AI自動化が人から苦労を奪い、それが知能・思考力を奪うことで人類を滅ぼすことを繰り返し書いてきた。
AI化社会が宣告する人類の滅亡 知能の崩壊 2026年08月04日
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6251904.html
ある研究者が「AIによって人類が破滅する確率は99.9%」と考える理由
https://www.businessinsider.jp/article/288140/
「AIを使うほど人はバカになる」は本当か? 研究が示す思考力低下のリスクと3つの対策 2026年06月13日
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2606/13/news006.html
ここで、「人間の本質」を考えてみたい。人間の正体を知らなければ、便利さ、合理化が、人の何を滅ぼすのか? という意味も理解できない。
人がなぜ生きているのか? という問題だ。
私が70年以上の人生を顧みて、やや高い場所から俯瞰してわかったこと。
それは � ^Δ箸いΣ�楽に浸りたい欲求 �⊃�欲を満たしたい �9ゴ饋瓦鯔�たしたい �だ�欲を満たしたい �ゥ灰鵐廛譽奪�スを解消したい
というあたりではないかと思う。
生まれてすぐ、母ちゃんの乳を吸いたい。母ちゃんの愛に浸りたい。五感にもたらされる世の中の刺激を見て、それがなんであるのか深く知りたい。
人が生きている最大の理由、それは好奇心かもしれない。人間は、「この先、何があるのだろう?」と期待と希望に胸を膨らませて、これから待ち構えるなにものかを見ようとする。
これが、人生と社会を根源で支えている好奇心だ。生まれ落ちて、母ちゃんの乳に満足した後は、ドキドキ、ワクワク、心をときめかせる未来のために生きてゆく。
このワクワク感こそ、人生の原理的モチベーションなのだろう。
人は、死ぬ直前まで、たぶんワクワクする未来を見ようとしている。
実は、今、人類を滅ぼそうとしている主役、コンピュータAI社会と放射能汚染、環境破壊も、このワクワクがもたらした結果というしかない。
ワクワクがなければ人生ではない。胸をドキドキさせてくれるなにものかが、生きる喜びになる。
高度な技術の延長に、何かワクワクさせるものを見ながら、未来に希望を託してきた。
しかし、とてつもない進歩、希望の行き着く先には正真正銘の地獄が待ち構えていた。
それは、「何かを得ようとすれば何かを失う。」 この弁証法的世界の宿命がもたらすものだ。
放射能もコンピュータも、高級自動車も、豪邸も、セレブという幻想も、あらゆる優越感も、すべて同じだ。
優越感に浸りたいから他人を出し抜きたい。自分の人生に価値を見出したい。
だが、そうして得たものは、何かを捨てた見返りに得られたものだ。何を捨てたのか? それに気づく人は少ない。
冒頭に紹介した、AIを開発し、便利さを享受した先に待ち構えている現実。すべての政府・軍隊を黙らせる核兵器の威力がもたらすもの。
私のブログの主題は、いつでもそこにある。人間は楽をしてはいけない。いつでも、緊張感を持って、五感を研ぎ澄まし、自分の能力を試しながら困難に立ち向かう。
そうして、人間の本来与えられた肉体と頭脳のパフォーマンスを維持することができる。
人の心の潜在要求は、少しでも楽ちんすることを求め、なんでも節約したがる。
だから、便利なものにすぐに飛びつきたがる。高度な技術が自分を救ってくれると信仰したがる。強いものが自分を助けてくれるだろうと幻想を抱く。
だが、それは完全に間違いだ。
人生の目的は、他人を出し抜くことではない。見下すことではない。カネや技術、評価はすべて虚構である。生きている刹那の小さな愛だけがホンモノだ。
今、困難と向き合って、問題解決している刹那の緊張だけがホンモノだ。
決して忘れてはならないことがある。
人は必ず老いる。人は必ず死ぬ。人生には終わりがやってくる。社会も同じだ。この宇宙さえ同じだ。
私は、終わりの日が近づいていることを、毎日思い知らされている。毎日のように、基本的な肉体機能が劣化し、脳が劣化し、それとともに、自分が価値と信じてきたもの、すべてが実は無価値であったことを思い知る毎日だ。
それでは、自分の人生に本当の価値はあったのか?
今70余年の人生を振り返ってみて、私の人生に価値があったのだろうか?
私は、物質的ななにものも生み出さなかった。私は財産を生み出さなかった。人からの信頼も生み出さなかった。人へ、ろくに愛もあたえなかった。
私の人生を振り返って良かった思い出といえば、百名山を登り、日本中、数千の山を歩いたことくらいだろうか?
