「解離性障害」という心の「病気」に含まれる統合失調症は、昔「精神分裂症」と名付けられていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E9%9B%A2%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

 「自分を見失う」という表現も多く使われるし、犯罪者の多くは「乖離性同一障害」というカテゴリーで、心も、人相も、まったくの別人になってしまって、普段の人格から考えられないような犯罪を犯す。
 私の家のすぐ近所に住むA老人は(昨年9月に死亡)、その典型だった。その最大の特徴は、会うたびに人相も言動も、まったくの別人になってしまうことだった。
 相当な悪意の塊のような人格で、私に嫌がらせをするのが趣味で生きているような人物だった。
 私は、Aに「怪人二十面相」という渾名を与えた。

  私は、Aと道端で出合うと大声で「盗んだものを返せ!」と怒鳴った。Aは私は何もやってないとシラを切った。
 Aの本質は、ひどい臆病者、小心者で、私と出合うことを避け、表に出てこなくなった。怖いのだ。だから、たぶん運動不足に陥って死んだと思う。

 だが、その臆病者が、天白でバイクに抜かれたことに激怒し、運転手を轢き殺していた。そして、私は、彼が未解決の豊明事件の主犯であることに確信を抱いた。
 豊明事件は、主人の加藤氏が愛人宅で寝起きしていることを承知で、留守を守る本宅の家族(妻と子供)を報復目的で皆殺しにしたものだ。

 犯人がひどい臆病なため、主人の加藤氏と直接対峙したくなかったと思われた。
 Aも加藤氏も小牧自衛隊時代に面識があったように思えた。犯人は自衛隊が訓練に使うサバイバルナイフで何十回も子供を刺していた。
 子供や女性を何十回も刺すことも、臆病者でなければできないように思えた。
 
 Aは、私の車を8回もパンクさせた。深夜に来て木ネジをタイヤにねじ込んで、自然にパンクしたかのように装うのだ。これも卑劣で臆病でなければやれないことだ。
 また作業場に忍び込んで、多数の工具類を盗み出した。後に、私が忘れたかのように敷地の隅に投げ込んであったりした。機械の部品を盗んだりして、損害額は50万円をはるかに超える。臆病者特有の隠蔽工作をするのがAの特徴だった。

 井戸へのヒ素投入を疑って高圧電流を流した、わずか30センチに満たない電線の隙間を平然とくぐり抜けていた。そして自衛官しか住まない小牧市北外山の住所を電話帳に残していた。
 こんなことは自衛隊で特殊な訓練を受けた者にしかできないことだ。

 地元の駐在所に数回、被害届を出そうとしたら、加藤博也という警官は、全部私の作り話と決めつけ、被害届を受理しないばかりか、中津川署(担当棚橋)は私を精神病院に強制入院させようとした。もしかしたらAの親族かもしれないと思った。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5877989.html
 5年前に起きた、この屈辱的事件で私は中津川警察からひどい人権侵害を受けたが、謝罪は皆無。だから、機会を捉えて全貌を出版するつもりでいたが、侵入の証拠集めをしているうちにAが死んでしまった。

 岐阜県公安委員会や、国家公安委員会、岐阜県警監査課、日弁連などたくさんの機関に救いを求めたが、すべて相手にされなかった。
  http://tokaiama.minim.ne.jp/asaitadasi/kouanniinkai.htm
 不思議なことに近隣の弁護士事務所に電話をかけると、すべてフィルターで拒絶されていた。証拠となるAの妻との接触を写した監視カメラの動画が、必要な部分だけ消されていた。
 警察が、ここまで不法(捜索令状がないまま室内に侵入した)に証拠を捏造し、弁護士との接触を妨害していることにショックを受けた。

 私も、残りの人生が少ないことが分かっているので、このまま中津川警察による屈辱的な人権侵害を糾弾するには、こうしてブログに書き続けるか、出版しかない。
 あとは、「被害者」である生き残った夫、加藤氏とAの自衛隊での接点が明らかになれば、豊明事件のミッシングリングのすべてが解決するので、ご存知の方に協力を求めたい。

 私は、昨年あたりに命が尽きることを覚悟していた。年々、肺線維症が苦しくなる一方だからだ。必死にリハビリしても、失われた肺胞細胞は戻ってこない。
 今年を生き延びることは絶望だろう。歩けるうちは命が続くが、もう時間がない。
 あとは、私の土地建物を受け継いでくれる人を探すだけだが、まあ、中国人のフェンタニルアジトになるのがオチかもしれない。

