私は、数年間無休で書いているブログネタを仕入れるため、毎日、ネット情報を探していて、最近では、視力の著しい減退、老眼進行に苦しみながら、それでもネット情報、とりわけYouTubeコンテンツを視聴することに中毒になっている。
幸いというか、私は2018年3月に、不可解な理由でツイッターを永久追放になり、SNSにも手を出してみたが、なかなか受け入れてくれない。
辛うじて、フェイスブックに入れたが、私がデータ保全用に数百のブログをアップしても、不思議なことに約1年でコメント数ゼロ、いいねゼロで、ある人が、私のフェイスブックコンテンツには「鍵がかけられていて見ることができない」と教えてくれた。
https://www.facebook.com/profile.php?id=61572940150197
私のコンテンツが視聴不能である理由をサポートに尋ねたが、返信はなかった。
YouTubeのコンテンツも、私のコメント投稿は瞬時に削除されるようだ。
だから、SNSは使いたくても使えないので、SNS中毒は起きようがない。
私は、ブログで、便利なものに手を出せば、必ず反作用があると繰り返し書いている。例えば、車に頼れば足が衰える。コンピュータに頼れば思考力が衰える、便利さにはまれば、必ず、ツケ払いをしなければならない…と指摘してきた。
SNSやスマホに中毒すると、とてつもなく恐ろしい病気が待っている…と。
人間は地球の属性であって、生物、動物の一種にすぎないのだから、一番大切なことは、食料を探し、自給する能力、子供を産み育てる生殖能力、生命の保全能力であると、あまりにも当たり前のことを書き続けてきた。
だからIT社会やAIに期待すれば、自分の命の本当の意味を見失うと…。
今回は、スマホ社会がもたらす意味について、大切な記事が出たので紹介する。
長周新聞 『スマホ認知症:思考力・判断力・集中力を奪われないために』 著・西岡壱誠 書評・テレビ評2026年2月11日
https://www.chosyu-journal.jp/review/37268
GIGAスクール構想によって全国の小中学校で1人1台のタブレットが配布され、暗記アプリや授業映像、AIドリルなどのデジタル教材も多様化して、どの地域の子どももそれを使って学べるようになった。ところが、文科省が実施する全国学力テストの最近の結果を見ると、平均スコアが大幅に下がる傾向にあり、とくに国語と算数(数学)の「思考・判断・表現」領域の正答率が落ちているという。
これと関連して、最近、医学や教育心理学の分野で「スマホ認知症」という言葉が使われるようになった。それは、スマホへの過度の依存によって注意力・記憶力・思考力が著しく低下することをいう。
東北大学加齢医学研究所は、スマホを1日4時間以上使用する若者の脳画像に「前頭前野の萎縮傾向」が見られるとの研究報告を発表した。
前頭前野は、思考・判断・記憶・感情制御などをつかさどる中枢だが、その機能が弱っているというのだ。10代の若者が認知症とは、尋常ではない。
この本の著者は、株式会社カルペ・ディエムを創設して、全国の高校生に授業や進路指導、講演会などをおこなってきた人物で、いわば今の受験戦争をいかに勝ち抜くかを伝授する側にいる。その著者が全国を回って生徒や教師と話すなかでつかんだことをもとに、この本は構成されている。
“ハマる”情報で依存させる
スマホを見るということは、自分自身が目的をもって見たいものを見るという作業の対極にある。
YouTubeショートやTikTok、Instagramなどは、上下にスワイプするだけで勝手に新しい情報が次々にはいってくるし、しかもそれはAIがユーザーの好みや行動履歴を分析して、その人が“ハマる”内容を高精度で提案するように設計されている。
通知音やスクロール、いいね――などはすべて、脳内のドーパミンを分泌させる「快感のスイッチ」であり、スマホは人間を依存させるように設計されている。そのなかで「自分の興味のあることしか受け付けない」思考回路が、徐々に形成される。
では、それに依存するとどうなるか?
