私は菜食主義ではない。むしろ焼き鳥やモツが大好きだった。なにせ、若い頃は立川駅前の在日経営の大衆食堂で、モツ定食ばかり注文するので、「モツライスのにーちゃん」と呼ばれていたくらいだ。
国立のウナちゃんやマッちゃんにも足繁く通った。
しかし、名古屋に帰り40歳を迎えるあたりで、ある日、突然、膝に激痛が走り、まともに歩けなくなった。整形外科に向かったが、7つの病院、医院を訪れても、原因不明のままだった。
ある日、山仲間の石川外科医師が「そりゃ痛風だ」と教えてくれた。石川さんがアロプリノールをたくさんくれて、それを飲んだら治った。
ほとんどの医師が、痛風は足の親指の付け根が腫れて変形する病気で、膝から発症する人間がいることを知らなかったのだ。
結局、私の場合は、長年の登山で、膝関節が変形し、絶えず炎症を起こしていたところに尿酸が好んで溜まったというわけだ。
私が痛風を発症した素因が子どものうちにあった。それは幼稚園のころ、激しい膀胱炎から腎炎を起こして入院した経験があるということだ。
医者は、成人するあたりで、再び慢性腎炎に移行すると予告し、運動を回避し、安静を勧めた。
成人して、尿蛋白検査紙を使うと、いつでも濃い緑色で、プラスが2つより悪かった。この腎機能低下が、尿酸の増加を招いて痛風になりやすかった可能性がある。
医者は、安静にしておかないと、腎不全になると脅したが、もちろん根っからの天邪鬼である私が、言うことを聞くわけがない。
私は医師の指示を無視して、日本百名山制覇を人生の課題に据えた。アルプスの沢登りやロッククライミングに夢中になった。
実は、「尿蛋白がひどいと安静にしなければならない」という医学常識は、嘘だったことが後に判明した。むしろ運動しなければならず、腎不全は運動によって改善、回復する可能性があったのだ。
今では、腎不全の患者には、必ず運動療法が勧められている。
https://jinentai.com/ckd/tips/5_5.html
医療側は、透析が儲かる仕組みになっているので、腎臓が悪化した患者に対し、何よりも透析を勧めるのが普通だが、いったん透析に移行してしまうと、もう回復の可能性が薄いので、医療側の金儲け欲に騙されてはいけない。
私は、自分の健康を総括して、結局、体を治す基本はホメオスタシスであり、それは体液の循環によってなされると確信した。
体液の循環とは、すなわち、下腿に溜まった血液を心臓に送り返し、循環を活性化させることだ。つまりふくらはぎの筋肉運動、それは歩くことなのだ。
さまざまな文献を調べてみると、悪化した腎臓を回復させるのに、一番有効な治療法は、歩行運動による体液循環であることがわかった。
そして、乏尿・無尿などの症状に対しては、五苓散という漢方薬が有効であることがわかった。五苓散は、これまで、どれくらい私を救ってくれたかわからない。
私は、痛風や慢性腎炎の結果、動物性タンパク質を過剰に摂取すると、乏尿を引き起こし、腎臓が腫れて周囲を圧迫するので強い腰痛を起こす体質になってしまった。
動物性蛋白、とりわけ悪いのが、リン酸塩が添加物になっている、練り物、ソーセージ類、ツナ缶、魚類加工品などだ。
こんなものを食べると、尿量が減り、朝起きる時、ひどい腰痛と背中が石板になったように硬化する現象が現れる。
そこで、やっと今回のブログの主題だが、精進食=ビーガン=菜食主義者になるしか生き残れなくなった私にとって、精進食がどんな意味を持つのかということだ。
以下は、比叡山、酒井雄哉の千日回峰行をNHKが特集したときの動画だ。
https://www.youtube.com/watch?v=SBczUgzi5uI&list=PLXzXI8bf-yD4xAAa1Bf3RqYrL7hP2-N9R&index=7
このなかに酒井さんの回峰行の食事が出てくる。比叡山なので、もちろんビーガンのなかのビーガン食だ。
https://www.youtube.com/watch?v=SFijNPBQ9oc&list=PLXzXI8bf-yD4xAAa1Bf3RqYrL7hP2-N9R&index=2
(8分20秒くらい)
酒井さんの行は、一日40~80Kmの歩行行を約千日、9年間かけて行うというもので、それを二回続けたの行者は、過去600年間に二人しか記録されていない。
驚いたのは、その食事で18年間メニューが変わらないのだが、一日二食、じゃがいも2個、うどん半玉、胡麻豆腐だけだ。
「これで80Km(京都大回り)を歩くのか」と驚愕させられた。
以下に、ひろゆきのユーチューブコンテンツで、ビーガンは栄養障害を起こすというものを紹介するが、これが世間一般の常識、あるいは医学常識であるとするなら、それは真っ赤なウソということになってしまう。