だが、私は何も残さなかった。書いているブログも、私の死とともに雲散霧消することだろう。財産もゴミの山くらいしか残さない。
私の肉体は、やがて呼吸を失い、腐敗し、ゴキブリの餌となる。
それも、風化し、すべてが無に還る。心も残していない。善行もしなかった。かといって、孤独が苦痛だったわけでもない。
高いところから自分を顧みて、良かったことはなんだろう?
それは、ほんの少しだけ、人を大切に扱ったことだろうか?
私は、かなり救いのないボケ老人だが、かといって、私の対極にある核開発や核兵器、コンピュータやAIが人々を大切にしたか? 幸福を与えたか?
それは、人々を苦悩と苦痛に叩き込み、人類の未来を閉ざそうとしている。
多くの科学者たちは、優越感の土台に建てた科学技術という信仰を神の上に置いている。それだけが人類を救済してくれると妄想している。
だが、今では、それが人生にとっても人類の未来にとっても何一つ役立たない、悪魔の演出した悪夢にすぎなことを知る人が増えた。
人間にとって本当に必要なものは、優れた技術や生産能力ではなかった。
それは、小さな人の笑顔であって、心を一瞬暖め癒してくれる刹那だったのだ。
それさえあれば、人間は、十分に生きて未来を生み出すことができたのだ。
巨大なコケオドシの施設も、人類を何千回も滅亡させられる軍備も、強大な国家も、権威も、権力もいらなかった。
本当に必要なものは、小さな笑顔だけだった。
今、このことに気づいた人は、もう核開発や高級車やセレブに騙されることはない。
人生は、連綿と続く魂のひとときに過ぎないことが分かる。
人は、たくさんの肉体をとっかえひっかえ、真実とは何か? というカルマを学んでゆくのだ。人生はカルマのためにある。この人生でカルマを還せなかったなら、来生があるという希望に心を委ねて、静かに超越して、死を待つことが人生だった。
私が、何度も書いていることだが、私自身の体験から、人生と宇宙の理を学び、豊かな人間性を育てるために必要なことは、たぶん動物と一緒に生きることだと思う。
とりわけ鶏を飼育することを推奨する。庭で放し飼いができれば、ムカデや多くの害虫を食べてくれて本当に助かる。土がとても肥えて、ジャガイモを多収できる。
ただし、頑丈な柵を設けてもアライグマの襲撃があり、空からはオオタカの襲撃がある。宇宙の摂理を学ぶには、これ以上ない教室になると思う。
もちろん、わが中津川市のような過疎の山村でなければ無理だが…。
もうすぐ人々を苦しめ続ける統一教会=文鮮明の亡霊が滅亡するので、その後は、ずいぶんと田舎暮らしが楽になるだろうと思う。
AI化社会が宣告する人類の滅亡 知能の崩壊 2026年08月04日
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6251904.html
ある研究者が「AIによって人類が破滅する確率は99.9%」と考える理由
https://www.businessinsider.jp/article/288140/
「AIを使うほど人はバカになる」は本当か? 研究が示す思考力低下のリスクと3つの対策 2026年06月13日
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2606/13/news006.html
ここで、「人間の本質」を考えてみたい。人間の正体を知らなければ、便利さ、合理化が、人の何を滅ぼすのか? という意味も理解できない。
人がなぜ生きているのか? という問題だ。
私が70年以上の人生を顧みて、やや高い場所から俯瞰してわかったこと。
それは � ^Δ箸いΣ�楽に浸りたい欲求 �⊃�欲を満たしたい �9ゴ饋瓦鯔�たしたい �だ�欲を満たしたい �ゥ灰鵐廛譽奪�スを解消したい
というあたりではないかと思う。
