田岡山口組の戦闘部隊として知られた柳川組の柳川次郎が、ケンカ出入りの前に、部下に「熟れた肥だめ」を探させて、日本刀で斬り合ったあとの傷を肥だめにドボンと浸かって治療したのはよく知られた逸話だ。
柳川次郎は、釜山出身の韓国人だった。大山倍達の友人でもあった。いろいろ調べてみると、韓国でも日本でも、生傷を肥だめに浸かって治すというのは、それほど珍しい習慣ではなく、戦国時代の合戦武者も行ったらしい。
日本では、鎌倉時代から、人糞を肥だめで発酵させたものを「金肥」と呼んで、肥料だけでなく様々な用法があったらしい。
三宅島や八丈島などでも、先祖代々クサヤが作られてきたが、現地の人は、病気になったり大怪我をすると、必ずクサヤ汁を飲んだり、患部に塗ったりしたそうだ。
「昔はくさや液は薬代わりとしても使われ、お猪口一杯飲んで胃腸薬、傷口に塗って消毒液にもしていたといいます。」
https://www.marukome.co.jp/marukome_omiso/hakkoubishoku/20181108/10171/
クサヤも熟れた肥だめも、抗生物質のカタマリだから、おそらく強力な殺菌効果があっただろう。これは長い経験則の積み重ねによる民間療法なのだが、近代医学は、「不潔」の一語で一蹴し、効能を顧みることはなかった。
我々の子供時代、半世紀前のこどだが、当時の医療は、「バイ菌撲滅主義」で、微生物は有害無益なものと決めつけて、悪玉と善玉の区別さえついていなかった。
例えば、手足を負傷して肉を切り裂いて血が噴き出したりすると、まずは血止め、そして消毒薬による厳重な殺菌、それから縫合、その後の養生も、赤チン、オキシフルとアクリノール、ヨード剤などを使った徹底的な殺菌と、患部乾燥主義だった。
これを未だに踏襲して、頑として変えようとしない不勉強な医師がいることは驚きだが、30年ほど前から、湿式治療法が普及し、「殺菌薬を使わない」ことが治癒を早めるという医学的真理として、今では50才以下の医師に定着したといえよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BF%E6%BD%A4%E7%99%82%E6%B3%95#:~:text=%E6%B9%BF%E6%BD%A4%E7%99%82%E6%B3%95%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%98%E3%82%85%E3%82%93,%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%B2%BB%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E5%9C%A7%E9%96%89%E9%8E%96%E7%99%82%E6%B3%95#:~:text=%E9%99%B0%E5%9C%A7%E9%96%89%E9%8E%96%E7%99%82%E6%B3%95%EF%BC%88%E3%81%84%E3%82%93,%E3%82%82%E5%BB%B6%E7%94%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
簡単に書くと、皮膚に創傷を負ったとき、深い場合は、従来どおり縫合が必要だが、浅い場合は、患部を洗浄後、ラップなどで閉鎖し、乾燥させないで、包帯を巻いただけで放置する。
このやり方(患部閉鎖式創傷治療法)は、従来の患部消毒乾燥治療法の数倍の速度での治癒が期待できるという。私も自分で何度も体験している。
三日以上、ラップを放置するので、嫌気性菌の繁殖で臭くなるが、それでも化膿はしない。治療前から化膿しているときは、別の治療法が必要になるかもしれない。
患部の洗浄は行うが、消毒は行わない。洗浄は、一般の水道水を用いる。水道水には微量の塩素が含まれているので、この程度で消毒は十分だ。
なぜ、消毒しないかというと、アクリノールやオキシドールなどの消毒剤は、皮膚常在菌を殺してしまうので、自然治癒力を阻害し、治癒を遅らせるからだ。
https://president.jp/articles/-/24208?page=2
この「皮膚常在菌による自然治癒」という考え方が、頭の古い医師にはどうしても理解できず、「消毒をしない創傷治療など犯罪だ」という思い込みに支配されている場合が多い。
