https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%AD%A6
民俗学は、それほど歴史のある学問分野ではない。ウィキなどの説明によれば、1890年前後、坪井正五郎が人類学の一分野として民俗学を提唱し、鳥井龍三、南方熊楠、柳田国男らを結びつけた。
この集団が、やがて文化人類学としての大きな業績を生み出してゆく。例えば、中尾佐助、佐々木高明らの「照葉樹林帯文化論」で、この本は、日本民族のルーツを証明する上で、欠かせない重要資料となっている。
とりわけ東亜半月弧の概念を初めて提起し、東アジア文明の再発見の契機となった。
また、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」にも大きな影響を与えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E4%BA%95%E6%AD%A3%E4%BA%94%E9%83%8E
しかし、民衆の生活史を記録する民俗学については、歴史学者の大きな偏見圧力を受けねばならなかった。
例えば、皇国史観学者の頂点にいた東大史学部教授、平泉澄は、「豚に歴史がありますか? 百姓に歴史がありますか?」と、民俗学を嘲笑していた。
https://ameblo.jp/itifuan/entry-11389198896.html
こんな価値観が、当時の儒教的権威主義の根幹をなしていたのだ。
私は、小中学生の頃、家の書棚にあった柳田国男に傾倒し、遠野物語や北国帖、炭焼日記、海上の道などを、手当たり次第に夢中になって読みまくった記憶がある。
この頃、「こんな文章、記録を残せるような人物になりたい」と、柳田に憧れた。
だが、私が本当に民俗学にのめり込んだのは、宮本常一を知ってからだ。
この人の著作は、古本屋で見つけ次第購入した。当時、未来社から全集が出版されていたが、高くてとても手が出る代物ではなかったので、図書館に通ったり、名古屋中の古本屋を漁ったり、若い頃は、宮本常一がなければ日が暮れないと思うほど傾倒した。
今でも、私は宮本常一こそ、世界最高の民俗学者であると強く確信している。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-6.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-147.html
民俗学というものは、史学なんだか、生活学なんだか、文化人類学なんだか、民間伝承にすぎないのか、境目が茫洋としてつかみ所のない学問だが、私流に解釈すれば、「未来に伝えるべき、無形文化資産」と理解している。
例えば、宮本常一も高く評価した、近藤正二氏の確立した学問分野こそ、民俗学の一つの柱になると私は考えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E6%AD%A3%E4%BA%8C
以下の本は、私の生涯で、もっとも重要な十冊のうち一冊と私は評価している。
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%AF%BF%E6%9D%91%E3%83%BB%E7%9F%AD%E5%91%BD%E6%9D%91%E2%80%95%E7%B7%91%E9%BB%84%E9%87%8E%E8%8F%9C%E3%83%BB%E6%B5%B7%E8%97%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E8%B1%86%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%BF%92%E6%85%A3%E3%81%8C%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%82%8B-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E6%AD%A3%E4%BA%8C/dp/4914986280/ref=pd_lpo_14_t_0/356-5221694-6175244?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4914986280&pd_rd_r=bdfd86de-6721-44c2-bdd9-86f7c525acc7&pd_rd_w=uDKbL&pd_rd_wg=pwnU9&pf_rd_p=4b55d259-ebf0-4306-905a-7762d1b93740&pf_rd_r=5QHKV1Y6ANGKQQEEQ3M1&psc=1&refRID=5QHKV1Y6ANGKQQEEQ3M1
柳田から宮本までの時代、1970年代あたりまで、民俗学は素晴らしい成果を上げ続けたが、今世紀に入ってからは、まるで鳴かず飛ばずになってしまい、評価に値する学問的成果を発見することが困難になった。
ひとつには、定量的な成果を示せない内容から、他人の評価や受賞などの具体的利益を求める研究者から雑学扱いされるようになったことが大きいだろう。
だが、民衆の生活情報を具体的に後世に残すという作業は、過去と未来を比較することで現代文明を再評価する数少ない手がかりであり、普遍的な価値のある、生活情報を未来に残す極めて大切な文化事業であって、それは歴史学を補完するうえで欠かせない存在なのだ。ときには、それが民族のルーツを定める場合さえある。
100年前の人々は、怪我の治療、病気の治療をどのように行ったのか?
どのような食事を、どのように調理して食べたのか?
どのように寝たのか? どのように健康を維持したのか?
