めた」と語った。
◆検察の不服申し立てで審理長期化
現行の再審法は、証拠開示のルールや審理の進め方に明確さを欠くことが大きな問題だ。検察側が重要な証拠の開示を拒否したり、再審開始決定に不服申し立てを繰り返したりできるため、審理の長期化につながっていると指摘されてきた。
先の袴田さんの場合、最初の再審請求から昨年10月の無罪確定までに43年もの歳月を要した。
86年に福井市の中学3年の女子生徒=当時(15)=が自宅で殺害された事件では、懲役7年が確定して服役した前川彰司(しょうし)さん(59)の再審の初公判が今月6日に名古屋高裁金沢支部で開かれ、検察側は有罪を立証する新証拠を提示せず、即日結審。無罪は確実とみられるが、裁判のやり直しを求めてから初公判まで20年余りかかった。
◆制度見直し「決め打ちではない」
こうした状況の中、石川さんの死で、再審制度の問題点がいっそう浮き彫りになっている。
袴田さんの無罪確定以降、70年以上見直されてこなかった再審法の改正を目指す動きが国会で活発になってきている。超党派の議員連盟は、再審法の改正案を議員立法で今国会に提出し、成立を目指す方針を示している。改正案骨子の「たたき台」には、再審請求審で証拠開示請求があった場合、裁判所は原則として検察に開示を命令できることや、再審開始決定に対する検察の不服申し立ては全て禁じることなどが盛り込まれている。
一方、政府側も、鈴木馨祐法相が2月7日の記者会見で、再審制度の見直しに関して法制審議会(法制審)に諮問する方針を示した。ただ結論の方向性に関しては「法整備をすべきだとか、すべきでないと決め打ちするということではない」と含みを持たせている。
日弁連再審法改正実現本部長代行の鴨志田祐美弁護士は、法務省の対応について「法制審で(問題に)取り組むことの意義を全面的に否定するわけではないが、(実質的な)内容を伴った法改正を実現できるかはかなり疑わしい」と指摘する。
◆「時すでに遅し」では被害者を救えない
鴨志田弁護士は「議員立法による法改正を最優先に進めるべきだ」とした上で、法制審での議論については、その後の検討作業も含めて骨抜きとならないよう「冤罪被害者本人やその家族、再審制度の問題に詳しい弁護士や再審の裁判に関わった人材を参加させる必要がある」と主張する。
甲南大の笹倉香奈教授(刑事訴訟法)は再審制度の現状について「冤罪の救済にはスピード感が不可欠だ。袴田さんの件などを含めて、無罪を求める当事者が高齢になってからの再審への取り組みになってしまってきているが、本来それでは遅い」と危機感をあらわにする。
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