現実問題として、皮膚常在菌の正体は、黄色ブドウ球菌・表皮ブドウ球菌・アクネ桿菌などで、病原性を持つ菌でもあり、名前を聞いただけで「殺菌しなければ!」と焦る人が多い。しかし、皮膚の健康を保つ上で、これらの菌の「三竦みバランス」が非常に重要になる。
こうした常在菌を殺してしまうと、創傷の回復が極めて遅れることが明らかにされている。
有機質を分解するEM菌の場合も、80種類のありふれた菌種の集合体で、大半が単独では無価値な日和見菌なのだが、バランス良く存在することで相互作用が起きて、毒性菌を排除して、乳酸菌・光合成菌 などによる分解を促成させ、安全な分解が進む。
結局、健康とは、菌類のバランスの上に成立しているという真理を見抜かないと、「滅菌・殺菌」だけが良いことであるかのような誤った偏見に支配されてしまう。
この相互作用のなかには、現代微生物学が認めていない「複合発酵」があり、私も数回しか経験がないが、ある限られた条件下で、微生物が一斉に高密度の球状に姿を変えて、凄まじい勢いで短時間に有機質を分解する現象である。
浄化槽の大量の汚泥が、わずか数時間で、完璧に透明な美しい水に変わってしまう。これは今のところ、EMBCモルトでしか実現しない。
この浄化水のなかに、スコップで体を半分に切断しかけてくの字になった金魚を泳がせたら、元に戻ってしまった。
「病気」の大半も、体内におけるホメオステーシスのバランスを失った結果であって、「悪者を見つけ出して排除する」という近代医学の考え方は根本から間違っている。
西洋医学のカリキュラムで洗脳された医者の大半は、「悪を成敗する」という西洋医学の哲学の欠陥から抜け出せていない。
その西洋医学は、どんな凄まじい間違いを繰り返してきたのかを知れば、そんな医学を詰め込まれた医者を信用することが、いかに愚かなことか分かるはずだ。
例えば、近代医学の勃興期に、「瀉血治療」という、恐ろしく愚かな殺人医療が幅をきかせた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%89%E8%A1%80#:~:text=%E7%80%89%E8%A1%80%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%91%E3%81%A4%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81,%E3%81%9F%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
これは、炎症部位の膿の除去からエスカレートした治療法だが、上のリンクにあるように、全盛期では、胃腸障害から結核まで瀉血療法が行われ、もちろん成果は患者を失血で殺しただけだった。
ちなみに、私は、多くの手術療法は、「現代の瀉血」ではないかと思っている。
医師は、昔から同じだが、権威の代名詞でもあり、患者たちの藁にもすがる思いを前提に、権威を振りかざして、誤った殺人療法を行って、患者が死んでしまったときは、「病勢の悪化」のせいにしていればよかった。
これは現代医療でも本質的に変わっていない。
私の子供の頃を思い出すと、近所の開業医は、ほとんど戦場に出た軍医上がりで、今と違って、医師としての責任感が極めて強く、ほとんど寝ていなくとも、患者の救援要請を無視することはなかった。医者は赤ひげであることを社会から強要された時代だった。
だから、人々は「センセイ」と無条件に崇めて、心から感謝し信頼した。
この時代に培われた医師への権威信仰が、今における、医師の増長を招いていると私は思うが、昔の医師への尊敬は、その強烈な地域社会を守ろうとする責任感を人々が信用したものであることを忘れている。
だが、私の子供時代、大学病院の指導医の多くが731部隊の出身であり、厚生省医官も同じだった。彼らは、731部隊における残虐な人体実験殺戮を処罰されず、反省もしないまま戦後の日本医学界に君臨することになる。
だから平然とロボトミーのような残酷な人体実験を行うことができた。代表は、東大医学部教授「台弘」を挙げておく。彼は731部隊員名簿に掲載されているといわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BA%E5%BC%98
医療には失敗がつきまとう。戦後医学の医療における基本マニュアルは、「失敗しても黙っていればわかりはしない」というもので、医療上の失敗は隠蔽するものと相場が定まっていた。