 私は、自分自身の人生を振り返って、Aと同じく解離性障害という言葉で、自分を見つめ返すしかない。
 私は子供の頃のイジメ被害が原因で、何かストレスを感じる、嫌なことがあると、自分に都合のよい世界を作って逃げ込んでしまう傾向があった。
 これが解離性障害であり、鬱病の一種である。鬱病は、自分を別人と仮定することで、別の人格に逃げ込むこともできるのだ。
 Aも、おそらく子供時代に凄まじいイジメを受けて多重人格になったと思える。

 このメカニズムを一般化すると、人の心と宗教とのかかわりに行き着く。
 宗教こそは解離性障害の殿堂であり、人々が苦悩から逃げ込むための宮殿である。
 それを最初に哲学的視点から明らかにしたのがフォイエルバッハだった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

 人が苦悩すると、存在しない神の実在を求めるようになる。ありもしない存在が自分を救ってくれると幻想を抱くようになる。これが宗教と神の本質だ…と唯物論の視点から指摘した。
 いわゆる解離性障害の本質と、宗教信仰の本質は同じものである。

 これは、全人類が創世記から抱えてきた人間の属性である。すべての人が、この病気を持って生まれてくる。
 人だけではない。犬やネコなどのペットも、ときに象や熊などの野生動物も、そして人間の形象である国家や軍隊、企業という虚構でさえも解離性障害を起こす。
 これは「心の属性」といってもいい。犬やネコだって不本意にイジメられれば精神分裂症になるのだ。人を襲うようになった熊も、同じ視点で解析できるかもしれない。

 もちろん、私も例外ではなく、解離性障害を代表する「宗教」こそないものの、代わって「夢を見る妄想」に囚われ続けてきた。
 心が目の前の苦悩を解決できないとき、超自然的存在を期待するのが普通のことだ。
 それは死んだ祖先であったり、遠くに見える権力であったり、神という偶像であったりする。

神とはなにか?
 それは、人の心が作り出したものであり、人の外側にあるものではない…ということだ。
 ほぼ、すべての宗教は、人間の外側に、超人間的な偶像を設定し、それを崇拝させ、人間の外側に、人を救ってくれる権威が存在するかのように人々に思い込ませるシステムだ。

 フォイエルバッハは、人の外側に神があるわけではないと言った。神は、苦悩する人の心が、あたかも人の外に救済手段があるかのように、幻想=妄想を作り出してしまう結果だと指摘したのだ。すなわち、神は、人の外にではなく、心の内側に生み出されるものであった。

 モーゼもイエスも、このことを十分に理解していて、十戒の二項に「偶像崇拝の禁止」を明記し、これを絶対的に守るように言っていた。
 ところが、「キリスト教」が成立すると、たちまち、それはキリスト像やマリア像など偶像を作り出して、それを崇拝させるようになった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92

 フォイエルバッハは、神を心の外側(外にある偶像)に望む心とは、心の内側にある、苦悩であると指摘した。
 簡単にいえば、宗教は人の苦悩が作り出す虚構であり、自分のなかで解決できない苦悩を、自分の外側の偶像に解決を求めるシステムだということだ。

 これを知り、私は救われた。
 私は、小中学校でひどいイジメにあって、心がいじけてしまっていた。強烈な鬱病になってしまい、絶望のなかで暮らしていた。
 このとき、私は、自分を救済してくれるなにものかを、自分の外側に期待していた。それは、ときに荒唐無稽な幻想や妄想だった。
 自分が超人になったかのように、さまざまの妄想を重ねた。虚構の強い自分を作り出していた。

 だが、それは心のクセになってしまい、今でも続いている。私が間質性肺炎になり、わずかな段差でも息切れしてしまうようになったとき、かつて富士山を二時間で登頂できていた私は、絶望するしかなかった。
 これまでの自分の外側に、自分を救済してくれる新たな自分を妄想するしかなかった。

 鬱病を経験したことのある人ならわかる。
 解決できない苦悩に苛まれると、人は、あらゆる希望を失い、まず視界の色彩が消えてゆく。普通に見えているつもりなのだが、心のなかでは色彩が失われ、灰色の世界が広がっていた。