女性の場合は、どのように経血を始末したのか? 材料は何が使われたのか?
排便後、肛門をどのように洗浄したのか?
動物の皮を、どのような方法でなめしたのか?
衣類を、どのように洗浄したのか? どうやって補修したのか?
みんな、もの凄く大切な学問であり、100年前の知識が、未来に生きることも大いに期待できる。また、江戸時代の刃傷沙汰による創傷治療法は、消毒薬もない時代、焼酎で洗い、縫合して金瘡医が持ち歩いている紫雲膏を塗って朴葉などで覆っておしまいだが、この方法が、少し前の、消毒乾燥法よりも優れていることが、明らかになってきた。これは、湿潤治療法のハシリだからだ。
この種の、古い知識を再発見、再評価するきっかけは民俗学によってなされるしかない。だから古老の体験、知恵を記録してゆくことは、子供たちの未来の生活を改善する上でも必須の知識なのだ。
私は、以前、船橋アンデルセン公園に行ったとき、デンマークの農家が移築されていて、内部の生活ゾーンを見学し、とりわけベッドを見て仰天した記憶がある。
そのベッドは、1メートル40センチくらいしかなかった。デンマーク人の身長が1.7メートルとしても、30センチも体を屈めないと寝られない。まるで、弥生時代の瓶墓だ。
理由は、体を伸ばして寝ると悪魔に憑依されるということらしかった。
このような民俗文化が、その土地の地理歴史に規定されていることは当然だ。小さなベッドは、おそらくデンマークが島嶼国家であることに関係があり、水郷都市における船舶生活の文化を持っていたことから、船舶ベッドが普遍化したのだろうと私は予想した。
狭い船のなかでは、みんな体を伸ばして寝ることはできなかったのだ。
逆に、この推論を演繹すれば、水郷都市柳川あたりの寝床は、もしかしたら小さいのではないかという想像力も働き、小さい寝床から生み出される別の文化にも想像が及んでゆく。
ごたくはこれくらいにして、もう余命を考えれば、私自身が記憶する生活体験を記録しておく時期にきてるのかとも思う。
そこで、伊勢湾台風の頃の状況は、すでに書いているので、もっと前のことを無理に思い出しながら、ブログに記録しておく作業が必要ではないかと思い始めた。
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私が、名古屋市中村区で伊勢湾台風に遭ったのは7才のときだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/?no=5
今回は、それ以前の記憶を、断片的に思い出しながら書いてゆこう。
物心ついて、人生の記憶が始まるのは、たぶん三才の頃ではないだろうか?
物干し竿の下で乳母車に乗って、ニコニコしている私の写真があり、姉妹たちは、みんなおかっぱだった。
母親は、朝起きてから寝るまで休む暇もなく、家事を働き続けていた。当時の(60年前の)家事といえば、台所の洗い物も、洗濯も、布団干しも、今から考えると相当な重労働だった。子供が数名もいれば、とてもじゃないが専業主婦でないと無理だった。
冷蔵庫は、最初、氷屋が毎朝配達する角氷を入れて冷やすタイプだった。洗濯機は、もちろん洗濯板と角石鹸だ。水質の悪い井戸の水で洗っても、純白にはならなかった。
父親はSL機関士だったから、いつでも全身、石炭煤に汚れ、真っ黒で帰宅していた。
風呂は薪炊きが普通で、定期的に薪売りがリヤカーでやってきた。チェンソーもない時代だったから、薪作りも大変だっただろう。しかし、大きいから、さらに斧で小割が必要だった。幼い私も、斧をふるっていた。
しかし、当時は、銭湯が今の何十倍もあって、安い入浴料で入ることができたから、家の風呂より銭湯を利用した方が多かったような気がする。
夕方、銭湯に向かう男が、素っ裸で歩いている光景も珍しくなかった。
調理は、私の物心ついたときには、薪炊きカマドを卒業して、すでに石油コンロになっていた。冬場は練炭を併用して調理していた。
当時は、火力が弱いから、今よりも煮物(煮っ転がし)が多かった記憶がある。
暖房は、掘りごたつに炭を燃していたが、室内は、せいぜい火鉢程度で、伊吹おろしの吹きすさぶ日、名古屋の冬の室内は、新潟育ちの母親も驚くほど寒かった。
トイレは、もちろんくみ取り式「ボットントイレ」、とにかく臭くて、いつでも大量のウジにまみれていた。
