20世紀の末、バブルが崩壊し、贅沢浪費文化に冷水が浴びせかけられ、大量のホームレスが街を徘徊するようになった。
 インターネットが1990年ころから社会全体に拡散し、10年で一種の化物メディアに成長した。

 世紀が代る前には、ネット社会は、あらゆる法的規制が追いつかず、社会の常識や倫理的規制を真正面から破壊する挑戦的なコンテンツに溢れた。
 政治も宗教も、法規制も追いつけないほどの速度で、ネット情報が縦横無尽に人々を席巻した。

 人間、なんでも許されるなら何が起きるのか?
 行き着く先の一つの姿が、1990年代後半のインターネット情報だった。そこには、それまで社会悪として忌避されてきた、エロ・グロ・ナンセンス、人々が隠し続けてきた人間のあらゆる恥部が展開されていた。
 当時の恐るべきコンテンツを紹介したくても、今ではお高く止まった宗教的価値観にがんじがらめに規制されて、ほぼすべてユダヤ系の検索エンジンが封鎖してしまっている。

 今、当時の面影を彷彿とさせるコンテンツを探すと、ポッカキットあたりがそうかと思うが、リンク先の各所にウイルスやマルウェアの罠が仕掛けられていて、怖くてアクセスできない。この猛毒化された悪意の演出も、たぶんネット界のユダヤ人宗教警察が画策したのではないかと疑う。
  https://www.po-kaki-to.com/page/3

 本当の世紀末に起きた世紀末現象が、パンドラの箱から解き放たれたインターネット情報だった。ところが、新しい世紀に入ったころ、突然のように、一斉にグーグル・マイクロソフトを始めとするユダヤ系検索エンジンがネット界を完全支配し、宗教的倫理観をむき出しにして、パンドラの悪魔たちを叩き潰しはじめた。

 世界言論界を支配してきたのは、ユダヤ人資本だった。たとえば、メディア界ではマードック帝国(WSJ・FOXなど)だ。日本では電通だ。電通が社標にユダヤの五芒星を使い、本社床に「ルシファーの眼」を散りばめていることで、本当の正体がユダヤ教だと自分で宣伝している。
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 21世紀に入って、ネット界は、極端な倫理規制が巾をきかせるようになった。
 前世紀には、ネットでも戦争の遺体を見ることが自由だったし、犯罪の遺体も、ホームレスの遺体も、どこででも目にすることができた。
 だが、今では、ネットの勝手に作られた法律が、遺体を直視することを厳格に禁止しているようだ。当然ながら、その死の理由についても語れなくなってしまった。
 「死」について、見ることも、話すことも禁止されているかのような規制がコンテンツを貫いている。

 我々の生活は、あたかも死や被害とは無縁の、キレイで平和なものであるかのような幻想に支配されるようになった。一種の情報洗脳といえるだろう。
 そして、その人間社会には死が存在しないかのような価値観が蔓延するなかで、「安楽死」が密かに、大規模に導入されるようになった。

 また、街にいた障害者たちも見かけなくなった。街頭には見目麗しい魅力的な男女しかいない。私たちの子供の頃には、至るところに障害者も負傷者も死者もいた。
 被曝障害である兎唇の子供やダウン症なんて、普通にいたのに、今でも街を歩いていても見かけるのが難しい。みんな施設に送られて、外部世界から目隠しされてしまっているのだ。

 私の子供のころ、名古屋駅に行っても、大須に行っても、そこに白衣と軍帽の傷痍軍人たちがアコーディオンで軍歌を流して物乞いをしていた。戦後、20年を経た東京オリンピックの年ですら、戦時には幼児であっただろう若い傷痍軍人風がいた。
 私は、身体障害の物乞いについて、中国では自分の子の足を切断して、上海の街頭で物乞いをさせている親が少なくないことを聞いていた。

 だが、今世紀に入って、あれほどいたホームレスの姿が街頭から消えた。人間社会には、もともと、人々の同情心や好奇心を刺激するような存在がなかったかのように、ずいぶんとキレイな社会になってしまった。
 死者もいない。障害者もいない。物乞いもいない。ホームレスもいない社会がやってきた。というより、見事に隠蔽される社会がやってきた。

 代わりにやってきたのは、少しでも「異常」だと見られると、何らかの施設に閉じ込められる社会。「正常な人間しかいない社会」。そして、老化や死を意識すると、安楽死を求められる社会だ。
 日本では、鎌倉仏教の教えにより、人が老化し、衰え、死を迎える姿を、人間の全体像、自然な姿の一部として尊び、「衰えたなら殺してしまえ」という安楽死思想は育たなかった。

 だが、植民地人民を搾取したり虐殺したりする残酷な帝国主義を経験した国では、「生産力を失った者には生きている資格がない」という合理思想があり、「役に立たない者は死ね」という思想が共有されている。
 17世紀の帝国主義国家、ベルギー・オランダ・スペイン・ポルトガル・フランス・カナダなどでは、必ず「安楽死」が推進され、今でも子供であっても本人の意思さえあれば安楽死が許容される国が拡大している。
 
子どもの安楽死を認める国も…なし崩しで対象が広がる危険な実態 児玉真美: 著述家 2024年3月14日
 https://diamond.jp/articles/-/337888

 日本でも、「お国に役立たない障害者は生きている資格がない」とする「優生保護法」によって、数万人の障害者が強制不妊手術を受けさせられ、数千人の障害妊婦が強制堕胎させられ子供殺害されたのは、まだ1948~1996年までのことだ。日本政府が障害者への強制不妊中絶手術を正式に謝罪したのは、2025年であり、まだ昨年のことだ。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6143807.html

