私は、名古屋駅から徒歩15分ほどの中村区で育った。
私の子供時代は、伊勢湾台風に襲われた60年ほど前なのだが、50才過ぎまで暮らした名古屋市の変遷を目撃し続けた。
私が生まれた当時の市長は、小林橘川といい、戦前の名古屋新聞主筆時代には吉野作造を信奉する革新的人物として知られていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%A9%98%E5%B7%9D
だが、1940年頃には、名古屋新聞を土台にした中日新聞社の取締役になり、正力松太郎が会長を務める大政翼賛会の中央委員に就任して戦争協力者となった。
戦後は、公職追放期間を経て、日本社会党の赤松勇らに口説かれて名古屋市長に立候補した。1952年、初当選し三期を務めた。
名古屋は、戦前、戦時中、岩塚や大曽根、大江などの三菱系軍需工場が狙われて大規模な空襲に遭って大きな被害を受けたのに加え、伊勢湾台風で5000名の死者を出し、一家全滅、相続人も不明の空白地帯がたくさんできた。
小林は、戦災で焼け野原となった都心部に、世界に例のない100メートルもの道幅のある巨大道路群を建設し、橘川道路と呼ばれた。
このとき、戦災、災害空白地の所有権や相続権が無視されたまま事業が強引に進められたといわれる。
人情のある人物と評価された反面、戦後の混乱期に土地居住者の法的権利を無視して事業を進めたことも多かった。(戦災の犠牲者があまりにも多かったので、当時は強引に進めるのが常識でもあった。)
所有権のはっきりしない土地、名古屋周辺の堤防沿い、名古屋駅周辺など絨毯爆撃の跡地、台風被災地には、得体の知れない人々が勝手に住み着いてスラム化することも多かった。その多くが在日者でもあった。
橘川の後を継いだ杉戸清市長は、地ヤクザとの関係も噂された人物で、そうしたスラムに不審火による大火災が発生したときは、「また火がつけられた」と、市による闇に包まれた裏工作が噂された。
スラム地区で大火災が起きると、たちまち有刺鉄線で封鎖された特別行政区ができた。
名古屋駅の北側にも、相当規模の大きな在日スラム街があって、これは1990年代になって、再開発とともに失われたが、「住民に、どれだけのカネを渡したのか?」と話題になった。この種の在日スラムは、民法の20年時効取得権を得た土地が多かった。
東海道新幹線が開業してから、他府県の乗客たちは、名古屋駅の北側に広がるスラムを見て、名古屋市の特異性を見せつけられていた。
今回は、名古屋市の歴史を語ることが目的ではなく、一般的な意味で都心部に広がるスラム街について考察してみたい。
世界的に、大都市のスラム街として知られるのが、ニューヨークのサウスブロンクス地区やハーレム地区である。ここは、マンハッタンの北側に位置し、東京でいえば中野区や足立区のような地理的条件を持っているが、すでに半世紀も前からスラム化、恐怖地帯との評価が定着してきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B9
https://www.youtube.com/watch?v=Pm84c0QmRaA&ab_channel=TheKaaRii
この地域は、第一次世界大戦後、帰還兵などの住宅として1920年代に多くのマンション群が建設された。当初は、どちらかといえば高級住宅街で、ユダヤ人が多数住み着いていた。
マンション群の建設と同時に、アメリカは禁酒法時代を迎えたので、ギャングがブロンクスに秘密の飲み屋などを作ることで繁盛するようになった。
戦後は、治安が悪化し、1950年代以降、居住者の質が悪化しはじめた。1970年代に入って、黒人、ヒスパニック系の貧民が流入するようになり、先住者のユダヤ人たちはブロンクスを逃げ出し、またマンションの大家も所有権、管理を放棄することが多く、サウスブロンクスは犯罪者の巣窟として、警察もうかつに立ち入れない危険な地域と認識されるようになった。
このブロンクスやハーレム地区の事例は、特殊なものだが、ここで書きたいことは、集合住宅というものは、例えば中国の客家の楼家のように、居住者全員が家族のように強い連帯感で結ばれていれば、出身者がそこを故郷のように感じて、愛し、施設の補修や改善改良などが行われて住みよい環境を維持することができるが、居住者に連帯感がない集合住宅では、時間と共に老朽化し、施設の補修も行われなくなり、どんどんスラム化が進行し、居住者の質も悪化してゆくということだ。