著者によれば、粘り強く物事を考える力が減退する。自分自身の10代の頃を振り返ってみても、それまで知らなかったことに出会ったり、それまでわからなかったことがだんだんわかるようになったときの喜びは、さまざまな「退屈」「つまずき」「葛藤」を乗りこえた先にある。
しかし今は、その入り口にすら立たないまま、「これはつまらなそう」「これは飽きた」といって、物事を粘り強く理解しようとしたり、問題が解決するまで努力するという意識が育ちにくくなっているという。もしそうなら、それは勉強だけでなく、人間関係にも影響するだろう。
著者は学校現場にいる教師から、タブレット学習のプラス面とともに、「生徒のなかで粘り強くなにかを考える力が著しく減っている」という声をよく聞くそうだ。
著者自身の経験でも、各地の学校での講演会の場で、なにか質問を投げかけても、最初の15秒ぐらいは一生懸命考えているのに、その後は45秒ぐらい顔をあげて「答えを教えてくれるのを待つ」表情に変わるという。
「考えることをあきらめるまでの時間が年々早くなっている」「迷いながら考えるというもっとも重要な時間を失いつつある」と著者はいう。
ノートをとらないことによる弊害
もう一つは、授業中にノートをとるという作業が消えつつある、ということだ。かつては先生が黒板に書いたり話したりしたことを、その場で頭と手をフル回転させながら、書きながら、整理しながら、理解していった。今この場で理解しようとする緊張感のなかで脳が鍛えられていった。
しかし今、タブレットを使えばいつでも授業の資料は見返せるし、録画を後で見ればいいとなっており、その臨場感のなさが学力低下の原因ではないか、と著者はいう。それは子どもだけではないかもしれないが。
近年の教育心理学や神経科学の研究では、語彙や概念を覚えるさいに、実際に手を動かして書いたり、声に出して読んだりする身体的行為が、記憶の定着に深く関わっていることがわかっている。身体を使うことで、脳内の運動野、感覚野、視覚野という複数の場所が同時に活性化し、記憶が経験として統合されやすくなるためだという。
しかし今、画面をスワイプして眺めることに慣れてしまえば、情報は脳に定着する前にすり抜けてしまう。それは進路をめぐっても、この大学に行き、こういう分野の勉強がしたい、だからそこへ向けて努力する――というのではなく、「偏差値的に行けそうだから」という理由だけで大学を選ぶ若者が多いという。
自分がいったいなにが好きで、なにが嫌いで、なんのために生きるのかについて、悩み、葛藤し、努力するという過程があれば、たとえ失敗し挫折しても、自分が選んだ失敗ならそこから学ぶことができるし、人間的に成長することもできるだろう。まるでスワイプするように「流れてきたものを受け入れる」だけでは、そうはならないのではないか。
近未来、AIが今よりずっと進化し、進学、就職、結婚、子育て、投資などあらゆる人生の選択において、AIが莫大なビッグデータをもとに「成功確率」などを数値で示す時代が来るかもしれないし、金と権力を持つものがそれを利用しようとするかもしれない。
だが、そうした社会はなんと不自由な社会であることか。「コスパがよい」「効率的」と思ってしたことが、実は長い目で見ると大切なことを失う結果になった、ということにならないよう、自分と社会の将来を自分の頭で考えたい。
この本では後半で、「小中学生は平日は1日1時間以内、休日は3時間を上限に」「夜9時以降はスマホを親に預ける」など、スマホに振り回されないルールづくりも提案している。
*******************************************************************
引用以上
上に書いてある、子供たちが、「考えることをあきらめて、回答が出るのを待っている…」
「ノートをとらなくなった…」
私が、もう五年近くも休みなしに毎日ブログを更新していて、反応は毎日減る一方だった。読者は、ヤフーブログ時代、FC2ブログ時代に比べて数分の一以下になった。
FC2では毎日約1万アクセスあったのだが、今ではデータ退避用ブログを併せても、一日3000アクセスがせいぜいだ。
そんなに、私のブログは、魅力のない価値のないものになってしまったのだろうか?
