といえば、儒教の最大教典である「論語」に出てくる、
 【子曰わく、唯女子と小人とは養い難しと為す。之を近づくれば則ち不孫なり。之を遠ざくれば則ち怨む。|「論語」陽貨第十七】
 子曰、唯女子与小人為難養也。近之則不孫。遠之則怨。

 意味は、修養も自制心もない女性と、小人・徳がないつまらない人物は扱うのが難しい。近づければ思い上がり、遠ざければ怨むようになる。「論語」陽貨第十七25
 =向学心も自制心もない人物の扱いは難しい。親しくすれば思い上がり、距離を取れば怨むようになる。
https://arukanatikait.com/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%81%A8%E5%B0%8F%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AF%E9%A4%8A%E3%81%84%E9%9B%A3%E3%81%97%EF%BD%9C%E3%80%8C%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%80%8D%E9%99%BD%E8%B2%A8%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%8325-10211.html
 より引用
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 朝鮮儒教である朱子学を日本社会全体に持ち込んだのは家康だった。
 家康は藤原惺窩や林羅山に命じて、全国の藩校や寺子屋で、儒教を教書にした教育体制を整備させた。その最大教書が論語だった。藩校では史記なども用いられた。
 この当時、日本民衆の識字率は約8割と、世界最高水準だった。中国朝鮮では2割ほど。欧州でも4割に満たなかった。

 これが、264年という世界最長政権をもたらした本質だったと私は思う。
 それによって、全国に「儒者」と称する知識人がウヨウヨと出てきて、冒頭に書いたような男尊女卑思想=序列主義を全国の民衆に共有させた。

 日本で男尊女卑傾向が強い地域といえば、最初に九州が浮かぶが、呉越戦争で敗北して蘇州から船で台湾・山東・済州島・九州などに逃げ込んだ呉の人々が弥生人となり、神武王朝や邪馬台国を形成したと考えられるが、実は、彼らは長江照葉樹林対文化圏の価値観を持った人々であり、母系氏族の伝統があったので、男尊女卑思想はなかったと私は考えている。
 (照葉樹林帯文化は、中尾佐助・佐々木高明の偉大な学説があり、矛盾なく説明している。江上波夫とともに、私がもっとも信用している史学者・文化人類学者である)

 なぜ九州が照葉樹林帯文化の特徴であるはずの女性優先思想と真逆の男尊女卑地域なのかというと、九州が地理的に朝鮮半島との交流が多い地域であり、朝鮮からの移住者によって、儒教的男尊女卑思想が侵入したと思われる。
 薩摩で封建的価値観が著しく強いのは、鎌倉時代から九州の守護だった島津氏が、もともと朝鮮渡来人であり、儒教思想を持ち込んだと考えられる。

 最初に儒教の封建思想が日本に入ったのは、おそらくAD300年頃で、当時100万人しかいなかったと思われる日本人社会に、突然10万人近い?(200県=県は千人規模だった)百済女真族(弓月=秦氏)が、たぶん国ぐるみで移住してきた段階で、彼らは百済国内で成立していた儒教思想を、そのまま日本に持ち込んだと思われる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
 
 古墳時代~奈良時代に日本に流入した、朝鮮半島の騎馬民族は、もともと儒教思想を持っていたことにくわえ、遣唐使・遣隋使が日本に儒教序列主義を持ち込んだ。
 儒教は民衆救済思想ではなく、特権階級の利権を守るための差別に満ちた階級序列主義だった。
 だから奈良時代、天武天皇が大仏を建立したのだが、法隆寺にも東大寺にも、下層大衆(白丁ら)は立ち入ることができなかった。聖徳太子の仏教も、上流階級の独占物だったのだ。
 
 これを打破して、釈迦本来の教えである因果応報思想、民衆救済を実践したのが、鎌倉仏教の聖や遊行僧だった。一遍、親鸞、法然、栄西、道元らが、民衆のなかに降りて行き、仏教を大衆のものに変えた。

 だが、家康が、鎌倉仏教をの8万寺というわれる仏寺に「寺請制度」を持ち込んで、徳川支配制度に組み入れて、儒教を教える寺子屋などに変え、再び、仏教も、儒教の影響を受けるようになった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%AB%8B%E5%88%B6%E5%BA%A6