神回!ヴィーガンからの反論…たんぱく質は豆で十分なの?多角的に論破するひろゆき【切り抜き/論破】
https://www.youtube.com/watch?v=kVh_7vYuIGM
「おい、ひろゆき! 酒井さんになんか言ってみろ!」
と言いたくなる。結局、栄養学、医学の常識なんて、千日回峰行者の前には何の役にも立っていない。
行者たちは、栄養学が裸足で逃げ出すような低栄養で過酷な行を実行するのだ。ということは、大昔から言われていることだが、精神力が物質界の上にあることを意味している。
となると、インパール作戦司令官の牟田口廉也が、「食事などなくても、大和魂があれば勝てた」という敗戦弁明を見直さなければならなくなるが、それは牟田口が食事を抜いて、大和魂だけで生き抜いてから言うべきものだ。
まあ、精進食、ビーガン食の栄養学を出されても、仏教行者には通用しない。
よく寺の入口に、「葷酒山門に入るを禁ず」という石柱が立っているのだが、ニラ、ネギ、酒を食べたものは来るな! といっているわけだ。
肉や酒だけじゃなく、薬味までアカンのか…。ちょっとやりすぎに見えるが、ビーガンも裸足で逃げ出す精進食は、このようなものだ。
まあ、腎臓の悪い私は、酒と薬味を絶たれては生きてゆけないので、せめて肉魚くらいの禁止にしてほしい。
肉魚を食べると地獄に落とされるのだが、せめて酒だけは…。
結局、精進食、ビーガン食が成立した理由はなんだろう?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
上のリンクに書かれていること
「ヴィーガニズムとは、可能な限り、食物、衣類、その他の目的のために動物を搾取し、虐待するあらゆる形態を排除しようとする哲学であり、生き方」である。
この思想は、1944年に設立されたヴィーガン協会によって定義され、1951年には副会長レスリー・クロスによって明確に言語化された。
クロスは、ヴィーガニズムを「動物の搾取をやめることを目的とした、人間と動物との関係の是正を求める主義」と定義し、単なる食習慣ではなく、動物を資源・手段・商品として扱う人間中心の思考そのものを否定する倫理運動であると位置づけた 。
ヴィーガニズムは、動物に対する自由と解放を求める思想であり、衣食住の選択はこの原則に従って派生するものである。健康や環境、福祉の観点ではなく、「動物は搾取の対象ではない」という絶対的な道徳的立場に基づいている。
*******************************************************************
一部抜粋引用以上
つまり、人間も動物も同じ生命なんだから、同じように大切にし、動物を搾取する人間活動や食事を廃止しようという運動だ。
基本的な意味としては、仏教精進食の本質と同じもので、「すべての命を大切にする」という理念から導かれている。
私は、動物食が大好きだったのだが、動物食をすると自分の命を脅かされるため、無理やりビーガンの道を歩むことになった。
今では酒のつまみであっても、枝豆か厚揚げになっている。
しかし、事実上のビーガン、強いタンパク質制限食になってから考えてみると、実際に、「動物の命を人間のために利用する」ことが生きるために必要なことだとは思えなくなった。
ヒロユキのいう、「ビーガンは健康に悪い」は、日本のあらゆる精進食グループ、行者たちが、嘘だと証明している。
やはり、人間は、動物食を排除しても問題なく生きて行けるのだ。精進食の僧は長寿でも知られている。短命とかの情報は見たことがない。おまけに認知症も聞いたことがないのだ。
実は、私も街なかで焼き鳥の臭いがするだけで、唾を飲み込まねばならず、今の願いは、再び、国立のウナちゃんで鰻肝を食べたいということなのだが、動物食を食べれば、翌日に腰痛で苦しむことを思うと、願いは星のごとく遠く離れ、本当に辛い。
私は動物食に未練たらたらだが、植物食になってから考えると、無理やり動物の命を絶って、それを利用するという発想は、結局、人間界にもカルマとして還ってくるのだと確信するようになった。
私は革製品は嫌いではない。しかし、生活の必要性はない。代替品としての布製で十分だ。
食事も動物食である必要はない。タンパク質も豆で十分であることを酒井雄哉が証明してくれた。
ビーガン協会が1944年に声明したように、人間が動物を搾取して利用するというライフスタイルは、命に対する冒涜であることが朧気にわかってきた。
そんなことをしていれば、同じ人間も、かつての奴隷制度のように利用対象
としてしか見えなくなり、そのことは、自分の人生も利用対象としてしか見られなくなるのではないだろうか?