そんなことを考えてみると、もしかして、人々が、ブログの文字を読んで思考することを重たく感じるようになり、だから読者が減っているのではないとも思い始めている。
日本社会から、もしかして、文字による意思疎通が失われつつあるのではないかと、危機意識を感じるようにさえなった。
考えてみれば、私のブログが広く読まれていたのは約10~20年前で、当時はまだ今ほどスマホが普及していなくて、みんなパソコンを見ていた。
ちなみに、私がネットで情報発信をはじめたのは、1990年ころだ。最初のころは、古典的な電話回線でニフティ掲示板を使って、苦労して数百文字くらいの意思表示を行っていた。まともに、インターネットらしい発信ができるようになったのは、たぶん1995年くらいかな。
当時は、地震予知研究に夢中になっていたから、東海アマチュア無線地震予知研究会というのを数名の仲間で情報交換していた。
2010年くらいから、社会全体にスマホが物凄い勢いで普及した。
私は使う理由がなかったのだが、AUの3G携帯電話が廃止されるので、AUが提供する安い4Gスマホを使うしかなかった。
私の使っているのは超遅い、京セラのベイシオ3だ。もう10年くらいなので、カメラ携帯に毛が生えた程度の性能しかない。もちろん銀行決済など不可能だ。
さまざまな申込み機能で写真を送っても認識されない。
インターネットも辛うじて接続できるが、広告ばかり出て、まともに動かない。
だから、スマホは携帯電話以外の機能は事実上使えないのだ。
スマホとしては、極めて不便な機種なので、入力も大変だから、逆にフィッシング詐欺で入力もまともにできない。詐欺電話のブロック機能があれば十分だ。
ところが、世間のスマホは物凄い進化を遂げていて、1日中、ネット情報やSNSにハマっていられるのだという。有名人SNSは凄いらしい。
AIスマホは、人間の思考を代弁してくれるから、ものごとを深く考える必要がない。だから思考力や記憶力を進化させる意味がないので、どんどん脳が劣化してゆくというのが、上に引用したスマホの本質的な問題である。
ただ垂れ流される情報を見ていれば、そこそこ面白く、退屈せずに時間を過ごすことができる。
若い人たちは、スマホの文字情報を疎ましく思うようになり、アニメや動画ばかり見るようになっているような気がする。
学校教育でも、答えはいつでもスマホにあるので、計算や思考の必要がなく、思考プロセスもスマホにあるので、ノートを取る必要もない。必要な情報は入力だけで答えが瞬時に出る。
見ているサイトが詐欺であっても、警戒心が薄く、思考力が劣化しているので、騙されやすい。子供たちが、こんなものに夢中になっているとしたら、それは劣化した人間動物園の展示物にしかなれないと私は思う。
何度も書いて申し訳ないが、人間は地球の属性としての一生物であり、一動物を一歩も超えることができない。マスクやホリエモンの宇宙旅行なんてのは、究極の無価値なSF妄想であり、チーム未来の、「テクノロジー社会」という妄想は、生物力、人間力の劣化をもたらすものでしかない。
我々に必要なものは、AIテクノロジーでもなければ東大卒の学歴でもない。宇宙旅行でもなければ、レクサスでもない。超高性能スマホでもない。
我々に必要なものは、食物を生産する能力と、異性とエッチして子供を作り、人を愛する社会である。すなわち「原始人間力」である。
我々に本当に必要なものは、アルプスを縦走しても疲労に負けない歩行力であり、困難を自分で解決できる、さまざまな能力であり、創意工夫の力である。
私が、百名山完登を志していた頃(1980年代)は、10~20Kmくらいの距離なら交通機関に頼らず、自分の足で歩いた。今でも6Kgのザックを背負って週20Kmは歩いている。
ところが、車社会の便利さに依存したり、自分のステータス、メンツや見栄を考えると、高級車に乗りたくなり、歩かなくなる。
そして、日本アルプスを歩き通せる能力は衰えてゆく。自分の実力を理解できないままスマホで見たアルプスのコンテンツに憧れて山を上ってしまえば、今度は、自分の力で降りてくることができなくなる。
救助に頼った連中の弁解は、「疲れて足が動かなくなった」だ。アルプスの縦走が、どれほど困難で危険なものか理解していないまま行動してしまう。
自分の力と、行動して起きる結果を計算できない。ネットの情報を見て、自分の力を見られないのだ。これもスマホ依存症で起きる結果の一つだ。
そして、スマホに見えている虚構の情報が、そのまま自分にも適用可能だと思うこと自体が「スマホ認知症」と言ってもいい。依存症ではない。「認知症」なのだ。
もしもスマホが普及していなければ、これほど安易、軽率な遭難や救助要請が増えることはなかった。
この問題は、車社会、便利社会がもたらす人間劣化の問題に共通している。
人は、歩かなければ健康を保つことができない。歩くことで、下腿に落ちた体液をふくらはぎの筋肉が心臓に送り返し、体液の循環が成立する。
これがホメオスタシスの本質だ。体液の循環が、免疫を守り、壊れた細胞を修復してくれる。