 次に、見ているものの秩序が見えなくなる。例えば、どんな汚れた場所、ぐちゃぐちゃに乱雑な場所であっても、それが汚いとか、異常だとかに気づく認識が失われ、カオスのなかにあっても、世間体とか問題性が見えず、平然としているようになる。
 片付けようとか、見栄えをよくしようとかが思い浮かばず、ゴミ屋敷であっても異常を感じなくなる。暗闇の世界に閉じこもって、出てこられなくなってしまうのだ。

 ただ、飯を食うとか、排泄するとか、眠るとかの基本的な生命現象維持だけはできる。世間体を飾りたいとか、他人に嫌われたくないとかの価値観はひどく薄くなってしまう。
 傍目からは普通に見えているのだが、本人にはモノトーンの無機質な世界が広がっている。そこには希望や楽しみがない。
 数秒後に死が訪れても、何も変わらない。だから容易に自殺するのである。

 こんな鬱病世界に生きていても、もしかして、自分を救ってくれるものがあるかもしれないという蜘蛛の糸のような希望は、残っている。
 私にとって、ブログを書き続けることだけが、かろうじて私を支えてくれる蜘蛛の糸だった。
 こんな鬱病状態の人がどれくらいいるのかというと、表向き約400万人だが、実際には、程度の差こそあれ、1000万人くらいはいると、私は思う。
 救済幻想を与えてくれる宗教信者を含めれば、数千万人はいるだろう。

 人は苦悩する。イジメられたり、失敗して糾弾されたり、求める希望が得られなかったり、愛を欲しいのに得られなかったり、不本意な評価を受けたり、さまざまな理由で、人は苦悩する。
 苦悩というのは、自分の心の内側、自分自身で解決するしかないものだが、ときに、自分の外側に解決の手段があるかのように、人を欺くものがある。

 それが宗教だ。与えられたことだけをこなす人生しか知らない若者は、とりわけ宗教に取り込まれやすい。
 人を疑わない素直な心の持ち主も、簡単に騙されやすい。

 オウム真理教に洗脳されてしまった若者たちは、幼い頃から優越感を心の支えにしてきた者たちだった。
 「自分たちが特別な存在でありたい」という優越要求が信仰に変わって、麻原の妄想を疑うことなく、反社会活動に引き込まれていった。

 統一教会に洗脳された若者たちも、世間知らずで、優越感に生きてきた者が多かった。疑うことを知らなかったのだ。幸福の科学も同じだ。
 創価学会の場合は、少し違う。あれは在日者たちの生活互助会の役割があり、宗教を通じた連帯感と、経済的安定が信者を引き寄せた。

 宗教でなくとも、赤軍派や新左翼党派も似たようなメカニズムだ。優越感という土台は、洗脳にひどく適している。
 自分自身の疑い深い思索が、人間の外側にある権威を容易に信用せず、その本質にある生成のメカニズムを理解し、社会や自分の人生に役立つ真実を見抜く目を育ててくれる。

 私の場合は、ひどい鬱病から自己疎外を起こし、妄想の世界をさまよったが、結局、時間をかけて元の自分に還ることができた。
 権威そのものが嫌いで不快だったから、人間の外側にある偶像に騙されて盲目的に洗脳されることはなかった。つまり宗教信仰に騙されることはなかったものの、傍目からみれば、ずいぶん異常で特異な「狂人」といわれても仕方のないようなライフスタイルが続いた。

 その私から見て、すべての宗教信者が宗教に取り込まれる原因は、生活や人間関係の苦悩である。フォイエルバッハの指摘どおりだ。
 苦悩があると、人の外側に、それを救ってくれる権威を求めるようになる。宗教だけではない。天皇制だって同じ信仰にすぎないし、セレブやエリートの優越感や階級意識だって同じものだ。

 政治家や科学者というカテゴリーで優越感に浸る者も、一種の宗教といえなくもない。核開発関係者には、核技術そのものを神のように信仰対象にしている者も決して少なくない。
 天皇制も核融合技術も、その本質は間違いなく信仰であり宗教であると断定できる。

 人は権威に騙される。その偶像を崇拝するようになる。真実が見えなくなる。
 学歴や権威、蓄財やセレブ生活に憧れ、他人を見下すことに快感を得られると信じるようになる。
 今、本当にあるものは、生きている自分と、生活だけなのに、虚構にすぎない権威や蓄財、偶像に振り回される人生を送るようになる。
 何が真実なのか、見抜く目だけが自分を守ってくれるのだ。
 
人は精神的に追い詰められると、どうなるのか? 2024年12月28日
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6181600.html

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