 街頭からホームレス物乞いが消え、ネットから死者の画像が消え、社会の恥部が隠されるようになったことと、密かに安楽死が大規模に浸透している事情は、たぶん一体のものであり、子どもたちは、死について具体的なイメージが希薄になってゆくなかで、ネタニヤフによるガザの大虐殺、ジェノサイド、そしてトランプによるイランの、「誤爆」と称した意図的な、女子小学生の大虐殺が起きた。

 もしも同じ事件が1970年代に起きていたなら、我々は憤激して立ち上がり、街頭でネタニヤフやトランプを激しく糾弾したにちがいない。
 実際、私はベトナム戦争のアメリカによる大虐殺に怒って、ベトナム反戦デモに参加し、反戦活動に人生を捧げようと決意したのだから。
 だが、今、ガザやイランの虐殺に対して、ものをいう人は少ない。反戦デモに立ち上がる人も少ない。若者たちに、死のビジョンが薄く、怒りも湧かないからだ。

 若者たちは、ガザやイラン小学校での死が、具体的にイメージできない。イメージするための画像や映像の情報が隠されてしまっているからだ。死というものがなんであるのか、考えることさえ遠ざけられてしまっている。
 トランプの岩盤支持層であるキリスト教、プロテスタント福音派は、日本への原爆投下に大喝采したそうだ。ニクソンの北爆も全面支持した。
 彼らは、憎悪と復讐にこそ正義を見出しているのだ。

 死のビジョンを取り上げられた若者たちは、福音派のように報復こそ正義であり、泥沼の戦場に憧れさえ抱いている。
 だから、社会の合理性ばかりに目が向い、合理性という弁解さえあれば、「お国のために役立たない」障害者や老人が死ぬのは当然と、洗脳されつつあるのではないだろうか?

 だから、私は再び、統一教会の高市早苗や参政党の神谷宗幣が主張するような国家主義の社会=人間よりも国家の方が価値が高いという幻想=が復活し、優生保護法が復活しようとしていると感じている。
 国家の優劣のためには、人の基本的人権など何の価値もないとするのが高市早苗だ。
 だからお国に役立たない障害者や老人は、誰も気づかないうちに消してしまえという思想が出てくる。

 私は老人になった。70年を過ぎたあたりから、記憶が著しく衰え、固有名詞が出てこなくなった。今では、ブログを書くのに、ネットの検索システムが手放せないのだが、その検索情報に、国家に都合の悪い記述が出てこなくなった。
 今世紀に入って、グーグルがネットの主導権を支配するようになってから、ユダヤ教の価値観を否定する記述や、トランプ、ネタニヤフ、高市早苗を否定する記述がひどく減った。
 人間の残酷さを糾弾するサイトがほとんど検索から外されるようになったので、優生保護法や731部隊のサイトを見出すことが非常に困難になってしまった。

 私は、自分が老人になってみて、これほど老化現象に苦しめられるとは予想していなかった。それは、老化や死に関する情報が、あまりにも少なかったせいだ。
 記憶力低下ひとつとっても、もう自分には生きている価値がないのではないかと、暗く沈んだ気分になり、公的機関が安楽死を用意してくれるなら、応募する選択肢が頭をかすめるのだ。

 しかし、違う!
 我々は、高市早苗のように「てっぺんに上る」ことが正義であるかのように、人々を追い立てる競争社会で洗脳されてきた。他人を見下し、自分の優越性に耽溺するナルシズム人生が正義であるかのように洗脳されてきた。

 しかし、本当の社会、本当の人生は、共同体部族社会のなかにある。人は一人では生きられない。たくさんの人々の愛のなかで生まれ、愛の力で成長し、愛に看取られて死んでゆくのだが、同時に、「愛を与える」主体のなかで人生の喜びを味わってきた。
 そこには「役に立たなくなったら死ね」という思想は存在しない。

 老いるということは、若者たちに、自分のありのままの姿を見せ、誰もが老いて、そして死の運命を免れることができないことを教えることなのだ。
 自分が弱くなり力を失ってゆく姿を若者に見せることが、若者たちが正しい社会を設計するために必要な情報なのだ。
 死の姿を見せることが、「誰でも死が待っている」真実を、子どもたち若者たちに理解させ、死を前提にした社会設計が必要であることを納得させる。

 今、死に関する情報を与えないネット社会は、その方が都合が良い社会勢力が、意図的に、人生にはキレイゴトしかないような錯覚を与えるよう意識して演出している。
 死を見つめ続けて、生きるために何が必要なのが、思索する人たちには、「お国ために命を捨てて戦場に向かう」という思想は成立しないのだ。
 戦争でぼろ儲けしたい勢力にとって、死の意味を考える人が増えることは有害無益である。だから、死の情報を遮断しているのだ。

 老いるという情報も同じように遮断している。あたかも、人間は最期までパラダイスのなかにいられるようなファンタジーを宣伝している。
 安楽死が、本当に豊な老後の結末であるかのように宣伝している。
 だが、それは真っ赤な嘘だ。社会から隔離され、孤立させられた「安楽死」は、T4作戦で障害者たちがトラックの排気ガスで「安楽死」させられたのと、なんら変わらない。
 老いて、死を迎える姿は、子どもたち若者たちに、そのままの姿で見せられることが、本当の社会の暖かい未来を生み出すものだった。