スマホ普及による認知症社会は、人々が歩くことでしか解決できない。
歩くためには、安全な道が必要だ。だが、政府は自動車産業の権益を優先することで、人々が安全に歩くインフラ普及と権利を無視している。
私は、日本社会にもっとも必要な事業は、安全な自転車道、歩行者道の整備だと言い続けてきた。だが、誰も耳を傾けず、相手にもされない。
歩くことを軽視すれば、このスマホ認知症社会が日本社会全体を破壊してしまうことになる。現在、70歳以上の2割が本格的認知症を発症しはじめている。
幸い、私は車で30分走れば、安全に歩ける高原道を利用し、辛うじて認知症の発症を遅らせている状況だ。中津川市のハイキングコースには感謝しても足らない。ただし、熊がいるので、カウンターアーソルトと遠達ベルは必携だが。
私は、広告宣伝とスマホ社会に騙されるなと強く言いたい。広告宣伝は企業の金儲けのためだけに行われている。あなたの健康や、日本社会の未来のためではない。
金儲け思想に騙されて、高級車や高性能スマホを求め、自分の人間力を劣化させ、子供たちの未来を闇に覆わせ、自分は認知症に向かって突っ走っている。
こんな愚かな社会を、いつまで続けるつもりなんだ?
幸いというか、私は2018年3月に、不可解な理由でツイッターを永久追放になり、SNSにも手を出してみたが、なかなか受け入れてくれない。
辛うじて、フェイスブックに入れたが、私がデータ保全用に数百のブログをアップしても、不思議なことに約1年でコメント数ゼロ、いいねゼロで、ある人が、私のフェイスブックコンテンツには「鍵がかけられていて見ることができない」と教えてくれた。
https://www.facebook.com/profile.php?id=61572940150197
私のコンテンツが視聴不能である理由をサポートに尋ねたが、返信はなかった。
YouTubeのコンテンツも、私のコメント投稿は瞬時に削除されるようだ。
だから、SNSは使いたくても使えないので、SNS中毒は起きようがない。
私は、ブログで、便利なものに手を出せば、必ず反作用があると繰り返し書いている。例えば、車に頼れば足が衰える。コンピュータに頼れば思考力が衰える、便利さにはまれば、必ず、ツケ払いをしなければならない…と指摘してきた。
SNSやスマホに中毒すると、とてつもなく恐ろしい病気が待っている…と。
人間は地球の属性であって、生物、動物の一種にすぎないのだから、一番大切なことは、食料を探し、自給する能力、子供を産み育てる生殖能力、生命の保全能力であると、あまりにも当たり前のことを書き続けてきた。
だからIT社会やAIに期待すれば、自分の命の本当の意味を見失うと…。
今回は、スマホ社会がもたらす意味について、大切な記事が出たので紹介する。
長周新聞 『スマホ認知症:思考力・判断力・集中力を奪われないために』 著・西岡壱誠 書評・テレビ評2026年2月11日
https://www.chosyu-journal.jp/review/37268
GIGAスクール構想によって全国の小中学校で1人1台のタブレットが配布され、暗記アプリや授業映像、AIドリルなどのデジタル教材も多様化して、どの地域の子どももそれを使って学べるようになった。ところが、文科省が実施する全国学力テストの最近の結果を見ると、平均スコアが大幅に下がる傾向にあり、とくに国語と算数(数学)の「思考・判断・表現」領域の正答率が落ちているという。
これと関連して、最近、医学や教育心理学の分野で「スマホ認知症」という言葉が使われるようになった。それは、スマホへの過度の依存によって注意力・記憶力・思考力が著しく低下することをいう。
東北大学加齢医学研究所は、スマホを1日4時間以上使用する若者の脳画像に「前頭前野の萎縮傾向」が見られるとの研究報告を発表した。
前頭前野は、思考・判断・記憶・感情制御などをつかさどる中枢だが、その機能が弱っているというのだ。10代の若者が認知症とは、尋常ではない。
この本の著者は、株式会社カルペ・ディエムを創設して、全国の高校生に授業や進路指導、講演会などをおこなってきた人物で、いわば今の受験戦争をいかに勝ち抜くかを伝授する側にいる。その著者が全国を回って生徒や教師と話すなかでつかんだことをもとに、この本は構成されている。
“ハマる”情報で依存させる
スマホを見るということは、自分自身が目的をもって見たいものを見るという作業の対極にある。
YouTubeショートやTikTok、Instagramなどは、上下にスワイプするだけで勝手に新しい情報が次々にはいってくるし、しかもそれはAIがユーザーの好みや行動履歴を分析して、その人が“ハマる”内容を高精度で提案するように設計されている。
通知音やスクロール、いいね――などはすべて、脳内のドーパミンを分泌させる「快感のスイッチ」であり、スマホは人間を依存させるように設計されている。そのなかで「自分の興味のあることしか受け付けない」思考回路が、徐々に形成される。
では、それに依存するとどうなるか?