人間が行った罪は、寸分の狂いもなく自分の人生にカルマとして還ってくる。
これが釈迦の教えだ。動物を虐待し、搾取し、利用するという思想も、結局は自分に還ってくる。
動物を日常的に利用していれば、自分自身も利用対象とするようになり、役に立たなくなれば価値がないのだから死んでしまえ、殺してしまえという理屈が自然に出てくる。
これが神谷宗幣のいう「安楽死=尊厳死」だと、この数回、書き続けている。
逆に、地球上のすべての命を尊敬し、大切にするという価値観が、自分自身をも救うことになるように思う。
日本人は、動物に対し「可愛い、可哀想」という感覚的接触を行う人が多い。対して、かつて奴隷制度のあった国では、「利用できなくなれば価値がない」という価値観が「理性」として捉えられている。
日本人は、利用価値よりも「可愛い」価値の方が上なのだ。
この日本人の思想が、世界中からインバウンドを引き寄せている、つまり世界は、「可愛い」を大切にするビーガンの世界へとシフトしているのではないだろうか?
国立のウナちゃんやマッちゃんにも足繁く通った。
しかし、名古屋に帰り40歳を迎えるあたりで、ある日、突然、膝に激痛が走り、まともに歩けなくなった。整形外科に向かったが、7つの病院、医院を訪れても、原因不明のままだった。
ある日、山仲間の石川外科医師が「そりゃ痛風だ」と教えてくれた。石川さんがアロプリノールをたくさんくれて、それを飲んだら治った。
ほとんどの医師が、痛風は足の親指の付け根が腫れて変形する病気で、膝から発症する人間がいることを知らなかったのだ。
結局、私の場合は、長年の登山で、膝関節が変形し、絶えず炎症を起こしていたところに尿酸が好んで溜まったというわけだ。
私が痛風を発症した素因が子どものうちにあった。それは幼稚園のころ、激しい膀胱炎から腎炎を起こして入院した経験があるということだ。
医者は、成人するあたりで、再び慢性腎炎に移行すると予告し、運動を回避し、安静を勧めた。
成人して、尿蛋白検査紙を使うと、いつでも濃い緑色で、プラスが2つより悪かった。この腎機能低下が、尿酸の増加を招いて痛風になりやすかった可能性がある。
医者は、安静にしておかないと、腎不全になると脅したが、もちろん根っからの天邪鬼である私が、言うことを聞くわけがない。
私は医師の指示を無視して、日本百名山制覇を人生の課題に据えた。アルプスの沢登りやロッククライミングに夢中になった。
実は、「尿蛋白がひどいと安静にしなければならない」という医学常識は、嘘だったことが後に判明した。むしろ運動しなければならず、腎不全は運動によって改善、回復する可能性があったのだ。
今では、腎不全の患者には、必ず運動療法が勧められている。
https://jinentai.com/ckd/tips/5_5.html
医療側は、透析が儲かる仕組みになっているので、腎臓が悪化した患者に対し、何よりも透析を勧めるのが普通だが、いったん透析に移行してしまうと、もう回復の可能性が薄いので、医療側の金儲け欲に騙されてはいけない。
私は、自分の健康を総括して、結局、体を治す基本はホメオスタシスであり、それは体液の循環によってなされると確信した。
体液の循環とは、すなわち、下腿に溜まった血液を心臓に送り返し、循環を活性化させることだ。つまりふくらはぎの筋肉運動、それは歩くことなのだ。
さまざまな文献を調べてみると、悪化した腎臓を回復させるのに、一番有効な治療法は、歩行運動による体液循環であることがわかった。
そして、乏尿・無尿などの症状に対しては、五苓散という漢方薬が有効であることがわかった。五苓散は、これまで、どれくらい私を救ってくれたかわからない。
私は、痛風や慢性腎炎の結果、動物性タンパク質を過剰に摂取すると、乏尿を引き起こし、腎臓が腫れて周囲を圧迫するので強い腰痛を起こす体質になってしまった。
動物性蛋白、とりわけ悪いのが、リン酸塩が添加物になっている、練り物、ソーセージ類、ツナ缶、魚類加工品などだ。
こんなものを食べると、尿量が減り、朝起きる時、ひどい腰痛と背中が石板になったように硬化する現象が現れる。
そこで、やっと今回のブログの主題だが、精進食=ビーガン=菜食主義者になるしか生き残れなくなった私にとって、精進食がどんな意味を持つのかということだ。