一番大切な視点は、「住民の連帯」、自分たちの共同住宅を守ってゆこうという意思なのである。
これがない住宅では、時間とともに建物も愛着も劣化してゆき、スラム化を免れない。だから、超高級マンション、タワーマンションとして一区画数億円を支払っても、住宅の寿命である50年を経た段階で、老朽化、崩壊が始まり、住民に連帯感がない場合は、そのままブロンクスのようなスラム化の運命を免れないという法則を知るべきである。
https://www.mansion-support.com/nonfiction/2005/07/post_10.php
http://www.keidanren.or.jp/21ppi/newsletter/pdf/interview_35_2.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%8D%92%E5%BB%83
つまり、どんなに高価で、どんなに立派に見える住宅であっても、そこに住む人々に利他的な愛があれば栄えるが、利己的な関係しかなければ、あっというまに老朽化し滅び去ってゆく現実がある。
そこで、現在、人々の羨望を集める都心部の超高級タワーマンションの未来を考えると、堀江貴文や前沢友作のような利己的な大金持ちばかりが住んでいる住宅については、利他主義も、自分たちの居住区を愛し、守ろうとする心も育たないので、みせかけだけのハリボテ住宅だと思うべきだ。
それは、時とともに、建物も機能も劣化し、やがて人の心も蝕んでゆく。
その立派な住宅には、愛が存在しないのだ。だから、見せかけの立派さに欺されてはいけない。
現在の日本の大都市、都心部のタワーマンションが、人々の利己主義を土台に建設されているとすれば、それはスラム化し、空洞化してゆく運命だけが約束されている。
管理会社に頼ってみても、不動産企業の寿命は必ずしも長くない。欠陥マンションの責任を問われることが続けば、あっというまに倒産してしまう。
その後は、住民の自治に委ねられるが、はたして、利己主義の上に立てられたマンションを利他主義によって管理できるのか?
https://toyokeizai.net/articles/-/120999
今から数十年後、日本全国の都心マンション群は、ブロンクスのようにスラム化してゆく運命を免れることはできない。
大金持ちは、どんどん郊外の高級住宅に移ってゆくが、もう移動できない人たちは、我慢して住み続けるしかないが、そのとき、上下水道やガスなどのインフラが正常に機能しているかは、甚だ疑問だ。
結局、住宅というものは、建物という物質が問題になるのではなく、そこに住む人々の連帯と愛が核心であって、あくまでも「人の必要に応じて住む場所」なのである。
どんなにカネを出しても、愛をカネで買うわけにはいかない。連帯は利他主義の上にしか築かれない。
私は、この ブログで何度も書いてきたのだが、人の連帯を育てるには、子供のうちから連帯の意味を体で知るしかないのだ。
だから、都会の学校では、過疎地の田舎に朽ちかけている廃校を利用して、年に数ヶ月程度、林間学校に子供たちを移動させ、寄宿生活を体験させ、家畜をたくさん飼育して、生き物への愛と、人間同士の連帯を学ばせることで、一生涯、蓄財よりも愛と連帯を大切にする人材ができると考えている。
そんな愛と連帯を知る子供たちが増えてくれば、日本社会の未来も希望に満ちてくるだろう。
現在、大都会のマンション群ではなく、過疎地の田舎で暮らしたい家族が増えているようだが、何よりも大切なことは、子供同士、助け合って生きる体験をさせることだ。
だから、共同体を志向することが大切だと思う。
江戸時代の五人組社会のような「村社会」を再現し、みんなで助け合い、子供たちに利他主義を学ばせることのできる居住環境を作り出してゆくことが一番大切で合理的だと思う。
人は人なしには生きられない。人は一人では生きられない。
利他主義は、幼い頃から誕生と死をみながら大家族で支え合ってゆくという体験のなかでしか育たない。
動物をたくさん飼育して、生き物への愛情を育てなければならない。
タワーマンションへの幻想を捨てて、本当に愛を育てられる住宅とは何か、考え直す必要があるのだ。