著者によれば、粘り強く物事を考える力が減退する。自分自身の10代の頃を振り返ってみても、それまで知らなかったことに出会ったり、それまでわからなかったことがだんだんわかるようになったときの喜びは、さまざまな「退屈」「つまずき」「葛藤」を乗りこえた先にある。
しかし今は、その入り口にすら立たないまま、「これはつまらなそう」「これは飽きた」といって、物事を粘り強く理解しようとしたり、問題が解決するまで努力するという意識が育ちにくくなっているという。もしそうなら、それは勉強だけでなく、人間関係にも影響するだろう。
著者は学校現場にいる教師から、タブレット学習のプラス面とともに、「生徒のなかで粘り強くなにかを考える力が著しく減っている」という声をよく聞くそうだ。
著者自身の経験でも、各地の学校での講演会の場で、なにか質問を投げかけても、最初の15秒ぐらいは一生懸命考えているのに、その後は45秒ぐらい顔をあげて「答えを教えてくれるのを待つ」表情に変わるという。
「考えることをあきらめるまでの時間が年々早くなっている」「迷いながら考えるというもっとも重要な時間を失いつつある」と著者はいう。
ノートをとらないことによる弊害
もう一つは、授業中にノートをとるという作業が消えつつある、ということだ。かつては先生が黒板に書いたり話したりしたことを、その場で頭と手をフル回転させながら、書きながら、整理しながら、理解していった。今この場で理解しようとする緊張感のなかで脳が鍛えられていった。
しかし今、タブレットを使えばいつでも授業の資料は見返せるし、録画を後で見ればいいとなっており、その臨場感のなさが学力低下の原因ではないか、と著者はいう。それは子どもだけではないかもしれないが。
近年の教育心理学や神経科学の研究では、語彙や概念を覚えるさいに、実際に手を動かして書いたり、声に出して読んだりする身体的行為が、記憶の定着に深く関わっていることがわかっている。身体を使うことで、脳内の運動野、感覚野、視覚野という複数の場所が同時に活性化し、記憶が経験として統合されやすくなるためだという。
しかし今、画面をスワイプして眺めることに慣れてしまえば、情報は脳に定着する前にすり抜けてしまう。それは進路をめぐっても、この大学に行き、こういう分野の勉強がしたい、だからそこへ向けて努力する――というのではなく、「偏差値的に行けそうだから」という理由だけで大学を選ぶ若者が多いという。
自分がいったいなにが好きで、なにが嫌いで、なんのために生きるのかについて、悩み、葛藤し、努力するという過程があれば、たとえ失敗し挫折しても、自分が選んだ失敗ならそこから学ぶことができるし、人間的に成長することもできるだろう。まるでスワイプするように「流れてきたものを受け入れる」だけでは、そうはならないのではないか。
近未来、AIが今よりずっと進化し、進学、就職、結婚、子育て、投資などあらゆる人生の選択において、AIが莫大なビッグデータをもとに「成功確率」などを数値で示す時代が来るかもしれないし、金と権力を持つものがそれを利用しようとするかもしれない。
だが、そうした社会はなんと不自由な社会であることか。「コスパがよい」「効率的」と思ってしたことが、実は長い目で見ると大切なことを失う結果になった、ということにならないよう、自分と社会の将来を自分の頭で考えたい。
この本では後半で、「小中学生は平日は1日1時間以内、休日は3時間を上限に」「夜9時以降はスマホを親に預ける」など、スマホに振り回されないルールづくりも提案している。
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引用以上
上に書いてある、子供たちが、「考えることをあきらめて、回答が出るのを待っている…」
「ノートをとらなくなった…」
私が、もう五年近くも休みなしに毎日ブログを更新していて、反応は毎日減る一方だった。読者は、ヤフーブログ時代、FC2ブログ時代に比べて数分の一以下になった。
FC2では毎日約1万アクセスあったのだが、今ではデータ退避用ブログを併せても、一日3000アクセスがせいぜいだ。
そんなに、私のブログは、魅力のない価値のないものになってしまったのだろうか?
