面白い講義があったので紹介する。
 
【生物はなぜ老い、そして死ぬのか】小林 武彦_第141回(2025年秋季)東京大学公開講座「人間の在り方、生き方」東大TV / UTokyo TV
  https://www.youtube.com/watch?v=s5wDD_cqU14

 私の認知症になりかかった脳では、全部理解できなかったが、人生の意味を俯瞰するにはヒントになる講演だったと思う。
 ただし、科学というカテゴリーから一歩も外れておらず、私が70年を超える人生体験から抽出した世界観、人生観と共有できるものではなかった。

 最初に、私の人生観を述べておくと、この物質界、唯物論世界の本質は、霊界を反映した茶番劇の世界であり、演習的な展開であるというものだ。
 つまり、宇宙の本質は、霊界の意思にあるのであって、物質界は、その検証プロセスにすぎない。
 それでは、何を検証するために物質界が存在するのかといえば、矛盾を解消するためだ。

 宇宙最大の矛盾といえば、平衡しないエネルギーの偏在であって、この矛盾を解消するために、エントロピー、熱力学第二法則がある。
 宇宙は、ポテンシャルエネルギーがある限り、存在し続ける。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%B3%95%E5%89%87

 宇宙は熱平衡を求めることを原理として存在理由がある。エネルギーの完全平衡を達成したとき、物質的宇宙の存在理由は失われる。
 人間社会でも同じであって、差別、矛盾という非平衡現象がその存在理由になっている。人間社会が平衡を達成すれば、存在理由が消える。
 我々の人生が存在する本当の理由は、この非平衡である。

 非平衡によって、最初に、それを解消しようとする意思が成立し、次に意思を反映した物質が成立し、宇宙は発展する。
 最後に、物質に矛盾が消えた段階で、物質界が否定されて、再び意思の世界に戻る…という構造が、この存在宇宙の弁証法的な原理プロセスだろうと、私は思う。
 宇宙の最後、それは「無限の無」であろうと私は思う。

 これは、言い換えれば、唯心論といってもいい。私は、高校生時代、マルクス主義に触れて、唯物論を知った。物質だけが存在を意味すると信じた。
 家にあった仏壇や神棚は虚構にすぎない無駄なものだから、ぶち壊してしまうべきだと思った。

 しかし、その後の人生で、霊界の存在や、自分の物質界では説明できない超常的能力、現象を知り、どうやら物質界の背後に、それを操っている霊界の存在があるらしいと感づくようになった。
 それは、私にわずかながらの超能力=物質を介在しないで未来を知る力、他人の心の声が聞こえてくるような不思議な能力があり、私の未来予知が、自分の事故死を予告していたのにもかかわわらず、意思の力で、それを避けることができたことなどから、どうやら、自分の肉体を支配している力は、物質の法則ではなく、未来の希望にすがる意思の力であるらしいことが朧にわかり始めた。

 それを現実世界で解釈すると、「人が死ぬのは、究極的な自分の意思による」という真実が見えてきた。
 事故で死んだように見えても、実は、その死は、自分の心が選んだ死であるということだ。死を求めるから、死が扉を開いて招いてくれる。

 人が、老衰死や病死するときも、その人の潜在意識が、それを願って自分で死の世界を選択し、自ら扉を開けて入ってゆく。
 死の運命が定まったとしても、生きなければならない理由のある人は、その扉を開けることはない。
 生きなければならない理由とは何か? たぶん、それは「愛」だ。死ななければならない理由とは何か? それは、たぶん、肉体の老朽化への絶望だと思う。
 ある人にとっては、人生を支えてくれた愛が挫滅崩壊し、絶望することだ。

 私は、70歳を過ぎて、老化現象が、想像をはるかに超えて厳しいものであることを思い知らされた。
 目の前に、即座に判断しなければならない問題が現れても、それを認識し、判断処理する能力が衰えてくる。判断に時間がかかるようになるのだ。だから、非常事態に慌ててブレーキとアクセルを踏み間違えたりする。

 朝、起きた時、すぐに立てない。全身が痛む。記憶が薄れる。必要な固有名詞が出でてこないので、指示代名詞ばかりになる。
 何かを語る時、同じことしか思い出せないので、同じことを繰り返すようになる。同じことしかできなくなる。
 私は、老化現象が、ここまで苛酷なものであるとは予想していなかった。だから、自分の老衰に絶望し、早くこの世を去りたいという願いが芽生えてくることに気づいた。

 だから、老衰した老人たちを、老人専用施設で安楽死させるという思想が登場してきた。
 それは、今や、欧米先進国の標準的思想になり、人々は介護施設で終末を迎えることが人生の定めであるかのように思い始めている。
 老いれば老人施設に入り、終末の安楽死を迎える。
 こんな常識が、本当に正しいのだろうか?
 