こんな価値観の下に、「隠蔽医師」が大量生産されたのだ。
もしも、医療失敗が正しく評価される社会であったなら、ロボトミーなど存在できるはずがなかった。これは警察や検察、裁判所でも同じことだ。
医療過誤も、現在の数十分の一以下で収まっていただろう。
間質性肺炎における穿刺細胞診が急性増悪を招いて患者を死亡させるような過誤も、失敗が隠蔽される医学界ならではのもので、治療に透明性が確保されていたなら、こんな愚かな診断確定マニュアルが存在できるはずがないと私は思う。
これは一回50ミリシーベルトの被曝を伴う検査を何度も繰り返している肺疾患の医療水準も同じなのだ。医学には、失敗を隠そうとする強烈な意思が存在し、透明性を失っている。
私は、若い頃から気功や心霊現象に興味を持ち、人間の病気との関係を考察してきた。
その結果、はっきりしたエビデンスが存在するわけではないが、人の心と霊現象、病気に深い関係があることが見えていた。
もっと深い哲学的考察をいえば、人の一生も、生涯における病気や怪我も、おそらく生まれる前からプログラムされた必然であって、あの世の段階で、カルマとして用意されていたのではないかと思うようになった。
もちろん、この世は、無量大数のパラレルワールドを意思によって泳ぎ渡っているのだから、細かい現象まで事前に計画することは無理だと思うが、大きなカルマという課題の前に、おおよその設計図は描かれている。
だから、私が山歩きを好きになったのも、交通事故で治療不能の怪我を負ったのも、現在、このブログを書いているのも、おそらく、すべて生まれる前に、自分で計画したことではないかと思う。
だから、病気や怪我も、その根底には、その人の前世がかかわった因果応報のカルマが存在していると思うしかない。
こんなこと書いて、理解できるような医療関係者がいるとは思えないが、大半の病気の底に心霊現象が関わっていると私は思う。自分の病気や大怪我の運命を定める霊的な必然性を理解することなしに、本当に病気の克服はできないのではないかと考えている。
私は若い頃、気功を修練したことがある。神沢瑞至の危険な動物を気で眠らせるパフォーマンスが知られているが、私もある程度できた。
祖母が死の直前、全身が痛んでいるときに、手から気を発して痛みを鎮めることもできた。
ピーク時には、街を歩いていて、人の頭のオーラが見えていた。たくさんのオーラを見ることで、中世に人々が被った「烏帽子」という帽子が、実はオーラを象ったものであることが分かった。武士の甲冑も同じだ。
相撲の貴乃花・魁皇戦をテレビで見ていて、魁皇の頭には長大な清正兜が見え、貴乃花の頭には上部が広がったコック帽が見えた。それで魁皇の勝ちを確信して、そうなった。
このことを、知人の医師に話したが、誰も理解しようとさえしなかった。
現代医学は、これほど鮮明な気の存在さえ理解できない。私は、誰の掌でも、気を当ててビローンと数センチも伸ばすことができて、それを体験させてやっても、気の存在を理解できないし、しようとしない。
もし、そんなものを認めてしまえば、現在医学の基礎が瓦解してしまうからだ。
私は、これが現代医学の根底的欠陥であり、致命傷であると確信したのだ。
彼らは、虚構にすぎない権威の体系に寄りかかり、それだけを信奉し、他の価値観を小馬鹿にするか、見ないようにしている。
この気による病気治療のメカニズムが知られたなら、現代医学の治療マニュアルの多くが間違いであることが世間に知れ渡ってしまう。
医学界が、とんでもない間違い理論を信奉して、現代にまで瀉血治療を行ってきたことが暴露されてしまう。
病気の正体は、西洋医学が追究してきたような器質的病変ではない。もっと、はるかに複雑な、人間のカルマが関係しているし、治療法に気を関与させていることで、大きな効果を挙げていることに気づいていない。
例えば、リハビリ、マッサージをロボットにさせてしまえば、大半の効果が失われてしまうだろう。あれば、生身の人間が気を発して患者の生命現象に直接関与していることを、医師たちはまるで理解していない。
本当の治療には、医師の何倍も、直接患者に触れる看護師やマッサージ師、リハビリ師の気が関係しているのだ。権威によりかかるだけの医師などよりも、桁違いに重要なのだ。
これらの問題を体系化して書籍にできればよいのだが、私は、気の修練中に霊憑依され、ひどい失敗をしでかして、気功から遠ざかったために、体系的な知識が失われてしまった。
また、いずれ詳しく説明できるときも来るだろう。