以下は、比叡山、酒井雄哉の千日回峰行をNHKが特集したときの動画だ。
https://www.youtube.com/watch?v=SBczUgzi5uI&list=PLXzXI8bf-yD4xAAa1Bf3RqYrL7hP2-N9R&index=7
このなかに酒井さんの回峰行の食事が出てくる。比叡山なので、もちろんビーガンのなかのビーガン食だ。
https://www.youtube.com/watch?v=SFijNPBQ9oc&list=PLXzXI8bf-yD4xAAa1Bf3RqYrL7hP2-N9R&index=2
(8分20秒くらい)
酒井さんの行は、一日40~80Kmの歩行行を約千日、9年間かけて行うというもので、それを二回続けたの行者は、過去600年間に二人しか記録されていない。
驚いたのは、その食事で18年間メニューが変わらないのだが、一日二食、じゃがいも2個、うどん半玉、胡麻豆腐だけだ。
「これで80Km(京都大回り)を歩くのか」と驚愕させられた。
以下に、ひろゆきのユーチューブコンテンツで、ビーガンは栄養障害を起こすというものを紹介するが、これが世間一般の常識、あるいは医学常識であるとするなら、それは真っ赤なウソということになってしまう。
神回!ヴィーガンからの反論…たんぱく質は豆で十分なの?多角的に論破するひろゆき【切り抜き/論破】
https://www.youtube.com/watch?v=kVh_7vYuIGM
「おい、ひろゆき! 酒井さんになんか言ってみろ!」
と言いたくなる。結局、栄養学、医学の常識なんて、千日回峰行者の前には何の役にも立っていない。
行者たちは、栄養学が裸足で逃げ出すような低栄養で過酷な行を実行するのだ。ということは、大昔から言われていることだが、精神力が物質界の上にあることを意味している。
となると、インパール作戦司令官の牟田口廉也が、「食事などなくても、大和魂があれば勝てた」という敗戦弁明を見直さなければならなくなるが、それは牟田口が食事を抜いて、大和魂だけで生き抜いてから言うべきものだ。
まあ、精進食、ビーガン食の栄養学を出されても、仏教行者には通用しない。
よく寺の入口に、「葷酒山門に入るを禁ず」という石柱が立っているのだが、ニラ、ネギ、酒を食べたものは来るな! といっているわけだ。
肉や酒だけじゃなく、薬味までアカンのか…。ちょっとやりすぎに見えるが、ビーガンも裸足で逃げ出す精進食は、このようなものだ。
まあ、腎臓の悪い私は、酒と薬味を絶たれては生きてゆけないので、せめて肉魚くらいの禁止にしてほしい。
肉魚を食べると地獄に落とされるのだが、せめて酒だけは…。
結局、精進食、ビーガン食が成立した理由はなんだろう?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
上のリンクに書かれていること
「ヴィーガニズムとは、可能な限り、食物、衣類、その他の目的のために動物を搾取し、虐待するあらゆる形態を排除しようとする哲学であり、生き方」である。
この思想は、1944年に設立されたヴィーガン協会によって定義され、1951年には副会長レスリー・クロスによって明確に言語化された。
クロスは、ヴィーガニズムを「動物の搾取をやめることを目的とした、人間と動物との関係の是正を求める主義」と定義し、単なる食習慣ではなく、動物を資源・手段・商品として扱う人間中心の思考そのものを否定する倫理運動であると位置づけた 。
ヴィーガニズムは、動物に対する自由と解放を求める思想であり、衣食住の選択はこの原則に従って派生するものである。健康や環境、福祉の観点ではなく、「動物は搾取の対象ではない」という絶対的な道徳的立場に基づいている。
*******************************************************************
一部抜粋引用以上
つまり、人間も動物も同じ生命なんだから、同じように大切にし、動物を搾取する人間活動や食事を廃止しようという運動だ。
基本的な意味としては、仏教精進食の本質と同じもので、「すべての命を大切にする」という理念から導かれている。