生まれてすぐ、母ちゃんの乳を吸いたい。母ちゃんの愛に浸りたい。五感にもたらされる世の中の刺激を見て、それがなんであるのか深く知りたい。
人が生きている最大の理由、それは好奇心かもしれない。人間は、「この先、何があるのだろう?」と期待と希望に胸を膨らませて、これから待ち構えるなにものかを見ようとする。
これが、人生と社会を根源で支えている好奇心だ。生まれ落ちて、母ちゃんの乳に満足した後は、ドキドキ、ワクワク、心をときめかせる未来のために生きてゆく。
このワクワク感こそ、人生の原理的モチベーションなのだろう。
人は、死ぬ直前まで、たぶんワクワクする未来を見ようとしている。
実は、今、人類を滅ぼそうとしている主役、コンピュータAI社会と放射能汚染、環境破壊も、このワクワクがもたらした結果というしかない。
ワクワクがなければ人生ではない。胸をドキドキさせてくれるなにものかが、生きる喜びになる。
高度な技術の延長に、何かワクワクさせるものを見ながら、未来に希望を託してきた。
しかし、とてつもない進歩、希望の行き着く先には正真正銘の地獄が待ち構えていた。
それは、「何かを得ようとすれば何かを失う。」 この弁証法的世界の宿命がもたらすものだ。
放射能もコンピュータも、高級自動車も、豪邸も、セレブという幻想も、あらゆる優越感も、すべて同じだ。
優越感に浸りたいから他人を出し抜きたい。自分の人生に価値を見出したい。
だが、そうして得たものは、何かを捨てた見返りに得られたものだ。何を捨てたのか? それに気づく人は少ない。
冒頭に紹介した、AIを開発し、便利さを享受した先に待ち構えている現実。すべての政府・軍隊を黙らせる核兵器の威力がもたらすもの。
私のブログの主題は、いつでもそこにある。人間は楽をしてはいけない。いつでも、緊張感を持って、五感を研ぎ澄まし、自分の能力を試しながら困難に立ち向かう。
そうして、人間の本来与えられた肉体と頭脳のパフォーマンスを維持することができる。
人の心の潜在要求は、少しでも楽ちんすることを求め、なんでも節約したがる。
だから、便利なものにすぐに飛びつきたがる。高度な技術が自分を救ってくれると信仰したがる。強いものが自分を助けてくれるだろうと幻想を抱く。
だが、それは完全に間違いだ。
人生の目的は、他人を出し抜くことではない。見下すことではない。カネや技術、評価はすべて虚構である。生きている刹那の小さな愛だけがホンモノだ。
今、困難と向き合って、問題解決している刹那の緊張だけがホンモノだ。
決して忘れてはならないことがある。
人は必ず老いる。人は必ず死ぬ。人生には終わりがやってくる。社会も同じだ。この宇宙さえ同じだ。
私は、終わりの日が近づいていることを、毎日思い知らされている。毎日のように、基本的な肉体機能が劣化し、脳が劣化し、それとともに、自分が価値と信じてきたもの、すべてが実は無価値であったことを思い知る毎日だ。
それでは、自分の人生に本当の価値はあったのか?
今70余年の人生を振り返ってみて、私の人生に価値があったのだろうか?
私は、物質的ななにものも生み出さなかった。私は財産を生み出さなかった。人からの信頼も生み出さなかった。人へ、ろくに愛もあたえなかった。
私の人生を振り返って良かった思い出といえば、百名山を登り、日本中、数千の山を歩いたことくらいだろうか?
だが、私は何も残さなかった。書いているブログも、私の死とともに雲散霧消することだろう。財産もゴミの山くらいしか残さない。
私の肉体は、やがて呼吸を失い、腐敗し、ゴキブリの餌となる。
それも、風化し、すべてが無に還る。心も残していない。善行もしなかった。かといって、孤独が苦痛だったわけでもない。
高いところから自分を顧みて、良かったことはなんだろう?
それは、ほんの少しだけ、人を大切に扱ったことだろうか?
私は、かなり救いのないボケ老人だが、かといって、私の対極にある核開発や核兵器、コンピュータやAIが人々を大切にしたか? 幸福を与えたか?