 武家社会は、朝鮮半島時代から儒教の男尊女卑を思想に含んでいた。最大の理由は、女性が戦闘に向いていないことから、戦争第一の時代に、下に見られていたからだ。
 人類の根源では母系氏族社会だっのだが、いつのまにか男系氏族封建社会になっていた最大の理由も、部族が増えて、テリトリー争いを繰り広げるなかで、男性が優位だったからだ。

 江戸時代の男尊女卑思想が、男女平等に傾くようになったのは、まだ戦後、1980年代以降のことで、2026年の現在に至ってもなお、男尊女卑を持ち出す人が絶えない。
 その代表が、日本政府を乗っ取った統一教会であり、高市早苗が日本初の女性首相でありながら、愛子天皇を拒否する理由は、彼女が所属している統一教会教祖、文鮮明が、朝鮮儒教の儒者だったことによる。

 女性天皇拒絶は、統一教会の男尊女卑思想を反映したものにほかならない。
 https://ameblo.jp/marosanlover/entry-12770819072.html
 文鮮明は、封建的家父長秩序を強要したので、「家族を守る」という封建道徳の価値観を日本人に押し付けた。

 「こども家庭庁」 なる無駄無益の象徴である部署は、統一教会が生み出したもので、10兆円の予算は、統一教会関連企業に流れている。少子化対策を挙げて作られたが、少子化の原因は、「日本人の税金を4~5倍に上げて生活水準を三分の一以下にする」という文鮮明の指示が実行され、若者たちが生活苦に陥って子供を作れなくなったせいなので、こども家庭庁は、少子化対策には逆効果しかもたらさない。

 孔子が、冒頭に紹介したように、【唯女子与小人為難養也。近之則不孫。遠之則怨】とした理由は、儒教の本質が徹底した序列主義であり、人間には生まれながらの序列=格があって、下位の者が上位の者に従順に従うことが社会安定の基礎だと定めたことによっている。

 この理屈は、国家権力の運営にこの上なく都合の良い思想だったので、東アジアの国家権力のほぼすべてが儒教を取り入れた。
 なかでも、絶対的な価値観にまで昇華させたのが、中国、朝鮮半島、ベトナム、日本、モンゴルなどだった。
 中国共産党や北朝鮮が序列を絶対視し、北朝鮮に至っては、民衆を51階級に分類して差別させている。上位の者に対して下位は服従を誓わねばならないので、この両国では序列地位がとてつもない重みを持っている。

 日本社会も戦前までは、家康朱子学の影響で、序列地位が極めて重要な人間の尺度だった。維新後も、山縣有朋が序列主義と身分差別を推進したのだ。
 つい1980年代くらいまで、序列上位の者はセクハラ・パワハラ犯罪を行っても、もみ消すことができた。
 戦前など、夫の権威と地位が絶対であり、妻に対し、どんな暴虐支配を行っても世間が、「妻が我慢するのが当然」として、亭主関白を受け入れていた。
 だから梅毒亭主に理不尽に迫害された金子みすゞが自殺した事件は、ありふれていたといえる。
 https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2025/03/09/17452

 幕末に、倒幕思想の拠り所となった、本居宣長、賀茂真淵、荷田春満、平田篤胤など国学四天王の思想も、土台は儒教の序列主義だった。
 天皇を北朝から南朝に変えただけともいえる。実は、わが中津川市は、維新国学の非常に盛んな地域だったので、廃仏毀釈の全国最大級の尖兵となった。
 仏教に変わる神道が、地域住民に浸透していて、わが蛭川の9割が神国教という神道宗派の信者となっている。実際には、冠婚葬祭だけが教理だが。

 私の祖母は、峠を超えた隣村の黒川村(白川町)の出身で、10代の若い頃、村を出て知立の酒屋に入り、そこで祖父と知り合った。不倫だったらしい。祖母は、神道を捨てて、プロテスタント・クリスチャンとなった。大正時代のことだ。以来、敬虔なクリスチャンとして100歳の生涯を終えた。