これを近所の農家が引き取りにきて、謝礼を置いていった。農家にとっては、かけがえのない優れた肥料だったのだ。ちなみに「金肥」と呼んで、当時は百姓間で奪い合いだったのだ。
一度、引き取り農家が、庭に肥オケをぶちまけて、大変なことになったが、それでも、その程度で怒るような人はいなかったと思う。
人家から引き取った肥は、そのまま利用すると寄生虫の媒体になったりするので、堆肥化が推奨されていた。どこの畑でも、片隅に、肥だめがあって、ここに数ヶ月貯留して、十分に発酵してから使用するのだ。
子供同士でかくれんぼなんかやってると、必ず肥だめに落ちる子供が出てくる。私もやった。
当時、山口組系の戦闘組織、柳川組が出入りするとき、必ず「十分に熟れた肥だめ」を見つけておいて、出入りで負った傷があると、ドボンと肥だめに浸かったと柳川次郎が回顧していた。
熟れた肥だめは深い切り傷に効く抗生物質の宝庫だという。そういえば、三宅島の「クサヤ」製造元も同じようなことを言ってた。
クサヤも肥だめも、究極の発酵物質であり、そこには大きな未来が隠されているのかもしれない。無殺菌湿式創傷治療の次は、案外、肥だめやクサヤ汁が切り札として登場するのではないだろうか?
市街地であっても、公衆トイレが設置してあることは非常に希だった。だから女性たちは、いつでもトイレを探し回っていなければならなかった。
60年前、まだ市街地といっても田舎くさい土地だったので、老女たちは、平気で道端で尻をまくって小用していた。草むらで大便をするものも珍しくなかった。
当時は、大小用を見られても、それほど恥ずかしいことでもなかったようだ。
人が覗ける庭先で、たらいで体を洗う女性も普通にいた。
母親は、脱脂綿を大切な生理用品として使っていた。もっとも、祖母の時代や戦中は、脱脂綿が入手困難で、使い古した手ぬぐいが普通に使われていた。それも、洗いながら何度も再利用されていた。
この風俗に革命が起きたのは、アンネナプキンの登場だった。1961年のことだ。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60043
これは、サンヨーの洗濯機と同じくらい、近代民俗学にとって画期的な出来事なので、小学生にも教えるべきだ。
今の若い女性たちは、もう知らないだろうが、60年前、生理がどのように始末されていたのかを知ることは、現代文明の大切な基礎知識なのだ。
女性たちは、生理用品やパンティの歴史を知らないと、大震災が起きた後、とても困ったことになる。
なぜ、ブリーチやハイターのような次亜塩素酸漂白剤が普及したのかの意味も関係がある。大震災や戦争が起きれば、アンネ以前の時代に戻らなければならない。
明治大正生まれの女性たちは、古手ぬぐいだった。脱脂綿が自由に使えるようになって、それがアンネに進化していった。
もう一つの巨大な革命、電気洗濯機についても触れておこう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E6%BF%AF%E6%A9%9F#:~:text=%E9%9B%BB%E6%B0%97%E5%BC%8F%E6%B4%97%E6%BF%AF%E6%A9%9F%E3%81%AF,%E3%81%AF1930%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
我が家に電気洗濯機が届いて、とうとう洗濯板から解放された歴史的な記念日は、1960年頃だった。すでに1953年にはサンヨー電気で開発されていたが、廉価版はかなり時間がかかった。
これは、戦後生活史のなかでも最大級の革命と評価すべきだと思う。自転車の普及にも匹敵するかもしれない。
http://www.monotsukuri.net/washing.pdf
この特徴は、洗浄フィンが、底ではなくサイドの壁についていたことだ。これにより、底フィン洗濯機とは比較にならないほど性能が良かった。これを噴流式という。
この洗濯機が、戦後の女性生活を根源的に変えてしまった。
それまでの洗濯板方式から考えると、もう桁違いの合理化だった。何せ、投入から干し工程まで30分程度でできてしまうのだ。それまでなら3時間はかかっただろう。
だから、洗濯機の登場によって、初めて女性の自立生活が成立したともいえよう。女性を性奴隷プラス洗濯奴隷の地位から解放した歴史上最大級の生活発明だった。