 人生は、川の流れに翻弄される木の葉のような客体的なものなのか?
 違う。私には、対象的世界は人間の心が生み出した幻であり、自分のための茶番劇なのだと感じるようになった。
 そして、自分の人生や、運命というものは、自然界の偶然の法則からなどではなく、自分自身のカルマが生み出した運命であると思い知るようになった。
 自分の人生は、自分のカルマが求めた主体的な創造物であると確信するようになった。

 つまり、意思によって人生を大きく変えることができる。
 終末を宣言され、帰属する集団に役立たないとされた老人たちは、ナチスのガス室が形を変えたような安楽死施設に向かわねばならないのか? 楢山節考に描かれた7つの峠の先にある白骨が散らばった小屋に向かわなければならないのか?

 私は、人は集合無意識のなかで、「必要とされる」という動機によって、矢尽き刀折れるまで人生を主体的に展開するという生き方に、人生の本質的な価値である「カルマの解消」を実現するものであるように思える。
 老人には、自分の人生を子供たち、孫たちに伝えるという責務がある。

 それは、人生の最期まで、能動的、主体的に生き抜く姿を見せることではないかと思う。毎日歩いてホメオスタシスを維持し、それでもアポトーシス・ネクローシスのなかで脳の死を迎える、そのときまで自分の死を人々に見せる使命を負っているように思える。
 その死に方が、人々の、より合理的な人生設計を示すのである。

 人間は個人ではない。潜在意識=集合無意識を共有する種の集団であり、一人で生きているように見えて、社会に大きく依存していて、その集団の運命を共有している。
 自分の心の奥底で、絶えず集合無意識とやりとりしていたのだ。
 私は、数年間、稀な電話と買い物以外、誰とも接触しない孤独のなかで生活しているのだが、それでも、ネットなどを通じて、集合無意識のなかで生かされてきたのだと思う。
 そして、私の心が作り出している対象世界も、集合無意識とのつながりで成立していた。

 ほぼ成就していた私の予知が外れたことの意味は、実は、対象的世界は自分が作り出すことができることを意味している。
 霊的な自己存在は、エントロピーが示すような絶対的不可逆の世界ではない。
 ときに、時間を逆行することさえできる。でなければアガスティアの葉が生まれるはずがない。それは木内鶴彦の体験にも見える。

 時間は不可逆ではない。過去も未来も同時に存在していること 2019年11月25日 
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6081453.html

 川に流される木の葉は、ときに自分の意思で、流れを遡ることさえできるのだ。
 だから、すべてを偶然の確率で、不可逆的運命のなかで解釈するダウィーン式の進化論は完全に間違っている。今西錦司の主体的進化論が正しい。
 
   求めたことが実現する世界 2024年03月29日
  https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6122769.html

 意志は対象的世界を変えることができる。この世界は唯物論世界ではない。唯心論世界である。意思があり、次に物質的展開があり、最後に、再び意思の世界が戻ってくる。この弁証法が我々の宇宙の本質であると私は結論付けた。

 ここで、我々の住む日本で起きている、あまりにも深刻な現実を見直してみよう。
 かつて、朝鮮奴隷制度に君臨した支配階級両班の利権を代表する文鮮明が登場してきた。文は、奴隷制度を廃止させた日本国家に究極の恨みを持ち、それを晴らすために、数世代にもわたる、統一教会という宗教を利用した日本滅亡計画を建てた。

 その陰謀が、80年余をかけて、文鮮明の死後も、着々と実行され、今やおおむね実現の日を迎えようとしている。
 その成就は、日本という国家が破滅し、日本列島と呼ばれる日であり、たぶん天皇家の血脈が断たれて、文の血が入った朝鮮族が新たな王として日本列島に君臨する日である。

