うつ病とは何か?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85

  https://kokoro.ncnp.go.jp/disease.php?@uid=9D2BdBaF8nGgVLbL

 ほとんど無数ともいえる解説がネット上を飛び回っているにもかかわらず、私が本質を見抜いていると思ったサイトは非常に少ない。
 私は、非常にひどい重度のうつ病になった。今でも完治しているとはいえない。私と同じ状態になったなら、半数くらいが自殺するだろうと思う。同じ苦しみを共有する人たちに、この経験を解説しておきたい。

 私は、うつ病体質というものがあると確信している。それは私自身の体験からだ。
 私が初めてうつ病にかかったのは、小学生のときで、それは、大正生まれで、戦争帰りの父に、軍隊式の価値観、立身出世主義の価値観で、対応されていたとき、心優しい母に依存したいことで精神的に追い詰められ、逃避的行動をとる習慣になったことが土台にある。

 父親は、軍隊経験から子供に対してパワーハラスメント的に接することが多かったが、父は職場で愛人を作り、多忙もあって、私と接する時間は非常に少なかった。
 私は、家に母と祖母と、女姉妹しかいなくて、自然に女性的思考法になった。
 そんな私に対し、父は、不快感を示すばかりだった。私は、なるべく父と接しないように務めた。

 私の家があった地域は、江戸時代に処刑場があった場所で、図書館で古文献を調べたら、古地図にも郷土史にも、地名もすべて削除されていたことに驚いた。
 教育委員会は、歴史的事実と直接向き合うことを避けて、ひたすら隠蔽に走っていた。部落差別に対しては、そんなものは存在しないと証拠隠滅を繰り返していた。

 もう半世紀以上も前のことだから、当時の為政者の体質、姿勢を知っている人も少ないだろう。
 日本社会は、事実を向き合わず、事実を消去したり歪曲したりする体質があることを知っておく必要がある。都合の悪い事実は消してしまうのだ。

 私の実家のあった名古屋市中村区は、在日朝鮮韓国人の比率が極めて高い。 私が通った小学校の、クラスの半分くらいが在日系だったと思う。
 朝鮮総連や民団支部など、すべて近鉄沿いの旧スラム街に存在した。ここは、処刑場の影響で、地元の人達は住まなかったからだ。

 1910年の朝鮮併合のとき、約300万人の朝鮮民(大韓帝国民)が日本にやってきた。理由は、日本の青年男子の多くが徴兵されて「大東亜共栄圏構想」の下で東アジアに連れて行かれ、軍需産業の担い手が人手不足になったからだ。
 中村区の場合、岩塚に三菱重工があった。ここで数万人規模の朝鮮移民が働き、零戦の機体などを生産していた。(三菱重工は、港区大江、北区大曽根地区にも大工場があった)

 敗戦後、朝鮮独立後も、彼らは表向きは母国に帰還したように報じられているが、実際には帰国しなかった。とりわけ女性は帰還を嫌った。
 朝鮮社会は儒教の影響で、男尊女卑、権威主義で他人を見下す社会だったからだ。
 それに、日本の朝鮮総督府が朝鮮社会に生活インフラを整備する前は、ソウルですらトイレのある家が半数に満たず、路上排泄が普通で、日本社会の清潔さに慣れた移民たちにとって、帰還先は不潔な地獄のように思えたからだ。

 中村区は、たぶん半数以上が朝鮮移民の子孫で占められている。今から60年前、私が小学生の頃、もう戦後20年を経ていたが、朝鮮移民たちは、正村竹一の開発したパチンコ産業か、中村区大門にあった一大赤線地帯の仕事に従事していた。
 赤線の仕事といえば、ほとんど暴力団関係者だった。

 私が通った小学校では、クラスの半分が、そうした在日者子弟だった。男子の多くが暴力団子弟だった。私は、そんな彼らに激しくイジメを受けた。
 在日の暴力団員は、朝鮮儒教の序列主義の犠牲者でもあったから、自分の子供に対してもパワハラを行使してイジメたので、子供たちがイジメの加害者になることも自然な成り行きだった。

 新潟出身の心優しい母に育てられた私は、彼らのイジメの標的になったのだ。私が学校に通うのは、まるで毎日殴られ、イジメに遭いに行くようなものだった。
 その結果、私は小学生のうちに、強い鬱病に苛まれることになった。
 現実の毎日殴られに通うような生活のなかで、精神的逃避、妄想に取り込まれるようになった。