それは、人々を苦悩と苦痛に叩き込み、人類の未来を閉ざそうとしている。
多くの科学者たちは、優越感の土台に建てた科学技術という信仰を神の上に置いている。それだけが人類を救済してくれると妄想している。
だが、今では、それが人生にとっても人類の未来にとっても何一つ役立たない、悪魔の演出した悪夢にすぎなことを知る人が増えた。
人間にとって本当に必要なものは、優れた技術や生産能力ではなかった。
それは、小さな人の笑顔であって、心を一瞬暖め癒してくれる刹那だったのだ。
それさえあれば、人間は、十分に生きて未来を生み出すことができたのだ。
巨大なコケオドシの施設も、人類を何千回も滅亡させられる軍備も、強大な国家も、権威も、権力もいらなかった。
本当に必要なものは、小さな笑顔だけだった。
今、このことに気づいた人は、もう核開発や高級車やセレブに騙されることはない。
人生は、連綿と続く魂のひとときに過ぎないことが分かる。
人は、たくさんの肉体をとっかえひっかえ、真実とは何か? というカルマを学んでゆくのだ。人生はカルマのためにある。この人生でカルマを還せなかったなら、来生があるという希望に心を委ねて、静かに超越して、死を待つことが人生だった。
私が、何度も書いていることだが、私自身の体験から、人生と宇宙の理を学び、豊かな人間性を育てるために必要なことは、たぶん動物と一緒に生きることだと思う。
とりわけ鶏を飼育することを推奨する。庭で放し飼いができれば、ムカデや多くの害虫を食べてくれて本当に助かる。土がとても肥えて、ジャガイモを多収できる。
ただし、頑丈な柵を設けてもアライグマの襲撃があり、空からはオオタカの襲撃がある。宇宙の摂理を学ぶには、これ以上ない教室になると思う。
もちろん、わが中津川市のような過疎の山村でなければ無理だが…。
もうすぐ人々を苦しめ続ける統一教会=文鮮明の亡霊が滅亡するので、その後は、ずいぶんと田舎暮らしが楽になるだろうと思う。

コメント
人は自分の生まれてくる理由も、目的も、意味も知らない。しかも自分の存在は他人に一方的に決められる。いわば「お仕着せ」の自分である(体は他人製、名前=社会的人格は他人の決定)。 したがっていくら考えようと、「自分の命の大切さ」だの、「自分の生きる意味」だのを自力で発見できるわけがない。 理由も目的も意味も知らず、ただ生まれて来ただけの無価値な存在(存在理由・目的・意味を持たない「価値」など、無い)が、「自分の大切さ」を感じることができるとすれば、それは自分以外の誰かに大切にされたからである。 お仕着せの服を着る気になれるのは、似合うと褒められた時だけだ。「命の尊さ」が理解できるのは、「あなたがただそこにいてくれるだけで、私は嬉しい。」と断言する者がいて、言われた人がそれを実感できた時だけである。それこそが「命の種」なのだ。「親」とはそれを無条件で言う人である。産んだ人ではない。産もうと産むまいと、「あなたがそこにいてくれるだけでいい」と断言し、そう「子」に実感させる者が「親」なのだ。 赤の他人であってもこれが言えれば「子」の「親」であり、産んでもそれを実感させられなければ、「親」ではない。「命の種」を植えるのが「親」なのである。したがって、我々(「子」)は自分の存在に何ら責任は無い。責任は一方的に「親」にある。
親から「破壊的メッセージ」(お前はお前であってはならない)(存在するな)(なにゆえに生まれてきた?)など。を与えられて育った私からみてこれらのことは真実であると思われる。
>「あなたがそこにいてくれるだけでいい」と断言し、そう「子」に実感させる者が「親」なのだ。 赤の他人であってもこれが言えれば「子」の「親」であり、産んでもそれを実感させられなければ、「親」ではない。「命の種」を植えるのが「親」なのである。したがって、我々(「子」)は自分の存在に何ら責任は無い。責任は一方的に「親」にある。>
この文↑に強く共感します。
血縁ではないのです。
血縁信仰は利己的エゴイズムの延長でしかありません。
>親から「破壊的メッセージ」(お前はお前であってはならない)(存在するな)(なにゆえに生まれてきた?)など。を与えられて育った>
とありますが、これは精神的な虐待ですね。
捻じ曲がらずに、思いやりを失わなかった「通りすがりαさん」にエールを送りたいです。
どうか幼い頃のご自分を褒めてあげてください。「よく頑張ったね」と。
私は親から精神的虐待を受けて育ちましたが、思春期になり高橋信次氏の著書や、私と同じく"精神年齢5歳"の父親を持ってしまった、加藤諦三早稲田大学名誉教授の著書に救われてきました。加藤名誉教授の場合、小学校にあがる前に自殺未遂を起こしたことがあるそうです。それに比べれば私など随分と恵まれて育ったと言えます。私が受けてきた虐待も、田坂広志著「全ては導かれている」を読めば、「"自分の悟り"ためには必要だったのかもしれない。」と今は思えます。
青さんの、常に私のコメントを支持・共感してくれるコメントは大変心強く、嬉しく思っております。実生活では私のことを評価してくれる人はほとんどいないので。(苦笑)
思い遣りに満ちたコメント深謝いたします。
私が通りすがりαさんのコメントに共感することが多いのは価値観などが近いからだと思います。
加藤諦三の本は読んだことがあります。
人間は「どんな人間と関わるか?」が重要である、という事を教えてくれていると思います。
価値観というのはその為の物差しの一つだと思います。
これからもよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願い致します。
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