私の子供時代は、伊勢湾台風に襲われた60年ほど前なのだが、50才過ぎまで暮らした名古屋市の変遷を目撃し続けた。
私が生まれた当時の市長は、小林橘川といい、戦前の名古屋新聞主筆時代には吉野作造を信奉する革新的人物として知られていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%A9%98%E5%B7%9D
だが、1940年頃には、名古屋新聞を土台にした中日新聞社の取締役になり、正力松太郎が会長を務める大政翼賛会の中央委員に就任して戦争協力者となった。
戦後は、公職追放期間を経て、日本社会党の赤松勇らに口説かれて名古屋市長に立候補した。1952年、初当選し三期を務めた。
名古屋は、戦前、戦時中、岩塚や大曽根、大江などの三菱系軍需工場が狙われて大規模な空襲に遭って大きな被害を受けたのに加え、伊勢湾台風で5000名の死者を出し、一家全滅、相続人も不明の空白地帯がたくさんできた。
小林は、戦災で焼け野原となった都心部に、世界に例のない100メートルもの道幅のある巨大道路群を建設し、橘川道路と呼ばれた。
このとき、戦災、災害空白地の所有権や相続権が無視されたまま事業が強引に進められたといわれる。
人情のある人物と評価された反面、戦後の混乱期に土地居住者の法的権利を無視して事業を進めたことも多かった。(戦災の犠牲者があまりにも多かったので、当時は強引に進めるのが常識でもあった。)
所有権のはっきりしない土地、名古屋周辺の堤防沿い、名古屋駅周辺など絨毯爆撃の跡地、台風被災地には、得体の知れない人々が勝手に住み着いてスラム化することも多かった。その多くが在日者でもあった。
橘川の後を継いだ杉戸清市長は、地ヤクザとの関係も噂された人物で、そうしたスラムに不審火による大火災が発生したときは、「また火がつけられた」と、市による闇に包まれた裏工作が噂された。
スラム地区で大火災が起きると、たちまち有刺鉄線で封鎖された特別行政区ができた。
名古屋駅の北側にも、相当規模の大きな在日スラム街があって、これは1990年代になって、再開発とともに失われたが、「住民に、どれだけのカネを渡したのか?」と話題になった。この種の在日スラムは、民法の20年時効取得権を得た土地が多かった。
東海道新幹線が開業してから、他府県の乗客たちは、名古屋駅の北側に広がるスラムを見て、名古屋市の特異性を見せつけられていた。
今回は、名古屋市の歴史を語ることが目的ではなく、一般的な意味で都心部に広がるスラム街について考察してみたい。
世界的に、大都市のスラム街として知られるのが、ニューヨークのサウスブロンクス地区やハーレム地区である。ここは、マンハッタンの北側に位置し、東京でいえば中野区や足立区のような地理的条件を持っているが、すでに半世紀も前からスラム化、恐怖地帯との評価が定着してきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B9
https://www.youtube.com/watch?v=Pm84c0QmRaA&ab_channel=TheKaaRii
この地域は、第一次世界大戦後、帰還兵などの住宅として1920年代に多くのマンション群が建設された。当初は、どちらかといえば高級住宅街で、ユダヤ人が多数住み着いていた。
マンション群の建設と同時に、アメリカは禁酒法時代を迎えたので、ギャングがブロンクスに秘密の飲み屋などを作ることで繁盛するようになった。
戦後は、治安が悪化し、1950年代以降、居住者の質が悪化しはじめた。1970年代に入って、黒人、ヒスパニック系の貧民が流入するようになり、先住者のユダヤ人たちはブロンクスを逃げ出し、またマンションの大家も所有権、管理を放棄することが多く、サウスブロンクスは犯罪者の巣窟として、警察もうかつに立ち入れない危険な地域と認識されるようになった。
このブロンクスやハーレム地区の事例は、特殊なものだが、ここで書きたいことは、集合住宅というものは、例えば中国の客家の楼家のように、居住者全員が家族のように強い連帯感で結ばれていれば、出身者がそこを故郷のように感じて、愛し、施設の補修や改善改良などが行われて住みよい環境を維持することができるが、居住者に連帯感がない集合住宅では、時間と共に老朽化し、施設の補修も行われなくなり、どんどんスラム化が進行し、居住者の質も悪化してゆくということだ。