そんなことを考えてみると、もしかして、人々が、ブログの文字を読んで思考することを重たく感じるようになり、だから読者が減っているのではないとも思い始めている。
日本社会から、もしかして、文字による意思疎通が失われつつあるのではないかと、危機意識を感じるようにさえなった。
考えてみれば、私のブログが広く読まれていたのは約10~20年前で、当時はまだ今ほどスマホが普及していなくて、みんなパソコンを見ていた。
ちなみに、私がネットで情報発信をはじめたのは、1990年ころだ。最初のころは、古典的な電話回線でニフティ掲示板を使って、苦労して数百文字くらいの意思表示を行っていた。まともに、インターネットらしい発信ができるようになったのは、たぶん1995年くらいかな。
当時は、地震予知研究に夢中になっていたから、東海アマチュア無線地震予知研究会というのを数名の仲間で情報交換していた。
2010年くらいから、社会全体にスマホが物凄い勢いで普及した。
私は使う理由がなかったのだが、AUの3G携帯電話が廃止されるので、AUが提供する安い4Gスマホを使うしかなかった。
私の使っているのは超遅い、京セラのベイシオ3だ。もう10年くらいなので、カメラ携帯に毛が生えた程度の性能しかない。もちろん銀行決済など不可能だ。
さまざまな申込み機能で写真を送っても認識されない。
インターネットも辛うじて接続できるが、広告ばかり出て、まともに動かない。
だから、スマホは携帯電話以外の機能は事実上使えないのだ。
スマホとしては、極めて不便な機種なので、入力も大変だから、逆にフィッシング詐欺で入力もまともにできない。詐欺電話のブロック機能があれば十分だ。
ところが、世間のスマホは物凄い進化を遂げていて、1日中、ネット情報やSNSにハマっていられるのだという。有名人SNSは凄いらしい。
AIスマホは、人間の思考を代弁してくれるから、ものごとを深く考える必要がない。だから思考力や記憶力を進化させる意味がないので、どんどん脳が劣化してゆくというのが、上に引用したスマホの本質的な問題である。
ただ垂れ流される情報を見ていれば、そこそこ面白く、退屈せずに時間を過ごすことができる。
若い人たちは、スマホの文字情報を疎ましく思うようになり、アニメや動画ばかり見るようになっているような気がする。
学校教育でも、答えはいつでもスマホにあるので、計算や思考の必要がなく、思考プロセスもスマホにあるので、ノートを取る必要もない。必要な情報は入力だけで答えが瞬時に出る。
見ているサイトが詐欺であっても、警戒心が薄く、思考力が劣化しているので、騙されやすい。子供たちが、こんなものに夢中になっているとしたら、それは劣化した人間動物園の展示物にしかなれないと私は思う。
何度も書いて申し訳ないが、人間は地球の属性としての一生物であり、一動物を一歩も超えることができない。マスクやホリエモンの宇宙旅行なんてのは、究極の無価値なSF妄想であり、チーム未来の、「テクノロジー社会」という妄想は、生物力、人間力の劣化をもたらすものでしかない。
我々に必要なものは、AIテクノロジーでもなければ東大卒の学歴でもない。宇宙旅行でもなければ、レクサスでもない。超高性能スマホでもない。
我々に必要なものは、食物を生産する能力と、異性とエッチして子供を作り、人を愛する社会である。すなわち「原始人間力」である。
我々に本当に必要なものは、アルプスを縦走しても疲労に負けない歩行力であり、困難を自分で解決できる、さまざまな能力であり、創意工夫の力である。
私が、百名山完登を志していた頃(1980年代)は、10~20Kmくらいの距離なら交通機関に頼らず、自分の足で歩いた。今でも6Kgのザックを背負って週20Kmは歩いている。
ところが、車社会の便利さに依存したり、自分のステータス、メンツや見栄を考えると、高級車に乗りたくなり、歩かなくなる。
そして、日本アルプスを歩き通せる能力は衰えてゆく。自分の実力を理解できないままスマホで見たアルプスのコンテンツに憧れて山を上ってしまえば、今度は、自分の力で降りてくることができなくなる。