 祖母が、黒川村を出た理由を、直接聞いた訳では無いが、たぶん女性にとって住みにくい社会だったことが原因だろう。
 黒川村も苗木藩であり、男尊女卑思想が著しい地域だったからだ。祖母は、黒川村の男尊女卑思想が嫌だったのだと思う。

 祖母が村を出てから、数年後、村は空前の満蒙開拓団ブームに沸いた。中津川や信州全土の貧しい村人たちは、満州の豊かな新天地に希望をいだいた。
 満州は寒いが、黒川村も厳冬期はマイナス20度近くなるので、寒さにも耐える経験があった。
 そして、日本が敗戦し、ロシア軍が満州に攻め入り、満蒙開拓団は、阿鼻叫喚の地獄に叩き込まれた。
 このとき、黒川村の女性たちに、恐ろしい運命が強要された。

 「刻印 満蒙開拓団、黒川村の女性たち」松原文枝著 2025/10/08
 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/378568

 https://www.youtube.com/watch?v=QGMoYkraj4w

 2017.08.24あの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き
〜開拓団「乙女の碑」は訴える【後編】
 https://gendai.media/articles/-/52609

 祖母は、満蒙開拓団募集の10年前に村を出た。だから上に描かれた運命を避けることができた。だが、後に、飛騨川バス事故に担当職員として同乗したことで、やはり地獄を味わうことになった。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/1654700.html

 いったいなぜ、黒川村の女性たちは、「村人を守る」という口実で、ソ連兵の性接待を強要されたのか。命令したのは、黒川村出身の男性リーダーだった。
 実は、今回のブログを書く動機は、この事件を取り上げることだった。
 黒川村の男たちに、村人のために若い女を犠牲にするということに抵抗がなかった。北信州の開拓団では、そんな実話は確認できなかった。
 南信では、中津川市坂下=読書村の開拓団も悲惨な体験を強いられてた。

 旧苗木藩傘下の貧しい村は、一様に満蒙開拓団で言語に尽くせぬ悲惨な運命を強いられた。
 私は、それが廃仏毀釈の思想だった国学神道、そして男尊女卑思想と深い関係があったと思う。
 祖母は、それが嫌で村を出て、神道を捨ててクリスチャンになったのだ。

 女を男よりも下の存在と決めつけるのは、儒教の本質である。序列主義の最初の差別が、男女差別であり、男尊女卑を産んでいた。
 すべての人間差別が、男尊女卑思想から派生したものである。
 逆に、男尊女卑が消えれば、この世のすべての差別が消えると私は確信している。

 儒教の男尊女卑が、どこから来たかといえば、それは旧約聖書だ。
 旧約聖書のなかでは、女性の不倫が処刑という手段で罰せられることになっている。現在でも、旧約を信奉するイスラム諸国では、若い女性が強姦されたことで、加害者ではなく被害者が投石によって処刑される理不尽な事例が無数にある。
 https://www.bbc.com/japanese/34718223
 https://www.asahi.com/articles/ASM435TG6M43UHBI01L.html

 文鮮明は、こうした封建的な男尊女卑を日本に持ち込もうとしていた。統一教会の作った「国際勝共連合」は、封建的家族観を国民に強要していた。
 現在、統一教会の最高幹部である梶栗正義も、封建的家族の価値観を前面に出している。同じく高市早苗も儒教的価値観を公然と示している。
 つまり、統一教会政権の下では、黒川村の悲劇が繰り返される必然性があることを意味している。

 私は、男性優先の封建的家父長制度は、再び、女性優位の社会にとって代わられる必然性があると何度も書いてきた。
 それは、子の親は乳を与える母だからだ。種付けの父親など、子供にとって本当の親ではなく、部族氏族は、すべて母系になる必然性があるからだ。
 男系氏族が登場したのは、戦争という前提が社会を束縛していたからである。
 だから、戦争の必要がなくなれば、社会は女性を核心とする母系氏族社会が復活する必然性があると考えている。

 戦争は、資本主義の時代になっても、企業間競争という形で続いていて、最近では、再び、国家戦争の時代に逆進し、第三次世界大戦が避けられなくなっている。
 その後、巨大なダメージの下から母系氏族社会が復活すると私は考える。

  行基は奈良時代の僧でした