 人間というのは、苦しみに遭うと、真正面から解決できなければ、心が遠く離脱し、妄想の世界に生きることもある。これが鬱病なのだ。
 そして、心が離脱、分裂するような過酷さを経験すると、それが習慣になってしまう。
 子供のときに、鬱病や心の離脱を体験すると、それが生涯のクセになってしまう。

 離脱や妄想とはどんなものかというと、自分が特別な存在になったかのような夢を見ることが多い。例えば、自分が空手の達人になったとか、世界一優れた科学者になったとかの妄想だ。妄想と現実の区別がつかなくなってしまうのだ。
 「だから、自分は救われている」という心の麻薬のようなものだ。

 私は、そんな妄想に苛まれて生きてきて、もちろん、現実との乖離を思い知らされて、心の安定を得ることもあるのだが、少し、困難や絶望を感じることがあると、離脱や妄想の習慣が復活してしまう。

 まあ、私は自分への妄想が現実になるかのようにも努力した。私は、一人で困難な登山や冬山やクライミングに熱中し、記録的な冒険をしてみたいと思うようになった。
 当時は、植村直己とか小西政継とか長谷川恒夫とかの中卒でありながら世界的に評価される人たちがいた。自分もそうなりたいと思った。
 単独登山が良かったのは、誰からも評価されないということで、文句をいわれず自分の世界を確立できたからだ。

 まあ、大企業に就職して安泰な生活をする一般的な価値観には興味がなかった。父親が「末は博士か大臣か」という昭和初期の立身出世価値観を押し付けようとしていたので、強い反発があり、生涯を誰からも評価されないアウトローでいたいと思ったのだ。

 アルプスの単独、厳冬期大縦走とか、困難な沢登りとかを繰り返して、私は自信をつけ、心の離脱習慣のある鬱病を克服していった。
 私は、自分の心の弱点を知られたくなかったので、徹底的に単独行だった。

 中津川市に移住して、私の望む人生を送れているかのように満足していた2014年に、浄化槽や目の前の池でユスリカの大発生があった。
 それは2011年の原発事故後から起きていたのだが、深刻な事態になったのが2014年だった。なぜ大発生したのかは原因不明だったが、浄化槽汚泥が関係していたかもしれない。

 もともと、アレルギー喘息体質だった私は、目に見えるか見えないか程度のユスリカの死骸を吸い込んで、激しいアレルギー喘息を起こした。
 このとき、室内に大量の化学物質の煤が入り込んでいるのに気づき、近辺の発生源を調べると、すぐ近所の「嫌がらせ大王」と呼んでいたA老人が、庭で化学物質を燃しているのを目撃した。彼は私が見ていることに気づくと、慌てて中断した。

 ちなみに、Aは、豊明一家4人殺人事件の真犯人の疑いが強いことを何度も書いている、高知能の彼は、中津川警察の警官全員と近所の農家を、赤子のように騙した詐欺師である。私が生涯で出会った最悪の人物だ。今は9月中旬から春日井の施設にいるようだ。

 私は、呼吸音にブツブツバリバリ音が出る悪性の間質性肺炎=肺線維症を発症した。
 ネットで調べると、私の症状だと、最大余命5年程度と書かれていた。
 それから、呼吸能力が半分以下に落ちたので、運動能力もひどく劣化した。山へ行っても、半分のスピードも出せなかった。ノロノロ歩きに、同じルートを歩いている人の迷惑になっていた。

 重いものを運んでも、10メートルも歩くと息切れがひどく気を失いそうになる。庭の草刈りも事実上不可能になった。草刈り機を10分も使うと意識が失われてゆく。
 ここからが、今回の本題である鬱病問題だ。
 かつて富士山ルートを2時間で登れた能力が完全に失われ、私は激しい絶望感に苛まれた。

 私は気づかないうちに重度の鬱病を発症していた。鬱病や心の離脱というのは、一種の癖なので、子供の頃に経験していると再発しやすい
 どんな症状が出るかというと、生きるための最低限の必要以外、関心を持てなくなる。かつて、ものづくりに興味を持って工具類を買い込み、整理整頓していたものが、散らかっていても、散らかっていること=悪い状態という認識力が失われてしまうのだ。

 だから、世間でいうゴミ屋敷の住人の正体は鬱病なのだ。どんなひどい状態であっても、それがまずいことだという理解ができなくなる。そうなると回りの人達も、自分に対して警戒心を抱き、敬遠するようになる。孤立がどんどん加速する。
 そうなると、疑似認知症といわれる脳機能の低下が現れてくる。

 私の家はゴミ屋敷と化した。しかし、近所のAが、嫌がらせ目的で侵入し、泥棒を働いていたので、私は、その対策と称して、故意に散らかしていたこともある。
 蛭川駐在の加藤博也は、Aが私の工具を盗んでゆくという私の訴えに一切耳を貸さず、私の言うことが全部ウソと決めつけ、それが中津川警察の公式見解となった。