 日本国が消えても、日本に住む人々が幸せになるなら、私は別に異議はないのだが、文鮮明のビジョンでは、日本国民がエバ国民として、アダム国、韓国の奴隷にされるというわけだ。
 朝鮮両班は、かつて朝鮮人民の8割を奴隷として管理し、使役し、遊んで暮らしていた。
  https://www.youtube.com/shorts/OtrtQk_wiRI

 これを日本が取り上げたことに究極の恨みを抱き、逆に、日本人を自分たちの奴隷とするための陰謀を企てて、まさに今、実現寸前になっている。
 かつての朝鮮人民がそうであったように、奴隷には幸福な人生は存在しない。

 人間に序列をつけ、他人を支配し、利用し、搾取する奴隷社会=階級社会のなかで、人間が生まれてきた真の目的である「カルマの解消」がどのように行われるのか?
 文鮮明は、韓国民を新たな両班階級として、日本人に君臨させるビジョンを描いていた。
 だが、今、韓国は1997年以来の、新たな国家デフォルトを目前に控えて、国家存亡の危機に瀕している。

 文鮮明が、日本人を奴隷にして、韓国民を遊んで暮らせる両班にしようとしたのに、現実は、韓国民が借金によって火ダルマになる寸前だ。
 日本国民は、統一教会員の国家官僚に支配され、搾取され、苛酷な生活苦に追い込まれているのだが、韓国民は日本人を奴隷として利用する前に、崩壊し滅亡しそうだ。
 これが、統一教会のカルマというものだと私は思う。

 それは、人々の潜在意識、習合無意識が、かつて、日本帝国主義が支配した1900年~1945年までの、わずか40年余りに、朝鮮人民を奴隷制度から解放し、人口が二倍に増えたことの意味を理解しているからだと思う。
 日本を奴隷にするという文鮮明の意思とは逆に、朝鮮の人々の多くの潜在意識=集合無意識には、朝鮮を両班から解放した日本への感謝があるのだ。

 だから、韓国にあっては、日本のような反日統一教会は成立していない。1964年の日韓条約によって、両班出身の朴正煕は巨額の賠償資金を、すべて両班階級に与えた。これによって財閥が成立したが、それは、すべて両班階級だった。
 ナッツ姫事件の趙顕娥は、奴隷制度時代の両班の人間性そのものだった。
 大半の韓国人は、自分たちを奴隷に貶めてきた財閥=両班が不快で仕方なく、そこから生まれた韓国統一教会も支持していない。むしろ強烈に反発しているから、その心情を利用して、ともに民主党が成立している。

 さて、大多数の日本人の集合無意識は、このまま統一教会の奴隷社会を受け入れるのだろうか? 高市早苗=自民党=国家官僚 という日本の新たな両班階級を認めるのだろうか?
 それは、日本人のなかにある序列意識、差別意識が定めるものだ。若者たちが、かつての李朝社会のような差別社会を求めるなら、文鮮明のビジョンは成就するだろう。
 しかし、若者たちが、武力による恐怖支配ではなく、人間愛の社会を求めるなら、文鮮明=統一教会の陰謀は失敗に終わる。

 統一教会は、正体が暴露されることに焦って、著しい不正選挙に手を染めてしまった。今や、野党の大半まで支配してしまった統一教会であっても、多くの人々に不正の真実が知られることによって、自民党=保守への幻想が崩壊し、日本は愛の社会を取り戻すことができると私は思う。
 私が、毎日のように統一教会問題を書いているのは、そういう意味だ。

 この世界は思ったこと、願ったことが実現する世界だ。決して偶然だけが作用する進化論世界ではない。
 ヘーゲルは、人間と社会は合理的な方向にのみ、進むと指摘し、その目的地は「絶対精神=イデー」の社会であると指摘した。ただし、合理性に進むとき、それは大きな螺旋を描いて、行ったり来たりする双六のようなプロセスを経て、絶対知という「上がり」に達するのだ。


 統一教会の陰謀を忌避し、日本人を奴隷にする計画を持った自民党、統一教会を拒否する意思によて、自分たちを救うことができる。しかし、それも、螺旋を描く双六の道であることを覚悟する必要がある。