救助に頼った連中の弁解は、「疲れて足が動かなくなった」だ。アルプスの縦走が、どれほど困難で危険なものか理解していないまま行動してしまう。
自分の力と、行動して起きる結果を計算できない。ネットの情報を見て、自分の力を見られないのだ。これもスマホ依存症で起きる結果の一つだ。
そして、スマホに見えている虚構の情報が、そのまま自分にも適用可能だと思うこと自体が「スマホ認知症」と言ってもいい。依存症ではない。「認知症」なのだ。
もしもスマホが普及していなければ、これほど安易、軽率な遭難や救助要請が増えることはなかった。
この問題は、車社会、便利社会がもたらす人間劣化の問題に共通している。
人は、歩かなければ健康を保つことができない。歩くことで、下腿に落ちた体液をふくらはぎの筋肉が心臓に送り返し、体液の循環が成立する。
これがホメオスタシスの本質だ。体液の循環が、免疫を守り、壊れた細胞を修復してくれる。
スマホ普及による認知症社会は、人々が歩くことでしか解決できない。
歩くためには、安全な道が必要だ。だが、政府は自動車産業の権益を優先することで、人々が安全に歩くインフラ普及と権利を無視している。
私は、日本社会にもっとも必要な事業は、安全な自転車道、歩行者道の整備だと言い続けてきた。だが、誰も耳を傾けず、相手にもされない。
歩くことを軽視すれば、このスマホ認知症社会が日本社会全体を破壊してしまうことになる。現在、70歳以上の2割が本格的認知症を発症しはじめている。
幸い、私は車で30分走れば、安全に歩ける高原道を利用し、辛うじて認知症の発症を遅らせている状況だ。中津川市のハイキングコースには感謝しても足らない。ただし、熊がいるので、カウンターアーソルトと遠達ベルは必携だが。
私は、広告宣伝とスマホ社会に騙されるなと強く言いたい。広告宣伝は企業の金儲けのためだけに行われている。あなたの健康や、日本社会の未来のためではない。
金儲け思想に騙されて、高級車や高性能スマホを求め、自分の人間力を劣化させ、子供たちの未来を闇に覆わせ、自分は認知症に向かって突っ走っている。
こんな愚かな社会を、いつまで続けるつもりなんだ?

コメント
<Yoshiko🇦🇺ボーダーレス海外転職
@yoshikosay
休暇先で知り合ったオーストラリア人が、東北大震災の時に日本を旅行していたときの興味深い体験談を話してくれた。
直後にはテレビで災害関連の報道が出ていたけど、ある時を境に詳細情報がピタッとなくなり、英語ニュースから情報を得ていたそうだ。その後安全圏に移動してから日本を脱出した。
私はそのときオーストラリアにいて、毎日テレビに映される、誰でも知っている情報を日本の家族に伝えたら、知らなかったのでショックだった。明らかに情報操作していた。
海外からの駐在員たちは、情報を得て会社ぐるみで国外脱出した。海外情報にアクセスできる日本人の友人たちも、安全圏や海外に脱出していた。
世界を震撼させているエプスタイン事件も、日本ではほとんど報道されていないと知り、ショックを受けている。日本語メディアで得られる情報があまりにも違いすぎるため、海外にいると日本人と会話がかみ合わなくなる。
報道の自由度ランキングがどんどん落ちている日本は、現政権下では上がることはないと思う。自分の身を守るためにも、よりよい人生の選択のためにも、日本語以外で情報を取ることは必須だ。>
原発事故の影響も隠されていた。(今も隠されいる)
日本では「どれほど情報が政府の都合に左右されているか?」を知らない人間ばかりです。
知らないままに能天気に生きている。放射能まみれでも知らなければ「知らぬが仏」なのだろう。だが身体への悪影響は防げません。
さらに、首相が統一教会と深い関わりがある事も、彼女が統一教会の日本破壊工作を担っている事も知りません。
日本人はどんどん世界から取り残されていくばかりです。
脱出できる人は早めにこの国を出た方がいいです。
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