 ついには、ある事件で中津川警察は私を精神病院に強制入院させようとした。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5877989.html
 驚いたのは、中津川警察官が私の行動の正当性を証明できる監視カメラのデータを消したり、近隣の弁護士事務所に私からの電話を排除するフィルタリング設定までさせたことだ。これで、中津川警察を告発する証拠が失われた。

 このことで、私は問題解決よりも、自分自身の無力さに打ちひしがれてしまい、鬱病が激化、悪化してしまった。
 あらゆる外界の情報に興味が持てなくなり、その善悪も、何をすべきか?という対応も困難になってしまった。これが鬱病の本質だ。
 さらに、私は、ひどい私の状態を認めたくなくて、私が良い生活を贈っているかのような幻想に浸ろうとした。
 このブログを続けていたのも、そんな私の精神状態を反映していた。

 また自分を救ってくれる私の仮想現実を作ろうとした。私は、過去生探索から、過去生で自分が女性だったときのことを思い出していたので、自分は女性なのだという仮想現実に浸ろうとした。
 まあ、このあたり、みじめな自分が、自分でなければ何でも良かったのだが…。
 自分の置かれている状態を直視したくなかっただけのことだ。

 このひどい鬱病状態から、私は普通の感覚に復活できるのだろうか? 家はゴミ屋敷だ。階段が壊れても直す意欲も浮かばなくなった。
 しかし、唯一の救いは、山歩きだった。
 3日も歩かないと、寝ているとき息切れを起こしてまともに寝られないので、どうしても、週に五回くらい、5Kmくらい坂道を歩く必要があった。

 もう10年もそれを続けているのだが、毎日歩いていると、山の動物たちと出会うことも多い。中津川の山は、とりわけカモシカと鹿が多い。猿が少ないのはありがたい。イノシシと熊もたくさんいるが、人間を恐れて出てこない。
 歩いているうちに、カモシカと顔見知りになった。毎日、私が歩いている道に同じカモシカが現れ、「かもちゃーん、おはよう」と呼びかけているうちに、逃げなくなった。なかには、はっきり笑ったように見えるカモシカまでいた。

 私は、山歩きで、動物たちとの交流にとても癒やされた。人間とは付き合っていなかったが、動物に顔馴染みができた。
 山歩きで、呼吸機能が戻ったかといえば、それはなかったが、少しだけ呼吸トレーニングの成果で呼吸力が向上したことは自覚した。
 5年で死ぬことになっているのに、発病後10年も生きているのだ。ブツブツ音もほとんど出なくなった。

 すると、本当に少しずつだが、鬱病の外部刺激への無関心が治るようになり、自分の家が汚い、ゴミを片付けなければならないという感覚も戻ってきた。
 まだ息切れはひどいのだが、息切れを我慢して苦しみながらも体を動かす意欲も涌いてきた。
 ブログだけは、自分の唯一の存在理由として、しがみついて、毎日更新してきた。

 心の離脱も元に戻り、自分の客観的存在を理解できるようになってきた。私は、自分の心の離脱がいわゆる統合失調症の一種であることに気づいていた。
 しかし、それは精神医学に頼れば、かえって悪化するものであることも知っていた。
 中津川警察に無理やり連行された郡上の済生会病院では、私が真実を説明しても、一切耳を貸さず、一日だけ泊まってゆけと執拗に言った。

 だが、それは真っ赤な嘘で、私の姉に、精神障害者として強制入院の受託を迫っていたのだ。
 もしも入院を受け入れれば、何年も薬漬けで、病院の金儲けのために拘束されるおである。
 幸い、曹洞宗の寺院を預かっていた姉は、「自分の弟は嘘をつく人間ではない」と私を信じ、強制入院承諾を拒否してくれた。
 私は中津川警察によって、廃人にされる一歩手前で生還したことになる。

 このとき、私が激しい鬱病でなければ、警察の悪質な決めつけに対抗することができたが、鬱病によって、著しく思考能力が低下し、有効な対策がとれず、超狡猾なAの悪質な窃盗の証拠も確保できず、私は八方塞がりだった。
 だが、鬱病から徐々に解放されて、自分の姿を直視できるようになった今、まだ不十分だが、やっと不正に対応する力を取り戻しつつある。

 生涯で出会った最大の悪人であるAは、まずまちがいなく豊明事件の真犯人だと確信している。Aと中津川警察の犯罪性を、せめて出版によって告発し、世に残したいと考えている。