気や霊を理解できない医学界に、真実は訪れないと書いておきたい。
柳川次郎は、釜山出身の韓国人だった。大山倍達の友人でもあった。いろいろ調べてみると、韓国でも日本でも、生傷を肥だめに浸かって治すというのは、それほど珍しい習慣ではなく、戦国時代の合戦武者も行ったらしい。
日本では、鎌倉時代から、人糞を肥だめで発酵させたものを「金肥」と呼んで、肥料だけでなく様々な用法があったらしい。
三宅島や八丈島などでも、先祖代々クサヤが作られてきたが、現地の人は、病気になったり大怪我をすると、必ずクサヤ汁を飲んだり、患部に塗ったりしたそうだ。
「昔はくさや液は薬代わりとしても使われ、お猪口一杯飲んで胃腸薬、傷口に塗って消毒液にもしていたといいます。」
https://www.marukome.co.jp/marukome_omiso/hakkoubishoku/20181108/10171/
クサヤも熟れた肥だめも、抗生物質のカタマリだから、おそらく強力な殺菌効果があっただろう。これは長い経験則の積み重ねによる民間療法なのだが、近代医学は、「不潔」の一語で一蹴し、効能を顧みることはなかった。
我々の子供時代、半世紀前のこどだが、当時の医療は、「バイ菌撲滅主義」で、微生物は有害無益なものと決めつけて、悪玉と善玉の区別さえついていなかった。
例えば、手足を負傷して肉を切り裂いて血が噴き出したりすると、まずは血止め、そして消毒薬による厳重な殺菌、それから縫合、その後の養生も、赤チン、オキシフルとアクリノール、ヨード剤などを使った徹底的な殺菌と、患部乾燥主義だった。
これを未だに踏襲して、頑として変えようとしない不勉強な医師がいることは驚きだが、30年ほど前から、湿式治療法が普及し、「殺菌薬を使わない」ことが治癒を早めるという医学的真理として、今では50才以下の医師に定着したといえよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BF%E6%BD%A4%E7%99%82%E6%B3%95#:~:text=%E6%B9%BF%E6%BD%A4%E7%99%82%E6%B3%95%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%98%E3%82%85%E3%82%93,%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%B2%BB%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E5%9C%A7%E9%96%89%E9%8E%96%E7%99%82%E6%B3%95#:~:text=%E9%99%B0%E5%9C%A7%E9%96%89%E9%8E%96%E7%99%82%E6%B3%95%EF%BC%88%E3%81%84%E3%82%93,%E3%82%82%E5%BB%B6%E7%94%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
簡単に書くと、皮膚に創傷を負ったとき、深い場合は、従来どおり縫合が必要だが、浅い場合は、患部を洗浄後、ラップなどで閉鎖し、乾燥させないで、包帯を巻いただけで放置する。
このやり方(患部閉鎖式創傷治療法)は、従来の患部消毒乾燥治療法の数倍の速度での治癒が期待できるという。私も自分で何度も体験している。
三日以上、ラップを放置するので、嫌気性菌の繁殖で臭くなるが、それでも化膿はしない。治療前から化膿しているときは、別の治療法が必要になるかもしれない。
患部の洗浄は行うが、消毒は行わない。洗浄は、一般の水道水を用いる。水道水には微量の塩素が含まれているので、この程度で消毒は十分だ。
なぜ、消毒しないかというと、アクリノールやオキシドールなどの消毒剤は、皮膚常在菌を殺してしまうので、自然治癒力を阻害し、治癒を遅らせるからだ。
https://president.jp/articles/-/24208?page=2
この「皮膚常在菌による自然治癒」という考え方が、頭の古い医師にはどうしても理解できず、「消毒をしない創傷治療など犯罪だ」という思い込みに支配されている場合が多い。
現実問題として、皮膚常在菌の正体は、黄色ブドウ球菌・表皮ブドウ球菌・アクネ桿菌などで、病原性を持つ菌でもあり、名前を聞いただけで「殺菌しなければ!」と焦る人が多い。しかし、皮膚の健康を保つ上で、これらの菌の「三竦みバランス」が非常に重要になる。