一番大切な視点は、「住民の連帯」、自分たちの共同住宅を守ってゆこうという意思なのである。
これがない住宅では、時間とともに建物も愛着も劣化してゆき、スラム化を免れない。だから、超高級マンション、タワーマンションとして一区画数億円を支払っても、住宅の寿命である50年を経た段階で、老朽化、崩壊が始まり、住民に連帯感がない場合は、そのままブロンクスのようなスラム化の運命を免れないという法則を知るべきである。
https://www.mansion-support.com/nonfiction/2005/07/post_10.php
http://www.keidanren.or.jp/21ppi/newsletter/pdf/interview_35_2.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%8D%92%E5%BB%83
つまり、どんなに高価で、どんなに立派に見える住宅であっても、そこに住む人々に利他的な愛があれば栄えるが、利己的な関係しかなければ、あっというまに老朽化し滅び去ってゆく現実がある。
そこで、現在、人々の羨望を集める都心部の超高級タワーマンションの未来を考えると、堀江貴文や前沢友作のような利己的な大金持ちばかりが住んでいる住宅については、利他主義も、自分たちの居住区を愛し、守ろうとする心も育たないので、みせかけだけのハリボテ住宅だと思うべきだ。
それは、時とともに、建物も機能も劣化し、やがて人の心も蝕んでゆく。
その立派な住宅には、愛が存在しないのだ。だから、見せかけの立派さに欺されてはいけない。
現在の日本の大都市、都心部のタワーマンションが、人々の利己主義を土台に建設されているとすれば、それはスラム化し、空洞化してゆく運命だけが約束されている。
管理会社に頼ってみても、不動産企業の寿命は必ずしも長くない。欠陥マンションの責任を問われることが続けば、あっというまに倒産してしまう。
その後は、住民の自治に委ねられるが、はたして、利己主義の上に立てられたマンションを利他主義によって管理できるのか?
https://toyokeizai.net/articles/-/120999
今から数十年後、日本全国の都心マンション群は、ブロンクスのようにスラム化してゆく運命を免れることはできない。
大金持ちは、どんどん郊外の高級住宅に移ってゆくが、もう移動できない人たちは、我慢して住み続けるしかないが、そのとき、上下水道やガスなどのインフラが正常に機能しているかは、甚だ疑問だ。
結局、住宅というものは、建物という物質が問題になるのではなく、そこに住む人々の連帯と愛が核心であって、あくまでも「人の必要に応じて住む場所」なのである。
どんなにカネを出しても、愛をカネで買うわけにはいかない。連帯は利他主義の上にしか築かれない。
私は、この ブログで何度も書いてきたのだが、人の連帯を育てるには、子供のうちから連帯の意味を体で知るしかないのだ。
だから、都会の学校では、過疎地の田舎に朽ちかけている廃校を利用して、年に数ヶ月程度、林間学校に子供たちを移動させ、寄宿生活を体験させ、家畜をたくさん飼育して、生き物への愛と、人間同士の連帯を学ばせることで、一生涯、蓄財よりも愛と連帯を大切にする人材ができると考えている。
そんな愛と連帯を知る子供たちが増えてくれば、日本社会の未来も希望に満ちてくるだろう。
現在、大都会のマンション群ではなく、過疎地の田舎で暮らしたい家族が増えているようだが、何よりも大切なことは、子供同士、助け合って生きる体験をさせることだ。
だから、共同体を志向することが大切だと思う。
江戸時代の五人組社会のような「村社会」を再現し、みんなで助け合い、子供たちに利他主義を学ばせることのできる居住環境を作り出してゆくことが一番大切で合理的だと思う。
人は人なしには生きられない。人は一人では生きられない。
利他主義は、幼い頃から誕生と死をみながら大家族で支え合ってゆくという体験のなかでしか育たない。
動物をたくさん飼育して、生き物への愛情を育てなければならない。
タワーマンションへの幻想を捨てて、本当に愛を育てられる住宅とは何か、考え直す必要があるのだ。
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