私は、動物食が大好きだったのだが、動物食をすると自分の命を脅かされるため、無理やりビーガンの道を歩むことになった。
今では酒のつまみであっても、枝豆か厚揚げになっている。
しかし、事実上のビーガン、強いタンパク質制限食になってから考えてみると、実際に、「動物の命を人間のために利用する」ことが生きるために必要なことだとは思えなくなった。
ヒロユキのいう、「ビーガンは健康に悪い」は、日本のあらゆる精進食グループ、行者たちが、嘘だと証明している。
やはり、人間は、動物食を排除しても問題なく生きて行けるのだ。精進食の僧は長寿でも知られている。短命とかの情報は見たことがない。おまけに認知症も聞いたことがないのだ。
実は、私も街なかで焼き鳥の臭いがするだけで、唾を飲み込まねばならず、今の願いは、再び、国立のウナちゃんで鰻肝を食べたいということなのだが、動物食を食べれば、翌日に腰痛で苦しむことを思うと、願いは星のごとく遠く離れ、本当に辛い。
私は動物食に未練たらたらだが、植物食になってから考えると、無理やり動物の命を絶って、それを利用するという発想は、結局、人間界にもカルマとして還ってくるのだと確信するようになった。
私は革製品は嫌いではない。しかし、生活の必要性はない。代替品としての布製で十分だ。
食事も動物食である必要はない。タンパク質も豆で十分であることを酒井雄哉が証明してくれた。
ビーガン協会が1944年に声明したように、人間が動物を搾取して利用するというライフスタイルは、命に対する冒涜であることが朧気にわかってきた。
そんなことをしていれば、同じ人間も、かつての奴隷制度のように利用対象
としてしか見えなくなり、そのことは、自分の人生も利用対象としてしか見られなくなるのではないだろうか?
人間が行った罪は、寸分の狂いもなく自分の人生にカルマとして還ってくる。
これが釈迦の教えだ。動物を虐待し、搾取し、利用するという思想も、結局は自分に還ってくる。
動物を日常的に利用していれば、自分自身も利用対象とするようになり、役に立たなくなれば価値がないのだから死んでしまえ、殺してしまえという理屈が自然に出てくる。
これが神谷宗幣のいう「安楽死=尊厳死」だと、この数回、書き続けている。
逆に、地球上のすべての命を尊敬し、大切にするという価値観が、自分自身をも救うことになるように思う。
日本人は、動物に対し「可愛い、可哀想」という感覚的接触を行う人が多い。対して、かつて奴隷制度のあった国では、「利用できなくなれば価値がない」という価値観が「理性」として捉えられている。
日本人は、利用価値よりも「可愛い」価値の方が上なのだ。
この日本人の思想が、世界中からインバウンドを引き寄せている、つまり世界は、「可愛い」を大切にするビーガンの世界へとシフトしているのではないだろうか?

コメント
ヴィーガンを教条主義的だと言って嫌う人たちが増えている様に感じます。
でも私には「ヴィーガン嫌悪」は「一切の殺生を避けたい」という精神を偽善的だと感じる人々が少なからず居て、そうした人たちは
自分たちの肉食を咎められている様な気がして反発しているのだと思える。(おそらく自分の深いところにある罪悪感を刺激されるのでしょう。
ちなみに私は幼い頃から肉を食べない子でした。肉が死体の切り身だと感じて気持ち悪くて食べられないのです。当然魚も食べられません。でも鰹の出汁とかまで避けるのは厳しいのでそこは諦めています。(うどん・そば等も外食できなくなるので・・。)
卵(有精卵を除く)や乳製品は食べます。
理由は殺さないから。
罪悪感というより、死体の一部だと思うと(そう思わない様にできないのです。)気持ち悪くて食べられないのです。
革製品や毛皮も死体の一部だと思うと触りたくないので買いません。(合成皮革やフェイクファー製品もありますし・・。)
そのおかげか大病をしたことがなく、血液検査に引っかかったこともありません。(めったに
健康診断は受けませんが・・。)
アマさんも「肉・魚は死体の一部だ」と思えば
食べたい気持ちも減るかもしれません。
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