こうした常在菌を殺してしまうと、創傷の回復が極めて遅れることが明らかにされている。
有機質を分解するEM菌の場合も、80種類のありふれた菌種の集合体で、大半が単独では無価値な日和見菌なのだが、バランス良く存在することで相互作用が起きて、毒性菌を排除して、乳酸菌・光合成菌 などによる分解を促成させ、安全な分解が進む。
結局、健康とは、菌類のバランスの上に成立しているという真理を見抜かないと、「滅菌・殺菌」だけが良いことであるかのような誤った偏見に支配されてしまう。
この相互作用のなかには、現代微生物学が認めていない「複合発酵」があり、私も数回しか経験がないが、ある限られた条件下で、微生物が一斉に高密度の球状に姿を変えて、凄まじい勢いで短時間に有機質を分解する現象である。
浄化槽の大量の汚泥が、わずか数時間で、完璧に透明な美しい水に変わってしまう。これは今のところ、EMBCモルトでしか実現しない。
この浄化水のなかに、スコップで体を半分に切断しかけてくの字になった金魚を泳がせたら、元に戻ってしまった。
「病気」の大半も、体内におけるホメオステーシスのバランスを失った結果であって、「悪者を見つけ出して排除する」という近代医学の考え方は根本から間違っている。
西洋医学のカリキュラムで洗脳された医者の大半は、「悪を成敗する」という西洋医学の哲学の欠陥から抜け出せていない。
その西洋医学は、どんな凄まじい間違いを繰り返してきたのかを知れば、そんな医学を詰め込まれた医者を信用することが、いかに愚かなことか分かるはずだ。
例えば、近代医学の勃興期に、「瀉血治療」という、恐ろしく愚かな殺人医療が幅をきかせた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%89%E8%A1%80#:~:text=%E7%80%89%E8%A1%80%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%91%E3%81%A4%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81,%E3%81%9F%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
これは、炎症部位の膿の除去からエスカレートした治療法だが、上のリンクにあるように、全盛期では、胃腸障害から結核まで瀉血療法が行われ、もちろん成果は患者を失血で殺しただけだった。
ちなみに、私は、多くの手術療法は、「現代の瀉血」ではないかと思っている。
医師は、昔から同じだが、権威の代名詞でもあり、患者たちの藁にもすがる思いを前提に、権威を振りかざして、誤った殺人療法を行って、患者が死んでしまったときは、「病勢の悪化」のせいにしていればよかった。
これは現代医療でも本質的に変わっていない。
私の子供の頃を思い出すと、近所の開業医は、ほとんど戦場に出た軍医上がりで、今と違って、医師としての責任感が極めて強く、ほとんど寝ていなくとも、患者の救援要請を無視することはなかった。医者は赤ひげであることを社会から強要された時代だった。
だから、人々は「センセイ」と無条件に崇めて、心から感謝し信頼した。
この時代に培われた医師への権威信仰が、今における、医師の増長を招いていると私は思うが、昔の医師への尊敬は、その強烈な地域社会を守ろうとする責任感を人々が信用したものであることを忘れている。
だが、私の子供時代、大学病院の指導医の多くが731部隊の出身であり、厚生省医官も同じだった。彼らは、731部隊における残虐な人体実験殺戮を処罰されず、反省もしないまま戦後の日本医学界に君臨することになる。
だから平然とロボトミーのような残酷な人体実験を行うことができた。代表は、東大医学部教授「台弘」を挙げておく。彼は731部隊員名簿に掲載されているといわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BA%E5%BC%98
医療には失敗がつきまとう。戦後医学の医療における基本マニュアルは、「失敗しても黙っていればわかりはしない」というもので、医療上の失敗は隠蔽するものと相場が定まっていた。
こんな価値観の下に、「隠蔽医師」が大量生産されたのだ。
もしも、医療失敗が正しく評価される社会であったなら、ロボトミーなど存在できるはずがなかった。これは警察や検察、裁判所でも同じことだ。