氷を入れないと冷えない冷蔵庫も、すぐにアンモニア冷媒式の強力な冷蔵庫が普及してきた。やがてフロンが登場し、冷蔵庫も必需品として普及することになり、これが食文化に対して革命を引き起こした。
当時までの食文化といえば、生ものが使えないから、大半が温野菜か乾物だった。サラダなんて、想像の範疇にさえなかった。
冷蔵庫の導入も、たぶん1960年前後のはずだが、導入とともに食生活がまるで変化してしまった。
もう乾物が必要でない。もちろん昆布や煮干し、鰹節が廃れることはなかったが、乾物屋を訪れる機会が圧倒的に減った。
干物を食べる機会も減った。
代わりに「生野菜サラダ」が登場した。また、刺身を食べる機会が増えた。寿司屋も繁盛するようになった。
それ以前では、乾物屋で昆布や豆を買い、大根や里芋を入れて、煮込んで食べるのが普通だったが、食卓に、腐りやすい生ものが乗り始めたのだ。
これが1960年代前半のことだ。
今では、ビルと住宅街しかない中村区だが、当時は、見渡す限りの田園地帯で、ポツンポツンと家が建っていた。今では絶対に見えない中村公園の大鳥居も、中村区のどこからでも見ることができた。
父親は、徴兵された軍隊で、さんざん殴られ虐められて帰還したから、私に対しても、鉄拳制裁をしたがった。父親に対しては、良い思い出があまりない。
名古屋市内には、今と違って地下鉄はなかったが、網の目のような市電の線路があり、どこに行くにも、今よりも便利だったかもしれない。
遠い下一色町から、シジミ売りのおばさんたちが、毎朝、一色線でシジミを売りに来ていた。長良橋という停留所で降りて、我が家まで30分かけて40キロ近い荷物を担いで売りに来てくれる。
私たちは、彼女らのシジミで育ったようなものだ。
それも、伊勢湾台風後は、ほとんどみかけなくなった。凄まじい被害が出た地域だからだ。
名古屋で、出かけて楽しい繁華街は、なんといっても大須だった。
当時のセレブ階級は、栄町の丸栄とかオリエンタル中村とか松坂屋などに出かけていたが、庶民のメッカは、大須や笠寺や、駅裏だった。いずれも市電に乗って簡単に行くことができた。
大須には、怪しげな人々がいっぱいいた。1950年代では、名古屋駅周辺や大須では、「傷病兵」という手足を失った人々が、これ見よがしに路傍で献金を求めていた。
当時、まだ戦争が終わって10年ほどだから、人々の記憶には戦争の惨禍がこびりついていた。だから、みんな傷病兵を見て心が詰まり、一生懸命寄付をした。
しかし、多くはニセモノだった。
大須には大道芸人がたくさんいた。面白かったのは、山伏が街中で、超能力を見せていたことだ。
皿に火を点していて、遠くから気合いを入れると火が消えたり、ついたりした。あれはタネが分からないので、たぶんホンモノだったのだろう。
その後は、「がまの油売り」や怪しげな薬売りに変身していた。
今、大須商店街では、積極的に当時と同じような大道芸を導入しているので、それを楽しみに行く人も多い。
当時、大須で多かったのは、「古着売り店」だ。金持ちがいくような場所ではなかったので、庶民が安く衣類を手に入れられる大切な場所だった。私も、嘘のような価格で、古着をよく買った。
大須ういろうの本店もあり、今と、あまり変わらない食べ歩きもできた。
大須は、庶民の息吹に満ちた場所だったので、いつでも超満員だった。浅田真央・舞姉妹も、大須で育った口で、おそらく2000年前後だと思うが、当時に比べて、今は、インドネシアか、フィリピンの国際色豊かな繁華街のようになってしまっている。
逆に、お高くとまって、庶民を排除するかのような栄町は、今では大須ほどの賑わいはなく、街全体が干からびたような印象だ。
我々は、やはりカスバのような、ごった煮の怪しい街、何が起きるか分からない街に魅力を感じるのだ。
しかし、大須に似た雰囲気のシリアのダマスカスは、イスラエルのせいで今は悲惨な事態になっている。大須がダマスカスのようにならないよう祈りたい。
書いていて、長くなりすぎたので、ここいらで切り上げるが、当時の記憶が戻って、紹介したい出来事があったなら、また書きたい。
これも民俗学の範疇で、古い記憶を後世に伝えるのは、ものすごく大切なことだということを分かっていただきたいと思う、
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