医療過誤も、現在の数十分の一以下で収まっていただろう。
間質性肺炎における穿刺細胞診が急性増悪を招いて患者を死亡させるような過誤も、失敗が隠蔽される医学界ならではのもので、治療に透明性が確保されていたなら、こんな愚かな診断確定マニュアルが存在できるはずがないと私は思う。
これは一回50ミリシーベルトの被曝を伴う検査を何度も繰り返している肺疾患の医療水準も同じなのだ。医学には、失敗を隠そうとする強烈な意思が存在し、透明性を失っている。
私は、若い頃から気功や心霊現象に興味を持ち、人間の病気との関係を考察してきた。
その結果、はっきりしたエビデンスが存在するわけではないが、人の心と霊現象、病気に深い関係があることが見えていた。
もっと深い哲学的考察をいえば、人の一生も、生涯における病気や怪我も、おそらく生まれる前からプログラムされた必然であって、あの世の段階で、カルマとして用意されていたのではないかと思うようになった。
もちろん、この世は、無量大数のパラレルワールドを意思によって泳ぎ渡っているのだから、細かい現象まで事前に計画することは無理だと思うが、大きなカルマという課題の前に、おおよその設計図は描かれている。
だから、私が山歩きを好きになったのも、交通事故で治療不能の怪我を負ったのも、現在、このブログを書いているのも、おそらく、すべて生まれる前に、自分で計画したことではないかと思う。
だから、病気や怪我も、その根底には、その人の前世がかかわった因果応報のカルマが存在していると思うしかない。
こんなこと書いて、理解できるような医療関係者がいるとは思えないが、大半の病気の底に心霊現象が関わっていると私は思う。自分の病気や大怪我の運命を定める霊的な必然性を理解することなしに、本当に病気の克服はできないのではないかと考えている。
私は若い頃、気功を修練したことがある。神沢瑞至の危険な動物を気で眠らせるパフォーマンスが知られているが、私もある程度できた。
祖母が死の直前、全身が痛んでいるときに、手から気を発して痛みを鎮めることもできた。
ピーク時には、街を歩いていて、人の頭のオーラが見えていた。たくさんのオーラを見ることで、中世に人々が被った「烏帽子」という帽子が、実はオーラを象ったものであることが分かった。武士の甲冑も同じだ。
相撲の貴乃花・魁皇戦をテレビで見ていて、魁皇の頭には長大な清正兜が見え、貴乃花の頭には上部が広がったコック帽が見えた。それで魁皇の勝ちを確信して、そうなった。
このことを、知人の医師に話したが、誰も理解しようとさえしなかった。
現代医学は、これほど鮮明な気の存在さえ理解できない。私は、誰の掌でも、気を当ててビローンと数センチも伸ばすことができて、それを体験させてやっても、気の存在を理解できないし、しようとしない。
もし、そんなものを認めてしまえば、現在医学の基礎が瓦解してしまうからだ。
私は、これが現代医学の根底的欠陥であり、致命傷であると確信したのだ。
彼らは、虚構にすぎない権威の体系に寄りかかり、それだけを信奉し、他の価値観を小馬鹿にするか、見ないようにしている。
この気による病気治療のメカニズムが知られたなら、現代医学の治療マニュアルの多くが間違いであることが世間に知れ渡ってしまう。
医学界が、とんでもない間違い理論を信奉して、現代にまで瀉血治療を行ってきたことが暴露されてしまう。
病気の正体は、西洋医学が追究してきたような器質的病変ではない。もっと、はるかに複雑な、人間のカルマが関係しているし、治療法に気を関与させていることで、大きな効果を挙げていることに気づいていない。
例えば、リハビリ、マッサージをロボットにさせてしまえば、大半の効果が失われてしまうだろう。あれば、生身の人間が気を発して患者の生命現象に直接関与していることを、医師たちはまるで理解していない。
本当の治療には、医師の何倍も、直接患者に触れる看護師やマッサージ師、リハビリ師の気が関係しているのだ。権威によりかかるだけの医師などよりも、桁違いに重要なのだ。
これらの問題を体系化して書籍にできればよいのだが、私は、気の修練中に霊憑依され、ひどい失敗をしでかして、気功から遠ざかったために、体系的な知識が失われてしまった。
また、いずれ詳しく説明できるときも来るだろう。
気や霊を理解できない医学界に、真実は訪れないと書いておきたい。
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